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転生の向こう側 【The Other Side of Reincarnation / Beyond Reincarnation】  作者: ルーク
聖戦

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第113話 - 第2幕:教会の聖戦、第14部 — 1秒にも満たない時間

 戦場が爆発した。しかし、それはアシュフォード王国が予想していたような『戦い』にはならなかった。ただの、一方的な蹂躙。カイの軍勢が狂暴に襲いかかったからでも、必死に戦ったからでもない。ただ、隔絶した実力の差が、あまりにも大きすぎたのだ。


 カイが、ついに彼らの枷を外してしまった。


--


 ソフィアには、息をつく暇すら残されていなかった。カイの姿が唐突に掻き消える。彼女の『預言の剣』が瞬時に反応した。――あるいは、反応しようと試みた、と言うべきか。


 剣の権能が、直近の未来に存在するあらゆる可能性を探る。しかし、何も映らない。ソフィアは目を見開いた。どこへ消えたの?


 次の瞬間、カイはソフィアの真ん前に出現していた。背後には六つの漆黒の翼が広がっている。その表情には、いまだ何の感情も浮かんでいない。彼の手にあるのは大剣ハルマゲドンではなかった。この場でそれを使うつもりはないのだ。代わりに彼が握っていたのは、エルヴァが彼のために鍛え上げた一振りの剣――絶対的な破壊ではなく、カイが戦況を『制御』したい時に好んで用いる武器だった。


 ソフィアは咄嗟に預言の剣を掲げた。


 ――ギィィィン!


 カイの放った一撃が炸裂する。凄まじい衝撃だった。ソフィアは辛うじて攻撃を受け止めたものの、その威力に耐えきれず、身体ごと遥か彼方へと吹き飛ばされた。


--


 足が地面を離れ、彼女の身体は戦場を高速で突き抜けていく。何十、何百という兵士たちの頭上を通り越し、周囲の風が悲鳴のような音を立てて吹き荒れた。彼女は必死に体勢を立て直そうとする。


 預言の剣が眩い光を放ち、彼女にいくつかの回避と着地の選択肢を提示した。彼女はその中から一つを選び取り、空中で身体を捻る。大気そのものに剣の腹を叩きつけるようにして、無理やり制動をかけた。


 ――ドォォォン!


 凄まじい風圧とともに勢いが死に、ソフィアは辛うじて踏みとどまった。


 彼女はすぐさま視線を前に戻したが、すでにカイの姿はなかった。彼女は息を呑む。またなの?


 周囲を見回すが、何も見えない。


 刹那、カイは彼女の真横に出現していた。ソフィアは反射的に剣を跳ね上げる。


 ――カァァァン!


 二度目の激突。その衝撃は、先ほどよりもさらに遠くへと彼女を弾き飛ばした。


 ソフィアは奥歯を噛み締めた。彼女の預言の剣は、これまでどんな攻撃であっても、それが放たれる前に視認することができた。敵の動き、軌道、想定されるあらゆる結末。しかし、カイの攻撃はそのどれにも一切映らないのだ。ほんの一瞬先の未来にすら、その兆候すら現れない。


 彼女は理解した。彼はただ動きが速いのではない。彼の挙動は、この剣が正常に予知できる因果律の『外側』にあるのだと。


 カイは彼女を冷徹に見つめた。

「お前を殺すつもりはない」


 ソフィアは目を鋭くした。

「なら、何をするつもり?」


「戦場から排除する」


 彼女が言い返すよりも早く、カイの剣が再び一閃した。ソフィアは防御の姿勢を取ったが、その衝撃によって、今度は天空へと高く打ち上げられた。


 しかし、今回はそれだけでは終わらなかった。宙に浮く彼女の真下に、巨大な転移方陣が展開されたのだ。ソフィアは目を見開いた。

「なっ――!?」


 光が彼女の視界を真っ白に染め上げる。カイは静かに剣を収めた。彼女の気配は、戦場から完全に消失した。


--


 第十七階層。


 ソフィアは激しく床に衝突し、ブーツの底をきしませながら滑り込んだ。彼女は即座に預言の剣を構え――そして、動きを止めた。


 静寂。そこには戦場も、兵士たちの怒号も、悲鳴も、アシュフォードの軍旗もなかった。


 彼女はゆっくりと周囲を見回した。目の前に広がっていたのは、外の世界とは似ても似つかない、あまりにも広大な見知らぬ景色だった。


 ソフィアは眉をひそめる。

「ここは……」


 振り返ると、彼女を運んできた転移方陣はすでに跡形もなく消え去っていた。


 そこで、彼女はすべてを察した。

「……ここが、エリュシオン教団の中なのね」


「正解」

 背後から、毅然とした声が響いた。


 ソフィアが振り向くと、数メートル離れた場所にリンが立っていた。その隣にはソラも並んでいる。二人とも、すでに臨戦態勢を整えていた。


 リンはソフィアを真っ直ぐに見据えた。

「あなたが、聖騎士の指揮官ね」


 ソフィアは二人を交互に見つめた。

「なるほどね」

 彼女はゆっくりと剣の切っ先を下げた。

「あの魔王は、私をこの戦争に関わらせたくなかったというわけね」


 ソラが小さくうなずいた。

「そういうことみたい」


 ソフィアは二人を観察するように目を細めた。

「あなたたち二人で……本当に、私を止められると思っているの?」


 ソラは不敵に微笑んだ。

「それは、やってみないと分からないよ」


--


 ソフィアの表情が、一気に真剣なものへと変わる。それに応じるように、彼女の持つ預言の剣が眩い光を放ち始めた。


 リンの目が鋭く光る。彼女は肌で察知していた。あの剣には、何か決定的に危険な力が宿っている。


 ソフィアは静かに身構えた。

「なら、来なさい」


 次の瞬間、リンの姿が掻き消えた。


 ――ドゴォォォン!


 ソフィアの預言の剣が、寸分の狂いもなく正確に跳ね上がった。


 ――キィィィン!


 リンの放った強烈な拳が、剣の腹と激突する。ソフィアは目を見張った。リンの踏み込みが、想定を遥かに超える速度だったからだ。


 リンは間髪入れずに追撃を繰り出す。ソフィアはそれを防ぎ、さらに次の一撃、その次の一撃と猛攻を受け流していく。リンの速度は、打ち合うごとに加速度的に増していった。彼女の肉体は、一撃を交わすたびに戦場へと適応し、進化を続けている。


 しかし、ソフィアの預言の剣もまた、そのすべての攻撃にほぼ一瞬で反応していた。リンの拳が完全に繰り出される前に、彼女の身体はすでに防御の軌道を描いている。


 リンが左から襲いかかる。ソフィアが防ぐ。リンが右へと軌道を変える。それも防ぐ。リンがさらに加速する。ソフィアの剣がそれを完全に追尾する。


 ソラはその攻防を注意深く観察していた。

「やっぱり、あの剣が厄介だね」

 ソフィアはただ単にリンの動きを予知しているだけではなかった。彼女のユニークスキル『七彩(レインボー)』は、迫りくる攻撃に対して、彼女の肉体と精神を『ほぼ同時』に反応させる異能だった。


 リンの速度は間違いなく脅威だったが、それに対するソフィアの反応速度もまた、完全に常軌を逸していた。


--


 ソラが片手を天に掲げると、巨大な魔法陣が展開された。


 ソフィアの視線がそちらへ向く。

「魔法……っ」


 ソラが微笑む。

「そ、大魔法だよ」


 大規模な術式が瞬く間に形成されていく。ソフィアの表情に焦りが生じた。そこに集束しつつある魔力の量が、あまりにも膨大だったからだ。

「これは……!」


 リンがソラに視線を送った。

「今よ!」


 ソラの目が鋭く据わる。魔法陣が爆発的に拡張された。――第十階層魔法。


 ソフィアは躊躇なく踏み込んだ。一瞬の迷いもなかった。ソラが詠唱を完了するよりも早く、彼女の預言の剣が作動する。ソフィアは一瞬でソラの目の前へと肉薄した。


 ソラは辛うじて最初の一撃を受け止めたが。


 ――ガキィィィン!


 その衝撃で後ろへと大きく押し戻される。


 すかさず、ソフィアの真横にリンが出現した。ソフィアが振り向き、二人の一撃が正面から衝突する。


 ――ズバァァァン!


 凄まじい衝撃波が走り、第十七階層の空間全体が激しく揺れ動いた。


 ソフィアは距離を取り、二人の少女を見据えた。並外れた適応力と圧倒的な速度を持つ格闘士。そして、破滅的な威力の魔法を操る魔導士。どちらも、その見た目からは想像もつかないほどの怪物を秘めている。


 ソフィアの唇から、微かな笑みが漏れた。

「これが……エリュシオン教団の、本当の強さというわけね」


 リンは答えなかった。ただ再び地を蹴り、猛然と襲いかかった。


--


 残り九分。


 外の世界では、戦争はすでに終わろうとしていた。戦闘が始まってから、まだ一分も経過していない。


 セナは、アシュフォードの一つの大隊の前に立ち塞がっていた。彼女は武器を抜いていない。そんなものは必要なかった。彼女は怯える兵士たちを見つめ、静かに告げた。

「立ち去りなさい」


 誰も動かなかった。


 セナは小さくため息をついた。

「……仕方がありませんね」

 彼女が静かに片手を挙げた瞬間、兵士たちが次々とその場に崩れ落ちた。一人や二人ではない。十人でもない。何百という人間の身体が、突如として言うことを聞かなくなったのだ。ある者は意識を失い、またある者は完全に身体を硬直させて地面に頽れていく。


 それを見た聖騎士たちが、怒号を上げて突撃を仕掛けようとした。セナが彼らに冷たい視線を向ける。次の瞬間、彼らもまた、その身体に指一本触れられることなく地面へと叩きつけられた。


 一人の聖騎士の指揮官が、必死に剣を掲げようとする。セナが彼をチラリと一瞥した。それだけで、彼の武器は手から滑り落ち、彼自身もまた、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。


 彼女の周囲の戦場は、一瞬にして死んだような静寂へと叩き落とされたのだった。


 戦場の別の場所では、エルヴァがアシュフォードの軍勢の中を平然と歩いていた。急ぐ様子は微塵もない。その必要がなかったからだ。彼女に襲いかかろうとする兵士は、誰一人として動くことすらできなかった。ある者は不可視の力によって叩き伏せられ、またある者はただの気圧によって弾き飛ばされていく。


 一人の指揮官が突撃してきた。エルヴァが彼に視線を向ける。それだけで彼の動きが凍りついた。

「カイ様の言葉に、耳を傾けるべきでしたね」


 指揮官がガタガタと恐怖に震える。エルヴァが興味を失ったように背を向けると、彼はそのまま崩れ落ちた。


--


 ヴァドスにいたっては、さらに緊張感のかけらもなかった。巨大な陣形の前に悠然と立ち塞がり、不敵に微笑む。

「最後のチャンスだよ」


 兵士たちが怒号とともに武器を掲げた。ヴァドスは哀れみの混じったため息を一つ。次の瞬間、戦場を強烈な衝撃波が駆け抜けた。


 ――ドゴォォォン!


 何千もの兵士たちが一斉に宙へと吹き飛ばされる。その大半は、地面に叩きつけられる前にすでに意識を失っていた。


 ヴァドスは辺りを見回した。

「思ったより歯応えがなかったね」


--


 ネロは聖騎士たちに囲まれていた。両手はポケットに突っ込まれたままだ。一人の騎士が斬りかかる。しかしネロの姿が掻き消えた。騎士の首筋を冷たい何かが通り抜ける。彼が戦慄して動きを止めた時、ネロはすでにその背後に立っていた。

「外れだぜ」


 騎士が昏倒する。次から次へと別の騎士が襲いかかるが、ネロはまともに相手にすらしていなかった。彼の周囲の間合いに入った者は、その身体に触れることすら叶わず、次々と地面に頽れていく。ある者は唐突に意識を失い、またある者は不可視の質量によって地へと叩きつけられた。


 ネロは周囲を見渡して、やれやれと肩をすくめた。

「エリュシオン教団を侵略しようなんて大層な大軍が、本当にこれだけか? ――がっかりさせんなよ」


--


 そして、クロエ。彼女はただ一人で戦場に佇んでいたが、生き残った兵士たちは誰も彼女に近づこうとしなかった。彼女に近づいた者がどうなるか、すでに嫌というほど見せつけられていたからだ。


 一人の聖騎士の指揮官が、恐怖を振り払うように剣を掲げた。

「吸血鬼めッ!」


 クロエが彼を冷たく見据える。指揮官が突撃してくるが、クロエは微動だにしない。彼の剣は、彼女の肌に触れる寸前、数センチ手前でピタリと停止した。指揮官の腕が激しく激痛のように震える。どれほど力を込めても、それ以上先へ剣を突き出すことができないのだ。


 クロエは彼の目を覗き込んだ。

「国でおとなしくしていればよかったものを」


 彼女の周囲の圧力が爆発的に跳ね上がる。指揮官はそれだけで、糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。


 クロエは背を向けた。もはやこの戦いに何の興味もなかった。彼女の視線は、ただ真っ直ぐにカイへと向けられていた。


--


 敗王。


 戦闘が始まってから、まだ九分も経過していなかった。しかし、戦場は完全に沈黙していた。アシュフォードの二万の兵、そして五千の聖騎士。そのすべてが、一瞬にして打ち倒されたのだ。ある者は意識を失い、またある者はすでに息絶えていた。


 本陣の近くで、たった一人だけ立ち尽くしている者がいた。


 国王エモンである。


 彼は目の前の光景が信じられず、ただ呆然と戦場を見つめていた。自らの軍勢。自らの誇る聖騎士たち。エリュシオン教団を滅ぼすために掻き集めたすべての戦力が――文字通り、消滅していた。


 カイが上空からゆっくりと彼の前に舞い降りた。手にはいまだ、一振りの剣が握られている。


 エモンは周囲を見回した。セナ、エルヴァ、ヴァドス、ネロ、クロエ。五人全員が何事もなかったかのように佇んでいる。疲弊している者など、誰一人としていなかった。


 カイは国王を見据えた。

「終わりだ」


 エモンの唇が激しく震える。

「お前……、一体……」

 周囲の惨状に視線を彷徨わせる。

「どうやって、こんな……!」


 カイは答えない。


 エモンの視線が五人の怪物たちへと向けられた。

「奴らは……何者なんだ……!?」


 カイは配下たちを一瞥し、淡々と告げた。

「俺の部下たちだ」


 エモンの顔から、完全に血の気が引いた。


 カイが彼に向かって一歩、歩を進める。

「俺はチャンスを与えたはずだ」


 エモンは何も言えない。


「だが、お前はそれを拒んだ」


 カイは彼の目の前で足を止めた。

「……これで理由が分かっただろう」


--


 エモンはカイを見上げた。掠れた声が、辛うじて喉から漏れ出る。

「私は……」


 その時、セナの冷徹な視線が彼を捉えた。国王の身体が恐怖で凍りつく。セナは動かない。手すら挙げていない。ただ、彼をじっと見つめただけだった。


 ――フッ。


 突如として、エモンの両手が手首から先、綺麗に消失した。血は一滴も流れない。悲鳴を上げる暇も、痛みすらもない。彼の両腕は、ただ最初から手がなかったかのように、不自然に途切れていた。


 エモンは信じられないものを見る目で自らの腕を見つめた。

「な……、私の、手が……!?」


 セナはただ冷たく見つめ続けている。


 次の瞬間、彼の両脚もまた同じように消失した。エモンはそのまま地面へと崩れ落ちる。痛みすら感じない。ただ、自分の身に何が起きたのか、彼の頭では全く理解が追いつかなかった。


 セナは静かに視線を落とした。


 カイはエルヴァを振り返った。

「エルヴァ」


 彼女は即座に主の意図を察した。

「はい」


 彼女が静かに指を鳴らす。


 ――パチン。


 その瞬間、戦場の至る所に転がっていた死体が、一斉に掻き消えた。アシュフォードの兵士、そして聖騎士。すでに命を落としていたすべての者の肉体が、光の粒子となって大気へと溶けていく。骸は残らず、死体の山も、戦場の墓標すらも、そこには何も残らなかった。


 戦場は、まるで最初から何も起きていなかったかのような、ただの静かな平原へと戻っていく。エルヴァが手を下ろした。

「これでよし、と」


--


 今度はクロエが一歩前に出た。彼女がそっと手を掲げると、戦場に飛び散っていたあらゆる鮮血が生き物のように動き始めた。地から這い上がり、何千もの紅い雫の奔流となって宙を舞う。それらはクロエの周囲に集束し、やがて彼女の肉体へとすべて吸収されていった。


 戦場は、完全に清められた。血痕一つなく、死体もない。数分前までここで凄惨な蹂躙が行われていたという証拠は、どこにも残されていない。まるで、最初から戦争など一度も起きていなかったかのように。


 エモンはそれを見つめていたが、もはや彼の精神は限界を迎えていた。やがて白目を剥き、そのまま意識を失って地面へと倒れ込んだ。


 ヴァドスがその身体をすかさず受け止める。


 ヴァドスはネロを見た。

「気絶しちゃったよ」


 ネロは肩をすくめた。

「運べよ」


 ヴァドスはため息をついた。

「なんで僕が?」


「お前が一番近かったからだろ」


 ヴァドスが彼を睨む。

「ひどい理由だね」


 ネロは不敵に笑った。

「理由には変わりねえさ」


 ヴァドスは観念したように、気絶した国王を肩に担ぎ上げた。


--


 凱旋。


 エリュシオン教団の巨大な城門が開き、国王エモンを担いだヴァドス、そしてその隣をネロが歩いて入ってきた。


 彼らが第一階層に足を踏み入れた瞬間、瞬く間に人々が集まり、群衆の間にざわめきが広がっていった。

「おい、あの担がれてる奴は誰だ?」

「なんでヴァドス様が人間を運んでるんだ?」

「怪我人か?」

「待てよ……」

 一人の冒険者が指を差した。

「あれ、王冠じゃないか……?」

 もう一人が目を見開く。

「まさか、あの男は……」


 ヴァドスが歩みを進める中、彼らの背後からカイが姿を現した。群衆が一瞬にして静まり返る。


 カイは集まった人々を見渡し、気絶した男を指して告げた。

「アシュフォードの国王だ」


 静寂。そして次の瞬間、爆発的な大歓声が沸き起こった。

「国王……!?」

「エモン国王を捕らえたのか!?」

「俺たちの、勝ち……なのか!?」


 カイは小さくうなずいた。

「ああ、俺たちの勝ちだ」


 人々は互いに顔を見合わせた。

「勝った……? あの二万の大軍に?」

「五千の聖騎士を相手に、本当に勝っちまったのか!?」


 カイは薄く微笑んだ。

「そうだ」


 一人の住人が恐る恐る尋ねた。

「あの……、敵の軍勢はどうなったんですか?」


 カイは振り返り、開かれた門の向こうの平原へと視線を向けた。そして、悪戯っぽく笑ってみせる。

「みんな、ぐっすり眠ってるよ」


 群衆の間に、妙な沈黙が流れる。大半の者はその言葉の真意を察し、一部の者は引きつった笑みを浮かべて顔を見合わせた。


 一人の冒険者がボソリと呟く。

「……それ、普通の睡眠には聞こえねえな」


 隣の仲間が答えた。

「詮索しないのが身のためだろ」


 カイは小さくため息をついた。どうやらこの建物の中にも、最低限の常識と思慮深さを持ち合わせている奴はいるらしい。


--


 エミリア。


「カイ様!」


 聞き慣れた愛らしい声に、カイが振り返る。エミリアが満面の笑みを浮かべてこちらに走ってきて、彼の足元に飛び込んできた。


 カイは彼女をしっかりと受け止める。

「おっと、元気だな」

 彼女を軽々と腕の中に抱き上げた。

「いい子にしてたか?」


 エミリアは嬉しそうに笑った。

「うん、いい子にしてたよ!」

 彼女はカイの首にぎゅっと腕を回すと、ふと悪戯っぽい表情を浮かべた。

「ねえ、カイ様にサプライズがあるの!」


 カイは片方の眉を上げた。

「お、サプライズ?」


「うん!」


「何があるんだ?」


「こっちに付いてきて!」


 カイが視線を向けると、ユイが優しく微笑みながら「行ってあげて」とうなずいた。


 カイは苦笑交じりに息を吐いた。

「よし、分かった」


 エミリアが小さなお菓子屋の方を嬉しそうに指差す。

「こっちだよ、早く早く!」


 カイは彼女を抱き抱えたまま、お菓子屋へと歩き出した。彼の背後では、五人の『至高の将軍』たちが、静かにその背中を見守っていた。


 カイはお菓子屋に入る直前で足を止めた。そしてセナを振り返る。

「セナ」


 セナが彼を見つめた。

「はい、カイ様」


「あの神官を回収してくれ」


「私どもの誰かに命じられたと主張していた、あの男ですか?」


「ああ」


 セナがうなずいた。

「了解いたしました」


 カイの表情に、再び冷酷な光が戻る。

「ここへ連れてくるんだ」


 次の瞬間、セナの姿が掻き消えた。


 カイは続けてネロに視線を向けた。

「ラオディキア聖教会へ向かえ」


 ネロがニヤリと笑う。

「協力を仰ぎにいく、ってわけじゃなさそうですね」


「違う」

 カイは彼を真っ直ぐに見据えた。

「目障りな司教どもを全員拘束しろ」


 ネロの笑みがさらに深く裂けた。

「抵抗された場合は?」


 カイは淡々と答えた。

「殺せ」


 ネロは恭しく一礼した。

「了解です」


 カイはヴァドスの方を向いた。

「アステリアへ行け」


 ヴァドスがうなずく。

「はい、カイ様。御用件は?」


「何が起きたかをアルドレン王に伝えろ」

 カイは一拍置いて続けた。

「アシュフォードの犯した過ちから、正しく学んでもらうために、な」


 ヴァドスは小さく息を吐いた。

「了解したよ」


 カイはエルヴァを見た。

「ソフィアを連れ戻してくれ」


 エルヴァがうなずく。

「ただちに」


 カイは最後にクロエを一瞥した。

「お前はここに残れ」


 クロエが頭を垂れる。

「はい、カイ様」


 カイは再びエミリアの方へと向き直った。彼女は待ちきれないといった様子で足踏みしている。

「行くか?」


 カイは微笑んだ。

「ああ、行こう」


 彼は彼女の手を引き、お菓子屋の中へと足を踏み入れた。


--


 聖教会の動揺。


 エリュシオン教団から遥か彼方、ラオディキア聖教会では、未だ何が起きたのかを完全に把握できずにいた。通信結晶は沈黙したままだ。報告もなければ、応答もない。ただの不気味な静寂だけが部屋を支配していた。


 一人の司教が結晶を凝視する。

「なぜ、次の通信が入ってこないのだ?」


 もう一人の司教が唾を飲み込んだ。

「分かりません……」


 その時、広間の大扉が不意に開け放たれた。ネロが悠然と姿を現し、堂々とした足取りで部屋の中を進んでくる。司教たちが彼を睨みつけた。

「貴様、何者だ!?」


 ネロは周囲を見回した。

「カイ様の命により、お迎えに上がりました」


 一人の聖騎士が怒号とともに剣を抜いた。ネロはわざとらしくため息をつく。

「やめとけって」


 騎士は警告を無視して突撃した。しかしネロが彼を一瞥した瞬間、その騎士は彼の身体に届くよりも早く、床へと崩れ落ちた。


 司教たちの身体が恐怖で凍りつく。


 ネロは凶悪に唇を歪めた。

「あんたたちを拘束しろって言われてんだ」

 その瞳が、氷のように冷たく据わる。

「だからさ……俺に命令を変更させるような真似は、するんじゃねえぞ?」


--


 激闘の第十七階層。


 エリュシオン教団の内部では、ソフィアとリン、ソラによる激しい戦闘が続いていた。床の至る所に無数の亀裂が走り、リンの速度はさらに爆発的なものへと跳ね上がっていた。彼女の戦場への適応は止まらない。ソフィアが放つあらゆる攻撃は、時間が経つにつれて確実に威力を削がれていく。


 しかし、ソフィアの持つ『預言の剣』は依然として厄介だった。あらゆる攻撃に、彼女はほぼ同時といえる反応を見せる。


 リンが仕掛け、ソフィアが防ぐ。すかさずソラが追撃の魔法を放つが、ソフィアは術式が完全に形成される前にその射程から離脱していた。


 三人が距離を取り、互いに大きく間をあける。全員が激しく息を切らせていた。


 ソフィアはリンを、そしてソラを見つめた。彼女はついに理解した。この二人は、決して並の若き戦士などではない。自分に本力を出させ、ここまで追い詰めるほどの怪物を秘めているのだと。


 リンが額の汗を乱暴に拭った。ソラが再び手を掲げ、また新たな大魔法の陣形が浮かび上がり始める。


 ソフィアは預言の剣を強く握りしめ、不敵に微笑んだ。

「なら……どちらが先に倒れるか、白黒つけようじゃない」


 リンの目が鋭く光る。


 ソラもニヤリと笑みを返した。

「望むところだよ」


 彼女たちの遥か頭上で、第十七階層の空間全体が激しく鳴動した。そして第一階層にいるカイは、自分が戦場から隔離したはずのソフィアが、すでに全く別の、しかし同様に熾烈な死闘に身を投じていることなど、知る由もなかった。


 外の世界で行われた戦争は、僅か九分にも満たない時間で幕を閉じた。アシュフォード王国は崩壊し、聖教会はすべてを失った。そしてカイの従える五人の『至高の将軍』たちは、主がその枷を外した時、どれほど圧倒的な絶望が世界をもたらすのかを完全に証明してみせた。


 しかし、本当の謎はまだ闇の中に隠されたままだ。


 そもそも、なぜ教会は彼と戦うように仕向けられたのか。


 そして、罪のない無抵抗な集落を破壊すれば、カイの忍耐が完全に決壊すると見抜いていたのは、一体誰なのか。


 その答えに辿り着く者は、まだ誰もいない。


 ――今は、まだ。

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