第112話 - 第2幕:教会の聖戦、その13 — 誤った一手
エリュシオン教団の、中央作戦室。カイのもとに一本の報告が届いた。部屋は異様なほど静まり返っている。巨大な円卓の上には数個の通信結晶が浮遊し、それぞれ異なる戦況を映し出していた。アシュフォード、北方の集落、西方の交易路、そしてエリュシオン領を囲む村々。
戦争は、誰もが予想していた以上に燃え広がっていた。
カイは作戦室の中心に立っていた。隣にはユイがいる。セナ、エルヴァ、ネロ、ヴァドス、そしてクロエもその場に揃っていた。
一人の斥候が部屋に飛び込んできた。その顔は蒼白で、入るなり即座に片膝を突いた。
「カイ様……!」
カイは彼に視線を向けた。
「何があった?」
斥候は唾を飲み込んだ。
「襲撃を受けました」
カイの表情は、依然として冷静なままだった。
「どこだ?」
「西方領土に、新しく形成された集落の一つです」
カイの目がわずかに細められる。
「アシュフォードの襲撃か?」
斥候は首を振った。
「聖騎士の、一人の指揮官です」
沈黙が流れる。
カイは答えない。
斥候が言葉を続けた。
「奴は、ごく小規模の部隊を引き連れて現れました」
「数は?」
「およそ、三十名ほどの聖騎士です」
カイは眉をひそめた。
「それで、集落は?」
斥候は頭を垂れた。
「……壊滅、いたしました」
カイの瞳が、一気に冷たさを増していく。
「どうやって?」
斥候は言い淀んだ。
「その指揮官が放った、たった一撃の攻撃によってです」
カイは彼を凝視した。
「一撃、だと?」
「はい……」
斥候の声が恐怖で震える。
「集落が、跡形もなく消し飛ばされました」
通信結晶が、その惨状を映し出した。建物は瓦礫の山と化し、田畑は焼き尽くされている。防衛構造物も完全に破壊されていた。生存者の姿は、どこにもない。
カイはその映像をじっと見つめた。数秒の間、彼は何も言わなかった。
それから――。
「民間人は、何人いた?」
斥候はさらに深く頭を下げた。
「全員、です……」
作戦室が、凍りついたような静寂に包まれる。
ユイの表情が強張り、クロエはそっと目を閉じた。セナの指先は椅子の肘掛けを激しくきしませ、ネロの顔から笑みが消え失せる。エルヴァは微動だにせず、ヴァドスはゆっくりと息を吐き出した。
カイは結晶の映像を見つめ続けていた。その表情は、完全に一変していた。この戦争を通じて彼が崩さなかった、あの余裕のある顔はもうそこにはない。忍耐も、対話への意志も、自制心も。そのすべてが、一瞬にして消え去っていた。
ユイが彼を見上げた。
「カイ……」
彼が片手を挙げると、彼女は言葉を飲み込んだ。
カイは再び映像に視線を落とした。
「十分にチャンスは与えたはずだ」
誰も口を開かない。
「立ち去れと言った」
その声は、ひどく静かだった。
「こちらからは攻撃しないとも伝えた」
彼は仲間たちの方を振り返った。
「奴らが踊らされていることも分かっていた」
その瞳から、完全に光が消え失せる。
「その上で、引き返す機会を与え続けてやったんだ」
通信結晶がちかちかと明滅する。破壊された集落の映像が、非情にも映し出され続けていた。
カイはゆっくりと背を向けた。
「だが、奴らは一線を越えた」
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慈悲の終焉。
カイは、塔の遥か下を見下ろす巨大な窓へと歩み寄った。眼下では、何千もの人々がエリュシオン教団の中を行き交っている。家族、子供たち、冒険者、商人、研究者。戦争とは何の関係もない人々。ただ安全に暮らせる場所を求めただけの人々だ。
カイは彼らを見つめ、それから背後に映し出されている破壊された集落へと視線を戻した。
「もし俺が他の『魔王』だったなら――」
声は、どこまでも低かった。
「――アシュフォードなど、今頃とうに塵すら残っていなかっただろうな」
ヴァドスが彼を見た。
カイは言葉を続けた。
「何かがおかしいと分かっていたからこそ、俺は奴らにチャンスを与え続けた」
彼は一拍置いた。
「だが、もうどうでもいい」
その目が鋭く研ぎ澄まされる。
「誰が教会を操っていようが関係ない。――奴らは俺の民を攻撃した」
作戦室内の空気が、一瞬にして変貌した。周囲に立つ五人の強者たちが、それを肌で察知する。カイの気配が爆発したわけではない。莫大なオーラが放出されたわけでも、破壊的なエネルギーが狂い咲いたわけでもない。だからこそ、余計に恐ろしかった。
彼の声は、どこまでも冷静なままだった。
「これより――」
彼は通信結晶に鋭い視線を向けた。
「――エリュシオン教団は、防衛を終了する」
彼は目を閉じた。シンプルな一つの思考が、彼の脳裏を駆け巡る。そして次の瞬間、エリュシオン教団のすべての防衛兵たちの頭の中に、彼の声が直接響き渡った。
『エリュシオン全軍、塔へ帰還せよ』
戦場全域で、兵士たちが動きを止めた。冒険者たちが武器を収め、斥候たちが辺りを見回す。
命令は続いた。
『エリュシオン教団へ戻るんだ』
二つ目の思考が、彼らの意識に伝播する。
『これより諸君らの戦場での任務を解く。身体を休め、回復に努めよ』
そして、カイの声は氷のように冷たくなった。
『ここからは、俺が引き受ける』
西方前線の至る所で、何千ものエリュシオンの防衛兵たちが撤退を開始した。理由は分からなかった。しかし、彼らは主の命に絶対服従した。
カイは目を開けた。そして、自らの前に控える五人の『至高の将軍』たちを見据えた。
「ヴァドス」
ヴァドスが居住まいを正した。
「はっ、カイ様」
「セナ」
セナが立ち上がる。
「御意に」
「ネロ」
ネロが薄く笑みを浮かべた。
「喜んで」
「エルヴァ」
エルヴァが静かに佇む。
「承知いたしました」
「クロエ」
クロエの表情が、真剣なものへと変わる。
「参ります」
カイは五人全員を見据えた。
「戦場へ向かえ」
五人が一斉にうなずく。
その時、ネロが片方の眉を上げた。
「カイ様」
カイが彼を見た。
「何だ?」
ネロが笑みを深める。
「もし奴らが、撤退を拒んだ場合は?」
作戦室が、一瞬の静寂に包まれた。
カイは彼を真っ直ぐに見つめ、一切の躊躇なく答えた。
「殺せ」
ネロの笑みが、さらに大きく裂けた。
「了解です」
クロエが彼を窘めるように視線を向けた。
「ネロ」
「ん?」
「あまり楽しみすぎるなよ」
ネロはくつくつと低く笑った。
「約束はできねえな」
カイは小さくため息をついた。
「ただ、戦いを終わらせろ」
その瞳に、再び冷酷な光が宿る。
「時間を無駄にするな」
次の瞬間、五人の姿はその場から消え去っていた。
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四方。
アシュフォードの軍勢は何時間も進軍を続けていた。二万の兵士。五千の聖騎士。彼らの掲げる軍旗が、地平線の彼方まで埋め尽くしている。
国王エモンは陣形の中央に留まっていた。ソフィアもその近くにいる。彼女は、何かが変わりつつあるのを肌で感じていた。彼女は戦場の方角へと視線を巡らせる。
「……何、これ?」
エモンが眉をひそめた。
「どうした?」
ソフィアは答えなかった。周囲の空気が、突如として激しく重くなったからだ。兵士たちが狼狽して辺りを見回し始める。一人の男が武器を取り落とした。また一人が、まともに息ができずに苦しみだす。
「何が起きてるんだ……!?」
「分からん……っ!」
「何だ、この息苦しさは……!」
その時、西方の空に一つの気配が現れた。セナだ。彼女は何百メートルか離れた場所に、静かに立ち尽くしていた。その身体から放たれる圧迫感は、筆舌に尽くしがたいものだった。彼女に最も近い場所にいた兵士たちが、恐怖で完全に硬直する。
東方にも、また別の気配が出現した。エルヴァだ。彼女はただ一人でそこに立っていた。武器を構えるでもなく、言葉を発するでもない。それなのに、彼女の足元の地面がメリメリと激しくひび割れていく。
さらに、北方の戦場も一変した。ヴァドスが姿を現したのだ。彼は退屈そうにあたりを眺め回している。
「随分と大層な軍勢だね」
彼は不敵に微笑んだ。
「カイ様はどうやら、これを迅速に片付けたいご様子だ」
そして最後の気配が、教会の軍勢の背後に現れた。ネロだ。彼は両手をポケットに突っ込んだまま、聖騎士たちを見つめていた。それから、凶悪な笑みを浮かべる。
「さて……どいつから最初に死にたい?」
誰も答えられなかった。兵士たちはただ、底知れぬ恐怖に震えていた。
ソフィアは目を見開いた。この者たちは、決して並の戦士などではない。アシュフォード最高峰の聖騎士たちでさえ、本能的な恐怖に戦慄していた。常軌を逸している。これまで遭遇してきたどんな存在とも、決定的に何かが違っていた。しかし、彼らにはその正体が分からない。ただ一つ分かっているのは、この怪物たちがすべてカイに仕えているということだけだった。
最後にクロエが姿を現した。彼女は戦場から数百メートル離れた場所に静かに佇む。彼女が現れた瞬間、周囲の空気がまたしても一変した。数名の聖騎士たちが、無意識のうちに後ずさりする。一人が喘ぐように呟いた。
「嘘だろ……」
もう一人が彼女を凝視する。
「な、何なんだよ、あの女は……!」
ソフィアはクロエに視線を向けた。体の奥底から、奇妙な既視感が湧き上がってくる。酷く古く、かつておとぎ話か何かで耳にしたことがあるような、そんな感覚。しかし、それが何なのかまでは思い出せなかった。
クロエはただ、冷徹な瞳で大軍を見据えていた。
「あなたたちには、すでに十分な猶予が与えられていたはずよ」
聖騎士の指揮官が武器を突きつけた。
「それ以上近づくな!」
クロエは小首をかしげた。
「そのつもりはないわ」
指揮官の動きが止まる。
すると、クロエの唇が不敵な笑みに歪んだ。
「あなたたちの方から、私のところへ来ることになるのだから」
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主の降臨。
戦場が突如として、水を打ったような静寂に包まれた。巨大な影が軍勢を覆い尽くし、すべての兵士が一斉に天を見上げた。天空に広がっていたのは、六つの禍々しい漆黒の竜翼だった。
カイはゆっくりと舞い降り、アシュフォードの総司令本陣の上空で静止した。その表情は、以前とは完全に異なっていた。笑みもなければ、皮肉もない。おどけた態度すら一切消え失せ、その瞳にはただ、底知れぬ冷徹な虚無だけが宿っていた。
国王エモンが見上げる。ソフィアは一瞬、心臓が止まるような錯覚に陥った。彼女は前回の会談で見た彼の姿を覚えていた。流血を避けようと何度も対話を試み、立ち去る機会を与え続けてくれた、あの穏やかな魔王の姿を。しかし、いま目の前に君臨している存在は、まるで別人のようだった。
カイはエモンを見下ろした。
「エモン国王」
エモンは拳を固く握りしめた。
「カイ……」
カイの声は、低く、静かだった。
「アシュフォードへ引き返せ」
エモンは彼を睨みつける。
カイは言葉を紡いだ。
「兵を引け。聖騎士たちを連れて、国へ帰るんだ」
国王は沈黙を守った。
カイは、その答えを待った。
やがて、エモンがようやく口を開いた。
「……断ると言ったら?」
カイは彼の目を真っ直ぐに見据えた。
「ここにいる全員を、一人残らず殺す」
静寂。誰も動けなかった。
ソフィアの瞳孔が激しく収縮する。彼女には分かった。カイは脅しをかけているのではない。威嚇して屈服させようとしているのでもない。彼は本気だ。その言葉の、その一音の一音の通りに、彼は本当に実行するつもりなのだ。
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エモンの表情に、猛烈な緊張が走る。
ソフィアは、戦場を包囲する四つの人影に視線を巡らせた。セナ、エルヴァ、ヴァドス、ネロ。そして、静かに佇むクロエ。
ソフィアは、ようやく一つの恐ろしい真実に気がついた。自分たちは何週間もの間、大きな勘違いをしていたのだ。カイが危険なのは「強力な配下を従えているから」だと信じ込んでいた。それは間違いだった。カイが本当に恐ろしいのは――これほどの化け物たちを、今まで必死に『抑え込んでいた』からだったのだ。
ソフィアは再びカイを見上げた。
「本当に、私たちと戦うつもりなのですね」
カイの冷たい視線が彼女へ移る。
「お前たちが一線を越えたんだ」
ソフィアの声が、かすかに震えた。
「あの集落のことは……」
カイの表情は微塵も動かない。
「何があったかは知っている」
ソフィアは視線を落とした。
「私たちの指示ではありません。アシュフォードの総意ではないのです」
「分かっている」
カイはあっさりと答えた。
その返答に、ソフィアは目を見張った。
カイは静かに続けた。
「お前たちが裏で何者かに踊らされていることくらい、百も承知だ」
ソフィアが顔を上げる。
「なら、どうして……!」
カイの声が、さらに氷のように冷たくなっていく。
「踊らされていたからと言って、消し飛ばされた民が戻ってくるわけではないからだ」
彼はアシュフォードの軍勢を見据え、片手を厳かに掲げた。
「俺はチャンスを与えた。だが、お前たちはそれを拒んだ」
彼の背後で、六つの漆黒の翼がゆっくりと大きく広がっていく。
「ならば――」
その瞳が、鋭く獲物を捉えた。
「――相応の報いを受けてもらう」
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ソフィアは『預言の剣』を握る手に力を込めた。彼女の直感が、全力で危険信号を鳴らし続けている。視認しようとするすべての未来が、ことごとく濁り、不透明に遮られていく。辛うじて見えたあらゆる結末は、どれも同じ終わり方をしていた。鮮血、破壊、そして絶望的なまでの死。
ソフィアはエモンを振り返った。
「陛下……」
エモンが彼女に視線を向ける。
ソフィアは蚊の鳴くような声で言った。
「……退くべきです」
国王は目を見張った。
「何だと?」
ソフィアの目は、上空のカイから離れなかった。
「今すぐ、です」
しかし、エモンが応じるよりも早く、ネロの不敵な声が戦場に響き渡った。
「カイ様の言葉が聞こえなかったのか?」
彼は凶悪に口元を歪める。
「さっさと家に帰りな、お仲間たちを連れてさ」
セナが一歩前に出た。
「拒むというのであれば――」
エルヴァの瞳に、絶対的な零度が宿る。
「――私たちが、あなた方を排除いたします」
ヴァドスが低く笑った。
「まあ、その過程を君たちが楽しめるかは甚だ疑問だけどね」
クロエは何も言わなかった。ただ静かに軍勢を凝視している。その沈黙こそが、他の誰の言葉よりも悍ましく、圧倒的な恐怖を放っていた。
カイは何万もの兵士たちを見下ろし、最後の、本当に最後の慈悲を口にした。
「立ち去れ」
誰も動かない。
カイは静かに目を閉じた。一瞬の間、戦場に完全な静寂が訪れる。それでもアシュフォードの軍勢が撤退の兆候を見せない中、ついに一人の将軍が、耐えきれずに武器を抜いた。
その瞬間、カイは目を開けた。そこから、最後の慈悲の欠片が完全に消滅した。
「……悪手だな」
四人の『至高の将軍』たちが同時に動いた。戦火が、文字通り爆発する。
そして戦争が始まって以来初めて、教会とアシュフォード王国は知ることになる。これまでカイの傍らに、どれほど底知れぬ化け物たちが牙を隠して潜んでいたのかを。
人類はまだ、その五人の本当の正体を知らない。彼らの起源も、かつて世界を震撼させたその名も、そのうちの四人がこの世界に歴史が刻まれる遥か以前から存在していたということすら、何も知らなかった。
ただ、彼らは最悪の過ちを犯したのだ。カイに彼らの『枷』を外させてしまったという、取り返しのつかない過ちを。
今、エリュシオン教団の真の蹂躙が始まろうとしていた。




