第110話 - 第2幕:教会の聖戦、その11 — 初めての衝突
最初の綻び
最後の本当に一瞬の間、平和への重々しい扉は開かれていた。そして、それは静かに閉ざされた。宣戦布告があったわけではない。大層な演説(演説)があったわけでもない。得物が引き抜かれたわけですら、なかった。
すべては、たった一つの致命的な命令から始まったのだ。
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最後の警告
アシュフォードの使節団は、すでに前線陣地へと引き返し始めていた。カイはエリュシオン教区の外に直立したまま、動かなかった。その隣にはユイが佇んでいる。セナ、ネロ、ヴァドス、そしてクロエの四人は、数歩後ろに控えたままだ。
カイは去っていくソフィアの背中をじっと見つめていた。この全シチュエーションの何かが、どうしても不気味に胸に引っかかり続けていた。恐怖に駆られているからではない。あまりにも、既視感(既視感)が強すぎたからだ。
彼は前方に広がる圧倒的な大軍勢を睨み据えた。二万の常備兵、五千の聖騎士。彼らはすでに何日もの間、自らの目の前に完全に牙を剥いて直立している。カイは平和を望んでいたからこそ、彼らの不条理な滞留(滞在)を辛抱強く容認してきた。しかし、彼の我慢の限界を超える、たった一つの絶対的な地雷が存在した。それは、自らが全力で守り抜くと誓った民の日常の真っ直ぐ目の前に、軍勢(戦争)を引き連れてこられることだ。
言い争いならいくらでも付き合ってやる。不条理な言いがかり(告発)も聞いてやる。誤解されたままでいる不快感だって呑み込んでやる。しかしな、自分の大切な民の目の前に直接軍勢を配置された以上、魔王としての辛抱強さには明確な「境界線」が存在した。
ユイが彼の横顔を見つめた。【念話通信】『……何を考えているのですか、我が主?』
カイは一瞬の間を置き、冷徹に応じた。【念話】『あいつらには、まだこの場から無事に引き揚げるチャンス(逃げ道)が残されている、と考えてるのさ』
ユイはアシュフォード軍の布陣を見つめた。『もし、引き揚げなかった場合は?』
カイの目が、凍りつくほど鋭く細められた。『なら、俺が直接あいつらの真っ直ぐ真ん中へ行ってやるさ』
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彼は背後の仲間たちを振り返った。「……全員、よく聞け」
セナが即座に彼を見つめた。「カイ様?」
カイの声はどこまでも平穏を保っていた。「完全な、防衛陣地のままでいろ」
ネロが不満げに片方の眉を上げた。「……この期に及んで、まだですか?」
「だからこそ、だ」カイは大軍勢を睨み据えた。「こちらから先制攻撃を仕掛けるような過ちは絶対にしない」彼は一呼吸を置いた。「だがな、もしあいつらがこのまま引き揚げることを拒むって言うんなら――」彼の顔から一切の温度が掻き消えた。「――ここが奴らの戦場( battlefield )なんかじゃねえってことを、俺の手で完璧に分からせてやる」
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アシュフォードの陣地
アシュフォード軍の前線本部の司令テントの内部では、エイモン国王が巨大な戦術地図の前に直立していた。ソフィアが今まさに帰還したところであり、円卓を何人もの将軍たちが取り囲んでいる。
将軍の一人が顔を上げた。「……魔王カイは何と言ったのだ?」
ソフィアは法衣の手袋を外した。「彼は、自分の仲間を引き渡すという理不尽な尋問(要求)を拒絶しました」
将軍が不快そうに眉をひそめた。「やはりな。想定通りだ」
「ただし、内偵調査(調査)をこのまま続行することには快く同意しましたわ」ソフィアが言葉を重ねる。
別の将軍が激しく首を横に振った。「そんな生ぬるい回答、聖教会が受理するはずがなかろう!」
ソフィアの表情が峻烈なものに変わる。「ならば、聖教会こそが自らの抱く不条理な疑惑を根本から見直すべき(再考すべき)ではないですか?」
会議場に、冷たい静寂が降りた。
エイモンが彼女を凝視した。「……貴女は、カイが無実だと盲信しているのか?」
ソフィアは激しく躊躇した。「私は……彼が黒(有罪)だと断じるに足る確実な証拠を、我々はまだ何も持っていないと言っているのです、陛下」
将軍が即座に猛反論した。「国境からの急報が、いくつも積み上がっているのだぞ!」
「ただの、報告書ですわ」
「確実な自白もある!」
「どこの誰とも思い出せない一人の人間の、でっち上げられた供述です」
「教会の関係者が、無残に虐殺されたのだぞ!」
「その惨劇の現場を、カイや彼の配下たちが直接目撃したという確証はどこにもありません!」
将軍の顔が怒りで赤くなった。「ソフィア団長……貴女は完全に奴を弁護(擁護)している!」
ソフィアは彼の目を真っ直ぐに見据えた。「私は『調査という行為そのものの正当性』を守ろうとしているのよ!」
エイモンは終始、冷徹に沈黙を守り続けていた。
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その時、一人の兵士が司令テントの内部へと猛烈な勢いで駆け込んできた。「――国王陛下!!」
全員が一斉に振り返った。「何事だ!」
兵士は直立不動で敬礼した。「西方防衛陣地からの、緊急報告です!」
エイモンが眉をひそめた。「続けろ」
「エリュシオン教区の軍勢が……動きました!」
ソフィアの目が鋭く細められた。「何ですって?」
「奴らの戦力が、西方の街道に向かって前進を開始したとのことです!」
テントの中が、一瞬にしてしんと静まり返った。
エイモンは手元の地図を睨み据えた。「……規模(数)はどれくらいだ?」
「判別がつきません!」
ソフィアが即座に詰め寄った。「その軍勢は、我々のこの本隊に向かって近づいてきているのですか?」
兵士は首を振った。「いいえ、違います」
「では、どこへ向かっているの?」
「西方の、防衛陣地です!」
ソフィアの表情が完全に凍りついた。そのポジションには、アシュフォード軍の別動隊が配置されていた。規模はおよそ「千名」。本隊から数キロメートル離れた位置に、前線防衛の一線(境界線)を敷いていた部隊だ。
ソフィアはエイモンを振り返った。「陛下、奴らが本当に『襲撃』を仕掛けてきているのかどうか、まだ確証はありません!」
「我らの元に届いたのは、ただ奴らの戦力が移動しているというログだけだ」
エイモンの目が峻烈なものに変わる。「……ただちに、別の伝令を走らせろ」
兵士が激しく躊躇した。「陛下?」
「エリュシオンの軍勢が、本当に我が方へ直接牙を剥いたのかどうか、その事実をありのまま確認してくるのだ!」
「はっ、ただちに!」
兵士が踵を返そうとした、まさにその瞬間。また別の伝令兵が、息を切らせてなだれ込んできた。「――国王陛下!!」
エイモンが彼を睨みつけた。「……今度は何だ!」
伝令兵は肩で激しく息をしていた。「西方の、防衛陣地が……完全に激突(戦闘状態に突入)いたしました!」
ソフィアの身体が完全に硬直した。「まさか……!」
「エリュシオンの軍勢が、我が防衛線へと到達した模様です!」
「どちらが、最初に攻撃を仕掛けたのよ!?」
伝令兵は激しく言い淀み、生唾を飲み込んだ。
「……アシュフォードの兵士たちが、最初に魔導砲を『発射』いたしました」
沈黙。
ソフィアの目が驚愕に大きく見開かれた。「……何ですって?」
伝令兵は声を震わせた。「現地の指揮官が……エリュシオンの軍勢が急襲の構え(準備)に入ったと盲信し、自ら引き金を引いてしまったのです……」
エイモンはゆっくりと、そっと目を閉じた。
何者かがついに、最初の決定的な一手(過ち)を、完全に完璧に動かしたのだった。
無用な防衛戦
アシュフォード軍の西方防衛陣地は、果てしなく広がる平原の真っ直ぐ真ん中に敷かれていた。一千名の兵士。数躯の魔導砲。そして、三百名の聖騎士たち。彼らは数時間の間、西方からの接近を絶え間なく監視するよう命じられていた。何一つとして、異変は起きていなかった。
その時、一人の斥候が喉を張り裂けんばかりに叫んだ。「――敵襲! 奴らが来ます!」
兵士たちが一斉に振り返る。遥か地平線の先から、エリュシオンの軍勢が迫りつつあった。しかし彼らは、侵略軍のような陣形を組んではいなかった。突撃をしてくる様子もない。攻城兵器すら携えていなかった。彼らは、ただの冒険者たちだ。数人の斥候と、数名の防衛兵。カイの命令によって周辺を内偵し、アシュフォードがこれ以上塔に向かって進軍してくる意図があるのかどうかを確かめるために派遣されたに過ぎない。
しかし、これほどの距離からでは、アシュフォードの兵士たちにその真意を見抜く術はなかった。
現地の指揮官が剣を掲げた。「構えろ! 布陣を崩すな!」
兵士たちが一斉に槍の林を形成する。エリュシオンの斥候たちは足を止めた。そのうちの一人が、両手を大きく掲げた。「待ってくれ! 俺たちは戦いに来たんじゃない!」
アシュフォードの指揮官が怒号を上げる。「それ以上近づくことは許さん!」
斥候が叫び返した。「話し合いをしたいだけだ!」
指揮官は自らの部下たちに目を向けた。彼の脳裏には、すでに過剰なほどの不穏な報告が積み上がっていた。壊滅した教会の巡礼馬車。急襲された聖地。忽然と姿を消す人々。カイが身内の引き渡しを拒絶したこと。そして今、自らの防衛線の真っ直ぐ目の前に、エリュシオンの軍勢が迫っている。
彼の胸の内の恐怖が、引き金を引く決断(過ち)を強行させた。「――撃てっ!!」
魔導砲が一斉にアクティベート(起動)した。――ズドォォォォン! 最初の砲撃が平原を真っ二つに切り裂いて駆け抜ける。エリュシオンの冒険者たちは四方へと散った。大地が激しく爆発して噴き上がる。一人の冒険者が宙を舞い、もう一人が泥の中に叩きつけられた。
斥候たちは、目の前で起きた事実に即座に気づいた。「あいつら、本当に撃ってきやがったぞ!」
防衛隊長が絶叫した。「応戦するな! 手を出すな!」
しかし、次の砲撃がすでに彼らの喉元まで迫っていた。エリュシオンの民に、もはや選択肢は残されていなかった。彼らは、ただ生き残るために身を守るしかなかった。
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最初の激突
平原の上に、巨大な魔法障壁が展開された。――ドォォォォン! アシュフォードの魔導砲が障壁を直撃する。結界が激しく明滅し、エリュシオンの防衛兵たちはその背後で直立したまま、じっと耐えていた。
一人の冒険者が得物を構え直した。「隊長、命令を!」
隊長はアシュフォード軍の陣形を睨み据えた。そして、カイから授かった『絶対的な命令』を脳裏に思い浮かべる。――『あいつらが最初に牙を剥かない限りは、絶対に手を出すな』。
彼は得物を下ろした。「あいつらは、すでに最初の引き金を引いたわ」
冒険者が彼を見た。「それで?」
隊長は静かに息を吸い込んだ。「――防衛だ」
エリュシオンの戦力が動いた。前進ではない。後退だ。彼らは完璧な防衛陣地を維持したまま、緩やかに下層へと引き下がっていく。
アシュフォードの兵士たちが突撃した。最初の兵士が障壁を強引に突破し、魔力刃を振り下ろす。エリュシオンの防衛兵はそれを紙一重で完璧に受け流し(パリーし)、もう一人の兵士の攻撃をいとも容易に背後へと弾き飛ばした。三人目の兵士が斬りかかろうとしたが、その得物は一瞬で叩き落とされた。
エリュシオンの兵士なら、その場で彼の命を奪うこともできた。代わりに、彼は男の剣を足で踏みつけ、そのまま横へと押し退けた。「大人しく寝てろ!」
アシュフォードの兵士は呆然と目を丸くした。「……なぜ俺を殺さなかった?」
エリュシオンの防衛兵は彼を一瞥した。「そんな命令、受けてないからな」
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武力の格差
戦闘は、見る見るうちに一方的な展開へと変貌を遂げていった。アシュフォードの兵士たちが弱かったわけではない。彼らは徹底的に訓練され、実戦経験も豊富だった。そして三百名の聖騎士たちは、王国でも最強と謳われる傑物たちばかりだ。しかし、エリュシオン教区の戦力には、根本的に決定的な『格差』が存在した。
彼らはこれまでに何ヶ月もの間、人間の常識を遥かに超越した次元で生きる最高幹部たちの元で、地獄のような訓練を積んできたのだ。その身のこなし、その反応の速度、その連携の精度。すべてが、人間の領域を逸脱していた。
アシュフォードの騎士が剣を大きく振り下ろした。エリュシオンの防衛兵はその手首を完璧に掴み取る。騎士の身体が凍りつき、防衛兵が僅かに腕を捻るだけで、剣が虚しく地面へと落ちた。
別の兵士が背後から斬りかかったが、瞬時に展開された結界によって、その攻撃はただのバグのように虚しく弾き返された。
三人の兵士が同時に突撃した。エリュシオンの防衛兵が軽やかに宙へと跳躍すると、三人は互いに激しく激突して自滅した。彼は彼らの背後に着地した。「寝てろ」
彼らは恐怖のあまり動けなかった。
また一人の聖騎士が間合いを詰めてきた。その剣は、凄まじい神聖魔術のエネルギーを纏っている。エリュシオンの防衛兵はそれを見つめた。「おいおい、危ねえな」
騎士が突撃する。防衛兵は僅かに身を翻し、剣は虚しく地面へと突き刺さった。騎士が体勢を立て直すよりも前の段階で、強烈な拳の一撃が彼の鎧の真ん中を捉えた。――ドォン! 聖騎士の巨体が遥か後方へと吹き飛んでいく。
しかし、追撃を仕掛ける(とどめを刺す)真似はせず、防衛兵はその場に直立して動きを止めた。騎士は生きていた。辛うじて意識を保っている程度だ。防衛兵は彼を見下ろした。「お前、そこまでだ」
聖騎士は激しい混乱(困惑)の中で彼を睨み据えた。「……なぜ、我の首を獲らない……」
防衛兵はただ背を向けた。「俺たちは、ただ自分たちの日常を守ってるだけだからな」
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聖騎士団の突撃
それでもなお、聖騎士団は強硬に進軍を続けようとしていた。現地の指揮官が怒号を上げる。「布陣を維持しろ! 敵の結界を押し潰せ!」
彼らは一糸乱れぬ陣形で前進した。神聖魔術の白き輝きが平原を埋め尽くし、眩い光の波動が大地を侵食していく。エリュシオンの防衛兵たちは次々と障壁を展開し、二つの絶対的な武力が激しく正面衝突した。――ズドォォォォン!
数名のエリュシオンの防衛兵が力ずくで後退させられた。この戦闘が始まって以来初めて、アシュフォード軍が防衛線の一線を押し戻したのだ。
聖騎士たちが歓声を上げた。「アシュフォードのために!」「ラオディキアの絶対的な大義名分のもとに!」
彼らは一斉に突撃を仕掛けた。エリュシオンの防衛兵たちはそれに応じた。皆殺しにする一撃(致命傷)ではなく、徹底的な『制圧』の体術をもって。
一人の聖騎士が殴り倒されて意識を失い、もう一人は得物を完璧に一蹴されて大破した。三人目は魔法の障壁の檻の中に閉じ込められ、四人目は草叢へと無残に放り出されていった。
エリュシオンの兵士たちは、頑なに彼らの息の根を止めることを拒み続けていた。しかし、戦場は時間の経過と共に、確実に、不穏な混沌へと変貌を遂げつつあった。アシュフォードが強硬に攻撃を仕掛けてくればくるほど、エリュシオンの防衛兵たちも、それに応じるためのリアクションの出力をかさ増しせざるを得なくなるからだ。
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魔王の覚醒
数キロメートル離れた場所、エリュシオン教区の境界線の外縁に、カイは直立していた。いつの間にか、彼の隣にユイが姿を現した。彼女の瞳は、不気味な魔力の輝きを放っている。
「……カイ」
カイは彼女を見つめた。「ああ、分かってるよ」
「西方の防衛陣地が、完全に激突(戦闘状態に突入)したわ」
カイは口を噤み、沈黙を保った。その表情こそ何一つとして変わらなかったが、彼の周囲を包み込む大気の圧力は、凍りつくほど冷酷なものへと、完全に変質していた。
歪んだ確信
カイは遥か彼方の戦場へと視線を向けた。「あいつらが、最初に引き金を引いたんだな」
「ええ」
カイはそっと目を閉じた。こんな事態にだけは至らないでほしいと、心から願っていた。アシュフォード軍の武力を恐れているからではない。この後に訪れるであろう、引き返せない凄惨な未来が分かっているからだ。一度でも血が流れてしまえば、平穏への道(和解)は何百倍も骨が折れるものになる。
「……死傷者はどれくらいだ?」カイが目を開けて尋ねた。
「僅かよ」
「俺たちの側は?」
「最小限に抑えられているわ」
カイは深く頷いた。「……なら、あいつら(敵軍)の方は?」
「数名が負傷し、何人かが意識を失っているわね」
カイの表情はどこまでも冷静なままだった。「よし、上出来だ」
ユイが彼を見た。「上出来、ですか?」
「全員が生きてる。それが何よりも重要な事実だからな」彼は再び戦場を睨み据えた。
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その時、カイはある異変に気づいた。戦闘は収まるどころか、むしろ激化していた。アシュフォードの別動隊は、なおも強硬に進軍を続けようとしている。
カイの目が鋭く細められた。「……あいつら、まだ押してくる気か」
ユイが頷いた。「ええ、そのようね」
カイは重いため息をもらした。「……忠告はしたはずなんだがな」彼は国境へと続く街道を見つめた。「どうしても戦争(喧嘩)をやりたいって言うんなら――」彼の声は酷く低く、静かだった。「――俺の日常の真っ直ぐ目の前を、その舞台に選ぶべきじゃなかったのさ」
ユイが彼を見つめる。
カイは身体を巡らせた。「……塔の連中に伝えてくれ」
「迎撃の準備を、ですか?」
「いや」彼は力強い足取りで歩み出した。「――俺が、直接行ってくる」
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国王の苦悩
アシュフォード軍の前線司令テントの内部では、また新たな伝令兵がなだれ込んでいた。「――国王陛下!!」
エイモンが振り返る。「何があった!」
「西方の防衛陣地、未だに激しい交戦(戦闘状態)が続いております!」
ソフィアが即座に詰め寄った。「死傷者の数は!?」
「数名が負傷しております!」
「死者は!?」
伝令兵は激しく躊躇した。「……未だ、一人も確認されておりません」
ソフィアの顔に驚愕の色が浮かぶ。「一人も、いないの?」
「はっ、団長!」
エイモンは手元の戦術地図を睨み据えた。「……エリュシオンの戦力は、一体どれほど強大なのだ」
伝令兵は生唾を飲み込んだ。「我々の予測を……遥かに上回る規格外(異常)です」
一人の将軍が一歩前に出た。「どれほど規格外なのだ」
伝令兵は本気で居心地の悪そうな表情を浮かべた。「奴らは……我が方の兵士を一人も殺すことなく、完璧にホールド(制圧)し続けているのです……」
ソフィアの表情が変わった。「あいつら、意図的に『手加減』しているのよ!」
将軍が即座に猛反論した。「あるいは、『その気にさえなれば、いつでも我々を皆殺しにできる』という絶対的な武力の誇示かもしれんぞ!」
ソフィアは彼を鋭い目で睨み据えた。「現場の報告は、そんな内容ではないはずですわ!」
将軍は地図を指差した。「現に奴らは、我が防衛線へと肉薄(接近)してきたのだ!」
ソフィアは断固として首を振った。「私たちが、最初に魔導砲を撃った(ファースト・ショットを放った)のよ!」
沈黙。
将軍はバツが悪そうに視線を逸らした。
エイモンは己の額を押さえた。事態のコントロールが、完全に彼の手から滑り落ちようとしていた。
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そこへ、新たな書状が届けられた。今回のものには、これみよがしに聖教会の公式な印章(最高認証コード)が捺されていた。
エイモンがそれを開いた瞬間、彼の表情が一変する。
ソフィアが彼の表情の変化を注視した。「……何と記載されているのですか?」
エイモンはゆっくりと、冷酷にその言葉を紡いだ。「『聖教会はね、エリュシオンの軍勢が我がアシュフォードの防衛陣地を完全に圧倒(蹂躙)したという確実な報告を受理した』……とさ」
ソフィアが眉をひそめた。「そんなの、当然の結果ですわ」
エイモンは言葉を重ねた。「奴らは、その圧倒的な武力(格差)そのものを『有罪の確証』へとすり替えたのだよ」
「確証? 一体何の確証ですか!?」
エイモンは彼女を真っ直ぐに見つめた。「魔王カイという存在が、自らの恐れていた通りの『凶悪な化け物』であるという証明さ」
ソフィアは息を呑んだ。「奴ら、この期に及んでこの惨劇を政治利用しているのね……!」
エイモンが深く頷いた。「報告書にはね、『これほどの軽微な犠牲で我が神聖な聖騎士団を容易に無力化しうる圧倒的な戦力は、もはや純粋な防衛とは見なせない』と断じられている」
ソフィアの表情が峻烈なものに変わる。「……あまりにも、不条理だわ」
エイモンもそれに異論はなかった。しかし、聖教会はすでに自らの描いた都合の良い結論へと完璧に行き着いていた。カイの戦力が強大であればあるほど、魔王カイの危険性はかさ増しされ、魔王が危険であればあるほど、教会のすべての軍事行動(開戦)は、これ以上ないほど正当化されるのだ。
それは完璧な、終わりのない不条理の円だった。
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魔王の直立
激しい怒号が響き渡っていた西方の戦場が、不意に、水を打ったように静まり返った。双方が動きを止める。アシュフォードの兵士たちは、前方の街道の先を恐怖の目で見つめていた。何かが、こちらに向かって歩み寄ってきている。――たった一人の、男の人影。
――カイ。
彼はただ一人、平原の真ん中を歩いていた。後方に軍勢を従えているわけでもない。得物を抜いている様子もなく、不気味なオーラすらも一切発していない。ただの、カイ。
エリュシオンの防衛兵たちは即座に彼が「魔王」であると認識した。「――カイ様!」
カイが静かに片手を掲げると、彼らの動きがピタリと止まった。
アシュフォードの兵士たちは、本能的な恐怖から己の得物をこれ以上ないほど固く握り締めた。
一人の聖騎士が吼えるように叫んだ。「――それ以上、近づくな!!」
カイは歩みを止めなかった。騎士が剣を突き出す。そこでようやく、カイの足が止まった。彼は男の目を冷徹に見つめた。「……俺はな、お前たちと戦いに(殺し合いに)来たわけじゃない」
騎士は得物を下ろさなかった。「ならばなぜ、ここへ姿を現した!」
カイは周囲を見渡した。血を流して這いつくばる兵士たち。大破した防衛のバリケード。エリュシオンの仲間たち。聖騎士の連隊。そして、無残にひび割れたこの平原。
彼は重いため息をもらした。「なぜなら、ここは俺の領地だからな」その声は完璧にコントロールされていたが、絶対的な強さがあった。「――そして俺は、自分の日常の真っ直ぐ目の前を、戦争の舞台に選ばれるのが大嫌いなんだよ」
聖騎士は恐怖のあまり硬直した。
カイは大軍勢の布陣を睨み据えた。「お前たちは内偵調査をしたいと言った。真実を知りたいと言った。平和を望んでいると言った」彼は一呼吸を置いた。「――そう言っておきながら、お前たちが最初に最初の引き金を引いた(攻撃を仕掛けてきた)んだ」
誰も答えられなかった。
カイの顔から笑みの欠片が掻き消え、その眼光が凍りつくほど鋭く細められた。「……最後の、最後のチャンスをやる」
平原がしんと静まり返る。
「負傷者を連れろ。兵士を引かせろ。そして――さっさと自分たちの国へ引き揚げろ」
一人の強硬な聖騎士が叫び返した。「もし、我らがその要求を拒むと言ったらどうする!」
カイは彼を凝視した。その瞬間、彼の口元に、不敵な、微かな笑みが浮かび上がった。「――その時は、俺が直接お前たちの真っ直ぐ真ん中へ行ってやるさ」
彼は背後のエリュシオンの防衛兵たちを振り返った。「……誰も、俺の後に続くことは許さん」
セナの声が通信結晶の向こうから響いた。「……かしこまりました、我が主」
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カイは再び、アシュフォードの二万五千の大軍勢に向かって歩みを再開した。――ただ一人、孤独に。
エリュシオンの仲間たちは、彼の背中が平原の闇の先へと消えていく姿をじっと見つめていた。アシュフォードの兵士たちは、ただ一人の魔王が自らの喉元に向かって真っ直ぐに肉薄してくるその恐怖に、息を呑んで凝視していた。
そして彼らの遥か後方、司令テントから馬を走らせてきたソフィアが、今まさに現場へと到着した。彼女の目に映ったのは、荒涼とした戦場をただ一人で進軍してくるあの男の佇まい。その瞬間、彼女の心臓が狂おしく締め付けられた。
あの感覚が、三度濁流のように這い上がってくる。あの、絶対に不可能であるはずの強烈な既視感。自分はかつて、これと全く同じ瞬間を、この目で直接目撃したことがあるという絶対的な確信。しかし――それが一体いつ、どこの世界での出来事だったのか、どうしても思い出すことができない。
カイは歩みを止めなかった。最初の無用な衝突は終わった。しかし、破滅へのシナリオ(戦争)はまだ終わってはいない。そして今、アシュフォードの大軍勢が自らの日常に牙を剥いて以来初めて、魔王カイ自身が、彼らの境界線(一線)の内側へと、取り返しのつかない第一歩を踏み出そうとしていた。




