第109話 - 第2幕:教会の聖戦 第10部 — 平和への最後の試み
囚われの記憶
白旗を掲げた伝令兵はアシュフォードの軍勢へと引き返し、カイの鋭い監視の目の前で、巨大な兵士の隊列の中へと掻き消えていった。
数秒の間、誰も口を開かなかった。エリュシオン教区は防衛線の後ろに控えたままだ。武器は抜かれず、魔術も放たれていなかったが、場に漂う空気は張り詰めていた――暴力的な衝突が今まさに起きようとしているかのように。
カイはゆっくりと振り返った。「中に入ろう」
セナが彼を見つめた。「カイ様」
「ん?」
「もし、エイモン国王が話し合いを拒絶した場合は、どうされるおつもりですか?」
カイはその問いを少し考えてから、「あいつが俺の顔を見飽きるまで、ここに立ち続けるさ」と答えた。
ネロがニヤリと笑った。「実に見事な戦略ですね」
カイは彼を横目で見た。「冗談で言ったんだがな」
「分かっていますよ」
ヴァドスが静かに吹き出し、クロエは呆れたように首を振った。セナの表情すらも、ほんの僅かに和らいでいた。
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カイは塔の方へ向き直ったが、もう一歩を踏み出す前に、アシュフォードの陣営から大声が響き渡った。「魔王カイ殿!」
彼は足を止め、振り返った。また別の一団が近づいてきている。今度は単独の伝令兵ではない。白旗を掲げた数人の聖騎士たちであり、その後ろにはラオディキア聖教会の神官たちが静かに歩を進めていた。
使節団の真っ直ぐ中心に進むその姿に、カイの目が僅かに細められた。
――ソフィア。
一瞬、彼はただ呆然と彼女を見つめていた。その表情こそ冷静なままだったが、彼の頭脳の内側では――
(おいおい。あいつ、現実世界でも未だにラオディキア聖教会の聖騎士団長をやってるのかよ)
彼は彼女が近づいてくる様子をじっと見つめた。
そしてどういうわけか――このシチュエーションには、妙な既視感があった。
胸を焦がすような感覚が這い上がってくる。教会、アシュフォード、そして大軍勢の最先頭に直立するソフィア。カイの目がゆっくりと、鋭く細められた。
(まさか、俺……前にもこれと全く同じことを経験してるのか?)
その瞬間、忘却の彼方にあった記憶が濁流のように脳裏に蘇った。
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記憶の檻
荒涼とした戦場。異なる空。異なる世界。
ソフィアはカイの真向かいに立ち、彼女の聖騎士たちが戦場を幾重にも包囲していた。ラオディキア聖教会は彼を「人類の敵」と公式に認定し、自らこそが世界を守っているのだと盲信し、ソフィアもまたそれが正しい大義名分(正義)だと信じて疑わなかった。
カイは彼女と剣を交えた時のことを鮮明に思い出していた。彼女の鋭い剣、その断固たる決意、決して引き揚げようとはしなかった不屈の佇まい。最終的に彼は彼女を打倒した――彼女が弱かったからではない。ただ、彼の方が圧倒的に強すぎたからだ。
記憶の映像は一瞬で霧散し、カイは現実の平原へと意識を引き戻した。彼の視線がソフィアの上にカチリと固定される。
(……なるほどな。そういうことか。ようやく思い出してきたぞ)
彼は小さく、ため息をもらした。
(なんで俺、これっぽっちも驚いてないんだろな?)
彼の口元に、どこか自嘲気味な、楽しげな笑みが浮かび上がった。あの『記憶の檻』の仮想世界の中ですら、ラオディキア聖教会とアシュフォードはハッキングされて俺に戦争を吹っ掛けてきたんだ。そして今、現実でも全く同じシナリオが繰り返されている。
カイは近づいてくる使節団を見据えた。
世界は違う。シチュエーションも違う。けれど、同じ教会、同じ王国、同じ型。
彼は声を上げて笑い出しそうになった。人間という生き物はね、自らが歴史を繰り返しているという自覚すら一切ないままに、これ以上ないほど見事に過去を模倣する才能を持っているらしい。
カイの表情は何事もなかったかのように元の静けさに戻り、彼は静かに相手の出方を待った。
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直接の対峙
ソフィアは数メートルの距離で足を止め、背後の神官や聖騎士たちも無言で立ち尽くした。
カイは彼女を凝視し、彼女も見つめ返した。張り詰めた沈黙(一拍)の後、彼は静かにその名を呼んだ。「……ソフィア」
その瞬間、彼女の目が驚愕に大きく見開かれた。「……貴方、なぜ私の名前を?」
カイは首を傾げた。「聖騎士団長ソフィアだろ」
ソフィアの表情が、一気に警戒を孕んだものへと変質した。「……私たちは、これまでにどこかで会ったことがあるかしら?」
カイは一瞬の間を置いた。嘘を吐くことも、不都合な真実をありのまま話すこともできたが、彼はそのどちらでもない別の角度を選んだ。「噂はかねがね聞いてるよ」
ソフィアは彼を鋭い目で見つめた。彼の声の何かが、どうしても胸に引っかかる――それが脅迫的に響いたからではない。あまりにも、説明のつかない妙な既視感(親しみ)を覚えたからだ。自分は魔王カイという男に一度も会ったことはない。そのはずだ。
少なくとも、彼女自身はそう信じていた。
それなのに、彼を見つめていると、彼女の脳細胞のどこかがその前提を全力で否定しようと叫んでいた。――なぜ、この男を知っているような気がするの?
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カイは彼女の動揺を察知したが、敢えてそこには触れなかった。代わりに、彼は背後の神官たちに視線を向けた。「……また、俺のところへ内偵(調査)にでも来たのか?」
一人の神官が一歩前に出た。「我々はラオディキア聖教会の公式な使節として、ここへ派遣されたのだ」
カイは頷いた。「それは、俺の質問への答えになってねえよ」
神官が不快そうに眉をひそめた。「我々は、確実な『答え』を要求しているのだ!」
カイは重いため息をもらした。「答えなら、こないだ十分渡したはずだぞ」
「そんな言い訳、我々が信じると思うか!」
カイは彼を冷徹に見つめた。「どうやら、信じるつもりは最初からないみたいだな」
ソフィアが神官を横目で窘めた。「……神官長」
神官は口を噤んだ。
彼女はカイに向き直った。「私たちは、ここで全面戦争の引き金を引くために来たわけではないわ」
カイは片方の眉を上げ、背後に控える二万五千の大軍勢を顎で指し示した。「そいつは良かった。だって、話し合いを始めるためのシチュエーションにしては、随分と物騒すぎるからな」
ソフィアはその視線を追った。二万五千の兵士たちが直立しているその事実は、どんな奇麗事(言葉)をもってしても覆せない絶対的な現実だった。
「何が起きたのか、私たちは真実を理解したいのよ」
カイが頷く。「それは、俺だって同じさ」
「ならば、大人しく要求に応じなさい」
「協力なら、すでに十分してるはずだぞ」
ソフィアの表情が硬くなる。「貴方の配下たちが、教会の関係者を急襲したという容疑がかかっているのよ」
「俺の仲間はね、そんな真似は絶対にやってねえと否定したよ」
「それは無実の証明にはならないわ」
「ああ」カイの声はどこまでも平穏を保っていたが、断固とした強さがあった。「だがな、そいつはあいつらが犯人だという『有罪の証明』にもならんのと同じさ」
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神官が再び強硬に前に出た。「我々には、確実な『自白』があるのだぞ!」
カイが彼を見た。「あの神官の自白のことか?」
「そうだ!」
「あの神官は、俺の配下のうちの一人に命令されたと言ったんだな?」
「その通りだ!」
カイはゆっくりと頷いた。「――それで、どの配下なのかは特定できなかった、と」
神官の表情が険しくなる。「だからといって、あの自白が嘘だという証明にはならん!」
カイはソフィアを見つめた。「あいつ、本当に犯人の姿を肉眼で見たのか?」
ソフィアは激しく躊躇した。「……いいえ、見ていないわ」
「名前は名乗られたのか?」
「いいえ」
「書状は渡されたか?」
「いいえ……」
カイは深く頷いた。「だったらな、お前たちには一体何が残されてるって言うんだ?」
静寂。
神官が再び怒号を上げようと口を開いたが、カイはその前に冷徹に言葉を畳み掛けた。「どこの誰とも思い出せない一人の人間の供述だけで、俺の配下の誰かが犯人に仕立て上げられている。名前もなければ、顔も見ておらず、証拠の書類すらもない。それなのに、俺に大切な仲間を差し出せと言い放っている」
カイの声は完璧にコントロールされていた。しかしその裏にある絶対的なメッセージは、これ以上ないほど明白だった。彼は決して愚かでも、恐怖に駆られているわけでもない。何者かが教会側に与えた都合の良い「物語」に、自ら操られるつもりなど毛頭ないのだ。
ソフィアはそれに気づいていた。(……なんて冷静な男なの)普通、二万五千もの大軍勢を喉元に突きつけられた統治者はね、激昂して暴走するか、あるいは絶望して取り乱すものなのだ。しかしカイはそのどちらでもなかった。彼は、ただ冷徹にこの盤面の裏を思考していた。そしてその静けさこそが、いかなる軍勢よりも、何倍も彼女を戦慄させるのだった。
不条理の証明
もう一人の神官が強硬に前に出た。「貴方の配下の誰も関与していないと、本気で我々に信じろと言うのか!」
カイは彼を見た。「ああ、そうだ」
「これほど幾度も急襲が繰り返されているというのにか!」
「ああ」
「我が教会の警備兵が一団ごと全滅させられたのだぞ!」
「知ってるさ」
「神官自身が、貴方の組織の内部の人間から直接命令を受領したと自白しているのだぞ!」
「何度も言わせるな。その通りだ」
神官の表情がどす黒く曇った。「随分と、都合の良い言い訳を並べてくれるじゃないか」
カイはパチクリと目を瞬かせた。「都合が良い、だと?」彼は背後の大軍勢を見渡した。「お前たちは二万五千もの人間を俺の目の前に引き連れてやってきた。それなのに俺はここに立ち、塔の内部の民は大人しく待ち、誰一人としてお前たちを先制攻撃していない」彼は肩をすくめた。「この状況のどこがどう都合が良いのか、俺にはさっぱり分からんね」
ネロが口元をそっと手で覆い、ヴァドスが彼を横目で見た。
ネロが静かに囁いた。「……カイ様、これを楽しんでいますね」
カイにはその声が届いていた。「楽しんでねえよ」
ネロがニヤリと笑う。「いいえ、楽しんでいます」
カイは彼を無視した。
ソフィアは彼らのそのやり取りを凝視していた。どういうわけか、そんな些細な掛け合いすらも、彼女の胸の奥に奇妙な違和感を抱かせる。彼女の断片的な既視感(夢)の中に現れるあの男は、決してこんな人外の化け物たちを身内に引き連れてはいなかったはずなのだ。それなのにカイは、周辺の国々を恐怖に陥れるほどの圧倒的な存在たちに囲まれながら、恐ろしいほど自然にそこに溶け込んでいた。
彼女の視線は、彼から動かなかった。あの説明のつかない奇妙な感覚が、再び濁流のように這い上がってくる。彼の顔の輪郭や、その具体的な表情を知っているわけではない。もっと深層にある、魂の『型』のようなもの。彼の直立する佇まい、告発を突きつけられても即座に暴走(激昂)することなく冷徹に裏を思考するその眼光。そして、こちらが言葉を紡ぎ終えるよりも前の段階で、教会の在り方(行動パターン)を完璧にハッキングしているかのようなその佇まい。
手綱を握る彼女の手が、狂おしく締め付けられた。――なぜ、私はこの男を知っているの?
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カイとソフィア
カイは、ソフィアが自分をじっと凝視していることに気づいた。「……随分と静かだな」
「考え事をしていたわ」
「何をだ?」
彼女は激しく躊躇したが、ついに口を開いた。「……私たちは、本当にこれまで一度も会ったことがないかしら?」
カイは彼女を見つめた。いつかその質問が投げかけられるだろうと、最初から分かっていた。彼は今でも鮮明に思い出せる。あの世界で彼女と激しく剣を交えたこと、自分には決して勝てないと悟った瞬間の彼女のあの絶望的な表情を。しかし、目の前にいる現実のソフィアは、そんな記憶など一寸たりとも持ち合わせてはいない。彼女はただ、自身の内に眠る説明のつかない既視感の正体を、必死にハッキングしようとしているだけなのだ。
カイは彼女に向かって、微かに、優しく微笑みかけた。「――この世界では、ないな」
ソフィアの身体がピキリと凍りついた。「……え?」
カイは自らの言葉選びの過ちに気づき、一瞬の間を置いてから、大人しくそれを訂正した。「いや……つまり、今日より前には会ったことがない、という意味だ」
ソフィアはなおも彼を凝視し続けた。その真意を問い詰めようと彼女が口を開きかけたその瞬間、一人の神官が強硬に二人の間に割り込んだ。「――ソフィア団長」
彼女が振り返る。「何ですか」
「これ以上、不毛な時間を費やすべきではありません」
ソフィアが不快そうに眉をひそめた。「時間を費やしてなどいません」
「告発の大義名分(容疑)は、すでに完全に確立されているのです」
カイの目が、鋭く細められた。(……出たな。今のセリフだ)『確立(でっち上げ)されている』。調査されたわけでもない。検証が取れたわけでもない。ただ、そうなるように人工的に製造(確立)されたのだ。
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神官が言葉を重ねる間、カイは終始、冷徹に沈黙を保った。「聖教会はね、魔王カイの組織に絶対的な責任があると確信しているのだよ」
カイが彼を見た。「――そしてお前たちは、俺の言い分(事実)を聞くよりも前の段階で、すでにその結論を盲信しているわけだ」
神官は答えなかった。
カイはゆっくりと頷いた。「なら、これは平和的な使節団(話し合い)なんかじゃねえな」
ソフィアの表情が変わった。「魔王カイ殿――」
「自分たちのでっち上げた嘘に、俺を無理やり同意させるための不条理な尋問だ」
神官の顔が怒りで赤くなった。「我々は貴方に、罪を犯した身内を差し出せと言っているのだ!」
カイは彼を真っ直ぐに見据えた。「だから、俺の仲間は誰もそんな真似はやってねえと言ったんだよ」
「ならば、それを証明してみせろ!」
カイは彼を凝視した。「……どうやって?」
神官は言葉を詰まらせ、激しく躊躇した。
「やってないっていう『悪魔の証明』を、一体全体どうやって俺にしろって言うんだ?」
使節団の間に、これ以上ないほど重苦しい静寂が降りた。
カイは重いため息をもらした。「……やっぱりな。そんなことだろうと思ったよ」
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彼は隣のユイへと僅かに視線を巡らせた。彼女はこの対峙の間、終始、冷徹に沈黙を保ったまま、その瑞々しい瞳であらゆる不穏な動き(ハッキング)を網羅的に追跡していた。
(ユイ)
【念話通信】
『何かしら、我が主?』
『連中の動きを、引き続き徹底的に内偵しておいてくれ』
『――すでに、完了しております』
カイは再びソフィアに向き直った。彼は先制攻撃を仕掛けるつもりもなければ、聖教会を威嚇するつもりも、確証なき言いがかりに屈して仲間を引き渡すつもりも毛頭なかった。しかし、彼はある一つの本質を、完璧に理解し始めていた。
聖教会はね、最初から真実(答え)なんて探してはいないのだ。彼らが求めているのは、自らの抱く疑惑の『追認』だけ。そして、壁の中に潜む裏切り者(黒幕)の手によって、彼らはすでに『魔王カイは黒(有罪)だ』と完璧にハッキングされているのだ。
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最後の要請
ソフィアが、ついに一歩前に踏み出した。「……魔王カイ殿」
カイが彼女を見た。「何だ?」
「聖教会が、エリュシオン教区の内部に対する『内偵調査』をこのまま続行することを、許可(承認)してくれますか?」
カイはその要求を少しの間思考した。「……期間はどれくらいだ?」
ソフィアは僅かに言い淀んだ。「……すべての真実(真犯人)が、完全に判明するその瞬間までよ」
カイは深く頷いた。「妥当な、要求だな」
神官たちは、そのあまりにあっさりとした快諾に驚愕のあまり目を丸くした。
「――ただし、条件がある」カイは言葉を重ねた。
ソフィアは静かに耳を傾けた。
「市井の民を傷つけるな。立ち入り禁止区域( restricted areas )に無理やり押し入るな。俺の仲間を脅迫するな。そして、自分たちの気に入らない回答が返ってきたからって、そいつを勝手に罪人扱い(ホールド)するような真似は絶対に許さん」
ソフィアはゆっくりと頷いた。「……合意よ」
カイは神官たちを見据えた。「だったら、話し合いを続けようじゃないか」
一人の神官が即座に猛反論した。「ソフィア団長! 我々がこんな魔王と交渉するなど不可能です――」
ソフィアが冷酷に片手を掲げた。「……そこまでです、神官長」
神官は口を噤み、押し黙った。
彼女は再びカイを見つめた。「……感謝します」
カイが頷く。その一瞬だけ、ソフィアの峻烈な表情が、ほんの僅かに和らいだように見えた。彼女がカイを見つめたその刹那、あの説明のつかない不条理な既視感(親しみ)が、再び彼女を貫いた。――温かいような、胸が締め付けられるほど切ないような、記憶のどこにも存在しないはずの、大切な誰かの残像。彼女には、それが何なのか全く理解できなかった。
カイはその動揺を完全に見逃さず、彼女の目をじっと観察した。(……あいつ、本当に何も覚えてねえんだな)
その事実(確信)は、どういうわけか不思議と彼の胸を安心させた。彼は、過去の因縁を現実の彼女に無理やり押し付けたいなどとは願っていなかった。これが本物の現実世界であるならば、ソフィアには彼女自身の新しい人生を、何にも縛られずに生きる正当な権利があるはずだからだ。
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カイが一歩、後ろに下がった。「――こちらからの先制攻撃は一切しない。お前たちも、その理性を保ち続けることね」
ソフィアが頷いた。「私も、その意見に同意するわ」
カイは巨塔の方へ向き直った。「なら、まだ引き返せるチャンスはあるってことさ」
使使団は、前線陣地へと引き揚げるための支度を開始した。神官たちは未だに激しい不満をその顔に滲ませ、聖騎士たちは殺気立った様子で手綱を握り締めていたが、もはや再び得物に手をかける無謀な者は一人もいなかった。
今この時、平原の上には、薄氷の如き平穏が確かに維持されていた。――本当に、首の皮一枚の平穏が。
カイは去っていくソフィアの背中を、深い思索の色を湛えた眼光で見送っていた。同じ教会。同じ王国。同じ型の不条理な告発。――いや、これは本当に、あの『記憶の檻』のシナリオと全く同じなのか?
彼の脳裏に、再びあの仮想世界の光景が鮮明にフラッシュバックした。凄惨な死闘、ソフィア、聖教会、そして、内側からの完璧なハッキング(誘導)。
カイは静かに、重いため息をもらした。
(……まったく。なんで俺、これっぽっちも驚いてないんだろな?)
彼は隣のユイを見つめた。「……あの結晶の件、何かが決定的に狂い始めてるな」
ユイが頷いた。「ええ、完全に同意するわ」
カイは去っていく使節団の闇を見つめ直した。「だが、この盤面を裏から動かしている真犯人の発生源だけは、未だに見当がつかん」
ユイは沈黙を保ち、他の仲間たちも静黙を守り続けた。
アシュフォードの二万五千の大軍勢は、その場から微動だにせず布陣を維持していた。エリュシオン教区もまた、完全な防衛陣地を敷いたまま静まり返っている。聖教会は未だにカイが仕組んだのだと盲信し、ソフィア自身、なぜ自分の目の前に直立するあの男が、まるで「前世からすべてを共に生きてきた大切な誰か」であるかのような強烈な既視感を放っているのか、その理由を説明できずにいた。
しかし、双方は未だに手を下してはいなかった。――まだ、今は。
破滅(全面戦争)へ至るその一歩手前で、平和への重々しい扉は、ほんの僅かな隙間を残して、未だに開け放たれていた。




