第108話 - 第2幕:教会の聖戦 第9部 — アッシュフォードの進軍
進軍へのカウントダウン
三日後、アシュフォードの西方城門が重々しく開かれた。地を這うような、数千人もの行軍の足音が平原を駆け抜けていく。
――ズシン。ズシン。ズシン。
二万名もの兵士たちが、王国の公式な旗印のもとを進軍していた。彼らの鎧は朝の光を撥ね返し、槍の林が肩に担がれ、腰には剣が下がっている。魔導砲を積んだ重重しい輜重車が陣形の隙間を縫って動き、後方には膨大な補給キャラバンが従っていた。
そしてその軍勢の真っ直ぐ中心には、ラオディキア聖教会の旗を掲げた五千名もの聖騎士たちが布陣していた。彼らの鎧は、一般の兵士のそれとは全く一線を画していた。白銀。神聖なエンチャント(加護)によって幾重にも強化された、眩い白。騎士の誰もが、教会によって祝福を授けられた神聖な得物を携えていた。
布陣の最先頭を進むのは、エイモン国王。その真横には数人の将軍たちが控え、ソフィアは彼らの僅かに後ろから馬を走らせていた。
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彼女は、眼前に広がる圧倒的な大軍勢を見渡した。二万五千名。彼女はこれまでに何度も聖騎士団を率いたことがあった。魔物とも戦い、異国の軍勢とも刃を交えてきた。しかし、今回ばかりは決定的に違っていた。この軍勢はね、従来の戦場に向かって進軍しているのではない。これは、完全に機能している一つの「文明(街)」に向かって動いているのだ。何千人もの一般の民が暮らす塔。自分たちが本当に敵同士であるべきなのかすら、未だに理解できていない人々に向けて。
ソフィアは手綱を握る手に力を込めた。「……本当に、進軍するのですね」
エイモンにその声が届いた。「我々は、直接の対峙に向けて動いているだけだ」
ソフィアが彼を見た。「それは、随分と奇麗な表現(言葉選び)ですね」
エイモンは答えなかった。
彼女は言葉を重ねた。「もし、カイがこちらから仕掛けてこなかったなら――」
「奴は仕掛けてこんさ」
ソフィアの目がすっと細められた。「随分と、確信(確信)を持っていらっしゃるのですね」
エイモンは前方の平原を睨み据えた。「届いたすべての報告書を精査したからな」彼は一呼吸を置いた。「――そのどれをめくっても、全く辻褄が合わんのだよ」
ソフィアが深く頷いた。「その通りです」
「ならばなぜ、我々は進軍している?」
エイモンの表情に、濃い疲労の影が滲み出た。「なぜなら……何者かが、我に『安全な選択肢(逃げ道)』を絶対に与えないよう、完璧にハッキングしているからさ」
ソフィアは口を噤んだ。それが、あまりにも残酷な真実だった。もし彼が報告を黙殺し、後からカイが急襲を仕掛けてきたなら、アシュフォードは『無力(静観)』の罪を全同盟から告発される。逆に、軍を動かした後にカイが牙を剥けば、王国は『ただ自衛のために剣を抜いた』と主張できる。そして、もし今ここで進軍を凍結すれば、聖教会は彼を『アシュフォードの安全保障を見捨てた裏切り者』として弾劾するだろう。
首謀者は、すべての道が最終的に「全面戦争(衝突)」へと行き着くような、完璧な不条理を製造したのだ。
エイモンは遠い地平線を見つめた。「軍の移動(移動)をそのまま続けさせろ」
ソフィアが頷いた。「ただし、こちらからの先制攻撃は一切認めません」
「分かっている」
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エリュシオン教区
最初の斥候が到着したのは、正午前のことだった。彼らは訓練された兵士ではなかった。この領地を拠点とする冒険者たちだ。彼らは数日間の間、西方の街道を絶え間なく監視し続けていた。
一人の斥候が、息を切らせてエリュシオン教区のメインエントランスへと駆け込んできた。「――カイ様、カイ様!」
一階層に立っていたカイが振り返る。「ん? 何だ?」
斥候は肩で激しく息をしながら、何とか言葉を絞り出した。「奴らが……動きました!」
カイの表情が、一気に真剣なものへと切り替わった。「誰がだ?」
「アシュフォードです」
ホールが一瞬にして、しんと静まり返った。
斥候が生唾を飲み込んだ。「……軍勢が、迫っています」
カイは彼を凝視した。「規模はどれくらいだ?」
斥候は激しく躊躇し、声を震わせた。「正規兵……二万名です」
群衆の間に、瞬く間にどよめきが広がっていった。
カイの表情はどこまでも冷静なままだった。「――聖教会(聖騎士団)の方は?」
「五千名、です」
静寂。二万五千。その圧倒的な数値が、ホールの空気の中に重くのしかかった。
カイは隣のユイを振り返った。彼女の頭脳は、すでに水面下で迎撃の演算を開始していた。「……行軍の距離(距離)は?」
「彼らの現在のペースから逆算すると、この塔へ到達するまで、およそ『二日間』といったところね」
カイは深く頷いた。「二日間、か」
周囲の人々が慌てて囁き合い始めた。ある者は恐怖に顔を引きつらせ、ある者は出口の方向へと慌てて視線を巡らせていた。
カイが静かに片手を掲げた。ホールが水を打ったように静まり返る。「――誰もパニックになるな」その声は決して大声ではなかった。しかし、その必要はなかった。「奴らが進軍してくることくらい、最初から分かっていたことだろ」
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一人の冒険者が、恐怖を押し殺して一歩前に出た。「カイ様……」
カイが彼を見た。
「俺たちは、あの軍勢と戦うのですか?」
カイは静かに首を振った。「あいつらが最初に攻撃を仕掛けてこない限りは、戦わんよ」
冒険者は困惑した表情を浮かべた。「けれど……相手は二万五千の大軍ですよ?」
「分かってるさ」
「俺たちの方が、圧倒的に数が少ないのに……」
カイはホールに集まる民を見渡した。「誰かが俺たちの目の前に軍勢を引き連れてやってきたからって、それだけの理由でこちらから開戦の引き金を引くような馬鹿な真似はしない」彼は一呼吸を置いた。「話し合いに来たって言うなら、話を聞こう。調査をしたいって言うなら、妥当な範囲(内偵)で協力してやる。――だがな、もし万が一、奴らがこの塔を壊しにかかってきたなら」彼の目が、凍りつくほど冷酷に細められた。「――その時は、この塔の内部にいるすべての民を、俺たちが全力で守り抜いてやるさ」
誰も反論しなかった。
カイはユイに向き直った。「……準備を始めろ」
ユイが頷いた。「規模はどれくらいにしましょう?」
「この塔の日常(日常)を完璧に死守できるだけの規模だ」
彼女の口元に、微かな、美しい笑みが浮かび上がった。「……守るだけで、本当によろしいのですか?」
カイは彼女を真っ直ぐに見据えた。「ああ、守るだけでいい」
ユイが恭しく頷いた。「かしこまりました、我が主」
歪んだ守護
エリュシオン教区の内部は、静かに、しかし確実にその在り方を変えつつあった。劇的な変化ではない。大空から巨大な魔法兵器が出現したわけでも、軍勢が忽然と姿を現したわけでもない。
代わりに、塔に暮らす民たちがそれぞれの日常の裏で、着々と備えを始めていた。冒険者ギルドは防衛隊を組織し、難民たちはより安全な区画へと移動を開始する。商人は店の戸締まりを厳重にし、研究員たちは繊細な魔術素材や重要文献を塔のさらに深層へと運び込んでいた。医療区では治癒陣地が設置され、子供たちは厳重に保護された居住区域へと避難していった。
各区画の喧騒は、時間の経過と共にゆっくりと、静まり返っていった。
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カイは一階層を歩いていた。物資を運ぶ人々。得物を入念に点検する冒険者たち。我が子を固く抱きしめる親たちの姿が、そこにはあった。
彼は一人の怯えた老人(難民)の傍らで足を止めた。老人はひどく胸の動悸を激しくさせていた。
カイが尋ねた。「……気分はどうだ?」
老人は力なく、自嘲気味に笑った。「まるで、二万五千もの人間が自分たちを皆殺しにするために攻めてくるような、そんな気分ですよ」
カイは首を振った。「あいつらはそんな真似はしねえよ」
老人が彼を見つめた。「なぜ言い切れるのですか、カイ様」
カイは微かに微笑んだ。「俺にも分からんよ」
老人がパチクリと目を瞬かせる。
カイは言葉を重ねた。「だがな、誰一人としてお前を傷つけさせやしない。それだけは確実に分かってるさ」
老人の表情が、ゆっくりと和らいでいった。「……ありがとうございます、カイ様」
カイは頷き、再び歩みを進めた。
彼は何人かの子供たちの脇を通り過ぎた。そのうちの一人が、おもちゃの木剣を握りしめていた。カイは彼を見つめた。「戦うつもりか?」
子供は真剣な表情で何度も頷いた。「うん!」
カイはその場にかがみ込んだ。「二万五千の軍勢を相手にか?」
子供は少し考え、それから木剣をゆっくりと下ろした。「……やっぱり、無理かも」
カイはニヤリと笑った。「賢い判断だ」彼は立ち上がった。「戦うのはな、大人たちの役目(仕事)さ」
子供が頷く。
カイは再び歩き出した。どれほど圧倒的な武力を有していようとも、彼にとって最も重要なのはこの日常だった。軍勢を蹂躙することでもない。己の強さを世に知らしめることでもない。自らの屋根の下で生きることを選んでくれた民を、ただ全力で守り抜くこと。
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最高幹部の集結
カイは最高幹部(至高の将軍)たちを招集した。彼らは評議会室の中に集結していた。セナが片側に立ち、その隣にはエルヴァが控えている。ネロは柱に気安く背を預け、アステリアから帰還したヴァドスも席につき、クロエは入り口の近くに静かに佇んでいた。
カイは全員を見据えた。「アシュフォードが進軍を開始した」
セナが頷いた。「ええ、把握しているわ」
「常備兵、二万名」
「聖騎士団、五千名ね」
エルヴァが腕を組んだ。「奴らはこの塔へ到達するつもりよ」
「ああ」
ネロが不敵に笑った。「……全滅させますか?」
カイは彼を冷徹に見つめた。「断る」
ネロの笑みは崩れない。「――やはり、予想通りですね」
カイは全員に向き直った。「こちらからの先制攻撃は一切認めん」
セナが即座に頷いた。「承知いたしました」
「たとえ、奴らがどれほど挑発を仕掛けてこようともな」
「分かっているわ」
「どれほど罵詈雑言を浴びせられようともだ」
「承知しています」
「そして、たとえ奴らがこの俺を脅迫してこようとも、絶対に手は出すな」
ネロがニヤリと笑った。「……それは、少々骨が折れそうですね」
カイは彼を鋭い目で睨み据えた。「ネロ」
「何でしょうか、カイ様?」
「おふざけはやめろ」
ネロは両手を掲げた。「骨が折れそうだと言っただけですよ」
ヴァドスが吹き出し、エルヴァがため息をつき、セナはただただ濃い疲労の色をその顔に滲ませていた。
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カイは言葉を重ねた。「もし奴らが平和的にこの塔へ立ち入るというなら、そのまま通してやれ」
クロエが僅かに眉をひそめた。「……では、もし奴らが力ずくで内部へ押し入ろう(侵略しよう)とした場合は?」
カイは彼女を真っ直ぐに見据えた。「その時は、ただ全力で阻止する」
「一人も、殺さずに(皆殺しにせずに)?」
カイは深く頷いた。「ああ。天地がひっくり返っても、それが絶対に不可避であるという瞬間が訪れない限りはな」
セナはその言葉の裏にある戦術を瞬時に理解した。「――完全な、防衛陣地ね」
「その通りだ」
カイは一人一人の目を冷徹に見つめた。「俺はな、誰一人として死なせたくないんだよ」室内が、しんと静まり返った。カイの表情は真剣そのものだった。「俺たちの身内(民)もな」彼は言葉を区切った。「――そして、あいつら(敵軍)もだ」
ネロの口元の不敵な笑みが、ほんの僅かに色褪せた。彼は本質を察したのだ。カイは今、この最悪の戦争に『勝とう』としているのではない。彼は、自らの手で戦争そのものを『食い止めよう』としているのだ。
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アシュフォードの行軍
軍勢はそのまま前進を続けていた。一日。そして、また一日。兵士たちが西方領地へと近づくにつれ、街道沿いの景色は冷酷に変質していった。辺境の村々は城門を完全に閉ざし、農民たちは家畜を街道から遥か離れた場所へと移動させ、商人たちは自らのキャラバンを放り出して避難していた。中には、丘を登って大軍勢が通過していく凄惨な光景を、怯えながら見下ろしている民の姿もあった。
子供たちが、果てしなく続く兵士の列を小さな指で指し示した。「ねえ、あの人たちどこへ行くの?」
父親が消え入りそうな声で静かに答えた。「……エリュシオン教区だよ、お前」
「どうして?」
父親は激しく躊躇した。「……なぜなら、これからそこで、大きなお不祥事(戦争)が始まるからさ」
子供は困惑した表情を浮かべた。「どうして戦争なんてするの?」
父親は答える言葉を持ち合わせていなかった。そしてそれは、行軍する大半の大人たちにとっても、全く同じことだった。
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波及する動揺
凶報はなおも拡散し続けていた。テオレマ王国は西方へ続くいくつかの主要道路を完全封鎖し、ミラース王国は国境沿いの斥候をかさ増しし、ティアマーン王国は脆弱な沿岸部の集落から民を避難させていた。他の諸王国は完全な中立を宣言し、ある国は使節を派遣し、ある国はただ黙って城門を閉ざした。
誰もこの不条理な盤面に、自ら巻き込まれたい(首を突っ込みたい)などとは願っていなかった。西方同盟の均衡は、今まさに内側から完全にハッキングされ、ひび割れようとしていた。誰かがそれを望んだからではない。ただ、双方が『どっちが本当の事実(真実)を語っているのか』、その前提すら全く見当がつかなくなっていたからだ。
決戦前夜
アシュフォードの軍勢が、最終的な進軍キャンプ(陣地)を構築した。地平線の先には、エリュシオン教区の不気味な姿がはっきりと肉眼で捉えられた。巨塔が夜空を鋭く貫き、その圧倒的な構造物が星々の下でかすかに神聖な光を放っている。
あの内部には何千人もの民が暮らしている。そして今、彼らの喉元に、二万五千名もの兵士たちが完全に牙を剥いて直立していた。
エイモン国王は前線本部の司令テントの外に立ち、その隣にソフィアが並んだ。「……塔が見えますね」
エイモンが深く頷いた。「距離はどれくらいだ?」
「およそ三十キロメートル、といったところです」
エイモンは巨塔を睨み据えた。それは驚くほど平穏にそこに佇んでいた。防衛の軍勢が外に布陣している様子もなく、魔導砲が放たれた形跡もない。不測の襲撃を仕掛けてくる兆候すら皆無。何もかもが、白だった。
ソフィアが低く、声を潜めた。「……奴らは、こちらを先制攻撃する準備などしていません」
エイモンは塔を見つめ続けた。「ああ」
「それが、逆に胸騒ぎがするのです」
「なぜだ?」
「もしカイに本当に開戦の意志(裏切りの意図)があるのだとしたら――」彼女は言葉を区切った。「――我々はもっと早い段階で、それを肌で察知していたはずですから」
エイモンが彼女を見た。「では、奴にその意志がないのだとしたら?」
ソフィアは巨塔を見つめ直した。「なら……何者かが、何の意味(理由)もないままに、二万五千もの人間をこの場所に引きずり出したということになります」
エイモンは答えなかった。冷酷な夜風が、不気味に陣地を駆け抜けていく。
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そこへ、一人の伝令兵が歩み寄ってきた。「国王陛下」
エイモンが振り返る。「何事だ」
「聖教会から、新たな最高命令(指令)が伝送されました」
ソフィアの表情が一変する。「命令? 一体何の内容ですか」
伝令兵はエイモンに厳重に封印された書状を手渡した。彼がそれを開くと、その瞳がページの上を追い、そしてある一点でピタリと止まる。
ソフィアが彼の表情の変化を注視した。「……何と記載されているのですか?」
エイモンはゆっくりと書類を折り畳んだ。「――聖教会は我々にね、一連の急襲事件に関与した『すべての容疑者』を即座に引き渡すよう、魔王カイに要求しろと命じている」
ソフィアの表情が峻烈なものに変わる。「すべての、容疑者ですって?」
エイモンが頷いた。「奴の最高幹部(配下)たちのことさ」
ソフィアはその瞬間に、この命令が持つ致命的な不条理を本質的に理解した。カイはすでに、自分の仲間は無実だと教会側に直接告げている。それなのに教会は、何が何でもそいつらをこちらへ差し出せと理不尽な尋問(要求)をぶつけているのだ。
ソフィアは力なく首を横に振った。「そんな要求、奴が飲むはずがありません」
エイモンは地平線の巨塔を見つめ直した。「ああ、分かっている」
「もしカイが拒絶した場合は、どうされるおつもりですか?」
エイモンは沈黙を保った。ソフィアにはすでに、その残酷な答えが分かっていた。軍勢はここにいる。聖教会は公式に『敵対勢力』と認定した。次の直接の会談(話し合い)こそが、この二万五千の軍勢がそのまま容赦なき「侵略軍」と化すのか――あるいは、ただの最後の警戒(警告)で終わるのか、そのすべての引き金を決定付けるのだ。
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巨塔の頂
カイはエリュシオン教区の最上層――百階層の中央管制室に直立していた。巨大な窓の向こうには、昏い夜景が広がっている。彼の見下ろす先には、アシュフォード軍の前線基地が放つ無数の灯りが、まるで地上に落ちた星々のように不気味に瞬いていた。
カイは無言でそれを見つめ続けた。
隣に立つユイが口を開く。「……奴らの進軍が停止しました」
カイが頷く。「距離は?」
「およそ三十キロメートルね」
カイはしばらく沈黙を保った。「……あいつら、待ってるな」
「何をです?」
「おそらく、黒幕からの次の『指示』をな」
カイは重いため息をもらした。「全くだ」
彼は前線基地の灯りを見つめ直した。「なあ、ユイ。エイモン自身は、本当にこの戦争をやりたがってると思うか?」
ユイは静かに首を振った。「いいえ」
「なぜ言い切れる?」
「奴のこれまでの全ての行政決定を演算(分析)したわ」彼女は一瞬の間を置いた。「彼は、極めて不本意(消極的)な状態にあるわね」
カイが頷いた。「やっぱりな。俺もそう思ってたんだ」
「けれど、聖教会が奴の背後に強烈な圧力をかけ続けているのよ」ユイが言葉を重ねる。
カイの表情が、一気に冷徹なものへと切り替わった。「そこが、俺にはどうしても辻褄が合わねえんだよ」彼は窓に背を向けた。「なんで教会は、そこまで俺たちが犯人だと『確信』を持っちまってんだ?」
ユイは答えなかった。
カイは出口に向かって力強く歩み出した。「――だったら、直接確かめに行くまでだ」
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第一線
翌朝、アシュフォードの軍勢は再び進軍を再開した。兵士たちが前進し、聖騎士たちがその後に続く。エリュシオン教区は終始、静寂を守り続けていた。不測の魔法も放たれず、得物が掲げられることもない。二つの勢力の間の距離が、一歩一歩、確実に削り取られていく。
三十キロメートル。二十。十五。十。そして――五キロメートル。
塔の手前五キロメートルという決定的な位置に達したその瞬間、アシュフォード軍は一斉にその進軍を停止した。聖騎士の連隊が前線に広がり、一人の王国の伝令兵が、公式な「白旗」を掲げてエリュシオン教区の入り口へと真っ直ぐに馬を走らせてきた。
重々しい扉が開き、カイが外へと歩み出た。ユイがその後に続き、セナとネロの二人は数歩後ろに控えていた。
伝令兵はカイの前で馬を止め、下馬すると、静かに頭を下げた。「魔王カイ殿」
カイが彼を見た。「要件を伺おう」
「エイモン国王陛下が、貴方に公式な要求( demands )をお伝えするよう、我を遣わされました」
カイは頷いた。「言ってみろよ」
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伝令兵は封印を解き、公式な口調で読み上げを始めた。「アシュフォード王国、およびラオディキア聖教会の連名による最高命令である――」
カイは静かに耳を傾けた。
「――エリュシオン教区はただちに、一連の聖地および教会関係者への急襲に関与したと断じられる『すべての容疑者』を、我が方に引き渡さねばならん」
静寂。
カイは彼を凝視し、それから彼の背後に広がる圧倒的な大軍勢を見つめた。二万の常備兵、五千の聖騎士。そのすべてが、いつでも突撃できる陣形で直立している。
彼はゆっくりと伝令兵に見返した。「……それだけか?」
伝令兵が頷いた。「はっ」
カイは深いため息をもらした。「……そいつは、もう十分に説明したはずだぞ」
伝令兵が怪訝そうな顔をした。「説明、ですか?」
「俺の仲間はね、そんな真似は絶対にやってねえ、とな」
伝令兵は口を噤んだ。
カイの表情から、完全に平穏の色の欠片が消え去り、かつてないほど不快そうな(苛立った)眼光へと変質していった。「俺はあいつらを尋問した。周辺を徹底的に内偵(調査)した。立ち入り調査にも快く協力した。それなのにあいつらは今、俺が確実に無実だと分かっている大切な仲間を、力ずくで差し出せと言い放っている」
彼は大軍勢を睨み据えた。「――これはもう、調査なんかじゃねえな」
伝令兵は思わず視線を落とした。「……はい」
カイの声が、冷酷に平原に響き渡る。「明確な、言いがかり(告発)だ」
彼は背を向けた。「エイモン国王に伝えるんだな。俺が直接、あいつと『話し合い(尋問)』をしてやる、と」
伝令兵は深く頭を下げた。「……かしこまりました、魔王カイ殿」
彼は馬の手綱を握り締め、大軍勢の方角へと慌てて引き返していった。
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カイはその場に直立したまま、動かなかった。
ユイが彼の横顔を見つめた。「……よく、理性を保ちましたね」
カイは前方の地平線を見つめたまま呟いた。「頭を冷やそうと、努力してる最中(最中)さ」
彼は大きくため息をついた。「だがな……いくら何でも、これ以上付き合ってられるかよ」
彼の背後では、セナが軍勢の推移を冷徹に監視し、ネロは口元に微かな笑みを浮かべ、ヴァドスは聖騎士の陣形を値踏みするように見つめ、クロエは静黙を保っていた。
誰も身じろぎ一つせず、こちらから手を出す者(過ち)は一人もいなかった。二つの絶対的な武力が、平原を挟んでただ冷酷に対峙していた。片側には二万五千の大軍勢。そしてもう片側には、魔王カイが統治する、エリュシオン教区。




