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転生の向こう側 【The Other Side of Reincarnation / Beyond Reincarnation】  作者: ルーク
聖戦

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第107話 - 第2幕:教会の聖戦、第8部 — 動員

 牙を剥くシナリオ


 日の出までに、アシュフォードは西方すべての城門を完全封鎖した。王都の各所に、応戦を告げる軍鼓の轟音が狂おしく鳴り響く。


 ――ドォン。ドォン。ドォン。


 漆黒の音色が建造物の隙間を駆け抜け、兵士たちは殺気気立った様子で軍事拠点へと次々と集結していった。商人は店を放り出してその行軍を凝視し、ラオディキアの白き塔からは警鐘の鐘が乱打され、恐怖に怯える民が流言飛語で通りを埋め尽くしていた。


 何かが決定的に変わってしまった。何が起きたのかを正確に知る者は誰もいなかったが、それが引き返せない致命的な大災厄であることだけは、誰もが肌で感じ取っていた。


-


 王宮軍事司令部


 エイモン国王は、アシュフォード全域が描かれた巨大な戦術地図の前に直立していた。円卓を何人もの将軍たちが取り囲み、その向かい側にはソフィアが立っている。エルリック司教もその場に控えていたが、誰もが泥のように重苦しい表情を浮かべていた。


 一人の将軍が、西方領地の一点を指差した。「エリュシオン教区はね、我々の現在の軍事集結地点から、およそ三日間の行軍距離にあります」


 別の将軍が、地図の上にいくつかのマーカーを冷酷に配置していった。「あの塔の周辺で、絶え間ない物流(動き)が確認されたという確実な報告が入っております」


 ソフィアが即座に鋭い口調で遮った。「物流(動き)とは、具体的に誰の動きですか?」


 将軍が彼女を見た。「冒険者、難民、商人、そして斥候です」


「ならば、それは軍隊の陣形(布陣)ではありませんね」


「……はっ」


 ソフィアは眉をひそめた。「ではなぜ、我々はそれを『軍事行動』であるかのように扱っているのですか?」


 将軍は激しく躊躇した。「なぜなら……魔王カイが水面下で何を準備しているのか、我々には判別がつかないからです」


 ソフィアは戦術地図を睨み据えた。それは彼ら自身にとっても同じことだった。それが、この不条理な盤面の最も本質な問題なのだ。彼らは今、その真意(意図)すら全く理解できていない一人の魔王を相手に、全面戦争の大義名分(準備)を進めているのだ。


-


 エイモン国王は終始、沈黙を守り続けていた。将軍の一人が、ついに重々しく彼を振り返った。「……国王陛下」


 エイモンが顔を上げる。


「我々には、断固たる決断が必要です」室内にしんと静黙が降りた。将軍は言葉を重ねる。「もしカイが本当に我が聖教会への先制攻撃を企てているのだとしたら……奴の軍勢がこのアシュフォードへ到達するのを、指をくわえて大人しく待っているわけにはまいりません」


 ソフィアの表情が峻烈なものに変わる。「奴が本当にそんな真似を企てているという確証(エビデンス)など、我々はまだ何も持っていません!」


 将軍は彼女を厳しい目で見つめた。「ソフィア団長、失礼ながら……貴女はこれ以上、一体どれほどの犠牲(証拠)が積み上がれば納得されるのですか?」


 ソフィアの目が鋭利に光る。「――人工的にでっち上げられたものではない、本物の『事実』よ」


 将軍は言葉を失い、黙り込んだ。


 エイモンは手元の地図を見つめた。エリュシオン教区の場所には、漆黒の駒がぽつんと置かれている。アシュフォードは白。二つの勢力の間の距離が、あるべき姿よりも遥かに狭まり、喉元に突きつけられているかのように思えた。


 エイモンはついに重々しく口を開いた。「……我が軍は、どれほどの兵力を動員できる?」


 将軍たちは顔を見合わせ、一人が答えた。「正規の常備兵、二万名です」


 エイモンの視線は地図から動かない。「……聖教会の方は?」


 ソフィアが答えた。「聖騎士団、五千名です」


 沈黙。二万名の兵士、五千名の聖騎士。合わせて、二万五千名。この地域の均衡(バランス)を、根底から覆してすべてを破滅させるに足る、圧倒的な大軍勢(アーミー)だった。


-


 エイモンはそっと目を閉じた。彼はソフィアから直接告げられた言葉を噛み締めていた。あの記録映像は偽物だった。我が審問官たちは虐殺されてなどいない。カイは一人も殺してはいなかった。


 しかし、また新たな急報が届いた。新たな急襲。新たなエリュシオンの紋様。そして、新たな物理的な証拠。


 今回ばかりは、その紋様は無残に大破した教会の巡礼馬車のすぐ真横に遺されていた。馬車の車軸は、恐ろしいほど鋭利な刃物で一刀のもとに真っ二つに叩き切られており、兵士たちは鎧の隙間を的確に貫く細い傷痕(一撃)によって全滅していた。そしてすぐ近くの木には、エリュシオン教区の紋様が捺された一枚の黒い布が、これみよがしに短剣で突き立てられていたのだ。その紋様自体は本物だった。しかしその黒い布は、教会の貯蔵庫の奥深くに厳重に保管されていたはずの、古い儀式用のバナー(旗)を切り裂いたものだった。


 何者かが、現場に配置(偽装)したのだ。


 そして今、アシュフォードの民は完全に恐怖に怯えきっている。


 エイモンは目を開けた。「……もし軍を動かす(動員する)のだとしたら」


 ソフィアが彼を見た。


「――これだけは、全同盟に向けて明確にしておかねばならん」


 全員が、国王の次の言葉を待った。


「これは、あくまで『防衛戦(デフェンシブ)』である、とな」


 ソフィアが眉をひそめた。


 エイモンは断固とした口調で言葉を重ねた。「我々は、エリュシオン教区を侵略( conquer )するために進軍するのではない」「そこに暮らす民を皆殺しにするために動くのでもない」「魔王カイの首を獲るために剣を抜くのでもない」彼は会議場を見渡した。「――我々は、このアシュフォードの日常を死守するためにのみ、動くのだ」


 一人の将軍が頷いた。「はっ、承知いたしました」


 ソフィアは終始、沈黙を保ったままだった。彼女は身をもって知っていた。純粋な防衛のための軍勢が、いとも容易に容赦なき「侵略軍」へと変貌を遂げてしまうその恐ろしさを。それを引き起こすために必要なのは、たった一つの過ち。たった一度の不測の衝突。たった一人の兵士の死。あるいは、恐怖に駆られた一人の指揮官の独断。――それだけで、すべての理性が泥のように崩壊するのだ。


-


 教会の選択


 数時間後、ラオディキア聖教会の大評議会が再び招集された。場に漂う空気の居心地の悪さは、昨夜のそれを遥かに凌駕していた。


 ソフィアは司教たちの前に直立していた。その隣にはレアが控え、エルリック司教は会議場の後方に静かに佇んでいる。


 一人の司教が、厳重に封印された書状を震える手で掲げた。「……事態は、完全に次の段階(ステップ)へと移行したぞ」


 ソフィアが彼を睨み据えた。「何があったのですか」


 彼は書状を開いた。「西方国境付近にて、またしても教会の巡礼警備兵の一団が忽然と姿を消した(全滅した)」


 レアの表情が一変する。「また、ですか!?」


「そうだ」


「規模はどれくらいですか!」


「兵士、二十名だ」


 レアがその拳を固く握りしめた。「……また、二十名だなんて……!」


 司教が深く頷いた。「そうだ、同じだ」


 ソフィアは後方に佇むエルリックに視線を向けた。彼はゆっくりと、力なく首を横に振った。彼には、ソフィアが今胸の内で感じている悍ましい戦慄が、完璧に理解できていた。


 首謀者の描いた「型(パターン)」が、これ以上ないほど精密に繰り返されている。全く同じ型。教会の関係者が忽然と姿を消す。現場に証拠(紋様)が現れる。すべての容疑がカイへと向かう。そしてまた、新たな異変がでっち上げられる。――そうして次々と積み上がる嘘のすべてが、まるで前の不条理な告発を『現実に起きている絶対的な事実』であるかのように、何倍も信じ込ませやすくしていくのだ。


 波及する敵意


 ソフィアは評議会の方を向いた。「現場の調査は行われたのですか?」


「すでに行われた」


「結果は?」


「やはり、エリュシオンが関与した痕跡(サイン)が残されていた」


 ソフィアの表情が昏く沈んだ。「痕跡(サイン)」彼女はその言葉を繰り返した。「確証(証拠)ではなく、ね」


 司教が彼女を見つめた。「ソフィア団長」


 ソフィアの目が鋭利に光る。「二つを混同しないでいただきたいわ」


 沈黙が流れた。


 すると、別の司教が立ち上がった。「魔王カイが個人的にこれらの襲撃を命じたかどうかにかかわらず、エリュシオン教区が脅威になりつつあるのは事実だ」


 エルリックが不快そうに眉をひそめた。「それは結論ではありません。ただの決めつけ(仮定)です」


「あの塔には何千人もの民が暮らしているのだぞ」


「それがどうしたというのです?」


「強力な個体(人外)をいくつも抱えている」


「ええ」


「そして、魔王カイ自身が『魔王』なのだ」


 エルリックは彼を冷徹に見つめた。「他にも魔王の統治者は存在しますよ」


「今回の魔王は、異質なのだ」


 ソフィアが二人の会話を遮った。「新参者だから、でしょう」彼女は司教たちを見渡した。「人はね、理解できないものを恐れるのよ」彼女は会議場を見つめた。「――そして何者かが、その恐怖を完璧に政治利用(ハッキング)しているのよ」


 年配の司教の一人が重いため息をもらした。「……ならば団長、どう提案するのかね?」


-


 ソフィアは躊躇した。彼女は内偵調査の続行を望んでいた。もっと時間が必要だった。もっと確実な事実(エビデンス)が。しかし、彼女自身も、もう時間が一寸たりとも残されていないことを理解していた。教会側は事態のコントロールを完全に失いつつあり、アシュフォードの軍勢はすでに水面下で迎撃の準備を整えている。


 ソフィアはついに重々しく口を開いた。「……防衛のための兵力動員( mobilization )を」数人の司教たちが深く頷いた。「ただし、こちらからの先制攻撃は一切認めません」ソフィアの瞳が鋭く光る。「エリュシオン教区が、最初に我が方へ牙を剥かない限りはね」


 評議会室は静まり返った。


 やがて、最高司教(ハイクレリック)が重々しく立ち上がった。その表情は厳粛そのものだった。「ラオディキア聖教会は、エリュシオン教区を、アシュフォード王国および我が神聖な機関の安全に対する『潜在的な脅威』であると正式に認定する」


 ソフィアの表情が引き締まる。


 彼は言葉を重ねた。「すべての教会軍に対し、アシュフォードの防衛準備を全面支援する権限を与える」彼は一瞬の間を置き、前提のすべてを覆す決定的な言葉を告げた。「――その脅威が完全に排除されるまでは」彼の声が会議場に重々しくこだまする。「――エリュシオン教区を、我が教会の『敵対勢力(ホスタイル)』とみなすものとする」


 ソフィアの目がすっと細められた。それは宣戦布告ではなかった。公式には、まだ。しかし、それに限りなく近い、あまりにも不条理な一線(境界線)だった。


-


 波及する敵意


 夕方までに、その凶報はアシュフォードの領地を越えて拡散していった。伝令兵たちが近隣の諸王国へと馬を走らせ、魔法の通信結晶が公式な布告を一斉に伝送した。ギルドの長たちは厳重に封印された書状を受け取り、商人たちは警告を受け、貴族たちは極めて不都合な報告書を読み耽っていた。


 そうして緩やかに、全地域がその事実を知ることとなった。


 ――『ラオディキア聖教会、エリュシオン教区を敵対的な脅威と公式宣言』


 リアクションは、即座に現れた。


-


 テオレマ王国


 テオレマの国王はその公式声明を二度、繰り返して読み直した。彼は静かに書類をデスクの上に置いた。「……二万五千の軍勢だと?」


 彼の側近が頷いた。「はっ。二万の常備兵と、五千の聖騎士です」


 国王は重いため息をもらした。「それは、単なる警戒の布陣ではないな」


「ええ」


「全面戦争の大義名分(準備)だわ」


 側近は黙っていた。


 国王は手元の地図に目をやった。「……で、我が国はどう動く?」


「首を突っ込むべきではありません」


 国王が深く頷いた。「その通りだな」彼は書類を折り畳んだ。「西方へ続くすべての軍用道路(ミリタリー・ロード)を完全封鎖しろ」


「兵力を派遣(動員)しますか?」


「いや」


「では、どうされます?」


「何もしない」国王は窓の向こうの地平線を見つめた。「――我々はね、その真意(意図)すら全く理解できていない不条理な戦争に、自ら巻き込まれるつもりはないのだよ」


 ミラース王国


 ミラース王国もまた、全く同じ急報を受領していた。王宮の重々しい執務室の中に、一人の高貴な女性が佇んでいる。伝令兵が公式声明の読み上げを締めくくると、室内に張り詰めた静黙が降りた。


 一人の高官が沈黙を破った。「……アシュフォードを支援すべきでしょうか?」


 彼女は断固として首を振った。「いいえ」


 高官は意外そうな顔をした。「では、エリュシオン教区を支援するのですか?」


 彼女は数秒の間、言葉を噤んだ。「……前提となる情報が少なすぎるわ」彼女は窓の向こうの遠い地平線に目を向けた。「この不条理な盤面を、一体誰が最初に仕組んだのかが判明するまでは――」彼女は背を向けた。「――我がミラースは、完全な中立を維持します」


 高官が深く頭を下げた。「はっ、承知いたしました」


 しかし、彼女の表情から苦悩の影が消えることはなかった。この全シチュエーションの何かが、どうしても致命的に狂っている。多すぎる事件、あまりにも出来過ぎた証拠の数々、そして完璧すぎる偶然の連鎖。説明はつかなかったが、彼女は目の前に突きつけられたその「物語(シナリオ)」を、どうしても本質的に信用することができなかった。


-


 ティアマーン王国


 ミラベル女王がその公式声明を受け取ったのは、その日の夜のことだった。彼女は宮殿の窓辺に立ち、月明かりの下で書類を静かに読み進めていた。すぐ近くには、一人の側近が控えている。


「……では、彼らは本当に開戦に踏み切るのですか?」


 ミラベルはすぐには答えなかった。「公式には、まだよ」


 側近が眉をひそめた。「それは、人間が本当に戦争を始める直前に、決まって口にする定番のセリフですね」


 ミラベルは小さくため息をもらした。「残念ながら、お前の言う通りよ」


 側近は暗い地平線を見つめた。「……女王陛下は、魔王カイについてどう思われますか?」


 ミラベルは黙っていた。「分からないわ」


「彼がやったとは、信じられないのですか?」


「それも、分からないわよ」彼女は書類を静かに折り畳んだ。「――けれど、これだけは断言できるわ」側近は次の言葉を待った。「二万五千もの大軍勢はね、不確実な疑惑(バグ)なんかで進軍を始めたりはしないのよ」ミラベルの表情が、見る見るうちに峻烈なものへと変わる。「何者かが、彼らに『確信』を与えたのよ」


-


 商人たちの動揺


 その凶報がもたらした影響は、両軍が国境へ到達するよりも遥かに早い速度で、すべての交易路へと波及していった。アシュフォードへ向かっていたキャラバンは次々と足を止め、複数の商人ギルドがエリュシオン教区周辺を通過するルートの凍結(サスペンド)を宣言した。物流の保険金は跳ね上がり、多くの商人がその危険地帯へ物資を運ぶことを拒否し始めた。


 ある行商人の頭が、宿屋のテーブルに激しく通知書を叩きつけた。「完全封鎖だと!?」


 相棒が力なく頷いた。「ああ、西方へ続く三つの主要ルートがな」


「なんでだよ!」


「軍の動員(ミリタリー・アクティビティ)が始まったからさ」


 男は通知書を睨み据えた。「最高だな、全く」


 相棒が彼を見た。「何がよ?」


「せっかく、これ以上ないほど平和で機能的な交易路が確立されたっていうのにさ」彼は重いため息をもらした。「……どこのどいつか知らねえが、勝手に不条理な戦争を始めて台無しにしてくれやがる」


 人類にとっての最大の敵とは、いつの時代も変わらず、完璧に機能している商業(日常)を自ら破滅させようとする、人間に特有の「恐怖と暴走」であるようだった。


-


 エリュシオン教区


 その凶報は、やがて塔の内部へも到達した。それは最初、微かな噂(流言)から始まった。そしてまた新たな噂が重なり、やがてそれは濁流となって一階層のエントランスホールを埋め尽くしていった。冒険者、商人、難民、ギルドの職員、研究員たち。果ては、小さな子供たちの耳にまで、その不穏な言葉は届いていた。


 ホール中に、息の詰まるような囁き声が広がっていく。


「……本当に、アシュフォードが軍を動かしたのか?」

「ああ、二万の常備兵が国境に集結してるらしい」

「いや、俺は三万だって聞いたぞ」

「二万だ。……それに、聖教会の聖騎士団はどうなんだ?」

「五千だそうだ」

「何だと!? 五千の聖騎士が、こっちに向かって進軍してるのか!?」


 ざわめきは、見る見るうちに怒号のような騒音へと膨れ上がっていった。


 やがて、誰一人が口にすることを避けていた「核心の問い」が、ホールの真っ直ぐ中から響き渡った。


「――俺たちは、戦争をするのか?」


 静寂。その問いがホール全体に虚しくこだまし、答える者は誰もいなかった。


 一人の若い冒険者が、メインエントランスの出口を恐怖の目で見つめた。「あいつら、ここを侵略しに(壊しに)来るんだろ?」


 もう一人が頷く。「俺も、そう聞いた」


 商人が生唾を飲み込んだ。「だったら、俺たちはこれから一体全体どうすりゃいいんだよ!」


 年配の難民が、消え入りそうな声で静かに答えた。「……塔の中に、留まるしかないさ」


 別の者が激しく首を横に振った。「奴らはここに攻め込んでくるぞ! カイ様が教会を急襲したと盲信してるんだからな!」


「本当に、カイ様がそんなことやったのか?」


 誰も答えなかった。


-


 不確実な不信感が、泥のように人々の間に伝播していく。恐怖がその後に続いた。子供たちは親たちの法衣にすがりつき、何が起きているのかと泣きながら問いかけていた。一部の商人は慌てて荷物をまとめ始め、一部の冒険者は殺気立った様子で己の得物を研ぎ澄まし、中にはこの塔から完全に脱出しよう(逃げ出そう)とする者すら現れ始めていた。


 その時、どこまでも冷静な、冷徹な声がホール全体に重々しく響き渡った。


「――誰も、ここから逃げ出す必要はない」


 全員が一斉に振り返った。上層階層へ続くバルコニーの上に、魔王カイが佇んでいた。彼は眼下に広がる群衆をじっと見つめた。その眼光の圧力に、ホールはゆっくりと、水を打ったように静まり返っていった。


 カイは静かに階段を降り、フロアへと足をついた。人々がモーセの十戒のように左右へと割れて道を譲る。彼は周囲を見渡した。「みんながどんな噂を耳にしてるのかは、俺も分かってる」


 誰も口を開かない。


「聖教会とアシュフォードが、国境で大規模な軍勢を動かしているのは事実だ」カイは不都合な真実を一切隠さなかった。「常備兵、二万名」


 どよめきが広がった。「――それに、聖騎士団が五千名だ」


 ホールは、完全に完全に凍りついた。


 カイは全員を見据えた。「あいつらは、ここへ向かって進軍してきている」


 一人の冒険者が、蚊の鳴くような声で囁いた。「……俺たちは、戦争をするのですか?」


 カイは彼を見つめた。すぐには答えなかった。やがて、彼は真っ直ぐに前を向いてこう告げた。


「――それは、俺にも分からん」


 そのあまりにもありのままの誠実な回答(アンサー)に、誰もが不意を突かれて息を呑んだ。


 カイは言葉を重ねた。「だがな、これだけは断言できる」彼はメインエントランスの出口を力強く指ししめした。「――こちらから、あいつらに先制攻撃を仕掛けるような過ちは絶対にしない」


 数人が呆然と目を丸くした。「え……?」


 カイの声はどこまでも平穏を保っていた。「俺たちは、ただ自分たちの日常を死守する。俺の許可なく、何人たりともこの塔の外へ出ることは許さん。教会の関係者を攻撃するな。アシュフォードの民を傷つけるな。だがな、もし万が一、この塔に一歩でも牙を剥こうとする者が現れたなら――」彼の目が、凍りつくほど鋭く細められた。「――その時は、俺たちが全力でそいつらを阻止する」


 一人の怯えた冒険者が、おそるおそる手を挙げた。「もし……もし本当に奴らが攻め込んできたらどうするのですか?」


 カイは彼を真っ直ぐに見据えた。「その時は、この塔の内部にいるすべての民を、俺が責任を持って守り抜いてやるさ」


 その答えは至ってシンプルだった。大層な演説(演説)もなければ、不必要な威嚇も、世界の征服宣言(デクラレーション)すらもない。そこにあるのは、ただ一つの、絶対的な約束。その言葉に、群衆の胸の動悸はゆっくりと、しかし確実に鎮まっていった。


-


 内偵の決意


 カイがその場を歩き出そうとした時、すぐ隣から聞き馴染んだ声が響いた。「貴方にしては、驚くほど冷静な判断ですね」


 いつの間にか、ユイがそこに立っていた。


 カイは彼女を横目で見た。「……そう見えるか?」


「ええ、とても」


 カイは重いため息をもらした。「これでも、頭の中は完全にパニック(大混乱)なんだよ」


 ユイが不思議そうに首を傾げた。「何に対してですか?」


「全部だよ、全部」彼は出口の闇を見つめた。「操られた神官。汚染された聖域。使節団の尋問。ハッキングされた結晶。国境での急襲。そして、あの二万五千の大軍勢だ」彼は言葉を区切った。「……どう考えても、パズルのピースが綺麗に噛み合わねえんだよ」


「そうね」


「俺は、自分の仲間を信じてる」


 ユイが深く頷いた。「はい」


「だがな――」カイは彼女に向き直った。「――信じてるからこそ、俺はあいつらの周辺を徹底的に『調査(内偵)』する」


 ユイの口元に、微かな、美しい笑みが浮かび上がった。「……妥当な、ご判断です」


 カイが頷く。「信用してるからっていう理由だけで、盲目的に誰かを無実だと決めつけたくはないからな」彼は上層階層の方角を見つめた。「セナ、エルヴァ、ネロ、ヴァドス、そしてクロエ」彼は一呼吸を置いた。「――全員だ」


 ユイはすべてを察した。「ご自身の目で、一人ずつ直接確かめる(尋問する)ということですね」


「ああ、そうだ」


 カイは巨大なメインエントランスの重々しい扉を見据えた。その瞳に、かつてないほど断固とした戦士としての眼光が宿る。「――そうして、この最悪の盤面に少しでも関与した裏切り者が身内にいるのかどうか、俺の手で完璧に暴いてみせるさ」


 交錯する審問


 カイは最高幹部たちへ個別に、秘密裏の通信回線(ライン)を繋いだ。


 最初に答えたのはセナだった。通信結晶の向こうから彼女の声が響く。「カイ様」


「セナ」


「はい、何でしょうか」


 カイは一呼吸を置き、「……お前に、確認しておきたいことがある」と切り出した。


 セナの気配が、瞬時に真剣なものへと切り替わった。「何なりとお尋ねください、カイ様」


「聖教会に対して、裏から何か干渉しろと誰かに命じたことはあるか?」


「ありません」


「ラオディキアの内部の者と、隠れて接触したことは?」


「ありません」


「アシュフォードに向けて、独断で誰かを派遣したことは?」


「ありませんわ」


 カイは深く頷いた。「よし、分かった」


 セナは次の言葉を待った。


 カイは言葉を重ねた。「――お前を、信じるよ」


 一瞬の、心地よい静寂。「……ありがとうございます、カイ様」


 そこで通信は切断された。


 次に繋いだのはエルヴァだった。彼女の回答もまた、これ以上ないほど単刀直入(ストレート)なものだった。「いいえ」


 アステリア国内にいるヴァドスも応じた。「断じて、そのような真似はしておりません」


 ネロが最後だった。カイは通信結晶の投影越しに、彼の目をじっと見つめた。「ネロ」


「カイ様」


「聖教会が巻き込まれた一連の異変に、お前、何か少しでも関与してるか?」


 ネロは微かに、不敵に微笑んだ。「いいえ」


「何一つとしてか?」


「何一つ、ありませんよ」


 カイは彼を凝視した。ネロの佇まいは、どこまでも完全に冷静だった。


 カイは頷いた。「……分かった」


 彼は通信を締めくくった。


 それからクロエにも確認を入れたが、彼女の返答も即座だった。「ないわよ」


 カイはそれ以上、何も追求しなかった。彼女が自分を意図的に裏切るような真似など、天地がひっくり返っても絶対にしないと分かっていたからだ。しかし、それだけでは足りない。この最悪の盤面(状況)を覆すには、盲目的な信頼ではなく、確実な事実(エビデンス)が必要なのだ。


-


 彼は隣のユイを振り返った。「……全員、やってないと言っている」


 ユイが頷いた。「それで?」


 カイは床を見つめたまま、数秒の間、何も言わなかった。彼らの周囲では、相変わらず塔の日常の喧騒が流れていた。人々の話し声、回廊を小走りに通り抜ける子供たちの足音。状況についてあれこれ言い交わす冒険者たち、店を閉めていく商人たち。二万五千という圧倒的な大軍勢の影が喉元まで迫っているというのに、ありふれた日常が、そこにはまだ確かに息づいていた。


 カイはついに、遠い地平線の先を見つめた。二万の常備兵、五千の聖騎士。そのすべてが、自らの「家」に向かって刻一刻と進軍してきている。


 彼はしばらく沈黙を保った。やがて、「一体全体、何が起きてるんだよ」と、言葉を絞り出すように呟いた。


 ユイが彼を見つめる。


 カイの表情には、怒りの色はなかった。まだ、そこまでは。そこにあったのは、純粋な困惑。心底からの、本物の困惑だった。彼はこれまでに起きたすべての出来事を脳裏で繋ぎ合わせてみた。汚染された聖域、操られた神官、でっち上げられた自白、使節団の尋問。リンとソラ、ハッキングされた結晶、改ざんされたフェイク映像。国境での急襲、そして、自分の大切な仲間たち。――どうひっくり返して考えても、パズルのピースが綺麗に噛み合わない。


 カイはゆっくりと目を閉じた。「もし……もしあいつらが本当にやっていないのだとしたら――」彼は目を開け、ユイの目を真っ直ぐに見据えた。「――じゃあ、この盤面(シナリオ)を仕組んだのは、一体どこのどいつだ?」


 静寂。その問いへの答えは出ない。


 塔の外側では、アシュフォード軍の最初の進軍キャンプ(前線基地)が、着々と構築されつつあった。二万の兵士が己の得物を冷酷に研ぎ澄まし、五千の聖騎士がいつでも突撃できるよう馬の手綱を握り締めている。全地域の諸王国が完全な中立を宣言して城門を閉ざし、商人は交易路を凍結し、市井の民はその真意すら全く理解できていない不条理な大戦争に向けて、怯えながら身を隠していた。


 エリュシオン教区の内部、カイは、自らの手で何千人もの民の日常(家)へと育て上げたその巨大な塔の下に、断固として直立していた。彼は先制攻撃を仕掛けるような過ちは拒絶した。自らの大切な仲間を見捨てることも、断じて拒否した。そして今、彼の手元には、暴くべき最後の一行の真実だけが残されていた。


 ――この最悪の戦争の引き金を、最初に引いたのは誰だ。

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