第106話 - 第2幕:教会の聖戦、第7部 — 宣戦布告
歪んだ宣戦布告
アシュフォードの王都に、静かに朝が訪れた。あまりにも静かに。
通りは、いつもと変わらず一日を始める市井の民で溢れかえっていた。商人は店を開け、子供たちは学校へと歩みを進め、冒険者たちはギルドの入り口に集まる。農民たちは収穫物を積んだ馬車を街へと引き入れていた。
その日常の裏で、ラオディキア聖教会の大評議会室にて、西方同盟の均衡を根本から揺るがす恐るべき決断が下されようとしていることなど、誰一人として知る由はなかった。
評議会室の内部では、誰一人として眠りについた者はいなかった。石の円卓の真ん中には、あの通信結晶がぽつんと置かれている。その表面は完全に昏い闇に沈んでいた。情報網はすでに完全封鎖され、教会の所有するすべての通信結晶は、中央の管理権限システムから強制的に切断されていた。
ソフィアは机の傍らに直立し、その近くにはエルリック司教が腰掛けている。レアと二十人の審問官たちは彼らの背後に控え、向かい側には数人の高位司教たちが重苦しい表情で座っていた。長い間、言葉を発する者は誰もいなかった。
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やがて、一人の司教が疲弊しきった声でその沈黙を破った。「……つまり、だ」彼は言葉を絞り出すように言った。「我々の通信結晶ネットワークは完全に汚染されている」
ソフィアが深く頷いた。「はい」
「国境の警備陣地は無残に急襲され、兵士たちが殺害された」
「はい」
「内側から操られた神官は、魔王カイの配下から直接命令を受けたとでっち上げられた自白を繰り返している」
「はい」
「そして……我々の手元には、カイが我が審問官たちを無残に虐殺する偽りの記録(フェイク映像)が残されている」
ソフィアの表情が、見る見るうちに冷徹なものへと切り替わった。「あの記録は捏造されたものです」
司教は痕跡を見つめた。「分かっている」彼は一瞬の間を置き、「――だが、残りの事象はどう説明するのだ?」と問いかけた。
ソフィアは即座に答える言葉を持ち合わせていなかった。それこそが、今回の罠の最も本質な問題だった。異変はもはや、単発の偶発的な事件などではなかった。それらは完全に計算された「型」として、カチリと噛み合っていた。
汚染された聖域。厳重に封印された部屋への侵入。でっち上げられた自白。立ち入り調査。エントランスでの衝突。改ざんされた記録映像。国境での急襲。そして今、死んだはずの最高審問官マルレクの名前が、結晶の最高管理権限(認証レイヤー)の隙間から不気味に浮かび上がってきたのだ。
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エルリックが円卓の上に両手を置いた。「何者かが、これ以上ないほど完璧な『物語』を構築しているのだ」
司教の一人が不満げに眉をひそめた。「物語だと?」
「彼らは我々に、カイが聖教会に対して容赦なき先制攻撃を仕掛けてきていると思い込ませたがっているのだ」
ソフィアが言葉を重ねた。「そして同時に、カイに対しては、聖教会が自分を破滅させようと軍を動かしていると思い込ませようとしているのよ」
会議場がしんと静まり返る。
司教が彼女を巡らせた。「……一体、何のためにそんな真似を?」
「なぜなら、もし双方が『相手はすでに、越えてはならない一線を越えてしまった』と盲信してしまえば――」ソフィアは司教たちを冷徹に見据えた。「――その瞬間に、全面戦争(破滅)は引き返せない絶対的な事実になるからです」
誰も反論できなかった。
やがて、別の司教が重々しく口を開いた。「ならば、我々は絶対にその挑発に乗るべきではない。戦いを拒否するのだ」
ソフィアが頷いた。「私も、その意見に同意します」
しかし、その隣に座っていた司教が激しく首を横に振った。「いいえ、それは不可能です」
ソフィアの目が鋭くなる。男は言葉を重ねた。「ほんの数日前なら、その選択もできたかもしれない」彼は封印された昏い結晶を指差した。「だが、状況は完全に変わってしまったのだよ」
「説明してください」ソフィアが求める。
「アシュフォードの民はね、すでに教会で何らかの異常事態が起きている事実を肌で感じ取っている。噂はすでに、泥のように街中に広がっているのだよ。『魔王カイが聖教会を急襲した』と囁く者もいれば、逆に『教会が魔王を暗殺しようとして失敗した』と言い触らす者もいる」
エルリックの表情が、見る見るうちに泥のように昏く沈んでいく。「……まさに、敵の描いたシナリオ通りだな」
司教が頷いた。「つまり、この期に及んで『何もしない(静観する)』という選択は、民の目には平和の維持ではなく、ただの教会の『無力(弱さ)』と映るのだ。かと言って、我が教会の公式な通信網が内側から完全にハッキングされているなどという不都合な真実を公表すれば、それこそ全同盟のなかに取り返しのつかないパニック(混乱)が伝播することになる」
ソフィアはそっと目を閉じた。「……この盤面を仕組んだ首謀者はね、私たちの弱さを完璧にハッキングしているわ」
その事実こそが、魔王カイの圧倒的な武力よりも、何倍も彼女を戦慄させるのだった。
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エイモン国王の行幸
その時、評議会室の重々しい扉が勢いよく開き、近衛兵の一団が厳重な警戒の中でなだれ込んできた。その背後から歩を進めてきたのは、アシュフォードの統治者――エイモン国王であった。彼はきらびやかな礼装(儀礼服)を纏ってはいなかった。身につけているのは、実戦用の簡素な漆黒の軍用マント。その表情は、凍りつくほど真剣なものだった。
彼は評議会室を見渡した。「……何が起きている」
ソフィアが一歩前に出た。「エイモン国王陛下」
エイモンは卓上の結晶に目をやった。「我の元に、公式な報告書が届いたぞ」
ソフィアの表情が引き締まる。「……一体、ような内容が記載されていたのですか?」
エイモンの目がすっと細められた。「報告書にはね、我が教会の調査員たちがエリュシオン教区の内部へと足を踏み入れたと記されていた」
「はい」
「そこで、魔王カイと直接激突した、と」
「はい」
「指示、その対峙は、凄惨な流血(暴力)へと発展した……とな」
ソフィアは激しく躊躇したが、断固として首を振った。「――いいえ、違います」
エイモンが彼女を凝視した。「違う、だと?」
「その報告書は、完全に偽装されたもの(フェイク)です」
国王は彼女を射抜くように見つめた。「ならば、現地で実際に何が起きたのか、ありのままを我に説明せよ」
ソフィアはすべての事実をありのままに紡いだ。審問官たちがリンとソラに強引な尋問を試みたこと。エントランスでの衝突。完璧な無力化。カイが部下たちを脅迫することなく即座に解放するよう命じたこと。そして、死者は一人も出ていないという決定的な事実を。
エイモンは一切口を挟むことなく、彼女の言葉に黙って耳を傾けていた。彼女がすべてを話し終えた後も、彼はしばらく沈黙を守り続けた。やがて、彼は重々しく口を開いた。「……つまり、あの記録映像は偽物である、と」
「はい」
「そして、教会の内部の何者かが、その嘘を意図的に製造した」
「我々は、そう確信しています」
エイモンはエルリックに視線を向けた。「では、国境の警備陣地が襲撃された件は?」
「誰の仕業なのか、未だに発生源すら特定できておりません」
「カイが関与している可能性は?」
「確実な証拠は、何一つとして存在しません」
エイモンの目が峻烈なものに変わる。「ならばなぜ、我の元に『魔王の軍勢による急襲だ』と断じる公式な報告書が届いたのだ!」
誰も答えられなかった。
エイモンはゆっくりと司教たちに向き直った。「……誰が、あの報告書の送信を承認(許可)した」
一人の司教がおそるおそる立ち上がった。「それは……教会の『公式な通信ルート』を通じて正規に伝送されたものでして……」
「我が聞いているのは、そんなことではない」
司教は言葉を失い、黙り込んだ。
ソフィアが一歩前に出た。「陛下、我々は今、その裏切り者の正体を徹底的に洗い出している最中(調査中)です」
エイモンの表情は冷徹なままだった。「なるほどな。では貴様らは、我が教会の関係者が何者かに暗殺され、証拠が内側から完璧にハッキングされているというのに、我にここで指をくわえて大人しく座っていろと、そう言うつもりか?」
ソフィアは彼の目を真っ直ぐに見据えた。「私は陛下にね、すでに『完全に改ざんされている』と分かっている偽りの証拠に基づいて、無用な全面戦争の大義名分(引き金)を自ら引くような過ちだけは、絶対に回避していただきたいと言っているのです」
エイモンは彼女をじっと見つめた。数秒の間、二人は身じろぎ一つせずに視線を交わし合った。やがて、国王は深く、重いため息をもらした。「……我が、戦争など望んでいないことは知っていよう」
ソフィアの肩の力が、ほんの僅かに抜けた。しかし、
「――だが」エイモンは言葉を重ねた。「現実に起きているこの異変を、我としてもこれ以上黙殺(無視)することはできん」
エルリックが頷いた。「それは、我々も同じ想いです、陛下」
エイモンは円卓の結晶に目をやった。「……何か、具体的な提案はあるか?」
ソフィアが答えました。「――公式な『声明』を」
エイモンが眉をひそめた。「カイに対する、宣戦布告かね?」
「いいえ」ソフィアは首を振った。「聖教会は引き続き、エリュシオン教区に対する『内偵調査』を続行するが……そこにはいかなる軍事行動の意図(武力行使)も含まれないという、明確な自制の声明です」
一人の司教が即座に猛反論した。「そのような弱腰な声明、我が聖教会の威信が民の目に完全に失墜してしまうではないか!」
ソフィアは彼に向き直った。「ならば、民の目にどれほど無力(弱腰)と映ろうが、一向に構いません!」彼女の声は、かつてないほど断固とした強さを帯びていた。「――黒幕の描いたシナリオ通りに動かされる無残な操り人形に成り下がるよりは、何百倍もマシだわ!」
沈黙が、会議場を満たした。
エイモンは彼をじっと観察し、やがて、深く頷いた。「……よかろう、認めよう」
ソフィアの顔に、意外そうな色が浮かぶ。「……陛下?」
「その声明を、直ちに全同盟に向けて発布せよ」エイモンは扉へと向かって歩き出し、ふと足を止めた。「――ただし、もし魔王カイがこのアシュフォードに対して一歩でも牙を剥いたなら……」彼は振り返った。その表情は、完全に凍りついていた。「……我は、我が絶対的な権限において、我が王国を全力で死守する(迎撃する)」
ソフィアが深く頷いた。「妥当な、ご判断です」
エイモンはそのまま部屋を退出していった。重々しい扉が彼の背後でカチリと閉まる。
エルリックがソフィアを見つめた。「……思ったよりも、理性を保ってくれたな」
ソフィアは小さくため息をついた。「まだ、安心するのは早いわよ」彼女は卓上の昏い結晶を睨み据えた。「……胸騒ぎがするの。敵は私たちに、これ以上息をつく時間(猶予)なんて与えてはくれない。そんな気がするのよ」
公式声明
正午までに、教会の鐘の音がアシュフォード全域に鳴り響いた。市民たちは広場へと集まり、神官たちは高台の上に立ち、教会の伝令兵たちが王国中に同じ布告を運んでいた。
ソフィアは最も大きな群衆の前に立っていた。武器は持たず、鎧も身につけていない。教会の聖印だけを掲げ、彼女の声が広場に響き渡る。
「アシュフォードの民よ」
喧騒が静まり返った。
「エリュシオン教区、および魔王カイに関わる一連の異変が発生している」
群衆の間に囁き声が広がっていく。
ソフィアは言葉を重ねた。「一部の報告では、魔王カイが我が教会の関係者への急襲を命じたと断じられている」
ざわめきが大きくなった。
ソフィアが手を掲げた。「――それらの報告は、現在精査中(調査中)である」
囁き声は収まらない。
「我々は、教会が使用している通信結晶の少なくとも一つが汚染されていた事実を確認した」
数人が息を呑んだ。
ソフィアは不都合な真実を隠さなかった。「あの結晶を通じて伝送された記録映像は、決して信用してはならない」彼女は言葉を区切った。「しかし、一連の事件の裏に潜む脅威が現実のものであることに変わりはない」
広場が再びしんと静まり返る。
「我々は未だ、真犯人の発生源を特定できていない」ソフィアは民を真っ直ぐに見据えた。「そして事実(真実)が判明するまでは、聖教会は決して開戦の火蓋を切ることはない」
群衆の一部に安堵の波が広がった。
しかし、ソフィアは続けた。「ただし、聖教会はエリュシオン教区に対する『内偵調査』を今後も続行する」
民の間で再びどよめきが起きる。
「我々は真実を追い求める」ソフィアは掲げた手を下ろした。「そして、もしアシュフォードの民を傷つけようとする者が現れたなら――」彼女の表情が峻烈なものに変わる。「――聖教会は全力で民を死守する(迎撃する)」
声明は終わった。しかし、生じてしまった不信感はもはや消えなかった。アシュフォード中で人々が議論を始め、ある者はソフィアを信頼し、ある者は疑った。ある者はカイが無実だと信じ、ある者は彼がただ攻撃の好機を待っているだけだと盲信した。
そして街の片隅で、何者かがその声を静かに聞き届けていた。
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エリュシオン教区
一階層のラウンジにカイは立っていた。塔の内部は不気味なほどに静まり返っている。すぐ近くでは、リンとソラの二人が数人の冒険者たちと気安く言葉を交わしていた。
カイは隣のユイを振り返った。「……で、どうなった?」
ユイが彼を見た。「何がですか?」
「教会の連中、また新しいメッセージ(声明)を出したんだろ」
「ええ」
「なんて言ってるんだ?」
ユイは一瞬の間を置いた。「公式に、私たちの『立ち入り調査』を続行すると全同盟に向けて発布したわ」
カイが目を瞬かせた。「調査を続行する、だと?」
「はい」
カイは己の頭をボリボリと掻いた。「それ、こないだもう十分にやったんじゃないのか?」
ユイが頷いた。「それを今度は公表したのよ」
カイはため息をもらした。「人間ってやつは、本当に書類仕事が大好きなんだな」
ユイがクスリと笑った。「それに、大層な告知をすることもね」
「みたいだな」
カイはメインエントランスの出口に目を向けた。「……エイモン国王の動きはどうだ?」
「軍を動員する(動かす)兆候は見られません」
カイは頷いた。「よし、上出来だ」彼は少し安心したように見えた。「――今のところは、な」
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ユイの表情が、一気に真剣なものへと切り替わった。「けれど、もう一件あります」
カイが彼女を見た。「何だ?」
「聖教会の結晶ネットワークの件です」
「あのハッキングの件か?」
「ええ。あの通信妨害の波形を徹底的に洗い出してみたの」
「それで?」
「見つかりました」
カイは彼女の言葉を待った。
ユイが手を掲げると、二人の間に小さな立体魔術投影が浮かび上がった。複雑な魔法の構造式が空中に静止している。「これが、あの記録映像を内側からハッキングして改ざんするために使用された『認証レイヤー』よ」
カイは眉をひそめた。「発生源を特定できるか?」
「完全には無理ね」
「なぜだ?」
「この術式を構築した本人はね、自分の端末から直接命令を伝送していないからよ」
カイの目が鋭く細められた。「……他人の管理権限を悪用したということか」
「ええ」
「誰の名前だよ?」
ユイの瞳の奥が昏く沈んだ。「――最高審問官マルレク」
カイはパチクリと目を瞬かせた。「……あいつ、死んだんじゃなかったっけか?」
「三年前の戦いで、公式にはね」
カイは浮かび上がる構造式を睨み据えた。「じゃあ……」彼は言葉を区切った。「……何者かが、死んだ人間の権限を使ってハッキングしているってことか」
ユイが頷く。
カイの表情が、本格的に凍りついた。「……全く、辻褄が合わねえな」
「そうね」
「そいつを、お前の手で見つけ出せるか?」
「索敵してみるわ」
「やってくれ」
ユイが頷き、そして唐突に、ピタリと動きを止めた。
カイはその異変を見逃さなかった。「どうした、ユイ?」
「……見つかりました」
「は?」
「彼の認証キー、他ならぬ『アシュフォードの王都の内側』から作動しているわ」
カイの表情が一変した。「王都の、真っ直ぐ中からだと?」
「はい」
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カイは口を噤み、沈黙を保った。教会の身内に、最高管理権限をハッキングできる裏切り者がいる。記録を偽装する手法を熟知し、確証を人工的にでっち上げられる悍ましい存在。そして今、そいつは死人の身元を都合よく利用している。
カイはゆっくりとエントランスの出口を見つめた。「……ユイ」
「何かしら?」
「この件、まだみんな(他の仲間)には言うなよ」
彼女は彼を見つめた。「なぜです?」
「まだ、誰を信用していいのか、その前提すら分かってないからな」
ユイが深く頷いた。「分かりました」
カイはリンとソラの方を向いた。二人は何やらくだらない世間話(冗談)をしながら笑い合っていた。彼はその姿を数秒間、じっと見つめ、やがてその表情を微かに和らげた。
「何が起きるにせよ――」彼は再びユイに向き直った。「――こちらから開戦の火蓋を切るような過ち(ファースト・アタック)だけは絶対にしないぞ」
ユイが優しく微笑んだ。「分かっています」
「俺たちは、この塔を全力で死守する」
「ええ」
「内部のすべての民を守り抜く」
「はい」
「そして、この盤面を仕組んだ真犯人を、俺たちの手で引きずり出すんだ」
ユイが頷いた。「その通りね」
カイは重いため息をもらした。「……まったく、なんで連中は俺たちを放っておいてくれないのかね」
ユイは不思議そうに首を傾げた。「なぜなら、貴方が『魔王』だからですよ」
カイは彼女を凝視した。「お前、それが解説のつもりか?」
「これ以上ないほど、説得力のある理由だと思いますが?」
「……確かに、一理あるな」
最初の亀裂
その日の夜、ソフィアは教会地下の奥深くに隠された、厳重に封印された大書庫へと戻っていた。レアがその後に続く。
「なぜ、ここへ来たのですか?」
ソフィアはすぐには答えなかった。彼女は巨大な鉄の扉の前で足を止める。その扉は、三年間もの間、誰の手にも触れられることなく放置されていたものだった。扉の上部には、たった一行の不気味な文字が刻まれている。
――『最高審問官執務室・管理権限記録』
レアがその扉を見つめた。「マルレクの執務室……」
ソフィアが頷いた。「ええ」彼女が錠前に手をかざすと、重々しい音を立てて扉が開いた。
室内には埃が立ち込めていた。何一つとして荒らされた形跡はない。古い書類は残された当時のまま机に並び、壊れた椅子、空のデスク、いくつかの封印された書物。そして――部屋の中央には、たった一枚の黒い結晶が置かれていた。
ソフィアが歩み寄り、レアがその後に続いた。「それは一体……?」
ソフィアは結晶を凝視した。「分からないわ」彼女はその表面へと手を伸ばす。
彼女の指先が結晶に触れたその瞬間、魔力が起動した。一人の男の声が、室内に静かに響き渡る。
ソフィアの動きが止まり、レアの目が驚愕に見開かれた。
その声はどこまでも冷静で、冷酷で、――そして、聞き覚えのあるものだった。
『――認証、完了』
ソフィアはゆっくりと手を引いた。しかし、音声の再生はなおも続く。
『――最高審問官、マルレク』
一拍の、不気味な静寂。
『――最高管理権限、復元』
レアの顔から血の気が引いた。「そんな、馬鹿な……あの方は死んだはずよ」
ソフィアが結晶を凝視する中、声は冷酷に最後の一行を紡いだ。
『――第二段階、始動』
結晶の光がカチリと消え去り、部屋に再び濃密な静寂が戻ってきた。
ソフィアの表情が、見る見るうちに忌々しいものへと変質していく。
レアが声を震わせた。「……あの方は、生きているのね」
ソフィアは首を振った。「……かもしれないわね」
「どういう意味ですか?」
「あの音声記録自体、何年も前にあらかじめ製造(仕込まれて)されていた可能性もあるわ」
レアの目が大きく見開かれる。「じゃあ、この陰謀は……魔王カイがこの世界に姿を現すよりも前の段階から、すでに始まっていたということですか?」
ソフィアは答えなかった。彼女は再び昏い結晶を見つめた。この瞬間、彼女はある悍ましい真実を本質的に理解し始めていた。今回の陰謀は、カイという存在を滅ぼすために始まったのではないのかもしれない。カイという圧倒的な魔王の出現こそが、首謀者にとって『これ以上ないほど都合の良い完璧な標的』に仕立て上げられただけなのだ。
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最終報告
その夜遅く、厳重に封印された一通の書状がエイモン国王の宮殿へと届けられた。彼は一人、執務室でそれを開いた。
報告書は聖教会からのものだった。そこには三つの具体的な提案が記されている。第一に、内偵調査の続行。第二に、国境の警備強化。そして第三に、万が一の襲撃に備えた防衛陣地の査定。
エイモンは最後の一行を二度、繰り返して読み直した。「――聖教会は、即座の軍事報復(開戦)を推奨しない」
彼は書類を静かにデスクの上に置いた。
そこへ、一人の伝令兵が慌ただしく入室してきた。「エイモン国王陛下!」
エイモンが顔を上げた。「何事だ」
伝令兵はその場に膝を突いた。「……またしても、国境から不穏な急報が届きました」
エイモンの表情が一気に険しいものに変わる。「どこからだ?」
「西方国境です」
「何があった」
伝令兵は生唾を飲み込んだ。「……教会の巡礼警備兵の一団が、忽然と姿を消しました(全滅しました)」
エイモンが勢いよく立ち上がった。「規模はどれくらいだ?」
「兵士、二十名です」
「生き残った者は?」
「……皆無です」
エイモンは彼を凝視した。「現場に、確実な証拠は残されていたか?」
伝令兵は激しく躊躇した。「……はい」
「何だ?」
彼はロボットのような手つきで、国王のデスクの上に一つの「物理的な遺物」を静かに置いた。――真っ二つに叩き折られた一本の剣。その折れた刃の表面には、これみよがしに「エリュシオン教区」の公式な紋様が深く刻み込まれていた。
エイモンの目が驚愕に見開かれた。「……これは、どこで発見された!」
「慘劇の現場、その真っ直ぐ真ん中です」
沈黙が流れた。
エイモンはその得物を凝視した。彼はこの事実が持つ絶対的な重みを理解していた。もしこの報告が事実なら、カイの軍勢が教会の兵士を無残に虐殺したことになる。しかし、もしこれまでの証拠がすべて人工的にでっち上げられた嘘なのだとしたら……これもまた、同じ罠の精巧な歯車の一つに過ぎない。
エイモンは拳を固く握りしめた。「……これを、直ちにソフィアの元へ届けろ」
「はっ、ただちに」
伝令兵は退出していった。
部屋に一人残されたエイモンは、その折れた剣を見つめ、それから窓の外の景色へと目を向けた。眼下に広がるアシュフォードの通りは、未だにいつも通りの平穏を保っている。人々は笑い合い、子供たちは遊び、商人は店を閉めていく。
自分たちの王国が、どれほど引き返せない戦争(破滅)の寸前まで追い詰められているか、誰も知る由はなかった。
エイモンは消え入りそうな声で呟いた。「魔王、カイ……」その表情が完全に凍りつく。「――我に、残酷な選択を迫るなよ」
-
闇のどこかにて
ある蒼白な手が、ゆっくりとその折れた剣を持ち上げた。エリュシオンの紋様が深く刻まれたその刃を、影は愛おしそうに検分した。やがて、その口元が歪に釣り上がる。
また新たなピースが、盤面の上に完璧に配置された。新たな告発。新たな嘘。そして、戦争へと続く新たな一歩。
そして今回ばかりは、誰もこれを『改ざんされた偽りの映像』などと一笑に付すことはできない。教会は調査を続行すると声明を出し、アシュフォードは全力で自衛すると宣言し、カイはこちらから先制攻撃は仕掛けないと誓った。
何もかもが、これ以上ないほど首謀者の描いたシナリオ通りに、完璧に噛み合っていた。
次の決定的な一手は、聖教会からは動かない。魔王カイの側からも動かない。それは、西方国境のさらに先で、手ぐすね引いて待つ「軍勢」の側から動き出す。
二万名もの兵士たちが、すでに水面下で着々と集結を始めていた。五千名もの聖騎士たちが、己の得物を冷酷に研ぎ澄ましている。エイモン国王は、未だに最終的な開戦の命令を下してはいない。
しかし間もなく、彼はそれを下さざるを得なくなるのだ。




