第105話 - 第2幕:教会の聖戦、その6 — クリスタル
改ざんされた真実
聖なる審問官の一団は、重苦しい沈黙に包まれながらエリュシオン教区を後にした。誰もが脳内で、先ほどの衝突の光景を何度も反芻していた。レアが部下の腕を掴んで制止したこと。ソラが別の審問官を取り押さえたこと。そして、あえて力を行使することなく、冷徹な警告だけを突きつけてその場に立っていた魔王 Kai。
レアは首元に下がった結晶のネックレスに視線を落とした。それは銀の枠に囲まれた小さな透明の宝石――どこからどう見ても、ごくありふれた普通の通信結晶だった。不審な点も、脅迫的な気配も何一つ見当たらない。それなのに、どうしても肌にへばりつくような違和感を拭い去ることができなかった。
ガレスが彼女の隣に並んだ。「キャプテン」
レアが彼を見た。「何?」
「先ほど起きたことですが……」
「分かっているわ」
「俺たちは、完全に一線を越えてしまいました」
レアは黙っていた。
ガレスは言葉を重ねた。「Kai は俺たちを攻撃しなかった」
「ええ」
「彼の配下たちも、こちらから仕掛けるまでは先に手を出さなかった」
「そうね」
「連中が動いたのは、こちらが強引に間合いを詰めた後……あくまで制圧しただけです」
レアが頷いた。「この目で見たわ」
ガレスはさらに声を潜めた。「ならば……大評議会には、今起きた事実をありのまま正確に報告すべきです」
レアは再び結晶を見つめた。「ええ、その通りよ」
彼女はふと足を止めた。周囲の審問官たちは、数歩進んでからようやく彼女が立ち止まったことに気づいた。レアは振り返り、遥か地平線に佇むあの不可能なほどに巨大な塔を見つめた。夕日に照らされるエリュシオン教区。あの内部には、完全に機能している一つの社会があり、数千人もの人々が息づいている。冒険者、商人、研究員、難民、子供たち。そして、魔王 Kai。
レアは重いため息をもらした。「……すべてを、報告するわ」
ガレスが頷く。「ありのままの、事実を」
レアは再び歩き出した。二人は、彼女の首元にある結晶の内部で、細く黒い糸が生き物のように不気味に形成され始めていることには、まだ気づいていなかった。
-
王都への街道
審問官たちは静まり返った街道を数時間にわたって進み続けた。ガレスは常にレアの傍らに控えていたが、二人とも言葉は少なかった。
やがて、若手の審問官の一人がその沈黙を破った。「キャプテン」
レアが彼を見た。「何?」
「俺たちが力ずくで組み伏せられた(無力化された)という事実を、本当に評議会に伝えるつもりですか?」
「ええ」
「しかし、理由を聞かれますよ」
「私が説明するわ」
若い審問官は躊躇した。「……我々が『調査に失敗した』と判断されるかもしれません」
レアは彼を見つめた。「実際、失敗したのよ」
男は意外そうな顔をした。
「私たちは調査のために派遣されたのよ」レアは前方の街道を睨み据えた。「魔王の領地で、無用な挑発を繰り返すために送り出されたわけじゃないわ」
誰も反論しなかった。
別の審問官が力なく頭を下げた。「……おっしゃる通りです」
-
行軍がそのまま続けられた、その時だった。チリンと、レアの首元から微かな、魔力の鈴鳴りのような音が響いた。
彼女の足が止まる。ガレスが振り返った。「どうしました?」
レアは結晶に触れた。「何でもないわ」
しかし次の瞬間、結晶が唐突に淡い光を放ち、その上空に小さな魔術スクリーンを投影し始めた。
レアが眉をひそめた。「え……?」
映像が激しく明滅する。ほんの一瞬だけ、エリュシオン教区の一階層の光景が映し出された。Kai、リン、ソラ、そして自分たち審問官の姿。だが直後、映像は激しく歪んだ。
レアは目を瞬かせた。「おかしいわね……」
ガレスが覗き込む。「何が映っているのですか?」
「……消えたわ、何も」レアは手元の結晶を調べた。「ただの、誤作動(誤起動)かしら」
ガレスが不審そうに眉根を寄せた。「これらの通信結晶が、理由もなく誤作動を起こすなどあり得ません」
「分かっているわよ」彼女は結晶を隅々まで検分した。しかし、ひび割れも、魔力の不安定さも、外部から干渉された形跡も一切ない。完全に正常に機能していた。
レアは結晶から手を離した。「……進むわよ」
-
ラオディキア聖教会
審問官の一団がアシュフォードの王都に到着したのは、日が沈む直前のことだった。彼らは即座に大評議会室へと護衛された。そこにはすでにソフィアが待機しており、その隣にはエルリック司教が佇んでいた。レアが部屋に入ってきたその瞬間、ソフィアは彼女の顔に濃い疲労と苦悩が滲んでいるのを見逃さなかった。
「酷い顔ね」ソフィアが言った。
レアの足が止まる。「……深刻な問題が発生しました」
ソフィアの目がすっと細められる。「何があったの?」
レアは評議会室を見渡した。「――衝突が起きました」
エルリックが一歩前に出た。「衝突だと? 一体どういうことだ」
レアは手元の報告書を円卓の上に置いた。「我が審問官の数名が、エリュシオン教区の内部で、二人の冒険者を強引に連行しようと尋問を試みました」
ソフィアが眉をひそめた。「なぜそんな真似を?」
「彼女たちが、魔王 Kai の極めて近くにいる存在だと判断したからです」
エルリックの表情が一気に険しいものに変わる。「それで、Kai は拒絶したのか?」
「はい」
「結果は?」
レアは彼を真っ直ぐに見つめた。「彼の仲間が我が部下たちを完璧に制圧した後……Kai の命令によって、彼らは解放されました」
ソフィアが目を丸くした。「……貴女の部下たちが、組み伏せられたと言うの?」
「はい」
「なぜそこまでの事態に発展したのよ」
レアは僅かに言い淀んだ。「……我が部下の一人が、尋問のために冒険者の一人を力ずくで連行しようとしたからです」
会議場に、冷たい静寂が降りた。
エルリックがそっと目を閉じた。「……そんな真似、誰も許可(承認)していないぞ」
「はい」
ソフィアが他の審問官たちを鋭い目で睨み据えた。「誰か、こちらから攻撃を仕掛けた者はいるの?」
「私が……得物に手をかけました」一人の審問官が、重苦しい沈黙を破って前に出た。
ソフィアは彼を凝視した。「なぜよ」
審問官は生唾を飲み込んだ。「奴らが……抵抗していると判断したからです」
「こちらが無理やり連行しようとしたことに対して、彼女たちは身を守った(抵抗した)。そういう意味ね?」
「……はい」
ソフィアは重いため息をもらした。「それは『敵対(抵抗)』とは言わないわ」
レアが頷いた。「我々は、致命的な過ち(ミステイク)を犯しました」
エルリックが報告書に目を落とした。「……それで、Kai は?」
「反撃(報復)の意志は示しませんでした」
ソフィアの顔に意外そうな色が浮かぶ。「一切、しなかったの?」
「はい」
「彼なら、その場で我々を全滅させることも可能だったはずよ」
「ええ」
「けれど、しなかった」ソフィアは口を噤んだ。「……興味深いわね」
室内に、重苦しい沈黙が満ちていく。
レアは言葉を重ねた。「彼は、我々にこう警告しました」
「何と言ったの?」
レアはその冷徹な眼光を思い出しながら、一字一句違えずにその言葉を紡いだ。「――『協力的であることと、無力であることを履き違えるなよ』と」
ソフィアの表情が、複雑に歪んだ。その言葉は、単なる脅迫ではなかった。――明確な、これ以上越えさせないという「一線(境界線)」だった。
-
エルリックが報告書を手に取った。「……それで、通信結晶は?」
レアが彼を見た。「結晶が、何か?」
「それらは調査のプロセスをリアルタイムで記録していたはずだろう」
「はい」
「ならば、現地で実際に何が起きたのか、その確実な記録が残されているわけだな」
レアが頷いた。「私も、そのつもりで持ち帰りました」
ソフィアがレアの首元へ手を伸ばした。「……見せてもらえる?」
レアはネックレスを外し、ソフィアがそれを石の円卓の中央へと置いた。エルリックが魔力を注ぎ込み、記録の再生を起動する。
空中に、立体的な魔法映像が浮かび上がった。最初のうちは、すべてがありのまま正常に映し出されていた。エリュシオン教区のメインエントランス、歩いてくるリンとソラ、近づく審問官、言葉を交わすレア。そして、その場に割れて入る Kai。会話はいつも通りに進んでいく。
ソフィアは無言でその推移を見つめていた。しかし、ある瞬間、映像が激しく明滅した。
レアが眉をひそめた。「え……?」
記録が、不自然なノイズ(ディストーション)に呑み込まれていく。エリュシオン教区の華やかなエントランスホールが掻き消え、周囲がどす黒い闇へと変質し、響いていた音声は低く地を這うような、壊れた機械の唸り声へと歪んでいった。
ソフィアが身を乗り出した。「……続けなさい」
やがて、魔力の歪みが収まり、映像が鮮明に固定された。
しかし――そこに映し出された光景は、現場で実際に起きた事実とは、あまりにも、あまりにもかけ離れた「最悪の地獄」だった。
偽りの記録
リンはホールの中央に立ち尽くしていたが、もはや先ほどのような冷静さは失われていた。彼女の両手はべっとりと血に染まっている。足元には一人の審問官がピクリとも動かずに横たわり、もう一人は壁へと叩きつけられ、その鎧は無残に砕け散っていた。
ソラはリンの傍らに立ち、その全身を激しい電撃が覆っている。残された審問官たちは床の至る所に転がり、ある者は意識を失い、ある者はすでに事切れているように見えた。
ソフィアの目が驚愕に見開かれた。「まさか……」
映像の再生は続く。冷酷な表情を浮かべたカイがホールへと姿を現した。彼は倒れ伏した審問官たちに冷たい視線を向け、それからリンとソラを見た。彼が片手を掲げると、その周囲に悍ましい暗黒の魔力が一点へと収束していく。
記録映像の中のカイが、容赦なく牙を剥いた。画面全体が眩い閃光で埋め尽くされる。数人の審問官が部屋の端まで吹き飛ばされ、一人が絶叫を上げた。もう一人は、激しい爆発の炎の中に掻き消えていく。
ソフィアはその場に凍りつき、エルリックは信じられないものを見る目で凝視していた。レアの顔から完全に血の気が引いた。「……違う。現場でこんなことは起きていないわ!」
誰も答えなかった。
記録の再生はなおも続く。倒れ伏した審問官たちに向かって、カイが完全に感情の欠落した足取りで歩み寄る。でっち上げられた偽りの映像の中で、彼の唇が不気味に動いた。
『――俺の領地に足を踏み入れたのが、間違いだったのさ』
そして彼が再び手を掲げた瞬間、残された審問官たちは大爆発の中に呑み込まれ、跡形もなく消え去った。
後に残されたのは、水を打ったような静寂。そこで記録は途切れた。
-
誰も動かなかった。
ソフィアがゆっくりとレアに向き直った。「……教えて」その声は酷く低く、静かだった。「――今のが、現実に起きたことではないと言って」
レアは何も映らなくなった結晶を凝視した。「……違います。あんな惨劇は起きていません」
ソフィアが彼女を見つめた。「ならばなぜ、この結晶はこんな光景を記録しているの?」
「分かりません……」
ガレスが一歩前に出た。「俺もその場にいました!」
ソフィアの視線が彼を射抜く。「これは、事実ではないのね?」
「事実ではありません!」
「では、実際には何が起きたの?」
ガレスは生唾を飲み込んだ。「リンが一人の審問官を制圧し、ソラがもう一人を組み伏せました。制圧されたのは五人です。死者は一人も出ていません。カイはすぐに彼らを解放するよう命じました」
ソフィアは再び結晶に目を落とした。「つまり、この記録は偽装されたもの(フェイク)だということね」
「はい」
エルリックが即座に研究員たちを怒鳴りつけた。「ただちに結晶を解析しろ!」
数人の研究員が慌てて詰め寄った。一人が診断の魔術を起動し、もう一人が魔力記憶の容量を精査し、三人目が送信陣の回路を網羅的にチェックしていく。
数十秒が経過した。やがて、一人の研究員が怯えた様子で一歩後退した。「……司教閣下、それにソフィア団長」
ソフィアが彼を睨み据えた。「何が分かったの?」
「この記録が後から改ざんされた(エディットされた)という形跡は……どこにも見当たりません」
レアの目が驚愕に見開かれた。「何ですって!?」
研究員は力なく首を振った。「この結晶自体が、今上映された映像こそを『最初に記録されたオリジナルの記憶』だと認識しているのです」
エルリックが激昂して机を叩いた。「そんな馬鹿なことがあるか!」
「分かっております!」
「元の正しい記録を復元することはできんのか!」
研究員は激しく躊躇した。「……そもそも、復元すべき『正しい原本』がこの世に存在しているのかどうかすら、怪しいのです」
ソフィアの視線が鋭利なものに変わる。「どういう意味?」
「単に上から映像が上書き(オーバーライト)されているのではありません」彼は結晶を指差した。「データ構造そのものが、根本から『書き換えられて』いるのです」
レアがその宝石を凝視した。「じゃあ、この罠を仕組んだ首謀者は、記録を編集したんじゃないっていうの?」
「ええ」
「じゃあ、一体何をしたっていうのよ!」
研究員は震える声で答えた。「――起きた『事象そのものを置換』したのです」
-
評議会室に、息の詰まるような沈黙が満ちていた。
ソフィアの視線は未だ結晶に固定されたままだった。「……ならば、この結晶が従うべき絶対的なルールが侵されているわね」
研究員が困惑した表情を浮かべた。「ルール、ですか?」
ソフィアは机の上の宝石を指差した。「これらの通信結晶には、設立当初から定められた『三つの鉄則』があるわ。第一に、所持者が直接知覚した光景のみを記録すること。第二に、魔力に刻まれた一連の記憶の順序を違えずに保存すること。そして第三に、対応する物理的な光源なしに映像を捏造しないことよ」
エルリックの表情が昏く沈む。「ならば、今起きたことは理論上『不可能』なはずだ」
「――記録が製造されるよりも前の段階で、何者かがその『ルールそのものを書き換えて』いない限りはね」ソフィアが冷徹に言い放った。
研究員が再び魔術レンズをかざして結晶を隅々まで検分した。「……ありました。記録の深層( authorization layer )に、異質な隠し命令が埋め込まれています」
レアが一歩詰め寄る。「その発信元を特定できる?」
「……まだ分かりません。教会の認証コードの裏側に巧妙に隠蔽されています」
ソフィアの目がすっと細められた。「その命令の根源を洗い出しなさい」
研究員がさらに上位の術式を展開した。結晶が不気味に一度だけ脈打ち、その表面に細い黒い線が広がっていく。直後、結晶の真上の空間に、おどろおどろしい一つの紋様が浮かび上がった。――一本の垂直な「眼」を囲む、割れた円の印。
研究員が恐怖のあまり悲鳴を上げて後退りした。「ソフィア様、これは……!」
ソフィアはそのマークに、見覚えがあった。「――『覆い尽くす手』」
エルリックが彼女を凝視した。「……あれは、ただの御伽噺(神話)のはずでは?」
「いいえ」ソフィアの声から一切の温度が消え去った。「現実に存在するわ。そして、この記録を内側からハッキング(改ざん)したのも、間違いなく奴らよ」
レアの顔が引きつる。「その『覆い尽くす手』って、一体何者なのですか?」
ソフィアは浮かび上がる黒い紋様を見つめた。「教会の内部にひそかに潜む、過激な反魔族派閥(隠された闇)よ。彼らは数年もの間、魔王カイとの間で全面戦争を引き起こすための火種を、執拗にでっち上げようとしてきたの」
-
室内が、再び凍りついたような静寂に包まれた。
「この記録はね、外部の襲撃者によって改ざんされたんじゃないわ」ソフィアは言葉を重ねた。「この結晶ネットワークに対して、正規の最高管理権限を持った Church 内部の何者かによって書き換えられたのよ」
エルリックの表情が峻烈なものに変わる。「……教会の身内に、裏切り者がいるということか」
ソフィアが頷いた。「奴らは、結晶が持つ絶対的なルールを逆手に取ったのよ。認証レイヤーの隙間に『偽りの知覚』を強引に挿入し、結晶自身にその幻影こそが原本の記憶であると認識させたのね」
レアが手元の宝石を見つめた。「じゃあ、結晶がバグを起こしたわけじゃないのね……」
「ええ」ソフィアが告げた。「それは単に、自らを作った創利者が遺した『絶対的な命令』に、忠実に従っただけよ」
研究員が紋様の底を注視した。「……この命令文、固有の署名が残されています」
ソフィアが彼を振り返った。「誰の名前よ?」
神官は激しく躊躇し、声を震わせた。「――最高審問官、マルレク」
レアの目が大きく見開かれる。「マルレクですって!? あの方は三年前の戦いで、すでに戦死しているはずよ!」
ソフィアの表情が、見る見るうちに忌々しいものへと変質していく。「ならば、何者かが彼の身元を偽装して利用しているか……」彼女は円卓の上に並べられた報告書を睨み据えた。「……あるいは、彼は最初から死んでなどいなかったか、そのどちらかよ」
-
二度目の検分
ソフィアの命令により、偽りの記録映像が再び再生された。今回は、彼女は一字一句、一挙手一投足を見逃さないよう細部を凝視した。リンの表情、ソラの動き、カイの登場、凄惨な攻撃、そして審問官たちの死。
何かが、どうしても引っかかった。言葉にすることはできなかったが、彼女の内に眠る戦士としての本能が、激しい警鐘を鳴らし続けている。
「……何かが、おかしいわ」
レアが彼女を見た。「何がですか?」
ソフィアは上映される映像の一点を指差した。「――この、カイを見なさい」
レアが視線を向けた。映像の中のカイの表情はどこまでも冷酷で、――あまりにも冷酷すぎた。
ソフィアは眉根を寄せて呟いた。「私……この動き、前にどこかで見たことがあるわ」
エルリックが彼女を見た。「彼の、その冷酷な表情のことかね?」
「いいえ」ソフィアはスクリーンを凝視したまま首を振った。「その『身のこなし(体術の型)』よ」
「それがどうしたというのだ?」
「彼は……こんな風には動かないわ」
レアが怪訝そうな顔をした。ソフィア自身、なぜ自分がそんなことを確信を持って言えるのか、説明がつかなかった。自分はこれまでに、魔王カイという男の姿を遠目からほんの一瞬見かけたことがあるだけのはずなのだ。それなのに、胸の奥の「何か」が、この映像は偽物だと、猛烈な勢いで叫んでいた。
やがて、画面の中のカイが片手を天へと掲げた。
ソフィアの目が鋭く細められた。「……違う。あれは、絶対に違うわ」
エルリックが振り返る。「なぜ断言できる?」
「なぜなら……」彼女は言葉を詰まらせた。分からなかった。
激しい目眩と共に、彼女の脳裏に「奇妙な既視感」が濁流のように押し寄せてきた。――荒涼とした戦場、一人の青年、聞き取れない誰かの声、そして、胸を焦がすような切ない感情。それらは一瞬で、再び忘却の彼方へと掻き消えていった。
ソフィアは己の額を押さえた。「……一体、私の頭の中で何が起きているの……?」
エルリックが本気で彼女を心配そうに見つめた。「ソフィア?」
「私は、平気よ」彼女は再び、上映される偽りの惨劇を見据えた。「いいえ……」彼女の声は、かつてないほど断固とした強さを帯びていた。「――平気なんかじゃないわ。この盤面、絶対に何かが狂っているわ」
急報と謀略
大評議会室の重々しい扉が突頭に開き、教会の伝令兵が厳重に封印された書状を抱えて駆け込んできた。「――司教閣下、それにソフィア団長!」
ソフィアが鋭い視線を向けた。「何事ですか」
「国境の警備陣地からの緊急報告です」
彼女は書状をひったくるように受け取った。その瞳がページの上を素早く走り、そしてある一点でピタリと止まる。「……何ですって?」
エルリックが一歩詰め寄る。「何が起きたのだ?」
ソフィアは無言で彼に報告書を突き出した。東方国境付近にある軍事拠点が何者かの急襲を受け、三人の兵士が死亡。襲撃犯たちは跡形もなく姿を消していた。目撃者はおらず、生き残った兵士もいない。しかし、現場には「あるもの」がこれみよがしに残されていた。――聖教会の紋章章だ。
エルリックの表情が完全に凍りついた。「……そんな馬鹿なことが」
レアが一歩前に出る。「一体何が問題なのですか?」
エルリックは彼女に書類を示した。「その紋章はね……戦死したはずの審問官の遺体から剥ぎ取られたものなのだ」
レアの目が驚愕に見開かれた。「けれど、派遣された使節団の二十人は、今全員がこの部屋に揃っています!」
ソフィアが室内を見渡した。確かに、誰も欠けてはいない。
やがて、彼女の視線が再びあの不気味に明滅する結晶へと向けられた。最悪の思考が彼女の脳裏を過る。「……何者かが、確証を人工的に『製造』しているわね」
レアがゆっくりと頷いた。「はい」
ソフィアは彼女を見つめた。「けれど、一体何のために?」
レアはすぐには答えなかった。しかし、その最悪の答えはすでに、あまりにも明白になりつつあった。この盤面を仕組んだ首謀者はね、単に聖教会にカイを憎悪させたいわけではないのだ。彼らは教会側に『平和的な立ち入り調査の試みは、すべて凄惨な流血(裏切り)によって踏みにじられた』と盲信させたいのだ。
すべての報告書が、最終的にたった一つの都合の良い結論へと行き着くように。――『魔王カイは凶悪で、残虐で、聖教会に容赦なき先制攻撃を仕掛けてきており、我々はただ身を守るために剣を抜いたに過ぎない』という結論へ。
それは完璧なシナリオ(物語)だった。なぜなら、次々と現れる新しい証拠のすべてが、まるで前の事件の正当性を補強するように精密に配置されているからだ。
-
エルリックが結晶を見つめた。「完全に、嵌められたな」
レアが頷く。「ええ。私たちはすでに、罠の真っ只中に直立しているわ」
ソフィアは、結晶の上空に未だ浮かび上がっているあの黒い紋様を睨み据えた。「『覆い尽くす手』の動きは、行き当たりばったりの単発の犯行などではないわ」彼女は静かに告げた。「奴らは、完全に計算された『手順』に従って動いている」
エルリックが眉をひそめた。「手順だと?」
「第一に、彼らはあの偽りの記録(フェイク映像)を製造した。第二に、この国境襲撃のシチュエーションをでっち上げた。そして第三に……奴らはすでに、正規の通信ルートを通じて、この偽りの報告書をエイモン国王の元へと送信しているはずよ」
レアの胸の奥が苦く締め付けられた。「私たちがこの嘘を暴くよりも前の段階で、強硬な軍事行動を教会側に引き起こさせるためね……」
ソフィアが頷いた。「そうして最後の仕上げに、魔王カイに対して、彼自身が身に覚えのない『宣戦布告』を突きつけるのよ」
-
評議会の分裂
その夜遅く、大評議会が再び招集された。しかし、会議場は完全に真っ二つに引き裂かれていた。ある司教たちは即座の軍事報復(開戦)を怒号を交えて要求し、ある司教たちは更なる慎重な調査を求めていた。
一人の司教が激しく机を叩いた。「これ以上、一体どれほどの犠牲が出れば気が済むのだ! 証拠なら十分だろう!」
エルリックが毅然と立ち上がった。「国境で起きたあの惨劇が、本当にカイの手によるものかどうかの確証など、我々はまだ何も持っていない!」
「現にあの記録映像があるではないか!」
「あの記録は捏造されたもの(フェイク)だ!」
「そんなこと、証明できまい!」
レアが一歩前に踏み出した。「いいえ、私が証明します」
司教が彼女を睨みつけた。「お前は、現地にいたのだな?」
「はい」
「それで、あの映像は偽物だと言い切るのか?」
「はい。断言します」
「ならばなぜ、我々はあの結晶の記録を疑わねばならんのだ!」
レアは彼を冷徹に見つめ返した。「――それこそが、今回の罠の最も本質的な問題なのです」
-
ソフィアは終始、沈黙を守り続けていた。彼女は円卓の上の結晶を見つめていた。あの偽りの映像は、カイが聖騎士たちを無残に虐殺する光景を鮮明に映し出していた。それが偽物であることは分かっている。使節団の口から直接、偽物だと告げられた。
それなのに、彼女の心のどこかは、未だにその「悍ましい真実(嘘)」を信じたがっていた。
その事実こそが、彼女を本質的に戦慄させた。なぜなら、この記録をデザインした首謀者はね、人間の心の機微を完璧に理解しているからだ。彼らは、全員にその嘘を完全に信じ込ませる必要などないのだ。ただ、その嘘が『現実に起き得る可能性』として人々の脳裏に過りさえすれば、それで目的は達成されるのだ。
一人の司教が再び声を大にした。「魔王カイは、我が軍を容易に一蹴しうる圧倒的な武力を有しているのだぞ!」
エルリックが不快そうに眉をひそめた。「それがどうしたというのだ?」
「奴はいつでも、我々を全滅させることができるのだ!」
「だが、現に奴は手を出さなかった!」
「これから仕掛けてくるかもしれないだろう!」
ソフィアが、ついに重々しく口を開いた。「――それは、証拠とは言いません」
司教が彼女を振り返った。「……ソフィア団長、貴女まで奴を弁護するのか?」
「いいえ」ソフィアは彼を真っ直ぐに見据えた。「私は『事実』を守ろうとしているだけです」
会議場がしんと静まり返る。
彼女は言葉を重ねた。「もし我々が、何者かがでっち上げた偽りの記録(フェイク映像)に激昂し、自ら魔王に対して開戦の火蓋を切るのだとしたら……それこそ、我々は敵の描いたシナリオ通りの操り人形に成り下がるだけです」
レアが彼女を見つめた。ソフィアの言葉は、今回の事件の核心を完璧に射抜いていた。聖教会は単に攻撃されているのではない。完全に内側からハッキング(誘導)されているのだ。
しかしその時、別の司教が冷酷な手つきで一枚の書類を円卓の上に滑らせた。「――では、もしあの記録以外にも、確実な『証拠』が積み上がっているとしたらどうするのかね?」
ソフィアは手元を見つめた。国境からの急報、同時多発的に汚染された聖域、内側から操られた神官、でっち上げられた自白、カイの配下へと繋がる不自然な痕跡。そして、あの最悪の偽り(フェイク映像)。それらの断片が今、悍ましい一枚の絵(戦争の大義名分)としてカチリと噛み合おうとしていた。
ソフィアはゆっくりと目を閉じた。何者かが、魔王カイを破滅させるための完璧な容疑を、一歩ずつ着実に構築している。しかも、他ならぬ「聖教会」の公式な権限の裏側を利用して。
-
エルリックが司教たちを見渡した。「……ただちに、教会のすべての通信結晶による伝送システムを一時凍結すべきです。ハッキングされている正規の認証キーをすべて特定し、パッチを当てるまでは」
数人の司教たちが一斉に猛抗議の声を上げた。「そのような暴挙、我が教会の情報網が完全に麻痺してしまうではないか!」
「ならば、完全に麻痺させる(沈黙させる)べきよ」ソフィアが冷徹に言い放った。「――他人の声(黒幕の命令)で喋り続ける教会であるくらいなら、完全に沈黙している教会の方が、世界にとっては遥かに安全だわ」
会議場が、一瞬にしてしんと静まり返った。
レアがその結晶を見つめた。「……最高審問官マルレクの行方を追うことはできますか?」
ソフィアの表情が峻烈なものに変わる。「もしあの署名(波形)が本物であるなら、彼は確実に生きているわ」
「では、もし偽物だった場合は?」
「あの方の極めて近くにいる何者かが、彼の最高管理権限を悪用しているということよ」
エルリックが、その拳を固く握りしめた。「……どちらにせよ、裏切り者はこの白い壁の内側(ラオディキアの真っ直ぐ中)にいるということか」
二番目の盤面
エリュシオン教区の一階層では、カイが相変わらずラウンジに腰掛けていた。すぐ近くにはリンとソラがおり、傍らにはユイが静かに佇んでいる。
カイはメインエントランスの入り口に目を向けた。「教会の人たち、誰も戻ってこないな」
ユイが首を振った。「ええ、戻ってきませんね」
カイは眉をひそめた。「……妙だな」
リンが彼を見た。「きっと、恥ずかしいのよ」
カイが彼女を見つめる。「何がだ?」
リンは肩をすくめた。「だって、自分たちから仕掛けてきたのよ?」
ソラも深く頷いた。「そうそう。それで返り討ち(無力化)に遭ったんだもの」
カイは二人を睨んだ。「お前たち、あいつらを全滅させたわけじゃないだろうな?」
リンが不敵に笑った。「ただ、完璧にホールド(制圧)しただけよ」
ソラも微笑む。「極めて平和的にね」
カイは重いため息をもらした。「……そうか。ならいい」
その時、ユイが唐突にエントランスの方向へと視線を向けた。その表情が一瞬で強張る。
カイはその異変を見逃さなかった。「どうした、ユイ?」
「何かが、起きました」
「どこでだ?」
「この塔の、外側です」
ユイはそっと目を閉じ、知覚の索敵網を外へと拡張させた。しかし、すぐにその眉根を寄せる。「……捉えきれません」
カイが眉をひそめた。「お前が捉えきれない、だと?」
「何者かが、伝送システムそのものに強力な妨害を仕掛けています」
カイが彼女を見た。「何の伝送だ?」
ユイが目を開けた。「――聖教会の、通信結晶です」
カイは口を噤んだ。そして、先ほど審問官の首元で不気味に明滅したあの輝きを思い出す。「あの、結晶か」
「はい」
カイの表情が、一気に冷徹なものへと切り替わった。「何者かが、あのネットワークを内側からハッキング(操作)しているということだな」
ユイが頷く。「その可能性は極めて高いかと」
カイが勢いよく立ち上がった。「奴らが一体、本部にどんなデータを送信しているのか、お前の手で覗き込めるか?」
ユイは一瞬の間を置き、「……まだ、お時間をいただきます」と答えた。
カイはエントランスの闇を見つめた。その眼光が鋭く細められる。「なら、何としてでも突き止めろ」
ユイが微かに微笑んだ。「かしこまりました、我が主」
-
でっち上げられた宣戦布告
ラオディキア聖教会の大評議会室にて、卓上の通信結晶が唐突に、再び眩い光を放って起動した。司教たちが一斉にその宝石へと視線を向ける。
空中に浮かび上がったのは、先ほどと同じ慘劇の光景だった。魔王カイ、リン、ソラ、無残に組み伏せられた審問官たち。血、死体、そして大爆発の炎。あの最悪の捏造映像が、再び狂おしく上映され始めたのだ。
しかし今回ばかりは、そこに恐るべき「新たな詳細」が追加されていた。でっち上げられた映像の最後、魔王カイがカメラ(結晶)を真っ直ぐに睨み据えた。彼の唇が動き、音声のノイズが不気味にクリアなものへと切り替わる。
『――お前たちの神(主)に、伝えるんだな』
一拍の、重苦しい静寂。
『――エリュシオン教区は、決して跪かない、とな』
そこで映像はカチリと途切れた。
会議場が、水を打ったように静まり返る。ソフィアはその結晶の残像を凝視した。彼女は知っていた。こんな傲慢な言葉、あの男が口にするはずがない。現場に居合わせたレアも、ガレスも、二十人の審問官全員が、そんな事実は無かったと分かっている。
しかし、大評議会の他の司教たちは、現場の本当のやり取りなど見てはいないのだ。彼らの目に映ったのは、あの精巧に偽装された「嘘」だけ。そして今、彼らは首謀者の描いたシナリオ通り、開戦を正当化するための決定的な言葉を突きつけられたのだ。――明確な、聖教会に対する宣戦布告の言葉を。
ソフィアはゆっくりとエルリックに視線を向けた。「……あの記録を、絶対に信用してはなりません」
エルリックが頷いた。「分かっている」
一人の司教が、怒号を上げて立ち上がった。「ならば、直ちに迎撃の準備を整えるべきだ!」
ソフィアが彼を睨み据えた。「何のための準備ですか?」
司教は結晶を指差した。「魔王カイが自ら、我が聖教会の敵であると公に宣言したのだぞ! 万が一の可能性に備えるのは当然だ!」
レアが一歩前に踏み出した。「彼は、そんな宣言などしていません!」
司教が彼女を鼻で笑った。「お前にそれが証明できるのかね?」
レアは彼を冷徹に見つめ返した。「では、彼が本当にそれを口にしたという確証が、貴方にあるというのですか?」
重苦しい沈黙が、再び場を支配した。
-
そこへ、一人の伝令兵が息を切らせて入室し、その場に膝を突いた。「――ソフィア様、それに司教閣下!」
ソフィアが振り返る。「何ですか」
伝令兵は頭を下げた。「……すでに、エイモン国王の元へとこの報せが届いております」
ソフィアの表情が完全に凍りついた。「……もう届いているの?」
「はっ」
「一体、誰が国王へ伝えたのです!?」
伝令兵は激しく躊躇し、声を震わせた。「……報告書は、教会の『公式な通信ルート』を通じて送信された、とのことです」
レアは卓上の結晶を凝視した。胸の奥が不気味に締め付けられる。何者かの動きが、こちらの予測を遥かに上回る速度で展開している。あの偽りの映像の製造、国境での急襲、そして国王への極秘報告。それらすべてが、これ以上ないほど完璧なタイミングで連動していた。
あまりにも、完璧すぎた。
ソフィアが低く、蚊の鳴くような声で呟いた。「……完全に、ハッキング(誘導)されているわ」
誰も答えなかった。なぜなら、その場にいる全員が、自分たちが精巧な罠の歯車にされている事実を嫌というほど理解していたからだ。
しかし、敵に操られていると気づいただけでは、この最悪の事態を止めることはできない。彼らは今、次にどう動くべきかという残酷な決断を迫られていた。
ソフィアが結晶へと手を伸ばした。「――ただちに、全情報網を完全封鎖しなさい」
研究員が目を丸くした。「……団長、完全封鎖、ですか?」
「我が教会のすべての通信結晶よ。伝送機能、記録機能、そして遠隔からの認証アクセス(リモート・オーソリゼーション)にいたるまで、すべての機能をパッチを当てて凍結しなさい」
エルリックが彼女を注視した。「そのような暴挙、壁の中に潜む裏切り者に、こちらの動きが完全に察知されてしまうぞ」
「それで結構よ」ソフィアの瞳が冷徹に光る。「私たちがこれ以上、奴らのでっち上げた嘘に耳を傾けるつもりはないのだと、その身内に分からせてあげるのよ」
その瞬間、結晶の上空に浮かび上がっていたあの黒い紋様が、不気味に激しく明滅した。一瞬の、本当に一瞬の刹那。紋様の裏側の空間に、全く異なるもう一つの「不都合な真実(幻影)」が浮かび上がった。――薄暗い密室の中に佇む、一人の男。蒼白な顔、銀色の髪。そして、その左目を縦に貫く痛々しい一本の傷痕。
ソフィアは息を呑んだ。「……マルレク」
その幻影は、次の瞬間には最初から何もなかったかのように掻き消えた。代わりに、結晶の真上には、嘲笑うかのような最後の一行のメッセージが虚空に静止していた。
『――二番目の、盤面を開始せよ』
-
アシュフォードの領地を遥か越えた、闇のどこかにて。
一人の男が、静かにその眼を開いた。彼の目の前には、厳重に封印された一通の指令書が収められている。彼は手元の報告書を見つめ、それから送信が完了したあの偽りの映像(慘劇)へと視線を向けた。その口元が、歪に釣り上がる。
最高審問官マルレクは、結晶ネットワークのすべての最高管理権限の上に、その蒼白な手を静かに重ねた。
最初の盤面は、見事に機能した。ならば、次のシナリオ(二番目のフレーム)を、始めようじゃないか。




