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人間臭いと蔑まれた不死身の娘は、百鬼夜行の主に愛される  作者: なつめ


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第7話 布団ごと抱く鬼


 深雪乃が目を覚ました時、最初に感じたのは畳の匂いだった。


 湿った古畳ではない。


 干した藺草の青さが、部屋の空気にやわらかく混じっている。雨の匂いは遠く、かわりに白檀と、どこか甘い煙の名残があった。窓の外からは水の音が聞こえる。雨ではなく、庭の池に落ちる細い水音だった。ししおどしが鳴るほど古風ではない。ただ、石の樋を伝う水が、静かに流れている。


 目を開けると、天井が高かった。


 黒く艶のある梁が渡され、隅には鬼灯を象った吊り灯籠が下がっている。障子越しの光は白く、昼なのか夕方なのか、すぐには分からなかった。布団は厚く、身体の下でやわらかく沈む。掛けられている布も軽いのに温かい。鵺喰家の小部屋にあった薄い布団とは、まるで違った。


 深雪乃は、しばらく動けなかった。


 肩の痛みは残っている。


 脇腹も、息を吸うたびに鈍く痛んだ。傷そのものは塞がっているはずだ。布団の中で指先を動かし、裂かれた場所にそっと触れる。肌は滑らかに戻っていた。血も止まっている。だが、痛みだけは肉の奥に沈んでいる。触れれば、そこに傷があったことを身体が思い出す。


 深雪乃は静かに息を吐いた。


 また、戻っている。


 そう思った瞬間、胸の奥に重いものが落ちた。生きていることに安堵するより先に、痛みを覚えている自分に気づく。死ななかった。けれど、傷つかなかったわけではない。いつも通りだった。


 彼女は上半身を起こそうとした。


 途端に、視界が揺れる。


 腹の奥が空っぽで、力が入らない。肩の奥に鋭い痛みが走り、布団の上へ手をついた。指先が、上質な綿の感触を掴む。白い寝間着の袖が目に入った。見覚えのないものだった。自分の着物ではない。濡れて裂けた喪服もどきは、どこにもなかった。


「……着替えさせられたのですか」


 声は掠れていた。


 部屋には誰もいない。枕元には小さな盆が置かれ、水差しと湯呑みがある。湯呑みに触れると、少し温かかった。白湯だ。けれど鵺喰家で出された冷えた白湯とは違う。きちんと温度を見て置かれたものだった。


 深雪乃は湯呑みを持ち上げた。


 手が震える。


 何とか口元へ運び、少しだけ飲む。温かさが舌に触れ、喉を通って胸へ落ちた。それだけで身体の奥が驚いたように緩む。深雪乃は湯呑みを両手で包んだまま、障子の方を見た。


 ここはどこなのか。


 自動車の中で意識が沈む前、赫臣の声を聞いたことは覚えている。煙管の香り。雨音。布で髪を拭かれた感触。膝の上に抱えられていたこと。抗議したのに降ろされなかったこと。


 思い出した途端、眉間に皺が寄った。


 あの男は、何なのだろう。


 篝火赫臣。


 篝火家の当主。先祖返り会第一位。酒呑童子の系譜。百鬼夜行の頭。


 鵺喰家の親族たちが名を出すだけで声を潜めた男が、雨の帝都で妖を切り刻み、血まみれの深雪乃を片腕で抱き上げた。あまりにも現実味がない。夢だと思うには、肩の痛みが生々しかった。


 廊下の向こうで、足音がした。


 深雪乃は湯呑みを置き、布団の中で身を固くする。足音は近づいてくる。軽くはないが、乱暴でもない。障子の前で止まり、低い声がした。


「起きてるか」


 赫臣だった。


 深雪乃は少しだけ息を止めた。


「起きております」


「入るぞ」


「入らないでください」


 障子が開いた。


 深雪乃は無言で赫臣を見た。


 赫臣はまったく悪びれない顔で立っていた。昨日と同じように、崩した和装に片袖を抜いている。髪は乾き、金の色が昼の光を受けて柔らかく光っていた。耳には相変わらず無数のピアス。首元の飾り、指輪、腕輪、足首の金具。今日は煙管を手にしていないが、彼の周囲には微かな煙の香りが残っている。


「返事の意味をご存じないのですか」


「聞こえた」


「では、なぜ入るのです」


「会いたかった」


「会話が成立しておりません」


「俺の中ではしてる」


「あなたの中だけで物事を完結させないでください」


 赫臣は笑った。


 その笑顔を見て、深雪乃は少し力が抜ける。困ったことに、この男は怒らない。深雪乃の言葉を受け止めて、楽しそうに笑う。鵺喰家の者たちなら、すぐに顔色を変えていた。赫臣は違う。腹を立てるどころか、もっと近づきたそうな顔をする。


 実に扱いにくい。


 赫臣は部屋へ入り、障子を閉めた。手には盆を持っている。盆の上には、小さな膳が載っていた。湯気の立つ白粥、焼いた白身魚をほぐしたもの、出汁の染みた大根、梅干し、卵焼き、薄く刻んだ青菜。量は多くない。けれど、どれも丁寧に用意されている。


 深雪乃の腹が、小さく鳴った。


 聞こえないほどではなかった。


 赫臣の目が、楽しげに細くなる。


「腹は正直だな」


「今のは部屋の軋みです」


「腹の軋みか」


「聞こえなかったことにする品性はありませんか」


「俺にそれ期待するの、間違ってるぜ」


「存じ上げております」


 赫臣は布団のそばに膳を置いた。


 深雪乃は、反射的に身を引きかける。膳が近い。食事が近い。それだけのことなのに、身体が少し警戒した。鵺喰家で食事が運ばれる時は、たいてい何かがあった。量が少ない。冷えている。残飯に近いもの。異物が混じっている。あるいは、目の前に置かれてすぐ取り上げられる。


 まともな食事は、出されるほど怖い。


 いつ奪われるのか、何を言われるのか、何を支払わされるのかと、身体が先に構える。


 深雪乃は箸に手を伸ばさなかった。


 赫臣はそれを見ていた。


「食え」


「……いただいて、よろしいのですか」


 言ってから、深雪乃は自分の声の弱さに気づいた。


 赫臣の表情が変わる。


 笑みが消えたわけではない。けれど、目の奥の温度が深くなった。彼は深雪乃のすぐ横に腰を下ろし、膳の上の白粥を見た。


「お前のために作らせた。食わねえ方が困る」


「毒は」


「入ってねえ」


「妖気避けの薬も」


「入ってねえ」


「後で片づけを命じられる類の」


「ねえよ」


「何かの見返りを」


「求めるなら、もっと分かりやすく求める」


 深雪乃は眉を寄せた。


「最後だけ安心できません」


「安心しなくていい。食え」


 赫臣は箸を取り、粥の椀を少し寄せた。


 深雪乃はしばらく膳を見つめていた。湯気が上がっている。米の甘い匂いが、空っぽの胃にじわりと染みる。焼き魚の香ばしさも、出汁の匂いも、久しぶりすぎて遠いもののようだった。


 彼女はゆっくり箸を取った。


 手が震える。


 赫臣は何も言わない。急かしもしない。ただ、彼女の手元を見ている。見られていること自体は落ち着かなかったが、その視線に嘲りはなかった。


 深雪乃は白粥を少しだけ口へ運んだ。


 熱い。


 熱い食べ物だった。


 当たり前のことなのに、胸の奥が詰まりそうになった。米の甘さが舌の上でほどけ、出汁の淡い塩気が喉を通る。胃が驚いたようにきゅっと縮む。深雪乃はゆっくり飲み込んだ。


 赫臣が、低く言った。


「少しずつでいい」


「言われなくても、そのつもりです」


「そうか」


「見張られていると、食べにくいのですが」


「見てえ」


「食事は見世物ではありません」


「お前が食ってるところは見たい」


「たいそう悪趣味ですね」


「可愛いからな」


 深雪乃は箸を止めた。


「食べ物が喉につかえそうです」


「悪かった」


「謝る気がない声です」


「あるある」


「重ねるほど薄くなる言葉ですね」


 赫臣は楽しそうに笑った。


 深雪乃は少しだけ肩の力を抜き、再び粥を口へ運んだ。次に大根を一切れ。箸で押すと、簡単に崩れるほど柔らかく煮えていた。口に入れると、出汁がじゅわりと滲む。熱と旨味が舌に広がった瞬間、腹の奥がきゅうと鳴る。


 深雪乃は、慌てて顔を伏せた。


 赫臣は聞こえないふりをしなかった。


「足りなきゃ足す」


「結構です」


「遠慮か」


「胃が驚くだけです」


 赫臣の目が一瞬だけ鋭くなる。


 彼は深雪乃の手首を見た。水仕事で荒れた指、細い手首、骨の浮いた腕。寝間着の袖から覗く肌には、古い痣の名残がうっすらと見えている。消えたはずの傷の痕跡は、体質のせいで残りにくい。それでも、繰り返された痛みは姿勢や仕草に滲む。


「まともに食ってなかったな」


 深雪乃は魚をほぐす箸を止めた。


「鵺喰家では、食事にも礼節がございましたので」


「残飯を礼節って呼ぶのか」


「大変に広い意味で使われていたようです」


「深雪」


 その呼び方に、胸が小さく跳ねた。


 赫臣の声は低かった。


「誰にやられた」


 深雪乃は答えなかった。


 障子の向こうから、水音が聞こえる。庭の池に落ちる水が、一定の間隔で石を叩く。部屋の中には湯気の匂いと、赫臣の装身具が触れ合う微かな音がある。鵺喰家の廊下で聞いていた笑い声とは、あまりにも違った。


 違うからこそ、口に出せないことがある。


 あの家で何があったかを語るには、あまりにも数が多い。水を浴びせられたこと。食事を抜かれたこと。残飯を出されたこと。蔵に閉じ込められたこと。母の櫛を折られたこと。使用人たちが笑っていたこと。夜岐が囁いたこと。父が黙っていたこと。


 全部を言葉にすれば、自分がその中で生きていたことまで形になってしまう。


 深雪乃は、白粥を少しだけすくった。


「言うほどのことではございません」


「言うほどのことだ」


「あなたにとっては、そう見えるのでしょう」


「お前にとっては違うのか」


「慣れておりますから」


 言った瞬間、赫臣の空気が変わった。


 部屋の温度が、ほんの少し下がったように感じた。彼の妖気が外へ漏れたのだ。火のように熱いはずなのに、怒りの形を取ると空気を凍らせる。障子の紙がかすかに震え、膳の湯気が横へ流れた。


 深雪乃は箸を置いた。


「篝火様」


「赫臣」


「篝火様」


「頑固だな」


「その妖気をしまってください。せっかくの粥が冷えます」


 赫臣は一瞬だけ黙った。


 それから、深く息を吐いた。張り詰めた気配が少しずつ緩む。部屋の空気が戻り、障子の震えも止まった。


「悪い」


「謝る声としては、先ほどよりましです」


「採点されんのか」


「改善の余地はございます」


 赫臣は低く笑い、片手で自分の髪をかき上げた。耳のピアスがいくつも鳴る。その音に、深雪乃は思わず視線を向けた。彼の装身具は近くで見るほど数が多い。耳だけでなく、首、指、手首、足首、帯の結び目にまで小さな金具がある。


 ひとつひとつに、退魔の光が宿っている。


「それは、全部武器なのですか」


 深雪乃が尋ねると、赫臣は楽しげに目を細めた。


「気になるか」


「目に入るほど多いので」


「またそれか」


「耳飾りの数を減らせば、言われる回数も減るかと」


「嫌だね。こいつら全部、俺の糸の起点だ」


 赫臣は右手を少し持ち上げた。


 指輪の石が、昼の光を受けて一瞬だけ光る。次の瞬間、深雪乃の目の前を細い線が横切った。空気に張られた糸。肉眼ではほとんど見えないが、湯気が触れた場所だけ、ふっと切れる。


 深雪乃は息を呑んだ。


 糸は、彼の指輪から障子の桟へ伸びている。さらに耳飾りから、床の間の花器へ。足首の飾りから、部屋の隅へ。一本ではない。何本も、何十本も、見えない道が部屋を満たしていた。


 赫臣が指を折ると、糸は音もなく消える。


「霊糸。退魔耀を通して張る。妖も呪具も斬れるし、結界にも触れる。まあ、使い方によっちゃ人も斬れる」


「最後を軽くおっしゃらないでください」


「怖いか」


「怖くないと言えば嘘になります」


 赫臣は意外そうに深雪乃を見た。


 彼女は粥の椀を見下ろしたまま続ける。


「ただ、鵺喰家の方々よりは分かりやすいです。刃物を刃物の顔で持っている方は、まだ親切ですから」


 赫臣の笑みが消えた。


 深雪乃は、しまったと思った。


 この男は怒る時も近い。慰める時も近い。今の言葉で、どちらに動くか分からない。そう思った瞬間、赫臣は片手を伸ばし、深雪乃の頭をそっと撫でた。


 突然だった。


 深雪乃の肩がびくりと跳ねる。


 だが、手はすぐに離れなかった。乱暴ではない。髪を潰すでも、掴むでもない。黒髪の表面を、指の腹でゆっくり撫でる。まるで濡れた獣を落ち着かせるような手つきだった。


「ほんと、ひでえ家にいたんだな」


 赫臣の声が、低く落ちる。


 深雪乃は目を伏せた。


「家を悪く言うものではございません」


「お前が言うならまだしも、俺が言う分には構わねえだろ」


「篝火家当主の言葉は、重すぎます」


「じゃあ、男として言う」


「なお悪いです」


「鵺喰は腐ってる」


 深雪乃は黙った。


 その言葉は、ずっと自分の中にあった。けれど、口にできなかった。自分が生まれた家だ。母の気配が残る家だ。父の名がある家だ。憎んでいるのに、切り捨てきれない。だから外の者に言われると、胸が痛む。


 同時に、少しだけ息ができる。


 腐っている。


 そう言ってよいものだったのか。


 深雪乃は粥をもう一口食べた。喉を通る時、少しだけ熱かった。


 赫臣はそれを見て、また目を細めた。


「偉い」


「子ども扱いは不要です」


「いい女だ」


「言い直せばよいというものではありません」


「じゃあ、俺の深雪は偉い」


「最も不要な所有表現が足されました」


 赫臣は満足げだった。


 深雪乃は食事を半分ほどで箸を置いた。残したわけではない。これ以上入れると、胃が受けつけない気がした。赫臣は無理に勧めなかった。ただ、青菜を少しだけ小皿に寄せる。


「これはあとで食えそうなら」


「残してよろしいのですか」


「当たり前だろ」


「怒られませんか」


 口にしてから、深雪乃は目を逸らした。


 赫臣の表情がまた少し変わる。けれど彼は、今度は妖気を漏らさなかった。代わりに、膳を横へ置き、深雪乃の手から箸をそっと受け取った。


「ここでお前を飯で怒る奴がいたら、俺が首を落とす」


「食事の躾としては過激です」


「安心したか」


「不安の種類が変わりました」


「ならよし」


「よくありません」


 赫臣は笑った。


 その後、砂笙が部屋へ来た。


 書生風の細い男は、襖の前できちんと声をかけてから入ってきた。赫臣と違い、返事を待った。深雪乃はその一点だけで、彼に少し好感を持った。人間、返事を待つだけでここまで評価が上がるのだから、礼儀というものは案外安い。


「お加減はいかがですか、深雪乃様」


 砂笙は丁寧に頭を下げた。


 眼鏡の奥の目は細く、表情は冷静だった。だが、彼の視線は深雪乃の肩や手首を確認するように動いている。観察されている不快さはあまりなかった。医者や参謀のそれに近い。


「生きております」


「それは何よりです。旦那様が騒がしく拾ってこられた甲斐がございました」


「騒がしく拾った覚えはねえぞ」


 赫臣が口を挟む。


 砂笙は一切表情を変えなかった。


「旦那様の静かは、世間では大騒ぎと呼びます」


「ひでえな」


「事実です」


 深雪乃は、ほんの少しだけ目を細めた。


 砂笙は膳を見た。


「半分ほど召し上がれたのですね。急に多く召し上がるとお身体に障りますので、よろしいかと」


「皆さま、私の食事量を観察なさるのがお好きなのですか」


「篝火家では、客人が飢えていないか確認するのも仕事でございます」


「客人」


 深雪乃はその言葉を繰り返した。


 砂笙は静かに頷く。


「旦那様が連れ帰った以上、篝火家の客人でございます」


「拾った女だ」


 赫臣が言った。


 砂笙は即座に返す。


「その言い方はおやめください。深雪乃様の品位が下がります」


「俺のものだ」


「もっとおやめください。旦那様の品位も下がります。元から低いなどと申してはおりません」


「今、ほぼ言ったな」


「お気のせいです」


 深雪乃は二人を見比べた。


 篝火家の主従は、鵺喰家とは違う。主の言葉に使用人が怯えるわけでも、機嫌を取るためだけに笑うわけでもない。砂笙は赫臣に呆れ、諫め、時に皮肉を投げる。それを赫臣も受けている。


 不思議な家だった。


 屋敷そのものも、鵺喰家とは違っていた。


 夕刻、深雪乃は少しだけ部屋の外へ出た。赫臣がついてきた。ついてこなくていいと言ったが、当然のようについてきた。篝火家は広い屋敷だったが、鵺喰家のように閉じた暗さはない。廊下は磨かれ、柱は黒く艶を帯び、庭には池と紅葉の木があった。あちらこちらに鬼灯の灯りが吊られ、昼でも薄く赤い気配を宿している。


 使用人たちは、深雪乃を見ると頭を下げた。


 好奇の視線はある。


 けれど、嘲笑はなかった。少なくとも、深雪乃の目に見える場所では。誰かが彼女の歩幅に合わせて廊下の端へ退き、別の者が寒くないよう火鉢を用意していた。何かを命じられたからしているのかもしれない。それでも、冷えた白湯を差し出して笑う者はいなかった。


 深雪乃は、その普通さに疲れた。


 優しくされることは、時に警戒を強くする。なぜ、と思う。いつまで、と思う。何のために、と思う。鵺喰家で長く過ごすと、善意にも裏の帳簿を探す癖がつく。実に不便な教育だった。


 夜になると、雨がまた降り出した。


 篝火家の屋根を叩く雨音は、鵺喰家で聞いたものよりも低く聞こえた。庭の池に雨粒が落ち、波紋が幾つも広がる。部屋には行灯がひとつ灯され、淡い橙色が畳の目に沿って伸びていた。布団は整えられ、枕元には温かい白湯と、少しだけ残した青菜の小皿が置かれている。


 深雪乃は布団に入った。


 だが、眠れなかった。


 身体は疲れている。瞼も重い。肩と脇腹の痛みは鈍く残っており、食事を取ったことで腹の底に少し熱が戻っている。それでも、眠りは近づいてこなかった。


 雨音が、鵺喰家の裏口を思い出させる。


 門が閉まる音。


 夜岐の声。


 祢々の目。


 父の書斎から聞こえた紙の音。


 折られた櫛。


 妖の爪。


 血が雨に混じった路地。


 記憶が一つずつ布団の中へ入ってくる。厚い布団は温かいはずなのに、背中が冷える。深雪乃は寝返りを打とうとして、痛む脇腹に息を詰めた。目を閉じると、妖の黒い爪が浮かぶ。目を開けると、知らない天井がある。


 ここは安全なのだろうか。


 安全という言葉は、深雪乃にはあまり馴染みがない。壁があり、戸があり、布団があっても、人は中まで入ってくる。優しい声で呼び、母の櫛を折る。笑いながら灰を落とす。だから、部屋が静かなほど、次に何が起こるのか分からなくなる。


 深雪乃は起き上がった。


 布団の上で膝を抱えようとして、寝間着の袖を握る。風呂敷は枕元に置いてある。母の鏡、端切れ、櫛の欠片。彼女はその包みへ手を伸ばし、胸元へ引き寄せた。


 櫛の欠片は、布越しにわずかに温かかった。


「母様」


 声は、小さく落ちた。


 返事はない。


 けれど、沈丁花の香りがほんの少しだけした気がした。その匂いに縋りかけた時、廊下で足音がした。


 深雪乃は身を強張らせる。


 足音は障子の前で止まった。


「深雪」


 赫臣の声だった。


 深雪乃は返事をしなかった。


 気配だけで起きていると分かったのか、赫臣は障子の向こうで低く笑った。


「寝てねえだろ」


「寝ております」


「起きてる声だな」


「寝言です」


「器用だな」


「ですから、寝ております」


「入るぞ」


「入らないでください」


 障子が開いた。


 深雪乃は、風呂敷を胸に抱いたまま赫臣を睨んだ。


「あなたは本当に返事を何だと思っているのですか」


「深雪の声を聞くためのもの」


「用法が違います」


「俺の中では合ってる」


「その中を一度掃除なさった方がよろしいかと」


 赫臣は嬉しそうに笑った。


 夜の彼は、昼よりも鬼に近く見えた。行灯の橙色に金髪が淡く光り、蒼い瞳の奥に影が差している。崩した和装の襟元から、首飾りの金属が覗く。煙管は持っていない。だが、彼の身体には火と煙の香りが染みついている。


 赫臣は部屋へ入り、障子を閉めた。


 深雪乃は布団の上で身を引く。


「夜に女性の部屋へ入る礼儀をご存じですか」


「知ってる」


「ではなぜ」


「心配だった」


「心配なら、廊下でなさってください」


「それじゃ抱けねえだろ」


 深雪乃は絶句した。


 赫臣はまったく平然としている。


「何をおっしゃっているのですか」


「布団ごと抱く」


「さらに意味が分かりません」


「お前、寒そうな顔してる」


「顔で気温を判断しないでください」


「怖い時も、寒そうな顔になる」


 深雪乃の言葉が止まった。


 赫臣はそれ以上からかわなかった。真っ直ぐに布団のそばへ来ると、膝をつく。深雪乃が後ろへ下がるより早く、彼は掛け布団の端を持った。


「ちょっと失礼」


「失礼とおっしゃれば何でも許されると」


 言い終わる前に、深雪乃は布団ごと抱き上げられた。


 身体ではなく、掛け布団と敷布団の間にいる彼女を、そのまま包むように。赫臣の腕が布団の外側から回り、深雪乃は綿にくるまれたまま彼の胸元へ引き寄せられた。痛む場所には直接触れない。肩も脇腹も、布団が間にある。けれど、逃げ場もない。


 近い。


 布団越しでも、赫臣の体温が分かる。彼の胸板、腕の力、首飾りの微かな音。行灯の光が彼の髪を照らし、煙管の香りが深雪乃の呼吸に混じる。


「離してください」


 深雪乃は言った。


 声は強いつもりだった。


 けれど、昼間より弱かった。疲れのせいだ。眠れないせいだ。そういうことにした。


「嫌だ」


 赫臣は即答した。


「夜まで強がってる女を、ひとりで震えさせとく趣味はねえ」


「震えておりません」


「布団が震えてる」


「布団の体調不良です」


「布団ごと面倒見る」


「布団にまで迷惑な方ですね」


 赫臣は笑った。


 笑いながら、深雪乃を包んだ布団をさらに自分の膝元へ寄せた。彼は壁にもたれるように座り、深雪乃を横抱きに近い形で抱えている。布団越しとはいえ、完全に抱かれていた。


 深雪乃は逃げようと少し動いたが、脇腹に痛みが走ってすぐ止まる。


 赫臣が低く言う。


「動くな。痛む」


「あなたが原因の一部です」


「じゃあ、責任取って抱く」


「責任の取り方が乱暴です」


「俺は鬼だからな」


 その言葉で、深雪乃は顔を上げた。


 赫臣は自分で言った通り、鬼だった。


 酒呑童子の先祖返り。


 百鬼夜行の頭。


 昼間、砂笙から聞かされた。篝火家は先祖返り会第一位であり、その当主である赫臣は百鬼、いや千鬼に近い怪異たちを従える力を持つ。帝都の裏で、寺社や警察や華族が扱いきれないものを動かす男。鵺喰家の親族たちが恐れ、同時に機嫌を損ねまいとする相手。


 その鬼が、今、深雪乃を布団ごと抱いている。


 意味が分からなかった。


 深雪乃は布団の中から赫臣を見上げた。


「酒呑童子の先祖返りは、皆さまこのように距離が近いのですか」


「俺ほどじゃねえな」


「誇ることではございません」


「俺は誇ってる」


「距離感という概念をどこかの妖に食べられたのですか」


 赫臣は少しも迷わず答えた。


「食わせた。邪魔だからな」


 深雪乃は黙った。


 あまりにも即答だった。


「……取り返してきてください」


「嫌だ。お前抱くのに邪魔だし」


「本人の前で堂々とおっしゃることではありません」


「本人に言わねえで誰に言うんだ」


「誰にも言わないという選択肢をご存じないのですか」


「ない」


「でしょうね」


 赫臣は楽しそうだった。


 だが、布団を抱く腕はふざけていなかった。深雪乃の痛む肩を圧迫しない位置を選び、脇腹が伸びないように角度を調整している。強引なのに、雑ではない。乱暴なのに、傷には触れない。


 それが、深雪乃には余計に分からなかった。


 赫臣は片手を布団の上から上げ、彼女の額にかかる髪をそっと払った。布団の端から出ていた前髪に指が触れる。深雪乃は少し身を固くしたが、逃げなかった。


「眠れねえなら、目閉じてるだけでいい」


「命令ですか」


「お願い」


「お願いの形をした命令では」


「深雪がそう聞くなら、そうかもな」


「開き直りが早すぎます」


「可愛い女には、早めに負けることにしてる」


「誰が可愛い女ですか」


「お前」


「視力を疑います」


「俺の目はいい」


 赫臣はそう言い、深雪乃の額へ唇を落とした。


 あまりにも自然に。


 深雪乃は呼吸を忘れた。


 額に触れた唇は、雨の日の火鉢のように温かかった。短い口づけだった。けれど、触れた場所から熱がじわりと広がる。母以外に、こんなふうに額へ触れられた記憶はない。打たれるためではなく、熱を測るためでもなく、ただ大事にするような触れ方。


 深雪乃の胸が、苦しくなった。


「何を」


「額にキスした」


「説明は求めておりません」


「嫌だったか」


 赫臣の声が、少しだけ低くなる。


 深雪乃は、すぐに答えられなかった。


 嫌だったなら、そう言えばいい。


 この男はおそらく、嫌だと本気で言えば手を止める。昼間、髪に触れる時もそうだった。触れないとは言わないが、触れ方を変えると言った。強引なのに、深雪乃の痛みを見ている。


 だから、嘘がつきにくい。


「……勝手です」


 やっと出たのは、それだけだった。


 赫臣の目が柔らかくなる。


「嫌とは言わねえんだな」


「言葉を節約しただけです」


「節約家だな」


「あなたが無駄遣いしすぎなのです」


「愛は使っても減らねえだろ」


「初対面に近い女へ使う言葉ではありません」


「俺はもうだいぶ好きだぞ」


「早すぎます」


「鬼だからな」


「鬼は恋の速度までおかしいのですか」


「俺はおかしい」


「そこは否定してください」


 赫臣は笑い、今度は深雪乃の髪へ唇を寄せた。


 黒髪の上に、そっと口づける。額よりも軽い。けれど、深雪乃の身体は布団の中で小さく震えた。雨音が遠くなる。行灯の灯りが滲む。赫臣の唇が離れた後も、髪に熱が残っている気がした。


 深雪乃は風呂敷を胸に抱きしめた。


「篝火様」


「赫臣」


「篝火様」


「頑固だな」


「なぜ、そこまでなさるのですか」


 赫臣はすぐには答えなかった。


 雨が屋根を叩く音が、部屋に満ちる。庭の池に落ちる水音も重なり、夜が少しだけ深くなる。赫臣は布団ごと深雪乃を抱いたまま、彼女の顔を見下ろしていた。蒼い瞳の奥に、昼間の笑いとは違うものがある。


「見つけたから」


 やがて、彼はそう言った。


「雨の路地でか」


「その前から」


 深雪乃は眉を寄せる。


「私を、ご存じだったのですか」


「鵺喰の妾腹の娘。妖の相がないのに死なねえ娘。親族にも使用人にも、人間臭いって蔑まれてる娘」


 赫臣の声は低い。


「噂くらいは、俺のところにも来る」


 深雪乃は身体の奥が冷えるのを感じた。


 知っていた。


 篝火家にまで、そんな噂が届いていた。鵺喰家の中だけだと思っていた言葉が、外へ漏れていた。人間臭い娘。死なない娘。妾腹。家の恥。笑い話のように誰かの口を渡り、赫臣の耳にまで届いていた。


 深雪乃は顔を伏せた。


「では、珍しいものを見物にいらしたのですね」


 声が、思ったより冷たくなった。


 赫臣の腕がほんの少しだけ強くなる。


「違う」


「違うのですか」


「見物なら、鵺喰の門の前で見てた。拾わねえ」


「珍品を拾う趣味があるのかもしれません」


「俺は、お前が欲しくて迎えに行った」


 深雪乃は息を止めた。


 赫臣は続ける。


「噂で聞いた時は、腹が立った。死なねえなら痛くないだろ、なんて言う奴らがいることにも、そんな屋敷がのさばってることにもな。けど、今日見たら腹が立つだけじゃ済まなかった」


 彼の指が、布団の上から深雪乃の肩の辺りに触れた。


 直接ではない。


 それでも、傷の場所を分かっている触れ方だった。


「雨の中で血まみれで、それでも風呂敷だけ離さねえで、妖に睨まれても目を逸らさなかった。死ねなかったって顔して、まだ毒吐く余力があった」


「褒める場所が少々歪んでおります」


「可愛かった」


「さらに歪みました」


「綺麗だった」


 深雪乃は黙った。


 赫臣の声が甘くなる。


「ひどい目に遭ってるのに、目だけは折れてなかった。あんなの見たら、離せるわけねえだろ」


「普通は、医者へ運んで離します」


「俺は普通じゃねえ」


「存じております」


「だから、布団ごと抱いてる」


「論理が鬼の縄跳びのように飛びますね」


 赫臣が笑った。


 深雪乃も、ほんの少しだけ息を吐いた。笑ったわけではない。ただ、胸の奥に張りついていたものが少し緩んだ。


 赫臣はその隙を見逃さなかった。


「眠れそうか」


「あなたがいなければ、少しは」


「なら、俺がいるからもっと眠れるな」


「なぜそうなります」


「鬼の理屈」


「たいへん迷惑です」


「でも、震えは止まってる」


 言われて、深雪乃は気づいた。


 布団の中の手が、先ほどほど震えていない。雨音はまだする。記憶も消えていない。鵺喰家の裏口も、折られた櫛も、妖の爪も、胸の底に残っている。


 それでも、赫臣の腕の中は温かかった。


 腹立たしいほどに。


 深雪乃は、布団の端を握った。


「重くありませんか」


 無意識に出た言葉だった。


 赫臣は少し驚いたように目を細め、それから破顔した。


「軽すぎて腹が立つ」


「怒る場所がおかしいです」


「もっと食わせる」


「飼育の宣言ですか」


「溺愛の宣言」


「ますます悪いです」


「明日も粥からな。胃を慣らして、魚も肉も甘いものも食わせる」


「勝手に献立を決めないでください」


「砂笙が決める」


「さらに逃げ場がないですね」


 赫臣は深雪乃の髪へ、もう一度軽く唇を寄せた。


 今度は深雪乃も、それほど強く身を固くしなかった。自分でそれに気づいて、少し悔しくなる。人は温かいものに弱い。どれほど意地を張っても、冷え切った身体は熱に反応してしまう。まったく不便な作りだった。


「深雪」


「……何ですか」


「ここでは、飯を食っていい。寝ていい。痛いって言っていい。嫌なことは嫌って言え」


 深雪乃は目を開けた。


 赫臣の声は静かだった。


 強引な男が、そこだけは妙に真っ直ぐに言う。


「俺が全部聞くとは言わねえ。俺はわがままだし、距離感は妖に食わせた。でも、痛がってるのを笑う奴はここに置かねえ。お前の飯を奪う奴も、母親のものを壊して笑う奴も、俺の屋敷にはいらねえ」


 深雪乃の胸の奥が、強く痛んだ。


 その痛みは傷のものではない。


 泣きそうになった。


 泣きたくなかった。


 だから深雪乃は、できるだけ冷たい声を作った。


「随分と大きなことをおっしゃいますね」


「大きい男だからな」


「身長の話ではありません」


「力もある」


「自慢ですか」


「安心材料」


「……本当に、面倒な方」


 赫臣は笑った。


「大好きだぞ、そういうところ」


「まだ一日もまともに過ごしておりません」


「時間は関係ねえ」


「関係あります」


「俺にはない」


「あなたの中だけで世の理を変えないでください」


「俺は鬼だからな」


 深雪乃は呆れて、目を閉じた。


 もう、言い返す力が少し足りなかった。眠気が、ようやく足元から上ってくる。雨音はまだ聞こえる。けれど、赫臣の心音も近くにあった。布団越しに、低く、規則正しく。


 彼の腕は強い。


 逃げようと思えば、逃げられない。


 けれど、今は逃げなくてもよい気がした。


 その考えが浮かんだことに、深雪乃は小さく戸惑う。信じるには早い。安心するには危険すぎる。赫臣は鬼で、百鬼夜行の頭で、先祖返り会の最上位に座る男だ。鵺喰家よりずっと大きな力を持っている。優しさも愛情も、力ある者の気まぐれなら、一瞬で刃になる。


 それでも。


 額に残る口づけの熱が、まだ消えない。


 髪に触れた唇の感触が、雨音の中で静かに残っている。


 深雪乃は、ほとんど眠りに落ちかけた声で呟いた。


「……明日は、勝手に入らないでください」


 赫臣が低く笑う。


「努力はする」


「守る気のない返事です」


「寝ろ、深雪」


「命令しないでください」


「お願いだ」


「お願いの声ではありません」


「じゃあ、甘やかしだ」


「もっと悪いです」


 最後の言葉は、ほとんど息になった。


 赫臣はそれ以上、何も言わなかった。


 ただ、布団ごと深雪乃を抱いたまま、額にもう一度、軽く唇を落とした。今度の口づけは、眠りの縁に置かれた小さな火のようだった。


 深雪乃は、抗議しようと思った。


 だが、まぶたが開かなかった。


 雨の音が遠くなる。鵺喰家の門の音も、夜岐の笑いも、折れた櫛の乾いた音も、少しずつ遠ざかる。完全に消えたわけではない。それでも今夜だけは、赫臣の腕と布団の温かさが、その音の前に立っていた。


 枕元の風呂敷の中で、母の鏡と櫛の欠片が、静かに寄り添っている。


 深雪乃は、赫臣の腕の中で眠りに落ちた。


 酒呑童子の鬼は、朝まで彼女を布団ごと抱いていた。


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