第6話 酒呑童子の色男
篝火赫臣という名は、雨の路地裏には不釣り合いなほど鮮やかだった。
深雪乃は、男の腕の中でその名を聞いた。雨はまだ細く降っている。路地の両側に並ぶ古い長屋の軒からは、溜まった水が糸のように落ち、石畳の上で砕けていた。先ほどまで妖が這っていた場所には、黒い染みだけが残っている。濁った妖気は雨に洗われ、腐った藻のような匂いも少しずつ薄れていた。
だが、消えていないものもあった。
肩の奥に残る痛み。
脇腹を裂かれた感覚。
骨が戻る時の、内側から無理やり組み直されるような気味の悪い痛み。
血はもう止まっている。裂けた皮膚も塞がり、雨に濡れた着物の下では傷口さえ見えなくなりつつあった。だが、痛みだけはしつこく残っていた。まるで、身体が元通りになる代わりに、痛みだけを証人として置いていくようだった。
深雪乃は、男の胸元に片手をついた。
そこには濡れた絹の感触があった。和服の襟元は大きく崩されている。片腕は袖に通され、もう片方の袖は抜かれて肩の後ろへ落ちていた。肌の見える腕は、ただ細いだけの遊び人のものではない。しなやかに筋が浮き、指の動きひとつで人の首を折れそうな力を秘めている。
抱えられているのに、揺れは少なかった。
赫臣は深雪乃を片腕で軽々と支えていた。小さな身体を抱き上げることに、まるで苦を感じていない。もう片方の手には煙管がある。銀の細工が施された細身の煙管で、吸い口には濡れた光が滲んでいた。雨粒が煙管の管を伝い、彼の指輪に落ちる。
金の髪は、雨を吸って少し重くなっていた。
襟足は長く、濡れた束が首筋に貼りついている。それでも色は失われず、薄暗い路地の中でぼんやりと灯るようだった。蒼い瞳は、帝都の洋館に嵌められた色硝子のように澄んでいる。けれど、その奥には冷たいだけではない熱があった。
耳には、数えるのが馬鹿らしくなるほどのピアス。
片耳だけでも十を越えている。耳朶、軟骨、耳の縁に沿って、小さな銀環や紅い石、青い硝子、黒曜石の粒が並んでいた。雨に濡れるたび、それぞれが違う光を返す。首には細い鎖が幾重にも掛かり、胸元には小さな鈴と牙のような飾りが揺れている。手首には腕輪、指には指輪、足首にも金属の飾りが覗いた。
派手だった。
あまりにも派手だった。
帝都のカフェーにたむろする道楽息子でも、ここまで飾り立てれば親族会議にかけられそうなものだ。けれど赫臣の装身具は、ただの飾りではない。深雪乃の肌は、それを本能で感じ取っていた。ひとつひとつに退魔の気配が宿っている。冷たく、鋭く、雨粒に紛れるほど細い光を内側に抱えている。
彼の周囲では、見えない糸がまだ張られていた。
雨粒が宙で一瞬だけ弾ける場所がある。何もない空間に、ふつりと切られた雫が細かく散る。深雪乃が目を凝らすと、ほんのわずかに光が見えた。髪の毛より細い。月明かりより淡い。だが、それは妖の肉を容易く断った。
霊糸。
先ほど、妖の腕を落とし、身体をばらばらにしたもの。
それが赫臣の耳飾りや指輪、舌に一瞬光った銀の飾りから、雨の中へ伸びている。どこに張られているのか、どこまで広がっているのか、深雪乃には完全には見えない。ただ、彼の半歩先に踏み込んだものは、骨も血も妖核も分け隔てなく切られるのだと分かった。
路地の奥で、まだ何かが蠢いた。
妖の残骸だと思っていた黒い塊が、溝の中で震える。裂けた目玉のようなものが二つ、泥水の中で開いた。腕を落とされ、胴を断たれてなお、核の欠片が残っていたのだろう。ずる、と音を立てて、黒い舌のようなものが伸びた。
深雪乃は反射的に身体を強張らせた。
赫臣の腕が、彼女を抱えたままわずかに締まる。
「まだ残ってたか」
声は軽い。
だが、蒼い瞳の温度が変わった。
赫臣は煙管を咥えたまま、空いている指を少し動かした。ほんのそれだけだった。雨音に紛れて、細い金属音が重なる。耳のピアスが鳴ったのか、指輪が触れたのか、深雪乃には分からない。
ぴん、と空気が張った。
次の瞬間、溝の中の黒い塊が、音もなく四つに裂けた。
濁った液体が水に混じる。妖核の欠片が石畳に跳ね、さらに細い光に触れて砕けた。黒い粉のようなものが雨に流される。悲鳴すら上がらなかった。祓われたというより、存在ごと細かく切り捨てられたようだった。
赫臣は煙を吐いた。
煙は雨に叩かれてすぐ薄くなったが、甘く焦げた香りだけが深雪乃の鼻先に残る。
「これで静かになったな」
「……あれを、静かにする方法が少々乱暴では」
「喰われかけてた奴が言うことか」
「喰われたわけではありません」
「そこ、意地張るところじゃねえだろ」
赫臣は笑った。
その笑い方が、深雪乃には少し腹立たしかった。嘲られているわけではない。馬鹿にされているわけでもない。むしろ面白がられている。拾った硝子玉に、思いがけず鋭い光があった時のような顔だった。
深雪乃は、男の腕から身を離そうとした。
しかし身体を動かした瞬間、脇腹の奥に鋭い痛みが走った。塞がったはずの傷が、まだそこにあると叫ぶ。彼女は息を詰め、眉を寄せた。
赫臣がすぐに気づいた。
「動くな」
「離してください」
深雪乃は言った。
声はまだ掠れていた。雨と血と痛みのせいで、思うほど強く響かない。それでも、彼女は顔を逸らさずに言った。抱き上げられている状態が落ち着かなかった。相手が誰であれ、人の腕の中にいることには慣れていない。
それに、この男は近すぎる。
距離だけではない。視線も、声も、触れ方も。初対面のはずなのに、まるで昔から自分の居場所を知っていたように近づいてくる。深雪乃はそれを警戒すべきだと分かっていた。分かっていたのに、胸の奥に拒絶の棘が立たない。
それが、余計に落ち着かない。
赫臣は深雪乃を見下ろした。
「嫌だ。今離したら俺の気が済まねえ」
あまりにも当然のように言われ、深雪乃は一瞬言葉を失った。
「あなたの気分で人を運ばないでください」
「俺の腕の中でそれ言うの、だいぶ根性あるな」
「根性ではなく、常識です」
「常識ねえ」
赫臣は煙管を持つ手で、軽く顎を掻いた。指輪が雨に濡れた肌の上で鈍く光る。
「俺、そういうのあんまり持ち合わせてねえんだ」
「見れば分かります」
「ひどいな」
「見たままを申し上げました」
「初対面の男に言うことじゃねえな」
「初対面の女を勝手に抱き上げている方に言われたくありません」
赫臣は声を立てて笑った。
路地裏に、その笑いが響いた。雨音と混じっても、不思議と濁らない声だった。深雪乃を抱いている腕は揺れない。煙管の火も消えない。妖を切り捨てた霊糸は、まだ雨の中に張られている。
「可愛いな」
「話を聞いておりましたか」
「聞いてたから言ってる」
「耳飾りが多すぎて、音が届きにくいのでは」
「この耳飾りな、ちゃんと役に立つんだぜ」
「耳を飾りすぎて説得力がありません」
「なら、さっきの妖に聞いてみるか。首ごと落ちて返事できねえけど」
深雪乃は黙った。
言っていることは物騒なのに、赫臣の声は甘い。軽い調子で、人の命どころか妖の核すら切る男だ。派手な装身具と崩した和装のせいで遊び人に見えるが、その実、身に纏う空気は底なしに危険だった。
彼の妖気は、深雪乃がこれまで屋敷で感じてきた先祖返りの気配とは桁が違う。
夜岐の化け猫の妖気は、爪で肌を撫でるような鋭さがあった。親族たちの気配は、古い蔵に溜まった澱のように重かった。けれど赫臣のそれは、もっと大きい。火と酒と夜の祭りを一つにしたような圧がある。近づけば飲まれそうになる。なのに、不思議と息苦しさはなかった。
深雪乃は、彼の首元に揺れる牙の飾りを見た。
「篝火家の方が、なぜ私を」
「言ったろ。迎えに来た」
「誰に頼まれて」
「俺に」
「あなたご自身に頼まれたということですか」
「そう」
「ご自分の命令には、ずいぶん従順でいらっしゃるのですね」
赫臣は口元を上げた。
「俺は俺に甘いからな」
「たいそう分かりやすい欠点です」
「欠点まで見てくれるのか。いいな、深雪」
深雪。
また、その呼び方だった。
母だけが、そう呼んだ。深雪乃の胸の奥が小さく震える。赫臣の口から出るその響きは、母のものとはまるで違う。低く、甘く、遠慮がない。けれど、不快ではなかった。
それがまた、深雪乃を戸惑わせた。
「その呼び方は」
「嫌か」
赫臣は足を止めた。
冗談めいた調子は残っている。けれど、蒼い瞳は少しだけ真面目だった。雨が彼の睫毛に留まり、瞬きで落ちる。抱えられた深雪乃の頬にも、冷たい雫が滑った。
深雪乃は答えに詰まった。
嫌だ、と言えばいい。
母だけの呼び方だと言えばいい。
だが、言葉がすぐには出てこなかった。名を奪われるような感覚はなかった。むしろ、屋敷で散々「人間臭い」「妾腹」と呼ばれてきた後で、自分の名だけをまっすぐ呼ばれることに、身体が追いつかなかった。
「……勝手です」
ようやく、深雪乃はそう言った。
赫臣は目を細める。
「嫌とは言わねえんだな」
「言葉を節約しただけです」
「じゃあ、節約ついでに俺の腕の中で休んどけ」
「会話が節約されておりません」
「俺が喋りたい」
「迷惑な方ですね」
「よく言われる」
「直す気は」
「ない」
「清々しいほど厄介です」
赫臣は嬉しそうに笑った。
深雪乃は、いよいよこの男が分からなくなった。普通なら怒るところだ。鵺喰家の者なら、深雪乃の言葉ひとつで顔を歪め、罰を与えようとする。使用人なら笑いながら陰で報復する。夜岐なら、柔らかい声で傷口を探す。
だが赫臣は、深雪乃の毒を受けて笑う。
楽しげに、むしろもっと欲しがるように。
それは薄気味悪いほど新鮮だった。
路地の出口へ近づくと、表通りの光が見えた。雨に濡れた石畳の上を、路面電車がゆっくり走っていく。鐘の音が湿った空気を震わせ、洋傘を差した人々が足早に通り過ぎる。煉瓦造りの建物の窓には、雨粒がいくつも貼りつき、店先の灯りがぼやけていた。
その華やかな通りへ、血に濡れた深雪乃を抱いた派手な男が出ていけば、当然、目立つ。
だが赫臣は気にしなかった。
路地の入口で、彼は一度立ち止まり、煙管を軽く振った。煙が薄く広がる。深雪乃の目には、その煙に霊糸の光が混じるのが見えた。通りを歩いていた人々の視線が、一瞬だけこちらへ向き、すぐに逸れた。
いや、逸れたのではない。
見ていない。
目の前にいるのに、認識していない。
赫臣の装身具のひとつが、小さく鳴った。耳の青い石のピアスだろうか。深雪乃が見上げると、彼は片目を細めた。
「目隠しだ。騒がれると面倒だろ」
「便利ですね」
「欲しいか」
「欲しがればいただけるのですか」
「お前が欲しいって言うなら、俺のものはだいたいやる」
深雪乃は、眉を寄せた。
「初対面の女に、よくそこまで軽々しく言えますね」
「軽くねえよ」
赫臣の声が、少しだけ変わった。
雨の音の中で、低く沈む。
「俺は、欲しいものには最初から甘い」
深雪乃の喉が詰まった。
甘い言葉は、屋敷でも聞いたことがある。夜岐が人前で妹を案じる時の声。親族が外向きに鵺喰家の結束を語る時の言葉。使用人が客に向ける柔らかな挨拶。どれも形だけだった。中身は空か、毒だった。
赫臣の言葉にも毒はある。
だが、それは隠して塗られた毒ではない。火酒のように強く、舌に触れた瞬間に熱を知らせるものだった。
深雪乃は、視線を逸らした。
「欲しいもの扱いは、不愉快です」
「なら、好きな女」
「なお悪いです」
「じゃあ、可愛い女」
「悪化しております」
「俺の深雪」
「最悪です」
赫臣はにやりと笑った。
「最悪でも、否定は遅かったな」
「痛みで頭が回らないだけです」
その言葉を聞いた瞬間、赫臣の笑みが薄れた。
彼は深雪乃を抱えたまま、通りの端に停めてあった黒塗りの自動車へ向かった。車体は雨に濡れて鈍く光り、運転席には細身の男が控えていた。書生風の衣を着たその男は、眼鏡の奥で深雪乃をちらりと見た後、赫臣へ向けて深いため息をついた。
「旦那様」
「砂笙、扉」
「承知しております。路地裏で妖を細切れになさった後、血まみれの娘御を抱えて現れる。実に旦那様らしい雑な運びでございますね」
「助けたんだから褒めろ」
「褒められたいなら、せめて目立たない努力をなさってください」
「目隠しした」
「そういう問題だけではございません」
砂笙と呼ばれた男は、細い目で赫臣を見た。痩せた書生風の男で、顔色はやや悪い。声は冷静だが、そこには長年苦労してきた者特有の疲れが滲んでいる。彼の背後に、狐のような細い気配が揺れた。
管狐の先祖返り。
深雪乃は直感した。
砂笙は後部座席の扉を開けた。
赫臣は深雪乃を降ろそうとしないまま、少し身を屈める。
「頭、ぶつけんなよ」
「その前に降ろしてください」
「だから嫌だって」
「自動車の中まで抱えて入るおつもりですか」
「そのつもり」
「常識はどちらへ置いていらしたのです」
「鵺喰の屋敷あたりに落としてきたかもな」
「拾いに戻ってください」
「お前だけ拾えたからいい」
砂笙が、深く息を吐いた。
「旦那様。口説くなら、せめて娘御の手当てを先になさってください。血の匂いで周囲の雑妖が寄ります」
赫臣の表情が鋭くなる。
深雪乃を抱く腕が、ほんのわずかに強くなった。痛むほどではない。ただ、雨の中で自分のものを隠すような力だった。
「寄ったら切る」
「切れば済むという考え方を、そろそろ卒業していただきたいのですが」
「無理だな」
「存じております」
砂笙は諦めたように目を伏せた。
深雪乃は、二人のやり取りを見ていた。篝火赫臣。百鬼夜行の頭。先祖返り会第一位の当主。鵺喰家の者たちが、名を出すだけで声を潜めた男。その男が、今、自分を抱えたまま、従者に呆れられている。
現実味がなかった。
けれど、赫臣の腕の熱は現実だった。肩に掛けられた羽織の重さも、煙管の香りも、まだ残る血の匂いも。
深雪乃は小さく息を吸った。
「篝火様」
「赫臣でいい」
「篝火様」
「頑固だな」
「私は、どこへ連れていかれるのですか」
赫臣は、自動車の後部座席に深雪乃を抱えたまま乗り込んだ。座席は革張りで、雨に濡れた着物の冷たさとは違う滑らかな感触があった。赫臣は深雪乃を自分の膝の上に乗せるように抱え直した。
深雪乃はすぐに身を硬くした。
「下ろしてください」
「座席にか」
「当然です」
「嫌だ」
「またあなたの気が済まないのですか」
「そう」
「幼子よりわがままですね」
「可愛いだろ」
「どこが」
「俺が」
「ご自身でおっしゃるところが、実に不憫です」
赫臣は笑った。
砂笙が扉を閉める前に、乾いた布を差し出す。赫臣は煙管を砂笙へ預け、空いた手で布を受け取った。そして、深雪乃の濡れた髪を拭こうとする。
深雪乃は反射的に顔を引いた。
赫臣の手が止まる。
空気が、一瞬だけ静まった。
雨音が車の屋根を叩く。通りの人々の声は、目隠しの霊術のせいか遠くぼやけて聞こえる。赫臣は深雪乃の顔を見た。蒼い瞳に、先ほどまでの甘い笑みはない。
「触られるの、怖いか」
深雪乃は答えなかった。
怖い、とは違う。
触れられると痛いことが多かった。掴まれる。押さえつけられる。足を引っかけられる。頬を打たれる。髪を引かれる。袖を裂かれる。母の遺品を奪われる時も、いつも誰かの手があった。
赫臣の手は乱暴ではない。
それでも、身体が先に覚えている。
深雪乃は、風呂敷を抱く指に力を込めた。
「怖いと申し上げれば、触れないのですか」
「触れ方を変える」
意外な答えだった。
深雪乃は目を上げる。
赫臣は布を持ったまま、真っ直ぐ彼女を見ていた。
「触れねえとは言わねえ。今のお前、冷えてるし、血も雨もひどい。放っておく気はない」
「強引ですね」
「そうだな」
「開き直るところではありません」
「でも、痛めつけるためには触らねえ」
赫臣の声は低かった。
その言葉だけ、雨音の中で重く残った。
深雪乃の胸の奥が、静かに揺れる。信じるには早すぎる。初対面の男だ。しかも、先祖返り会第一位の当主。鵺喰家とは別の意味で危険な存在に決まっている。
それでも、その言葉は今の深雪乃の皮膚に、乱暴に触れなかった。
深雪乃は少しだけ視線を落とした。
「……髪だけなら」
赫臣の表情が、ふっと緩んだ。
「いい子だ」
「子ども扱いなさらないでください」
「じゃあ、いい女だ」
「黙って拭けませんか」
「無理」
赫臣は布で深雪乃の髪を拭いた。
手つきは意外なほど丁寧だった。濡れた黒髪を強く擦らず、布で包むように水分を取る。前髪に触れる時も、頬の傷跡に近い場所を避けた。深雪乃は黙っていた。肩はまだ少し強張っている。だが、逃げるほどではなかった。
布が髪を滑る音。
車の屋根を叩く雨音。
砂笙が外で運転手に何か指示する低い声。
赫臣の胸元で鳴る装身具の微かな音。
それらが重なって、深雪乃の呼吸を少しずつ整えていった。
赫臣は彼女の髪を拭きながら、ふと低く言った。
「ひでえことされたな」
深雪乃の指が止まった。
「妖のことでしょうか」
「それもある」
「他に何が」
「その喪服もどき。袖の縫い目。肩の古い痣。手首の跡。飢えた顔。あと、目」
深雪乃は黙った。
赫臣は、笑っていなかった。
「鵺喰の連中、何した」
「何も」
「何も、でそんな顔になるか」
「では、いろいろと」
「雑だな」
「丁寧に語るほど、面白い話ではございません」
「俺は聞くぞ」
「私は話しません」
「今は、でいい」
深雪乃は彼を見た。
赫臣は布を膝に置き、濡れた指で彼女の頬に貼りついた髪をそっと払った。先ほどよりもゆっくりと、彼女が逃げられるだけの間を置いてから触れた。深雪乃は身を引かなかった。
自分でも、なぜなのか分からなかった。
赫臣の指が頬から離れる。
「俺の深雪だ」
また、その言葉。
深雪乃は眉を寄せた。
「私は、あなたのものになった覚えはございません」
「これから覚えればいい」
「勝手な方ですね」
「今さらだろ」
「救いがありません」
「ある」
赫臣は深雪乃を見下ろし、唇の端を上げた。
「俺がいる」
深雪乃は、呆れた。
本当に呆れた。
雨に濡れ、血を流し、屋敷を追い出され、妖に襲われた直後の女に向かって、この男は自分こそ救いだと言い切った。傲慢にもほどがある。酒呑童子の先祖返りとは、皆こうなのだろうか。だとしたら、先祖返り会第一位の座は力だけでなく面の皮の厚さでも勝ち取ったに違いない。
けれど。
胸の奥に、ほんのわずかな熱が灯った。
深雪乃はそれを認めたくなくて、冷たく言った。
「救いにしては、装飾過多です」
赫臣は一拍置いて、楽しげに笑った。
「可愛いな」
「それしか言えないのですか」
「何回でも言える」
「控えめに申し上げて、迷惑です」
「控えめじゃなく言ったら?」
「耳飾りの数だけ面倒な方です」
「二十以上あるぞ」
「では、二十以上面倒です」
「数えてくれたのか。嬉しいな」
「目に入るほど多いだけです」
赫臣は、心底愉快そうに笑った。
その笑い声を聞きながら、深雪乃は窓の外へ目を向けた。雨に濡れた帝都の街が、硝子越しに流れていく。路面電車の灯、洋館の窓、赤い煉瓦、濡れた傘の列。鵺喰家の高台から見下ろしていた街とは、違って見えた。
行き先は分からない。
この男が何を考えているのかも分からない。
けれど、少なくとも今、雨の路地裏に置き去りにされてはいない。
深雪乃は風呂敷を胸に抱いたまま、目を閉じかけた。身体の底から疲れが上がってくる。痛みはまだ残っている。肩も脇腹も熱い。だが、赫臣の羽織は温かかった。
眠るつもりはなかった。
それなのに、意識が少しだけ沈む。
その寸前、赫臣の声が耳元に落ちた。
「寝ろ。着くまで抱いててやる」
「……下ろしてください」
声は弱かった。
「嫌だ」
「本当に、わがままな方ですね」
「そうだな」
「あなたの気分で、人を運ばないでください」
「今は俺の気分で助かっとけ」
深雪乃は返事をしようとした。
だが、言葉になる前に、まぶたが重くなる。煙管の香りと雨音、赫臣の体温、装身具の微かな音。すべてが遠くなっていく。
最後に聞こえたのは、低く甘い声だった。
「可愛いな、俺の深雪」
深雪乃は、抗議しなければと思った。
けれど、声は出なかった。
風呂敷の中で、折れた櫛の欠片が、静かに熱を帯びていた。




