第5話 雨の帝都へ
追放の日は、雨だった。
朝から空は低く、鵺喰家の屋根瓦を押し潰すように灰色の雲が垂れていた。庭の松は水を含んで重くしなり、石灯籠の笠から雫が絶え間なく落ちている。玄関先の黒い敷石には、小さな波紋が幾つも生まれては消えた。
深雪乃は、裏口に立っていた。
表門ではない。
弔問客や親族が出入りする立派な門でも、家の娘が嫁ぐ時に使う玄関でもない。炊事場の裏、薪置き場と汚れた雑巾桶の間にある、使用人が荷を運ぶための裏口だった。濡れた土の匂いと、灰の混じった薪の匂いが、湿った空気の中に沈んでいる。
彼女の手には、小さな風呂敷包みがひとつだけあった。
薄い紺の布は古く、端がほつれている。包みの中身は、母の鏡、母の着物の端切れ、折れた櫛の欠片。それだけだった。
鏡は手のひらほどの丸い懐中鏡で、銀の縁には細かな沈丁花の模様が彫られている。母の部屋から見つかったものではない。深雪乃が幼い頃、母が亡くなる少し前に、こっそり握らせてくれたものだった。以来、深雪乃は小部屋の畳の下、割れた板の隙間に隠していた。
着物の端切れは、母が好んでいた淡い白藤色の布だった。もう衣としての形はない。袖の端を切り取っただけの小さな布に過ぎない。それでも指で触れると、深雪乃は母の膝に頬を寄せた夜を思い出した。沈丁花の香りはもうほとんど消えている。だが、雨の日だけ、ほんのわずかに甦る気がした。
櫛の欠片は、歯が折られた黒檀の一部だった。
夜岐は櫛そのものを返さなかった。祢々が荷物を改める時、文箱の底から落ちた小さな破片だけを、深雪乃は袖の内へ滑り込ませた。折れた歯の根元に近い欠片。銀の細工もほとんど残っていない。けれど、深雪乃の指先が触れると、そこには確かに冷たい清らかさがあった。
弓を、忘れないで。
母の声に似たものが、まだ血の奥で消えずにいる。
「ずいぶん軽いお荷物ですこと」
声がした。
薄墨祢々が、裏口の庇の下に立っていた。濃鼠の着物を雨に濡らさぬよう、袖を少し持ち上げている。背後には小鈴と、若い下女が二人いた。皆、仕事の手を止めてまで深雪乃を見送りに来たらしい。立派な忠義だった。人を踏み出す瞬間だけは、誰も遅刻しない。
深雪乃は風呂敷を胸の前で抱いた。
「皆さまが、たいそう丁寧に軽くしてくださいましたので」
祢々の目が細くなる。
「屋敷のものを勝手にお持ちになられては困りますから」
「母のものまで屋敷のものと呼ぶのなら、鵺喰家は亡くなった人の温もりまで相続なさるのですね」
「深雪乃様」
「便利なお家です。心のない方々には、ちょうどよろしい制度かと」
小鈴が顔をしかめた。
「最後までそのお口なのですね」
「最後なら、もう少し聞き応えのあることを申しましょうか」
「結構です」
祢々が遮った。冷たい声だった。
深雪乃は裏口から庭を見た。雨は細い。だが止む気配はない。屋敷の外へ続く土道はぬかるみ、表の通りへ出るまでの石段には水が溜まっている。足袋はすぐに濡れるだろう。草履も長くはもたない。だが、替えはない。
屋敷の中から、衣擦れの音が近づいた。
夜岐が現れた。
淡い灰桜の着物に、黒い羽織を重ねている。喪に服す色を保ちながらも、帯締めには控えめな金が入っていた。雨の光の中で、その金だけが静かに光る。彼女の髪には、今日は飾りが少ない。けれど何もないわけではない。小さな珊瑚の玉が、耳の下で揺れていた。
深雪乃は一礼した。
「姉上」
「もう姉と呼ばなくてもいいのよ」
夜岐は微笑んだ。
「屋敷を出たら、お前は鵺喰の娘ではなくなるもの」
「戸籍も血も、裏口から出ると洗い流せるのですか」
「口だけは達者ね」
「荷物からは漏れたようです」
夜岐の笑みが少しだけ薄くなる。
彼女は深雪乃の風呂敷へ視線を落とした。
「中身をもう一度見せなさい」
深雪乃の手に力が入った。
祢々がすぐに近づく。
「深雪乃様」
命令ではない形をした命令だった。
深雪乃は風呂敷をゆっくりと開いた。母の鏡、端切れ、櫛の欠片。庇から落ちた雨粒が風呂敷の端にかかり、布の色を濃くする。
夜岐は鏡を見た。
「こんなもの、まだ持っていたの」
「ええ。姉上にも見つけられないものがあって、安心いたしました」
夜岐の瞳が細くなった。
「捨てていけば?」
「姉上のお言葉ほど不要ではございませんので」
小鈴が息を呑んだ。祢々の指がぴくりと動く。夜岐は一瞬、深雪乃の頬を打とうとした時と同じ目をした。だが、すぐに笑みに戻す。
「まあ、いいわ。そんな古い鏡と布切れくらい、持たせてあげる」
「ご寛大でいらっしゃいますね」
「ええ」
夜岐は一歩近づき、深雪乃の耳元へ顔を寄せた。梅と麝香の香りが雨の匂いに混じる。
「どうせ、すぐに売ることになるもの」
深雪乃は目を伏せなかった。
夜岐の唇が、さらに近づく。
「お前みたいな娘が、帝都で一人で生きられるはずがないわ。雨に濡れて、飢えて、誰かに拾われるか、誰にも拾われずに倒れるか。どちらでも、鵺喰には関係ない」
「ご心配ありがとうございます」
「心配などしていないわ」
「存じております。姉上は心配をなさる時も、形からお入りになりますもの」
夜岐の笑みが消えた。
彼女は深雪乃の肩を押した。
強くはない。けれど、足元の濡れた敷石は滑りやすかった。深雪乃の身体がわずかに傾く。風呂敷を抱え直し、どうにか踏みとどまった。足袋の裏に雨水が染み込む。
「行きなさい」
夜岐が言った。
「二度と戻ってこないで」
深雪乃は、屋敷の奥を見た。
長い廊下、磨かされた板、閉じ込められた蔵、母の櫛を折られた離れ、父の書斎。痛みと冷えと屈辱ばかりの場所だった。けれど、母の気配もあった。遠い記憶の中で、父が水差しを置いてくれた夜もあった。憎むだけなら楽だった。何も惜しまず出ていけた。
人の心は、もっと面倒にできている。
深雪乃は静かに頭を下げた。
「お世話になりました」
夜岐が満足げに唇を上げた瞬間、深雪乃は続けた。
「屋敷の床と廊下には」
小鈴が噴き出しそうになり、慌てて口を押さえた。祢々が鋭く睨む。夜岐の顔から血の気が引き、すぐ怒りで赤くなる。
深雪乃はそれ以上何も言わず、裏口の外へ出た。
雨が、彼女の髪と肩を濡らした。
最初の一歩で、足袋に水が染みた。二歩目で草履の鼻緒が冷たくなる。三歩目で、鵺喰家の庇の下から完全に外れた。背中に、屋敷の者たちの視線が刺さる。誰も呼び止めない。誰も傘を差し出さない。
門を出るまで、深雪乃は一度も振り返らなかった。
鵺喰家の門は、雨の中で重く閉じられた。
ぎい、と湿った木の音がした後、鉄の閂が落ちる音が響いた。その音は、彼女の背中に冷たく残った。追い出されたのだと、改めて知らされる音だった。
帝都へ向かう道は、ぬかるんでいた。
鵺喰家の屋敷は高台にある。坂を下りるにつれて、雨に煙る街の輪郭が少しずつ見えてきた。瓦屋根の家々、電柱、濡れた路面を走る人力車、遠くを通る路面電車の鈍い響き。文明開化の街は、雨の日にはどこか薄汚れて見える。洋館の窓も、煉瓦造りの建物も、カフェーの看板も、水に濡れればみな同じようにくすむ。
深雪乃は風呂敷を抱きしめ、坂道を下りた。
雨は細いが、長く続く。髪はすぐに重くなり、毛先から雫が落ちた。着物の肩も袖も濡れ、布が肌に貼りつく。裾は泥を吸い、歩くたびに重くなる。足袋の中は冷え、爪先の感覚が鈍くなっていった。
それでも彼女は歩いた。
行き先はない。
遠縁に預けるという話は、結局なかった。祢々は「先方の都合が悪くなりました」とだけ告げた。支度金もない。紹介状もない。持たされたのは古い草履と、役に立たない薄い羽織だけだった。
つまり、鵺喰家は深雪乃を帝都の雨の中へ捨てた。
迷惑な荷物を裏口から出すように。
昼を過ぎる頃、街の音が濃くなった。
路面電車の鐘が鳴る。人力車夫の掛け声が飛ぶ。カフェーの軒先から、珈琲と砂糖の甘い匂いが漏れる。洋傘を差した女学生たちが笑いながら通り過ぎ、背広姿の男たちが新聞を小脇に抱えて急ぎ足で歩く。
誰も、深雪乃を見ない。
見てもすぐに視線を逸らす。
濡れた着物の女が一人、風呂敷を抱えて歩いている。帝都では、それくらい珍しくもないのだろう。華やかな街は、暗がりを見ないことで明るさを保っている。実に合理的で、実に薄情だ。
深雪乃の腹が、静かに鳴った。
朝から何も食べていなかった。昨日の夜も、薄い粥を半分だけだった。足元がふらつく。濡れた石畳に草履が滑り、彼女は壁に手をついた。煉瓦の壁は雨で冷えており、掌から体温を奪っていく。
風呂敷の中の鏡が、胸に硬く当たる。
深雪乃は路地の入り口で足を止めた。
表通りは人が多い。だが、雨宿りできる軒先はどこも店の者が睨んでいる。濡れた着物で立っていれば、客が嫌がると言わんばかりの目だった。深雪乃は路地へ入った。狭い道だった。両側には古い長屋の裏と、荷車置き場が並んでいる。雨水が溝を流れ、腐った野菜屑と泥の匂いがした。
奥に、小さな祠があった。
傘もない深雪乃には、そこしか雨を避けられそうな場所がなかった。祠の庇は浅かったが、身体を屈めれば少しは濡れずに済む。彼女はそこへ向かい、石段の端に腰を下ろした。
膝が震えている。
指先は冷え、腕には力が入らない。喉が渇いていた。雨水を飲む気にはならなかったが、舌の上は乾いている。身体は傷つけば戻る。けれど飢えも冷えも、消えてはくれない。
深雪乃は風呂敷を開き、母の鏡を取り出した。
銀の縁は曇っている。雨粒が一つ、鏡面を滑った。映った自分の顔は、青白く、唇の色も薄い。黒髪は頬に貼りつき、赤みを帯びた瞳だけがやけに鮮やかだった。
「……ひどい顔」
呟きは雨音に溶けた。
鏡をしまおうとした時、背後で水音がした。
ちゃぷり。
人の足音ではなかった。
深雪乃は顔を上げた。路地の奥、長屋の影が濃くなっている場所に、何かがいた。雨に濡れた黒い塊。最初は野良犬かと思った。だが、影は犬よりも大きく、背中が不自然に盛り上がっている。
腐った藻のような匂いがした。
深雪乃はゆっくり立ち上がった。風呂敷を胸に抱く。祠の前から離れようとした瞬間、影が動いた。
ずるり、と。
濡れた縄の束のようなものが、地面を這った。長い腕だった。人の腕に似ているが、関節の数が多すぎる。指は六本あり、爪は黒く反っていた。影の中から、顔のようなものが持ち上がる。目は二つではない。濡れた皮膚の下で、幾つもの小さな光が瞬いた。
妖だった。
深雪乃は息を呑み、路地の表通り側へ走ろうとした。
だが、足が動くより早く、妖の腕が伸びた。雨水を跳ね上げ、黒い爪が彼女の肩を掴む。布が裂ける音。皮膚が裂ける感覚。熱い痛みが肩から胸へ走った。
深雪乃は壁に叩きつけられた。
背中が煉瓦に当たり、肺の中の息が押し出される。風呂敷が腕から落ちそうになり、彼女は反射的に抱え込んだ。妖の爪が、肩から脇腹へ滑る。着物と肌がまとめて裂けた。
血が出た。
雨に混じって、赤が流れる。
普通なら、それで終わっていた。
胸のすぐ下を裂かれ、脇腹の肉を抉られ、肩の骨まで爪が届いた。痛みは白く弾け、視界が揺れる。深雪乃の膝が崩れた。石畳に倒れ込むと、雨水が頬に跳ねた。
妖が近づく。
口のような裂け目が開いた。中に並ぶ歯は、人のものでも獣のものでもない。濡れた石を噛み砕くための、黒い小さな刃だった。腐臭が強くなる。胃の奥がひっくり返りそうになった。
深雪乃は動けなかった。
痛い。
痛い。
息を吸うだけで、胸の裂け目が焼ける。肩が千切れそうだった。脇腹から流れる血は温かいはずなのに、雨に奪われてすぐ冷たくなる。彼女は歯を食いしばった。声を上げれば、妖が喜ぶような気がした。
だが、傷は塞がり始めていた。
裂けた皮膚の端が、濡れた布の下で蠢く。肉が寄り、血が止まり、肩の奥でずれた骨が戻る。痛みは消えない。むしろ、戻る時の痛みが新しく重なる。焼けるような裂傷と、骨を内側から押し込まれる痛みが同時に走る。
深雪乃の喉から、掠れた息が漏れた。
妖が動きを止めた。
小さな目が、一斉に深雪乃の傷口へ向く。血の匂いが薄くなるのを感じたのか、獲物がまだ生きていることに戸惑ったのか。濡れた腕が、もう一度伸びる。
深雪乃は這うように後ろへ下がった。
背中が祠の石段に当たる。風呂敷を抱えたまま、彼女は妖を見上げた。身体は戻りかけている。けれど、力は戻らない。痛みだけが残っている。冷えも、飢えも、恐怖も、すべてそのままだ。
唇が震えた。
「また死ねなかった」
声は、雨音よりも小さかった。
言った瞬間、自分の言葉の冷たさに胸が痛んだ。
死にたいわけではない。
生きたいとも、簡単には言えない。
ただ、死ぬほど痛い目に遭うたびに、身体だけが勝手に戻る。そのたびに周囲は笑い、傷つけた者は安心し、深雪乃だけが痛みを覚えている。死ねないことは、救いではなかった。少なくとも今の彼女には、そう思えなかった。
妖が身を沈めた。
跳びかかる前の動きだった。
深雪乃は目を逸らさなかった。祠の脇に落ちていた折れた木片へ、指を伸ばす。武器にもならない。だが、何も持たずに喰われるよりはましだった。
その時、雨の匂いの中に、別の香りが混じった。
煙管の香りだった。
甘く、焦げたようで、どこか苦い。白檀とも煙草とも違う。深く吸えば胸の奥まで熱を残すような、危うい香り。
妖の腕が、空中で止まった。
細い音がした。
ぴん、と張られた糸が雨粒を弾くような音。
次の瞬間、妖の腕が落ちた。
黒い爪を持つ長い腕が、深雪乃の目の前で石畳に転がる。切断面から濁った液が噴き、雨に流れた。妖が甲高く鳴いた。路地の壁に響く、耳障りな声だった。
深雪乃は目を見開いた。
何が起きたのか、見えなかった。
ただ、雨の中に幾筋もの細い光が走った気がした。糸のように細く、刃のように鋭いもの。路地の入口から祠の前まで、雨粒の間に見えない線が張られている。
妖が身を捩る。
その身体が、ばらばらになった。
腕、背、首のようなもの、目の集まった顔。濡れた肉の塊が音を立てて崩れ、石畳に散る。何かが割れるような音がして、妖の内側にあった黒い核が二つに裂けた。濁った妖気が雨に溶け、路地の空気が少しだけ軽くなる。
深雪乃は、呼吸を忘れていた。
煙管の香りが近づく。
雨の幕の向こうから、男が歩いてきた。
背が高い。
高すぎるほどだった。路地の狭さが、その男のために急に窮屈になったように感じる。崩した和服の片袖は抜かれ、片腕だけが濡れた空気に晒されている。金の髪は襟足が長く、雨に濡れてもなお、暗い路地の中で奇妙なほど目を引いた。
蒼い瞳。
耳には数え切れないほどのピアスが光っている。指輪、腕輪、首飾り、足首の飾り。雨の中で金属が小さく鳴る。装身具だらけの派手な男なのに、歩き方には無駄がなかった。煙管を指に挟み、吐いた煙が雨にほどける。
男は妖の残骸にはほとんど目を向けなかった。
まっすぐ、深雪乃を見た。
深雪乃は祠の石段に背を預けたまま、風呂敷を胸に抱いていた。着物は裂け、血と雨で重く濡れている。傷はもう塞がりかけているが、顔色はひどいはずだった。痛みと冷えで指先が震えている。普通なら、見られたくない姿だった。
男は、しゃがみ込んだ。
長身の身体が、深雪乃の視線の高さまで下りる。蒼い瞳が近くなる。煙管の香りに、かすかな酒のような甘さが混じっていた。
「生きてるか」
声は低く、妙に甘かった。
深雪乃は答えようとして、唇が震えただけだった。喉が渇き、声が出ない。男は彼女の肩の裂けた着物と、塞がりきった傷跡を見た。ほんの一瞬、蒼い瞳の奥が鋭くなる。
けれど、次に浮かんだ表情は哀れみではなかった。
怒りに似ていた。
それから、どうしようもなく強い興味と、見つけてしまったものを離す気のない光。
「……へえ」
男は煙管を口元から離し、濡れた指先で深雪乃の頬に触れた。
冷えた頬に、彼の指は熱かった。深雪乃は反射的に身を引こうとしたが、力が入らない。男の指は乱暴ではなかった。ただ、確かめるように触れ、頬に貼りついた黒髪をそっと払った。
「可愛い顔して、ひどい雨に捨てられてるな」
深雪乃はかすかに眉を寄せた。
「……捨てられたのでは、ありません」
ようやく出た声は掠れていた。
「出されただけです」
男の口元がゆるく上がった。
「同じ意味だろ」
「言葉の品が違います」
「この有様で、そこ気にするのか」
「気にするものが、もう少ないので」
男は一瞬黙った。
それから、喉の奥で笑った。深雪乃を嘲る笑いではない。雨の夜に灯がひとつ増えるような、低く温かい笑いだった。
「いいな、お前」
「何がですか」
「全部」
あまりに迷いのない答えだった。
深雪乃は男を見つめた。蒼い瞳。金の髪。無数の装身具。煙管。派手で、危険で、帝都の路地裏に似つかわしくないほど鮮やかな男。その奥から漂う妖気は、先ほどの妖とは比べものにならないほど濃い。けれど、不思議と吐き気はしなかった。
むしろ、雨に冷え切った身体の奥で、何かが静かに反応した。
母の櫛の欠片が、風呂敷の中でかすかに熱を持つ。
男はそれに気づいたように、深雪乃の抱えている包みへ視線を落とした。だが無理に奪おうとはしない。彼は自分の羽織を片手で外し、深雪乃の肩へかけた。
重い布だった。
煙管の香りと、雨に濡れた金属の匂いがする。男の体温が残っている。裂けた着物の上からその羽織が触れると、深雪乃の身体が小さく震えた。寒さのせいだけではなかった。
「立てるか」
「……立てます」
言ったものの、膝に力は入らなかった。
男は返事を待たず、深雪乃の背と膝裏に腕を回した。
身体が浮く。
深雪乃は息を呑んだ。風呂敷を抱く手に力を込める。傷は塞がっていても、持ち上げられた拍子に肩と脇腹の痛みが鋭くぶり返した。顔が歪みかけるのを、彼女は唇を噛んで堪えた。
「痛むか」
「痛くないように見えますか」
「見えねえな」
「でしたら、聞くまでもないかと」
男はまた笑った。
「本当に可愛いな」
「目が悪いのですか」
「いいや。かなりいい」
深雪乃は返す言葉を失った。
男の腕は強かった。深雪乃の身体など、何の重さもないように抱き上げている。近すぎる距離に、彼の首飾りが小さく鳴った。舌に何か光るものが見えた気がして、深雪乃は思わず視線を逸らす。
雨は降り続いている。
路地の石畳には、妖の残骸が雨に流されて黒く滲んでいた。だが、男が一歩踏み出すと、細い糸のような光が残骸の上を走り、黒い塊は跡形もなく崩れた。霊糸。深雪乃はそう直感した。目にはほとんど見えない退魔の線が、男の装身具から伸びている。
「あなたは」
深雪乃は掠れた声で尋ねた。
男は路地の出口へ向かいながら、ちらりと彼女を見下ろした。
「篝火赫臣」
雨音の中で、その名だけがはっきり響いた。
篝火。
先祖返り会第一位。
酒呑童子の系譜。
百鬼夜行の頭。
親族たちが会議で声を潜めた名が、今、深雪乃を抱き上げている男の口から軽く落ちた。
深雪乃の目がわずかに見開かれる。
赫臣は面白そうに笑った。
「怖いか」
「今さらです」
「いい答えだ」
「降ろしてください」
「無理」
「なぜ」
「お前、倒れるだろ」
「倒れません」
「さっき石段に座り込んで妖に喰われかけてた女が言う台詞じゃねえな」
深雪乃は黙った。
言い返せないことが少し腹立たしかった。
赫臣は彼女を抱え直した。腕の中で身体が少し近づき、深雪乃の頬に彼の胸元の布が触れる。煙管と金属と、雨に濡れた男の匂い。危険なほど濃い妖気の中に、不思議な熱がある。
「安心しろ」
赫臣は低く言った。
「俺が拾った」
深雪乃の指が、風呂敷を握りしめる。
「私は、物ではありません」
「なら、姫さんか」
「姫でもありません」
「じゃあ、深雪乃」
名前を呼ばれた瞬間、彼女は息を止めた。
名乗っていない。
彼女はまだ、自分の名を告げていなかった。
雨が強くなる。路地の出口の向こうで、帝都の灯がぼやけて揺れていた。深雪乃は赫臣の顔を見上げる。蒼い瞳は笑っているのに、その奥には底の見えないものがある。
「どうして、私の名を」
赫臣は煙管を咥え直し、雨の向こうへ目を向けた。
「鵺喰の屋敷から、今日追い出される娘がいるって聞いてた」
「見物にいらしたのですか」
「迎えに来た」
深雪乃は言葉を失った。
赫臣は、まるで当然のように続けた。
「それで、見つけた」
彼は深雪乃を見下ろした。
雨に濡れた金髪の隙間から、蒼い瞳がまっすぐ彼女を捕らえている。軽い笑みを浮かべているのに、ふざけているようには見えなかった。深雪乃の胸の奥が、痛みとは違う形で鳴る。
「俺の深雪だ」
その言葉は、雨の帝都の音に溶けなかった。
深雪乃は、返す言葉を探した。
見つからなかった。
ただ、風呂敷の中の櫛の欠片が、ほんの少しだけ温かかった。




