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人間臭いと蔑まれた不死身の娘は、百鬼夜行の主に愛される  作者: なつめ


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第4話 相続会議


 斎臣の死から三日目、鵺喰家の大広間には、朝から濃い香が焚かれていた。


 雨は上がっていた。けれど空はまだ晴れきらず、庭の松の枝には昨日までの水が重く残っている。瓦の端から落ちる雫が、時折、石畳に小さな音を立てた。廊下の奥まで湿気が入り込み、畳の匂いと線香の残り香が混じっている。


 葬儀のために張られていた黒白の幕は、表向きには片づけられていた。だが、屋敷の空気にはまだ喪の色が滲んでいる。柱の影、障子の白、座敷の隅に置かれた菊の花。どこを見ても、人が死んだ家の静けさがあった。


 その静けさの真ん中で、親族たちは朝から声を潜めていた。


 大広間には、鵺喰家の血筋に連なる者たちが集められている。斎臣の弟、従兄、遠縁の叔父、婚姻によって入り込んだ家の者。いずれも黒や鈍い灰色の着物をまとい、襟元を正して座っていた。顔だけ見れば、どの者も沈痛そうだった。


 だが、膝元に置かれた扇の動きは落ち着きがない。


 湯呑みに伸びる指も、誰かの発言を待つ目も、喪に服す者のそれではなかった。庭へ出された犬が餌を待つ時の方が、まだ慎ましいかもしれない。


 深雪乃は、大広間の外にいた。


 障子一枚を隔てた廊下の隅に、盆を置いて座っている。実子であるはずなのに、会議に加わる席はない。父の葬儀では座敷の外。相続の話でも、やはり外。鵺喰家は徹底していた。都合の悪い者を遠ざけることに関してだけは、名家らしい統率を見せる。


 薄墨祢々が、深雪乃の横に立っていた。


 濃鼠の着物に黒い前掛けを締め、髪はいつも通りぴたりと結われている。手には茶の盆があった。艶のある漆の盆に、湯呑みがいくつも並んでいる。湯気の立つもの、立たないもの。その違いは、見ればすぐ分かった。


「深雪乃様」


 祢々は声を低くした。


「中へお運びくださいませ。くれぐれも、余計なことは口になさらぬよう」


「余計なこととは、何でしょう」


「聞かれていないことすべてでございます」


「では、皆さまは随分と自由でいらっしゃいますね。聞かれてもいない財産の話を、朝から熱心になさっているようですから」


 祢々の目が細くなった。


 廊下に控えていた若い下女が、盆の陰で口元を動かした。笑ったのか、息を呑んだのか、どちらともつかない小さな動きだった。


「お立場をわきまえてくださいませ」


「立場なら、今朝からずっと廊下の隅にございます」


「深雪乃様」


「承知しております。茶をお運びすればよろしいのでしょう」


 深雪乃は盆を受け取った。


 湯呑みの陶器は温かい。だが、その中にひとつだけ、はっきりと冷えた器があった。湯気はない。白湯の表面は鈍く、指先で触れずとも温度が知れる。自分用だろう、と深雪乃は思った。親族たちへは熱い茶を出し、彼女には冷えた白湯。それを嫌がらせと呼ぶには小さい。小さいからこそ、毎日積まれると人の呼吸を削る。


 人を追い詰めるのに、刃物などいらない。


 ぬるい白湯と、見下す視線と、名ばかりの礼儀があれば十分なのだろう。ずいぶん倹約家な残酷さである。


 深雪乃は障子の前で膝をつき、声をかけた。


「失礼いたします」


 中から返事がある前に、祢々が障子を開けた。


 大広間の空気が流れ出る。香と茶と人の体温が混じった、重い匂いだった。畳の上には長い座卓が置かれ、その周囲に親族たちが並んでいる。奥の上座には夜岐が座っていた。黒に近い紫の着物をまとい、白い襟元をきちんと見せている。喪の色を身につけているのに、不思議と華やかだった。


 夜岐は深雪乃を見た。


 昨夜まで櫛の入った文箱を手元に置いていたはずだ。だが、今は何も持っていない。母の櫛がどこにあるのか分からない。そのことが、深雪乃の胸の奥で小さく燻った。


「深雪乃が運ぶのか」


 斎臣の弟、鵺喰兼近が低く言った。


 五十を越えた男で、太い眉と大きな鼻を持つ。声は重いが、目は常に損得を数えているように動く。彼は深雪乃を見る時、まるで屋敷の隅に置かれた古い道具を見るような顔をした。


 祢々が頭を下げる。


「人手が足りませんもので」


「ふん。まあよい。余計な耳を持ち込むな」


 深雪乃は何も答えず、畳の上を進んだ。


 盆を両手で持っているため、袖が膝に触れる。茶をこぼさないよう、ひとつずつ湯呑みを置いていく。兼近、遠縁の男、夜岐の母方の伯父、家付きの相談役。誰も深雪乃に礼は言わない。湯呑みだけを受け取り、すぐに話へ戻る。


「蔵の鍵は誰が預かっておる」


「北蔵は祢々が管理している。古文書と呪具の一部は、斎臣殿の書斎に記録があるはずだ」


「土地結界の管理権は夜岐様に渡すべきだ。化け猫の血が濃い。感覚も鋭い」


「しかし、鵺喰家の家紋は山本五郎左衛門に連なるもの。化け猫の血だけで、先祖返り会が納得するか」


「納得させればよい。篝火家への報告は慎重にすべきだがな」


 篝火家。


 その名が出た瞬間、大広間の空気が少しだけ硬くなった。


 先祖返り会第一位。酒呑童子の系譜。百鬼夜行を率いる篝火家の名は、鵺喰の者たちにとっても軽く扱えない。誰かが湯呑みを持つ手を止め、別の誰かが扇を閉じた。


 夜岐は目を伏せたまま、柔らかく言った。


「父上が亡くなられたことは、早く知らせるべきでしょう。隠せば、かえって疑われます」


「知らせる内容を選ぶ必要がある」


 兼近が言う。


「先祖返り会の席は、ただの名誉ではない。怪異管理、土地結界、寺社との協定、警察との裏の連絡。どれも鵺喰の力の根だ。家の内側が定まらぬうちに外へ漏らせば、蘆野火家が口を挟む」


 蘆野火家の名に、夜岐の眉がわずかに動いた。


 玉藻前の系譜。


 第三位とはいえ、幻術と言霊、婚姻政治に長けた家だ。鵺喰家の揺らぎを見れば、甘い顔で近づき、骨まで舐め尽くすだろう。親族たちはそれを恐れている。父が死んだ悲しみではなく、席を奪われる恐怖で顔を強張らせている。


 深雪乃は最後の湯呑みを置いた。


 夜岐の前だけ、白磁の茶器だった。香りのよい茶が入っている。湯気が薄く立ち、夜岐の唇の前で揺れた。


 盆には、冷えた白湯の器だけが残った。


 深雪乃がそれを手に取ろうとした時、祢々が廊下側から静かに言った。


「深雪乃様のお分は、外で」


 中にいる者たちが、ちらりとこちらを見た。


 夜岐が茶器に指を添えながら、微笑む。


「あら。深雪乃も喉が渇くのね」


 深雪乃は盆を持ったまま夜岐を見た。


「人間臭い身ですので」


 夜岐の笑みが薄くなる。


 兼近が鼻を鳴らした。


「出ておれ。今から大事な話をする」


「父の相続についてでしたら、私も実子でございます」


 大広間が静まった。


 親族たちの視線が、一斉に深雪乃へ集まる。障子の外に立つ祢々の気配も固くなった。湯呑みから立つ湯気だけが、何も知らぬ顔で揺れている。


 兼近はゆっくりと深雪乃を見た。


「実子とはいえ、妾腹であろう」


「父の血は、腹の場所で薄まるものなのですか」


「口を慎め」


「慎んだ結果、この程度でございます」


 夜岐が小さく息を吐いた。


「深雪乃。場を乱さないで」


「場が整っているようには見えませんでしたので、つい」


「お父様が亡くなられたばかりなのよ」


「ええ。棺のそばで蔵の鍵を数えるほど、皆さまお忙しいようです」


 兼近の手が座卓を叩いた。


 鈍い音が広間に響く。湯呑みの中の茶が揺れた。深雪乃の指も、盆の縁を少し強く握る。


「出ていけ」


 声は低かったが、明確な怒りがあった。


「この会議は鵺喰家の存続に関わるものだ。お前のような娘が口を挟む話ではない」


「私も鵺喰の名を持っております」


「名だけだ」


 別の親族が言った。


 痩せた男で、目元に深い皺がある。声は細いが、言葉は鋭かった。


「お前には妖の相がない。鵺喰の家紋を背負う力もない。死ににくいだけの娘を、先祖返り会の席に関わらせることはできぬ」


 死ににくいだけ。


 深雪乃は、その言葉を胸の奥で受け止めた。


 傷が塞がる。骨が戻る。毒でも死にきれない。けれど痛みは残る。その身体を、彼らはただの欠陥のように扱う。便利な盾か、気味の悪い荷物か。そのどちらかでしかない。


 夜岐が柔らかく言った。


「深雪乃。あなたは疲れているのよ。父上のこともあって、気が立っているのでしょう」


「姉上はお優しいですね。都合の悪い言葉を、すぐ人の疲れにしてくださる」


「本当に可愛げがないわ」


「姉上の分まで取っておきましたので」


 夜岐の頬がわずかに引きつった。


 兼近は祢々へ視線を向けた。


「下がらせろ」


 祢々が大広間へ入ってきた。深雪乃のすぐ横に膝をつき、盆を受け取ろうとする。


「深雪乃様。こちらへ」


 その声は丁寧だったが、手は強かった。祢々の指が盆の縁を押さえる。深雪乃は抵抗しなかった。盆を渡し、畳の上で一礼する。


「失礼いたしました」


「まったくだ」


 兼近が吐き捨てる。


 深雪乃は立ち上がった。裾が畳を擦る。障子の方へ下がる途中、夜岐と目が合った。


 夜岐は何も言わなかった。


 ただ、唇だけで笑っていた。


 お前には、何もない。


 その声が聞こえた気がした。


 廊下へ出ると、障子が閉められた。深雪乃の前には、冷えた白湯の器が置かれている。祢々が盆から外し、柱の脇に置いたものだ。湯呑みの縁には小さな欠けがあった。中の白湯はすでに水に近く、表面に薄い埃が浮いている。


 小鈴が廊下の奥で笑った。


「深雪乃様のお口には、熱いお茶は合いませんものね」


 別の下女が続ける。


「お身体は丈夫でも、舌は火傷なさるかもしれませんし」


 深雪乃は湯呑みを見下ろした。


 手を伸ばせば届く。喉は渇いていた。朝から何も口にしていない。唇の端には、夜岐に打たれた時の傷がまだ少し残っている。水分を取れば沁みるだろう。


 彼女は湯呑みを持ち上げた。


 陶器は冷たかった。


 指先に、井戸水に触れた時のような冷えが移る。深雪乃は一口だけ含んだ。味はない。だが、古い器の匂いと、ほんのわずかな灰の匂いがした。飲み込むと、喉を下りる感覚がやけにはっきり分かった。


「ありがとうございます」


 深雪乃は小鈴へ向けて言った。


 小鈴がきょとんとする。


「皆さまの心根よりは、まだ温かいようです」


 下女たちの顔が固まった。


 深雪乃は湯呑みを静かに置いた。


 障子の向こうでは、会議が続いている。声は低く、時折高くなり、また抑え込まれる。土地の名がいくつも出た。北の山林、南の川沿いの屋敷、帝都の貸家、寺社へ貸している古い土地。蔵の中身についても争っていた。退魔具、古文書、封じ札、妖の骨、血判状、結界石の控え。


 そのどれも、深雪乃は詳しく知らない。


 知らされなかったからだ。


 鵺喰家の娘でありながら、家の内側を知らされず、家の罪だけを浴びせられてきた。床を拭く手順は知っている。蔵の鍵の置き場所を掃除の時に見ることはある。祢々が誰に薬を渡すかも、食事を抜かれる日がいつかも分かる。だが、家を動かすものについては、いつも障子の外に置かれてきた。


 深雪乃は、座敷の外から声を聞き続けた。


 やがて、兼近の声が重く響いた。


「遺言書は、まだ見つからぬのか」


 廊下の空気が変わった。


 深雪乃は顔を上げた。


 中で誰かが咳払いをした。相談役の老人の声が続く。


「斎臣様の書斎、金庫、文机、北蔵の記録箱、いずれも確認いたしました。ですが、正式な遺言書は見つかっておりません」


「弁護士に預けている可能性は」


「使いを出しております。返答はまだ」


「先祖返り会へ提出する控えは」


「それも確認できておりません」


 重い沈黙が落ちた。


 深雪乃の脳裏に、夜の書斎が浮かぶ。


 紙の擦れる音。


 くしゃり、と握り潰す音。


 父ではない笑い声。


 遺言書が見つからない。書斎から紙の音がした。誰かが、父の死後に書斎へ入っていたのではないか。だが鍵はかかっていた。襖の外から見た限りでは、誰もいなかった。


 誰もいなかったはずの部屋で、紙が鳴った。


 背中を冷たいものが撫でた。


 大広間の中では、言葉が再び動き始める。


「遺言書がないなら、家中で協議して決めるほかあるまい」


「夜岐様を中心に立てるのが妥当だ」


「しかし、深雪乃の存在が残る。あれを屋敷に置いておけば、外の者が担ぎ出す恐れがある」


「担ぎ出す価値があるか」


「血は斎臣殿のものだ。利用する者はいる」


「篝火家にでも拾われれば面倒だぞ」


 深雪乃は息を止めた。


 篝火家。


 また、その名が出た。


 なぜ自分と篝火家が結びつくのか、深雪乃には分からない。先祖返り会第一位の篝火家が、鵺喰家の妾腹の娘など気にかけるはずがない。だが、親族たちは可能性そのものを嫌っているようだった。


 兼近が低く言った。


「ならば、早いうちに出すべきだ」


 夜岐の声が続く。


「出す、とは」


「屋敷からだ。名目は療養でも、遠縁への預けでもよい。だが、鵺喰の中枢からは外す」


 別の男が言った。


「遠縁に受け入れ先があるか」


「金を渡せばよい」


「金を渡す必要があるのか。あれには何も残さぬ方がよい」


「外で騒がれても厄介だ。多少の支度金で黙るなら安い」


 深雪乃の手が、膝の上で静かに握られた。


 追い出す話をしている。


 本人が障子一枚隔てた場所にいることなど、誰も気にしていない。いや、聞かせているのかもしれない。自分には何も決める力がなく、ただ決められる側なのだと分からせるために。


 小鈴がそっと近づいてきた。


 手には湯呑みがある。今度は白湯ですらない。使い終わった茶器を下げるついでに、深雪乃の前へ膝をつく。


「お気の毒でございますね」


 声は小さく、楽しげだった。


「でも、仕方ございません。深雪乃様は、このお屋敷にいてもお役に立ちませんもの」


 深雪乃は小鈴を見た。


 小鈴は笑っている。若い顔に浮かぶその笑みは、夜岐や祢々のものとは違った。幼く、浅く、だからこそ残酷だった。自分が今、何に加担しているのかを深く考えていない。周囲が笑うから笑い、上の者が踏むから一緒に踏む。そういう顔だった。


「小鈴」


「はい」


「役に立つとは、どなたかを踏む時に足台になることですか」


 小鈴の笑みが消える。


「何を」


「それなら、あなたは大層お役に立っていますね。踏まれる側ではなく、踏む側の足元で」


 小鈴の頬が赤くなった。


 彼女は湯呑みを盆に置き、音を立てて立ち上がる。その音に、障子の中の声が一瞬止まった。小鈴は慌てて頭を下げ、廊下の奥へ戻っていった。


 深雪乃は再び障子へ耳を向けた。


 会議は結論へ向かっていた。


「では、決まりだ」


 兼近の声。


「深雪乃は、七日以内に屋敷を出す。表向きには、斎臣殿の死で心身が弱ったため、静養に出すとする」


「行き先は」


「こちらで決める」


「荷物は」


「母親の遺品など、家の外へ持ち出させるな。鵺喰家にあるものは鵺喰家のものだ」


 深雪乃の胸が、鋭く痛んだ。


 母の櫛。


 夜岐の手元にある、折られた櫛。あの櫛から漏れた退魔の光。母の声。弓を忘れないで、という言葉。


 それさえ奪われる。


 夜岐が、静かに言った。


「深雪乃は、納得するでしょうか」


 その声は、心配しているように柔らかかった。だが深雪乃には分かる。夜岐は楽しんでいる。自分が追い出される瞬間を、誰より近くで見たいだけだ。


 兼近が鼻で笑う。


「納得など不要だ」


 別の親族が続けた。


「あれは、何も持たぬ方がよい。下手に物を持たせると、外で鵺喰の名を使う」


「先祖返り会へは、夜岐様を次の当主候補として報告する」


「正式な家督継承までは、兼近殿が後見を」


「異論はないな」


 障子の向こうで、誰も止めなかった。


 深雪乃の追放は、湯呑みを置くように決まった。


 静かで、簡単で、あまりにも軽い。人ひとりの居場所とは、こうもあっさり畳の上から払い落とされるものなのか。


 彼女は冷えた白湯の湯呑みに手を伸ばした。


 器の中は、ほとんど空だった。底にわずかに残った水が、障子越しの光を受けて鈍く揺れる。深雪乃はそれを飲み干した。喉は少しも潤わなかった。


 祢々が障子を開けた。


 大広間の中の視線が、廊下にいる深雪乃へ向けられる。親族たちは、彼女が聞いていたことを知っている顔をしていた。夜岐は上座からこちらを見ている。目元は穏やかだが、唇の端だけが満足げに上がっていた。


 兼近が言った。


「深雪乃」


 深雪乃は膝を揃え、座ったまま頭を下げた。


「はい」


「お前には、しばらく屋敷を離れてもらう」


「しばらく、でございますか」


「そうだ」


「戻る日取りは」


 兼近の目が冷える。


「決まり次第、知らせる」


「決まらない日取りを、しばらくと呼ぶのですね」


 大広間の空気が張り詰めた。


 夜岐がやわらかく言う。


「深雪乃。伯父様は、あなたを思っておっしゃっているのよ」


「姉上は、人を追い出す時にも綺麗な布をかけるのがお上手ですね」


「深雪乃」


「布の下から足が出ております」


 夜岐の目が笑わなくなった。


 兼近が怒りを噛み殺すように息を吐く。


「これは決定だ。お前に拒む権利はない」


 深雪乃はしばらく黙った。


 雨上がりの庭から、土の匂いが流れてくる。障子の隙間から差す光は弱く、大広間の奥に置かれた斎臣の位牌を鈍く照らしていた。父の死から三日。棺が去るより早く、この家は父の残したものを奪い合い、娘の居場所を片づけた。


 深雪乃は位牌へ目を向けた。


 父は、何を残したのだろう。


 遺言書は見つからない。書斎では夜に紙の音がした。母の櫛からは退魔の光が漏れた。彼女の知らない何かが、この家の奥に埋まっている。追い出されれば、それに触れる機会は失われる。


 けれど、今ここで叫んでも何も変わらない。


 この場の全員が、深雪乃を外へ出したがっている。親族も、夜岐も、使用人も。誰ひとりとして、彼女の言葉を正面から受け取るつもりはない。


 深雪乃は静かに顔を上げた。


「承知いたしました」


 夜岐の表情に、わずかな勝ち色が浮かぶ。


 深雪乃は続けた。


「鵺喰家の皆さまが、死んだ父の前で、実の娘を追い出すほどお忙しいことはよく分かりました」


 兼近が目を剥く。


「口の減らぬ娘だ」


「持たせていただけるものが少ないようですので、せめて口くらいは」


 祢々が冷たく声を挟んだ。


「深雪乃様。お下がりくださいませ」


「ええ」


 深雪乃は立ち上がった。


 膝が少しだけ痺れていた。冷えた白湯のせいか、長く座っていたせいか、それとも胸の奥で何かが凍ったせいかは分からない。彼女は大広間へ一礼し、障子の外へ下がった。


 廊下に出ると、空気が少し軽くなった。


 小鈴と若い下女たちが、遠巻きにこちらを見ている。祢々は障子を閉める前、深雪乃へ視線を向けた。その目には、勝ち誇る色も、憐れむ色もない。ただ、決まったことを片づける者の冷たさだけがあった。


「お荷物は、こちらで確認いたします」


 祢々が言った。


「勝手に持ち出されませぬよう」


「母の櫛は、私の荷物に入りますか」


 祢々の瞼がわずかに動いた。


「存じません」


「便利なお言葉ですね。知らないものが多いほど、長くお勤めできそうです」


 祢々は答えず、障子を閉めた。


 木枠が鳴り、大広間の声が遠くなる。


 深雪乃は廊下に立っていた。


 庭の向こうで、雲が切れかけている。けれど陽射しはまだ弱い。濡れた石灯籠の表面に、淡い光が滲んでいるだけだった。屋敷の奥では親族たちの声がまた動き出す。誰がどの蔵を調べるか、どの土地を押さえるか、篝火家へ何を知らせるか。


 深雪乃は、自分の手を見た。


 細い指。水仕事で荒れた皮膚。夜岐に押さえつけられた時に残った腕の痛み。打たれた唇はもう塞がりかけている。傷は戻る。痛みは残る。居場所は、今、奪われようとしている。


 だが、母の声は残っていた。


 弓を、忘れないで。


 深雪乃はゆっくり息を吸った。


 畳と香と湿った木の匂いを胸に入れ、吐き出す。泣かなかった。叫ばなかった。大広間の中へ駆け戻りもしなかった。代わりに、彼女は廊下の先にある北側の通路へ視線を向けた。


 父の書斎がある方角だった。


 追い出されるまで、七日。


 その間に、知らなければならないことがある。


 遺言書が消えた理由。母の櫛に宿っていた光。書斎で笑った誰か。鵺喰家が、深雪乃を急いで外へ出したがる理由。


 雨上がりの風が、廊下を細く抜けた。


 深雪乃の黒髪が、肩の上でわずかに揺れる。彼女は袖を整え、何事もなかったように歩き出した。


 背後の大広間から、笑い声が漏れた。


 それは父を弔う家の声ではなく、獲物の分け前を決める者たちの声だった。


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