第3話 折られた櫛
父の書斎から聞こえた笑い声は、夜明けまで深雪乃の耳に残った。
襖の向こうに誰がいたのか、確かめることはできなかった。鍵はかかっていた。深雪乃が指先で襖の引き手に触れた時、内側から聞こえていた紙の擦れる音も、喉の奥で転がすような低い笑いも、雨に吸われるように消えた。
その後は、何もなかった。
何もなかったことにされるには、あまりにも生々しい音だった。
雨は夜通し降り続いた。軒先から落ちる雫が、一定の間隔で庭石を叩く。廊下の行灯は油が尽きかけ、火の先を細く震わせていた。深雪乃はしばらく書斎の前に立っていたが、誰かを呼ぶことはしなかった。
呼んだところで、どうせ言われる言葉は決まっている。
聞き間違い。
父を失った衝撃。
妾腹の娘が、屋敷の大事な書斎に近づくな。
そうして、最後には深雪乃の方が責められる。鵺喰家では、起きたことの正しさよりも、誰が口にしたかの方が重かった。名のある者が嘘を吐けば真実になり、名のない者が真実を言えば戯言になる。実に便利な秩序だった。
深雪乃は小部屋へ戻った。
薄い布団に身を横たえても、眠りは浅かった。雨音が遠くなったかと思えば、また耳元へ近づく。夢の中で紙が擦れる。誰かが文をめくる。くしゃり、と握り潰す。笑う。父ではない声が、書斎の暗がりで低く響く。
目を開けると、障子の向こうが白んでいた。
朝の冷えが、布団の薄さを通して背中へ染み込んでくる。湿気を吸った畳はわずかに黴の匂いを含み、部屋の隅に置いた水差しの表面には細かな水滴がついていた。深雪乃は起き上がり、髪を整えた。前髪を櫛で梳こうとして、手が止まる。
櫛はない。
母の櫛。
黒檀に銀の細工が入った、小さな櫛。母が生きていた頃、深雪乃の髪を梳く時だけ使ってくれたもの。指の腹で撫でると、銀の模様がかすかに浮き上がる。沈丁花の香りが、いつまでも消えずに残っていた。
数日前から、引き出しの中は空だった。
深雪乃は指先を握り、ゆっくり息を吐いた。胸の奥に沈むものを押し込める。泣いたところで櫛は戻らない。怒鳴ったところで、この屋敷の者は喜ぶだけだ。
彼女は自分の指で髪を梳いた。
黒髪は濡れた糸のように背へ落ちる。ぱつりと揃った前髪を整え、古い着物の襟を正した。喪中の屋敷はまだ静かだったが、静けさの下ではすでに別の音が動き始めている。相続の相談、遺言状の捜索、父の死を利用する者たちの足音。
朝餉の支度の頃、深雪乃は炊事場の裏へ呼ばれた。
呼びに来たのは下女の小鈴だった。まだ十七ほどの娘で、普段は祢々の後ろについている。顔立ちは幼いが、目の動きだけは屋敷の空気に染まっていた。自分より弱い者を見つけた時にだけ、少し背が伸びたような顔をする。
「深雪乃様。夜岐様がお呼びです」
小鈴は、様をつけた。
けれど、声は命令に近かった。
深雪乃は雑巾を絞る手を止めた。井戸水に触れ続けていた指は赤くなり、爪の縁が痛む。炊事場からは味噌汁の湯気と焦げた薪の匂いが漂っている。使用人たちの朝餉はすでに並べられていたが、深雪乃の分は見当たらなかった。
「姉上が、どちらで」
「中庭の離れに。大事なお話があるそうでございます」
大事、という言葉を小鈴は少し楽しそうに言った。
深雪乃はその表情を見て、胸の奥が冷えるのを感じた。小鈴の背後で、二人の下女がこちらを見ている。炊事場の古参女中も、包丁を動かしながら耳だけはこちらへ向けていた。誰も驚いていない。何が待っているのか、少なくとも何かが待っていることを知っている。
深雪乃は濡れた手を布で拭いた。
「分かりました」
「お急ぎくださいませ。夜岐様をお待たせしてはなりませんから」
「それほど急ぐなら、姉上がこちらへいらっしゃればよろしいのに」
小鈴の目が少し丸くなる。
深雪乃は淡々と続けた。
「大事なお話は、足腰を使うと逃げてしまうのでしょうか」
炊事場の奥で、誰かが小さく息を呑んだ。小鈴は口元を引き結び、すぐに顔を伏せた。
「どうぞ、こちらへ」
中庭の離れは、普段は客人の休憩に使われる小さな座敷だった。
雨上がりの庭には湿った土の匂いが濃く漂い、石畳の隙間に溜まった水が朝の光を鈍く返している。椿の花は雨に打たれて重く垂れ、赤い花弁がいくつか泥の上に落ちていた。離れへ続く廊下は屋根付きだったが、横から吹き込んだ雨で端が濡れている。
深雪乃が近づくと、座敷の中から笑い声が聞こえた。
女たちの笑い。
柔らかく、細く、喉の奥で絡むような声。戸の前に立つと、香の匂いが流れてきた。甘い梅と麝香。夜岐の香だ。
小鈴が障子を開ける。
座敷には夜岐がいた。
淡い藤鼠の着物に黒い帯を締め、喪中であることを示すように髪飾りは控えめだった。だが、その控えめささえ、彼女には飾りに見える。白い指先には薄く紅が差され、膝の前には小さな文箱が置かれていた。
周囲には祢々、小鈴、若い下女が二人、そして佐助がいた。下男である佐助が離れの座敷にいるのは不自然だったが、誰も咎めない。咎める者たちが、彼を呼んだのだろう。
深雪乃は入口で膝をつき、一礼した。
「お呼びと伺いました」
夜岐はにこりと笑った。
「ええ。面白いものを見つけたの」
深雪乃の視線が、文箱へ落ちる。
胸の奥で、何かが細く鳴った。
夜岐はその反応を楽しむように、ゆっくりと箱の蓋へ手をかけた。爪の先が黒塗りの縁を撫でる。蓋が開く。中から取り出されたものを見た瞬間、深雪乃の指先から血の気が引いた。
黒檀の櫛だった。
銀の細工が、朝の光を受けて微かに光る。歯の並びは少し古びているが、一本一本が丁寧に磨かれていた。櫛の背に刻まれた小さな沈丁花の模様。間違いない。母のものだった。
夜岐は櫛を指先でつまみ上げた。
「あら。そんな顔もできるのね」
深雪乃は息を吸った。
喉が乾く。雨上がりの湿った空気を吸っているはずなのに、口の中だけが砂のようだった。
「姉上」
「何?」
「それは、母の櫛です」
「知っているわ」
夜岐は柔らかく答えた。
「だから呼んだの」
座敷の中に、薄い笑いが広がった。小鈴が袖で口元を隠し、若い下女たちが目を伏せながら肩を震わせる。佐助は所在なさそうに立っていたが、夜岐の目が向くと、慌てて口の端を上げた。
祢々だけは、静かな顔で夜岐の後ろに控えている。
深雪乃は膝の上で手を握った。
「お返しください」
声は低かった。
夜岐は首を傾げる。
「嫌よ」
「姉上には不要な品です」
「そうね。妾の遺品なんて、わたくしには少しも必要ないわ」
夜岐は櫛を膝の上で転がした。銀の細工が畳に触れ、かすかな音を立てる。深雪乃の胸の奥まで、その音が刺さった。
「でも、お前には必要なのでしょう?」
深雪乃は答えなかった。
答えれば、それが刃になる。沈黙しても、夜岐は刃にする。どちらにしても切られるなら、せめて自分から柄を渡したくはなかった。
夜岐はにっこりと笑った。
「佐助」
呼ばれた佐助が肩を揺らす。
「はい」
「深雪乃を、少し押さえていて」
深雪乃が身を引くより早く、佐助と若い下女の一人が動いた。
佐助が背後に回り、深雪乃の両腕を掴む。男の手は大きく、指が袖越しに腕へ食い込んだ。下女は前に回り、深雪乃の肩を押さえる。膝が畳に強く当たり、古い傷の奥が鈍く痛んだ。
深雪乃は顔を歪めなかった。
ただ、腕を引こうとした。佐助の力が増す。肩の関節が嫌な角度で軋み、袖の下で皮膚が熱を持つ。下女の指が鎖骨の近くに食い込み、呼吸が浅くなった。
「乱暴にしないで。壊れないとはいえ、見苦しいわ」
夜岐が笑いながら言う。
祢々が淡々と答えた。
「深雪乃様はお丈夫でいらっしゃいますから」
「そうだったわね」
夜岐は櫛を手に取った。
深雪乃の視線が、櫛に吸い寄せられる。
母の指が、かつてその櫛を持っていた。幼い深雪乃を膝元に座らせ、髪を少しずつ梳いてくれた。引っかかると、母は必ず手を止めた。痛かったでしょう、と囁き、指先で髪をほどいてくれた。櫛の歯が髪を通る音は、静かな雨に似ていた。
夜岐が、櫛の端の歯に指をかける。
「やめてください」
深雪乃の声が、わずかに掠れた。
夜岐の笑みが深くなる。
「やっとお願いしたわね」
「それは、母のものです」
「だから、壊すのよ」
ぱき、と乾いた音がした。
櫛の歯が一本、折れた。
小さな黒い破片が畳に落ちる。あまりにも軽い音だった。人の記憶が壊れる時の音にしては、あまりにも軽すぎた。
深雪乃の身体が、無意識に前へ出ようとする。佐助が両腕をさらに強く引いた。肩に痛みが走り、息が詰まる。下女が「おとなしくなさいませ」と囁きながら、深雪乃の肩を押さえつけた。
夜岐は次の歯に指をかける。
ぱき。
二本目が折れた。
使用人たちが笑った。
小鈴は高い声で。若い下女は顔を伏せながら。佐助は遅れて、ぎこちなく。祢々は声を出さなかったが、口元に薄い満足を浮かべていた。
深雪乃は夜岐を見なかった。
彼女は、周囲の使用人たちを見た。
笑う顔。笑おうとしている顔。夜岐の機嫌を損ねないために笑う顔。けれど、その奥には確かに楽しさがあった。命じられたからではない。許されたからでもない。彼らは、深雪乃が傷つくところを見たいのだ。
夜岐は櫛の歯をさらに折る。
ぱき。
ぱき。
ぱき。
一本ずつ。
丁寧に。
まるで花を摘むように。
深雪乃の喉の奥が熱くなる。目の奥が痛む。だが涙は落とさなかった。落とせば、夜岐はもっと楽しむ。使用人たちはもっと笑う。だから彼女は、痛みを奥歯で噛み殺した。
佐助の手が震えている。
深雪乃はそれに気づいた。腕を掴む指の力が、時々強くなり、また緩む。彼は完全に楽しんでいるわけではない。だが、止めもしない。止めない者の良心など、濡れた紙より薄い。
深雪乃はゆっくり口を開いた。
「命じられなければ笑えないのですか。それとも、笑うために命令を待っていたのですか」
座敷の笑いが止まった。
小鈴の口が半端に開いたまま固まる。若い下女が目を泳がせる。佐助の手から力が抜けかけ、祢々の視線が鋭くなる。
夜岐の指だけが、櫛の歯にかかったまま止まっていた。
「……何を言っているの」
深雪乃は使用人たちを見たまま、続けた。
「姉上が壊しているのは櫛です。けれど、皆さまが差し出しているのはご自分の顔でしょう。よくお似合いです。笑い皺の奥まで、品のなさが見えます」
小鈴の顔が赤くなった。
「深雪乃様こそ、妾腹のくせに」
「ええ。妾腹でございます」
深雪乃は静かに受けた。
「ですから不思議でなりません。正妻のお屋敷に仕える皆さまが、妾腹の娘よりも卑しく見えるのは、どなたのご教育なのでしょう」
祢々が一歩前に出た。
「お黙りなさいませ」
「命令がなくても黙れます。笑うよりは難しくございません」
祢々の目が冷えた。
夜岐は櫛を握りしめた。白い指に力が入り、黒檀の背が軋む。
「本当に、可愛くない」
深雪乃は夜岐を見た。
「可愛がるために呼んだわけではないでしょう」
「そうよ」
夜岐の声が低くなる。
「お前の大事なものが、わたくしの手の中で壊れるところを見せるために呼んだの」
彼女は残った歯へ指をかけた。
深雪乃の身体が強張る。
やめて、と叫びそうになった。母の匂いがした気がした。沈丁花。夜の廊下。膝の上の温度。髪を梳く手。痛かったでしょう、と囁く声。幼い自分が、その声に頷いた記憶。
だが、声は喉の奥で絡まった。
夜岐の指が動く。
ぱきん。
それまでよりも澄んだ音がした。
最後に近い歯が折れた瞬間、櫛の背から微かな光が漏れた。
ほんの一筋だった。
朝の光でも、行灯の火でもない。白に近い、けれど白だけではない。水底に沈んだ月のような、清らかで冷たい光。折れた歯の根元から溢れ、畳の上に細い線を描いた。
座敷の空気が、ふっと変わった。
香の匂いが遠のく。湿った畳の匂いも、雨上がりの土の匂いも薄くなる。代わりに、沈丁花の香りがした。
深雪乃だけが、息を止めた。
夜岐は目を細めた。
「何、今の」
祢々も櫛を見た。小鈴たちは顔を見合わせる。だが、彼女たちに聞こえてはいないようだった。見えたとしても、ただの光にしか見えていない。
深雪乃には、声が聞こえた。
とても小さな声だった。
耳元ではない。座敷の外でもない。胸の奥、骨の内側、血の流れの底から浮かぶような声。
――深雪。
母の声に似ていた。
深雪乃の瞳が揺れる。
押さえつけられた腕の痛みも、肩の軋みも、膝の痺れも、その一瞬だけ遠のいた。母は彼女を名前で呼ぶ時、いつも最後の音を少しやわらかくした。深雪乃ではなく、深雪、と。母と二人の時だけの呼び方だった。
――弓を、忘れないで。
光が消えた。
沈丁花の香りも、細い糸が切れるように薄れた。
座敷の中に、また梅と麝香の匂いが戻ってくる。夜岐が櫛を見下ろしている。折れた歯は畳に散り、黒い小さな骨のように転がっていた。
深雪乃は動けなかった。
弓。
その言葉だけが、心の奥に残る。
母は弓を使う人ではなかった。少なくとも、深雪乃が知る母は、薄い着物をまとい、静かに髪を梳き、時々遠くを見るだけの人だった。退魔師でも、武家の娘でもない。ただの人間の妾。そう聞かされて育った。
だが、櫛から漏れたあの光は、ただの遺品のものではない。
夜岐が、櫛を乱暴に文箱へ投げた。
「気味が悪い」
声に、わずかな怯えが混じっていた。
深雪乃はそれを聞いた。
夜岐はすぐに顔を整えたが、遅かった。ほんの一瞬、彼女の瞳に浮かんだものは怒りだけではない。知らないものに触れた時の恐れだった。
「祢々」
「はい」
「その櫛、捨てて」
深雪乃の身体が動いた。
佐助の手を振り切ろうとする。肩に激痛が走り、腕の骨が嫌な音を立てた。だが構わなかった。下女の手が鎖骨を押さえ、息が詰まる。畳に膝が擦れ、爪が食い込む。
「触らないでください」
深雪乃の声は低く、座敷の床を這った。
祢々が文箱へ手を伸ばしかけて止まる。
夜岐が眉を上げた。
「何?」
「それに、触らないでください」
「お前に命令される筋合いはないわ」
「では、お願いに聞こえるよう言い直しましょうか」
深雪乃は夜岐を見上げた。
赤みを帯びた瞳の奥に、静かな光が宿っていた。怒りはある。悲しみもある。けれど、それだけではなかった。母の声が、まだ血の底で震えている。
「姉上。その櫛から手を離してくださいませ。これ以上、ご自分の浅ましさを母の遺品に擦りつけないでいただけますか」
夜岐の顔が、はっきりと歪んだ。
次の瞬間、彼女の手が深雪乃の頬を打った。
乾いた音が座敷に響く。
深雪乃の顔が横を向く。唇の端が切れ、血の味が舌に広がった。鉄の味。熱い。頬はじんじんと痺れ、耳の奥で音が揺れた。
佐助と下女の手が、さらに強く彼女を押さえる。
夜岐は肩で息をしていた。化け猫の血が怒りに反応し、瞳孔が細くなっている。爪の先も鋭さを帯びていた。
「身の程を知りなさい」
深雪乃はゆっくり顔を戻した。
唇の血を、舌で拭う。
「身の程なら、毎日皆さまがご丁寧に教えてくださいます」
声は掠れていたが、折れてはいなかった。
「ただ、覚えが悪いもので」
夜岐の手がもう一度上がる。
だが、祢々が小さく声をかけた。
「夜岐様。お顔に傷を増やしますと、親族の方々が不審に思われます」
夜岐の手が止まった。
彼女は深雪乃を睨みつけた後、息を整えるように目を伏せた。次に顔を上げた時には、また美しい姉の表情に戻っていた。
「そうね。こんなことで騒がれても面倒だわ」
夜岐は文箱の蓋を閉めた。
櫛を捨てるとは、もう言わなかった。光が漏れたことが気にかかっているのだろう。壊して楽しむには、あの櫛は少しだけ得体が知れなくなった。夜岐はそういうものを嫌う。自分が支配できると思ったものが、知らない顔を見せることを嫌う。
「しばらく預かっておくわ」
「それは私のものです」
「違うわ。鵺喰家の中にあるものは、鵺喰家のものよ」
「では、母を妾と呼んだ口で、母の遺品だけは家のものになさるのですね」
夜岐の目がまた冷えた。
深雪乃は続けなかった。今は取り戻せない。力で奪えば、櫛ごと壊されるかもしれない。母の声が聞こえた今、その櫛をただの遺品として扱うことはもうできなかった。
夜岐は佐助に顎をしゃくった。
「離して」
佐助と下女が手を離す。
急に支えを失った深雪乃の身体が、前へ傾いた。彼女は畳に手をつき、痛む肩を庇いながら姿勢を整えた。打たれた頬は熱を持ち、唇から血が一滴、畳に落ちる。
黒い点が、薄い畳の目に滲んだ。
「下がりなさい」
夜岐が言う。
「その汚い顔を、これ以上見たくないわ」
深雪乃は立ち上がった。
膝が震えた。腕も痛む。けれど、彼女は座敷の中で倒れたくなかった。倒れれば、この者たちはまた笑う。笑い方を忘れたふりをして、命令がなくても勝手に笑う。
入口へ向かう途中、深雪乃は一度だけ振り返った。
文箱は夜岐の膝元にある。
その黒い蓋の隙間から、もう光は漏れていなかった。だが、深雪乃の耳には、母の声がまだ残っている。
弓を、忘れないで。
離れを出ると、雨上がりの庭が眩しかった。
雲の切れ間から差した淡い光が、濡れた石畳に反射している。椿の赤い花弁が泥に沈み、その上を小さな蟻が一匹、迷うように歩いていた。空気は冷たく、頬の熱を少しだけ奪う。
深雪乃は廊下の柱に手を添えた。
肩が痛む。唇も切れている。頬は腫れ始めていた。けれど、胸の奥には別の熱があった。母の櫛から漏れた光。退魔の気配。母の声。弓という言葉。
何かが、隠されている。
母は、ただの人間ではなかったのかもしれない。
父の書斎で聞こえた紙の音。葬儀の場で囁かれた遺言状。夜岐が壊した櫛から漏れた光。別々に見えていたものが、まだ形にならないまま、深雪乃の足元で細い糸のように絡み始めている。
深雪乃は、袖口で唇の血を押さえた。
鉄の味が、まだ舌に残っている。
「……母様」
声は、風に消えるほど小さかった。
返事はなかった。
ただ、庭の端で沈丁花の葉が、雨粒を落としてかすかに揺れた。




