第2話 座敷の外の葬儀
鵺喰家に、葬儀の朝が来た。
空は鈍い鉛色をしていた。雨はまだ落ちていないのに、庭の石は濡れたように黒く沈み、松の葉の先には細かな露がまとわりついている。風は弱い。だが、肌に触れる空気は水を含み、喪服の襟元から首筋へ冷たく入り込んできた。
表門には黒白の幕が張られ、玄関には弔問客の草履が並んでいた。線香の匂い、白檀の香、墨の匂い、湿った畳の匂い。いくつもの匂いが混じり合って、屋敷全体が深い息を殺しているようだった。
鵺喰斎臣の棺は、奥座敷に置かれていた。
白木の棺の周囲には菊が飾られ、燭台の火がかすかに揺れている。僧の読経が低く響き、木魚の音が一定の間隔で座敷を満たした。親族たちは畳の上に並び、黒い喪服の袖で目元を押さえていた。
深雪乃は、その座敷の外にいた。
実の娘であるのに、敷居の内側には入れられなかった。
廊下の隅に、座布団もなく座らされている。柱の陰。奥座敷の中は見えるが、棺の顔までは見えない位置だった。正面には親族が並び、夜岐は斎臣の娘として、母屋の者たちに囲まれて座っている。薄く俯いた横顔は悲しみに濡れているように見えた。袖で押さえる目元に、涙があるかどうかは分からない。
深雪乃の膝の上には、黒い喪服の袖が重く落ちていた。
これは、彼女のために仕立てられたものではない。蔵から出された古い喪服だった。丈は合わず、肩も少し広い。背中には虫食いを繕った跡があり、袖口には古い香の匂いが染みている。それでも深雪乃は、襟を乱さず、帯をきちんと結んでいた。
彼女の前を、女中たちが忙しげに行き来する。
茶を運ぶ者、香を替える者、弔問客の履物を揃える者。皆、悲しみを装うことに慣れていた。声を低くし、足音を抑え、目元を伏せる。だが、深雪乃の前を通る時だけ、ほんの少し袖が揺れ、足の向きが不自然に寄る。
盆を持った若い女中が、深雪乃のすぐ横で立ち止まった。
「失礼いたします」
言葉が終わるより早く、湯呑みの中身が傾いた。
薄い茶が、深雪乃の喪服の膝にこぼれる。熱くはなかった。ぬるくなった茶だった。だが、黒い布に茶の湿りが広がり、膝の上が重くなる。女中は小さく息を呑むふりをして、盆を胸元に寄せた。
「まあ……申し訳ございません。手元が狂いまして」
周囲の女中が、誰にも聞こえない程度に笑った。
深雪乃は膝の染みを見下ろした。茶葉の細かな欠片が布に貼りついている。指先で払うと、湿った跡だけが残った。
「構いません」
声を荒げることはしなかった。
女中は少しつまらなそうに瞬きをした。
「お着替えをお持ちいたしましょうか。もっとも、深雪乃様にお貸しできる喪服が、ほかに残っているかは分かりませんけれど」
「お気遣いなく」
深雪乃は袖を膝に重ね、淡々と言った。
「喪服に茶がこぼれたくらいで、葬儀の品格が落ちるなら、この家は初めから随分と軽いのでしょう」
女中の頬が硬くなった。
奥座敷では、僧の声が低く続いている。読経に紛れて、親族のすすり泣きが聞こえた。だが、その声は不自然なほど整っていた。息を吸う間合い、袖で目元を押さえる仕草、肩の震わせ方。誰もが見事に悲しみの形をなぞっている。
やがて焼香が一巡し、弔問客の足音が少しずつ遠のいた。
昼近くになると、奥座敷の空気は変わった。
読経の余韻がまだ畳に沈んでいるうちから、親族たちの声が低く交わされ始める。最初は斎臣の病状についてだった。急なことだった、昨日まで書面に目を通しておられた、胸を押さえて倒れたらしい。そんな言葉が、薄い悲しみの布を被せられて並んだ。
だが、すぐに布の下から別のものが覗いた。
「遺言状は、どちらに保管されておる」
「斎臣殿は書斎の金庫にしまう癖があったはずだ」
「いや、近頃は弁護士を呼んでいたと聞く」
「夜岐様が跡を継がれるのが筋であろう。あの方は先祖返りとしても申し分ない」
「妾腹の娘に、何か残されていては厄介だ」
「まさか。あれに何を任せるというのだ」
深雪乃は廊下の隅で、静かにそれを聞いていた。
言葉は障子に遮られ、時々曇る。けれど、聞き取れないほどではない。親族たちは声を抑えているつもりなのだろう。だが、人は欲の話をする時、悲しみの時よりも舌がよく動く。滑らかで、熱を帯び、弔いの場であることも忘れて、財産と名と家督を数え始める。
父の棺が、まだそこにあるのに。
深雪乃は目を伏せた。
斎臣への思いは、単純ではなかった。優しい父だったとは言えない。抱き上げられた記憶も、頭を撫でられた記憶もほとんどない。母が亡くなってから、彼は深雪乃を見る時、いつも何かを避けるような目をしていた。
守ってはくれなかった。
夜岐の嫌がらせも、祢々たち使用人の仕打ちも、父は知らなかったわけではない。屋敷の主人が、本当に何も知らずにいられるはずがない。ただ、見なかった。聞かなかった。何かを言えば、自分の罪にも触れると知っていたかのように。
それでも、死んだと聞いた瞬間、胸の奥に小さな穴が空いた。
憎み切れるほど、彼女は器用ではなかった。
愛された記憶が少ないほど、人は残り香に縋る。たった一度、熱を出した深雪乃の枕元に父が立っていた夜がある。何も言わず、水差しを置いて出ていった。それだけのことを、彼女は十九になった今でも覚えている。
愚かだと自分でも思う。
だが、記憶は持ち主の賢さを待ってくれない。
深雪乃が袖の下で指を握った時、背後から別の足音が近づいた。
薄墨祢々だった。
手には小さな香炉を持っている。灰を替えるためのものだろう。祢々は深雪乃の横を通る時、わずかに手元を傾けた。香炉の縁から、灰がこぼれる。
さらさら、と乾いた音を立てて、白い灰が深雪乃の肩と袖に降りかかった。
黒い喪服に、灰白の汚れが浮く。
「失礼いたしました」
祢々は立ち止まりもせず、低い声だけを落とした。
「お清めの灰でございますから、深雪乃様にはちょうどよろしいかと」
深雪乃は肩に落ちた灰を見た。
線香の匂いが強くなる。灰は軽く、指で払えば散る。だが布目に入り込んだ細かな粉は残った。喪服の黒が、ところどころ白く濁る。
廊下の端で、下女たちが顔を伏せた。
笑っている。
父の葬儀の日に。
この家の者は、悲しむふりをしながら財産を数え、弔いの最中に喪服を汚す。妖の血を誇りながら、やることは鼠より小さい。深雪乃はゆっくり息を吐いた。怒りはあった。けれど、怒りをそのまま出せば、彼女の方が礼を欠いたと言われるだけだ。
礼儀は、弱い者を黙らせる縄にもなる。
だから深雪乃は、その縄を少しだけ結び替えて使った。
「祢々」
名前を呼ぶと、祢々の足が止まった。
「何でございましょう」
「清めるには、灰が少うございます」
祢々が振り向く。
深雪乃は白く汚れた袖を見せるように、少しだけ持ち上げた。
「この家を清めるなら、蔵ひとつ分は必要でしょう」
女中たちの笑いが止まった。
祢々の目が細くなる。顔は穏やかなままだが、手の中の香炉を握る指が強張った。
「深雪乃様は、本当にお悲しみではないのですね」
「悲しみを見世物にする趣味がないだけです」
「お父上の御前で、そのようなお言葉を」
「父の御前だから申し上げております。死人の耳にまで、あなた方の小芝居を聞かせるのは気の毒ですので」
祢々の唇が薄く結ばれた。
奥座敷の中で、誰かがこちらを見た気配がした。親族の声が一瞬だけ途切れ、またすぐ低く続いた。相続の話は、止まらない。弔いの香よりも、金と権力の匂いの方が彼らには馴染むのだろう。
午後には、雨が降り始めた。
細い雨だった。軒先から滴が落ち、庭石に弾ける。黒白の幕が湿り、布の端が重く垂れた。弔問客の数は減り、屋敷の廊下には湿気と線香の匂いが溜まっていく。深雪乃の喪服は、茶と灰の跡を残したまま乾きかけていた。膝の布が肌に貼りつき、冷たさがいつまでも消えない。
夕刻、棺の前から人が引き、奥座敷に一時の空白ができた。
深雪乃はようやく立ち上がった。座り続けていた膝が痺れ、足裏に血が戻る時の痛みが走る。彼女は柱に手をつかず、ゆっくりと体勢を整えた。
その時、夜岐が廊下へ出てきた。
彼女の喪服は美しく整っていた。黒絹は艶を含み、白い襟元に汚れひとつない。目元は少し赤くしているが、泣き腫らした様子はない。悲しみを飾りとして身につけるなら、この姉ほど似合う者はいない。
「深雪乃」
夜岐は甘い声で呼んだ。
深雪乃は振り向いた。
「何でしょう、姉上」
夜岐は周囲を確認した。使用人たちは少し離れた場所にいる。親族は奥の間へ移り、斎臣の弟たちが書類の話をしていた。雨音が廊下の外側を包み、二人の声を薄く隠している。
夜岐は深雪乃に近づいた。
喪服の袖が擦れる。香の匂いがした。朝とは違う、葬儀用の沈んだ香りだった。だが、その奥にいつもの甘い匂いが混じっている。
「かわいそうに」
夜岐は囁いた。
「お父様が亡くなって、お前にはもう誰もいないわね」
深雪乃は夜岐を見上げた。身長差は大きくないはずなのに、この姉はいつも人を見下ろす角度をよく知っている。
「元から多くはございませんでした」
「強がらなくていいのよ」
「強がるほどの持ち物もございません」
夜岐の口元が、柔らかく上がる。
「本当にそう。お前には何も残らない」
雨音が、少し強くなった。
軒から落ちる水が、庭の砂利を細かく叩く。奥座敷の燭台の火が、風もないのに揺れたように見えた。深雪乃の袖に残る灰が、湿気を吸って重くなる。
夜岐はさらに声を低くした。
「遺言状に何が書かれていようと、鵺喰はわたくしのものよ。お前の母の名も、あの女の品も、お前の居場所も、全部消える。妾腹の人間臭い娘が、家の中に残れると思わないことね」
深雪乃の胸の奥で、冷たいものが静かに沈んだ。
母の名。
母の品。
居場所。
どれも、彼女が守りたくても守り切れなかったものばかりだ。夜岐はそれを知っている。知っているからこそ、針のように細く刺してくる。
深雪乃は目を伏せた。
怒鳴れば、泣けば、夜岐は勝ったように笑うのだろう。ならば、その顔だけは見せてやらない。
彼女は袖についた灰を指で払い、静かに言った。
「残していただけるほど、この家に品があるとは思っておりません」
夜岐の目が細くなった。
「何ですって」
「聞こえなかったのでしたら、お耳まで上品に塞がっていらっしゃるのでしょう」
夜岐の指先が動いた。
細く整えられた爪が、深雪乃の頬へ伸びかける。化け猫の先祖返りである彼女の爪は、怒りに応じて鋭さを帯びる。触れられれば、皮膚など紙のように裂けるだろう。
深雪乃は逃げなかった。
頬を打たれるなら、それはそれで構わない。痛いだろう。血も出るだろう。だが、痛みだけなら何度も受けてきた。夜岐が本当に奪いたいものは、皮膚の下にはない。
爪が頬に触れる寸前、奥の間から男の声がした。
「夜岐様」
親族の一人が呼んでいる。
「遺言状の確認について、お話が」
夜岐の爪が止まった。
彼女は深雪乃を見つめたまま、ゆっくり指を下ろした。そして、何事もなかったように微笑む。
「そこで見ていなさい」
「座敷の外からでよろしければ」
「本当に、嫌な子」
「姉上ほど愛らしく育てていただけませんでしたので」
夜岐は笑みを消し、踵を返した。
黒い喪服の裾が畳の縁を滑る。彼女が奥の間へ戻ると、親族たちの声がまた低く重なった。遺言状、金庫、印鑑、土地、先祖返り会への報告。言葉の端が廊下へ漏れてくるたび、深雪乃は少しずつ冷えていくような気がした。
日が落ちる頃、葬儀の場は一旦静まった。
弔問客は帰り、親族もそれぞれの部屋へ下がった。使用人たちは片づけに追われ、廊下には濡れた草履の跡と、落ちた線香灰が残っている。深雪乃は命じられるまま、座敷の外の廊下を拭いた。
自分の父の葬儀が行われた場所を、外側から拭く。
雑巾が板目を滑るたび、茶の染みた膝が突っ張った。灰の匂いがまだ喪服に残っている。指先は冷え、爪の色が薄くなっていた。だが、誰も休めとは言わない。
深雪乃は棺の置かれていた奥座敷へ目を向けた。
白木の棺は別室へ移され、そこには菊の花びらが数枚落ちているだけだった。父の気配は、線香の煙と一緒に薄くなっている。もともと遠かった人が、さらに遠くなる。それが死なのだろうか。
夜が更けた。
屋敷の明かりは少しずつ落とされ、廊下には行灯の淡い光だけが残った。雨はやんでいない。軒を叩く音が一定に続き、時折、庭の竹が水を含んでしなる音がした。湿った畳と古い木の匂いが、夜の冷えに沈んでいる。
深雪乃は、母屋の隅の小部屋に戻る途中だった。
彼女に与えられた部屋は、客間でも娘の部屋でもない。物置に近い小さな空間だった。布団は薄く、障子には補修の紙がいくつも貼られている。だが、そこだけが彼女の持ち場だった。少なくとも、戸を閉めれば誰かの視線から逃げられる。
廊下を曲がった時、ふと足が止まった。
父の書斎の前だった。
斎臣の書斎は、母屋の北側にある。厚い襖で仕切られ、普段は鍵がかけられていた。帳簿、古文書、先祖返り会との書簡、家紋に関わる記録。深雪乃は中へ入ったことがほとんどない。幼い頃、一度だけ母に手を引かれて前を通った記憶がある。その時、母はなぜか足を止め、襖の向こうをじっと見ていた。
雨音の中で、かすかな音がした。
かさり。
紙が擦れる音。
深雪乃は息を止めた。
廊下には誰もいない。行灯の火が、油の匂いをわずかに漂わせながら揺れている。書斎の襖は閉まっていた。鍵もかかっているはずだ。だが、襖の向こうで、また音がした。
かさ、かさり。
まるで、誰かが文机の上の紙をめくっているような音だった。
深雪乃の濡れた喪服の裾が、足首に冷たく触れる。昼間こぼされた茶も、降りかかった灰も、もう乾きかけているはずなのに、急に布の重さが戻ったように感じた。
彼女は一歩、書斎へ近づいた。
古い木の床が、わずかに軋む。
音が止まった。
雨だけが降っている。
深雪乃は襖の前に立ち、指先を伸ばしかけた。触れる寸前、襖の内側から、紙を強く握り潰すような音がした。
くしゃり。
深雪乃の指が止まる。
その次の瞬間、部屋の奥で、低く小さな笑い声がした。
それは父の声ではなかった。




