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人間臭いと蔑まれた不死身の娘は、百鬼夜行の主に愛される  作者: なつめ


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第1話 人間臭い娘


 鵺喰家の朝は、夜よりも冷たかった。


 東の空は薄く白み、庭の石灯籠にはまだ夜露が残っている。苔むした飛び石の間には細い霧が這い、梅の古木から落ちた雫が、ぽたり、ぽたりと土を打っていた。帝都の中心から少し離れたこの屋敷は、表門から母屋まで馬車が入れるほど広く、廊下の端から端まで見通すだけで気が遠くなるほど長い。


 黒塗りの門には、鵺喰の家紋が掲げられている。


 山本五郎左衛門の先祖返りが生まれるべき家紋。


 それは、この家にとって誇りであり、呪いでもあった。


 霊力を帯びた瓦、魔除けの札を縫い込んだ暖簾、鬼灯を象った吊り灯籠、庭の四方に置かれた結界石。どれも名家の威を示す品だったが、その奥で働く者たちの視線は、朝の霧よりも湿っていて、障子の影よりも陰湿だった。


 鵺喰深雪乃は、裏庭の井戸端で膝を折っていた。


 黒髪は毛先まで真っ直ぐに切り揃えられ、前髪も眉の上でぱつりと揃っている。白い肌は朝の光の中でいっそう薄く見え、小柄な身体に着せられた鼠色の着物は、幾度も洗われて布目がやわらかく痩せていた。袖口の繕い跡は丁寧だが、糸の色が少しだけ違う。帯も古い。だが結び目は乱れていなかった。


 彼女の前には、雑巾を絞った水桶がある。


 水は冬の名残を含んでいた。指を浸すと骨の隙間まで冷えが入り込む。深雪乃はそれを黙って絞り、廊下の板目に沿って雑巾を滑らせた。


 長い廊下は、磨けば磨くほど周囲の影を映す。柱の下の埃、敷居に詰まった砂、昨夜の宴でこぼれた酒のべたつき。深雪乃は端から順に拭いていった。息を吐くたび、白いものがかすかに漏れる。


 母屋の奥から、女中たちの声がした。


「おや、まだ終わっておりませんの」


「深雪乃様はお身体が丈夫でいらっしゃるから、少しくらい朝が早くても平気でございましょう」


 言葉だけなら丁寧だった。


 だが、声に混じる笑いは隠れていない。下女のひとりが、炊事場へ向かうふりをして近づいてきた。手には水を満たした桶を提げている。井戸水の表面が、歩くたびに薄く揺れた。


 深雪乃は顔を上げなかった。


 下女の足袋が、廊下の端で止まる。


「あら」


 わざとらしい声の直後、水桶が倒れた。


 ばしゃり、と冷たい水が廊下へ広がり、磨き終えたばかりの板を濡らした。勢いよく流れた水は、深雪乃の膝元にまで届き、着物の裾と袖を重くした。冷たさが布を通して肌に食い込み、太腿の上を細く這う。


 桶はころころと転がり、柱に当たって止まった。


 下女は口元を袖で隠した。


「まあ、申し訳ございません。手が滑ってしまいました」


 その隣で、別の下女がくすりと笑う。二人とも深雪乃を見下ろしていた。謝る姿勢だけは整っている。頭の角度も、声の調子も、屋敷の者として躾けられた形をしている。中身が腐っていても、器だけ磨けば立派に見える。人間という生き物は、そういう手間だけは惜しまない。


 深雪乃は水を含んだ袖を持ち上げた。細い指先から雫が落ちる。ぽたり、ぽたり、と板の上に丸い跡が増えた。


「お怪我はございませんか」


 下女が尋ねた。


 笑いを噛み殺しながら。


 深雪乃はゆっくりと顔を上げた。赤みを帯びた瞳が、朝の薄明かりの中で静かに光る。泣いてはいなかった。怒鳴りもしない。ただ、濡れた袖を両手で絞り、水音を立てた。


「ええ。水桶が転んだだけで、人の品性までは洗い流せませんもの。ご心配には及びません」


 下女の笑みが、ほんの少し引きつった。


「深雪乃様は、お口だけはお達者で」


「口まで不自由でしたら、皆さまの退屈しのぎにもなりませんでしょう。役に立てて何よりです」


 深雪乃は静かに言い、再び雑巾を取った。


 冷えた水が手首を伝い、袖の内側へ染み込む。皮膚がひりつき、指の関節が強張った。それでも彼女は濡れた廊下を拭き直した。拭き終えた場所を、もう一度。昨日もそうだった。一昨日も。その前も。


 この屋敷で、仕事の終わりは深雪乃が決めるものではない。使用人たちが飽きるまで、終わらない。


 背後で足音が近づいた。


 板廊下を踏む音は軽い。だが、その間合いには悪意があった。深雪乃は雑巾を置き、身を少し横へずらした。次の瞬間、彼女の足首が横から引っかけられる。


 身体が傾いた。


 濡れた廊下に手をつく。細い手首へ体重がかかり、鈍い痛みが走った。膝も板に打ちつける。骨の奥に嫌な響きが残った。倒れ込んだ拍子に、頬の近くで水の匂いと古い木の匂いが強くなった。


 下女ではない。


 今度は下男だった。庭掃除用の竹箒を持ち、知らぬ顔で柱の陰に立っている。二十を少し過ぎたばかりの若い男で、普段は厩の世話をしている。名は確か、佐助。深雪乃に面と向かって無礼を言うほどの度胸はないが、誰かの後ろに隠れて足を出すくらいの卑しさは持っていた。


「おっと。足元が悪うございましたな」


 佐助はわざとらしく竹箒を持ち直した。


「深雪乃様はお倒れになってもすぐ治ると伺っておりますので、つい安心してしまいまして」


 深雪乃は手首を押さえた。


 痛みはある。


 いつだってある。


 皮膚が裂ければ熱い。骨が軋めば吐き気がする。毒を盛られれば胃が焼けるように痛む。傷口は塞がる。折れた骨は戻る。だが、それは痛みがなかったことにはならない。


 誰も、それを知ろうとしない。


 いや、知ったところで変わらないのだろう。死なないという言葉は、この屋敷では、傷つけてよいという許しに変えられていた。


 深雪乃はゆっくり身体を起こした。濡れた髪の一筋が頬に貼りつく。彼女はそれを指先で払い、佐助を見上げた。


「安心なさるのは結構ですが、足癖の悪さまでお家芸になさるのは感心いたしません」


「何ですと」


「竹箒より先に、ご自分の根性を掃かれてはいかがでしょう。厩の藁屑より散らかっております」


 佐助の耳が赤くなった。


 下女たちが、声を殺して笑った。誰を笑っているのか分からない笑いだった。佐助は口を歪め、竹箒の柄を握る手に力を込める。だが、深雪乃に直接振り下ろすことはしなかった。傷つけることは平気でも、その責任を取る度胸はない。


 その時、廊下の奥から低い咳払いが聞こえた。


 薄墨祢々だった。


 鵺喰家の女中頭である彼女は、黒に近い深紫の着物をきっちりと着込み、銀の混じった髪を一分の乱れもなく結い上げていた。細い目はいつも伏せられているように見えるが、屋敷の隅で何が起きているかを逃したことはない。逃さない上で、都合のよいものだけを叱り、都合の悪いものだけを見なかったことにする。


「何を騒いでおります」


 祢々の声に、下女たちはすぐ頭を下げた。佐助も竹箒を持ったまま一歩退く。


「申し訳ございません。深雪乃様が廊下でお足を滑らせて」


 下女の一人が答える。


 祢々は深雪乃を見た。濡れた袖、赤くなった手首、膝についた水跡。すべて見えているはずだった。


 だが彼女は、深雪乃の手元にある雑巾だけを見た。


「まだ廊下ひとつ終わっておりませんの」


「ただいま拭き直しております」


 深雪乃は立ち上がり、着物の裾を整えた。膝に痛みが残り、少しだけ足が震えた。彼女は袖の内側で手首を押さえ、震えを隠した。


 祢々は鼻で息をした。


「お嬢様方のお膳の支度が済む前に、奥座敷も清めておくように。夜岐様が朝のお稽古に使われます」


「奥座敷は、先ほど拭き終えました」


「では、もう一度」


 祢々は即座に言った。


「夜岐様は、埃に敏いお方でいらっしゃいます。化け猫の血を濃くお持ちですから、我々とは感覚が違うのです。深雪乃様には、お分かりになりませんでしょうけれど」


 柔らかな言葉だった。


 だが、その奥には刃が入っている。


 妖の特徴を持たない娘。


 人間臭い娘。


 鵺喰の血を引きながら、何の先祖返りとも知れぬ、ただ死ににくいだけの妾腹。


 この屋敷の誰もが、直接言わずとも同じ意味を視線に混ぜた。


 深雪乃は祢々を見つめた。


「ええ。わたくしには、埃に敏い感覚はございません」


 祢々の口元がわずかに上がる。


 深雪乃は続けた。


「ただ、埃よりも人の悪意の方が鼻につく朝はございます。そちらは、血筋に関係なく感じられるようで」


 空気が止まった。


 下女が息を呑み、佐助が視線を逸らす。祢々の眉が、ほんの少しだけ動いた。


「深雪乃様」


「何でしょう」


「ご自分のお立場を、もう少しお考えくださいませ」


「考えた結果、立っております。座り込むと、またどなたかの足が伸びてまいりますので」


 祢々の顔から笑みが消えた。


 だが声は荒げない。古参の使用人は、感情を露わにしないことを品格だと勘違いしている。人を踏む時だけ静かであれば上等だと思っているらしい。実に便利な品格だった。


「奥座敷へ」


「承知いたしました」


 深雪乃は桶を起こし、雑巾を拾った。


 手首が痛む。膝も熱を持っている。濡れた袖は重く、歩くたびに肌へ貼りついた。だが彼女は背筋を伸ばしたまま、廊下を進んだ。


 奥座敷は、庭に面した広い部屋だった。


 障子越しに朝の光が淡く入り、畳の目を白く浮かび上がらせている。床の間には季節外れの椿が生けられ、香炉からは白檀の香りが細く立ち上っていた。座敷の空気は整っている。整いすぎていて、息をするだけで叱られそうな冷たさがあった。


 深雪乃は入口で一礼し、畳に膝をついた。


 すでに掃除は終えてある。畳には埃ひとつ見えない。床板も磨かれ、花器の水も替えた。だが、部屋の中央には新しい泥が落ちていた。


 土の塊。


 庭から持ち込まれたばかりの湿った泥だった。畳の上に三つ、指で潰したように擦りつけられている。泥の匂いが白檀の香りを濁していた。


 深雪乃は泥を見つめた。


 誰がやったかは分かっている。


 障子の向こうから、衣擦れの音がした。金糸の入った袖がちらりと見える。鵺喰夜岐がいる。


 深雪乃の異母姉。


 美しく、可憐で、甘えるような声を持つ女。化け猫の先祖返りとして親族から愛され、客人の前では妹を案じる優しい姉を演じる。だが、その爪は、いつも柔らかな袖の内側に隠されていた。


「まあ、深雪乃」


 障子が開いた。


 夜岐は淡桃色の着物をまとい、髪に小さな珊瑚の簪を挿していた。朝の光を受けた頬は白く、唇には薄く紅が差されている。彼女は泥の落ちた畳を見て、困ったように眉を下げた。


「また汚したの?」


 深雪乃は畳に手をついたまま、顔を上げた。


「姉上のお履物が、ずいぶん座敷好きでいらっしゃるようですね」


 夜岐の背後で、若い女中が肩を震わせた。


 夜岐は微笑んだ。目だけは笑っていなかった。


「嫌だわ。わたくしがしたと言いたいの?」


「いいえ。姉上ほどお美しい方が、泥を畳に擦りつけるような真似をなさるはずがございません」


「そうでしょう」


「ええ。きっと泥の方から、姉上のお人柄を慕って這い上がってきたのでしょう」


 夜岐の笑みが固まった。


 深雪乃は雑巾を広げた。泥を拭くには、水を含ませすぎてはいけない。畳に染みる。彼女は袖口を邪魔にならぬよう押さえながら、泥を少しずつ取り除いた。指先に湿った土の冷たさが残る。


 夜岐は立ったまま、深雪乃を見下ろしていた。


「あなた、本当に可愛げがないわね」


「可愛げは姉上がお持ちですから、この家には十分かと」


「その口、いつか困ることになるわよ」


「もう十分困っておりますので、順番待ちの災難には札を配っておきます」


 夜岐の瞳が、猫のように細くなった。


 座敷の空気が、わずかに軋む。彼女の妖気が畳の上を薄く這った。見えない爪で肌を撫でられるような感覚が、深雪乃の首筋に触れる。普通の人間なら怯えたかもしれない。だが深雪乃は、泥を拭く手を止めなかった。


 怖くないわけではない。


 痛みに慣れているわけでもない。


 ただ、怯えたところで相手が喜ぶだけだと、彼女は知っていた。涙はこの屋敷で水より安い。流せば流すほど、誰かの喉を潤す。


 夜岐は一歩近づいた。


 帯に下げた小さな香袋が揺れ、甘い香りが漂う。梅と麝香を混ぜた、濃い匂い。深雪乃の母が好んだ沈丁花の香りとは違う。あの遺品の匂いを思い出した瞬間、深雪乃の胸の奥が小さく痛んだ。


 母の櫛。


 黒檀に細い銀の装飾が入った櫛は、今は深雪乃の手元にない。


 数日前、引き出しから消えていた。探しても見つからなかった。祢々に尋ねれば「存じません」と言われ、夜岐に尋ねれば「まだそんなものに縋っているの」と笑われた。


 深雪乃は泥を拭き取り、雑巾を畳の端で畳んだ。


「姉上」


「何?」


「母の櫛をご存じありませんか」


 夜岐の指が、簪の飾りに触れた。


 ほんの一瞬。


 だが深雪乃は見逃さなかった。


「知らないわ。妾の持ち物なんて、わたくしが気にすると思う?」


「そうですか」


「ええ。あんなもの、誰かが焚きつけにでもしたのではなくて」


 深雪乃の手が止まった。


 畳の上で、雑巾を握る指が白くなる。


 夜岐はその変化を見て、満足そうに微笑んだ。深雪乃が傷つく場所を、彼女はよく知っている。身体ではない。身体はいくら傷つけても戻る。だからこそ、戻らないものを狙う。


 母の名。


 母の品。


 母が残した小さな温もり。


 深雪乃は息を吸った。白檀と泥と夜岐の香が混じった空気は、胸の奥で苦く広がった。


「焚きつけにするには、惜しい品です」


「あら、そう?」


「ええ。姉上の情けよりは、よほど長く火が保ちますから」


 夜岐の頬がひくりと動いた。


 若い女中が慌てて目を伏せる。障子の向こうで誰かが息を殺した。深雪乃はゆっくり立ち上がった。濡れた袖、泥のついた指、赤い手首。それでも背筋は折れていない。


「皆さま、私よりずっと妖に近いはずなのに、やることはずいぶん人間臭いのですね」


 声は大きくなかった。


 だが、座敷の隅まで届いた。


 夜岐の瞳が暗くなる。祢々が廊下の外で身じろぎした気配がした。下女たちは顔を見合わせ、佐助は庭の方へ逃げるように視線を逸らした。


 深雪乃はそれ以上何も言わなかった。


 言えば、罰は増える。言わなくても、どうせ増える。なら、せめて自分の舌だけは自分のものとして使いたかった。


 その時、表の方から騒がしい足音が響いた。


 普段、この屋敷の廊下を走る者はいない。足音は乱れ、何度も敷居に躓きながら近づいてくる。朝の冷えた空気が、一気にざわついた。庭の鳥が一羽、驚いたように枝を離れる。


 祢々が廊下へ出た。


「何事です。屋敷の中を走るなど」


 返事の代わりに、男の荒い息が聞こえた。表門番の老人だった。額には汗が浮き、肩で息をしている。顔色が悪い。手には、黒い縁取りのある封書が握られていた。


 夜岐の表情が変わった。


「何なの」


 門番は膝をつき、震える手で封書を差し出した。


「旦那様が……」


 座敷の中の空気が、音もなく冷えた。


 深雪乃は濡れた袖を押さえたまま、門番を見た。心臓が一度、奇妙に遅れて打つ。父、斎臣。鵺喰家前当主。深雪乃を守らなかった人。母を日陰に置いた人。この屋敷のすべての歪みを、知りながら沈黙していた人。


 それでも、父だった。


 門番の喉が上下する。


「斎臣様が、急にお倒れになり……先ほど、お亡くなりに」


 誰も動かなかった。


 白檀の煙だけが、細く揺れていた。


 夜岐の唇から、かすれた声が漏れる。


「嘘」


 祢々が封書を受け取り、黒い縁取りを見た瞬間、手元をわずかに震わせた。下女たちが顔を青くし、佐助が竹箒を落とす。乾いた音が廊下に転がった。


 深雪乃はただ、畳の上に残った薄い泥の跡を見下ろしていた。


 朝はまだ始まったばかりだった。


 なのに鵺喰家の奥深くで、何かが終わり、何かが口を開けた気がした。


 濡れた袖から、最後の雫が落ちる。


 ぽたり、と畳の縁を濡らした。


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