第8話 鬼の一目惚れ
篝火赫臣は、夜明け前の薄闇の中で目を覚ました。
部屋はまだ静かだった。障子の向こうの庭には、雨の名残がある。池の水面を朝の風が撫で、葉から落ちる雫が、時折、小さく音を立てた。行灯の火は細くなり、橙色の光が畳の上に淡く滲んでいる。夜の湿り気と白檀の香、それから深雪乃の髪に移った煙管の香りが、布団の周りに薄く残っていた。
赫臣の腕の中で、深雪乃は眠っていた。
布団ごと抱いたまま、結局、朝を迎えていた。途中で何度か身じろぎしたが、彼女は目を覚まさなかった。痛みで眉を寄せることはあった。浅く息を吸い、何かを堪えるように指を丸めることもあった。そのたび赫臣は、布団の外側から抱く腕を少し緩め、傷に響かない位置へ直した。
直接触れたいとは、何度も思った。
肩に。頬に。髪に。夜のあいだに何度も強張った手に。
だが、深雪乃は触れられることに慣れていない。慣れていないというより、触れられることと痛みが結びつきすぎている。昨日、髪を拭こうとしただけで彼女の身体は反射的に逃げた。額への口づけにも驚き、髪への口づけにも息を止めた。
それでも、本気で拒まなかった。
赫臣はその事実を、胸の奥で何度も噛み締めていた。
鬼の血は、欲しいものに対して遠慮が薄い。
酒呑童子の系譜ならなおさらだ。欲しいと思ったものを目で追う。手を伸ばす。囲う。奪う。守る。壊す者がいれば斬る。単純で、強欲で、獰猛で、笑えるほど正直な血だった。
だが、深雪乃は奪うだけでは折れる。
いや、折れないかもしれない。
あの小さな身体で、鵺喰の屋敷に踏まれ続けても、彼女の目は折れていなかった。雨の路地で妖に裂かれ、普通なら命が終わる傷を負いながら、彼女は風呂敷だけは離さなかった。自分の命より、母の残したものを守るように抱いていた。
また死ねなかった、と彼女は言った。
あの言葉が、赫臣の耳から離れない。
死にたいと言ったわけではない。生きたいとも言わなかった。ただ、死ねなかったと呟いた。その薄い声には、痛みが積もっていた。傷口の痛みだけではない。死なない身体を理由に、どれほど傷つけられてきたのか。誰に笑われ、誰に放置され、誰に人間以下の扱いをされてきたのか。
赫臣は眠る深雪乃の顔を見下ろした。
布団にくるまれた姿は、あまりにも小さい。年は十九だと聞いている。けれど、食べられず、眠れず、痛みばかり与えられてきた身体は、年齢よりもずっと軽く見えた。頬は白く、唇の色もまだ薄い。黒髪は枕に広がり、前髪はまっすぐに揃っている。赤みを帯びた瞳は今は閉じられていたが、あの瞳が開いた時の鋭さを赫臣はよく覚えている。
綺麗だった。
ただ可哀想なだけの娘なら、こんなふうにはならなかった。
哀れみだけで人を抱くほど、赫臣は善人ではない。善人など、鬼の血には似合わない。彼が深雪乃を抱いたのは、見捨てられなかったからだけではない。助けなければならないと思ったからだけでもない。
欲しいと思った。
血まみれで、雨に濡れて、妖の前でも目を逸らさず、痛みを飲み込んで毒を吐くこの娘が、どうしようもなく欲しいと思った。
それが、彼の中ではすべてだった。
深雪乃が、小さく息をした。
眉間にわずかに皺が寄る。夢の中で痛むのか、記憶が追いかけてくるのか。赫臣は布団越しに彼女の背を軽く撫でた。直接肌には触れない。布団の上から、ゆっくりと。
「寝てろ」
声を潜めて言う。
深雪乃は起きなかった。
ただ、風呂敷を抱く手が少し緩んだ。枕元に置いていたはずの包みを、眠っているあいだに胸元へ引き寄せていたらしい。母の鏡と、着物の端切れと、折れた櫛の欠片。たったそれだけの荷物を、彼女はまるで心臓の代わりのように抱いて眠っている。
赫臣は、その手をしばらく見ていた。
細い指。
水仕事で荒れた皮膚。
小さな爪の縁。
鵺喰家の者たちは、この手に何をさせたのか。
廊下を拭かせた。水桶を倒した。食事を抜いた。母の遺品を奪った。葬儀の座敷から外に置いた。追い出した。そこまでは砂笙の調べと昨日の様子でだいたい分かっている。だが、細部はまだ足りない。足りないままで怒りは十分だった。
赫臣の耳飾りが、微かに鳴った。
内側から湧いた妖気に、霊糸が反応したのだ。障子の隅で、ほとんど見えない糸が細く震える。赫臣は息を吐き、力を押さえ込んだ。
今、怒りで部屋を切るわけにはいかない。
深雪乃が眠っている。
それだけで、赫臣の動きは制限された。面白いほどに。百鬼夜行の頭を縛るには呪具も神気もいらない。小さな女が布団にくるまって眠っていれば、それで十分だった。
実に愉快で、少し腹立たしい。
赫臣は、深雪乃の額にかかる髪へそっと顔を寄せた。
触れる寸前で止める。
昨夜は口づけた。今は眠っている。勝手にするには近すぎる。そう思う程度には、彼も学習している。たぶん。砂笙に言わせれば、亀より遅い進歩だろうが。
その時、廊下から控えめな足音がした。
砂笙だった。
足音は障子の手前で止まる。彼は赫臣と違い、無遠慮に入ってこない。きちんと間を置き、声を潜めた。
「旦那様。お目覚めでいらっしゃいますか」
「起きてる」
「深雪乃様は」
「寝てる」
「それは何よりです」
砂笙の声には、わずかな安堵があった。
赫臣は深雪乃を布団ごとそっと畳の上へ戻した。腕を抜く時、彼女が寒がらないよう掛け布団の端を整える。風呂敷が胸から落ちないよう、近くに寄せた。深雪乃のまぶたは閉じたままだった。
部屋の空気を乱さないよう、赫臣は立ち上がった。
障子を開けて廊下へ出る。
砂笙は廊下で頭を下げていた。痩せた書生風の身体に、いつもの鼠色の着物。眼鏡の奥の目は、睡眠不足を隠しきれていない。昨夜から深雪乃の手当て、屋敷内の調整、鵺喰家への使いの手配、雑妖の残滓処理まで行ったのだから、無理もなかった。
赫臣は障子を静かに閉めた。
閉める直前、もう一度だけ深雪乃の寝顔を見た。眉間の皺は少し薄れている。
「で」
赫臣は廊下の柱にもたれ、声を低くした。
「何だ」
「いくつかご報告がございます」
「話せ」
「まず、昨夜の路地に出た妖は、ただの通り魔ではなさそうです。雑妖にしては核の形が整いすぎていました。誰かが餌を与えて育て、あの辺りへ放った可能性がございます」
赫臣の目が細くなる。
「深雪を狙ったか」
「断言はできません。ただ、深雪乃様が鵺喰家を出された時刻と、妖が路地へ現れた時刻が近すぎます」
「鵺喰か」
「それもまだ」
「歯切れ悪いな」
「旦那様の霊糸で細かくなりすぎて、残滓の読み取りが難しいのです。きれいに切り刻む腕前は結構ですが、調査する側の胃にも少しはご配慮ください」
赫臣は悪びれずに肩を竦めた。
「襲ってきたから切った」
「存じております」
砂笙はため息を飲み込み、続けた。
「それから、鵺喰家の親族会議ですが、深雪乃様の追放を決めた直後、篝火家への正式な使いを出す準備を進めております。斎臣殿の死と、夜岐様を次の当主候補として扱う旨を報告するつもりでしょう」
「遺言書は」
「見つかっていないとのことです」
「都合がよすぎる」
「同感です」
廊下の向こうで、朝の支度をする使用人たちの気配がした。誰も近づかない。砂笙があらかじめ人払いをしているのだろう。篝火家の廊下は広く、庭の水音が遠く響く。鵺喰家の湿った閉塞感とは違う。だが、話している内容は十分に血生臭かった。
赫臣は指輪の一つを親指で撫でた。
「斎臣は何か残してたはずだ」
「そうお考えで?」
「そうじゃなきゃ、鵺喰の連中があそこまで急いで深雪を外へ出す理由が薄い。あいつを置いておきたくない理由がある」
「深雪乃様ご本人に、何か関わるものが」
「だろうな」
砂笙はしばし黙った。
その目が、障子の向こうを気にするように動く。
「旦那様」
「何だ」
「深雪乃様を、どうなさるおつもりですか」
赫臣は砂笙を見た。
その問いには、いくつもの意味が含まれている。篝火家当主としてどう扱うのか。鵺喰家の相続争いにどう関わらせるのか。先祖返り会での駒として使うのか。保護するだけなのか。屋敷に置くなら名目は何か。鵺喰家や蘆野火家への説明はどうするのか。
砂笙は参謀だ。
そう問うのは当然だった。
赫臣は、当然のように答えた。
「一目惚れだ」
砂笙が瞬きをした。
「……はい?」
「深雪に一目惚れした」
「申し訳ございません。私は、深雪乃様をどうなさるのかと伺いました」
「だから答えただろ」
「答えになっているようで、政治的には一切答えになっておりません」
「政治の話なんざしてねえ」
「私がしております」
砂笙は額を押さえた。
赫臣は気にしなかった。
「鵺喰の娘だから拾ったんじゃねえ。不死身だから拾ったんでもねえ。可哀想だからでもねえ。雨の路地で見た瞬間、欲しいと思った。あれは俺の女だ」
「まだ深雪乃様の同意がございません」
「これから口説く」
「先に拾って抱き上げ、布団ごと抱いて眠らせてから言う台詞ではございません」
「順番は多少前後したな」
「多少で済むと思っているところが、旦那様の大変なところです」
赫臣は笑った。
砂笙は笑わなかった。いつものことだった。
「旦那様」
「何だよ」
「本気でいらっしゃるのですか」
その問いだけ、砂笙の声から皮肉が薄れた。
赫臣は柱から背を離した。
庭から吹いた朝の風が、廊下を抜ける。彼の耳飾りが小さく鳴った。金の髪が肩の上で揺れる。蒼い瞳は、まだ明けきらぬ光の中で静かに光った。
「本気じゃなきゃ、あんな女を腕の中に入れねえよ」
声は低かった。
「深雪は軽い。軽すぎる。飯もまともに食ってねえ。眠り方も知らねえ。痛いのを痛いって言わねえ。嫌なのを嫌って言う前に、言っても無駄だって顔をする。あれを見て、遊びで手を出せるほど俺は器用じゃねえ」
「旦那様がご自分を不器用と表現なさる日が来るとは」
「茶化すな」
「失礼いたしました」
砂笙は素直に頭を下げた。
赫臣は障子へ視線を向ける。
「最初は噂だった。鵺喰に、死なない妾腹の娘がいる。妖の相もないくせに、傷だけは塞がる。人間臭いと笑われてる。そう聞いた時は、鵺喰の連中の性根に腹が立っただけだ」
彼はゆっくりと言葉を続けた。
「でも、昨日、雨の中で見た。血まみれで、妖に喰われかけて、痛みで立てねえくせに、目だけは逸らさなかった。捨てられたんじゃない、出されただけだって言い返した。俺が抱いても毒を吐いた。あの小さな身体に、鵺喰の腐った屋敷よりずっと強いものが入ってる」
砂笙は黙って聞いていた。
赫臣の声は、熱を帯びていく。
「可愛いだろ。綺麗だろ。欲しくなるだろ。ならねえ方がおかしい」
「旦那様基準で世界を測ると、大抵のものが壊れます」
「壊れたら俺が直す」
「壊さない努力もなさってください」
「深雪は壊さねえ」
赫臣は即座に言った。
その言葉に、砂笙の目がわずかに動く。
赫臣は指輪の石を撫でるのをやめた。
「あいつを傷つけるものは斬る。あいつが眠れねえなら抱く。食えねえなら食えるものを探す。鵺喰が取り返そうとするなら、家ごと黙らせる。先祖返り会が文句を言うなら、俺が前に出る」
「かなり大事になります」
「構わねえ」
「深雪乃様ご自身が、それを望まれない可能性もございます」
赫臣は少し黙った。
そこは、斬れば済む話ではない。
砂笙はそれを分かっていて言っている。深雪乃を守ることと、深雪乃の意思を飲み込むことは違う。赫臣の腕は強い。強すぎる。抱きしめる力が檻になることもある。その自覚が、まったくないわけではなかった。
ただ、薄いだけで。
「だから口説く」
赫臣は言った。
「逃げたいって言うなら聞く。嫌だって本気で言うなら手は止める。けど、深雪はまだ、嫌って言う前に自分の気持ちを殺す。そこから出してやらねえと、あいつの望みも分からねえ」
「旦那様にしては、まともなお考えです」
「褒めてんのか」
「驚いております」
「同じだろ」
「違います」
砂笙は眼鏡を押し上げた。
「それで、鵺喰家にはどう返答を」
「使いが来たら通せ。俺が会う」
「深雪乃様の件は」
「俺の客人として置く。文句があるなら、鵺喰の連中が俺に言いに来い」
「言いに来られるでしょうか」
「来られねえだろうな」
赫臣は笑った。
その笑みには、鬼の色があった。甘さではない。雨の路地で妖を切り刻んだ時の、あの冷たい熱。砂笙はその顔を見て、深くため息をついた。
「お願いですから、先祖返り会の席でいきなり鵺喰家を切断するような発言はお控えください」
「発言で済ませるだけ優しいだろ」
「旦那様の優しさは、世間一般では脅迫に分類されます」
「世間が狭い」
「旦那様の基準が広すぎるのです」
赫臣は返事をしようとして、ふと障子の方を見た。
気配がある。
廊下の反対側、角の向こう。
深雪乃だった。
起きていたのか、途中で目を覚ましたのか。彼女の気配はまだ弱い。歩く足取りにも力がない。けれど、障子の向こうではなく、廊下の角に立っている。部屋から出たらしい。
赫臣はすぐに動こうとしたが、砂笙が目で制した。
無遠慮に近づけば、彼女は逃げる。
赫臣は舌打ちしそうになるのを堪えた。実に面倒だった。欲しいものへまっすぐ手を伸ばすだけでは足りない。近づく速度を考え、触れる場所を選び、言葉の重さを見なければならない。
だが、その面倒さすら、今は妙に愛おしい。
角の向こうで、深雪乃は動けずにいた。
彼女は白い寝間着の上に羽織を掛け、片手に風呂敷を抱いていた。髪はまだ寝起きのまま少し乱れている。顔色は良くない。足元も頼りない。水を飲みに出たのか、部屋に一人でいるのが落ち着かなかったのか。どちらにせよ、彼女は会話を聞いてしまった。
一目惚れだ。
その言葉が、耳の奥で何度も響いている。
深雪乃は、自分の胸元を押さえた。
おかしい。
そう思った。
自分に、そんな価値があるはずがない。
鵺喰家で、彼女は価値のないものとして扱われてきた。家の席には入れず、葬儀の座敷にも入れず、相続会議からも外され、食事は抜かれ、残飯を出され、使用人に笑われた。母の櫛を折られても、誰も止めなかった。父が死んでも、居場所は残らなかった。
人間臭い娘。
妾腹。
死なないだけの気味悪いもの。
そんな言葉ばかりが、彼女の輪郭を作っていた。
なのに、赫臣は言った。
一目惚れだ、と。
当然のように。
政治でも、憐れみでも、不死身への興味でもないと言った。欲しいと思ったと。可愛いと。綺麗だと。あれは俺の女だと。
深雪乃は、廊下の柱に手をついた。
胸が妙に熱い。
熱を出した時とは違う。妖に裂かれた痛みとも違う。額へ口づけられた時に残った熱に、少し似ている。だが、もっと奥が騒がしい。落ち着かない。腹立たしい。戸惑う。信じられない。信じたくない。信じたら、今まで自分を価値のないものとして扱ってきたすべてが、急に違う形を持ってしまう。
価値がないのではなく、価値を見ようとしない者たちの中にいただけだと。
そんな都合のよいことを、すぐに思えるほど深雪乃は素直ではなかった。
けれど、胸は熱い。
どうしようもなく。
その時、赫臣が角の向こうへ声をかけた。
「深雪」
深雪乃の肩が小さく跳ねる。
逃げようと一歩下がったが、足元がふらついた。すぐに赫臣が近づいてくる。霊糸よりも速く動ける男のくせに、今は足音を抑えていた。近づきすぎないよう、三歩ほど手前で止まる。
「起きたのか」
深雪乃は顔を伏せた。
「……白湯を」
「呼べば持っていかせた」
「呼ぶことに慣れておりませんので」
赫臣の目が少し曇る。
彼はすぐに何か言いそうになり、飲み込んだ。深雪乃にとって、それはありがたかった。何でもすぐ慰められると、傷口に布を押し込まれるような気分になることがある。
砂笙が静かに頭を下げた。
「すぐにお持ちいたします。あたたかいものを」
「いえ、自分で」
「客人に水場を探させる屋敷ではございませんので」
砂笙はそう言い、廊下の奥へ下がった。気遣いの形がうまい。深雪乃を無理に部屋へ戻さず、赫臣と二人にするでもなく、しかし場から外れる。参謀というものは、面倒な主の下で鍛えられるらしい。世の胃痛はこうして作られるのだろう。
廊下には、赫臣と深雪乃だけが残った。
朝の光が障子を白く染めている。庭の水音が、柱の陰まで届く。深雪乃は風呂敷を抱いたまま、赫臣を見上げなかった。
赫臣は少し屈んだ。
「聞いてたか」
「何をでしょう」
「俺が一目惚れしたって話」
深雪乃は、今度こそ顔を上げた。
頬に、ほんのわずか赤みが差している。熱のせいではない。少なくとも、赫臣にはそう見えた。
「ご自分で蒸し返すのですか」
「隠すことじゃねえし」
「隠してください。せめて建前という布を掛けてください」
「俺、そういう布すぐ燃やす」
「大変迷惑な鬼ですね」
「お前には正直でいたい」
「正直と無遠慮を混同なさっていませんか」
「少ししてる」
「自覚があるなら改善を」
「善処する」
「守る気の薄い言葉です」
赫臣は笑った。
深雪乃は、その笑顔を直視してしまい、すぐに視線を逸らした。胸がまた妙に熱くなる。厄介だった。赫臣の言葉は軽く聞こえるのに、軽くない。甘いのに、逃げ場を塞ぐような重さがある。
「一目惚れなど」
深雪乃は、風呂敷を抱く指に力を込めた。
「私には、似合いません」
「似合う」
「どこがですか」
「全部」
「先ほども聞いたような雑なお答えですね」
「雑じゃねえよ。言葉が追いつかねえだけだ」
赫臣は一歩近づいた。
深雪乃は逃げなかった。
赫臣はそれを確認してから、彼女の前に片膝をついた。背の高い男が膝をつくと、ようやく深雪乃と視線が近くなる。廊下の冷えた板に、彼の片膝が触れた。装身具が小さく鳴る。
深雪乃は目を見開いた。
「何をなさっているのですか」
「近くで口説こうと思って」
「立ったままでも遠慮していただきたいのですが」
「遠慮は昨日、妖に食わせた」
「距離感と一緒にですか」
「仲良く喰われてた」
「救いようがありません」
赫臣は笑いながら、片手を差し出した。
「手」
「嫌です」
「本気か」
深雪乃は一瞬黙った。
赫臣の問いは、妙にずるい。
本気で嫌なら、彼は止まる。昨日からそれは分かっている。深雪乃が怖がった時、彼は触れ方を変えた。強引で、わがままで、距離感をどこかへ捨てた男なのに、彼女の本気の拒絶だけは見ようとする。
だから、答えに詰まる。
「……勝手な方です」
深雪乃は、小さく手を出した。
白い寝間着の袖から、細い手首が覗く。水仕事で荒れた指先は、篝火家の朝の光の中でやけに儚く見えた。赫臣はその手を、壊れ物を扱うように取った。
深雪乃の手は冷たかった。
赫臣の掌は熱い。
体温の差に、深雪乃の指が小さく震える。赫臣は握り込まない。ただ支えるように持ち、彼女の手の甲へ顔を近づけた。
深雪乃は息を止めた。
唇が、手の甲に触れる。
短く、けれど丁寧な口づけだった。
皮膚の上に熱が落ちる。手の甲など、これまで傷や水仕事の跡以外に気にされたことがない。荒れている。細い。見栄えもよくない。そんな場所に、赫臣は何のためらいもなく唇を置いた。
深雪乃は、耳の奥まで熱くなるのを感じた。
「……湯たんぽの方が実用的です」
ようやく出た声は、少し硬かった。
赫臣は顔を上げ、喉の奥で笑った。
「俺の方が喋る」
「なお悪いです」
「抱ける」
「比較対象が間違っております」
「キスもできる」
「湯たんぽに謝ってください」
赫臣は笑いながら、今度は彼女の指先を持ち上げた。
深雪乃が何か言う前に、親指の先へ軽く口づける。
次に、人差し指。
中指。
一本ずつではない。触れるか触れないかの短い熱を、指先に落としていく。深雪乃の指は、逃げなかった。逃げようと思えば引けた。赫臣は強く握っていない。だが、彼女は動かなかった。
拒まない自分に、深雪乃は戸惑った。
おかしい。
近すぎる。甘すぎる。早すぎる。初対面に近い男がすることではない。しかも相手は酒呑童子の先祖返りで、百鬼夜行の頭で、先祖返り会の頂に座る男だ。警戒すべき理由はいくらでもある。
それでも、指先を引けない。
赫臣の唇が触れるたび、そこから熱が入ってくる。手の甲、指先、爪の近く。傷つけるためではなく、大事にするための接触。そう理解してしまうことが、いちばん怖かった。
赫臣は最後に、小指の先へ軽く口づけた。
深雪乃は唇を引き結ぶ。
「……篝火様」
「赫臣」
「篝火様」
「まだ頑固だな」
「このようなことを、誰にでもなさるのですか」
赫臣の表情が、すっと変わった。
笑っているのに、目だけは真剣だった。
「しねえよ」
「派手なお姿ですから、説得力が少々」
「装身具は多いが、女に触る手は安売りしてねえ」
深雪乃は返事に詰まった。
赫臣は彼女の手を持ったまま、静かに続ける。
「深雪だから触りたい。深雪だから口説く。深雪だから抱く。深雪だから離したくねえ」
「……まだ、昨日会ったばかりです」
「そうだな」
「おかしいです」
「俺もそう思う」
「思うのですか」
「思う。けど、止める気はない」
赫臣はもう一度、手の甲へ唇を寄せた。
今度は触れる直前で止まり、深雪乃を見上げる。
「嫌か」
深雪乃は、彼の蒼い瞳を見た。
嫌だと言えば、この口づけは落ちない。
分かってしまった。
だから、余計に答えづらい。
深雪乃は視線を逸らし、ほんの小さく言った。
「……湯たんぽよりは、騒がしいです」
赫臣の口元が上がる。
「実用性は?」
「低いです」
「温かさは?」
「……過剰です」
「嫌か」
深雪乃は沈黙した。
廊下の向こうから、砂笙の足音が戻ってくる。盆に湯呑みを載せているらしく、陶器がかすかに鳴った。朝の光が少し強くなり、庭の池に反射して障子を白く照らす。
赫臣は待っていた。
急かさず、笑わず、彼女の手を強く握ることもなく。
深雪乃は、自分の指先に残る熱を感じながら、低く答えた。
「……嫌とは、申し上げておりません」
赫臣の目が、甘く細くなった。
「じゃあ、続ける」
「調子に乗らないでください」
「無理だな」
そう言って、赫臣は手の甲へもう一度口づけた。
深雪乃は、今度も手を引かなかった。
砂笙が廊下の角で足を止め、無言で天井を見上げた。きっと胃を押さえたいのだろう。だが盆を持っているため、それもできない。人の恋路のそばで働く者は本当に気の毒だ。しかも相手が篝火赫臣では、労災という言葉でも足りない。
深雪乃は、手の甲に残る熱を隠すように少し顔を伏せた。
その横顔を見て、赫臣は笑った。
「可愛いな」
「白湯が冷めます」
「照れてる」
「白湯が冷めます」
「深雪」
「白湯が冷めます」
「三回言ったな」
「あなたが一回で聞かないからです」
赫臣は楽しげに笑い、ようやく彼女の手を離した。
けれど、指先に残った熱は離れなかった。
深雪乃は、砂笙が差し出した白湯を受け取った。湯呑みは温かく、両手で包むと少し落ち着いた。赫臣の手ほど熱くはない。けれど、湯たんぽより実用的だと口にするのは、なぜか少し癪だった。
赫臣は立ち上がり、彼女の隣に当然のように立つ。
近い。
けれど、深雪乃は一歩も退かなかった。
朝の篝火家の廊下に、雨上がりの匂いと白湯の湯気が混じっていた。母の櫛の欠片は風呂敷の中で静かに温かく、深雪乃の手の甲には、鬼の口づけの熱がまだ残っていた。




