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人間臭いと蔑まれた不死身の娘は、百鬼夜行の主に愛される  作者: なつめ


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第9話 遺言書の知らせ


 篝火家の朝は、静かに始まった。


 雨は夜明け前に上がっていた。庭の池には薄い靄がかかり、水面に映る紅葉の枝が、風もないのにゆっくり揺れている。濡れた庭石は白い朝の光を鈍く返し、石灯籠の笠から落ちた最後の雫が、ぽたりと苔の上に沈んだ。


 鵺喰家の朝とは違う。


 深雪乃は、廊下の端に置かれた椅子に腰かけ、両手で湯呑みを包んでいた。温かな白湯が入っている。冷えたものではない。欠けた器でもない。彼女の手に合わせたように小さめの湯呑みで、縁はなめらかだった。


 隣では、赫臣が当然のように座っている。


 距離が近い。


 近すぎる。


 廊下は広い。柱と柱の間には余裕があり、庭を眺めるなら少し離れて座ればよい。にもかかわらず、赫臣は深雪乃の肩が少し動けば袖が触れそうな位置にいた。崩した和装の片袖は相変わらず抜かれ、金の髪は朝の光を受けて柔らかく光っている。耳のピアスも、首元の飾りも、指輪も、雨上がりの光に小さくきらめいた。


 深雪乃は白湯を一口飲んだ。


「篝火様」


「赫臣」


「篝火様」


「朝から頑固だな」


「朝から距離が近いのは、そちらです」


「昨日よりは遠慮してる」


「遠慮の定義を、篝火家では大変ゆるやかにお使いなのですね」


「俺基準だからな」


「最も信用できない基準です」


 赫臣は愉快そうに笑った。


 彼の笑い声に、庭の端で働いていた使用人が一瞬だけ振り向き、すぐに目を伏せた。篝火家の使用人たちは、赫臣のこうした振る舞いに慣れているらしい。誰も深雪乃を嘲笑しない。誰も「身の程を知れ」という目を向けない。ただ、主がまた何かしているという諦めに近い空気があった。


 それが不思議だった。


 篝火家に来てから、深雪乃は何度も戸惑っている。


 膳を残しても叱られない。白湯を飲んでも笑われない。歩幅を合わせられる。廊下ですれ違えば頭を下げられる。風呂敷を抱いていても取り上げられない。母の鏡も、着物の端切れも、折れた櫛の欠片も、誰も奪おうとしない。


 それどころか、昨夜、砂笙は小さな桐箱を用意した。


「湿気で傷まぬように」と言い、母の鏡と端切れを入れるための柔らかな布まで添えた。深雪乃は礼を言うべきだと分かっていたが、すぐには言葉が出なかった。大切なものを隠す必要がない場所というものが、この世にあるのだと、まだ身体が信じきれていなかった。


 赫臣は、そんな彼女を急かさなかった。


 急かさない代わりに、隙あらば手に触れようとする。厄介な男だった。優しさと距離のなさが同じ器に雑に盛られている。人はどうして、こうも扱いづらい救いを差し出してくるのだろう。せめて説明書くらい添えてほしいものだ。


 深雪乃が白湯を膝元へ戻した時、廊下の向こうから足音が近づいた。


 砂笙だった。


 痩せた書生風の男は、いつもの鼠色の着物に羽織を重ね、片手に折り畳んだ書状を持っていた。朝の光の中でも顔色はやや悪い。篝火家の参謀という仕事は、きっと寿命を削る類のものなのだろう。主が赫臣なら、なおさらである。


 砂笙は二人の少し手前で足を止め、深く頭を下げた。


「旦那様。深雪乃様」


 赫臣の目が、砂笙の手元へ向く。


「来たか」


「はい。鵺喰家より、使者が参っております」


 深雪乃の指が、湯呑みを包む形のまま止まった。


 鵺喰家。


 その名が出ただけで、身体の奥が冷える。


 裏口。濡れた敷石。閉められた門。夜岐の声。祢々の目。薄く笑う使用人たち。折られた櫛。父の書斎から聞こえた紙の音。いくつもの記憶が、朝の篝火家の穏やかな空気を破って胸の中へ戻ってくる。


 赫臣は、深雪乃の手元を見た。


 湯呑みを持つ指が白くなっていることに気づいたのだろう。彼は何も言わず、深雪乃の手から湯呑みをそっと受け取った。いつものように勝手だったが、湯呑みを取り上げられたという感じではなかった。熱い器を落とさないよう、先に支えられたような動きだった。


 深雪乃は、それに気づいてしまい、少しだけ眉を寄せた。


「使者は、どなたですか」


「鵺喰家の相談役、御厨数馬と名乗っております。斎臣殿の代から書類を扱っていた古参の男です」


 砂笙が答える。


 赫臣は口元を歪めた。


「祢々や夜岐じゃねえのか」


「さすがに、最初からその二人を寄越す度胸はなかったようで」


「度胸だけはない家だな」


「面倒を増やさない表現を選んでいただけますか」


「腐ってる」


「減っておりません」


 砂笙の声は淡々としていたが、眉間に小さな疲れが浮かんでいた。


 深雪乃は廊下の先を見た。


 胸がざわつく。


「何の用でしょう」


 言いながら、答えは分かっていないのに嫌な予感だけがあった。鵺喰家がわざわざ篝火家へ使者を出す。しかも、追い出したばかりの深雪乃の名を添えて。良い知らせであるはずがない。あの家は、誰かを呼ぶ時、たいてい何かを奪うために呼ぶ。


 砂笙は書状へ目を落とした。


「斎臣殿の遺言書が見つかったとのことです」


 空気が、ぴたりと止まった。


 深雪乃は一瞬、言葉の意味を掴めなかった。


 遺言書。


 相続会議で、見つからないと騒がれていたもの。父の書斎から、夜に紙の擦れる音が聞こえたもの。誰かがくしゃりと紙を握り潰したような音の後、低く笑った、あの書斎。


 見つかった。


 今になって。


 赫臣の声が低くなる。


「どこからだ」


「書状には、斎臣殿の書斎の床板下より、とあります」


「見つかっていなかったものが、急に床板下から出たわけか」


「そのように」


「都合がいいな」


「ええ。おそろしく」


 砂笙も否定しなかった。


 深雪乃は、湯呑みを持っていない両手を膝の上で握った。指先が冷たい。篝火家の廊下は温かいはずなのに、身体だけが雨の日の裏口へ戻されたようだった。


「そこに、私の名があるのですか」


 自分の声が、少し遠く聞こえた。


 砂笙は、深雪乃へ目を向けた。


「ございます」


 赫臣の腕が、深雪乃の背後でわずかに動いた。触れようとして、やめたのが分かる。彼は近いが、こういう時だけ妙に間を置く。それが深雪乃には、また少し落ち着かなかった。


 砂笙は書状を開いた。


「内容を要約いたします。斎臣殿は、深雪乃様に対し、宵待澄子様の遺品をすべて返還することを命じています。櫛、鏡、着物、文、弓具、その他、宵待家より持ち込まれた品一式と記されています」


 深雪乃の心臓が強く打った。


 母の遺品。


 櫛だけではない。


 鏡、着物、文、弓具。


 弓具。


 櫛から聞こえた母の声が、血の奥で蘇る。


 弓を、忘れないで。


 母は、やはり何かを残していた。深雪乃が知らされていないものがある。鵺喰家の者たちが、ただの妾の持ち物として扱っていたはずの遺品の中に、何かが隠されている。


 深雪乃は風呂敷を抱く手に力を込めた。


「続けてください」


 砂笙は頷く。


「次に、北蔵奥の封印を開くこと。封印の開封には、深雪乃様本人の立ち会いを必要とすること。さらに、篝火家当主、すなわち旦那様を正式な立会人とすること」


 赫臣の蒼い瞳が、鋭く光った。


「俺の名まで書いてあるのか」


「はい。篝火赫臣殿、と」


「斎臣の奴、面倒なもの残してんな」


「旦那様の御名を遺言書に入れる程度には、何かを警戒していたのでしょう」


「あるいは、俺を利用する気だったか」


「その可能性もございます」


 砂笙の声は冷静だった。


 深雪乃は二人の会話を聞きながら、膝の上の自分の手を見ていた。


 父は、何を考えていたのだろう。


 生きている間、深雪乃を守らなかった人。屋敷で何が起きているか、知らないはずがないのに黙っていた人。母の名を日陰へ追いやり、深雪乃を妾腹の娘として放置した人。


 その父が、遺言書に深雪乃の名を書いていた。


 母の遺品を返すようにと。


 蔵の封印を開くようにと。


 篝火家当主を立会人にすると。


 胸の中に、怒りとも悲しみともつかないものが浮かんだ。なぜ生きているうちに言わなかったのか。なぜ今なのか。なぜ、自分が追い出された後なのか。もし遺言書がもっと早く見つかっていたら、あの裏口から雨の中へ押し出されずに済んだのか。


 いや、違う。


 鵺喰家は、遺言書があっても深雪乃を外へ出したかもしれない。隠し、握り潰し、なかったことにしたかもしれない。現に、遺言書は消えていた。そして今、急に現れた。


 深雪乃は顔を上げた。


「なぜ、今になって知らせてきたのでしょう」


 赫臣は口元を歪める。


「隠しきれなくなったんだろ」


 砂笙も静かに言った。


「遺言書に篝火家当主の名がある以上、破棄すれば篝火家へ喧嘩を売る形になります。しかも正式な筆跡と印が確認された場合、先祖返り会でも問題になります」


「鵺喰の中だけで揉み消すには、大きすぎたということですか」


「おそらくは」


 深雪乃は、少しだけ笑った。


 笑いというより、息が漏れた。


「父は、生きている間は何もおっしゃらなかったのに、死んでからだけ随分と声が大きいのですね」


 赫臣も砂笙も、すぐには答えなかった。


 深雪乃の言葉は静かだったが、その中には冷たい刃があった。父を悼む娘の言葉としては、あまりにも棘がある。けれど、それを責める者はこの場にはいなかった。


 赫臣が低く言う。


「戻りたくねえなら、戻らなくていい」


 深雪乃は彼を見た。


 赫臣は湯呑みを脇に置き、彼女の真正面へ身体を向けた。蒼い瞳が真っ直ぐに向けられる。いつもの軽い笑みはなかった。


「俺が取りに行く。母親の遺品も、櫛も、弓具も、蔵の中身も、必要なら鵺喰の屋敷ごとひっくり返す。お前があそこに戻る必要はねえ」


「遺言書には、私本人の立ち会いが必要と」


「なら、遺言書を書いた斎臣に文句を言う。死んでるけどな」


「無茶を言いますね」


「得意だ」


「得意げになさらないでください」


 赫臣は片膝を立てるようにして、少し身を乗り出した。


「深雪。戻りたくないなら、俺に言え」


 その声は、命令ではなかった。


 深雪乃は息を詰めた。


 戻りたくない。


 その言葉は、胸の中に最初からあった。


 鵺喰家の門を見たくない。裏口の敷石も、祢々の目も、小鈴の笑いも、夜岐の声も聞きたくない。父の書斎へ近づけば、あの紙の音を思い出す。離れへ行けば、母の櫛が折られた音が耳に戻る。廊下に膝をつけば、水を浴びせられた朝の冷たさが肌に蘇る。


 戻りたくない。


 心の底から、そう思う。


 けれど。


 母の遺品。


 弓具。


 蔵の封印。


 母の声。


 深雪乃の中で、恐怖と願いが絡まり合う。あの家にある母のものを、夜岐の手元に置いたままにはできない。祢々の管理する蔵に閉じ込められたままにはできない。母が何を残したのか、知らないまま逃げることもできない。


 逃げたい。


 取り戻したい。


 どちらも本当だった。


 深雪乃は、風呂敷の中の櫛の欠片を布越しに押さえた。微かな温もりがある。母の声が、また遠くで揺れた気がした。


 弓を、忘れないで。


「……戻ります」


 声は小さかった。


 それでも、廊下に落ちた。


 赫臣の表情が険しくなる。


「深雪」


「戻りたくはありません」


 深雪乃は、はっきりと言った。


「けれど、母の遺品をあの家に残したままにはできません。父が何を残したのかも、蔵に何があるのかも、知らないままではいられません」


 言葉にすると、胸の奥が少し震えた。


 怖い。


 だが、怖いだけではない。


 これまで深雪乃は、鵺喰家で起きることをただ受けてきた。水を浴びせられ、足を引っかけられ、食事を抜かれ、追い出された。母の櫛を折られた時でさえ、取り返す力はなかった。


 今も力があるとは言えない。


 だが、隣には赫臣がいる。


 篝火家当主。酒呑童子の先祖返り。百鬼夜行の頭。鵺喰家が名を出すだけで警戒する男。その男が、自分に「戻りたくないなら言え」と言った。行くなら一緒に行くのだろう。手を伸ばせば、きっと掴む。


 それが少しだけ、腹立たしいほど心強かった。


 赫臣は深雪乃をじっと見つめていた。


 やがて、息を吐く。


「分かった」


 意外なほど短い返事だった。


 深雪乃は少し目を見開いた。


「止めないのですか」


「止めてほしいのか」


「そうでは」


「なら止めねえ」


 赫臣は手を伸ばし、深雪乃の髪に触れる直前で止めた。彼女が身を引かないのを見てから、そっと前髪を整える。


「お前が戻るって決めたなら、一緒に行く。鵺喰の連中が何かしたら、その場で俺が黙らせる」


「穏便にお願いいたします」


「努力する」


「その言葉に信用がありません」


「じゃあ、砂笙が止める」


 砂笙が静かに頭を下げた。


「可能な限り」


「可能な限り、なのですね」


「旦那様相手ですので」


「ご苦労が多そうです」


「お察しいただき、痛み入ります」


 赫臣が不満そうに砂笙を見た。


「俺を挟んで苦労を語るな」


「語られるような日頃でいらっしゃいます」


「ひでえ」


「事実です」


 そのやり取りに、深雪乃はほんの少しだけ息を吐いた。


 笑ったわけではない。


 ただ、張り詰めた胸の奥に、わずかな隙間ができた。


 砂笙は使者を客間へ通し、篝火家として正式に返答を整えることになった。赫臣は使者に会うと言ったが、砂笙に「旦那様が今すぐお会いになると、相手が遺言書を出す前に気絶しかねません」と止められた。赫臣は不満そうだったが、深雪乃が「気絶されたら話が進みません」と言うと、渋々引いた。


 昼前には、鵺喰家へ向かう準備が整えられた。


 深雪乃は篝火家で用意された着物に袖を通した。


 白藤に近い淡い色の着物だった。派手ではない。だが、布は柔らかく、袖を通した瞬間に肌へ乱暴に擦れることがなかった。帯は薄墨色で、控えめな銀糸が入っている。髪は女中が整えようとしたが、深雪乃が一瞬身を硬くしたため、赫臣が女中を下がらせた。


「俺がやる」


 と言い出した時は、深雪乃もさすがに止めた。


「髪結いまでなさるおつもりですか」


「やればできる」


「できるかどうかの問題ではありません」


「じゃあ、砂笙」


「私は参謀であって髪結いではございません」


 最終的に、女中が深雪乃の前へ鏡を置き、触れる前に必ず声をかけるという形になった。深雪乃は自分で前髪を整え、長い黒髪を低い位置で結んだ。女中は最後に布紐だけを結んでくれた。指先は丁寧で、痛くなかった。


 痛くない。


 ただそれだけのことが、まだ少し不思議だった。


 玄関先には、黒塗りの馬車が用意されていた。


 自動車ではない。鵺喰家へ正式に向かうには、篝火家の紋を入れた馬車の方がよいらしい。車輪の金具は磨かれ、御者台には無表情な男が座っている。馬は黒く、雨上がりの光を受けて毛並みが艶めいていた。


 空は曇っている。


 また降り出すかもしれない。湿った風が、庭の木々を撫でている。深雪乃は風呂敷を胸に抱いた。中には母の鏡と端切れと櫛の欠片がある。桐箱に入れるよう勧められたが、鵺喰家へ戻る時だけは手元に置きたかった。


 赫臣が馬車の扉を開けた。


「乗れるか」


「乗れます」


「抱くか」


「なぜ、そうなるのですか」


「聞いただけだ」


「顔が聞いただけではありません」


「残念だな」


「隠してください」


 赫臣は笑い、深雪乃が馬車へ上がるのを手で支えた。腰に触れようとして、やめる。代わりに手のひらを差し出した。深雪乃は一瞬だけ迷い、その手を取った。


 熱い。


 昨日から何度も思っているのに、触れるたびに驚く。


 赫臣は深雪乃を座席へ座らせると、自分も向かいではなく隣に座った。


 深雪乃はすぐに横を見た。


「向かいが空いております」


「知ってる」


「なぜ隣へ」


「深雪の隣がいい」


「理由が幼いですね」


「分かりやすくていいだろ」


「よくありません」


 馬車の扉が閉まる。


 外から砂笙の声がし、御者が手綱を取った。車輪がゆっくり動き始める。篝火家の門が開き、馬車は雨上がりの道へ出た。


 馬車の中は静かだった。


 窓の外には、帝都へ続く道が流れていく。濡れた木々、石塀、行き交う人力車、遠くの煉瓦の建物。昨日、雨の中を一人で歩いた道とは違う。同じ帝都なのに、馬車の中から見ると遠く感じる。あの時の冷え、空腹、路地の腐臭、妖の爪の感覚が、深雪乃の身体にまだ残っている。


 鵺喰家へ近づいている。


 そう思うだけで、喉が少し詰まった。


 深雪乃は風呂敷を抱き直した。指先が冷えている。白藤色の袖の中で、手が小さく震える。隠したつもりだった。だが、赫臣は見逃さなかった。


 彼は黙って手を伸ばした。


 深雪乃の右手を取る。


 強くは握らない。逃げようと思えば逃げられる程度の力だった。けれど、手全体を包むように温かい。


「篝火様」


「赫臣」


「篝火様」


「はいはい」


「手を」


「繋いでるな」


「説明は求めておりません」


「嫌か」


 また、その問いだった。


 深雪乃は窓の外を見た。


 濡れた街路樹が、馬車の揺れに合わせて後ろへ流れていく。帝都の空は低く、遠くの屋根の向こうに鵺喰家の高台がある。戻れば、夜岐がいる。祢々がいる。親族たちがいる。使用人たちが笑うかもしれない。母の櫛を折った座敷も、相続会議の大広間も、父の書斎もある。


 怖い。


 手を離したくない。


 その二つが同時にあった。


「……嫌とは、申し上げておりません」


 深雪乃は小さく言った。


 赫臣の指が、彼女の手を少しだけ深く包む。


「そうか」


「調子に乗らないでください」


「もう乗ってる」


「降りてください」


「馬車からか」


「調子からです」


「無理だな」


 赫臣は笑った。


 その笑い声が、馬車の中の重さを少しだけ和らげる。腹立たしいことに、深雪乃の呼吸もほんの少し楽になった。


 赫臣は繋いだ手を持ち上げた。


「またですか」


 深雪乃が言う前に、彼は手の甲へ唇を寄せた。


 馬車の揺れの中で、手の甲に温かな口づけが落ちる。昨日の朝とは違う。今度は鵺喰家へ向かう道の途中だった。逃げ出したい場所へ戻る直前に、その熱が手に残る。


 深雪乃は息を止めた。


 赫臣は手を離さない。


「俺がいる」


 低い声だった。


 甘いだけではない。


 篝火家当主としての重みも、酒呑童子の鬼としての力も、その短い言葉に宿っていた。嘘ではない。慰めの形をした空言でもない。赫臣は本当にいる。隣に座り、手を繋ぎ、必要なら鵺喰家の大広間で平然と霊糸を張る男だ。


 心強い。


 だからこそ、深雪乃は素直に頷けなかった。


「あなたがいると、余計に騒がしくなりそうです」


 赫臣は楽しそうに目を細めた。


「騒がしくしてやる」


「しなくて結構です」


「鵺喰の連中が静かに済ませる気なら、俺も大人しくする」


「その仮定がすでに頼りありません」


「よく分かってるな」


「喜ぶところではございません」


 赫臣はまた笑った。


 馬車が少し揺れる。深雪乃の肩が彼の腕に触れた。すぐ離れようとしたが、手は繋がれたままだった。赫臣は肩が触れたことには何も言わず、ただ繋いだ手を緩めない。


 深雪乃も、手を離さなかった。


 馬車は帝都の道を進んでいく。


 人力車の車輪が水溜まりを跳ね、洋傘を差した女が道の端へ避ける。新聞売りの少年が、軒下から大きな声を上げていた。遠くで路面電車の鐘が鳴る。文明開化の街の音が窓の外で重なり、その先に、古い血筋と妖の気配を抱えた鵺喰家の屋敷が待っている。


 深雪乃は、母の風呂敷を膝に置いた。


 片手は風呂敷の上。


 もう片方の手は、赫臣の手の中。


 その状態で、彼女は前を向いた。


 戻りたくない場所へ戻る。


 けれど、今度は裏口から追い出される娘としてではない。


 父の遺言書に名を記された娘として。


 母の遺品を取り返すために。


 篝火家当主を立会人に連れて。


 馬車の窓の向こうに、鵺喰家へ続く高台の坂が見え始めた。


 深雪乃の指が、ほんの少し強く赫臣の手を握った。


 赫臣は何も言わず、握り返した。




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