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人間臭いと蔑まれた不死身の娘は、百鬼夜行の主に愛される  作者: なつめ


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第10話 鵺喰家への帰還


 鵺喰家の門が見えた時、深雪乃の指先は冷たくなっていた。


 雨は止んでいる。けれど空はまだ白く曇り、高台へ続く坂道には湿った風が残っていた。馬車の窓から見える帝都の街は、下へ行くほど薄く霞んでいる。路面電車の鐘も、人力車の車輪が石畳を叩く音も、ここまで来ると遠い。かわりに聞こえるのは、馬の蹄が坂を上る音と、車輪が濡れた砂利を踏む鈍い響きだった。


 深雪乃は膝の上の風呂敷を押さえていた。


 中には、母の鏡、白藤色の着物の端切れ、折れた櫛の欠片が入っている。布越しに触れると、櫛の欠片はかすかに温かかった。気のせいかもしれない。けれど、その温もりがなければ、彼女はもっと早く息を乱していたかもしれなかった。


 馬車の隣席には赫臣がいる。


 向かいではない。隣だ。しかも、何度言っても距離が近い。広い座席の端と端に座るという発想は、彼の中ではとうの昔にどこかの妖へ食わせたのだろう。膝が触れるほどではないが、肩が少し揺れれば袖が触れる。彼の和服からは、煙管の甘く焦げた香りと、金属が雨上がりの湿気を吸った匂いがした。


 赫臣は、深雪乃の手を握ったままだった。


 最初は馬車が揺れたからだと言った。次に、深雪乃の手が冷たいからだと言った。その次には、単に自分が繋いでいたいからだと言った。結局、最後の理由しか残っていない。


 深雪乃は窓の外を見たまま言った。


「そろそろ離していただけませんか」


「嫌だ」


 返事は早い。


「まだ何も説明しておりません」


「説明されても嫌だ」


「人の話を聞く気がないのなら、せめて返事だけは遅らせてください」


「何でだ」


「考えているふりができます」


「俺がか?」


「ええ」


「無理だな」


「でしょうね」


 赫臣は楽しげに笑った。装身具が小さく鳴る。彼の耳元に並ぶ銀環や小さな石が、曇り空の光を受けて鈍く輝いた。


 深雪乃は握られている手を見下ろした。


 大きな手だった。熱い。鬼の体温なのか、赫臣個人のものなのかは分からない。彼に手を握られていると、自分の指先がどれほど冷えていたかを思い知らされる。思い知らされるのが少し悔しい。


「鵺喰家へ着きましたら、私は一人で降ります」


「俺が抱いて降ろす」


「話を聞いておりましたか」


「聞いた上で、俺の希望を言った」


「却下いたします」


「じゃあ、手を引く」


「それなら、まだ」


 言いかけて、深雪乃は口を閉じた。


 赫臣の口元が上がる。


「まだ?」


「何でもございません」


「手ならいいんだな」


「今のは言葉の綾です」


「綾でも言った」


「あなたは、都合のよい耳だけお持ちですね」


「深雪の可愛い言葉を拾う耳ならある」


「可愛い言葉は一つもございません」


「ある。今の」


「不憫な耳です」


 赫臣は声を立てて笑った。


 馬車の窓の向こうで、鵺喰家の黒塗りの門が近づく。山本五郎左衛門の先祖返りが生まれるべき家紋。何度も見た門だった。幼い頃から、屋敷の内側から眺め、外へ出ることを許されず、最後には裏口から追い出された家。


 表門から戻るのは、いつ以来だろう。


 いや、戻るという言葉が正しいのかも分からない。あの家は深雪乃の居場所ではなかった。けれど、母の遺品はまだそこにある。父の書斎も、封印された蔵も、折られた櫛の残りも、あの家の奥に置かれている。


 逃げたい。


 取り返したい。


 二つの感情が、胸の奥で冷たい糸のように絡まっている。


 赫臣の手が、深雪乃の手を少し強く包んだ。


「深雪」


「……何ですか」


「呼吸」


 言われて、深雪乃は自分が息を詰めていたことに気づいた。


 ゆっくり吸う。


 湿った木の匂い、馬車の革の匂い、赫臣の煙管の香り。鵺喰家の湿った畳と白檀の匂いではない。ここにはまだ、篝火家から持ってきた空気がある。


 深雪乃は息を吐いた。


「命令されなくてもできます」


「なら、俺が見てなくてもできるようにしとけ」


「見張り役ですか」


「守り役」


「言い方を変えると急に厄介さが増しますね」


「いいだろ、守らせろ」


 その声が甘すぎて、深雪乃は返事に困った。


 馬車が止まった。


 御者台から低い声がし、車輪の軋みが静まる。外で門番が慌てる気配があった。鵺喰家の表門の前に、篝火家の紋を入れた馬車が止まったのだ。当然だろう。追い出したはずの妾腹の娘が、よりにもよって先祖返り会第一位の当主を連れて戻ってきた。門番の心臓には、少し同情してもよい。日頃の振る舞いを思えば、ほんの爪の先ほどだが。


 馬車の扉が外から開いた。


 篝火家の従者が頭を下げる。濡れた石畳から、雨上がりの冷気が流れ込んだ。深雪乃は風呂敷を抱え、立ち上がろうとした。


 赫臣の手が先に動いた。


 抱き上げられると思い、深雪乃はすぐに彼を睨む。赫臣は笑いを堪える顔で、手のひらを差し出しただけだった。


「手」


「抱き上げようとなさったら、馬車の中へ戻ります」


「それはそれでいいな」


「よくありません」


「手だけにしとく」


「だけ、という言い方が信用できません」


「今は」


「なお悪いです」


 それでも、深雪乃はその手を取った。


 馬車から降りる時、足元の石畳が湿っていた。赫臣の手がなければ転ぶほどではない。けれど、彼の支えは確かだった。強く引くわけではない。深雪乃の歩幅に合わせて、必要な分だけ支える。


 それが、また悔しいほど自然だった。


 門の内側には、すでに人が集まっていた。


 鵺喰家の親族たちが並んでいる。兼近をはじめ、相続会議で声を上げていた男たち。夜岐の母方の親族。相談役の御厨数馬。皆、黒や灰の着物をきちんと着て、表向きには礼を失わぬ顔をしていた。夜岐もいる。淡い藤鼠の着物に黒の羽織を重ね、髪を美しく整えていた。


 薄墨祢々は、その少し後ろに控えている。


 小鈴と若い下女たちは、さらに後ろの柱の陰にいた。佐助の姿も見える。彼らは皆、深雪乃を見た瞬間だけ、目の奥を細くした。すぐに伏せたが、遅かった。睨み。憎しみ。なぜ戻ってきたのかという不満。追い出したものが、より大きな影を連れて帰ってきたことへの恐れ。


 親族たちは黙っている。


 使用人たちは、陰で睨む。


 実に分かりやすい屋敷だった。上の者は権力の前では口を閉じ、下の者は安全な影から毒を投げる。役割分担だけは見事である。これを品格と呼んでいるのだから、鵺喰家の辞書はずいぶん傷んでいる。


 赫臣が馬車から降りた瞬間、空気が変わった。


 彼は何もしていない。


 ただ、立っただけだった。


 金髪、蒼い瞳、片袖を抜いた崩し和装。耳に二十を超えるピアス、首元の鎖、指輪、腕輪、足首の飾り。派手な色男に見えるのに、その場の誰も軽んじることはできなかった。彼の装身具のひとつひとつに、見えない霊糸の気配が眠っている。深雪乃には、雨上がりの空気の中で、それらが細く息づくのが分かった。


 赫臣の蒼い瞳が、親族たちを一瞥する。


 それだけで、兼近の喉が上下した。


 最初に膝をついたのは御厨数馬だった。白髪混じりの相談役は、額が畳につきそうなほど深く頭を下げる。


「篝火様。本日は、斎臣様の遺言に従い、ご足労いただき誠に恐れ入ります」


 兼近も遅れて頭を下げた。


「篝火様。お越しいただき、感謝申し上げる」


 赫臣は返事をしなかった。


 しばらく、黙って見下ろしていた。


 それだけで、場の空気が冷えていく。赫臣は笑っている。口元には薄い笑みがある。だが、蒼い瞳は笑っていない。酒呑童子の先祖返り。百鬼夜行の頭。先祖返り会で最上位に座る男が、鵺喰家の敷地に立っている。その意味を、ここにいる者たちはよく理解していた。


 赫臣が、ようやく口を開いた。


「ずいぶん丁寧な迎えだな。雨の日に裏口から出した時とは大違いだ」


 誰も答えなかった。


 兼近の顔が強張る。夜岐の睫毛がわずかに揺れ、祢々の指が袖の中で小さく動いた。小鈴たち使用人が、柱の陰で息を殺す。


 深雪乃は、赫臣の手を引きそうになった。


 あまり刺激しないでほしい。そう思った。だが、言葉にはしない。言えば赫臣は「もう刺激してる」とでも返すに決まっている。しかも事実だ。実に困る。


 御厨が、慎重に声を出した。


「その件につきましては、家中に行き違いが」


「行き違い」


 赫臣が繰り返した。


 低い声だった。


「便利な言葉だな。人ひとり捨てても、行き違いで済むのか」


 御厨の額に汗が浮く。


 深雪乃は、思わず赫臣を見上げた。


 彼は笑っている。けれど、その横顔には怒りがあった。甘い言葉を囁く時の彼とは違う。雨の路地で妖を切り刻んだ時の、冷えた熱がそこにある。


 恐ろしい。


 けれど、その怒りが自分へ向けられていないことを、深雪乃はもう知っていた。


 夜岐が一歩前へ出た。


「篝火様。妹がご迷惑をおかけいたしました」


 妹。


 その言葉に、深雪乃の胸の奥が小さく冷えた。


 追い出す時は、もう姉と呼ばなくていいと言った。屋敷を出たら鵺喰の娘ではなくなると言った。それなのに、篝火赫臣の前では妹と呼ぶ。夜岐は本当に、布を掛けるのが上手い。どれほど醜いものでも、柔らかな絹を被せれば美しく見えると信じている。


 赫臣が夜岐を見た。


「迷惑?」


 夜岐は微笑みを保った。


「深雪乃は、幼い頃より少し頑ななところがございまして。父の死で気も立っていたのでしょう。篝火様のお手を煩わせてしまったこと、姉としてお詫び申し上げます」


「ふうん」


 赫臣の声は軽い。


 軽いからこそ、怖い。


「お前が姉か」


「はい。鵺喰夜岐と申します」


「深雪の母親の櫛、折った女だな」


 夜岐の顔から、笑みが消えかけた。


 ほんの一瞬。


 だが、消えた。


 周囲の空気が凍る。祢々が目を伏せ、小鈴の肩が震えた。親族たちの何人かは、初耳だったのか夜岐へ視線を向ける。深雪乃は、風呂敷を抱く手に力を込めた。


 夜岐はすぐに笑みを戻した。


「何かの誤解では」


「俺の前で誤魔化すなら、もう少し上手くやれ」


 赫臣は言った。


 彼の耳飾りが、小さく鳴る。


 その瞬間、門の上を一羽の烏が飛び立った。風がないのに、黒白の幕が外された門脇の布がかすかに揺れる。見えない霊糸が張られたのだと、深雪乃には分かった。誰かが不用意に動けば、きっと血を見る。


 赫臣は、深雪乃の手を離した。


 一瞬、心細さが胸を掠める。


 だが次の瞬間、彼の腕が深雪乃の腰に回った。


 人前で。


 堂々と。


 深雪乃の身体が固まる。赫臣の手は熱く、帯の上から腰を支えるように抱いている。抱き寄せる力は強すぎない。けれど、そこが自分の場所だとでも言うように自然だった。深雪乃の肩が赫臣の身体に近づく。彼の煙管の香りが、すぐそばで濃くなる。


 親族たちが息を呑んだ。


 使用人たちの視線が一斉に刺さる。特に祢々と小鈴の目には、驚きと怒りと屈辱が混じっていた。深雪乃が篝火赫臣の腕の中にいる。それが、彼らには信じられないのだろう。昨日まで水を浴びせ、冷えた白湯を出し、残飯を用意していた相手が、百鬼夜行の頭に腰を抱かれている。


 深雪乃自身も、信じられない。


 頬が熱くなる。


「篝火様」


「赫臣」


「今はそういう問題ではございません」


「俺には重要だ」


「人前です」


「見せてる」


「見せないでください」


 赫臣は深雪乃を抱いたまま、鵺喰家の者たちを見渡した。


 そして、はっきりと言った。


「こいつを見下ろしていいのは、俺の腕の中にいる時だけだ」


 音が消えた。


 庭の水音も、門の外の風も、誰かの息も、すべて一瞬遠のいたように感じた。


 深雪乃は赫臣を見上げた。


 顔が熱い。


 耳の奥まで熱い。


 怒るべきだと思う。人前で何を言うのかと、すぐにでも距離を取るべきだと思う。鵺喰家の親族、使用人、夜岐、祢々、皆が見ている。この場で腰を抱かれ、そんな言葉を投げられるなど、恥ずかしさでどうにかなりそうだった。


 けれど、逃げなかった。


 赫臣の腕を押しのけなかった。


 むしろ、彼の腕の中にいることで、周囲の視線が少しだけ遠くなる。見下ろされているのは同じだ。だが、今は赫臣の腕がある。あの視線が直接肌へ刺さらない。彼の言葉は乱暴で、横暴で、公衆の面前で言うにはあまりにも甘くて傲慢だった。


 それでも。


 守られている、と感じてしまった。


 そのことが、何より顔を熱くさせた。


 深雪乃は、低い声で言った。


「公衆の面前で何をおっしゃるのですか。顔がいいから許されると思わないでください」


 赫臣が目を細める。


「許してる顔だ」


「許しておりません」


「じゃあ、嫌か」


 深雪乃は言葉に詰まった。


 また、その問いだ。


 赫臣はいつも、最後のところでそれを聞く。嫌か。本気で嫌なら、きっと手を離す。その選択肢を置かれるたびに、深雪乃は自分の沈黙と向き合わされる。


 嫌ではない。


 恥ずかしい。困る。腹立たしい。騒がしい。距離が近すぎる。だが、嫌ではない。


 だから、余計に厄介だった。


「……場所を考えてください」


 深雪乃はそれだけ言った。


 赫臣は低く笑った。


「あとでならいいのか」


「そういう意味ではございません」


「そう聞こえた」


「あなたの耳は本当に都合がよろしいですね」


「お前の声を拾うためにあるからな」


「耳飾りの方がまだ慎ましいです」


「二十以上あるのに?」


「あなたよりは」


 赫臣は愉快そうに笑った。


 その笑い声で、親族たちの緊張が別の形へ変わる。誰もが、どう反応すべきか測りかねていた。篝火家当主が深雪乃を公然と抱き寄せた。これはただの気まぐれでは済まない。少なくとも、鵺喰家の中で深雪乃を以前と同じように扱えば、篝火赫臣の怒りに触れる。


 兼近が口を開いた。


「篝火様。深雪乃は、まだ鵺喰家の娘でもありますゆえ」


「でも?」


 赫臣の声が低くなる。


 兼近は言葉を選ぶように喉を鳴らした。


「家中の者の前で、そのような振る舞いは」


「何か問題があるか」


「深雪乃の名にも関わります」


「名を泥に突っ込んできたのは、お前らだろ」


 兼近が黙る。


 赫臣は、深雪乃の腰を抱く腕を緩めなかった。


「葬儀の座敷の外に置いた。相続会議から外した。冷えた白湯を出した。裏口から雨の中へ出した。今さら名を気にするなら、順番が遅すぎる」


 鵺喰家の親族たちの顔が、次々に強張っていく。


 使用人たちの視線が揺れる。祢々は目を伏せているが、その口元は固い。小鈴は柱の影で唇を噛んでいた。佐助は完全に顔を青くしている。深雪乃は、その様子を見た。


 ざわめくような気持ちが胸に生まれる。


 赫臣が言っていることは、事実だった。


 だが、深雪乃自身がこの家でそれを口にしても、誰も聞かなかった。毒舌として片づけられ、身の程を知らないと言われた。赫臣が言うと、彼らは黙る。権力の差だ。血筋の差だ。第一位と第二位の差。実に分かりやすく、実に腹立たしい。


 それでも、誰かが言葉にしてくれることは、胸の奥を少しだけ揺らした。


 夜岐が、静かに口を開いた。


「篝火様は、深雪乃から随分と偏った話をお聞きになったようですね」


 深雪乃は夜岐を見た。


 夜岐の表情は整っている。先ほど櫛のことを言われた時に揺れた気配は、もうない。可憐で、気品があり、妹を案じる姉の顔。だが、瞳の奥には冷たい棘があった。


「深雪乃は、昔から少し物事を大げさに受け取るところがございました。身体が丈夫な分、周囲の気遣いを素直に受け取れず」


「夜岐様」


 深雪乃は静かに遮った。


 赫臣の腕の中から、一歩も出ずに。


 夜岐の視線が彼女へ向く。


「何かしら」


「母の櫛を一本ずつ折ったことも、気遣いに入りますか」


 夜岐の笑みが止まった。


 深雪乃は続けた。


「使用人たちに押さえつけさせ、皆さまに笑わせながら。あれも、私が大げさに受け取っただけでしょうか」


 庭先の空気が、さらに冷えた。


 親族たちは一斉に夜岐を見た。祢々は顔を上げない。小鈴が小さく肩を震わせる。佐助は視線を地面へ落とした。彼らは知っている。そこにいたからだ。笑ったからだ。


 夜岐は、唇を開きかけた。


 だが、赫臣の蒼い瞳が彼女を捕らえる方が早かった。


「答えろよ」


 その声は静かだった。


 静かすぎて、かえって恐ろしい。


「気遣いだったのか?」


 夜岐は何も言わなかった。


 沈黙は、答えの代わりになった。


 赫臣は笑った。


「そうか。便利な姉妹仲だな」


 兼近が慌てて声を上げる。


「篝火様。まずは遺言書の確認を」


「逃げるのが早い」


「逃げるなど」


「まあいい。俺も、そのために来た」


 赫臣は深雪乃へ視線を落とした。


「入れるか」


 その問いは、他の者には聞こえないほど低かった。


 深雪乃は彼を見上げた。


 腰を抱かれている。人前で。鵺喰家の門前で。頬はまだ熱い。だが、その腕の中にいると、足元が少しだけ確かになる。


 彼女は風呂敷を抱き直した。


「入ります」


「無理は」


「していないと言えば嘘になります」


 赫臣の目が細くなる。


 深雪乃は、少しだけ息を吸った。


「けれど、ここで帰れば、母のものがまたあの家の奥へ隠されます」


「俺が取りに行く」


「私も行きます」


 赫臣はしばらく見つめた後、ゆっくり笑った。


「いい顔だ」


「今そのようなことを言う場ではございません」


「いつでも言う」


「本当に面倒な方ですね」


「大好きだぞ、そういうところ」


「聞こえます」


「聞かせてる」


 深雪乃は、もう言い返す力を少しだけ失った。


 赫臣は腰を抱く腕を少し緩めた。完全に離しはしない。だが、深雪乃が自分の足で歩けるだけの余地を作った。彼女はそれを受け入れた。赫臣の腕に守られながらも、自分で一歩を踏み出す。


 鵺喰家の門をくぐる。


 以前、追い出された門ではない。


 けれど同じ屋敷だ。庭の石、長い廊下、湿った木の匂い、白檀の香。すべてが記憶の中から現実へ戻ってくる。使用人たちの視線が背中に刺さる。親族たちは前を歩き、夜岐は少し離れた場所で横顔だけを見せている。


 深雪乃は足を止めなかった。


 腰には、赫臣の腕がある。


 手元には、母の風呂敷がある。


 胸の奥には、母の声が残っている。


 弓を、忘れないで。


 屋敷の奥へ進むにつれて、父の書斎がある北側の空気が近づいてくる気がした。あの夜、紙の擦れる音が聞こえた場所。遺言書が床板下から見つかったという場所。本当にそこにあったのか。誰が隠し、誰が見つけ、誰が今さら表へ出したのか。


 深雪乃は、前を向いた。


 鵺喰家の者たちは黙っている。


 だが、沈黙は服従ではない。恐れと、計算と、怒りが混じった沈黙だ。この屋敷はまだ何かを隠している。母の遺品も、蔵の封印も、父の死も、すべてが奥で繋がっている。


 赫臣が、彼女の耳元で低く囁いた。


「深雪」


「何ですか」


「顔、まだ赤い」


 深雪乃は足を止めかけた。


「今それを言いますか」


「可愛いから」


「黙ってください」


「嫌だ」


「篝火様」


「赫臣」


「……本当に、顔がいいから許されると思わないでください」


「許してる顔だ」


「許しておりません」


「手は離してねえな」


 深雪乃は、腰に回る彼の腕を押しのけなかった。


 それが答えのように見えるのが、たいへん不本意だった。


 彼女は小さく息を吐き、前だけを見た。


「今だけです」


 赫臣は低く笑った。


「今だけを積み重ねりゃ、ずっとになる」


「詭弁です」


「鬼の口説き文句だ」


「なお悪いです」


 そう返しても、深雪乃は逃げなかった。


 鵺喰家の長い廊下が、二人の前に伸びている。かつて一人で膝をついて拭かされた板の上を、今は赫臣を伴って歩いている。柱の陰で使用人が頭を下げる。親族たちは振り返らない。夜岐の横顔は冷たい。


 深雪乃は、自分の足音を聞いた。


 静かだが、確かに鳴っている。


 その隣で、赫臣の装身具が小さく鳴った。


 鵺喰家の奥座敷へ向かう道は、湿った白檀の匂いを含んでいた。そこに、赫臣の煙管の香りが重なる。深雪乃は風呂敷を抱き直し、腰に添えられた熱を意識しないようにしながら、父の遺言書が待つ座敷へ向かった。


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