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人間臭いと蔑まれた不死身の娘は、百鬼夜行の主に愛される  作者: なつめ


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第11話 障子裏の深い初キス


 鵺喰家の奥座敷は、香の匂いが濃かった。


 白檀に、沈香を少し混ぜた香り。葬儀の名残を隠すようでいて、実際には屋敷に染みついた湿気と古い血筋の気配をさらに重くしている。畳は新しく替えられているように見えたが、部屋の隅や柱の根元には、どうしても消えない古い匂いがあった。閉じた蔵、湿った紙、長年開けられなかった箱、そういうものの匂いだ。


 深雪乃は、上座から少し離れた位置に座らされていた。


 以前なら、座敷の外だった。


 今は内側にいる。


 けれど、それは深雪乃が鵺喰家の娘として認められたからではない。篝火赫臣がいるからだ。彼が彼女の斜め後ろ、ほとんど寄り添うほど近くに座っているから、親族たちは深雪乃を廊下へ追い出せない。


 その事実は、座敷にいる誰の顔にも薄く浮かんでいた。


 兼近は渋面を作り、御厨数馬は書類箱を前にして汗を拭っている。夜岐は美しい姿勢で座り、袖口をきちんと揃えていた。薄墨祢々は茶を運ぶ女中たちの後ろに控え、小鈴は柱の陰で深雪乃を見ていた。佐助は座敷の外、廊下の端にいる。皆、声には出さない。だが視線は隠しきれていない。


 戻ってきた。


 なぜ戻ってきた。


 なぜ篝火家当主の隣にいる。


 その問いが、畳の上を細い虫のように這っている。


 深雪乃は、膝の上で手を重ねていた。白藤色の着物の袖が、指先を半分隠している。篝火家で用意された着物は柔らかく、擦れても痛くなかった。帯もきつすぎない。けれど、この座敷に入った途端、身体は自然と強張った。


 ここは、鵺喰家だ。


 何度も膝をつかされた家。


 何度も水を浴びせられた家。


 母の櫛を折られた家。


 父の葬儀の日に、座敷の外へ置かれた家。


 どれだけ赫臣の熱が隣にあっても、床下から冷えが這い上がってくるような感覚は消えない。


 赫臣の指が、深雪乃の袖の端に軽く触れた。


 誰にも見えない位置で。


 触れた、というより、そこにいると知らせる程度の動きだった。


 深雪乃は視線を動かさなかった。けれど、袖の中で指先がほんの少し緩む。


 御厨が、黒塗りの書類箱を開いた。


「こちらが、斎臣様の遺言書でございます」


 御厨の声はかすかに震えていた。白髪混じりの男は、鵺喰家の書類を長く扱ってきた相談役であるはずなのに、今日は一つひとつの動きが慎重すぎる。篝火赫臣の前で下手なことを言えば、己の首だけでなく家全体が危ういと知っているのだろう。


 実に分かりやすい慎重さだった。


 人は強い相手の前でだけ礼儀を思い出す。そんな便利な記憶力を、なぜ弱い相手の前では発揮できないのか。脳の作りに欠陥でもあるのだろうか。


 御厨は畳の上に白い布を敷き、その上に遺言書を置いた。


 紙は古いものではない。だが、斎臣が使っていた紙だった。深雪乃にも分かる。父の書斎で見かけたことのある、薄く青みを帯びた和紙。端には鵺喰家の家紋が透かしのように入っている。


 父の筆跡だった。


 深雪乃は、息を止めた。


 斎臣の字を、久しぶりに見た。整っていて、冷たく、余白の多い字。人に何かを伝えようとする熱よりも、記録として残すことを優先した字だった。それでも、そこに父の手があったことだけは分かる。


 御厨が読み上げる。


「宵待澄子が鵺喰家へ持ち込んだ遺品一式は、鵺喰深雪乃へ返還すること。内訳、黒檀銀細工の櫛、沈丁花文様の懐中鏡、白藤の着物一領、宵待家より伝わる文箱、古弓一張、破魔矢十二本、弓懸、その他、北蔵奥に封じた品」


 深雪乃の胸が、強く鳴った。


 弓。


 破魔矢。


 やはり、あった。


 母は、ただの人間の妾ではなかったのかもしれない。少なくとも、母の持ち物には退魔に関わる品が含まれていた。深雪乃に知らされていない何かが、鵺喰家の北蔵奥に封じられている。


 赫臣の気配が、わずかに鋭くなる。


 御厨は続けた。


「北蔵奥の封印は、深雪乃本人の立ち会いのもとで開くこと。開封には篝火家当主、篝火赫臣殿を立会人とすること。鵺喰家の者は、深雪乃の同意なく宵待澄子の遺品に触れてはならぬこと」


 夜岐の指が、袖の上でわずかに動いた。


 深雪乃はそれを見た。


 櫛を折った指。


 母の遺品に触れてはならないと記された今、その指はどんな気分なのだろう。深雪乃の胸には、勝ち誇りはなかった。ただ、冷たい空白があった。父は生前にこれを言うこともできたはずなのに、なぜ死んでから紙にだけ残したのか。


 紙は、痛みを止めてはくれない。


 遺言書は、折られた櫛を元に戻してはくれない。


 兼近が、低く咳払いした。


「斎臣殿の筆跡であることは認める。だが、この内容は少々」


 赫臣の蒼い瞳が、兼近へ向いた。


「少々、何だ」


 兼近は言葉を詰まらせた。


 赫臣の声は静かだった。静かなのに、座敷の隅まで冷たい刃が届く。彼の耳飾りが微かに鳴り、深雪乃には見えない霊糸が空気の中で細く震えたように感じられた。


 兼近は喉を鳴らした。


「宵待澄子は、正式な妻ではない。遺品とはいえ、鵺喰家へ持ち込まれたものは家の管理下にある。すべてを深雪乃へ返すとなれば、家の記録や封印管理にも影響が」


「斎臣の遺言に書いてあるんだろ」


「それは」


「死んだ当主の遺言を、親族が気に入らねえから曲げる。鵺喰家はそういう家か」


 兼近は黙った。


 夜岐が静かに声を添える。


「篝火様。伯父様は、家を案じておられるだけですわ。深雪乃はまだ若く、先祖返りとしての力も定かではございません。母の遺品といえど、退魔具が含まれているなら、扱いを誤る恐れがあります」


 柔らかな声だった。


 妹を案じる姉の形をしている。


 だが、深雪乃には分かる。


 夜岐は、深雪乃に弓具を渡したくないのだ。母の遺品を返したくないのだ。あの櫛から漏れた微かな光を見たから。自分が支配できると思っていたものが、思い通りにならない気配を見せたから。


 深雪乃は夜岐を見た。


「扱いを誤る恐れがあるものを、姉上は折ったのですね」


 座敷の空気が止まった。


 夜岐の微笑が、ほんの少しだけ硬くなる。


「深雪乃」


「母の櫛です。退魔の光が漏れました。姉上もご覧になりましたね」


 親族たちの視線が夜岐へ向く。


 御厨の顔色が変わった。兼近が眉をひそめる。祢々が一瞬だけ顔を伏せる。小鈴は柱の陰で唇を噛んだ。あの場にいた使用人たちは、皆、知っている。


 夜岐は目を伏せた。


「古い櫛が、たまたま光を反射しただけでしょう」


「畳の上で、折れた歯の根からですか」


「あなたは昔から、そうやって人の悪意ばかり拾うのね」


 深雪乃の胸に、鈍い痛みが走った。


 人の悪意ばかり拾う。


 拾いたくて拾ったわけではない。投げつけられたから受けるしかなかった。水桶も、冷えた白湯も、食事抜きも、残飯も、足を引っかけられることも、母の遺品を隠されることも、誰かが投げつけたものだ。


 深雪乃はそれを拾っていたのではない。


 避ける場所がなかっただけだ。


 赫臣の指が、畳の上で動いた。


 深雪乃の袖の端に触れる。今度は先ほどよりも少し強く。止めるでもなく、促すでもなく、そこにいるという合図だった。


 深雪乃は、息を吸った。


「そうですね」


 彼女は静かに言った。


「姉上方がこぼしてくださるものが多すぎて、拾うだけでも手が塞がっておりました」


 夜岐の目が細くなる。


「相変わらず可愛げのない子」


「姉上が母の櫛を折った日から、可愛げの在庫は切らしております」


 小鈴が、柱の陰で小さく鼻を鳴らした。


 深雪乃の耳には届いた。


 赫臣にも届いた。


 彼の視線が、ゆっくりと柱の陰へ向く。


 小鈴の顔から血の気が引いた。


「笑ったか」


 赫臣の声は低かった。


 小鈴は慌てて膝をついた。


「い、いえ、篝火様、そのような」


「深雪が話してる時に、笑ったかって聞いてんだ」


 小鈴は答えられない。


 祢々が静かに前へ出た。


「篝火様。下女が失礼を。厳しく言い聞かせますゆえ」


「お前も笑ってた側だろ」


 祢々の顔が、硬くなった。


 赫臣は座ったまま、祢々を見上げる形になっている。だが、誰が見ても見下ろされているのは祢々の方だった。酒呑童子の系譜の妖気が、座敷の空気に薄く広がる。熱いはずの気配なのに、畳の上を冷たい影が這うようだった。


「女中頭だったな」


 赫臣は言う。


「深雪に冷えた白湯を出したのも、食事を抜いたのも、母親の遺品を隠したのも、お前の目の届くところで起きた。違うか」


 祢々は頭を下げたまま答える。


「深雪乃様は、お身体が丈夫でいらっしゃいましたので、通常よりも」


 赫臣の指輪が鳴った。


 ぴん、と空気が張る。


 祢々の頬の横を、何かが走った。


 深雪乃にはほとんど見えなかった。だが、祢々の髪の一筋が、音もなく切れて畳に落ちた。薄い銀混じりの髪が、香の煙の中でふわりと沈む。


 座敷が凍りついた。


 祢々は動けなかった。


 赫臣は笑っていなかった。


「丈夫なら痛くねえと思ったか」


 祢々の喉が鳴る。


「いえ」


「死なねえなら、何してもいいと思ったか」


「いえ、そのようなことは」


「なら、次にその口で同じ言い訳をしたら、髪じゃなく舌を落とす」


 誰も息をしなかった。


 深雪乃は、赫臣を見た。


 怖い。


 彼は怖い男だ。


 それは最初から分かっていた。妖を切断した時も、親族を黙らせた時も、彼の力の危うさは見えていた。今、祢々の髪を一筋落としただけで、座敷中の者が凍りついている。それほどの力を、彼は平然と持っている。


 だが、その怒りは深雪乃のために動いた。


 それが、胸の奥を変なふうに締めつける。


 祢々は深く頭を下げた。


「……申し訳、ございません」


 謝罪の声だった。


 だが、深雪乃へ向けられたものではない。赫臣へ向けられたものだ。彼に怒られたから謝っている。深雪乃にしたことを悔いているのではない。


 深雪乃は、その違いがよく分かった。


 赫臣も分かったのだろう。


 彼の瞳の温度がさらに下がる前に、御厨が慌てて遺言書へ視線を落とした。


「篝火様、深雪乃様。まずは遺言書に従い、宵待澄子様の遺品目録を確認し、その後、北蔵へご案内いたします」


 兼近もすぐに頷いた。


「そうだ。遺品は用意させている。櫛も、文箱も、弓具も」


 深雪乃は兼近を見た。


「櫛は折れています」


 兼近の眉が動く。


「古いものだ。多少の破損は」


「多少」


 深雪乃は繰り返した。


 声は静かだった。


「母の櫛の歯を一本ずつ折り、私を使用人に押さえつけさせ、周囲で笑わせたことを、多少とおっしゃるのですね」


 兼近は言葉に詰まった。


 夜岐が袖口を握る。


 深雪乃は続けた。


「鵺喰家では、人の大切なものは、随分と軽く扱われるのですね。相続会議で蔵の鍵を数える時には、あれほど重そうなお顔をなさっていたのに」


 御厨が額の汗を拭った。


 座敷の空気は重い。


 だが、以前とは違う。


 深雪乃の言葉を、誰もすぐに踏み潰せない。夜岐でさえ、兼近でさえ、祢々でさえ、言葉を選んでいる。赫臣が隣にいるからだ。腹立たしいほど単純で、しかし確かな変化だった。


 やがて、夜岐が静かに言った。


「深雪乃。あなた、随分と強くなったのね」


「姉上方が、毎日鍛えてくださいましたから」


「憎んでいるの?」


「憎めるほど、姉上に心を割くのは惜しいです」


 夜岐の瞳が暗くなった。


 その時、赫臣が低く笑った。


「いいな、深雪」


「今、褒めるところではありません」


「可愛い」


「もっと違います」


 親族たちの前である。


 使用人たちもいる。


 それなのに赫臣は、何の遠慮もなく深雪乃を見て笑う。深雪乃は頬に熱が上がるのを感じ、袖の内側で指を握った。


 夜岐の視線が、その赤みに気づいた。


 彼女の表情に、ほんのわずかな棘が戻る。


「篝火様は、ずいぶん深雪乃をお気に召されたのですね」


 赫臣は夜岐を見た。


「ああ」


 迷いがない。


「惚れてる」


 座敷の空気が、また止まった。


 深雪乃は、一瞬、呼吸の仕方を忘れた。


 昨日、廊下で聞いてしまった言葉。赫臣が砂笙へ当然のように言った一目惚れ。その言葉を、今度は鵺喰家の親族と使用人の前で、あまりにもあっさり出した。


 惚れてる。


 深雪乃の耳が熱い。


 夜岐の目が細くなる。祢々はさらに深く頭を伏せ、小鈴は唇を噛んだ。兼近は動揺を隠しきれず、御厨は書類へ視線を落としたまま固まっている。


「篝火様」


 深雪乃は低く言った。


「場所をお考えください」


「考えた」


「考えた結果がそれですか」


「ここで言っといた方が分かりやすいだろ」


「分かりやすすぎて眩暈がします」


「支えるか」


「結構です」


「腰なら抱くぞ」


「結構です」


 赫臣は残念そうにした。


 その余裕が、座敷にいる者たちをさらに黙らせる。篝火赫臣は、鵺喰家の空気に飲まれていない。むしろ、鵺喰家の重苦しさを片手で掴んで笑っているようだった。


 遺言書の確認は、その後も続いた。


 宵待澄子の遺品目録、北蔵奥の封印、開封の立会い、遺品返還後の管理権。御厨が読み上げ、砂笙が控えを確認し、赫臣が時折短く問いを挟む。兼近はそのたびに言葉を選び、夜岐は静かに微笑み、祢々は動かない。


 深雪乃は、すべてを聞いていた。


 途中で小鈴が茶を運んできた。


 深雪乃の前に置かれた湯呑みからは、湯気が立っていた。


 以前のような冷えた白湯ではない。きちんと淹れられた茶だった。だが、小鈴の指先は震え、湯呑みを置く時にかすかな音を立てた。深雪乃はその湯呑みを見つめる。茶の香りは悪くない。けれど、鵺喰家で出されるものをすぐに口にする気にはなれなかった。


 赫臣が、何も言わずにその湯呑みを自分の方へ引いた。


 深雪乃は彼を見る。


「毒味ですか」


「まあな」


「篝火家当主に毒味をさせる家になりましたね」


「元からろくでもねえ家だろ」


「否定しきれないのが困ります」


 赫臣は茶の匂いを確かめ、ほんの少しだけ口に含んだ。


 座敷中が緊張する。


 彼は湯呑みを置き、深雪乃へ戻した。


「毒はねえ。冷める前に飲め」


「命令ですか」


「お願い」


「お願いの声ではありません」


「深雪」


「……いただきます」


 深雪乃は湯呑みを持った。


 温かい。


 それだけで、胸の奥に複雑なものが浮かんだ。赫臣がいるから出された温かい茶。彼がいなければ、また冷えた白湯だったかもしれない。深雪乃自身への敬意ではない。赫臣への恐れが、茶の温度を上げただけだ。


 それでも、喉は乾いていた。


 深雪乃は一口だけ飲んだ。


 茶の渋みが舌に広がる。温かさが喉を通る。小鈴は柱の陰で、目を逸らした。


 遺言書の確認が一通り終わる頃、深雪乃の疲れは限界に近づいていた。


 座っているだけでも、鵺喰家の空気は重い。親族と使用人の視線を受け続け、母の遺品の名を聞き、折られた櫛を思い出し、父の筆跡を見続けた。傷は塞がっていても、身体はまだ昨日の妖の痛みを覚えている。食事も十分ではない。篝火家で眠ったとはいえ、心が休まったわけではなかった。


 赫臣はそれに気づいた。


 御厨が次に北蔵へ案内すると言いかけた時、赫臣は低く制した。


「少し休む」


 兼近が顔を上げる。


「篝火様、封印の開封は」


「深雪が疲れてる」


「しかし」


「急ぐなら、お前らだけで開けてみるか。斎臣の遺言を破って」


 兼近は黙った。


 赫臣は立ち上がり、深雪乃へ手を差し出した。


「来い」


「一人で立てます」


「知ってる。手を繋ぎたい」


「なぜ堂々と」


「隠す気がねえから」


 深雪乃は、座敷中の視線を感じながら、赫臣の手を取った。


 また頬が熱くなる。


 けれど、今はその手が必要だった。立ち上がる時、膝が少し頼りなかった。赫臣は強く引かず、彼女の速度に合わせて支える。風呂敷を胸に抱えたまま、深雪乃は座敷を出た。


 御厨が慌てて、控えの間を用意すると申し出た。


 赫臣は「人払いしろ」とだけ言った。


 案内されたのは、奥座敷の隣にある小さな控えの間だった。座敷と座敷の間にある細い廊下の奥で、障子が二重になっている。庭に面してはいない。明かりは少ないが、人の目は届きにくい。表の座敷で声を上げれば聞こえる距離だが、ひそめた声なら障子に吸われる。


 砂笙が廊下の手前で立ち止まった。


「私は外に控えております」


「頼む」


 赫臣が短く答える。


 砂笙は深雪乃へ一礼し、障子を閉めた。


 部屋の中には、深雪乃と赫臣だけが残った。


 急に静かになった。


 奥座敷のざわめきは、障子越しに遠く聞こえるだけだ。香の匂いも少し薄くなり、代わりに古い木と紙の匂いがした。外の曇り空のせいで部屋の光は淡く、赫臣の金髪だけがぼんやりと明るく見える。


 深雪乃は、風呂敷を抱えたまま立っていた。


 座る気になれなかった。座れば、疲れが一気に出る気がした。赫臣は彼女の前に立ち、少し屈んで顔を覗き込む。


「大丈夫か」


「大丈夫です」


「嘘だな」


「少しは信じる努力をしてください」


「深雪が大丈夫って言う時は、大丈夫じゃねえことが多い」


「まだ数日のお付き合いで、知ったように言わないでください」


「数日で分かるくらい分かりやすい」


「大変不本意です」


 赫臣は笑わなかった。


 その代わり、手を伸ばし、深雪乃の頬に触れる直前で止めた。


「触るぞ」


 深雪乃は目を伏せた。


「……頬だけなら」


 赫臣の指が、そっと頬に触れた。


 熱い。


 鵺喰家の冷えた空気の中で、その熱は不自然なほどはっきりしていた。深雪乃は思わず息を止める。赫臣の指は彼女の頬を撫でるというより、熱を確かめるように触れた。


「顔色が悪い」


「顔色のよい状況ではございません」


「よく耐えたな」


 その言葉に、深雪乃の胸が詰まった。


 耐えた。


 そう言われるとは思わなかった。


 鵺喰家では、耐えるのが当然だった。耐えても褒められない。耐えなければ罰が増える。痛くないだろうと言われ、丈夫だろうと言われ、気にしすぎだと言われる。深雪乃が飲み込んだものは、誰の目にも入らないまま床下へ沈んでいくばかりだった。


 赫臣はそれを見ていた。


 今日の座敷で、深雪乃が何を飲み込んだかを。


 深雪乃は、頬に触れる手を見ないまま言った。


「なぜ」


「ん?」


「なぜ、私のことで怒るのですか」


 声は思ったより小さかった。


 赫臣の指が、頬から離れずに止まる。


 深雪乃は続けた。


「私が侮られることなど、珍しくありません。使用人に笑われることも、親族に軽んじられることも、姉上に母のことを言われることも、今に始まったことではありません。あなたが怒るようなことでは」


「ある」


 赫臣は即座に言った。


 深雪乃は顔を上げる。


 蒼い瞳が近かった。


「惚れた女を笑われて黙る男に見えるか」


 深雪乃の息が止まった。


 まただ。


 彼は、どうしてこうも当然のように言うのだろう。


 惚れた女。


 その言葉を、迷いも照れもなく、まっすぐ深雪乃へ向ける。鵺喰家で「人間臭い」「妾腹」「家の恥」と呼ばれてきた身体に、まったく違う言葉を押し込んでくる。


 胸が熱い。


 怖いほどに。


「……あなたは」


 深雪乃は言葉を探した。


「軽々しく」


「軽くねえ」


 赫臣の声が低くなる。


「俺は軽い言葉で、お前のために怒らねえ」


 深雪乃は、何も言えなくなった。


 障子の向こうで、遠く人の声がする。誰かが廊下を歩く音。砂笙が低く制する声。それらが、深雪乃と赫臣のいる狭い空間から少しずつ遠のいていく。


 赫臣が一歩近づいた。


 深雪乃は下がらなかった。


 背後には障子がある。逃げ場がないわけではない。横へ動けば抜けられる。声を上げれば砂笙が来るだろう。だが、深雪乃は動かなかった。


 赫臣の手が、彼女の頬から顎へ移る。


 指の腹が、そっと顎先を支えた。無理に上を向かせる力ではない。けれど、彼の視線から逃げるには熱すぎる手だった。


「深雪」


「……何ですか」


「口づける」


 深雪乃の心臓が、強く打った。


 額でも、髪でも、手の甲でもない。


 唇。


 言葉の意味を理解した瞬間、深雪乃の顔に熱が上がる。


「なぜ、事前に申告するのですか」


「逃げる時間をやるため」


「逃げなければ」


「口づける」


「あなたは本当に」


 言葉が続かなかった。


 赫臣は待っている。


 ふざけた笑みはない。甘さはある。強引さもある。だが、彼は本当に待っていた。深雪乃が嫌だと言うなら、そのまま止まるのだろう。目だけで分かる。


 嫌ではない。


 そう思ってしまった自分に、深雪乃は戸惑う。


 怖い。


 近い。


 早すぎる。


 自分にそんな価値はないと、心の奥がまだ囁く。


 けれど、赫臣が怒ってくれたこと。座敷で腰を抱いたこと。親族にも使用人にも、彼女を笑うなと告げたこと。手の甲に口づけた熱。布団ごと抱いてくれた夜。食事を用意した朝。すべてが、身体の中で静かに重なっている。


 深雪乃は、赫臣の着物の袖を見た。


 片袖を抜いた崩し和装。もう片方の袖は、深い色の布で、彼の腕に沿って落ちている。そこへ、指を伸ばせば届く。


 彼女は、まだ掴まなかった。


 ただ、小さく言った。


「……説明が、足りません」


 赫臣の目が、甘く細くなる。


「今からする」


 次の瞬間、唇が触れた。


 深雪乃の身体が、固まる。


 最初は、触れるだけだった。熱い。柔らかい。けれど、額や手の甲とはまるで違う。唇はあまりにも近く、息の逃げ場がない。赫臣の煙管の香りが、呼吸のすぐそばにある。


 すぐに離れると思った。


 離れなかった。


 赫臣の手が顎を支え、もう片方の腕が深雪乃の背へ回る。抱き寄せられる。障子の前で、深雪乃の身体は赫臣の胸元へ近づいた。唇の重なりが深くなる。息が乱れる。彼の口づけは甘いだけではなかった。急かさないのに、逃がさない。確かめるようで、奪うようでもある。


 深雪乃は、目を閉じることすら遅れた。


 視界に、赫臣の金髪と閉じた睫毛が映る。蒼い瞳は見えない。見えないのに、彼に見つめられているような感覚が消えない。


 唇が少し離れた。


 息を吸おうとした瞬間、また重なる。


 今度は、さらに深い。


 深雪乃の喉から、声にならない息が漏れた。自分のものとは思えない細い呼吸だった。赫臣の腕が背を支える。着物越しに伝わる体温が熱い。彼の首飾りが、胸元で小さく鳴った。金属音と、雨上がりの木の匂いと、煙管の香りと、唇の熱が混ざる。


 長い。


 あまりにも長い。


 けれど、嫌ではなかった。


 苦しい。恥ずかしい。頭がぼうっとする。どこに息を逃がせばいいのか分からない。なのに、離れたいとは思えない。赫臣の口づけが深くなるほど、鵺喰家の座敷で浴びた視線や言葉が遠ざかる。夜岐の声も、祢々の謝罪も、小鈴の笑いも、薄い紙の向こうへ押しやられる。


 今、深雪乃の世界には、赫臣の唇しかない。


 そのことに気づいた瞬間、彼女は怖くなった。


 怖くて、近くのものを掴んだ。


 赫臣の袖だった。


 片袖を抜いていない方の布を、深雪乃の指がぎゅっと握る。しわが寄るほど強く。赫臣の身体が、ほんのわずかに揺れた。彼は一瞬だけ口づけを緩めたが、離れなかった。むしろ、深雪乃の手が袖を掴んだことを確かめるように、背を抱く腕に少しだけ力がこもる。


 深雪乃は、袖を離さなかった。


 赫臣はゆっくりと、さらに深く唇を重ねた。


 頭の芯がしびれる。


 膝の力が抜けそうになる。


 赫臣の腕がなければ、立っていられなかったかもしれない。深雪乃は、それを認めるのが悔しくて、彼の袖をさらに掴んだ。唇が熱い。息が熱い。胸が苦しい。けれど、胸の苦しさは痛みとは違った。


 こんな感覚を、彼女は知らなかった。


 誰かに触れられて、逃げたくならないこと。


 誰かの熱で、寒さではなく胸の奥が震えること。


 自分の唇が、自分のものではなくなるような感覚。


 知らなかった。


 赫臣が、ようやく唇を離した。


 空気が戻ってくる。


 深雪乃は浅く息を吸った。胸が上下する。頬が熱い。唇に、赫臣の熱が残っている。距離はまだ近い。彼の額が、触れそうなほど近くにある。深雪乃の指は、まだ彼の袖を掴んでいた。


 赫臣は、低く囁いた。


「深雪」


 声まで甘い。


 深雪乃は、息を乱したまま彼を睨もうとした。


 だが、視線に力が入らない。これでは睨んでいるのか、見上げているだけなのか分からない。非常に不本意だった。


「今のは」


 声が掠れた。


 深雪乃はそれが悔しくて、少しだけ言い直すように息を吸う。


「今のは、説明が足りません」


 赫臣の口元が、ゆっくり上がった。


 ああ、と深雪乃は思った。


 まずい言い方をした。


「じゃあもう一度説明する」


「待っ」


 言葉は、唇で塞がれた。


 二度目は、一度目より迷いがなかった。


 赫臣は、深雪乃が逃げないことをもう知っている。彼女の指が袖を掴んだことも、口づけの最中に力を抜いたことも、嫌だと言わなかったことも、すべて知っている。その上で、もう一度深く口づける。


 深雪乃の背が障子に近づいた。


 紙一枚向こうには廊下がある。砂笙がいるかもしれない。親族たちがいる座敷も遠くない。声を出してはいけない。そう思うほど、息が乱れる。赫臣の腕が背中を支え、障子に強く当たらないよう守っている。強引なのに、傷には触れない。妖に裂かれた脇腹を圧迫しないよう、角度を変えている。


 それが分かるから、余計に胸が熱くなる。


「んっ...んんっ…!」


 唇が深く重なる。


 赫臣の指が、深雪乃の顎から頬へ滑る。頬を包む。親指が、目尻の近くを軽く撫でた。泣いていない。涙は出ていない。けれど、泣きそうだと思われたのかもしれない。深雪乃は、それが悔しくて、また赫臣の袖を強く掴んだ。


 赫臣がわずかに笑った気配がした。


 唇が触れたまま、笑う。


 それすら熱い。


 深雪乃は、もう何が何だか分からなくなった。


 鵺喰家へ戻った。遺言書を確認した。母の遺品の名を聞いた。親族に侮られ、使用人に笑われ、赫臣が怒った。そして今、自分は障子裏で篝火赫臣に深く口づけられている。


 現実の並び方が、あまりにもおかしい。


 人間の人生とは、もう少し段階を踏むものではないのか。少なくとも、追放から妖に襲われ、篝火家に拾われ、布団ごと抱かれ、鵺喰家へ戻り、障子裏で深い口づけをされるまでが速すぎる。運命というものがあるなら、たぶん走る方向を間違えている。


「ふ、ぁ...っ...も、...っっ…」


 けれど。


 唇を離せない。


 赫臣も離さない。


「…んちぅっ…ん…あぁっ...」


 深雪乃の指が、袖から彼の腕の布地へ移る。掴む場所を探すように。赫臣はそれに気づき、片手で彼女の腰を支えた。座敷で人前に抱いた時よりも、ずっと近い。けれど、周囲へ見せつけるためではない。今は、深雪乃を立たせるための腕だった。


 二度目の口づけも、長かった。


「んふぁ…ちゅう…んふぅ…っはっっ!」


 深く、長く、息を奪われるほどに。


「んンっ……あぁっ…んふぅ…んふッ…」


 ようやく離れた時、深雪乃は赫臣の胸元に額を寄せかけていた。完全にもたれたわけではない。ぎりぎりで踏みとどまっている。そう思いたかった。けれど、赫臣の腕がなければ姿勢を保てなかったことは、彼にも分かっているだろう。


 赫臣の手が、深雪乃の背をゆっくり撫でた。


「息、しろ」


「…ん、はぁ…あなたが、奪ったのです」


「返しただろ」


「返却方法が乱暴です」


「次はもっと丁寧にする」


「次を当然のように用意しないでください」


 赫臣は喉の奥で笑った。


 深雪乃は、やっと彼の袖から手を離そうとした。だが、指が布を掴んだまま少し固まっていた。自分の手を見て、頬がさらに熱くなる。


 赫臣も見ていた。


 見なくていいものばかり見る男である。目が良すぎるのも考えものだった。


「離さねえの?」


「布地の確認です」


「俺の袖が好きか」


「逃げ道のない解釈をしないでください」


「掴んだのは深雪だ」


「足元が」


「うん」


「……不安定でしたので」


「そうだな」


 赫臣の声は甘い。


 からかっているのに、責めてはいない。そのことがまた深雪乃の調子を狂わせる。


 彼女はようやく袖を離した。


 赫臣の袖には、指の跡のようなしわが残っていた。深雪乃はそれを見て、少し気まずくなる。赫臣はむしろ嬉しそうだった。


「残しとくか」


「直してください」


「深雪が掴んだ跡だぞ」


「だから何ですか」


「可愛い」


「あなたは本当に、そればかりですね」


「事実だからな」


「事実の使い方が過剰です」


 深雪乃は息を整えようとした。


 唇がまだ熱い。触れられた頬も熱い。額ではなく、髪でもなく、手の甲でもなく、唇。その事実が、何度も胸の中で跳ねる。赫臣は近いまま、彼女の顔を覗き込んでいる。


 深雪乃は、耐えきれず視線を逸らした。


「戻らなければ」


「少し休め」


「休んでおります」


「今のが休みなら、俺は毎日休ませる」


「今すぐその考えを捨ててください」


「嫌だ」


「距離感だけでなく分別も妖に食わせましたか」


「分別はまだ少し残ってる」


「どこに」


「お前が本気で嫌がることはしねえところ」


 深雪乃は、言葉を失った。


 赫臣の声は、ふざけていなかった。


 彼は深雪乃の唇を見た。見られていることに気づき、深雪乃は反射的に片手で口元を隠そうとした。赫臣がその手首を取る。強くはない。ただ止めるだけ。


「隠すな」


「隠します」


「俺がつけた顔だ」


「言い方が悪すぎます」


「赤くて可愛い」


「本当に黙ってください」


「嫌だ」


 深雪乃は、赫臣の手から自分の手首をそっと引いた。


 今度は、彼もすぐ離した。


 手首に痛みはない。掴まれた跡も残らない。鵺喰家で腕を押さえつけられた時とは違う。その違いを身体が理解していることに、深雪乃は少し戸惑った。


 赫臣は、深雪乃の前髪を指先で整えた。


「戻れるか」


 問い方は、先ほどより静かだった。


 深雪乃は唇に残る熱を意識しないよう、風呂敷を抱え直した。


「戻らなければなりません」


「違う。戻れるかって聞いた」


 深雪乃は目を伏せた。


 奥座敷へ戻れば、親族も夜岐も使用人もいる。赫臣と二人きりでいた今の熱は、すぐに白檀と湿気と視線に包まれる。母の遺品を確認し、北蔵へ行かなければならない。父の書斎にも、いずれ向き合うことになるだろう。


 怖い。


 疲れた。


 けれど、立っていられる。


 唇に残る熱が、なぜか足元を支えている。


 深雪乃は、ゆっくり息を吸った。


「戻れます」


 赫臣はじっと見た。


「本当か」


「本当です」


「強がりは?」


「少し」


「正直でよろしい」


「子ども扱いは不要です」


「いい女扱いだ」


「その分類も不要です」


 赫臣は笑い、深雪乃の手を取った。


 さすがに唇へは触れない。手の甲へ軽く口づけるだけだった。だけ、と自然に思いかけて、深雪乃は自分の感覚に内心で頭を抱えたくなった。ほんの数日のうちに、手の甲への口づけを軽いものとして処理し始めている。赫臣のせいだ。間違いなく赫臣のせいだった。


「俺がいる」


 赫臣は言った。


 馬車の中と同じ言葉だった。


 だが、今は少し違って聞こえる。唇を知った後の声だった。深雪乃は、手を引かずに答える。


「あなたがいると、説明が長くなるようです」


「深い説明が好きだろ」


「一言も申しておりません」


「袖、掴んだ」


「それは足元が不安定で」


「うん。そういうことにしといてやる」


「腹立たしいほど余裕ですね」


「内心は、だいぶ浮かれてる」


「言わなくて結構です」


「深雪が俺の袖掴んだからな」


「忘れてください」


「一生覚えてる」


「迷惑です」


「大事にする」


 その言葉に、深雪乃はまた少し黙った。


 大事にする。


 赫臣の口から出ると、それは軽い飾りには聞こえない。強すぎる腕で囲うような、鬼の執着を含んだ言葉だった。怖いのに、温かい。温かいのに、逃げ場がない。


 深雪乃は、手を繋がれたまま障子へ向かった。


 その前に、赫臣がふと立ち止まる。


「深雪」


「今度は何ですか」


「口紅、落ちてる」


 深雪乃は固まった。


 赫臣は楽しげに笑い、自分の親指で彼女の唇の端をそっと拭った。触れた場所が、また熱くなる。


「篝火様」


「赫臣」


「二度目の説明は、しばらく不要です」


「三度目なら?」


「なお不要です」


「夜なら?」


「時間の問題ではありません」


「じゃあ、あとで考える」


「考えないでください」


 赫臣は笑って、障子を開けた。


 廊下の向こうには砂笙が立っていた。


 彼は二人を見た。


 深雪乃の赤い顔、乱れた呼吸、赫臣の袖のしわ、妙に満足げな主の顔。


 砂笙は、すべてを理解した顔で目を閉じた。


「旦那様」


「何だ」


「深雪乃様は、休まれたのでしょうか」


「休んだ」


 深雪乃は即座に言った。


「休んでおりません」


 赫臣が笑う。


「少しは元気になっただろ」


「種類の違う疲労が増えました」


「顔色は戻った」


「あなたのせいで赤くなっただけです」


 砂笙は静かに天井を見上げた。


「承知いたしました。何も承知したくはありませんが、承知いたしました」


 深雪乃はいたたまれなくなり、風呂敷を抱え直した。


「戻ります」


「はい。奥座敷の皆さまは、北蔵へ移る準備を始めております」


 北蔵。


 その言葉で、深雪乃の胸の熱が少し引き締まった。


 母の遺品。


 弓具。


 封印。


 父の遺言書。


 まだ何も終わっていない。むしろ、始まるのはこれからだ。


 赫臣が隣に並ぶ。


 手は繋がれたままだった。


 深雪乃は離そうとしたが、赫臣が少しだけ指を絡める。強くはない。けれど、離す気はない。深雪乃は横目で彼を睨んだ。


「今度は何の理由ですか」


「北蔵に行くから」


「理由になっているようで、なっておりません」


「怖い場所に行く時は、手を繋ぐもんだ」


「子どもではありません」


「じゃあ、惚れた女と怖い場所に行く時は、手を繋ぐ」


「言い直しても」


「嫌か」


 深雪乃は、息を吐いた。


 障子裏で奪われた呼吸が、まだ完全には戻っていない気がする。唇の熱も、手の甲の熱も、彼の袖を掴んだ感触も残っている。


 嫌ではない。


 それを言うのは、まだ悔しい。


「……勝手になさってください」


 赫臣が笑った。


「許してる顔だ」


「許しておりません」


「でも、手は離さねえな」


「北蔵へ行くからです」


「そういうことにしとく」


 砂笙が先導し、二人は奥座敷へ戻った。


 親族たちの視線が再び向けられる。夜岐の目が、深雪乃の赤い頬を見てわずかに細くなった。祢々は頭を伏せている。小鈴はもう笑わない。兼近は何かを言いたげだったが、赫臣の視線を見て口を閉じた。


 深雪乃は、唇に残る熱を悟られないよう、背筋を伸ばした。


 赫臣は隣で堂々としている。


 その袖には、まだ深雪乃が掴んだしわが残っていた。


 彼は直す気がないらしい。


 深雪乃はそれを見つけ、また頬が熱くなるのを感じた。


 まったく、説明というものは、こんなにも後を引くものだっただろうか。


 北蔵へ向かう廊下には、湿った木の匂いが漂っていた。奥へ進むほど、空気は冷えていく。深雪乃は風呂敷を抱き、赫臣の手を握ったまま、一歩を踏み出した。


 母の声が、血の奥でかすかに揺れた気がした。


 弓を、忘れないで。


 深雪乃は唇を引き結ぶ。


 その唇にはまだ、鬼の熱が残っていた。


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