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人間臭いと蔑まれた不死身の娘は、百鬼夜行の主に愛される  作者: なつめ


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第12話 封印蔵の血


 北蔵へ続く廊下は、屋敷の奥へ行くほど冷えていた。


 庭に面した明るい廊下から離れ、母屋の北側へ折れると、光の色が変わる。障子越しの白い昼ではなく、古い板と土壁に吸われた薄暗さが足元に沈んでいた。廊下の板はよく磨かれているはずなのに、そこだけは艶よりも湿り気が勝っている。踏むたびに、かすかな軋みが畳ではなく骨の奥へ響くようだった。


 深雪乃は、風呂敷を胸に抱いて歩いていた。


 母の鏡、着物の端切れ、折れた櫛の欠片。どれも小さなものなのに、いまは妙に重く感じる。唇にはまだ赫臣の熱が残っていた。障子裏で息を奪われた感覚も、袖を掴んだ指の力も、簡単には消えない。だが廊下を進むにつれて、その熱は別の冷たさに包まれていった。


 蔵の気配だ。


 深雪乃は幼い頃から、北蔵に近づくなと言われて育った。


 表向きの理由は、古い呪具や文書が保管されているから。妾腹の娘が触れてはならないから。妖の相もない深雪乃には危険だから。誰もがもっともらしい理由を口にしたが、その奥には別のものがあったように思う。単なる危険なら、屋敷の者たちはもっと軽く笑ったはずだ。けれど北蔵の話になると、夜岐でさえ幼い頃は少しだけ声を潜めた。


 封じられている。


 そこには、ただ物がしまわれているのではない。


 何かが、押し込められている。


 その感覚が、廊下の暗さに混じっていた。


 赫臣は、深雪乃の隣を歩いていた。


 手は繋いでいる。


 最初は北蔵へ行くからだと言った。怖い場所に行く時は手を繋ぐものだと、赫臣は勝手な理屈をつけた。深雪乃は子どもではないと返したが、結局、手は離していない。彼の掌は熱く、指は大きい。強く握られているわけではないのに、その手があるだけで、足元が少しだけ確かになる。


 それが悔しい。


 非常に悔しい。


 だが、いま離したいかと問われれば、答えはすぐには出なかった。


 赫臣の袖には、まだ深雪乃が掴んだしわが残っている。彼は直す気配もなく、むしろ大事な印のようにそのままにしている。思い出すだけで顔が熱くなるので、深雪乃は見ないようにしていた。見ないようにしているのに、視界の端で揺れる。まったく迷惑な袖である。布地に罪はないのに、持ち主が悪い。


 前を歩くのは御厨数馬だった。


 彼の手には、黒塗りの鍵箱がある。北蔵の外鍵、内蔵の帳簿鍵、封印札を外すための朱印、小刀、火打ち石。遺言書の確認後、必要な品が座敷へ運ばれてきた。どれも長く触れられていなかったらしく、鍵箱を開けた時には古い鉄と防虫香の匂いがした。


 兼近は御厨のすぐ後ろにいる。額に不機嫌な皺を寄せ、何度も羽織の襟を直していた。夜岐は少し離れて歩き、祢々は使用人たちを従えてさらに後ろに控えている。小鈴の姿もあった。笑ってはいない。先ほど赫臣に睨まれたせいで、顔色はまだ悪い。


 砂笙は、赫臣と深雪乃の斜め後ろにいた。


 細い目で周囲を見ている。廊下の角、柱の影、天井の梁、床板の軋み方。彼の視線は人ではなく、気配そのものを読んでいるようだった。管狐の先祖返りである彼の妖気は薄く、鋭い。赫臣の鬼の気配が火なら、砂笙のそれは紙の端を撫でる細い風に近かった。


 北蔵の前に着いた時、深雪乃は足を止めかけた。


 蔵は、母屋の北庭を抜けた先にあった。


 白い漆喰の壁は雨と歳月でくすみ、腰板は黒く濡れたように沈んでいる。重い観音扉には黒鉄の金具が打たれ、中央には太い注連縄が掛けられていた。注連縄には紙垂がいくつも下がり、古い朱の封印札が何枚も重ねて貼られている。その札には、鵺喰家の家紋と、寺社の印、さらに見慣れない弓形の印が押されていた。


 深雪乃の胸の奥が、ふいに鳴った。


 弓形の印。


 それを見た瞬間、風呂敷の中の櫛の欠片が熱を持った気がした。


 赫臣が、深雪乃の手を握る指に少しだけ力を込める。


「どうした」


「……あの印」


 深雪乃は蔵の扉を見つめた。


「見覚えがあるのか」


「いいえ」


 言いながら、胸の奥がざわついた。


 見覚えはない。


 だが、知らないとも言いきれない。幼い頃、母の膝に座って髪を梳かれていた時、母の袖口に似た形の刺繍があったような気がする。白藤色の布の端に、細い銀の糸で縫われた弓の形。あまりにも遠い記憶で、今まで忘れていた。


 いや、忘れさせられていたのかもしれない。


 深雪乃は唇を引き結んだ。


 御厨が、蔵の前で一礼した。


「こちらが、北蔵でございます。斎臣様の遺言に従い、奥の封印を開きます」


 赫臣が扉を見た。


「封印はいつからだ」


 御厨は鍵箱を抱え直す。


「斎臣様のご指示で、十七年前に奥の間のみ封じられたと記録にございます。蔵自体は年に数度、外側の確認をしておりましたが、奥の封印は解かれておりません」


「十七年前」


 砂笙が低く呟いた。


 深雪乃は、その数字を胸の中で繰り返した。


 十七年前。


 彼女が二歳の頃だ。母がまだ生きていた時期。いや、記憶の曖昧さを思えば、母が弱り始めた頃かもしれない。十七年前に封じられた蔵。母の遺品。弓具。破魔矢。懐かしい弓形の印。


 すべてが、母へ繋がっていく。


 兼近が苛立ったように言った。


「早く始めよう。湿気が強い。いつまでもここで立ち話をするものではない」


 赫臣が横目で見る。


「ずいぶん急ぐな」


「遺言に従うためだ」


「さっきまで渋ってたのにか」


 兼近は顔を強張らせた。


「篝火様。いまは家の手続きを」


「そうだな。家の手続きは大事だ。人を雨の帝都へ捨てる手続きも上手かっただろうしな」


 兼近は黙った。


 深雪乃は、赫臣の手を少しだけ引いた。


「篝火様」


「赫臣」


「今は蔵を」


「分かってる」


 彼は不満そうだったが、それ以上は言わなかった。


 御厨が外鍵を取り出した。


 鍵は大きく、鉄が黒く変色している。鍵穴へ差し込む時、金属が重く擦れる音がした。蔵の扉はすぐには開かない。長く動かしていなかったせいか、御厨が力を込めてもびくともしなかった。


 佐助が呼ばれ、もう一人の下男と共に扉へ手をかける。


 その時、深雪乃は違和感を覚えた。


 注連縄が、乾いている。


 昨日まで雨が降っていた。蔵の庇はあるが、風が吹けば雨は多少かかるはずだ。だが、注連縄の一部だけ、妙に乾いていた。紙垂も一枚、他より白い。まるで最近取り替えられたように。


 深雪乃はそこを見つめた。


 赫臣がすぐに気づく。


「何かあるか」


「注連縄の、あの部分」


 深雪乃は小さく指を向けた。


 砂笙が近づき、眼鏡の奥の目を細める。


「確かに、右側の撚りが新しいですね。紙垂も一枚だけ折り目が浅い」


 御厨の顔色が変わる。


「それは、封印の劣化がありましたので、祢々に命じて補修を」


 赫臣の視線が祢々へ向く。


 祢々は深く頭を下げた。


「雨風で札が傷みましたため、外側のみ整えました。奥の封印には触れておりません」


 声は落ち着いている。


 だが深雪乃には、祢々の指先が袖の中で強張っているのが見えた。


 赫臣は何も言わず、ただ見た。


 祢々は頭を下げたまま動かない。場の空気が少しずつ重くなる。兼近が焦れたように口を開いた。


「外の縄の補修など、今は関係ない。奥の封印を開くことが遺言なのだ」


 砂笙は注連縄から視線を外さず、静かに言った。


「関係があるかどうかは、開けてから分かることもございます」


「参謀殿は、我々を疑っておられるのか」


「疑わない理由が少ないもので」


 兼近は言葉を失った。


 赫臣が低く笑う。


「砂笙に言われると刺さるだろ」


「旦那様の言葉よりは穏やかにしたつもりです」


「俺なら腐ってるって言う」


「すでに何度かおっしゃっています」


「足りねえな」


「足りております」


 深雪乃は二人のやり取りを聞きながら、蔵の扉を見ていた。


 寒い。


 蔵の前の空気だけ、庭の他の場所より温度が低い気がする。湿った漆喰の匂い、古い木の匂い、防虫香の匂い。その奥に、何か別の匂いが混じっている。


 最初は分からなかった。


 けれど、扉が少し軋んだ瞬間、深雪乃の喉が詰まった。


 血の匂いだった。


 古い血ではない。


 まだ生々しい、鉄の匂い。雨に濡れた路地で、自分の血が流れた時に嗅いだ匂いに似ていた。だが、それよりも濃い。閉じた空間の中に溜まり、逃げ場を失っていた匂いだ。


 深雪乃は、風呂敷を抱く腕に力を込めた。


 赫臣の表情が変わる。


「開けるな」


 彼の声が落ちた。


 しかし、その瞬間、佐助たちが力を込めていた扉が内側の圧に負けたように開いた。


 重い扉が、ぎい、と湿った音を立てる。


 暗い蔵の中から、冷たい空気が流れ出た。


 血の匂いが、はっきりと広がる。


 誰かが小さく悲鳴を上げた。


 小鈴だったか、別の下女だったか。深雪乃には分からなかった。御厨が後ずさり、兼近が顔を歪める。夜岐は袖で口元を押さえた。祢々の目だけが、一瞬鋭く蔵の奥へ向かった。


 赫臣は深雪乃の前に半歩出た。


 腰ではなく、肩で彼女を庇う位置に立つ。手はまだ繋がれている。だが、彼の指がいつでも霊糸を張れる形に変わった。耳飾り、指輪、足首の金具が、ほとんど聞こえない音で鳴る。


 砂笙が低く言った。


「中に、何かあります」


「何かじゃねえ」


 赫臣は蔵の暗がりを見据えた。


「死体だ」


 その言葉で、周囲の空気が凍った。


 深雪乃の胸が、強く打つ。


 死体。


 血の匂い。


 封じられた蔵。


 遺言書に従って開けるはずだった場所。


 御厨が震える手で提灯を掲げた。砂笙がすぐにそれを制し、篝火家の従者へ合図する。別の灯りが用意され、蔵の中へ慎重に向けられた。赫臣は深雪乃を外へ下がらせようとしたが、彼女は足を動かさなかった。


「深雪」


「見ます」


「見なくていい」


「母の遺品がある場所です」


「死体もある」


「それでも」


 赫臣は短く息を吐いた。


 怒っているというより、苦いものを噛んだような顔だった。


「俺の後ろから出るな」


「出ません」


「手も離すな」


「……それは」


「嫌か」


 深雪乃は答えなかった。


 答えずに、彼の手を握ったままにした。


 赫臣は、それ以上言わなかった。


 蔵の中へ、一歩入る。


 床は土間だった。湿った土と古い木箱の匂いが強い。左右には棚があり、箱や巻物、壺、封じ札の貼られた小さな器が並んでいる。天井は低く、梁には古い注連縄が張られていた。奥へ続く格子扉の向こうに、さらに小さな間がある。


 死体は、その格子扉の前に倒れていた。


 男だった。


 鵺喰家の親族、鵺喰喜周。


 深雪乃は顔を知っている。相続会議の時、兼近の隣で土地の話に口を挟んでいた遠縁の男だ。四十を過ぎた頃で、いつも手入れされた髭を撫でながら、人を値踏みするように見る癖があった。昨日も奥座敷にいた。深雪乃を見て「死ににくいだけの娘」と言った一人でもある。


 その男が、土間の上に横たわっていた。


 目は見開かれ、口も半端に開いている。喉から声を出そうとしたまま、そこで時間を止められたようだった。着物は裂け、胸元、腕、首筋、頬に無数の細い切り傷がある。一本一本は紙で切ったように細い。だが数が多すぎた。傷は肌の上に網のように走り、血が線に沿って乾きかけている。


 深雪乃は息を呑んだ。


 見覚えのある傷だった。


 雨の路地で、赫臣の霊糸が妖を切断した時。あの時、妖の腕は音もなく落ち、核は細く裂かれた。目に見えない糸が、雨粒を切った。今、喜周の身体に残る無数の傷は、それに似ている。


 あまりにも、似ている。


 赫臣の表情は変わらなかった。


 だが、深雪乃は彼の手が少しだけ強くなったことに気づいた。


 砂笙が遺体へ近づき、膝をついた。直接触れず、袖から細い紙片を出して傷の近くへかざす。紙片が、血の匂いと妖気に反応して薄く揺れた。


「細い刃物、もしくは霊糸に類するものによる切創ですね」


 その言葉に、外にいた親族たちがざわついた。


 兼近が、蔵の入口で顔を強張らせる。


「霊糸」


 彼の視線が、赫臣へ向いた。


 夜岐も、祢々も、小鈴も、同じように赫臣を見る。次に、深雪乃を見る。視線が二人の繋いだ手に落ち、それから遺体へ戻る。


 疑い。


 恐れ。


 そして、どこかで待っていたかのような薄い納得。


 兼近が声を荒げた。


「これは、どういうことですか、篝火様」


 赫臣は振り向かない。


「俺が聞きてえな」


「この傷は、あなたの霊糸に似ている」


「だから?」


「封印蔵を開ける直前に、親族の一人が死体で見つかった。しかも、あなたの術に似た傷で」


 兼近の声は震えていた。


 恐怖だけではない。怒りと、疑いと、何かを掴んだような興奮も混じっている。


「あなた方が来ることは、遺言書に記されていた。篝火様が立会人になることも。深雪乃が母の遺品を受け取ることも。ならば、この死は」


「言葉を選べ」


 赫臣の声が、蔵の中で低く響いた。


 兼近は一歩退いた。


 それでも、引き下がらない。恐怖よりも、何か別の計算が彼を動かしているようだった。


「深雪乃」


 夜岐の声がした。


 深雪乃は振り向いた。


 夜岐は蔵の入口に立ち、袖で口元を押さえている。顔色は青い。だが瞳は深雪乃を見ていた。弱々しさを装った目の奥に、針のような光がある。


「あなた、昨日から篝火様とずっと一緒にいたの?」


「ええ」


「では、篝火様が夜中にどこへ行かれたかも、知っているの?」


 赫臣の妖気が、わずかに膨らんだ。


 深雪乃は、夜岐を見返した。


「篝火様は、篝火家にいらっしゃいました」


「あなたは眠っていたのでしょう?」


 深雪乃の胸が冷えた。


 夜岐は知っているはずがない。


 けれど、昨夜の深雪乃が眠っていたことは、考えれば想像できる。妖に襲われ、篝火家へ連れ帰られ、手当てを受けたのだから。夜岐はそこを突いている。


 使用人たちの視線が、また動いた。


 深雪乃へ。


 赫臣へ。


 繋いだ手へ。


 赫臣の唇が、薄く笑った。


「俺が殺したって言いたいのか」


 夜岐はすぐに目を伏せた。


「そのような恐れ多いことは。ただ、状況があまりにも」


「似てるだけで俺の糸だと決めつけるなら、鵺喰家の目は節穴だな」


 砂笙が遺体の横で静かに言った。


「旦那様の霊糸なら、傷の端に退魔耀の焼けが残ります。これは少し違います」


 兼近がすぐに返す。


「では、霊糸に似せた何かだと?」


「その可能性はございます」


「誰がそんなことをする」


「それを調べるために、皆さまには動かないでいただきたい」


 砂笙の声は冷静だった。


 だが、蔵の外ではざわめきが大きくなる。親族たちは互いに顔を見合わせ、使用人たちは後ずさりする。御厨は蒼白な顔で封印札を見ている。喜周の死体があるのは、蔵の奥へ続く格子扉の前。外の扉は封じられていた。注連縄は一部新しかったが、鍵は御厨の鍵箱にあり、封印札も表向きには残っていた。


 密閉された蔵。


 開けるまで、誰も入れなかったはずの場所。


 そこで人が死んでいる。


 深雪乃は、遺体から目を逸らせなかった。


 血の匂いが強い。鉄の匂い。土の湿り。封印札の古い紙。蔵の中の空気が肺に重く入ってくる。喜周は好ましい相手ではなかった。深雪乃を見下し、母の遺品返還にも難色を示していた。だが、死体となって目の前に横たわる姿は、言葉を奪う。


 人が死ぬとは、こういうことなのか。


 あれほど口を動かしていた男が、もう何も言えない。


 そしてその死は、今、赫臣と深雪乃へ向けられようとしている。


 赫臣の手が、深雪乃の手を包む。


「下がるか」


「……いえ」


 声が少し震えた。


 深雪乃は自分でそれに気づき、唇を噛んだ。


 赫臣が低く言う。


「無理するな」


「母の遺品が」


 言いかけて、視界の端に何かが光った。


 遺体の横。


 喜周の左手から少し離れた土間の上に、小さな欠片が落ちている。血の点々に紛れて、淡い銀色を返していた。深雪乃は一歩近づこうとした。


 赫臣が止める。


「待て」


「そこに」


 深雪乃の視線を追い、砂笙が紙片を使って小さな欠片をそっと持ち上げた。


 それは、髪飾りの一部だった。


 銀の細い飾り金具。花弁のような形をした欠片で、端に白藤色の小さな玉がついている。古びてはいるが、丁寧な細工だった。金具の裏側には、弓形の文様が刻まれている。


 深雪乃の呼吸が止まった。


 胸の奥が、急に熱くなる。


 懐かしい。


 そう思った。


 見たことがある。


 幼い頃、母の髪に挿さっていた。夜、行灯の光を受けて、銀の花弁がかすかに揺れていた。母が深雪乃の髪を梳く時、前かがみになると、その髪飾りが頬の近くで小さく鳴った。白藤色の玉。細い弓の印。沈丁花の香り。


 あれは、母の髪飾りだ。


 そう分かった瞬間、懐かしさが胸に溢れた。


 同時に、背筋を冷たいものが這い上がった。


 なぜ、それがここにあるのか。


 母の遺品は封じられていたはずだ。喜周の死体の横に、なぜ母の髪飾りの欠片が落ちているのか。誰かが置いたのか。喜周が持っていたのか。母のものが、血の匂いのする蔵の土間に落ちている。その事実が、深雪乃の身体の奥を凍らせた。


 耳の奥で、母の声が聞こえた気がした。


 ――深雪。


 遠い。


 かすれている。


 けれど、確かに似ていた。


 深雪乃の膝から力が抜けかける。


 赫臣がすぐに支えた。手だけではなく、腕が彼女の背へ回る。蔵の中、人前であることも忘れ、彼は深雪乃の身体を自分の方へ引き寄せた。


「深雪」


 声が低い。


 深雪乃は、砂笙の持つ髪飾りの欠片を見つめたまま動けなかった。


「それは」


 唇が乾く。


「母の、ものです」


 外でざわめきが起きた。


 夜岐の瞳が細くなる。祢々の肩がわずかに揺れた。御厨が「宵待澄子様の」と呟く。兼近は遺体と髪飾りの欠片を見比べ、顔を歪めた。


「なぜ、喜周のそばに」


 誰かが言った。


 深雪乃には、その声が遠く聞こえた。


 懐かしさが、まだ胸の奥に残っている。母の膝、沈丁花の香り、髪を梳く櫛の音。だが同時に、凍えるような寒気が背中から離れない。母の思い出と、血まみれの死体が同じ場所にある。その歪みが、身体を内側から揺らす。


 赫臣は、深雪乃の横顔を見ていた。


 彼の表情が、わずかに変わる。


 ほんの一瞬だった。


 蒼い瞳の奥に、何かを読み取ったような鋭さが走った。深雪乃が髪飾りを見た時の反応。懐かしさ。寒気。母の声を聞いたような、遠い目。赫臣はそれを見逃さなかった。


 彼はすぐに表情を戻したが、深雪乃には分かった。


 赫臣は、何かに気づいた。


 あるいは、疑い始めた。


 それが何かは分からない。


 砂笙が髪飾りの欠片を白い紙に包んだ。


「これは、証拠として保管します。深雪乃様、直接触れないでください」


 深雪乃は頷こうとした。


 だが、頭がうまく動かない。


 赫臣が代わりに言う。


「砂笙。誰も蔵に近づけるな。遺体にも、奥の封印にも触らせるな」


「承知しました」


「御厨。鍵箱を置け」


 御厨は震える手で鍵箱を土間に置いた。


 兼近が声を荒げる。


「待て。ここは鵺喰家の蔵だ。篝火家が勝手に」


「死人が出た」


 赫臣が振り向いた。


「しかも、俺の霊糸に似せた傷でな。俺と深雪を疑うなら、なおさら現場をいじるな。いじった奴から順に疑う」


 兼近は口を閉じた。


 赫臣の言葉は脅しだった。


 だが、道理でもあった。


 蔵の中にいた者も、外にいた者も、誰も動けなくなる。使用人たちは顔を青くし、親族たちは互いを疑う目で見始めた。夜岐は黙って深雪乃を見ている。祢々はその夜岐の横顔を一瞬だけ見た。


 深雪乃は、その動きを見逃しかけた。


 だが、見た。


 祢々は夜岐を見た。


 ほんの一瞬。


 心配ではない。確認でもない。もっと別の、何かを測るような視線だった。


 深雪乃は息を吸った。


 蔵の血の匂いが、肺に入る。


 吐き気がした。


 赫臣が、彼女の耳元で低く囁く。


「外へ出るぞ」


「でも」


「今は出る。お前、立ってるのがやっとだ」


「母の」


「髪飾りは砂笙が持ってる。誰にも触らせねえ」


 深雪乃は、砂笙の手元を見た。


 白い紙に包まれた小さな欠片。


 母の髪飾り。


 血の匂いの中に落ちていたもの。


 深雪乃は、頷いた。


 赫臣が彼女を支え、蔵の外へ出る。風呂敷は胸に抱いたままだった。外の空気に触れた瞬間、深雪乃はやっと深く息を吸った。だが、血の匂いは鼻の奥に残っている。母の懐かしさと一緒に、消えない。


 蔵の前では、親族たちがざわめいていた。


 兼近は御厨に何かを言い、夜岐は黙って袖を握っている。祢々は使用人たちを下がらせようとしているが、小鈴は足がすくんだように動けない。佐助は顔面蒼白で、蔵の扉を見つめていた。


 深雪乃は、蔵の扉を振り返った。


 注連縄の右側だけが新しい。


 紙垂が一枚だけ白い。


 封印されたはずの蔵に、死体があった。


 無数の細い切り傷。


 赫臣の霊糸に似た傷。


 母の髪飾りの欠片。


 そして、自分だけが覚えた懐かしさと寒気。


 何かが始まったのだと思った。


 いいや。


 もしかすると、ずっと前から始まっていたのかもしれない。


 十七年前、母がまだ生きていた頃から。


 赫臣が、深雪乃の肩に羽織を掛けた。


 いつの間に脱いだのか、彼の羽織には煙管の香りが残っている。蔵の血の匂いを少しだけ遠ざける香りだった。


「深雪」


「……何ですか」


「俺を見るな」


 深雪乃は、彼を見上げた。


「今は、皆が俺を見る。傷が似てるからな。お前まで俺を確かめる顔をすると、連中がそこにつけ込む」


 胸が、ぎゅっと痛んだ。


 赫臣を疑ったつもりはなかった。


 だが、傷は似ていた。あまりにも似ていた。雨の路地で見た霊糸の切り口と、喜周の身体に走る無数の傷。その事実に、深雪乃の中のどこかが凍ったのは確かだった。


 赫臣は、それにも気づいていたのだ。


 深雪乃は手を握り直した。


「……疑ってはおりません」


 声は小さかった。


 赫臣の蒼い瞳が、少しだけ柔らかくなる。


「知ってる」


「でしたら」


「でも、お前は傷を見て怖くなった。それでいい。怖いもんを怖いって思うなとは言わねえ」


 深雪乃は言葉を失った。


 赫臣は、こんな時にまで逃げ道を作る。


 疑うなと命じるのではなく、怖いと思うことを許す。疑っていないと証明しろとも言わない。そんなふうに言われると、胸の奥が余計に苦しくなる。


「ただ」


 赫臣は低く続けた。


「俺はやってねえ。深雪を連れて戻る日に、あんな雑な真似はしねえ」


「雑、ですか」


「俺の糸なら、もっと綺麗に切る」


 深雪乃は、少しだけ息を呑んだ。


 物騒な言葉だった。


 だが、その言い方があまりに赫臣らしくて、緊張の奥でわずかに呼吸が戻る。人が死んでいる前で笑うようなことではない。けれど、赫臣の強さと危うさが、その言葉にはっきりあった。


「自慢になりません」


「事実だ」


「事実の置き場所を考えてください」


「深雪の前」


「なお悪いです」


 赫臣の口元が、ほんの少しだけ上がった。


 すぐに表情は戻る。


 彼は蔵の前へ向き直り、親族たちへ声を投げた。


「誰もここから離れるな。屋敷の者も、使用人もだ。蓮台累を呼べ」


 御厨が驚く。


「警視庁の怪異事件担当を、ですか」


「死人が出てる。封印蔵でな」


「しかし、これは鵺喰家の内事で」


「俺の霊糸に似た傷があるんだろ。なら外の目を入れる。鵺喰の内側だけで処理させる気はねえ」


 兼近が苦々しく顔を歪めた。


 夜岐は、何も言わない。


 祢々も、沈黙している。


 深雪乃は、赫臣の隣に立っていた。


 彼の羽織を肩に掛け、風呂敷を抱き、蔵の血の匂いを背にしている。母の髪飾りの欠片は、砂笙の手の中にある。あれを見た時の懐かしさは、まだ胸の奥で震えていた。そして寒気も。


 母のものが、死体のそばにあった。


 それは、偶然ではない。


 誰かが置いたのか。


 母の遺品が、自らそこに現れたのか。


 そんな馬鹿なことを、と思う。だが、この家は先祖返りの家だ。蔵は封印され、遺品には退魔の光が宿っている。何が起きても、完全には否定できない。


 深雪乃は、赫臣の袖を見た。


 しわはまだ残っていた。


 障子裏で掴んだしわ。あの時の熱は、もう血の匂いに押し流されかけている。けれど、完全には消えていない。赫臣の羽織も、手も、声も、まだ近くにある。


 彼の表情は厳しい。


 だが、ほんの一瞬、深雪乃の反応を見た時だけ変わった。


 あの表情が、頭から離れない。


 赫臣は何に気づいたのか。


 母の髪飾りを見た自分の顔に、何を見たのか。


 深雪乃は聞きたかった。


 だが今は、聞けなかった。


 蔵の前で、血の匂いが冷たい風に混じっている。


 封印されたはずの場所で、親族の一人が死んだ。


 赫臣に似た傷で。


 母の欠片を残して。


 深雪乃は、風呂敷を抱く手に力を込めた。


 鵺喰家の奥で隠されていたものが、血を流して表へ出てきた。


 その血は、まだ乾ききっていなかった。


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