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人間臭いと蔑まれた不死身の娘は、百鬼夜行の主に愛される  作者: なつめ


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第13話 封印蔵のトリック解説


 蔵の前には、血の匂いが残っていた。


 扉は開け放たれている。けれど中へ入ることを許された者は、限られていた。土間の奥に倒れた鵺喰喜周の遺体は、白い布を掛けられたまま、まだ動かされていない。蔵の中の空気は、外へ少しずつ流れ出ているはずなのに、鉄の匂いはなかなか薄れなかった。古い漆喰と湿った木、封印札の紙、埃、防虫香。その底に、まだ新しい血の匂いが沈んでいる。


 深雪乃は、蔵の外に置かれた縁台のような木箱に腰を下ろしていた。


 赫臣の羽織が肩に掛けられている。煙管の甘く焦げた香りが、血の匂いを少しだけ遠ざけていた。風呂敷は膝の上にある。母の鏡、着物の端切れ、折れた櫛の欠片。中に入っているものを確かめるように、彼女は布の上からそっと指を添えていた。


 手はまだ少し冷たい。


 母の髪飾りの欠片を見た瞬間に胸へ溢れた懐かしさと、背筋を這い上がった寒気が、今も身体のどこかに残っている。髪飾りは砂笙が白い紙に包み、証拠として預かっている。直接触れていない。それでも、あの白藤色の玉と弓形の文様は、瞼の裏に焼きついていた。


 母の髪に揺れていたもの。


 幼い深雪乃の頬の近くで、かすかに鳴っていたもの。


 それが、血まみれの死体のそばに落ちていた。


 その事実をどう受け取ればいいのか、まだ分からない。


 蔵の周囲には、鵺喰家の者たちが集められていた。


 親族たちは庭の端に座らされ、使用人たちは母屋へ戻ることを禁じられている。小鈴は顔色を失ったまま、祢々の後ろに控えていた。佐助は下男たちの列に混じり、何度も蔵の扉を見ては目を伏せている。御厨数馬は鍵箱を前に正座していた。兼近は不機嫌を隠そうともせず、夜岐は静かに袖を重ねている。


 誰も、声を大きくしない。


 喜周が死んだことへの恐れもある。だが、それ以上に、篝火赫臣がいるからだった。


 赫臣は蔵の入口に立っていた。


 金の髪が曇り空の光を受け、薄暗い北庭の中で奇妙に明るい。片袖を抜いた和装、耳に連なる無数のピアス、指輪、腕輪、足首の飾り。いつものように派手で、軽薄にさえ見える姿なのに、今の彼に近づこうとする者はいない。彼の周囲には、目に見えない霊糸の気配が張り詰めていた。


 疑われている。


 その空気は、はっきりあった。


 喜周の遺体に残る無数の細い切り傷は、赫臣の霊糸に似ていた。親族たちは、それを見た。使用人たちも聞いた。赫臣が深雪乃を連れて鵺喰家へ来た日に、封印蔵で親族が死んでいた。しかも、彼の術に似た痕を残して。


 疑うには都合がよすぎる。


 都合がよすぎるものほど、人は飛びつく。真実がそこにあるかどうかではない。自分にとって扱いやすい形をしているかどうかだ。鵺喰家の者たちは、まさにその形を見つけた顔をしていた。


 砂笙は蔵の扉の近くで、封印札を一枚ずつ調べていた。


 細い指で直接触れず、白い紙を挟み、札の縁や糊の乾き方を確認している。彼のそばには篝火家の従者が控え、記録を取っていた。警視庁の蓮台累へ使いは出されているが、到着までにはまだ少し時間がかかる。それまで現場を保つ必要があった。


 しかし、ただ待っているだけでは、疑いは深くなる。


 兼近が、とうとう口を開いた。


「篝火様。いつまで我々をここへ留め置くおつもりですか」


 声は抑えられていたが、苛立ちは隠せていない。


「喜周が殺されたことは痛ましい。しかし、あの傷は」


「俺の糸に似てる?」


 赫臣が振り向いた。


 兼近は唇を引き結ぶ。


「似ております」


「だから俺が殺したと」


「そこまでは申しておりません」


「申してる顔だな」


 赫臣の声は軽かった。けれど、兼近の額に汗が浮く。


 夜岐が静かに口を挟んだ。


「篝火様。伯父様は、ただ状況を案じておられるだけですわ。封印された蔵で死者が出たのです。しかも、篝火様の霊糸に似た傷で。誰もが不安になるのは当然ではありませんか」


「不安?」


 赫臣は笑った。


「便利な言葉が好きな家だな。昨日は行き違い、今日は不安か」


 夜岐の微笑が、わずかに硬くなる。


 砂笙が、封印札から目を離さずに言った。


「不安を口にされる前に、まず事実を見ていただきましょう」


 兼近が砂笙を睨む。


「参謀殿。あなたは、篝火様を庇う立場だろう」


「ええ。庇う必要があれば庇います」


 砂笙は淡々と答えた。


「ですが今回は、庇う以前に、旦那様の霊糸ではありません」


 その言葉に、周囲がざわついた。


 深雪乃は顔を上げた。


 赫臣も砂笙を見る。ただし驚きはない。すでに分かっていたのだろう。赫臣の表情は、むしろ「早く言え」とでも言いたげだった。相変わらず分かりやすく横柄である。隣にいる参謀の胃に、もう少し優しい顔をしてやればいいのに。


 御厨が恐る恐る尋ねた。


「なぜ、そう断言なさるのですか」


 砂笙は蔵の入口に立ち、扉の内側を示した。


「旦那様の霊糸は、退魔耀を通して展開されます。妖や呪具を斬るための糸です。人体を斬れば、傷の縁にごく薄い焼けが残ります。肉眼では見えにくいですが、霊紙を当てれば反応する」


 彼は白い紙片を取り出した。


 蔵の中に入り、遺体のそばで膝をつく。遺体の切り傷に直接触れないよう、紙片を近づけた。紙は何も反応しない。ただ、血の湿り気で端がわずかに重くなるだけだった。


「ご覧の通り、退魔耀の焼けがありません。妖気の残滓も、旦那様のものではない。そもそも、旦那様の霊糸なら、この程度の浅い傷を無数に残すような切り方にはなりません」


 赫臣が低く言った。


「俺なら、もっと綺麗に斬る」


 深雪乃は、思わず眉を寄せた。


「自慢になりません」


「事実だ」


「置き場所を考えてください」


「深雪の近く」


「なお悪いです」


 この状況で返す自分もどうかと思ったが、赫臣が少し笑ったことで、胸の強張りがほんのわずかに緩んだ。血の匂いも、疑いの視線も消えたわけではない。それでも、彼の声は近い。


 砂笙は続けた。


「喜周殿の傷は、細い糸状のもので切られています。しかし、旦那様の霊糸とは違う。これは退魔糸です」


 御厨が顔を上げる。


「退魔糸」


「古い退魔師や寺社方が使う道具です。霊力を通した糸で、封印札を縫い留めたり、小さな呪具を束ねたり、弱い妖を絡め取ったりする。鋭く張れば、皮膚を切ることもできます」


 兼近が声を荒げる。


「だが、退魔糸など、鵺喰家にも篝火家にもあるだろう」


「ございます」


 砂笙は否定しなかった。


「ただし、この傷に残る気配は、篝火家のものではありません。糸に通された霊力が古い。寺社の清めとも少し違う。弓に関わる退魔術の気配が混じっています」


 その言葉に、深雪乃の胸が鳴った。


 弓。


 また、そこへ戻る。


 砂笙は白い紙に包んでいた母の髪飾りの欠片を取り出した。


「現場で見つかったこちらにも、同じ気配がございます。白藤色の玉、銀細工、裏に刻まれた弓形の文様。宵待澄子様の髪飾りの一部と、深雪乃様はおっしゃいました」


 視線が一斉に深雪乃へ向く。


 深雪乃は、風呂敷を抱く指に力を込めた。


「……母のものです」


 声は静かに出た。


「幼い頃、母が髪に挿していました。白藤色の玉と、弓の形。間違いありません」


 夜岐が細く息を吐いた。


「幼い頃の記憶でしょう。思い違いでは」


「姉上」


 深雪乃は夜岐を見た。


「私の記憶が都合よく間違う時だけ、姉上はよく口を挟まれますね」


 夜岐の瞳が冷えた。


「あなたのためを思って」


「母の櫛を折った時にも、そうお思いでしたか」


 夜岐は黙った。


 赫臣が楽しげに目を細める。


「いい返しだ」


「褒める場面ではありません」


「可愛い」


「もっと違います」


 深雪乃の頬に熱が上がりかけた。こんな血の匂いの中で、なぜこの男は平然と甘い言葉を挟むのか。いや、平然としているように見せているだけなのかもしれない。彼の蒼い瞳は、周囲を油断なく見ている。


 砂笙は髪飾りの欠片を再び紙に包んだ。


「この欠片が現場にあることで、犯人は宵待澄子様の遺品、もしくはそれに関わる退魔具を使った可能性が高い。喜周殿の傷も、旦那様の霊糸に似せたものではありますが、実際には別の糸です」


 兼近が唸るように言った。


「ならば、誰が蔵に入った。蔵は封印されていた。鍵もここにあった。喜周が中に入れたはずがない」


「封印されていたように見えた、というべきです」


 砂笙は、蔵の扉に貼られた封印札の一部を示した。


「こちらをご覧ください。外側の封印札は二重に貼られています」


 御厨が目を凝らした。


「二重……?」


「古い札の上から、新しい札を重ねています。上の札は昨夜から今朝にかけて貼られたものでしょう。糊の乾きが浅い。紙の縁も雨の湿気を吸いきっていない。古い札は、下で一度切られています」


 砂笙は白い紙を挟んで、札の端をわずかに持ち上げた。


 確かに、下の古い札は真ん中に細い切れ目があった。上から新しい札を貼られていたため、遠目には破れていないように見える。深雪乃は息を呑んだ。


 赫臣が言う。


「一度、開けたんだな」


「はい」


 砂笙は頷いた。


「外鍵を使ったか、鍵を写したか、あるいは一時的に鍵箱へ触れた者がいたか。いずれにせよ、蔵の外扉は一度開けられています。その後、内側に仕掛けをしてから、外へ出た」


 兼近が眉を寄せる。


「だが、扉は閉じられていた。封印札も外から見れば無傷だった」


「閉じたように見せていたのです」


 砂笙は扉の金具を示した。


「この観音扉の内側、上部に小さな輪金具があります。本来は内側から扉を固定するためのものです。その輪に退魔糸が通され、扉の隙間を抜けて外へ出されていました」


 篝火家の従者が、扉の隙間から見つかった細い糸の断片を見せた。


 血の匂いと古い蔵の匂いの中に、白っぽい極細の糸があった。普通なら見落とす。髪の毛よりも細く、濡れた漆喰や蜘蛛の糸に紛れれば、なおさらだろう。


 砂笙は説明を続けた。


「犯人は内側の輪に糸を通し、外へ出てから糸を引きました。すると内側の掛け金が落ち、扉は中から閉じられたように見えます。そのうえで、外側から新しい封印札を古い札の上へ重ねた。札の切れ目は隠れ、注連縄の一部を新しく替え、紙垂も整えた」


 深雪乃は、昨日気づいた注連縄を思い出した。


 右側だけが新しかった。


 紙垂が一枚だけ白かった。


 あれは、単なる補修ではなかった。


 御厨が青ざめる。


「では、封印は破られていたのですか」


「少なくとも、外側は」


 砂笙は蔵の奥へ視線を向けた。


「奥の封印はまだ確認中です。ですが、喜周殿が死んでいたのは奥の格子扉の前です。外扉の密閉は偽装できます。喜周殿が自ら入ったのか、誰かに連れ込まれたのか、あるいは呼び出されたのかは、これから調べる必要があります」


 夜岐が静かに言った。


「喜周叔父様が、この蔵へ自分で入る理由などあるでしょうか」


「ある」


 赫臣が短く言った。


 皆が彼を見る。


 赫臣は蔵の奥を見たまま続けた。


「母親の遺品を隠すなり、先に何かを探すなり、遺言書の内容を知って焦ったなら入る理由はある」


 兼近が声を上げた。


「喜周がそんなことをするはずがない」


「死んだ奴は急に善人になるのか?」


 赫臣の言葉に、兼近は詰まった。


 深雪乃は、喜周の顔を思い出した。


 相続会議で、土地や蔵の管理権に口を挟んでいた男。母の遺品返還に顔をしかめた男。深雪乃を「死ににくいだけの娘」と言った男。彼が蔵へ入る理由がないとは思えなかった。


 だが、それが殺される理由になるのかは別だった。


 砂笙は遺体の周囲の土間を調べていた。


「争った痕があります。足跡は二種類。喜周殿の草履跡と、もう一つ、かなり浅いもの。小柄な者、もしくは足音を消す訓練を受けた者でしょう。土間に細い糸の跡もあります。こちらは喜周殿の足首に絡んだようです」


 深雪乃は思わず、喜周の足元を見た。


 布で覆われていて詳しくは見えない。だが、足首の辺りに血の滲みがある。あそこにも切り傷があるのだろう。


「糸で足を止め、蔵の中で切りつけた」


 赫臣の声が低い。


「傷は多いが、致命傷は首の一本だな」


 砂笙が頷く。


「はい。浅い傷を多くつけたのは、旦那様の霊糸を連想させるためでしょう。ですが、切り口が粗い。糸に込めた力が安定していません。旦那様の霊糸なら、複数の傷を残すにしても、線の太さが揃います」


「雑な偽装だ」


「雑ですが、効果はありました。皆さま、旦那様を見ましたから」


 砂笙の言葉に、親族たちは一斉に目を逸らした。


 深雪乃は、その動きを見た。


 誰も謝らない。


 ただ目を逸らす。


 自分たちが疑ったことを、なかったことにしようとしている。鵺喰家の者たちは、いつもそうだ。都合の悪い視線は消す。口に出した言葉も、なかったことにする。人を傷つけたあとの静けさだけが、やけに上手い。


 赫臣が深雪乃を見た。


 彼は何も言わない。


 しかし、その視線だけで、深雪乃の胸の奥にあった冷たい塊が少しだけ動いた。


 彼は気づいている。


 彼女が、傷を見て一瞬怖くなったことにも。親族たちの視線に晒されて、胸が縮んだことにも。母の髪飾りを見て懐かしさと寒気を覚えたことにも。


 赫臣は、それを責めない。


 だからこそ、深雪乃は視線を逸らした。


 夜岐が口を開いた。


「退魔糸が使われたとして、それを扱える者は限られるでしょう。深雪乃、あなたの母の遺品に関わるものなら、あなたにも何か」


「夜岐」


 赫臣が呼び捨てた。


 夜岐の言葉が止まる。


「次に深雪へ雑に疑いを向けたら、お前の髪飾りも切る」


 夜岐の目が大きくなる。


「篝火様」


「俺は女の髪飾りに遠慮するほど上品じゃねえ」


 祢々が息を呑む。


 小鈴が肩を震わせる。


 深雪乃は赫臣を見上げた。


「脅し方が具体的すぎます」


「効くだろ」


「効きますが」


「ならいい」


「よくありません」


 赫臣は少しだけ笑った。


 そして、親族たちへ視線を戻す。


「母親の遺品を使った犯行だ。深雪に疑いを向けたいなら、その前に聞くことがあるだろ。誰が遺品を管理してた。誰が蔵の補修をした。誰が封印札を二重に貼れる位置にいた。誰が喜周を蔵へ呼び出せた」


 沈黙。


 重く、嫌な沈黙だった。


 祢々が深く頭を下げたまま、わずかに口を開く。


「遺品の管理は、奥蔵の目録に従い、私が女中頭として」


「祢々」


 深雪乃は静かに言った。


 祢々の肩がぴくりと動く。


「母の髪飾りは、どこに保管されていましたか」


 祢々は答えなかった。


 深雪乃は続けた。


「母の櫛は夜岐様の手元にありました。鏡は私が持っていました。着物の端切れも、私が隠していました。では、髪飾りはどこにあったのですか」


 祢々の顔色が変わらない。


 だが、少し間が空いた。


「北蔵奥の文箱に、収められていたはずでございます」


「はず」


「私は直接、奥の封印を解いておりませんので」


「封印の外側は補修したのですね」


「はい」


「その時、髪飾りの欠片は見ましたか」


「見ておりません」


「では、どうして喜周様のそばにあったのでしょう」


 祢々は、静かに目を伏せた。


「私には分かりかねます」


 便利な言葉だった。


 知らない。分からない。存じません。祢々はそれを盾にするのがうまい。鵺喰家の古参使用人として長く生きるには、きっと最適な技術なのだろう。吐き気がするほど実用的だった。


 砂笙が、蔵の扉の敷居を指した。


「もう一つ。外から糸を引いた痕が敷居に残っています。ここです」


 深雪乃は身を乗り出した。


 敷居の角に、細い削れがある。糸が強く擦れた跡だ。湿った木に白い線が入り、そこだけ新しい。普通に扉を開け閉めしただけではつかない傷だった。


「糸は外へ引かれたあと、切られています。断片が扉の隙間に残っていました。犯人は、糸を完全に回収する余裕がなかったか、雨や湿気で見つかりにくいと判断したのでしょう」


 赫臣が蔵の外、注連縄の右側を見た。


「祢々が補修したって言ったところだな」


 祢々は頭を下げたまま沈黙している。


 兼近が苛立って言う。


「まさか祢々が殺したとでも言うのか」


「誰が殺したかまでは、まだ言っておりません」


 砂笙が返した。


「ただ、封印蔵は完全な密室ではない。外から糸で閉め、二重の札で破れを隠した。これで、開けるまで誰も入れなかったように見せることはできます」


 御厨が震える声で呟く。


「では、喜周殿は、遺言書の開封前に殺されていた」


「血の乾き具合から見て、昨夜遅くから未明にかけてでしょう」


 砂笙の言葉に、親族たちはざわついた。


 昨夜。


 篝火家で深雪乃が眠れずにいて、赫臣が布団ごと抱いた夜。


 その夜、鵺喰家の蔵では喜周が殺されていた。


 深雪乃の身体が、わずかに強張る。


 赫臣がすぐに気づいた。


 彼は深雪乃のそばへ来て、誰の目も気にせず彼女の肩を抱いた。羽織の上から腕が回る。蔵の前、親族たちの目の前である。けれど、今の深雪乃には、その腕を押しのける力が湧かなかった。


 赫臣は低く言う。


「俺は昨夜、深雪の部屋にいた」


 空気が揺れた。


 深雪乃の顔が一気に熱くなる。


「篝火様」


「赫臣」


「今、それを言う必要が」


「ある」


 赫臣は親族たちを見渡した。


「深雪は眠れなかった。俺が布団ごと抱いてた。朝までな。砂笙も、夜半に様子を確認してる。篝火家の女中も、白湯を替えに来てる。俺がこの蔵へ来る暇はねえ」


 言い方。


 言い方がある。


 深雪乃は、顔を伏せたくなった。布団ごと抱いていたことを、鵺喰家の親族と使用人の前で堂々と説明される人生とは何なのだろう。人間社会の恥じらいは、鬼の血には薄めすぎた墨のようなものなのかもしれない。


 夜岐の視線が、深雪乃へ向く。


 そこには怒りとも嫉妬ともつかない色があった。


 赫臣は続けた。


「ついでに言う。深雪にも無理だ。傷が塞がってても、妖に裂かれた身体で夜中にここまで来て、喜周を殺して、糸で封印を偽装して、朝には篝火家の布団に戻る。そんな芸当ができるなら、鵺喰家の連中に黙って踏まれてねえ」


 深雪乃は赫臣を見上げた。


 言葉は荒い。


 だが、彼女を疑いから遠ざけるための言葉だった。


 兼近が口を開きかけたが、砂笙が冷静に畳みかける。


「さらに、深雪乃様には退魔糸を扱った痕がありません。手指に霊力焼けもない。退魔糸は慣れない者が扱えば指先を切ります。深雪乃様の手には、昨夜の時点で新しい糸傷はありませんでした」


 赫臣が深雪乃の手を取った。


 人前で、当然のように。


 彼女の指先を見せるように持ち上げる。水仕事で荒れた跡、細い爪、少し冷えた皮膚。新しい糸傷はない。深雪乃は手を引こうとしたが、赫臣は離さなかった。


「俺が見た」


 深雪乃は頬を赤くした。


「確認の仕方が雑です」


「細かく見たぞ」


「なお悪いです」


「手の甲にキスした時も見た」


「本当に黙ってください」


 親族の前で何を言うのか。


 深雪乃は耳まで熱くなる。だが、赫臣は悪びれない。むしろ、彼女が赤くなるのを見て少し満足そうだった。こんな状況でなければ袖を引っ張って黙らせたい。いや、引っ張ればまた喜ぶ。困った男である。


 砂笙が咳払いした。


「以上より、旦那様と深雪乃様が犯人である可能性は極めて低いと考えます。むしろ、犯人は旦那様の霊糸を知っており、それに似せることで疑いを向けようとした。さらに、宵待澄子様の遺品を現場に残すことで、深雪乃様と母君の過去を事件に結びつけようとしています」


 蔵の前に、沈黙が落ちる。


 それは先ほどまでの疑いの沈黙とは違った。


 今度は、誰もが別の誰かを疑い始める沈黙だった。


 喜周を呼び出せた者。


 蔵の外側の封印に触れられた者。


 退魔糸を扱える者。


 母の髪飾りの欠片を手に入れられた者。


 赫臣の霊糸を知り、似せようとした者。


 その条件は、鵺喰家の内側にいる者を指している。


 兼近は顔を歪め、夜岐は黙り、祢々は頭を下げたまま動かない。小鈴は泣きそうな顔で足元を見ている。佐助は唇を震わせていた。御厨は鍵箱へ視線を落とし、何かを考え込んでいる。


 深雪乃は、その全員を見た。


 この家の誰かが、母の遺品を使った。


 喜周を殺した。


 赫臣と深雪乃へ疑いを向けようとした。


 その事実が、腹の底を冷やした。


 母のものが、また汚された。


 櫛を折られた時とは別の形で。


 血のそばに置かれ、犯行の印のように使われた。


 深雪乃の喉が詰まる。


 赫臣は、その変化を見逃さなかった。


 彼は深雪乃の手を離さず、低く言った。


「深雪。こっちを見ろ」


「……今は」


「見ろ」


 命令に近い声だった。


 けれど、怒りではない。


 深雪乃はゆっくり赫臣を見上げた。


 蒼い瞳が、真正面にあった。


 赫臣は親族たちの前で、彼女を抱き寄せた。羽織ごと背を包み、風呂敷を押しつぶさないように角度を変える。肩と脇腹の痛む場所には触れない。けれど、抱きしめる腕は強かった。


「篝火様」


「赫臣」


「今は、皆さまが」


「見せてる」


「またそれですか」


「疑いを向けられた時は、見せつけるのが早い」


「何を」


「俺が深雪を疑ってねえこと」


 深雪乃の息が止まった。


 赫臣の声は、低く、甘く、そしてひどく真剣だった。


「お前も、俺を疑ってねえ。怖くなっただけだ。なら、それでいい。俺はそれを知ってる。お前にも分からせる」


「分からせる、とは」


 問い終える前に、赫臣の顔が近づいた。


 唇が重なる。


 蔵の前で。


 親族も使用人もいる。


 死体はまだ蔵の中にあり、血の匂いが残り、事件の疑いは晴れきっていない。こんな場で、こんな時に、口づける男がいるのか。いた。目の前に。篝火赫臣という、距離感も分別もどこかへ投げ捨てた鬼が。


「ぁ、...だめ…っ...んんッ!」


 深雪乃は、最初の瞬間だけ身体を強張らせた。


 だが、赫臣は離れない。


 短い口づけではなかった。


「や、ぁ...っ...んンっ♡」


 深い。



「ちゅく…んぉ…んちゅぅぅ…あン…」


 長い。


 先ほど障子裏で奪われた熱が、また戻ってくる。唇から、胸の奥へ。血の匂いが遠のく。親族たちの視線も、使用人たちのざわめきも、少しずつ鈍くなる。赫臣の手が背を支え、もう片方の手が深雪乃の頬を包む。


 彼は疑いを打ち消すように口づけている。


 言葉ではなく、熱で。


「…んんンっ…ちゅむぅ…ちゅぷ…ンぁはっ…ちゅう…」


 自分がここにいる。自分は離れない。お前を疑っていない。お前も一人ではない。そう、唇で押し込まれているようだった。


 強引だ。


 傲慢だ。


 説明の仕方がどう考えてもおかしい。


 それなのに、深雪乃は拒まなかった。


 風呂敷を抱く手に力を込めたまま、もう片方の手で赫臣の袖を掴んだ。昨日、障子裏で掴んだのと同じ袖。まだしわが残っている布を、また握る。赫臣の腕に力がこもる。


 周囲で息を呑む音がした。


 夜岐の気配が硬くなる。


 兼近が何か言いかけたが、言葉にならない。


 砂笙が、深く、非常に深く息を吐いた気配がした。胃のあたりに手を当てているかもしれない。見なくても分かる。気の毒だが、今の深雪乃にその余裕はなかった。


 赫臣の口づけは続いた。」


「んふぁ…ぉあ…ちゅっ…んぅっ…♡」



「…クチュ…ジュルゥ…んふッ…くちゅ…んぐ、っぉっ...んん~~~~~~~ッッッッ!!」


 深雪乃の呼吸が乱れる。


 蔵の前の冷気の中で、赫臣だけが熱い。唇も、手も、腕も、胸元も。血の匂いで冷えた身体に、その熱が容赦なく入ってくる。深雪乃は、怖さと安堵が混ざったまま、彼の袖を握り続けた。


 ようやく唇が離れた時、深雪乃は息を乱していた。


 赫臣の胸元に額を寄せかけ、どうにか姿勢を保つ。人前だ。蔵の前だ。殺人の現場だ。分かっている。分かっているのに、すぐには離れられなかった。


「あ…はぁ...っ...」


 赫臣は、彼女の頬を親指で撫でた。


「深雪」


「……何度目ですか」


 声が掠れた。


 深雪乃は、それが悔しくて少しだけ赫臣を睨む。


「説明にしては、回数が多すぎます」


 赫臣は笑った。


 甘く、満足げに。


「足りねえなら、もう一度する」


「足りないとは申しておりません」


「じゃあ、足りたか」


「その問い方は卑怯です」


「嫌だったか」


 深雪乃は、息を整えながら沈黙した。


 嫌ではない。


 この状況でそう思ってしまう自分が、信じられない。人が死んでいる。母の遺品が犯行に使われたかもしれない。赫臣も自分も疑われた。その直後に、こんな長い口づけを受けて、なお拒まない。


 けれど、拒まないことは、身体がもう答えていた。


 赫臣の袖を掴んだ指が、離れていない。


 深雪乃は視線を逸らした。


「……場を考えてください」


「考えた」


「考えた結果がこれですか」


「疑いを消すには分かりやすいだろ」


「分かりやすさにも種類があります」


「深雪には効いた」


「効いておりません」


「袖」


 赫臣が視線だけで示す。


 深雪乃は、自分の指が彼の袖を掴んでいることに気づき、すぐ離そうとした。赫臣の手が、その上からそっと重なる。強く押さえつけるのではない。ただ、急いで離さなくていいと伝えるように。


 深雪乃の胸が、また苦しくなる。


「……あなたは、本当に」


「何だ」


「騒がしい方ですね」


 赫臣は笑った。


「静かな鬼が好きか」


「静かな湯たんぽの方が実用的です」


「でも、お前は俺の袖を掴んでる」


「足元が不安定でしたので」


「蔵の前でも同じ言い訳か」


「便利な言葉を使っているだけです」


「鵺喰家みてえだな」


「それは不本意です」


 赫臣は少しだけ声を立てて笑った。


 その笑いで、張り詰めた空気が別の形に揺れた。親族たちは何も言えない。使用人たちも顔を伏せている。深雪乃は赫臣の腕の中から、彼らを見た。


 先ほどまで、疑いの視線を向けていた者たち。


 今は、その視線が定まらない。


 赫臣は深雪乃を疑っていない。


 深雪乃も赫臣を拒んでいない。


 その事実を見せつけられたせいで、彼らは簡単に二人を切り離せなくなった。赫臣の口づけは、甘さだけではない。ひどく政治的で、ひどく乱暴で、ひどく赫臣らしい宣言だった。


 砂笙が、静かに咳払いした。


「旦那様。そろそろ現場の話へ戻っていただいてもよろしいでしょうか。私の胃も、封印蔵ほど頑丈ではございませんので」


 深雪乃は反射的に赫臣から少し離れた。


 赫臣は残念そうだったが、腕は緩めた。完全には離さない。背に添えた手だけは残している。


「戻るか」


「最初から戻ってください」


 砂笙は表情を変えず、封印札の方へ視線を戻した。


「蓮台累殿が到着されるまで、現場はこのまま保全いたします。ですが現時点で分かることは、三つです」


 彼は淡々と指を折る。


「第一に、封印蔵は完全な密室ではありません。封印札を二重に貼り、外から退魔糸で内側の掛け金を引く仕掛けにより、閉じたように見せかけられていました」


 親族たちは黙っている。


「第二に、喜周殿の傷は旦那様の霊糸ではありません。退魔糸を使った偽装です。旦那様の妖気も退魔耀の焼けも残っていません」


 赫臣は深雪乃の肩に羽織を掛け直した。


「第三に、現場には宵待澄子様の髪飾りの欠片がありました。これは、犯人が母君の遺品、あるいは宵待家に関わる退魔具を利用していることを示します」


 深雪乃は、風呂敷を抱きしめた。


 砂笙の言葉は冷静だった。けれど、その一つひとつが胸に刺さる。母のものが使われた。父の遺言書で返されるはずだった遺品が、殺人の現場に現れた。誰かが深雪乃と母を、血の中へ引きずり込もうとしている。


 赫臣が耳元で囁く。


「深雪」


「……何ですか」


「俺がいる」


 また、その言葉。


 馬車でも聞いた。


 鵺喰家の門でも、障子裏でも、蔵の前でも、彼は同じように言う。何度も。しつこいほどに。まるで、深雪乃の身体に刻み込むように。


 深雪乃は、唇に残る熱を意識しないよう、前を見た。


「あなたがいると、話が余計に大きくなります」


「大きくしてやる」


「しなくて結構です」


「もうなってる」


「本当に、騒がしい鬼ですね」


「その鬼の袖、まだ掴んでるぞ」


 深雪乃は、今度こそ手を離した。


 赫臣は笑った。


 だが、深雪乃の手が完全に離れる前に、彼はその指先を軽く握った。人前で、また。けれど、今はもう咎める気力が少し足りなかった。血の匂いの中で、彼の手の熱だけが確かだった。


 蔵の前には、まだ事件の重さが満ちている。


 喜周の死。


 偽装された封印。


 退魔糸。


 赫臣に似せた傷。


 母の髪飾り。


 そのどれもが、これから深雪乃を鵺喰家の奥へ引きずっていく。


 だが、今は一つだけ分かっていた。


 封印蔵は、閉ざされたまま殺人を隠していたのではない。


 誰かが、閉ざされていたように見せかけた。


 そしてその誰かは、母の遺品を使い、赫臣の霊糸を真似て、深雪乃の前に血を置いた。


 深雪乃は、赫臣の指に触れられた手を握り返した。


 ほんのわずかに。


 赫臣は何も言わず、握り返した。


 北蔵の扉の奥で、白い布を掛けられた遺体は動かない。


 血の匂いは、まだ消えない。


 けれど、その血の匂いの中で、深雪乃の唇には赫臣の熱が残っていた。


 疑いを打ち消すような、長い口づけの熱が。


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