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人間臭いと蔑まれた不死身の娘は、百鬼夜行の主に愛される  作者: なつめ


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第14話 玉藻前の許嫁


 蘆野火白絹が鵺喰家に到着したのは、喜周の遺体が北蔵から運び出される前だった。


 空はまだ重く曇っていた。雨は止んでいるのに、雲の底が低く垂れ、庭の松や石灯籠を灰色の影で包んでいる。北蔵の前には、いまだ血の匂いが薄く残っていた。扉は開かれたまま、人の出入りは禁じられている。蔵の入口には篝火家の従者が立ち、砂笙が封印札と退魔糸の痕を調べ続けていた。


 深雪乃は、北蔵から少し離れた廊下の端に座っていた。


 赫臣の羽織は、まだ肩に掛かっている。風呂敷は膝の上。中には母の鏡と端切れ、折れた櫛の欠片が入っている。髪飾りの欠片は砂笙の手元にある。白い紙に包まれ、証拠として保管された。あの小さな銀の欠片を見た時の懐かしさと寒気は、まだ胸の奥で混ざったままだった。


 唇には、赫臣の熱が残っている。


 封印蔵の前で、親族も使用人もいる中、長く深く口づけられた。その事実を思い出すたび、顔の奥に熱が上がりそうになる。血の匂いと、事件の疑いと、母の遺品。そんなものが渦巻く中で、赫臣は深雪乃を抱きしめ、疑いを打ち消すように口づけた。


 あの男は、本当に説明の方法が悪い。


 悪すぎる。


 しかも効いてしまったのだから、なお始末が悪い。世の中には、間違っているのに身体が納得してしまうものがあるらしい。たいへん迷惑な発見だった。


 深雪乃が膝の上の風呂敷を握っていると、門の方がにわかに騒がしくなった。


 先ほどまで親族たちは、喜周の死と封印蔵の偽装で互いに疑い合っていた。使用人たちは怯え、夜岐は静かに口を閉ざし、兼近は蓮台累が来る前にどこまで家の中で話をまとめられるか計算している顔をしていた。そこへ、新しい客人の知らせが入ったのだ。


 御厨が顔色を変えて廊下を急いだ。


 兼近が立ち上がり、夜岐も袖を整える。祢々は女中たちへ目配せをし、小鈴が慌てて下がった。先ほどまで血の匂いに青ざめていた者たちが、急に別の種類の緊張をまとい始める。


 赫臣は、北蔵の入口からゆっくりこちらへ戻ってきた。


 片袖を抜いた和装のまま、耳飾りが小さく鳴る。彼の周囲に張られていた霊糸の気配は少し薄れたが、完全には消えていない。誰かが不用意に動けば、すぐにでも空気が切れる。そんな緊張を、彼は当たり前のようにまとっていた。


 深雪乃の前で足を止める。


「顔色、まだ悪いな」


「死人の出た蔵の前で、顔色がよくなる方が問題です」


「それもそうだ」


「納得なさるのですね」


「深雪が正しい時はな」


「では、普段ももう少し聞き分けよくなさってください」


「それは無理だ」


「でしょうね」


 赫臣は笑い、深雪乃の隣に当然のように腰を下ろそうとした。廊下の幅は広い。座る場所はいくらでもある。だが彼は、深雪乃の袖が触れそうな距離を選ぶ。距離感という概念は、やはり本当に妖へ食わせたらしい。しかも消化まで済んでいる。


 深雪乃は少しだけ身を引いた。


 赫臣はすぐに目を細める。


「逃げた」


「姿勢を直しただけです」


「俺から離れる姿勢か」


「そうとも申します」


「ひでえな」


「近すぎる方が悪いのです」


「俺は近くにいたい」


「毎回、理由が幼いですね」


「分かりやすくていいだろ」


「分かりやすければよいというものではありません」


 赫臣は楽しそうだった。


 こんな状況でも、深雪乃の毒を楽しむ余裕がある。いや、余裕があるように見せているのだろうか。彼の蒼い瞳は、廊下の向こう、門から奥座敷へ続く気配を確かめている。表情は甘いのに、意識は冷えている。


 足音が近づいてきた。


 まず、香りが届いた。


 白檀でも、梅でも、夜岐のまとう麝香でもない。もっと柔らかく、もっと危うい香りだった。沈丁花にも似ているが、底に甘い狐火のようなものがある。嗅いだ瞬間、胸の奥を撫でられるような感覚がした。人を安心させる香りではない。安心させた上で、どこかへ連れていく香りだ。


 深雪乃は顔を上げた。


 廊下の向こうから、女が歩いてきた。


 腰まで届く淡い金茶の髪。きちんと結い上げているのに、幾筋かが計算されたように肩へ落ちている。琥珀色の切れ長の瞳は、遠くからでも人の奥を覗くようだった。白地に金糸の着物は、喪の場に来たには華やかすぎる。だが下品ではない。むしろ、彼女が纏うと、その華やかささえ儀式の一部のように見える。


 蘆野火白絹。


 玉藻前の先祖返り。


 先祖返り会第三位、蘆野火家の令嬢。


 赫臣の形式上の許嫁。


 深雪乃は、その最後の言葉を胸の内で繰り返した。


 許嫁。


 形式上とはいえ、許嫁。


 馬車の中で、赫臣は言わなかった。篝火家でも、砂笙は詳しく触れなかった。ただ、先祖返り会の婚姻政治の話になった時、蘆野火家の名が出た。赫臣が面倒そうに顔をしかめ、砂笙が「まだ完全に解消されてはおりません」と言った。その時の言葉が、今になって形を持って歩いてきた。


 白絹は美しかった。


 夜岐の可憐さとは違う。夜岐が人に守られたくなるような花なら、白絹は夜の庭に咲く白い毒の花だった。触れてよいのか悪いのか、見ただけでは分からない。だが、近づけば香りで絡め取られる。そういう美しさだった。


 彼女の周囲には、薄い妖気が漂っている。


 狐火のような、幻の薄衣のような気配。目を離すと、立っていた位置が一寸ずれたように感じる。現実の縁を、彼女だけが指で撫でているようだった。


 深雪乃の指先が、膝の上でわずかに動いた。


 赫臣が気づいた。


 彼の手が、深雪乃の手の甲に軽く触れる。人目のある廊下で、何のためらいもなく。深雪乃は小さく睨んだが、赫臣は視線だけで「落ち着け」と言った。落ち着けと言うなら、まず手を離してほしい。だが、離されるとそれはそれで落ち着かない気がしたので、深雪乃は黙った。


 白絹は、親族たちの前を通り過ぎる時、丁寧に会釈した。


 兼近は慌てて頭を下げる。夜岐も膝をつき、祢々も使用人たちへ頭を下げさせた。鵺喰家の者たちが、また急に礼儀正しくなる。権力者が来るたびに品性の仮面を取り出すあたり、物持ちだけはいい家だった。


 白絹は赫臣の前で足を止めた。


「赫臣様」


 声は鈴のように澄んでいた。


 だが、甘すぎない。柔らかいのに、刃を含んでいる。


「随分と騒がしいことになっておりますのね」


 赫臣は立ち上がらなかった。


 深雪乃の隣に座ったまま、白絹を見上げる。


「呼んでねえぞ、白絹」


 冷たい声だった。


 深雪乃は、思わず赫臣を見た。


 彼が誰かに冷たいのは、今さら珍しくない。鵺喰家の親族や使用人には、ずっと冷たい。だが白絹へ向けた冷たさは、少し種類が違った。怒りというより、距離を置くための刃。近づけさせないために、最初から線を引いている。


 白絹は動じなかった。


「呼ばれずとも参りますわ。鵺喰家の封印蔵で死者が出た。しかも、篝火家当主の霊糸に似た傷があると聞きましたもの。先祖返り会に関わる家の者として、知らぬ顔はできません」


「耳が早いな」


「蘆野火家ですもの」


「狐の耳はよく動く」


「鬼の噂も、よく響きますわ」


 二人の間に、薄い火花のようなものが散った。


 白絹はそれから、深雪乃へ視線を向けた。


 正面から。


 琥珀色の瞳が、深雪乃を捉える。


 深雪乃は、背筋を伸ばした。白藤色の着物。赫臣の羽織。膝の上の風呂敷。血の匂いの残る北蔵の前。どれも、今の自分を形作っている。白絹の視線は、そのすべてを一瞬で読もうとしているようだった。


 白絹が、わずかに目を細める。


「……危うい子」


 その声は、静かだった。


 けれど、廊下にいる者たちの耳には届いた。


 深雪乃は、胸の奥が冷えるのを感じた。


 危うい。


 人間臭いではない。


 妾腹でもない。


 死なないだけでもない。


 危うい。


 その言葉には、嫌悪よりも警戒があった。白絹は深雪乃を見下しているのではない。むしろ、何かを見て警戒している。自分でも分からないものを、彼女は見たのかもしれない。


 赫臣の手が、深雪乃の手を包んだ。


「白絹」


 声がさらに冷える。


「深雪を値踏みするな」


「値踏みなどしておりませんわ」


 白絹は微笑む。


「ただ、見えたものを申し上げただけ」


「なら黙ってろ」


 周囲が凍った。


 赫臣は本当に容赦がない。


 相手は蘆野火家の令嬢であり、形式上の許嫁だ。先祖返り会第三位の家。玉藻前の系譜。雑に扱えば、婚姻政治だけではなく家同士の均衡にも関わる。砂笙なら胃を押さえる場面だ。残念ながら今、砂笙は北蔵の入口で封印札を調べており、こちらへ来る余裕がない。胃だけ遠隔で痛めているかもしれない。


 白絹の笑みは崩れなかった。


「冷たいこと。久しぶりにお会いした許嫁に向ける言葉ではありませんわね」


 許嫁。


 その言葉が廊下に落ちた。


 深雪乃の胸が、妙に鈍く痛む。


 知っていた。


 聞いていた。


 形式上だと分かっている。


 それでも、本人の口から「許嫁」と言われると、言葉が形を持つ。白絹ほどの美しい女が、赫臣の許嫁として立っている。赫臣の隣に座る自分は、血の匂いを浴び、母の遺品を抱え、鵺喰家から追い出されたばかりの娘だ。


 比べること自体が、馬鹿らしい。


 そう思うのに、胸が熱く、冷たく、落ち着かない。


 赫臣は、深雪乃の手を握ったまま立ち上がった。


 そのまま彼女も立たせる。


 白絹の目が、その手に落ちた。


 深雪乃は離そうとした。だが赫臣が離さない。むしろ、見せるように指を絡める。人前で。蘆野火白絹の前で。形式上の許嫁の前で。


「赫臣様」


 深雪乃は低く言った。


「今は」


「黙ってろ」


 赫臣の声は、深雪乃に向けるには珍しく強かった。


 だが、彼はすぐに彼女の手の甲を親指で撫でた。黙らせるためではなく、不安を押さえるように。深雪乃は言葉を飲み込む。腹立たしい。けれど、今ここで彼が何を言うのか、聞かないわけにはいかなかった。


 赫臣は白絹を見た。


「家の都合で決まった女より、俺が惚れた女の方が大事だ」


 空気が、完全に止まった。


 深雪乃は、呼吸を忘れた。


 親族たちも、使用人たちも、夜岐も祢々も、皆、動かない。北蔵の入口にいた砂笙でさえ、遠くでぴたりと手を止めた気配があった。たぶん胃が死んだ。気の毒に。だが今は深雪乃の方も心臓がまともに動いていない。


 惚れた女。


 また言った。


 しかも白絹の前で。


 形式上の許嫁を前にして、家の都合で決まった女より、と切り捨てた。あまりにも明確で、あまりにも冷たい。政治的には最悪だ。人間関係としても相当ひどい。だが、赫臣の声には迷いがなかった。


 深雪乃は、彼の横顔を見上げた。


 頬が熱い。


 胸がうるさい。


 喜ぶべきなのか、怒るべきなのか、困るべきなのか、分からない。すべて同時に来ている。人の感情はどうしてこう整頓されていないのか。箪笥の中身を全部ひっくり返されたようで腹立たしい。


 白絹は、しばらく赫臣を見ていた。


 やがて、ふ、と笑う。


「まあ」


 声は柔らかい。


 しかし瞳の奥は笑っていない。


「そこまで、はっきりおっしゃるのね」


「曖昧にした覚えはねえ」


「存じておりますわ。赫臣様は昔から、欲しいものにだけは真っ直ぐでいらっしゃる」


「深雪は物じゃねえ」


「では、何ですの?」


 白絹の視線が、深雪乃へ滑る。


 赫臣は即答した。


「俺の女だ」


 深雪乃は、手の中の風呂敷を落としそうになった。


「赫臣様」


 今度は名前で呼んでしまった。


 呼んでから気づく。


 赫臣の口元が、わずかに上がった。


「今、名前で呼んだな」


「そこを拾う場面ではありません」


「俺には大事だ」


「今すぐ捨ててください」


「嫌だ。一生持つ」


「重いです」


「お前なら軽い」


「そういう意味ではございません」


 深雪乃が小声で言い返す横で、白絹は二人を見ていた。


 琥珀色の瞳に、何かが揺れる。


 怒りだけではない。嫉妬だけでもない。興味、警戒、計算、そしてほんの少しの傷。形式上の許嫁といえど、白絹にも立場がある。赫臣にここまで公然と拒まれたことは、蘆野火家の面子にも関わるはずだ。


 それでも白絹は、声を荒げなかった。


「深雪乃様」


 彼女は、初めて深雪乃の名を呼んだ。


 様をつけて。


 深雪乃は背筋を伸ばす。


「はい」


「赫臣様のそばは、温かいでしょう」


 問いの形をした言葉だった。


 深雪乃はすぐには答えられなかった。


 白絹は微笑む。


「けれど、鬼の火は近すぎると肌を焼きますわ。あなたは危うい。ご自身が何なのかも、まだご存じない。赫臣様の熱に包まれているうちはよくても、熱は影を濃くするものです」


「脅しですか」


 赫臣の声が低くなる。


 白絹は彼を見ない。


 深雪乃だけを見ている。


「忠告ですわ」


 深雪乃は、胸の奥が冷えるのを感じた。


 自分が何なのか。


 その言葉が刺さった。


 人間臭いと蔑まれてきた。先祖返りの家にいながら妖の相がないと言われた。死なない身体だけが残った。母の遺品から退魔の光が漏れ、母の髪飾りの欠片は死体のそばに落ちていた。自分が何なのか、深雪乃自身が一番知らない。


 白絹は、それを見抜いたのか。


 玉藻前の先祖返り。


 幻術、魅了、言霊に長けた家の娘。


 彼女の言葉は、ただの嫌味ではない。耳に入ると、心の柔らかい場所を探して沈む。深雪乃は風呂敷を抱きしめた。


 赫臣が、彼女の前へ半歩出た。


「白絹。深雪に言葉を掛けるな」


「守るのですか」


「当然だろ」


「ずいぶん大事になさるのね」


「言ったろ。惚れてる」


 白絹の瞳が、ほんの少し細くなる。


「蘆野火家との縁談は」


「家同士の都合だ。俺の心は一度も出してねえ」


「先祖返り会で、それが通ると思って?」


「通す」


「力で?」


「必要ならな」


「鬼らしいこと」


「褒め言葉として受け取る」


 赫臣と白絹の間で、空気が熱く、冷たく張り詰めた。


 周囲の者たちは誰も口を挟めない。兼近でさえ黙っている。夜岐は白絹を見ている。その表情には、わずかな期待があった。白絹が深雪乃を退けてくれるのではないかという期待。祢々は表情を伏せているが、耳だけはこちらへ向いている。


 深雪乃は、自分の手を見た。


 赫臣に握られている。


 熱い。


 その手の熱がなければ、白絹の言葉はもっと深く沈んでいたかもしれない。危うい子。自分が何なのか知らない。鬼の火は影を濃くする。そのどれもが、深雪乃の中の不安を正確に突いていた。


 赫臣は、それを遮るように立っている。


 白絹から守るように。


 同時に、白絹へ見せつけるように。


 深雪乃は動揺したまま、彼の横顔を見つめた。


 白絹は、ふっと視線を外した。


「喜周様の件については、私も確認させていただきますわ。蘆野火家として、先祖返り会へ報告する責務がございますもの」


「勝手にしろ。ただし現場をいじるな」


「ええ。篝火家の参謀殿ほど無粋ではございませんわ」


 遠くで砂笙が静かに顔を上げた。


「巻き込まれた気がいたします」


「気のせいじゃねえな」


 赫臣が言った。


 砂笙は小さくため息を吐く。


「承知いたしました。どうせ私の胃は本日も消耗品でございます」


 白絹は砂笙へ微笑み、蔵の方へ歩いていった。


 その後ろ姿まで美しい。白地の着物の裾が、湿った廊下の光を受けて淡く揺れる。金糸の刺繍が、狐火のようにちらちらと見えた。彼女が通ると、使用人たちは自然と頭を下げる。夜岐はその背をじっと見ていた。


 深雪乃は、赫臣の手がまだ自分を握っていることに気づいた。


「……離してください」


「嫌だ」


「今の場面で、なぜ」


「動揺してる」


「しておりません」


「してる顔だ」


「顔で何でも判断しないでください」


「顔以外も見てる」


「どこを見ているのですか」


「手。冷たい。あと、指に力が入ってる。風呂敷を抱きすぎてる。唇を噛みそうになってる」


 深雪乃は黙った。


 全部当たっているのが腹立たしい。


「赫臣様」


「名前」


「……篝火様」


「戻すな」


「話が進みません」


「なら赫臣で」


「あなたの形式上の許嫁の前で、ずいぶん大きなことをおっしゃいましたね」


 赫臣は、少しも悪びれなかった。


「事実だ」


「事実なら何でも言ってよいわけではありません」


「俺は言う」


「でしょうね」


「嫌だったか」


 また、その問いだった。


 深雪乃は、唇を引き結ぶ。


 白絹の前で、赫臣が自分を選ぶと言った。家の都合で決まった女より、惚れた女が大事だと。俺の女だと。恥ずかしい。困る。政治的にも騒がしい。胸の奥が、いまだに落ち着かない。


 嫌ではなかった。


 嫌ではなかったことが、また厄介だった。


「……公衆の面前で、ああいうことをおっしゃる必要は」


「ある」


「ありません」


「ある。白絹には特にな」


 赫臣の声が少し冷えた。


 深雪乃は彼を見上げる。


 赫臣は白絹の去った方を見ていた。


「蘆野火は、言葉で隙間に入る。曖昧にすると、そこへ根を張る。俺と白絹の間に何かあるように見せられると、お前が傷つく」


 深雪乃の胸が、小さく跳ねた。


「私は」


「傷つかねえって言うな」


 赫臣が先に言った。


「傷つく顔してた」


 深雪乃は言葉を失った。


 赫臣は、見ていた。


 白絹が許嫁と言った瞬間、深雪乃が動揺したことを。自分に価値などないと思いかけたことも、比べてしまったことも、きっと完全ではないにせよ、読み取っていた。


「だから言った。あいつには何もねえ。家の都合で決められただけだ。俺が欲しいのは深雪だけだ」


「……言い方が」


「足りなかったか」


「違います」


「じゃあ、今夜もっと言う」


「それも違います」


 赫臣は少し笑った。


 それから、深雪乃の手を持ち上げ、手の甲へ口づけようとした。深雪乃は慌てて引こうとする。


「人前です」


「もう散々見られてる」


「増やさないでください」


「じゃあ、あとで」


「予約しないでください」


 赫臣は残念そうにしながらも、手の甲へは触れなかった。


 ただ、指を絡めたまま、深雪乃の手を離さない。


 その後、白絹は北蔵の現場を見た。


 砂笙の説明を聞き、封印札の二重貼り、外から退魔糸で掛け金を落とした仕掛け、喜周の遺体についた切創、母の髪飾りの欠片について確認した。白絹は一つひとつを丁寧に見たが、驚きは見せなかった。


 彼女は髪飾りの欠片の包みを見た時だけ、わずかに表情を変えた。


「宵待の印」


 そう呟いた。


 深雪乃は聞き逃さなかった。


「宵待を、ご存じなのですか」


 白絹は振り返る。


 琥珀色の瞳が、また深雪乃を捉える。


「名だけは」


「母は、ただの人間の妾と聞かされております」


「鵺喰家がそう言ったのなら、そういう扱いだったのでしょう」


「扱い」


「真実とは申し上げておりませんわ」


 深雪乃の背筋に、冷たいものが走った。


 白絹はそれ以上言わなかった。


 赫臣の気配が鋭くなる。砂笙も目を細める。夜岐は白絹の言葉を聞いていたはずなのに、表情を変えない。祢々はさらに深く頭を伏せた。


 宵待。


 母の家。


 弓の印。


 破魔矢。


 退魔糸。


 髪飾り。


 深雪乃の知らない母の輪郭が、血の匂いの中から少しずつ浮かび上がっている。


 白絹はその後、先祖返り会へは状況を正確に伝えると言い、鵺喰家の客間へ下がった。帰らないらしい。蘆野火家として、事件が片づくまで滞在するという。兼近はそれを受け入れざるを得なかった。篝火家、蘆野火家、そして鵺喰家。三つの家の思惑が、一つの屋敷に閉じ込められた。


 日が暮れる頃、蓮台累が到着した。


 帝都警視庁の怪異事件担当。彼は蔵と遺体を確認し、砂笙の説明を聞き、赫臣とは初対面から険悪な顔をした。赫臣も負けずに面倒そうな顔をした。二人を同じ空間に置くと、会話のたびに空気が削れる。深雪乃は遠くから見ているだけで疲れた。


 だが、蓮台が外部の目として入ったことで、鵺喰家だけで事件を処理することはできなくなった。


 喜周の遺体は検分のため、蔵から正式に運び出された。北蔵は封印し直され、篝火家と警視庁の両方の札が貼られた。母の遺品の返還は、一時的に止められた。現場に関わるものとして、蓮台と砂笙が確認するまでは動かせないという。


 深雪乃は、それを聞いても強く反論できなかった。


 母の遺品は取り戻したい。


 だが、血にまみれた事件に使われた可能性がある。無理に持ち出せば、真実まで遠ざかるかもしれない。それが分かるから、胸の奥だけが痛んだ。


 夜、深雪乃は鵺喰家の客間にいた。


 本来なら、戻された小部屋に押し込まれていたかもしれない。だが赫臣が許さなかった。篝火家の従者が客間を確認し、寝具も茶も水もすべて改めた。祢々が用意しようとしたものは、砂笙が一度すべて下げさせた。赫臣は「鵺喰の出すものをそのまま食わせるか」と言い、兼近の顔をまた強張らせた。


 客間には行灯が灯っている。


 外は暗い。雨は降っていないが、湿った風が障子をかすかに揺らしていた。遠くで使用人たちの足音がする。屋敷の中はまだ落ち着かない。殺人が起き、篝火家と蘆野火家と警視庁が入り込んだ鵺喰家は、表面上の静けさだけを保っていた。


 深雪乃は布団の端に座っていた。


 眠れそうにない。


 疲れている。身体は重い。昨日の傷も、今日の緊張も、母の髪飾りも、白絹の言葉も、全部が頭の中で絡まっている。


 危うい子。


 自分が何なのかも、まだ知らない。


 鬼の火は影を濃くする。


 その言葉が、耳の奥で何度も揺れる。


 赫臣の声もまた、消えない。


 家の都合で決まった女より、俺が惚れた女の方が大事だ。


 深雪は俺の女だ。


 お前しかいない。


 まだ言われていない最後の言葉まで、言われる前から聞こえるような気がした。


 障子の外で足音が止まった。


「深雪」


 赫臣の声だった。


 深雪乃は、目を閉じた。


「入らないでください」


 障子が開いた。


「返事を待つという文化をご存じですか」


「知ってる」


「では、なぜ」


「会いたかった」


「毎度それで許されると思わないでください」


「許してる顔だ」


「しておりません」


 赫臣は部屋に入り、障子を閉めた。


 夜の彼は、昼よりも輪郭が濃い。金髪は行灯の光を受けて淡く燃え、蒼い瞳は暗がりの中で深く見えた。片袖を抜いた和装のまま、耳飾りも首飾りも外していない。煙管の香りが、客間の古い畳の匂いに混じる。


 深雪乃は布団の上で身を正した。


「夜に女性の部屋へ入ることを、もう少し重くお考えください」


「重く考えてる」


「どの辺りをですか」


「一晩中いたいところを、入るだけで我慢してる」


「我慢の方向性が間違っております」


 赫臣は笑い、深雪乃の前に膝をついた。


 彼はすぐに触れなかった。


 ただ、近くに座る。


 その距離が、すでに近い。近いが、今日の深雪乃はすぐに下がれなかった。白絹の言葉がまだ胸に残っていた。許嫁という言葉も。赫臣の隣にいた白絹の姿も。美しく、危うく、格の違う女。


 深雪乃は、自分の手を見た。


「白絹様は」


 口にした瞬間、赫臣の表情が変わった。


「様いらねえ」


「蘆野火家の令嬢でしょう」


「深雪が丁寧に呼ぶ必要はねえ」


「では、白絹様は」


「聞いてねえな」


「今、あなたの言うことを聞く気分ではありません」


「珍しく強いな」


「あなたが騒がしいせいです」


 赫臣は少し笑ったが、すぐに真顔に戻った。


「白絹のことが気になるか」


 深雪乃は答えなかった。


 赫臣は、深雪乃の前へ手を伸ばした。


 今度は手の甲ではない。


 彼は風呂敷を抱く深雪乃の指にそっと触れ、無理に開かず、ただ上から包んだ。


「形式上だ」


「存じております」


「家の都合で、ずっと前に決まった。篝火と蘆野火の均衡を保つための縁談だ。俺が望んだことじゃねえ」


「白絹様は、美しい方ですね」


「そうだな」


 深雪乃の胸が、ちくりとした。


 赫臣はすぐに続ける。


「でも、俺は欲しくねえ」


 あまりにもはっきり言う。


 深雪乃は顔を上げた。


 赫臣の蒼い瞳が、真っ直ぐこちらを見ていた。


「俺が欲しいのは深雪だけだ」


 胸が、また乱れる。


「欲しいという言い方は」


「じゃあ、大事にしたい」


「言い換えればよいというものでも」


「愛したい」


 深雪乃の息が止まった。


 赫臣は近づく。


 けれど、まだ触れない。


「お前しかいない」


 低い声だった。


「深雪。俺には、お前しかいない」


「……昨日会ったばかりのようなものです」


「時間じゃねえ」


「時間です」


「俺には違う」


「あなたの中だけで世の理を変えないでください」


「変える。お前のためなら、いくらでも」


 深雪乃は、言葉を失った。


 赫臣は、深雪乃の手を取った。


 風呂敷を押しつぶさないように、そっと片手だけを外させる。指先は冷えていた。赫臣の掌は熱い。彼はその手を自分の両手で包み、手の甲へ唇を寄せた。


 ちゅ、と小さな音がした。


 深雪乃の肩が跳ねる。


「音を立てないでください」


「可愛い反応するから」


「反応しておりません」


「した」


「しておりません」


「じゃあ、もう一回確かめる」


「なぜそうなるのですか」


 赫臣は手の甲へもう一度口づけた。


 今度は少し長い。


 唇が触れる音は控えめだったが、静かな客間ではやけに大きく聞こえた。ちゅ、と熱が皮膚に残る。深雪乃は指を引こうとしたが、赫臣は強く掴まない。ただ、逃げるかどうかを見ている。逃げられる。なのに、逃げなかった。


 赫臣の目が甘くなる。


「深雪」


「……何ですか」


「お前しかいない」


「何度も」


「何度でも言う」


「言われても、返答に困ります」


「困っていい」


「よくありません」


「困って、俺のこと考えろ」


「大変迷惑な要求です」


「俺もお前のことでずっと困ってる」


「自業自得では」


「そうだな」


 赫臣は笑った。


 それから、深雪乃の手を離さないまま、距離を詰めた。


 膝と膝が近づく。布団の上で、深雪乃の身体が少し後ろへ傾く。赫臣の手が背に回った。まだ抱き寄せるだけ。傷のある脇腹を避け、肩に負担をかけない角度を選んでいる。


 白絹の香りが、まだ鼻の奥に残っている気がした。


 それを上書きするように、赫臣の煙管の香りが近づく。


「白絹のことを考えるな」


 赫臣が低く言った。


「無茶をおっしゃいますね」


「俺を考えろ」


「ますます無茶です」


「俺がいる」


「それも何度目ですか」


「足りるまで」


「足りるという概念があるのですか」


「ないかもな」


 深雪乃が言い返す前に、赫臣の顔が近づいた。


「口づける」


「また申告するのですか」


「逃げるか」


 深雪乃は答えなかった。


 逃げない。


 言葉にはしなかったが、身体は動かなかった。


 赫臣の唇が触れた。


 最初は浅く。


 ちゅ、と小さな音がして、唇が離れる。深雪乃が息を吸おうとした瞬間、もう一度。今度は少し深い。唇が重なり、熱が広がる。赫臣の手が背を支え、もう片方の手が頬に触れる。


 深雪乃は目を閉じた。


 閉じてしまった。


 それに気づいて、胸がさらに熱くなる。


 赫臣は、そこを逃さなかった。


 口づけが深くなる。


「ちゅ…ふぁ…ちゅううっ…はぁ…」  


 軽い音では済まなくなる。唇が重なり、離れ、また重なる。濡れた小さな音が、行灯の灯る客間に落ちる。深雪乃の息が乱れる。ふ、と吐いた息が赫臣の口元に触れ、彼の低い吐息が返ってくる。


「ん……ふぅ…クチュ…ぬちゅ…ちゅく…ちゅる…ちゅぷ…♡」


 声にならない音が、深雪乃の喉から漏れた。


 自分で驚いた。


 赫臣の腕が強くなる。


「可愛い」


 唇のすぐ近くで囁かれる。


「言わないで」


「深雪」


「言わないでください」


「お前しかいない」


 また言う。


 その言葉ごと、唇を塞がれる。


 深い。


 長い。


 赫臣の口づけは、昼の封印蔵の前のものよりもさらに近かった。周囲に誰もいないからか、彼は遠慮を薄くしている。けれど乱暴ではない。奪うようで、確かめるようで、深雪乃の反応を一つずつ見ている。


 唇がぬれる。


 息が乱れる。


 ちゅ、と短い音。続いて、唇が深く重なる湿った音。深雪乃は赫臣の胸元を押そうとして、結局、彼の着物を掴んだ。指が布を握る。昼間の袖とは違う、胸元の布。赫臣の体温が近い。


「赫臣、さま」


 息の間に、名前がこぼれた。


 赫臣の動きが、一瞬止まる。


 彼の蒼い瞳が、すぐ近くで開いた。


「もう一回」


「今のは」


「もう一回呼べ」


「命令しないでください」


「お願いだ」


「お願いの顔では」


 最後まで言えなかった。


 赫臣がまた口づける。


 今度は、言葉を完全に奪うような深さだった。深雪乃の背が布団へ近づく。赫臣の腕が支えているから、倒れはしない。けれど、ほとんど抱き込まれている。行灯の光が揺れる。障子の向こうの夜風が紙を撫でる。屋敷の遠くで誰かの足音がしたが、すぐに消えた。


 唇が離れる。


 息が漏れる。


「は……」


 深雪乃は慌てて口元を閉じようとした。


 赫臣が頬を撫でる。


「隠すな」


「無理です」


「可愛い顔してる」


「黙ってください」


「無理だ」


「あなたは本当に」


 言葉が途切れる。


「んんっ…も、やぁ…!」


 また唇が重なる。


「…んンっ…あン…」


「…ぬちゅっ…ちゅるる…ぬちゅ…んちゅぅっ…んくっ…」


 何度目か分からない。


 短く、深く、長く。浅い口づけで油断させられ、次に深く奪われる。呼吸が整わない。赫臣の吐息が近い。煙管の香りと、彼自身の熱が混じる。深雪乃の指は、もう彼の着物を離せなくなっていた。


 白絹の言葉が、遠くなる。


 許嫁という響きも。


 危うい子という声も。


 赫臣の唇が、その一つひとつを塗り替えていく。


 強引で、甘くて、腹立たしいほど確かに。


「お前しかいない」


 赫臣が囁く。


 口づけの合間に、何度も。


「深雪。お前だけだ」


 ちゅ、と唇が触れる。


「俺は、お前しかいらねえ」


 深く塞がれる。


「白絹じゃねえ」


 息が乱れる。


「家の都合でもねえ」


 また、長く。


「俺が欲しいのは、お前だけだ」


 深雪乃の胸の奥が、熱でいっぱいになる。


 苦しい。


 息が足りない。


 言葉も足りない。


 それなのに、足りないものが何なのか分からなくなる。赫臣の言葉を否定したい。早すぎると言いたい。形式上とはいえ許嫁がいるくせにと責めたい。自分にそんな価値はないと、いつものように冷たく返したい。


 けれど、唇を塞がれると、何も言えない。


 赫臣は、深雪乃が何か言いかけるたびに口づける。


 黙らせるように。


 逃がさないように。


 それでも、嫌ではない。


 嫌ではない自分が、いちばん怖い。


 深雪乃は、何とか顔を逸らした。


 赫臣の唇が、頬の端に触れる。ちゅ、と小さな音がした。次に耳の近くで、彼の吐息が落ちる。深雪乃の肩が震えた。


「はっ...ッん…赫、臣様…」


 今度は、自分で呼んだ。


 赫臣の腕が止まる。


「やっと呼んだ」


「今のは、抗議です」


「名前で抗議した」


「細かいところを拾わないでください」


「拾う。一生拾う」


「また重いことを」


「お前の言葉なら重くていい」


 深雪乃は、顔を熱くしたまま睨んだ。


「……何度目ですか」


 声は掠れていた。


「口づけです。もう、何度目ですか」


 赫臣は、少し考えるふりをした。


「足りねえくらい」


「数を聞いております」


「数える余裕があったのか」


「ありません」


 言ってから、しまったと思った。


 赫臣が笑う。


「じゃあ、俺の勝ちだ」


「勝ち負けではありません」


「俺の女が、俺のキスで数を忘れた」


「その言い方を今すぐ改めてください」


「可愛いな」


「可愛いで済ませないでください」


 赫臣は、深雪乃の額に唇を落とした。


 今度は静かな口づけだった。


 唇ではないのに、深雪乃は目を閉じてしまった。髪にも、続けて口づけられる。ちゅ、という音はほとんどしない。ただ、髪に熱が落ちる。額に残る熱。唇に残る熱。手の甲に残る熱。全部が重なって、身体のどこからどこまでが自分なのか分からなくなる。


「深雪」


「……はい」


「お前しかいない」


「もう聞きました」


「何度でも聞け」


「耳が疲れます」


「唇で黙らせるぞ」


「もう十分黙らされました」


「まだ喋ってる」


「喋らせてください」


「少しだけな」


「あなたに許可される筋合いは」


 唇が重なった。


 また。


 深雪乃は、もう驚くより先に目を閉じていた。


 浅く触れ、深く沈む。舌を入れるような露骨さはない。それでも、息を奪われるほど深い。唇の角度が変わるたび、胸の奥が震える。赫臣の低い吐息が、深雪乃の呼吸に混じる。彼女の指が、彼の着物をぎゅっと握った。


 赫臣の喉が、小さく鳴る。


 笑いではない。


 耐えるような、甘く低い息だった。


 その音に、深雪乃の背筋がぞくりとした。


 白絹が言った。


 鬼の火は、近すぎると肌を焼く。


 本当にそうかもしれない。


 赫臣の熱は、深雪乃の中の冷えた場所を温めるだけでなく、形のない不安まで赤く照らしてしまう。自分が何なのか。母は何者だったのか。なぜ死なないのか。赫臣の隣にいていいのか。許嫁を前にして、惚れた女だと言われてよかったのか。


 すべてが熱の中で溶けていく。


 けれど、完全には消えない。


 だから深雪乃は、口づけが離れた瞬間、息を乱しながら言った。


「……白絹様は」


 赫臣の顔が近いまま止まる。


 深雪乃は続けた。


「あなたを、恨むのではありませんか」


「恨ませとけ」


「軽く言わないでください」


「軽くねえよ」


「では、なぜ」


「俺が曖昧にすれば、白絹にもお前にも失礼だ。あいつに望みを持たせる気はねえ。お前に余計な不安を持たせる気もねえ」


 赫臣の指が、深雪乃の頬を撫でる。


「だから言う。俺は白絹を選ばねえ。家の都合も選ばねえ。お前を選ぶ」


 深雪乃の喉が詰まる。


「私は」


「うん」


「まだ、自分が何なのかも知りません」


「知ればいい」


「母の遺品も、父の遺言も、喜周様の死も、何も分かっていません」


「一緒に暴く」


「私は、あなたに何も返せません」


「いらねえ」


「なぜ」


「お前がここにいればいい」


 また、言葉が出なくなる。


 赫臣は、深雪乃の手を自分の胸元へ持っていった。着物越しに、彼の鼓動が伝わる。力強い。速くはない。けれど、確かにそこにある。


「俺が勝手に惚れた。俺が勝手に欲しがってる。だから、深雪は慣れればいい」


「慣れるものですか」


「慣れさせる」


「強引です」


「鬼だからな」


「便利な言葉ですね」


「気に入ってる」


 深雪乃は、ふと笑いそうになった。


 笑ったわけではない。


 だが、唇の端が少しだけ緩んだ。


 赫臣がそれを見逃すはずもなかった。


「今、笑ったな」


「笑っておりません」


「笑った」


「気のせいです」


「可愛い」


「もう聞き飽きました」


「じゃあ、綺麗だ」


「そういう意味では」


「愛してる」


 深雪乃は、完全に言葉を失った。


 赫臣の目は真剣だった。


 簡単に言ったように聞こえた。けれど、軽くない。彼はきっと、こういう言葉を惜しまない。惜しまないから軽いのではなく、思った瞬間に言わずにいられないのだ。鬼の血が、欲しいものへ正直すぎる。


 深雪乃の胸が、苦しくなる。


「……早すぎます」


「知ってる」


「知っていて言うのですか」


「言う」


「困ります」


「困れ」


「あなたは」


 また口づけられた。


 困ると言った口を、黙らせるように。


 今度は長くなかった。


 短く、ちゅ、と音を残して離れる。


 その短さが逆にずるい。


 深雪乃は、思わず赫臣の着物を引いた。


 自分で。


 引いてから、固まった。


 赫臣の目が、ゆっくり甘くなる。


「深雪」


「今のは」


「今のは?」


「……布が」


「布が?」


「乱れていましたので」


「俺を引いたんじゃなくて?」


「布を正そうと」


「こっちへ?」


「……」


 赫臣は笑った。


 その笑顔があまりにも嬉しそうで、深雪乃は顔を逸らした。


「本当に、顔がいいから許されると思わないでください」


「許してる顔だ」


「許しておりません」


「じゃあ、もう一回」


「なぜそうなるのですか」


「許されたいから」


「順序がおかしいです」


「俺は鬼だからな」


「鬼のせいにしすぎです」


 それでも、赫臣が近づくと、深雪乃は逃げなかった。


 今度の口づけは、先ほどよりもゆっくりだった。


 ちゅ、と触れ、離れ、また触れる。


 深くなるまでに時間をかける。深雪乃が息を吸う隙を残し、けれど離れきらない。彼女の呼吸を待ちながら、何度も唇を重ねる。深雪乃の吐息が、少しずつ甘く崩れていく。自分でも分かる。分かるから恥ずかしい。恥ずかしいのに、赫臣の着物を掴む手は離れない。


「ん……」


 小さく漏れた声に、赫臣の腕が彼女をさらに近く抱いた。


 深雪乃の背中に、布団の柔らかさが触れる。倒されたわけではない。赫臣が支えながら、少しだけ座る位置を変えただけだ。だが、距離はさらに近い。深雪乃は抗議しようとした。赫臣の唇が、その言葉をまた奪う。


 長い。


 深い。


 けれど、苦しいだけではない。


 赫臣の口づけは、白絹の言葉を一つずつ消していくようだった。許嫁。家の都合。危うい子。影が濃くなる。そうした言葉の上に、赫臣の「お前しかいない」が何度も重なる。


 口づけの合間に、彼は本当に何度も言った。


「深雪」


「……はい」


「お前しかいない」


「もう」


 ちゅ、と塞がれる。


「深雪だけだ」


「言わなくても」


 また、深く。


「俺だけ見てろ」


「無理を」


 唇が重なる。


「白絹を見るな」


「見ておりません」


「俺を見ろ」


 深雪乃は、息を乱しながら赫臣を見た。


 蒼い瞳が近い。


 その目に、自分が映っている。


 白藤色の着物に、赫臣の羽織。赤くなった頬。濡れたように熱を持つ唇。自分ではない誰かのように見えた。だが、赫臣はその姿を見て、ひどく大事なものを見るような顔をしていた。


 胸が、また苦しくなる。


「赫臣様」


「うん」


「……これ以上は、心臓に悪いです」


 赫臣は一瞬だけ黙った。


 それから、ゆっくり笑う。


「俺のせいで?」


「ほかに誰がいるのですか」


「嬉しいな」


「喜ばないでください」


「無理だ」


 赫臣は、深雪乃の額に口づけた。


 次に髪。


 それから、手の甲。


 唇ではない場所を選ぶように、少しずつ熱を落としていく。それでも深雪乃の呼吸はすぐには戻らなかった。


「今夜はここまでにしとく」


 赫臣が言った。


 深雪乃は、反射的に彼を見た。


「ここまで、とは」


「本当は、もっとキスしたい」


「言わなくて結構です」


「言っとく」


「なぜ」


「我慢してるって知っとけ」


「知らなくてよい情報です」


「俺が偉い」


「ご自分で言うことではありません」


 赫臣は笑い、深雪乃の乱れた髪を整えた。


 手つきは優しい。


 ずるいほどに。


 深雪乃は、風呂敷を引き寄せた。母の鏡と端切れ、折れた櫛の欠片が中で静かに触れ合う。昼の事件も、母の過去も、白絹の言葉も、何も解決していない。明日になれば、また北蔵へ向かい、蓮台や砂笙の調べを聞き、鵺喰家の親族たちの視線に晒される。


 それでも今、唇には赫臣の熱が残っている。


 白絹の香りではなく、赫臣の煙管の香りが近い。


 赫臣は立ち上がろうとして、深雪乃の手がまだ自分の着物を掴んでいることに気づいた。


 深雪乃も気づいた。


 すぐに離す。


「……布です」


「今度も?」


「布です」


「乱れてた?」


「大変乱れていました」


「深雪が乱した」


「違います」


「そういうことにしといてやる」


「腹立たしいほど余裕ですね」


「内心は余裕ねえよ」


 赫臣の声が、少し低くなった。


 深雪乃は顔を上げる。


 彼は笑っているが、瞳の奥が熱い。


「お前が俺の着物掴んで、名前呼んで、逃げねえ。余裕なんかあるわけねえだろ」


 深雪乃の顔がまた熱くなる。


「……やはり、黙ってください」


「嫌だ」


「でしょうね」


 赫臣は最後に、深雪乃の額へもう一度口づけた。


「寝ろ。眠れなきゃ呼べ」


「呼びません」


「呼べ」


「呼びません」


「じゃあ、俺が来る」


「意味がありません」


「ある。俺が会える」


「本当に、どうしようもない方ですね」


「大好きだぞ、そういうところ」


「寝る前に心臓へ悪いことを言わないでください」


 赫臣は満足げに笑い、障子へ向かった。


 出ていく直前、振り返る。


「深雪」


「今度は何ですか」


「お前しかいない」


 また。


 深雪乃は、唇を引き結んだ。


 怒るべきだ。そう思った。だが、胸が熱くなって、うまく怒れない。


「……何度目ですか」


 かすれた声で言う。


 赫臣は嬉しそうに笑った。


「数えきれなくなるまで言う」


「迷惑です」


「慣れろ」


「慣れません」


「慣れさせる」


「強引です」


「鬼だからな」


 障子が閉まる。


 赫臣の気配が廊下へ遠ざかっても、部屋の中には煙管の香りと、唇に残る熱が残っていた。


 深雪乃は、布団の上で風呂敷を抱いたまま、しばらく動けなかった。


 白絹の言葉はまだ消えていない。


 自分が何なのかも分からない。


 母の遺品も、血の事件も、封印蔵も、すべて闇の中にある。


 けれど、その闇の中で、赫臣の言葉だけが何度も響いていた。


 お前しかいない。


 深雪乃は、熱の残る唇を指先でそっと押さえた。


「……本当に、説明の多い方」


 誰にも聞こえない声で呟いた。


 その声は、ほんの少しだけ震えていた。


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