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人間臭いと蔑まれた不死身の娘は、百鬼夜行の主に愛される  作者: なつめ


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第15話 幻術と口づけ


 夜の鵺喰家は、昼よりも呼吸が浅かった。


 北蔵で喜周の遺体が見つかってから、屋敷全体の音が変わっていた。廊下を歩く足音は以前より軽く、声は低く、障子の開け閉めひとつにも妙な間がある。誰もが何かを隠し、誰もが誰かを疑っている。親族たちは奥座敷に集められ、使用人たちは勝手に母屋を離れることを禁じられていた。


 それでも、屋敷は静かではなかった。


 沈黙の中に、視線の音がする。


 障子の向こうで、誰かが耳を澄ましている気配。廊下の角で、衣擦れが止まる気配。深雪乃が部屋を出れば、すぐに伏せられる目。赫臣が隣にいれば、慌てて下がる背。白絹が通れば、香に誘われるように顔を上げる者たち。


 人の心は、声を出さなくても十分うるさい。


 深雪乃は、用意された控えの間で膝を揃えて座っていた。


 膝の上には母の風呂敷がある。母の鏡、白藤色の着物の端切れ、折れた櫛の欠片。北蔵で見つかった髪飾りの欠片は、まだ砂笙が証拠として預かっている。触れたい気持ちはある。だが、血のそばに落ちていたあの欠片を思い出すたび、胸に懐かしさと寒気が同時に走る。


 母のものだ。


 なのに、怖い。


 その矛盾が、深雪乃を静かに疲れさせていた。


 赫臣はしばらく彼女のそばにいたが、蓮台累が到着したことで、蔵の現場確認へ呼ばれていた。行かないと言い張りかけた赫臣を、砂笙が「旦那様が現場にいなければ、鵺喰家の者がまた好き勝手に喋ります」と説得した。深雪乃も「行ってください」と言った。


 赫臣は不満げだった。


 不満げだったが、最後に深雪乃の手の甲へ口づけてから部屋を出た。


 人が死んだ屋敷で、親族が疑い合っていて、許嫁まで現れた中で、手の甲へ口づけて出ていく男である。場の空気を読む気はないのかと問えば、きっと「深雪の手しか読んでねえ」と返すに決まっている。想像できる時点で腹立たしい。


 深雪乃は、口づけられた手の甲を見つめた。


 まだ、熱が残っている気がした。


「入ってもよろしいかしら」


 障子の向こうから声がした。


 白絹だった。


 深雪乃は一瞬、風呂敷を抱く指に力を込めた。


 廊下に控えている篝火家の従者が制する気配がある。しかし、白絹の香りが先に部屋へ入り込んできた。甘い。白檀でも沈香でもない。濡れた金木犀と狐火の蜜のような香り。吸うと、部屋の角が少し柔らかくなる。


 深雪乃は、背筋を伸ばした。


「どうぞ」


 障子が開いた。


 蘆野火白絹は、昼と変わらぬ美しさで立っていた。白地に金糸の着物、淡い金茶の髪、琥珀色の切れ長の瞳。夜の行灯の光を受けると、彼女の髪はより柔らかく光り、着物の狐火の刺繍は薄く揺れているように見えた。


 彼女は一人だった。


 従者を廊下に残し、室内へ入る。篝火家の従者が何か言おうとしたが、白絹は振り向きもせずに微笑んだ。


「ご心配なく。ほんの少し、お話をするだけですわ」


 その言葉が、心配を増やす種類のものであることを、本人は当然分かっているのだろう。上等な毒を、砂糖菓子の形にして差し出すような声だった。


 深雪乃は座ったまま、軽く頭を下げた。


「蘆野火様。何かご用でしょうか」


「白絹でよろしいと申し上げたはずですわ」


「では、蘆野火様」


 白絹は小さく笑った。


「赫臣様が気に入るはずですわね。折れないのではなく、折れたまま立っている子」


 深雪乃の胸の奥が、わずかに冷えた。


「褒め言葉として受け取ればよろしいのでしょうか」


「受け取り方はお任せします」


「では、預かっておきます」


「返されるかもしれないのね」


「重いものを持つのは、得意ではありませんので」


 白絹は深雪乃の向かいへ座った。


 畳に座る所作は美しかった。袖の流れ、膝の揃え方、髪の揺れ、どれも計算されているのに、自然に見える。深雪乃は自分の小さな手元を見た。篝火家で用意された白藤色の着物は上質だが、着ている自分の身体はまだ痩せていて、どこか着物に着られているように感じる。


 白絹はそれを見逃さなかった。


「比べていますの?」


 深雪乃は顔を上げた。


「何をでしょう」


「私と、あなた」


 白絹は琥珀色の瞳で深雪乃を見た。


「赫臣様は、比べるなとおっしゃったのでしょう?」


 深雪乃は息を止めた。


 そこまで見えるのか。


 言葉ではなく、表情の名残から読み取ったのか。あるいは幻術か。白絹の視線は、皮膚の下に指を入れて心の形を確かめるようだった。


「蘆野火様は」


 深雪乃はゆっくり言った。


「人の心の中を覗くご趣味がおありですか」


「覗くまでもなく、顔に出ていますわ」


「それは赫臣様にも言われました」


「では、二人目ね」


「たいへん不愉快な共通点です」


 白絹は笑った。


 柔らかい笑みだったが、目は笑いきっていない。


「あなたは危うい。昨日も申し上げたでしょう」


「はい」


「だから、確かめたいのです」


「何を」


「赫臣様の隣で、どこまで壊れずに立っていられるか」


 深雪乃の指が、風呂敷を握った。


「私は、試し物ではありません」


「ええ。そう言うと思いました」


 白絹の香りが、少し濃くなった。


 行灯の火が揺れる。


 障子の外の気配が、急に遠ざかった。廊下にいたはずの従者の呼吸も、庭の水音も、屋敷のざわめきも、薄い布を何枚も重ねた向こうに押し込められたように遠い。深雪乃は瞬きをした。


 白絹は、同じ場所に座っている。


 けれど、部屋の輪郭が歪み始めていた。


「蘆野火様」


 深雪乃は立ち上がろうとした。


 身体が動かない。


 畳に膝を縫い止められたように、足が重い。胸に抱いた風呂敷だけが、妙に熱を失っていく。母の鏡の冷たい輪郭が、布越しに指へ触れた。


 白絹の声が、遠くなる。


「少しだけですわ。あなたの中にあるものを、確かめるだけ」


「やめて」


 深雪乃の声は、自分でも驚くほど弱く出た。


 白絹の瞳が細くなる。


「その言葉を、もっと早く言える子ならよかったのに」


 行灯の火が、消えた。


 次の瞬間、深雪乃は母の部屋にいた。


 違う。


 そんなはずはない。


 ここは鵺喰家の控えの間で、白絹が目の前にいて、廊下には従者がいて、赫臣は北蔵にいる。そう分かっているのに、目の前には母の部屋があった。幼い頃、深雪乃が何度も隠れるように通った部屋。白藤色の着物が衣桁に掛かり、沈丁花の香りが薄く漂っている。


 窓の外は雨だった。


 母が、背を向けて立っている。


 宵待澄子。


 長い黒髪を結い、白藤色の着物を着ている。髪には、北蔵で見つかったものと同じ銀細工の髪飾りが揺れていた。深雪乃の胸が痛いほど鳴った。


「母様」


 声が、幼くなった気がした。


 母は振り向かない。


 深雪乃は立ち上がろうとした。今度は身体が動く。だが、足が小さい。視線が低い。手を見ると、幼い子どもの手だった。小さく、細く、まだ水仕事で荒れていない手。


「母様」


 もう一度呼ぶ。


 母が、ゆっくり振り向いた。


 懐かしい顔だった。


 白い肌、やわらかな目元、少し寂しげな唇。深雪乃の記憶の中にある母そのものだった。胸が熱くなり、涙が出そうになる。会いたかった。どれだけ会いたかったか分からない。櫛を折られた時も、雨の裏口へ出された時も、血の匂いの蔵で髪飾りを見た時も。


 ずっと、会いたかった。


 深雪乃は母へ駆け寄ろうとした。


 母の顔が、冷たく変わった。


「深雪」


 声は母のものだった。


 けれど、温度がなかった。


「どうして、まだ生きているの」


 深雪乃の足が止まった。


 胸の奥が、凍る。


「母様」


「私のものを持って、私の名前で呼ばれて、私の血を引いている顔をして」


 母が一歩近づく。


 沈丁花の香りが、急に腐ったように甘くなる。


「あなたなど、産まなければよかった」


 言葉が、深雪乃の胸を貫いた。


 違う。


 違う。


 母はそんなことを言わない。


 頭では分かっている。けれど、声が母の声なのだ。顔が母の顔なのだ。髪飾りが揺れ、白藤色の袖が揺れ、幼い頃に頬を撫でた手が、いま深雪乃を拒むように下がる。


「母様、違います、私は」


「来ないで」


 母の声が鋭くなった。


 深雪乃の喉から、細い音が漏れた。


「いや……」


「あなたは、私を不幸にした子」


 深雪乃の耳の奥で、何かが切れた。


 胸が苦しい。


 息ができない。


 母が背を向ける。深雪乃は追いかけようとした。だが、足元の畳が泥のように沈む。手を伸ばしても届かない。母の背中が遠ざかる。髪飾りだけが、銀色に揺れている。


「母様!」


 叫んだ瞬間、景色が変わった。


 今度は篝火家だった。


 いや、篝火家に似た場所だった。


 廊下には鬼灯の灯りが並び、庭には池がある。だが、灯りの色が暗い。赤すぎる。池の水面は黒く、反射しない。遠くで赫臣の装身具が鳴る音がした。


 深雪乃は自分の姿を見た。


 今の姿に戻っている。


 白藤色の着物、痩せた手、胸に抱いた風呂敷。唇には、昨日の口づけの熱がまだ残っているはずだった。


 廊下の先に、赫臣がいた。


 金髪、蒼い瞳、片袖を抜いた崩し和装。煙管を指に挟み、いつものように立っている。けれど、その隣に白絹がいた。白絹は彼の袖に手を添え、微笑んでいる。


 赫臣は、深雪乃を見た。


 見たのに、目が通り過ぎた。


 深雪乃の胸が、ひゅっと縮む。


「赫臣、様」


 名が震えた。


 赫臣は少しだけ笑った。


 見慣れた笑み。


 深雪乃へ何度も向けた、甘くて危うい笑み。


 けれど、その笑みは白絹へ向けられた。


「飽きた」


 赫臣が言った。


 深雪乃は、息を忘れた。


「え」


「お前、面倒なんだよ」


 赫臣の声は優しい。


 だから余計に痛かった。


「傷は塞がるくせに痛がる。触れば怯える。飯もろくに食えねえ。抱けば震える。毎回、顔色見なきゃならねえ。俺は鬼だぜ。ずっとそんな壊れものみたいな女に付き合ってられると思ったか」


 違う。


 赫臣はそんなことを言わない。


 言わないはずだ。


 だが、深雪乃の中には、その恐れがあった。


 いつか飽きられる。


 いつか面倒だと思われる。


 いつか、白絹のような美しい女が隣にいる方がふさわしいと気づかれる。


 鵺喰家で積まれた言葉が、幻術の中で形を持つ。妾腹。人間臭い。死なないだけ。可愛げがない。気味が悪い。傷ついても戻るなら平気。そんな声が、赫臣の口から流れ出る。


 深雪乃の喉が震えた。


「違う」


 声にならない。


 赫臣が煙管を吸い、ゆっくり煙を吐いた。


「家の都合で決まった女の方が、結局は楽だったな」


 白絹が微笑む。


 深雪乃は、風呂敷を抱きしめた。


「違う……違う、赫臣様は」


「赫臣?」


 幻の赫臣が笑う。


「その名で呼んでいいって、まだ思ってるのか」


 胸が、裂けたように痛んだ。


 深雪乃は一歩下がった。


 足元が抜けた。


 景色が、また変わる。


 暗い。


 今度は蔵だった。


 北蔵ではない。


 幼い頃、何度も閉じ込められた物置の蔵。土壁が湿り、床には埃と藁屑が積もっている。外から閂を落とされ、窓は高く、小さく、手が届かない。隙間から入る光は細く、夜になると完全に消える。


 深雪乃は、その蔵の中にいた。


 膝を抱えて座っている。


 今の身体ではない。幼い身体でもない。十代の頃の自分。雨に濡れた着物、空腹で震える指、唇の端に乾いた血。外から使用人たちの笑い声が聞こえる。


「死なないんだから、朝まで平気でしょう」


「人間臭いくせに、こういう時だけ丈夫なんですもの」


「お嬢様が泣く声、聞いたことないわね」


「泣く心もないのでは?」


 声が、壁の向こうから降ってくる。


 深雪乃は耳を塞いだ。


 塞いでも聞こえる。


 蔵の暗がりが、肺の中へ入ってくる。埃の匂い。古い布の匂い。鼠の気配。冷えた土。空腹。喉の渇き。夜の長さ。身体を丸めても、寒さは足先から骨へ入ってくる。


 扉を叩いた。


 誰も開けない。


 叩いた手が痛くなる。


 爪が割れ、血が滲む。


 血は出てもすぐ止まる。傷は塞がる。だから、外の者たちは安心して閉じ込める。死なないから。死なないから。死なないから。


「出して」


 声が震える。


「出してください」


 誰も来ない。


 蔵の奥で何かが動いた。


 黒い影が、壁から剥がれるように這い出す。妖ではない。もっと古い、もっと湿った恐怖。鵺喰家の蔵そのものが形を持ったようなものだった。影は深雪乃の足元へ近づき、冷たい手で足首を掴む。


 深雪乃は悲鳴を上げた。


「いやああああああっ!」


 喉が裂けるほど叫んだ。


 蔵の中で声が反響する。自分の叫びが何度も返ってくる。出して。いや。助けて。母様。赫臣様。誰か。誰でもいい。いや、誰でもよくない。母様。赫臣様。嘘。捨てないで。見捨てないで。


 影が胸へ這い上がる。


 深雪乃は必死に振り払った。


 指が空を掻く。爪が畳ではなく土を掴む。呼吸が壊れる。涙が頬を伝い、顎から落ちる。叫んでいるのに、声が足りない。胸の中の恐怖があまりにも大きく、喉の穴では外へ出しきれない。


「やだ、やだ、いや、出して、出して、いやああああっ!」


 理性がほどけた。


 品も、毒舌も、静かに耐える顔も、全部剥がれ落ちる。


 深雪乃は泣き崩れた。


 額を土に押しつけ、風呂敷を抱きしめ、子どものように泣いた。息が詰まり、喉が痛み、声が掠れても止まらない。誰も来ない。誰も開けない。母は見捨てた。赫臣は飽きた。鵺喰家は笑っている。蔵は閉じている。


 もう嫌だ。


 もう、痛いのは嫌だ。


 その時、胸の中で何かが熱を持った。


 風呂敷。


 母の鏡。


 深雪乃は泣きながら、風呂敷の中へ手を入れた。指先に、熱い銀の縁が触れる。懐中鏡だった。沈丁花の文様が彫られた、母の鏡。手のひらの中で、鏡は火を抱いたように熱い。


 熱いのに、痛くない。


 深雪乃は鏡を握りしめた。


 鏡面から、白い光が溢れた。


 沈丁花の香りが、蔵の腐った闇を裂いた。


 母の声がした。


 ――深雪。


 今度の声は、冷たくなかった。


 泣き崩れた深雪乃の背に、そっと手を置くような声だった。


 ――見て。


 深雪乃は、泣きながら鏡を見た。


 鏡面には、蔵の闇ではなく、白い花が映っていた。沈丁花。白藤。弓の形。銀の髪飾り。母の指。母の膝。幼い深雪乃の髪を梳く櫛。全部が光の中で重なり、やがて鏡面が強く輝いた。


 ぱりん、と音がした。


 幻の蔵に、ひびが入る。


 壁が割れた。


 外から笑っていた使用人の声が、遠のく。赫臣に飽きられる幻が崩れ、白絹の微笑が煙になって散る。母が背を向ける幻が、白い紙のように破れた。


 深雪乃は、現実の控えの間に戻った。


 畳の上に倒れていた。


 風呂敷を胸に抱え、母の鏡を握りしめている。鏡の銀の縁は熱を持ち、沈丁花の文様が淡く光っていた。鏡面には割れ目はない。だが、表面に白い霜のような光が走り、すぐに消えた。


 深雪乃は、まだ叫んでいた。


「いやっ、いや、やだ、出して、やめて、やめて……!」


 声が壊れている。


 喉が痛い。


 涙が止まらない。


 現実に戻ったことが分かっても、身体はまだ蔵の中にいた。足首を掴まれた感覚が残る。母に拒まれた言葉が残る。赫臣に飽きられた声が残る。胸の奥から恐怖が溢れ、息がうまく吸えない。


 白絹は、少し離れた場所に座っていた。


 琥珀色の瞳が、深雪乃を見ている。


 驚きがあった。


 それから、興味。


 そして、ほんのわずかな後悔のようなもの。


「鏡が、弾いた……」


 白絹が呟いた。


 その瞬間、障子が裂けるように開いた。


 赫臣だった。


 彼が入ってきたというより、部屋の空気を押し破って現れた。金の髪が揺れ、蒼い瞳が底冷えするほど鋭い。耳飾り、指輪、首飾り、腕輪、足首の飾り、そのすべてが一斉に鳴った。


 霊糸が、部屋中へ張られた。


 見えない刃が、白絹の首、腕、袖、髪飾り、そのすべての手前で止まる。白絹は動かなかった。だが、彼女の微笑は消えていた。


 赫臣の妖気が、爆ぜる。


 部屋の畳が沈んだように感じた。行灯の火が青く震える。障子の紙がびりびりと鳴り、廊下で誰かが膝をつく音がした。酒呑童子の先祖返り。百鬼夜行の頭。その本気の威圧が、部屋を圧し潰す。


「白絹」


 赫臣の声は、低かった。


 聞いたことのない声だった。


「何をした」


 白絹は、ゆっくり息を吐いた。


「試しただけですわ」


 霊糸が、さらに近づいた。


 白絹の髪の先が一筋、音もなく切れた。金茶の髪が畳に落ちる。


 赫臣の瞳は冷たい。


「次にその言葉を吐いたら、首を落とす」


 白絹の従者たちが廊下で動こうとした。


 砂笙の声がした。


「動かないでください。旦那様は今、たいへん機嫌が悪い。命が惜しければ、呼吸以外は慎重に」


 こんな時でも言い方が冷静すぎる。実に砂笙らしい。だが深雪乃には、それを思う余裕などなかった。


 彼女は畳の上で震えていた。


 涙が止まらない。


 鏡を握った手が痺れている。


 赫臣が、白絹から視線を切った。


 その瞬間、彼の顔が変わる。


 怒りではない。


 焦り。


 痛み。


 深雪乃の壊れた声を聞いた男の顔だった。


「深雪」


 彼は膝をついた。


 強引に、けれど傷に触れないように、深雪乃を抱き寄せる。逃げる余裕もなかった。深雪乃の身体は、赫臣の腕の中へ引き込まれた。風呂敷と鏡を抱えたまま、彼の胸へ押し当てられる。


 熱い。


 赫臣の身体は熱かった。


 蔵の幻の冷えが、少しずつ遠ざかる。


 それでも、深雪乃は震え続けた。


「いや……いや、置いて、いかないで……母様、赫臣様、やだ、蔵、いや……!」


「深雪。ここだ。戻ってる。俺がいる」


 赫臣の声が耳元に落ちる。


 深雪乃は泣きながら首を振った。


 分かっている。


 分からない。


 現実と幻がまだ混ざっている。赫臣の腕の中にいるのに、蔵の闇が背中に貼りついている。母の冷たい声が、耳の奥でまだ響く。飽きた、と言った幻の赫臣の声も消えない。


 赫臣は深雪乃の背を抱いた。


 布団越しではない。


 羽織越しでもない。


 けれど、痛む場所を避け、強く抱きしめる。深雪乃の震えを、自分の腕の中へ閉じ込めるように。


「俺だけ見ろ」


 低い声だった。


 命令の声だった。


 深雪乃は、涙に濡れた顔を上げた。


 赫臣の蒼い瞳が近い。


 だが、幻の声がまだ耳に残っている。


 飽きた。


 面倒だ。


 壊れものみたいな女に付き合ってられると思ったか。


 深雪乃の喉が詰まる。


「命令口調は嫌いです」


 声は震えていた。


 泣きすぎて、掠れていた。


 それでも、毒は残った。


 赫臣の表情が、一瞬だけ歪む。


 次の瞬間、彼は深く息を吸った。


「じゃあお願いだ」


 声が変わった。


 低い。


 けれど、先ほどより柔らかい。


 命令ではない。


「俺だけ見てくれ」


 深雪乃は、動けなかった。


 涙が頬を伝う。


 鏡を握る手は震えている。


 白絹も、砂笙も、廊下の従者も、鵺喰家の気配も、まだ近くにある。けれど、赫臣の声が、その全部の前に立った。


 俺だけ見てくれ。


 命令ではなく、お願い。


 鬼が、深雪乃に願っている。


 深雪乃は、黙って赫臣の襟を掴んだ。


 片袖を抜いた和装の襟元。指が布を握る。強く、縋るように。白絹の前でも、砂笙の前でも、もう構っていられなかった。掴まなければ、また蔵の闇へ落ちそうだった。


 赫臣の息が、わずかに詰まる。


 それから彼は、深雪乃をさらに強く抱きしめた。


「そうだ。俺を掴め」


 声が、耳元で震えた。


 怒りを抑えているのか、安堵なのか、深雪乃には分からなかった。


「俺だけ見ろ。いや、見てくれ。俺は飽きねえ。置いていかねえ。お前しかいない。何度でも言う。何度でも抱く。何度でも連れ戻す」


 深雪乃は泣いた。


 声を殺せなかった。


「う、あ……っ、赫臣、さま……っ」


 名前が、初めてこぼれた。


 篝火様ではなく。


 赫臣様。


 赫臣の腕が、はっきり強くなった。


「深雪」


 彼は名を呼び、深雪乃の額に口づけた。


 髪にも。


 涙で濡れた頬の近くにも。


 唇ではない。今は、それより先に彼女を現実へ戻すような触れ方だった。熱い。優しい。だが、腕は強引で、逃がさない。深雪乃は襟を掴んだまま、彼の胸元に顔を埋めた。


 煙管の香り。


 金属の匂い。


 赫臣の熱。


 蔵の埃ではない。


 母に拒まれた幻の匂いではない。


 白絹の甘い幻術の香りでもない。


 赫臣の匂いだった。


 深雪乃は、何度も息を吸った。


「……怖かった」


 言葉が、勝手に落ちた。


 赫臣の手が、彼女の背で止まる。


「母様が、私を、産まなければよかったって……赫臣様が、飽きたって……蔵が、また、閉まって」


 言葉にするたび、身体が震えた。


「いやだった……もう、いやで、怖くて、声が、止まらなくて」


「分かった」


 赫臣は低く言った。


「もう言わなくていい」


「でも」


「言いたいなら聞く。苦しいなら止める。どっちでもいい。俺がここにいる」


 深雪乃は、赫臣の襟をさらに掴んだ。


 指が痛い。


 けれど、離せない。


 白絹の声が、静かに落ちた。


「赫臣様」


 部屋の空気が、また冷える。


 赫臣は深雪乃を抱いたまま、白絹を見た。


 その視線だけで、畳が裂けそうだった。


「黙ってろ」


「……やりすぎましたわ」


 白絹の声は、初めて少し低かった。


 赫臣の霊糸が、白絹の喉元へ近づく。


「謝る相手を間違えるな」


 白絹は、深雪乃を見た。


 琥珀色の瞳には、先ほどの試す光だけではないものがあった。驚き。警戒。わずかな悔い。そして、母の鏡が幻術を弾いたことへの強い関心。


「深雪乃さん」


 白絹は静かに頭を下げた。


「あなたを壊すつもりはありませんでした」


 深雪乃は、赫臣の胸元から顔を上げなかった。


 答えられなかった。


 喉が痛い。


 まだ息が震える。


 赫臣の襟を掴む指だけが、返事の代わりに強くなる。


 赫臣が白絹へ言う。


「出ていけ」


「赫臣様」


「出ていけ。次に深雪へ幻術を向けたら、蘆野火家ごと先祖返り会に引きずり出す」


「本気ですのね」


「今の俺が冗談を言う顔に見えるか」


 白絹はしばらく赫臣を見ていた。


 やがて、ゆっくり立ち上がる。


「分かりましたわ。今は下がります」


「今後も近づくな」


「それは約束できません」


 霊糸が、白絹の髪飾りを一つ切った。


 琥珀の玉が畳に落ち、ころりと転がる。


 白絹は、それを拾わなかった。


「……鬼は本当に、容赦がありませんのね」


「狐が人の心を弄ぶよりはましだ」


「そうかもしれませんわ」


 白絹は障子へ向かった。


 出ていく直前、深雪乃を振り返る。


「その鏡、大切になさい。あなたの母君は、あなたを見捨ててはいませんわ」


 深雪乃の肩が、びくりと震えた。


 白絹はそれ以上言わず、部屋を出た。


 障子が閉まる。


 甘い香りが、ゆっくり薄れていく。


 それでも、深雪乃の震えはすぐには止まらなかった。


 赫臣は彼女を抱いたまま、砂笙へ短く言った。


「誰も入れるな」


「承知しました」


 砂笙の声は、いつもより硬かった。


「白絹様の従者も、蘆野火家の者も、鵺喰家の者も、この部屋に近づけません」


「頼む」


「旦那様」


「何だ」


「今は深雪乃様を」


「分かってる」


 砂笙は一礼し、障子の向こうへ下がった。


 部屋には、赫臣と深雪乃だけが残った。


 行灯の火が、静かに揺れている。


 深雪乃はまだ、赫臣の襟を掴んでいた。手の力を抜こうとしても、うまくいかない。鏡を握っていた方の手は熱を帯びている。母の鏡は風呂敷の上に落ち、沈丁花の文様が弱く光っていた。


 赫臣は、深雪乃を膝の上へ抱き上げるように位置を変えた。


 強引だった。


 だが、深雪乃は抵抗しなかった。むしろ、襟を掴んだまま、彼の胸元へ近づく。身体がまだ、現実を探している。


「ここにいる」


 赫臣は繰り返した。


「俺だ。幻じゃねえ。深雪を飽きるような目をした男じゃねえ。見ろ」


 深雪乃は、涙で濡れた顔を上げた。


 赫臣の顔が近い。


 蒼い瞳。


 金の髪。


 耳に並ぶ無数のピアス。


 首飾り。


 煙管の香り。


 息が、少しずつ戻ってくる。


「……赫臣様」


 名前を呼ぶと、彼の表情がわずかに揺れた。


「もう一回」


「え」


「もう一回呼べ」


 こんな時に何を言うのか。


 けれど、赫臣の声が必死だった。


 深雪乃は、喉の痛みを押して小さく呼んだ。


「赫臣様」


 赫臣は、深雪乃を抱きしめた。


「そうだ。俺だ」


「……命令口調は」


「嫌いなんだろ」


「はい」


「覚えた」


「あなたは、覚えないことの方が多いのに」


「深雪の嫌いなことは覚える」


 深雪乃は、また泣きそうになった。


 赫臣は額を寄せた。


「俺だけ見てくれ」


 もう一度、お願いの声で言う。


 深雪乃は、赫臣の襟を掴んだまま頷いた。


 小さく。


 だが、確かに。


 赫臣は、その頷きを見ると、彼女の額へ口づけた。


 長くはない。


 けれど、深く残る口づけだった。


 深雪乃は目を閉じた。閉じると蔵の闇が戻りそうで怖かった。だが、赫臣の腕がある。胸元の音がある。襟を掴む指に、確かな布の感触がある。


 深雪乃は、もう一度息を吸った。


 沈丁花の香りと、煙管の香りが混ざっていた。


 母の鏡は、風呂敷の上でまだほんのりと温かい。


 幻は弾かれた。


 けれど、幻の中で刺された言葉は、すぐには消えない。


 赫臣はそれを知っているように、深雪乃を抱いたまま離さなかった。


「今夜は俺がそばにいる」


「……いつも、勝手ですね」


「勝手でいい。今は離さねえ」


「許可を」


「ください」


 言い直した。


 深雪乃は、目を開けた。


 赫臣が、少し困ったような顔をしていた。


 鬼が。


 百鬼夜行の頭が。


 深雪乃に許可を待っている。


 その顔を見たら、胸の奥の恐怖が、ほんの少しだけ形を変えた。


 深雪乃は、彼の襟を掴む手を緩めなかった。


「……今は、離さないでください」


 赫臣の目が、深く甘くなる。


「分かった」


 短い返事だった。


 彼は深雪乃を抱きしめた。


 命令ではなく、お願いでもなく、深雪乃の言葉を受け取るように。


 鵺喰家の夜は、まだ重い。


 北蔵の血も、母の遺品も、白絹の幻術も、先祖返り会の思惑も、何ひとつ終わっていない。むしろ、深雪乃の中に眠るものは、母の鏡によって初めて外へ光を漏らした。


 けれど今だけは、赫臣の腕の中にいた。


 深雪乃は襟を掴んだまま、震える息を吐いた。


 赫臣はその呼吸に合わせるように、彼女の背をゆっくり撫で続けた。


 母の鏡は、行灯の光を受けて静かに沈丁花の文様を浮かべている。


 その文様は、まるでまだ遠い声を抱えているように、淡く温かかった。


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