第15話 幻術と口づけ
夜の鵺喰家は、昼よりも呼吸が浅かった。
北蔵で喜周の遺体が見つかってから、屋敷全体の音が変わっていた。廊下を歩く足音は以前より軽く、声は低く、障子の開け閉めひとつにも妙な間がある。誰もが何かを隠し、誰もが誰かを疑っている。親族たちは奥座敷に集められ、使用人たちは勝手に母屋を離れることを禁じられていた。
それでも、屋敷は静かではなかった。
沈黙の中に、視線の音がする。
障子の向こうで、誰かが耳を澄ましている気配。廊下の角で、衣擦れが止まる気配。深雪乃が部屋を出れば、すぐに伏せられる目。赫臣が隣にいれば、慌てて下がる背。白絹が通れば、香に誘われるように顔を上げる者たち。
人の心は、声を出さなくても十分うるさい。
深雪乃は、用意された控えの間で膝を揃えて座っていた。
膝の上には母の風呂敷がある。母の鏡、白藤色の着物の端切れ、折れた櫛の欠片。北蔵で見つかった髪飾りの欠片は、まだ砂笙が証拠として預かっている。触れたい気持ちはある。だが、血のそばに落ちていたあの欠片を思い出すたび、胸に懐かしさと寒気が同時に走る。
母のものだ。
なのに、怖い。
その矛盾が、深雪乃を静かに疲れさせていた。
赫臣はしばらく彼女のそばにいたが、蓮台累が到着したことで、蔵の現場確認へ呼ばれていた。行かないと言い張りかけた赫臣を、砂笙が「旦那様が現場にいなければ、鵺喰家の者がまた好き勝手に喋ります」と説得した。深雪乃も「行ってください」と言った。
赫臣は不満げだった。
不満げだったが、最後に深雪乃の手の甲へ口づけてから部屋を出た。
人が死んだ屋敷で、親族が疑い合っていて、許嫁まで現れた中で、手の甲へ口づけて出ていく男である。場の空気を読む気はないのかと問えば、きっと「深雪の手しか読んでねえ」と返すに決まっている。想像できる時点で腹立たしい。
深雪乃は、口づけられた手の甲を見つめた。
まだ、熱が残っている気がした。
「入ってもよろしいかしら」
障子の向こうから声がした。
白絹だった。
深雪乃は一瞬、風呂敷を抱く指に力を込めた。
廊下に控えている篝火家の従者が制する気配がある。しかし、白絹の香りが先に部屋へ入り込んできた。甘い。白檀でも沈香でもない。濡れた金木犀と狐火の蜜のような香り。吸うと、部屋の角が少し柔らかくなる。
深雪乃は、背筋を伸ばした。
「どうぞ」
障子が開いた。
蘆野火白絹は、昼と変わらぬ美しさで立っていた。白地に金糸の着物、淡い金茶の髪、琥珀色の切れ長の瞳。夜の行灯の光を受けると、彼女の髪はより柔らかく光り、着物の狐火の刺繍は薄く揺れているように見えた。
彼女は一人だった。
従者を廊下に残し、室内へ入る。篝火家の従者が何か言おうとしたが、白絹は振り向きもせずに微笑んだ。
「ご心配なく。ほんの少し、お話をするだけですわ」
その言葉が、心配を増やす種類のものであることを、本人は当然分かっているのだろう。上等な毒を、砂糖菓子の形にして差し出すような声だった。
深雪乃は座ったまま、軽く頭を下げた。
「蘆野火様。何かご用でしょうか」
「白絹でよろしいと申し上げたはずですわ」
「では、蘆野火様」
白絹は小さく笑った。
「赫臣様が気に入るはずですわね。折れないのではなく、折れたまま立っている子」
深雪乃の胸の奥が、わずかに冷えた。
「褒め言葉として受け取ればよろしいのでしょうか」
「受け取り方はお任せします」
「では、預かっておきます」
「返されるかもしれないのね」
「重いものを持つのは、得意ではありませんので」
白絹は深雪乃の向かいへ座った。
畳に座る所作は美しかった。袖の流れ、膝の揃え方、髪の揺れ、どれも計算されているのに、自然に見える。深雪乃は自分の小さな手元を見た。篝火家で用意された白藤色の着物は上質だが、着ている自分の身体はまだ痩せていて、どこか着物に着られているように感じる。
白絹はそれを見逃さなかった。
「比べていますの?」
深雪乃は顔を上げた。
「何をでしょう」
「私と、あなた」
白絹は琥珀色の瞳で深雪乃を見た。
「赫臣様は、比べるなとおっしゃったのでしょう?」
深雪乃は息を止めた。
そこまで見えるのか。
言葉ではなく、表情の名残から読み取ったのか。あるいは幻術か。白絹の視線は、皮膚の下に指を入れて心の形を確かめるようだった。
「蘆野火様は」
深雪乃はゆっくり言った。
「人の心の中を覗くご趣味がおありですか」
「覗くまでもなく、顔に出ていますわ」
「それは赫臣様にも言われました」
「では、二人目ね」
「たいへん不愉快な共通点です」
白絹は笑った。
柔らかい笑みだったが、目は笑いきっていない。
「あなたは危うい。昨日も申し上げたでしょう」
「はい」
「だから、確かめたいのです」
「何を」
「赫臣様の隣で、どこまで壊れずに立っていられるか」
深雪乃の指が、風呂敷を握った。
「私は、試し物ではありません」
「ええ。そう言うと思いました」
白絹の香りが、少し濃くなった。
行灯の火が揺れる。
障子の外の気配が、急に遠ざかった。廊下にいたはずの従者の呼吸も、庭の水音も、屋敷のざわめきも、薄い布を何枚も重ねた向こうに押し込められたように遠い。深雪乃は瞬きをした。
白絹は、同じ場所に座っている。
けれど、部屋の輪郭が歪み始めていた。
「蘆野火様」
深雪乃は立ち上がろうとした。
身体が動かない。
畳に膝を縫い止められたように、足が重い。胸に抱いた風呂敷だけが、妙に熱を失っていく。母の鏡の冷たい輪郭が、布越しに指へ触れた。
白絹の声が、遠くなる。
「少しだけですわ。あなたの中にあるものを、確かめるだけ」
「やめて」
深雪乃の声は、自分でも驚くほど弱く出た。
白絹の瞳が細くなる。
「その言葉を、もっと早く言える子ならよかったのに」
行灯の火が、消えた。
次の瞬間、深雪乃は母の部屋にいた。
違う。
そんなはずはない。
ここは鵺喰家の控えの間で、白絹が目の前にいて、廊下には従者がいて、赫臣は北蔵にいる。そう分かっているのに、目の前には母の部屋があった。幼い頃、深雪乃が何度も隠れるように通った部屋。白藤色の着物が衣桁に掛かり、沈丁花の香りが薄く漂っている。
窓の外は雨だった。
母が、背を向けて立っている。
宵待澄子。
長い黒髪を結い、白藤色の着物を着ている。髪には、北蔵で見つかったものと同じ銀細工の髪飾りが揺れていた。深雪乃の胸が痛いほど鳴った。
「母様」
声が、幼くなった気がした。
母は振り向かない。
深雪乃は立ち上がろうとした。今度は身体が動く。だが、足が小さい。視線が低い。手を見ると、幼い子どもの手だった。小さく、細く、まだ水仕事で荒れていない手。
「母様」
もう一度呼ぶ。
母が、ゆっくり振り向いた。
懐かしい顔だった。
白い肌、やわらかな目元、少し寂しげな唇。深雪乃の記憶の中にある母そのものだった。胸が熱くなり、涙が出そうになる。会いたかった。どれだけ会いたかったか分からない。櫛を折られた時も、雨の裏口へ出された時も、血の匂いの蔵で髪飾りを見た時も。
ずっと、会いたかった。
深雪乃は母へ駆け寄ろうとした。
母の顔が、冷たく変わった。
「深雪」
声は母のものだった。
けれど、温度がなかった。
「どうして、まだ生きているの」
深雪乃の足が止まった。
胸の奥が、凍る。
「母様」
「私のものを持って、私の名前で呼ばれて、私の血を引いている顔をして」
母が一歩近づく。
沈丁花の香りが、急に腐ったように甘くなる。
「あなたなど、産まなければよかった」
言葉が、深雪乃の胸を貫いた。
違う。
違う。
母はそんなことを言わない。
頭では分かっている。けれど、声が母の声なのだ。顔が母の顔なのだ。髪飾りが揺れ、白藤色の袖が揺れ、幼い頃に頬を撫でた手が、いま深雪乃を拒むように下がる。
「母様、違います、私は」
「来ないで」
母の声が鋭くなった。
深雪乃の喉から、細い音が漏れた。
「いや……」
「あなたは、私を不幸にした子」
深雪乃の耳の奥で、何かが切れた。
胸が苦しい。
息ができない。
母が背を向ける。深雪乃は追いかけようとした。だが、足元の畳が泥のように沈む。手を伸ばしても届かない。母の背中が遠ざかる。髪飾りだけが、銀色に揺れている。
「母様!」
叫んだ瞬間、景色が変わった。
今度は篝火家だった。
いや、篝火家に似た場所だった。
廊下には鬼灯の灯りが並び、庭には池がある。だが、灯りの色が暗い。赤すぎる。池の水面は黒く、反射しない。遠くで赫臣の装身具が鳴る音がした。
深雪乃は自分の姿を見た。
今の姿に戻っている。
白藤色の着物、痩せた手、胸に抱いた風呂敷。唇には、昨日の口づけの熱がまだ残っているはずだった。
廊下の先に、赫臣がいた。
金髪、蒼い瞳、片袖を抜いた崩し和装。煙管を指に挟み、いつものように立っている。けれど、その隣に白絹がいた。白絹は彼の袖に手を添え、微笑んでいる。
赫臣は、深雪乃を見た。
見たのに、目が通り過ぎた。
深雪乃の胸が、ひゅっと縮む。
「赫臣、様」
名が震えた。
赫臣は少しだけ笑った。
見慣れた笑み。
深雪乃へ何度も向けた、甘くて危うい笑み。
けれど、その笑みは白絹へ向けられた。
「飽きた」
赫臣が言った。
深雪乃は、息を忘れた。
「え」
「お前、面倒なんだよ」
赫臣の声は優しい。
だから余計に痛かった。
「傷は塞がるくせに痛がる。触れば怯える。飯もろくに食えねえ。抱けば震える。毎回、顔色見なきゃならねえ。俺は鬼だぜ。ずっとそんな壊れものみたいな女に付き合ってられると思ったか」
違う。
赫臣はそんなことを言わない。
言わないはずだ。
だが、深雪乃の中には、その恐れがあった。
いつか飽きられる。
いつか面倒だと思われる。
いつか、白絹のような美しい女が隣にいる方がふさわしいと気づかれる。
鵺喰家で積まれた言葉が、幻術の中で形を持つ。妾腹。人間臭い。死なないだけ。可愛げがない。気味が悪い。傷ついても戻るなら平気。そんな声が、赫臣の口から流れ出る。
深雪乃の喉が震えた。
「違う」
声にならない。
赫臣が煙管を吸い、ゆっくり煙を吐いた。
「家の都合で決まった女の方が、結局は楽だったな」
白絹が微笑む。
深雪乃は、風呂敷を抱きしめた。
「違う……違う、赫臣様は」
「赫臣?」
幻の赫臣が笑う。
「その名で呼んでいいって、まだ思ってるのか」
胸が、裂けたように痛んだ。
深雪乃は一歩下がった。
足元が抜けた。
景色が、また変わる。
暗い。
今度は蔵だった。
北蔵ではない。
幼い頃、何度も閉じ込められた物置の蔵。土壁が湿り、床には埃と藁屑が積もっている。外から閂を落とされ、窓は高く、小さく、手が届かない。隙間から入る光は細く、夜になると完全に消える。
深雪乃は、その蔵の中にいた。
膝を抱えて座っている。
今の身体ではない。幼い身体でもない。十代の頃の自分。雨に濡れた着物、空腹で震える指、唇の端に乾いた血。外から使用人たちの笑い声が聞こえる。
「死なないんだから、朝まで平気でしょう」
「人間臭いくせに、こういう時だけ丈夫なんですもの」
「お嬢様が泣く声、聞いたことないわね」
「泣く心もないのでは?」
声が、壁の向こうから降ってくる。
深雪乃は耳を塞いだ。
塞いでも聞こえる。
蔵の暗がりが、肺の中へ入ってくる。埃の匂い。古い布の匂い。鼠の気配。冷えた土。空腹。喉の渇き。夜の長さ。身体を丸めても、寒さは足先から骨へ入ってくる。
扉を叩いた。
誰も開けない。
叩いた手が痛くなる。
爪が割れ、血が滲む。
血は出てもすぐ止まる。傷は塞がる。だから、外の者たちは安心して閉じ込める。死なないから。死なないから。死なないから。
「出して」
声が震える。
「出してください」
誰も来ない。
蔵の奥で何かが動いた。
黒い影が、壁から剥がれるように這い出す。妖ではない。もっと古い、もっと湿った恐怖。鵺喰家の蔵そのものが形を持ったようなものだった。影は深雪乃の足元へ近づき、冷たい手で足首を掴む。
深雪乃は悲鳴を上げた。
「いやああああああっ!」
喉が裂けるほど叫んだ。
蔵の中で声が反響する。自分の叫びが何度も返ってくる。出して。いや。助けて。母様。赫臣様。誰か。誰でもいい。いや、誰でもよくない。母様。赫臣様。嘘。捨てないで。見捨てないで。
影が胸へ這い上がる。
深雪乃は必死に振り払った。
指が空を掻く。爪が畳ではなく土を掴む。呼吸が壊れる。涙が頬を伝い、顎から落ちる。叫んでいるのに、声が足りない。胸の中の恐怖があまりにも大きく、喉の穴では外へ出しきれない。
「やだ、やだ、いや、出して、出して、いやああああっ!」
理性がほどけた。
品も、毒舌も、静かに耐える顔も、全部剥がれ落ちる。
深雪乃は泣き崩れた。
額を土に押しつけ、風呂敷を抱きしめ、子どものように泣いた。息が詰まり、喉が痛み、声が掠れても止まらない。誰も来ない。誰も開けない。母は見捨てた。赫臣は飽きた。鵺喰家は笑っている。蔵は閉じている。
もう嫌だ。
もう、痛いのは嫌だ。
その時、胸の中で何かが熱を持った。
風呂敷。
母の鏡。
深雪乃は泣きながら、風呂敷の中へ手を入れた。指先に、熱い銀の縁が触れる。懐中鏡だった。沈丁花の文様が彫られた、母の鏡。手のひらの中で、鏡は火を抱いたように熱い。
熱いのに、痛くない。
深雪乃は鏡を握りしめた。
鏡面から、白い光が溢れた。
沈丁花の香りが、蔵の腐った闇を裂いた。
母の声がした。
――深雪。
今度の声は、冷たくなかった。
泣き崩れた深雪乃の背に、そっと手を置くような声だった。
――見て。
深雪乃は、泣きながら鏡を見た。
鏡面には、蔵の闇ではなく、白い花が映っていた。沈丁花。白藤。弓の形。銀の髪飾り。母の指。母の膝。幼い深雪乃の髪を梳く櫛。全部が光の中で重なり、やがて鏡面が強く輝いた。
ぱりん、と音がした。
幻の蔵に、ひびが入る。
壁が割れた。
外から笑っていた使用人の声が、遠のく。赫臣に飽きられる幻が崩れ、白絹の微笑が煙になって散る。母が背を向ける幻が、白い紙のように破れた。
深雪乃は、現実の控えの間に戻った。
畳の上に倒れていた。
風呂敷を胸に抱え、母の鏡を握りしめている。鏡の銀の縁は熱を持ち、沈丁花の文様が淡く光っていた。鏡面には割れ目はない。だが、表面に白い霜のような光が走り、すぐに消えた。
深雪乃は、まだ叫んでいた。
「いやっ、いや、やだ、出して、やめて、やめて……!」
声が壊れている。
喉が痛い。
涙が止まらない。
現実に戻ったことが分かっても、身体はまだ蔵の中にいた。足首を掴まれた感覚が残る。母に拒まれた言葉が残る。赫臣に飽きられた声が残る。胸の奥から恐怖が溢れ、息がうまく吸えない。
白絹は、少し離れた場所に座っていた。
琥珀色の瞳が、深雪乃を見ている。
驚きがあった。
それから、興味。
そして、ほんのわずかな後悔のようなもの。
「鏡が、弾いた……」
白絹が呟いた。
その瞬間、障子が裂けるように開いた。
赫臣だった。
彼が入ってきたというより、部屋の空気を押し破って現れた。金の髪が揺れ、蒼い瞳が底冷えするほど鋭い。耳飾り、指輪、首飾り、腕輪、足首の飾り、そのすべてが一斉に鳴った。
霊糸が、部屋中へ張られた。
見えない刃が、白絹の首、腕、袖、髪飾り、そのすべての手前で止まる。白絹は動かなかった。だが、彼女の微笑は消えていた。
赫臣の妖気が、爆ぜる。
部屋の畳が沈んだように感じた。行灯の火が青く震える。障子の紙がびりびりと鳴り、廊下で誰かが膝をつく音がした。酒呑童子の先祖返り。百鬼夜行の頭。その本気の威圧が、部屋を圧し潰す。
「白絹」
赫臣の声は、低かった。
聞いたことのない声だった。
「何をした」
白絹は、ゆっくり息を吐いた。
「試しただけですわ」
霊糸が、さらに近づいた。
白絹の髪の先が一筋、音もなく切れた。金茶の髪が畳に落ちる。
赫臣の瞳は冷たい。
「次にその言葉を吐いたら、首を落とす」
白絹の従者たちが廊下で動こうとした。
砂笙の声がした。
「動かないでください。旦那様は今、たいへん機嫌が悪い。命が惜しければ、呼吸以外は慎重に」
こんな時でも言い方が冷静すぎる。実に砂笙らしい。だが深雪乃には、それを思う余裕などなかった。
彼女は畳の上で震えていた。
涙が止まらない。
鏡を握った手が痺れている。
赫臣が、白絹から視線を切った。
その瞬間、彼の顔が変わる。
怒りではない。
焦り。
痛み。
深雪乃の壊れた声を聞いた男の顔だった。
「深雪」
彼は膝をついた。
強引に、けれど傷に触れないように、深雪乃を抱き寄せる。逃げる余裕もなかった。深雪乃の身体は、赫臣の腕の中へ引き込まれた。風呂敷と鏡を抱えたまま、彼の胸へ押し当てられる。
熱い。
赫臣の身体は熱かった。
蔵の幻の冷えが、少しずつ遠ざかる。
それでも、深雪乃は震え続けた。
「いや……いや、置いて、いかないで……母様、赫臣様、やだ、蔵、いや……!」
「深雪。ここだ。戻ってる。俺がいる」
赫臣の声が耳元に落ちる。
深雪乃は泣きながら首を振った。
分かっている。
分からない。
現実と幻がまだ混ざっている。赫臣の腕の中にいるのに、蔵の闇が背中に貼りついている。母の冷たい声が、耳の奥でまだ響く。飽きた、と言った幻の赫臣の声も消えない。
赫臣は深雪乃の背を抱いた。
布団越しではない。
羽織越しでもない。
けれど、痛む場所を避け、強く抱きしめる。深雪乃の震えを、自分の腕の中へ閉じ込めるように。
「俺だけ見ろ」
低い声だった。
命令の声だった。
深雪乃は、涙に濡れた顔を上げた。
赫臣の蒼い瞳が近い。
だが、幻の声がまだ耳に残っている。
飽きた。
面倒だ。
壊れものみたいな女に付き合ってられると思ったか。
深雪乃の喉が詰まる。
「命令口調は嫌いです」
声は震えていた。
泣きすぎて、掠れていた。
それでも、毒は残った。
赫臣の表情が、一瞬だけ歪む。
次の瞬間、彼は深く息を吸った。
「じゃあお願いだ」
声が変わった。
低い。
けれど、先ほどより柔らかい。
命令ではない。
「俺だけ見てくれ」
深雪乃は、動けなかった。
涙が頬を伝う。
鏡を握る手は震えている。
白絹も、砂笙も、廊下の従者も、鵺喰家の気配も、まだ近くにある。けれど、赫臣の声が、その全部の前に立った。
俺だけ見てくれ。
命令ではなく、お願い。
鬼が、深雪乃に願っている。
深雪乃は、黙って赫臣の襟を掴んだ。
片袖を抜いた和装の襟元。指が布を握る。強く、縋るように。白絹の前でも、砂笙の前でも、もう構っていられなかった。掴まなければ、また蔵の闇へ落ちそうだった。
赫臣の息が、わずかに詰まる。
それから彼は、深雪乃をさらに強く抱きしめた。
「そうだ。俺を掴め」
声が、耳元で震えた。
怒りを抑えているのか、安堵なのか、深雪乃には分からなかった。
「俺だけ見ろ。いや、見てくれ。俺は飽きねえ。置いていかねえ。お前しかいない。何度でも言う。何度でも抱く。何度でも連れ戻す」
深雪乃は泣いた。
声を殺せなかった。
「う、あ……っ、赫臣、さま……っ」
名前が、初めてこぼれた。
篝火様ではなく。
赫臣様。
赫臣の腕が、はっきり強くなった。
「深雪」
彼は名を呼び、深雪乃の額に口づけた。
髪にも。
涙で濡れた頬の近くにも。
唇ではない。今は、それより先に彼女を現実へ戻すような触れ方だった。熱い。優しい。だが、腕は強引で、逃がさない。深雪乃は襟を掴んだまま、彼の胸元に顔を埋めた。
煙管の香り。
金属の匂い。
赫臣の熱。
蔵の埃ではない。
母に拒まれた幻の匂いではない。
白絹の甘い幻術の香りでもない。
赫臣の匂いだった。
深雪乃は、何度も息を吸った。
「……怖かった」
言葉が、勝手に落ちた。
赫臣の手が、彼女の背で止まる。
「母様が、私を、産まなければよかったって……赫臣様が、飽きたって……蔵が、また、閉まって」
言葉にするたび、身体が震えた。
「いやだった……もう、いやで、怖くて、声が、止まらなくて」
「分かった」
赫臣は低く言った。
「もう言わなくていい」
「でも」
「言いたいなら聞く。苦しいなら止める。どっちでもいい。俺がここにいる」
深雪乃は、赫臣の襟をさらに掴んだ。
指が痛い。
けれど、離せない。
白絹の声が、静かに落ちた。
「赫臣様」
部屋の空気が、また冷える。
赫臣は深雪乃を抱いたまま、白絹を見た。
その視線だけで、畳が裂けそうだった。
「黙ってろ」
「……やりすぎましたわ」
白絹の声は、初めて少し低かった。
赫臣の霊糸が、白絹の喉元へ近づく。
「謝る相手を間違えるな」
白絹は、深雪乃を見た。
琥珀色の瞳には、先ほどの試す光だけではないものがあった。驚き。警戒。わずかな悔い。そして、母の鏡が幻術を弾いたことへの強い関心。
「深雪乃さん」
白絹は静かに頭を下げた。
「あなたを壊すつもりはありませんでした」
深雪乃は、赫臣の胸元から顔を上げなかった。
答えられなかった。
喉が痛い。
まだ息が震える。
赫臣の襟を掴む指だけが、返事の代わりに強くなる。
赫臣が白絹へ言う。
「出ていけ」
「赫臣様」
「出ていけ。次に深雪へ幻術を向けたら、蘆野火家ごと先祖返り会に引きずり出す」
「本気ですのね」
「今の俺が冗談を言う顔に見えるか」
白絹はしばらく赫臣を見ていた。
やがて、ゆっくり立ち上がる。
「分かりましたわ。今は下がります」
「今後も近づくな」
「それは約束できません」
霊糸が、白絹の髪飾りを一つ切った。
琥珀の玉が畳に落ち、ころりと転がる。
白絹は、それを拾わなかった。
「……鬼は本当に、容赦がありませんのね」
「狐が人の心を弄ぶよりはましだ」
「そうかもしれませんわ」
白絹は障子へ向かった。
出ていく直前、深雪乃を振り返る。
「その鏡、大切になさい。あなたの母君は、あなたを見捨ててはいませんわ」
深雪乃の肩が、びくりと震えた。
白絹はそれ以上言わず、部屋を出た。
障子が閉まる。
甘い香りが、ゆっくり薄れていく。
それでも、深雪乃の震えはすぐには止まらなかった。
赫臣は彼女を抱いたまま、砂笙へ短く言った。
「誰も入れるな」
「承知しました」
砂笙の声は、いつもより硬かった。
「白絹様の従者も、蘆野火家の者も、鵺喰家の者も、この部屋に近づけません」
「頼む」
「旦那様」
「何だ」
「今は深雪乃様を」
「分かってる」
砂笙は一礼し、障子の向こうへ下がった。
部屋には、赫臣と深雪乃だけが残った。
行灯の火が、静かに揺れている。
深雪乃はまだ、赫臣の襟を掴んでいた。手の力を抜こうとしても、うまくいかない。鏡を握っていた方の手は熱を帯びている。母の鏡は風呂敷の上に落ち、沈丁花の文様が弱く光っていた。
赫臣は、深雪乃を膝の上へ抱き上げるように位置を変えた。
強引だった。
だが、深雪乃は抵抗しなかった。むしろ、襟を掴んだまま、彼の胸元へ近づく。身体がまだ、現実を探している。
「ここにいる」
赫臣は繰り返した。
「俺だ。幻じゃねえ。深雪を飽きるような目をした男じゃねえ。見ろ」
深雪乃は、涙で濡れた顔を上げた。
赫臣の顔が近い。
蒼い瞳。
金の髪。
耳に並ぶ無数のピアス。
首飾り。
煙管の香り。
息が、少しずつ戻ってくる。
「……赫臣様」
名前を呼ぶと、彼の表情がわずかに揺れた。
「もう一回」
「え」
「もう一回呼べ」
こんな時に何を言うのか。
けれど、赫臣の声が必死だった。
深雪乃は、喉の痛みを押して小さく呼んだ。
「赫臣様」
赫臣は、深雪乃を抱きしめた。
「そうだ。俺だ」
「……命令口調は」
「嫌いなんだろ」
「はい」
「覚えた」
「あなたは、覚えないことの方が多いのに」
「深雪の嫌いなことは覚える」
深雪乃は、また泣きそうになった。
赫臣は額を寄せた。
「俺だけ見てくれ」
もう一度、お願いの声で言う。
深雪乃は、赫臣の襟を掴んだまま頷いた。
小さく。
だが、確かに。
赫臣は、その頷きを見ると、彼女の額へ口づけた。
長くはない。
けれど、深く残る口づけだった。
深雪乃は目を閉じた。閉じると蔵の闇が戻りそうで怖かった。だが、赫臣の腕がある。胸元の音がある。襟を掴む指に、確かな布の感触がある。
深雪乃は、もう一度息を吸った。
沈丁花の香りと、煙管の香りが混ざっていた。
母の鏡は、風呂敷の上でまだほんのりと温かい。
幻は弾かれた。
けれど、幻の中で刺された言葉は、すぐには消えない。
赫臣はそれを知っているように、深雪乃を抱いたまま離さなかった。
「今夜は俺がそばにいる」
「……いつも、勝手ですね」
「勝手でいい。今は離さねえ」
「許可を」
「ください」
言い直した。
深雪乃は、目を開けた。
赫臣が、少し困ったような顔をしていた。
鬼が。
百鬼夜行の頭が。
深雪乃に許可を待っている。
その顔を見たら、胸の奥の恐怖が、ほんの少しだけ形を変えた。
深雪乃は、彼の襟を掴む手を緩めなかった。
「……今は、離さないでください」
赫臣の目が、深く甘くなる。
「分かった」
短い返事だった。
彼は深雪乃を抱きしめた。
命令ではなく、お願いでもなく、深雪乃の言葉を受け取るように。
鵺喰家の夜は、まだ重い。
北蔵の血も、母の遺品も、白絹の幻術も、先祖返り会の思惑も、何ひとつ終わっていない。むしろ、深雪乃の中に眠るものは、母の鏡によって初めて外へ光を漏らした。
けれど今だけは、赫臣の腕の中にいた。
深雪乃は襟を掴んだまま、震える息を吐いた。
赫臣はその呼吸に合わせるように、彼女の背をゆっくり撫で続けた。
母の鏡は、行灯の光を受けて静かに沈丁花の文様を浮かべている。
その文様は、まるでまだ遠い声を抱えているように、淡く温かかった。




