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人間臭いと蔑まれた不死身の娘は、百鬼夜行の主に愛される  作者: なつめ


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第16話 赤い飴と雨宿り


 翌日の帝都は、空だけが妙に白かった。


 雨の気配はあるのに、まだ降らない。灰色の雲は低く垂れ、建物の屋根や電柱の先に引っかかるように広がっていた。湿った風が通りを撫で、路面電車の線路には鈍い光が浮かんでいる。人力車の車輪が濡れかけた石畳を鳴らし、洋傘を持った女学生たちが、まだ開かない傘を胸に抱いて足早に歩いていた。


 深雪乃は、赫臣と並んで歩いていた。


 正確には、並んでいるというより、赫臣がほとんど離れない距離で隣にいる。手も繋がれていた。何度か「一人で歩けます」と言ったが、赫臣は「知ってる」と返して、離さなかった。知っていて離さないのだから、もう会話の体を成していない。人間は言葉で意思疎通をする生き物だと聞いていたが、赫臣は鬼なので分類外なのかもしれない。


 鵺喰家を出たのは、昼過ぎだった。


 完全に自由に出られたわけではない。北蔵の事件はまだ調査中であり、蓮台累が警視庁の怪異事件担当として屋敷に入り、喜周の遺体と現場を改めている。親族たちは屋敷に留め置かれ、使用人も勝手な外出を禁じられた。深雪乃も本来なら残るべき立場だったが、昨夜の幻術でひどく消耗していた。


 赫臣が連れ出した。


 言葉は穏やかではなかった。


 鵺喰家の者たちが「このような時に」と口を挟みかけた瞬間、赫臣は「このような時に、またこいつをこの屋敷の空気へ浸けておく気か」と冷たく言った。蓮台は深雪乃の顔色を見て、短く「夕刻までに戻ればいい」と許可した。砂笙は胃を押さえたそうな顔をしながら、篝火家の従者を一人、少し離れた場所に控えさせた。


 白絹は何も言わなかった。


 ただ、琥珀色の瞳で深雪乃を見ていた。


 あの幻術の後で、白絹への恐怖が消えたわけではない。むしろ、彼女の美しい顔を見ると、胸の奥がまだ小さく強張る。母に見捨てられる幻。赫臣に飽きられる幻。蔵に閉じ込められる幻。それらは鏡によって弾かれたが、感触は残った。喉はまだ少し痛い。叫びすぎたせいだった。


 だから、帝都の通りに出ても、深雪乃はしばらく何も言えなかった。


 赫臣はそれを急かさなかった。


 ただ、手を繋いで歩いた。


 彼の手は熱い。昨日も、一昨日も、何度も思ったことだ。大きな掌が深雪乃の指を包む。強すぎない。けれど、離す気はまったくない。彼の耳飾りや指輪が歩くたびにかすかに鳴り、その音が人混みの中でも不思議と耳に残る。


 大正の帝都は、鵺喰家の屋敷とは別の騒がしさを持っていた。


 新聞売りの少年が号外を叫び、カフェーの窓から珈琲の香りが流れ、洋装の男が懐中時計を見ながら走る。呉服屋の軒先には新しい反物が飾られ、硝子戸の向こうには輸入物の香水瓶が並んでいた。どこかの店先で蓄音機が流す音が、路面電車の鐘と重なっている。


 深雪乃は、胸に風呂敷を抱いていなかった。


 今日は篝火家の女中が用意してくれた小さな手提げ袋に、母の鏡と端切れ、櫛の欠片を入れている。赫臣は「持つ」と言ったが、深雪乃は断った。母のものは、自分で持っていたかった。


 赫臣は不満そうだったが、最終的に手だけを握ることで妥協した。


 妥協という言葉の意味を、彼はどこまで理解しているのか甚だ疑わしい。


「腹は」


 赫臣が尋ねた。


 深雪乃は横目で見上げる。


「道の真ん中で尋ねる内容ですか」


「腹減ってるかって聞いてる」


「言い直しても同じです」


「粥は少し食っただろ」


「食べました」


「足りねえ」


「あなたが決めることではありません」


「俺が見た限り足りねえ」


「見られる食事ほど落ち着かないものはありません」


「可愛いからな」


「見物料をいただきます」


「払う」


「冗談です」


「俺は本気だ」


「本気の方向を間違えています」


 赫臣は楽しそうに笑った。


 その笑顔を見て、深雪乃は少しだけ息を吐いた。鵺喰家の空気から外へ出ただけで、身体の奥の冷えが完全に消えるわけではない。だが、赫臣がいつも通りに近すぎる距離で、いつも通りに勝手なことを言うので、現実が少しずつ戻ってくる。


 幻ではない。


 赫臣は、ここにいる。


 そのことを確かめるように、深雪乃は繋いだ手に少しだけ力を込めた。


 赫臣がすぐに気づく。


「深雪」


「何ですか」


「もっと握っていい」


「命令ですか」


「お願い」


「昨日覚えたばかりの言葉を、便利に使わないでください」


「便利だな」


「認めないでください」


 赫臣は笑い、深雪乃の手を握り返した。


 その時、通りの角に小さな飴屋が見えた。


 店先に、色とりどりの飴が並んでいる。棒に刺した丸い飴、細く引いた飴細工、金魚の形をしたもの、花の形をしたもの。硝子の瓶には、赤、黄、琥珀色、薄荷色の小粒の飴が詰められていた。軒下には小さな紙提灯が吊られ、風に揺れている。


 赫臣が足を止めた。


「食うか」


「飴ですか」


「甘いもの」


「なぜ急に」


「食わせたい」


「餌付けの気配を感じます」


「溺愛だ」


「言葉を変えても本質が隠れません」


 赫臣は構わず飴屋へ向かった。


 店主は最初、赫臣の派手な姿に目を丸くした。金髪に蒼眼、片袖を抜いた和装、耳に数え切れないほどのピアス、首飾り、指輪、腕輪。帝都には奇抜な格好の者も多いが、赫臣ほど堂々とした異質さを纏う男は少ない。しかも、隣には白藤色の着物を着た小柄な深雪乃がいる。


 店主は一瞬だけ二人を見比べ、すぐ商売人の顔になった。


「いらっしゃいませ」


 赫臣は店先の飴を見下ろした。


 深雪乃は少し後ろに立っていたが、彼に手を握られているので離れられない。


「どれがいい」


「私は」


「赤いの」


「今、私に聞きましたか」


「似合いそうだと思って」


「では、最初から聞く必要はありませんね」


「深雪の声が聞きたかった」


「たいへん無駄な手順です」


 赫臣は店主へ声をかけ、赤い飴を一つ買った。


 丸い飴だった。薄い木の棒に刺されており、透明な赤色をしている。光にかざすと、まるで小さな宝石のように透けた。毒々しい赤ではない。熟した石榴を薄く溶かしたような赤だった。


 赫臣はそれを深雪乃の前へ差し出した。


「ほら」


 深雪乃は受け取ろうとして、彼が手を引いたので眉を寄せた。


「渡す気がないのですか」


「持つ」


「私は子どもではありません」


「知ってる」


「では、なぜ」


「俺が食わせたい」


「やはり餌付けでは」


「可愛いからな」


「理由が雑です」


「十分だろ」


 店主が聞こえないふりをしていた。優秀である。帝都の商人は、面倒な客の甘い会話には触れない技術を持っているらしい。人間社会もたまには役に立つ。


 深雪乃は、差し出された赤い飴を見つめた。


 甘いものを買ってもらうなど、いつ以来だろう。


 幼い頃、母が隠すように小さな飴をくれたことがある。白い紙に包まれた、薄荷の飴だった。深雪乃が咳をしていた夜、母は「薬より少しだけ甘いでしょう」と笑った。その記憶は柔らかく、同時にひどく遠い。


 赤い飴は、赫臣の手の中で光っている。


「似合う」


 赫臣が言った。


「可愛い」


 深雪乃は飴から視線を上げた。


「語彙が偏っています」


「深雪を見ると、そこに戻る」


「もっと広い語彙をお持ちください」


「綺麗」


「増やせばよいというものではありません」


「好きだ」


「飴の話から離れています」


「大好きだ」


「どんどん離れています」


 赫臣は笑い、赤い飴を深雪乃の唇の近くへ寄せた。


 深雪乃は一瞬ためらい、周囲を見た。通りには人がいる。飴屋の店先だ。店主もいる。道行く人々もいる。ここで食べさせられるのは、少々、いやかなり恥ずかしい。


 だが、赫臣は待っている。


 蒼い瞳が、楽しげに、けれどどこか真剣に深雪乃を見ている。


 深雪乃は小さく息を吐いた。


「少しだけです」


「全部食え」


「少しだけです」


「じゃあ少しから」


「言葉遊びで勝った顔をしないでください」


 深雪乃は、赤い飴へ唇を寄せた。


 舌先に、甘さが触れる。


 砂糖の甘さ。少しだけ果実のような香りがした。懐かしいようで、知らない味だった。飴の表面はつるりとして冷たい。舐めた瞬間、唇に赤い光が映ったのか、赫臣の目がわずかに細くなる。


「似合う」


「二度目です」


「可愛い」


「それも二度目です」


「何度でも言う」


「控えてください」


「無理」


「努力してください」


「努力する気がねえ」


「開き直りが早すぎます」


 深雪乃は、赤い飴を今度こそ自分で受け取った。


 赫臣は少し残念そうだったが、取り上げはしなかった。深雪乃は棒を持ち、もう一度少しだけ舐めた。甘さが舌に広がる。鵺喰家で出された冷えた白湯や薄い粥とは違う、ただ甘いだけのもの。生きるのに必要というより、誰かが喜ぶために作った味だった。


 その甘さが、胸にしみた。


「甘いです」


 深雪乃は呟いた。


 赫臣は彼女を見た。


「嫌か」


「……いいえ」


「そうか」


「少し、慣れません」


「慣らす」


「すぐそうやって決めますね」


「深雪を甘やかすことは決めてる」


「また大きなことを」


「大きい男だからな」


「身長の話ではありません」


 赫臣は笑った。


 その笑いが終わる前に、空からぽつりと雨粒が落ちた。


 深雪乃の手の甲に、冷たい点が触れる。


 次の瞬間、雨は一気に強くなった。


 通りがざわつく。女学生たちが傘を開き、店先の布を引っ込める音がした。人力車夫が声を上げ、新聞売りの少年が軒下へ駆け込む。路面電車の線路に雨粒が当たり、細かい音を立て始めた。


 赫臣は深雪乃の手を引いた。


「こっち」


「走らなくても」


「濡れる」


「あなたは雨に濡れても似合いそうですが」


 言ってから、深雪乃はしまったと思った。


 赫臣が振り向く。


 口元が上がっている。


「俺を見てたのか」


「一般論です」


「俺にだけ当てはまる一般論か」


「都合よく拾わないでください」


「可愛いな」


「雨宿りを優先してください」


 赫臣は笑いながら、通りの端の古い呉服屋の軒下へ深雪乃を連れて入った。


 軒は深く、雨はぎりぎり避けられる。店は夕刻の仕舞い支度に入っているらしく、表の格子戸は半分閉まっていた。軒下には反物を包んだ木箱が積まれ、その脇に二人分ほどの隙間がある。周囲にも雨宿りする人々はいたが、少し離れている。赫臣の派手な姿と、その周囲に漂う近寄りがたい妖気のせいで、自然と空間が空いていた。


 雨音が強くなる。


 ざあ、と屋根を叩き、軒先から細い滝のように落ちる。石畳に跳ねた水が足袋の先へ飛んだ。深雪乃は赤い飴を持ったまま、肩に落ちた雨粒を払った。


 赫臣は彼女の髪を見た。


 前髪の端に、雨粒がついている。


 彼は指を伸ばした。


「触るぞ」


 深雪乃は、少しだけ彼を見上げた。


 昨日、幻術のあとから、赫臣はその一言を増やすようになった。触るぞ。抱くぞ。口づける。命令ではなく、確認として。いつも完璧ではない。彼の距離感は相変わらずひどい。けれど、覚えようとしているのは分かる。


 だから、深雪乃は逃げなかった。


「髪だけなら」


 赫臣の指が、濡れた髪に触れた。


 前髪を整え、頬に貼りついた黒髪をゆっくり払う。指先は熱く、濡れた肌に触れると、そこだけ雨の冷たさが消えた。赫臣は深雪乃の髪を撫でる。何度も。額の上から、耳の横へ。長い黒髪の表面を、指の腹で大事そうに梳く。


「濡れても綺麗だな」


「雨に濡れた髪を褒める方は、そう多くないかと」


「俺は褒める」


「でしょうね」


「赤い飴も似合う」


「まだ言いますか」


「唇に赤が映ってる」


 深雪乃は、反射的に唇を隠そうとした。


 赫臣がその手を取る。


「隠すな」


「外です」


「軒下だ」


「外です」


「雨で人もこっち見てねえ」


「それでも外です」


「嫌か」


 また、その問いだった。


 雨音の中で、赫臣の声だけが近い。


 深雪乃は、手に持った赤い飴を見た。甘い味がまだ舌に残っている。赫臣の指が手首に触れている。髪を撫でられた場所が熱い。周囲には雨宿りする人々がいる。誰かに見られるかもしれない。こんな場所で何をしようとしているのか、分からないほど深雪乃も鈍くはない。


 嫌なら言える。


 昨日から、赫臣はそうしている。


 嫌か、と聞く。


 嫌ではないことが、困る。


「……外です」


 深雪乃はもう一度言った。


 赫臣の目が甘く細くなる。


「嫌とは言わねえんだな」


「言葉を節約しただけです」


「節約家だな」


「あなたの語彙が浪費気味なので」


「じゃあ、俺が喋らねえようにするか」


「なぜ、そう」


 唇が塞がれた。


 雨音が遠くなる。


 最初は、赤い飴の甘さがあった。


 赫臣の唇が深雪乃の唇へ重なり、ちゅ、と小さく濡れた音がした。深雪乃は息を呑む。手の中の飴の棒がわずかに揺れた。赫臣の手が彼女の背へ回り、もう片方の手が頬を包む。軒下の狭い空間で、二人の距離が一気に詰まった。


「ん……っ」


 声が漏れる。


 赫臣はそれを聞き逃さない。


 すぐに角度を変え、もう一度深く口づける。ちゅ、ぬ、と濡れた音。雨が軒を叩く音に紛れるはずなのに、深雪乃の耳にはやけにはっきり響いた。赫臣の吐息が頬にかかる。熱い。赤い飴の甘さと、煙管の香りと、雨の匂いが混ざる。


 深雪乃は、赫臣の胸元に手をついた。


 押し返すためではない。


 支えるためだった。


 それを自覚した瞬間、顔が熱くなる。


 赫臣が、唇を離さないまま低く息を漏らした。


 笑ったのかもしれない。


「ん、ふ……っ」


 深雪乃の声がまた漏れた。


 赫臣の口づけが強くなる。


 激しい。


 昨日の慰めるような口づけとは少し違う。今は雨と飴と人目のある軒下で、赫臣が深雪乃の中に残る恐怖を甘さで塗り替えようとしているようだった。唇を重ね、離しかけて、また重ねる。ちゅ、ちゅ、と短い音が続き、次に深く、くちゅ、と濡れた音が混ざる。


 深雪乃の肩が震えた。


「ん……ぁ、赫臣、さま」


 名前が漏れた。


 自分で言ってから、しまったと思う。


 赫臣の腕が、明らかに強くなった。


「もう一回」


 唇のすぐそばで囁かれる。


「……外、です」


「名前」


「聞こえないふりを」


「無理」


「赫臣様」


 言わされた。


 いや、言ってしまった。


 赫臣は、満足したように深雪乃の髪を撫で、また唇を奪った。ちゅ、と軽く。すぐに、もっと深く。深雪乃の吐息が乱れる。赤い飴を持つ指に力が入り、棒が折れそうになる。赫臣がそれに気づき、そっと飴を取り上げた。


 彼は飴を自分の指に持ったまま、深雪乃の唇の端を親指で拭う。


「赤い」


「……飴のせいです」


「俺のせいもある」


「外で言うことではありません」


「外でしてるからな」


「開き直らないでください」


 赫臣は笑い、赤い飴を自分の口へ少しだけ触れさせた。


 深雪乃は目を見開く。


「それは」


「甘いな」


「私の」


「お前が舐めたやつだな」


 深雪乃の顔が一気に熱くなる。


「返してください」


「嫌だ」


「なぜ」


「可愛い顔するから」


「返してください」


「じゃあ、取り返せ」


 赫臣が飴を持った手を少し上げる。


 子どもじみた仕草だった。だが、赫臣がやると、どうしようもなく腹立たしいほど絵になる。深雪乃は眉を寄せた。


「あなたは本当に」


「何だ」


「大人げがありません」


「深雪相手だと、なくなる」


「私のせいにしないでください」


 赫臣は笑い、飴を彼女の唇へ戻した。


 深雪乃は、悔しさ半分で少しだけ舐めた。


 赤い甘さが舌に戻る。


 その瞬間を、赫臣が見ていた。


 目が危ない。


 深雪乃がそう気づいた時には、もう遅かった。


 赫臣は飴を横へ避け、再び深雪乃へ口づけた。


「んっ……!」


 今度は、飴の甘さごと奪うような口づけだった。


 深雪乃の背が軒下の柱へ近づく。赫臣はすぐに手を回し、直接当たらないよう自分の腕を挟む。強引なのに、そういうところだけは妙に丁寧だ。深雪乃は頭のどこかでそれを思ったが、すぐに口づけの熱に飲まれる。


 ちゅ、くちゅ、と音が重なる。


 雨音に紛れる。


 赫臣の吐息が深い。


 深雪乃の息は浅い。


「ふ、ん……っ、ま、待っ」


「待たねえ」


 唇がまた重なる。


 ちゅ、と軽く吸われる。次に深く押し重なる。深雪乃の喉から、また声が漏れた。


「ん、ぁ……っ」


 赫臣の指が、髪に入る。


 結った髪を崩さないように、けれど確かに撫でる。頭を支え、角度を変え、口づけを深くする。深雪乃は彼の着物の襟を掴んだ。昨日、幻術のあとに掴んだ襟と同じ場所。指が布に沈む。


 赫臣が、わずかに唇を離した。


「掴んだ」


「足元が」


「不安定?」


「……そうです」


「軒下でも?」


「雨ですので」


「便利な雨だな」


「あなたの解釈が不便です」


 赫臣は笑い、髪へ口づけた。


 額へ。


 頬の近くへ。


 そして、また唇へ。


 何度も。


 深雪乃が息を整える隙を作るようで、完全には逃がさない。短い口づけを重ね、ちゅ、と音を立て、離れかけてまた戻る。深雪乃の吐息がそのたび乱れる。


「ん……赫臣様、もう」


「もう?」


「外です」


「知ってる」


「知っていて」


「してる」


「本当に、どうしようもない方」


「嫌か」


 深雪乃は、雨の向こうを見た。


 通りには人がいる。だが、雨は強く、軒下の影は深い。赫臣の身体が壁のように前にあり、周囲から深雪乃を隠している。完全に見えないわけではない。誰かがこちらを見れば、距離の近さは分かるだろう。だが、赫臣の妖気のせいか、誰も近づいてはこない。


 嫌ではない。


 その答えが、また胸に浮かぶ。


 深雪乃は、赫臣の襟を掴む指を緩めなかった。


「……飴が、溶けます」


 赫臣の目が、甘く細くなる。


「じゃあ早く食わねえとな」


「そういう意味では」


 唇を塞がれる。


 もう何度目か分からない。


 ちゅ、ぬ、と濡れた音。深雪乃の声。赫臣の低い吐息。雨の音。赤い飴の甘さ。髪を撫でる指。襟を掴む手。すべてが軒下の狭い空間に閉じ込められていく。


 深雪乃は、最初よりも少しだけ自分から唇を受けていた。


 そのことに気づいて、恥ずかしさで胸がいっぱいになる。だが、もう離れられない。赫臣の熱が近い。雨の冷たさから、蔵の闇から、白絹の幻術から、母に見捨てられた声から、全部遠ざけるように熱い。


「ん……っ、ふ」


 声が漏れる。


 赫臣が髪を撫でる。


「可愛い」


「……語彙」


「偏ってる?」


「はい」


「深雪が悪い」


「また私のせいに」


「可愛いから」


「理由が戻りました」


「似合う」


「飴ですか」


「赤い唇」


 深雪乃は、赫臣の胸元を軽く叩いた。


 痛くもない力だ。


 赫臣は楽しそうに笑う。


「怒った顔もいい」


「あなたは、一度きちんと叱られるべきです」


「深雪が叱るか」


「叱っております」


「可愛い」


「叱りがいがありません」


 赫臣は、今度は深雪乃の髪に長く口づけた。


 雨粒のついた黒髪を、指で撫でながら。まるで、白絹の幻術で乱されたものを一つずつ整えるように。額にも、まぶたの上にも触れそうなほど近づき、最後はまた唇へ戻る。


 深雪乃は、抗議しようとした。


 だが、言葉より先に吐息が漏れた。


「……っ」


 赫臣はそれを聞き、唇の端を上げる。


「声、可愛い」


「言わないでください」


「無理」


「忘れてください」


「もっと無理」


「記憶力を落としてください」


「深雪の声だけは覚える」


 赫臣の指が、深雪乃の頬を撫でた。


 雨で少し冷えた頬に、彼の指は熱い。


「昨日、怖かった声も覚えてる」


 深雪乃の胸が、静かに揺れた。


 赫臣の声は甘いままだったが、その奥に低い痛みがあった。


「今日の声で、少しでも塗り替えたい」


 深雪乃は、赫臣を見上げた。


 彼はふざけていなかった。


 いつものように近く、いつものように強引で、いつものように言葉が甘すぎる。けれど今の言葉は、昨日の幻術で壊れた深雪乃の声を、彼なりに抱えようとしているものだった。


 深雪乃は、何も言えなかった。


 赫臣が、もう一度口づけた。


 今度は少しゆっくり。


 ちゅ、と柔らかい音がした。


 深く重なり、吐息が混ざる。


「ん……」


 深雪乃は目を閉じた。


 蔵の闇は浮かばなかった。


 母に見捨てられる幻も、赫臣に飽きられる幻も、完全に消えたわけではない。だが、今は雨の音がある。赫臣の手がある。赤い飴の甘さがある。唇の熱がある。


 赫臣は離れて、赤い飴を彼女に返した。


 飴は少し小さくなっていた。


 深雪乃はそれを受け取り、乱れた息を整えようとする。


「……溶けました」


「食えばいい」


「誰のせいだと」


「俺」


「分かっているなら、少し反省を」


「してる」


「嘘ですね」


「またしたいって反省してる」


「それは反省ではありません」


 赫臣は笑った。


 雨はまだ強い。


 軒先から落ちる水が、細い幕のように通りを隔てている。石畳に跳ねる水音、人々の傘の音、遠くの電車の鐘。帝都の騒がしさは、雨で少しだけ柔らかくなっていた。


 深雪乃は赤い飴をもう一度舐めた。


 甘い。


 さっきよりも、赫臣の煙管の香りが混じっている気がした。そんなはずはないのに。唇に残る熱のせいだろう。まったく、飴の味まで侵食するとは、鬼の存在感は迷惑である。


 赫臣が、深雪乃の髪をまた撫でた。


「似合う」


「三度目です」


「可愛い」


「数えるのも疲れました」


「大好きだ」


 深雪乃の手が止まる。


 赫臣は、真っ直ぐ彼女を見ていた。


 雨の軒下で。


 赤い飴を持つ深雪乃を、何か大切なものを見るように。


「お前しかいない」


 その言葉に、胸が熱くなる。


 幻の赫臣が言った「飽きた」という声が、少しだけ遠のいた。


 深雪乃は、目を伏せた。


「……外です」


「外だな」


「そういうことを、外で」


「中でも言う」


「場所の問題ではありません」


「俺には問題じゃねえ」


「でしょうね」


 深雪乃は小さく息を吐いた。


 それから、赤い飴を少しだけ彼の方へ差し出した。


 赫臣の目が、わずかに見開かれる。


「くれるのか」


「……少しだけです」


「間接」


「言わないでください」


「可愛いな」


「返してください」


 赫臣は、飴を少しだけ舐めた。


 その仕草が妙に色づいて見えて、深雪乃は視線を逸らした。人類はなぜ飴ひとつでここまで落ち着かなくならねばならないのか。いや、赫臣のせいだ。人類全体に責任を負わせるのは、さすがに人類が少し気の毒だ。


 赫臣は飴を返す代わりに、深雪乃の唇へまた顔を寄せた。


「篝火様」


「赫臣」


「今度こそ飴が」


「溶ける前に」


「食べるのですか」


「口づける」


「会話が」


 また、塞がれた。


 ちゅ、と赤い甘さを含んだ口づけ。


 深雪乃は、もう抗議の続きを言えなかった。


 雨は止まない。


 軒下の影で、赫臣は彼女の髪を撫でながら、何度も口づけた。深く、長く、時に短く重ねるように。深雪乃の漏れる声を拾い、そのたびに抱く腕を強める。彼女は「外です」と何度も抗議したが、赫臣の襟を掴む手は離れなかった。


 赤い飴は、二人の間で少しずつ小さくなっていく。


 雨の帝都は、灰色に滲んでいた。


 けれど軒下だけは、赫臣の熱と飴の赤で、妙に明るかった。


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