第17話 母の鏡
雨の帝都から鵺喰家へ戻った頃には、空の色は墨を薄く溶かしたように暗くなっていた。
門をくぐった瞬間、深雪乃の身体は無意識に強張った。外の雨に濡れた石畳の匂い、飴屋の砂糖の甘さ、赫臣の煙管の香り。それらがまだ髪や袖に残っているのに、鵺喰家の門の内側へ入るだけで、空気が別のものになる。湿った白檀、古い木、閉じた蔵、隠された紙、誰かの息を殺した気配。
この屋敷は、深雪乃に戻ってくる。
廊下の軋みも、柱の影も、使用人が目を伏せる早さも、何もかもが記憶の底から這い上がってくる。どれだけ外で赤い飴を舐めても、雨宿りの軒下で赫臣に何度も口づけられても、この屋敷の冷えは消えなかった。
それでも、以前とは違うものがある。
赫臣の手だ。
彼は門をくぐってからも、深雪乃の手を離さなかった。人前だろうが、親族の視線があろうが、使用人が陰で息を潜めていようが、まったく気にしない。遠慮という字を知らないのではなく、知った上で火鉢に放り込んだような男である。
深雪乃は一度だけ言った。
「屋敷の中です」
赫臣は即座に返した。
「外でも繋いでた」
「場所の問題ではありません」
「じゃあ何の問題だ」
「品性です」
「俺に期待するな」
「自覚があるなら改善してください」
「深雪の手を離すくらいなら、品性を捨てる」
「捨てるほどお持ちでしたか」
赫臣は声を立てて笑った。
その笑いに、近くの女中が肩を震わせて頭を下げる。深雪乃は見た。女中の目にあるのは、以前のような露骨な嘲りではない。恐れと困惑と、少しの怒りだった。篝火赫臣の手に守られている深雪乃を、どう扱えばいいのか分からなくなっている。
それを見ても、胸が晴れるわけではなかった。
ただ、冷たく確認するだけだ。
彼女たちは、深雪乃が変わったから頭を下げているのではない。深雪乃の隣にいる男が怖いから、頭を下げている。ならば、その礼は深雪乃に向けられたものではなく、赫臣の影に向けられたものだ。
深雪乃は、繋がれた手を少しだけ見た。
その影に守られているのも、また自分だった。
認めるのは、悔しい。
けれど、手を離したいとは思わなかった。
蓮台累は、北蔵の前にいた。
帝都警視庁の怪異事件担当である男は、濃い鼠色の外套を肩に掛け、蔵の敷居を調べていた。赫臣を見るなり、露骨に眉をひそめる。
「戻ったか。ずいぶん甘ったるい匂いを連れてるな」
赫臣は笑った。
「飴買った」
「事件現場の関係者が飴を買って口説きながら戻るの、警視庁の書式にどう書けばいいんだ」
「正直に書け」
「書けるか」
深雪乃は、少しだけ顔を伏せた。
蓮台の目がこちらへ向く。
「顔色は多少戻ったな」
「おかげさまで」
「そこの鬼がうるさかっただろ」
「非常に」
「だろうな」
「聞こえてるぞ」
「聞かせてる」
赫臣と蓮台のやり取りには、遠慮がない。犬猿の仲と聞いていたが、互いをよく知っている者同士の速さがある。深雪乃はそれを見て、白絹との会話を思い出した。長い付き合いのある者たちの間には、自分の知らない時間が横たわっている。
そのことが、ほんの少し胸を刺した。
赫臣は、また見逃さなかった。
繋いだ手の親指で、深雪乃の指の付け根を軽く撫でる。何も言わない。ただ、そこにいると知らせるだけの触れ方。深雪乃は返事の代わりに、手を引かなかった。
蓮台は蔵の方へ顎をしゃくった。
「現場の大筋は、砂笙から聞いた通りでいい。封印札は二重貼り。外から糸を引いた痕も確認した。遺体の傷は、篝火の霊糸とは別物だ」
親族たちのうち、近くにいた兼近が気まずげに目を逸らした。
赫臣が笑う。
「聞いたか」
「聞こえている」
兼近は硬い声で答える。
蓮台はさらに続けた。
「ただし、退魔糸に残る気配が妙だ。古い。鵺喰家のものだけじゃない。弓に関わる退魔術が混じってる。宵待家の遺品が絡むのは間違いないだろう」
深雪乃の胸が、静かに沈んだ。
宵待家。
母の家。
そこへまた戻る。
「母の髪飾りの欠片は」
深雪乃が尋ねると、蓮台は少しだけ声を和らげた。
「保管している。砂笙と俺の両方が確認した。あれは、ただの飾りじゃない。小さな退魔具だ。割られたことで、中の気配が漏れていた」
「割られた……」
「自然に欠けたものじゃない。誰かが割ったか、強い術の衝撃で割れたか。いずれにせよ、あの蔵で落ちる前に何かがあった」
深雪乃は、指先を冷たくした。
母の髪飾りが割られた。
母の櫛も折られた。
母のものばかりが、壊される。
それは偶然ではないように思えた。誰かが母の残したものを一つずつ暴き、壊し、血の中へ置いている。深雪乃を呼ぶために。あるいは、深雪乃の中にある何かを起こすために。
赫臣の気配が、わずかに険しくなる。
蓮台はそれを見て、鼻で息を吐いた。
「今夜は無茶をさせるな。話を聞くのは明日でもいい」
「言われなくても」
赫臣が返す。
「こいつは休ませる」
「その言い方、本人の意思はどこにある」
「聞く」
「今、聞いてなかっただろ」
「今から聞く」
「遅い」
蓮台は呆れたように言ったが、それ以上深く突っ込まなかった。
深雪乃は、胸の中に残る言葉を抱えたまま、用意された控えの間へ戻った。
部屋は、昨日から何度も使っている場所だった。奥座敷の隣にある、障子を二重にした小さな部屋。鵺喰家の中では比較的静かで、人の出入りも限られている。とはいえ、この屋敷の中で完全に安心できる場所などない。壁も柱も畳も、昔の目を持っているように感じる。
赫臣は当然のように部屋へ入った。
深雪乃が振り向く。
「一人で休めます」
「知ってる」
「では、なぜ入るのです」
「一緒にいる」
「返事になっておりません」
「俺の中ではなってる」
「いつものことですね」
赫臣は笑った。
だが、その笑いは少し薄かった。
北蔵の気配、蓮台の言葉、母の髪飾り。赫臣も何かを考えている。彼の中で、言葉にならないものが動いているのが分かった。いつもなら深雪乃の髪に触れるところを、彼は少し離れた場所に座った。
近すぎない。
それが逆に落ち着かなかった。
深雪乃は膝の上に小さな手提げ袋を置いた。中から母の鏡を取り出す。
沈丁花の文様が彫られた銀縁の懐中鏡。
白絹の幻術を弾いた時、鏡は熱を持った。幻の蔵の中で、母の声が聞こえた。あれが本当に母だったのか、鏡に残された遺響だったのか、深雪乃には分からない。ただ、あの声は幻の母のように冷たくはなかった。
深雪乃は、鏡を両手で持った。
赫臣の視線が、鏡へ落ちる。
「見るのか」
「はい」
「今じゃなくてもいい」
「今、見たいのです」
赫臣は黙った。
やがて、低く言う。
「怖くなったら言え」
「命令ですか」
「お願い」
深雪乃は、少しだけ目を伏せた。
「……では、努力します」
「努力じゃなくて、言え」
「お願いの形をした命令に戻っています」
「悪い」
素直に謝られて、深雪乃は少し困った。
赫臣は本当に、昨日から少しずつ変わろうとしている。命令ではなく願うこと。触れる前に声をかけること。深雪乃が嫌だと言う場所を探すこと。まだ不器用で、しょっちゅう鬼の力技に戻るが、それでも覚えようとしている。
それが、胸を温かくしてしまう。
深雪乃は、鏡の留め金に指をかけた。
かちり、と小さな音がする。
蓋が開く。
鏡面は、最初はただ暗かった。行灯の火が映り、深雪乃の白い顔が薄く浮かぶ。赤みを帯びた瞳、真っ直ぐに切り揃えた前髪、雨と口づけで少し乱れた唇。自分の顔を見るのは、少し苦手だった。鵺喰家で見せられ続けた「価値のない娘」という言葉が、鏡面の裏側から滲んでくる気がするからだ。
けれど、今日は違った。
鏡の奥が、ゆっくり曇る。
白い息を吹きかけたように、銀の表面が濁り、そこに別の光が宿る。深雪乃は息を止めた。赫臣が近づこうとして、踏みとどまった気配がした。
鏡面に、部屋が映った。
鵺喰家の部屋ではない。
狭い部屋だった。
障子は閉ざされ、窓には薄い布がかかっている。行灯の火は弱く、部屋の隅には薬湯の器が置かれていた。白藤色の着物が衣桁に掛かっているが、袖は以前より細く、どこか色褪せて見えた。沈丁花の香りがしそうな部屋なのに、鏡の中からは薬と汗の匂いまで伝わってくるようだった。
布団に、母が横たわっていた。
宵待澄子。
深雪乃は、息を呑んだ。
母は痩せていた。
記憶の中の母よりもずっと細い。頬は削げ、唇は乾き、額には汗が浮いている。黒髪はほどけ、枕に広がっていた。白い寝間着の襟元から覗く首筋は、折れそうなほど華奢だった。胸が浅く上下している。病で身体を削られ、息をするだけで痛むように見えた。
深雪乃の指が震える。
「母様」
声が、かすれた。
鏡の中の母は答えない。
過去の断片だ。遺響だ。こちらの声が届くはずがない。そう分かっていても、呼ばずにはいられなかった。
母の右手が、布団の上に出ていた。
その手も痩せている。指は細く、爪は薄く、血の気がない。白い布団の上で、まるで紙で作られた花のようだった。
その手に、別の手が重なっていた。
深雪乃は目を見開いた。
誰かが、母のそばにいる。
鏡の端に映っているのは、手だけだった。男とも女ともすぐには分からない。ただ、母の手より大きい。骨ばっていて、指が長く、節が少し目立つ。手首には、黒い組紐のようなものが巻かれている。その組紐には、小さな銀の輪が通されていた。
その手は、母の手を握っていた。
強くではない。
病の母の指を壊さないように、そっと包んでいる。
深雪乃の胸が、激しく揺れた。
母は一人ではなかった。
少なくとも、この鏡が見せるその時、母のそばには誰かがいた。
その人は、母の手を握っていた。
母の唇が、かすかに動いた。
音は聞こえない。
けれど、鏡面の中で、母は何かを言っている。握られた手を、ほんの少しだけ握り返す。大きな手の持ち主は、母の手に額を寄せるように影を落とした。顔は映らない。肩もほとんど見えない。ただ、手と、黒い組紐と、薄い気配だけがある。
赫臣が、息を止めた。
深雪乃は鏡から目を離せないまま、その気配に気づいた。
赫臣の空気が変わっている。
怒りではない。
警戒。
それから、古い記憶に触れたような沈黙。
彼は、その手の気配に心当たりがある。
そう分かった。
深雪乃は聞きたかった。
誰ですか、と。
母のそばにいたのは誰なのですか、と。
けれど、声が出なかった。鏡の中の母があまりにも痩せていて、あまりにも弱く、そして、あまりにも一人ではなかったから。
母の目が、ゆっくり開いた。
熱に潤んだ目。
けれど、その奥に、深雪乃の記憶にあるやわらかさが残っていた。母は、手を握る誰かを見て、かすかに微笑んだ。ほんの少し。唇の端だけが、弱く上がる。
そして、何かを託すように、もう一度手を握った。
鏡面が揺れる。
水面に石を落としたように、映像が滲む。
母の部屋が、遠ざかる。
大きな手が最後まで母の手を離さなかった。
次の瞬間、鏡はただの鏡に戻った。
深雪乃の顔が映る。
涙で歪んだ顔だった。
深雪乃は、自分が泣いていることに気づいていなかった。頬を涙が伝い、顎から落ちる。鏡の銀縁に、一滴、涙が落ちた。沈丁花の文様が、その水滴を受けて小さく光る。
母は、一人ではなかった。
完全な孤独の中で死んだわけではないかもしれない。
その可能性だけで、胸がいっぱいになった。
深雪乃は、母の最期をずっと想像していた。
鵺喰家の奥の部屋で、誰にも顧みられず、病に痩せ、妾だった女として静かに忘れられて死んだのだと思っていた。深雪乃は幼すぎて、何もできなかった。母の手を握ることも、声をかけることも、苦しみを分けることもできなかった。
母は一人だったのだと。
そう思うたび、胸の奥に重い石が沈んだ。
けれど、鏡の中には手があった。
母の手を握る誰かの手。
母が微笑むほどの誰か。
深雪乃は、声もなく泣いた。
赫臣が近づいた。
「深雪」
呼ばれて、涙がさらに落ちる。
「母様は」
言葉が震えた。
「母様は、一人では……なかったのでしょうか」
赫臣はすぐに答えなかった。
その沈黙に、深雪乃は胸を締めつけられる。
彼は何かを知っている。
少なくとも、心当たりがある。
鏡に映った手、黒い組紐、銀の輪。その気配に、赫臣は反応した。顔色を変えた。だが、まだ話さない。話せないのか、話したくないのか、分からない。
深雪乃は涙の滲む目で彼を見上げた。
「赫臣様」
赫臣の表情が、わずかに動いた。
その名で呼ばれるたび、彼は少しだけ弱くなる。
「今は」
赫臣は低く言った。
「まだ、確かなことは言えねえ」
「心当たりが、おありなのですね」
赫臣は黙った。
沈黙は、否定ではなかった。
深雪乃は鏡を握る手に力を込めた。
「教えてください」
「深雪」
「母のことです」
「分かってる」
「なら」
「だから、今は言えねえ」
赫臣の声は苦かった。
深雪乃は唇を噛んだ。
怒りが湧かなかったわけではない。母のことを、母の最期に関わるかもしれない手を、赫臣が知っているのに話さない。その事実は、胸を刺す。だが、彼の目には隠し事の軽さがなかった。
重いものを、まだ渡せない顔だった。
赫臣は、ゆっくり手を伸ばした。
「触る」
短く言う。
深雪乃は、うなずく代わりに目を閉じた。
赫臣の指が頬に触れる。
涙を拭った。
親指の腹で、ゆっくり。こぼれた涙を一筋ずつ拭う。深雪乃は、泣いている顔を見られたくなかった。鵺喰家で泣くことは、負けることだった。笑われることだった。弱みを差し出すことだった。
けれど、赫臣は笑わない。
嬉しそうにもしない。
ただ、涙を拭う。
その指が熱くて、さらに泣きそうになる。
赫臣は、頬に口づけた。
涙の跡に、そっと。
唇への激しい口づけではない。軒下の雨の中で何度も重ねたものとも、障子裏で息を奪ったものとも違う。頬に触れる、静かな口づけだった。涙を拭った場所へ、温かな印を置くように。
「泣くなとは言わねえ」
赫臣は言った。
低く、深く。
「泣くなら俺の前で泣け」
深雪乃の胸が震えた。
あまりにも赫臣らしい言葉だった。
優しい。
けれど、所有するようで。
守るようで、囲うようで。
深雪乃は涙の残る目で、彼を見た。
「泣き顔まで所有しようとなさらないで」
声は、少し掠れていた。
赫臣の口元が、かすかに緩む。
「したい」
「正直すぎます」
「お前の泣き顔を、鵺喰の連中にも、白絹にも、どこの誰にも見せたくねえ」
「横暴です」
「そうだな」
「認めないでください」
「でも、泣く場所くらい選ばせろ。お前はずっと、一人で飲み込みすぎた」
深雪乃は言葉を失った。
鏡を握る手が震える。
母は、一人ではなかったかもしれない。
それを知って、涙が止まらなかった。
そして今、自分も一人で泣かなくていいと言われている。
信じるのは怖い。
赫臣にはまだ言っていないことがある。母の手を握っていた誰かについて、彼は何かを知っている。なのに話さない。そのことは、深雪乃の胸に小さな棘として刺さっている。
それでも、彼の手は温かい。
涙を拭う指も、頬への口づけも、嘘ではなかった。
深雪乃は、ゆっくり額を彼の胸へ預けた。
自分から。
ほんの少し。
けれど、確かに。
赫臣の身体が一瞬止まった。
次の瞬間、彼の腕が深雪乃を包んだ。強くなりすぎないように、けれど離さないように。鏡を持つ手を潰さない角度で、肩と背を抱く。胸元からは、煙管の香りと、金属の冷たい匂いと、彼自身の熱がした。
深雪乃は、その胸に額を預けたまま言った。
「……少しだけです」
「何が」
「泣くのは、少しだけです」
「好きなだけ泣け」
「そういうところが、所有欲です」
「そうだな」
「反省してください」
「してる」
「嘘です」
「泣いてるお前を抱けて、少し浮かれてる」
深雪乃は、胸元を軽く叩いた。
力のない一撃だった。
「最低です」
「最低でいい。泣き止むまで抱いてる」
「人の話を」
「聞いてる。だから抱いてる」
「おかしな理屈です」
「鬼の理屈だ」
深雪乃は、涙の合間に小さく息を吐いた。
笑ったわけではない。
けれど、胸の詰まりが少しだけ動いた。
赫臣は、深雪乃の髪を撫でた。ゆっくり、何度も。雨で少し乱れた黒髪を指で整え、前髪に触れ、耳の横へ流す。昨日の幻術の後のように、現実を確かめる手つきだった。
鏡は、深雪乃の手の中でまだ温かい。
母の手を握っていた誰か。
病で痩せた母。
微笑んだ唇。
黒い組紐と銀の輪。
赫臣の反応。
どれも、消えない。
深雪乃は、赫臣の胸元に額を預けたまま尋ねた。
「いつか、話してくださいますか」
赫臣の手が、髪の上で止まった。
「話す」
「本当に」
「本当だ」
「いつか、では困ります」
「なるべく早く」
「あなたのなるべくは信用できません」
「今回は守る」
深雪乃は、顔を上げなかった。
「……では、少しだけ待ちます」
赫臣の腕が、深くなる。
「助かる」
「助けているつもりはありません」
「俺が助かってる」
「篝火家当主が、簡単に助からないでください」
「深雪相手だと簡単だ」
深雪乃は、また胸元を軽く叩いた。
赫臣は笑った。
その笑い声は、先ほどより少しだけ柔らかかった。
部屋の外では、鵺喰家の気配がまだざわめいている。北蔵の血も、母の髪飾りも、喜周の死も、白絹の幻術も、何ひとつ終わっていない。むしろ、母の鏡が見せたものによって、謎はさらに深くなった。
母の最期に、誰がいたのか。
なぜ、その気配を赫臣が知っているのか。
それは、深雪乃の不死身と関係があるのか。
答えはまだ遠い。
それでも、深雪乃の中で一つだけ変わったものがあった。
母は、完全な孤独の中で死んだわけではないかもしれない。
その可能性は、小さな灯のように胸の奥へともった。頼りない。いつ消えるか分からない。けれど、確かに温かい。
深雪乃は、赫臣の胸に額を預けたまま、目を閉じた。
涙はまだ少し落ちた。
赫臣はそのたびに拭わず、ただ抱いていた。拭いすぎれば、泣くことまで奪ってしまうと分かっているように。時折、髪に口づけ、頬の端に触れ、背を撫でる。
深雪乃は、もう一度小さく言った。
「……泣き顔まで、あなたのものではありません」
赫臣は、すぐに返した。
「今は俺の前にある」
「屁理屈です」
「鬼の理屈だ」
「本当に、救いようのない方」
「深雪が救ってくれ」
「私に押しつけないでください」
そう言いながら、深雪乃は彼の胸から離れなかった。
母の鏡は、彼女の手の中でゆっくり熱を失っていく。
沈丁花の文様だけが、行灯の光を受けて淡く浮かんでいた。
それはまるで、遠い日の母が最後に握り返した手の温もりを、まだ少しだけ覚えているようだった。




