第18話 背の傷
鵺喰家の夜は、また雨を含んでいた。
障子の向こうで、庭木が湿った風に揺れている。降り出してはいない。けれど、遠くの空で雲が重なり、雨になる前の冷たい匂いが廊下まで入り込んでいた。行灯の火は低く、畳の上に淡い影を落としている。
深雪乃は、控えの間で着替えていた。
鵺喰家で用意された着物ではない。篝火家から持ってこさせた、柔らかな白藤色の着物だった。鵺喰家の衣装部屋から出されたものは、どれも手触りだけで昔の記憶が肌へ戻ってくる。虫食いの繕い跡、冷たい布、誰かの手が選んだ悪意。必要なら着るつもりではいたが、赫臣が「着なくていい」と一言で退けた。
その一言だけで、鵺喰家の女中たちは黙った。
篝火家の従者が荷を運び、着替えのために女中を呼ぼうとしたが、深雪乃は断った。誰かに身体へ触れられる気分ではなかった。白絹の幻術も、母の鏡が見せた病床の母も、北蔵の血も、まだ皮膚の下に残っている。誰かの手が背中に近づくだけで、身体が反射的に強張りそうだった。
一人でできる。
そう言った。
赫臣は少し不満そうにしたが、強くは言わなかった。ただ、障子の外に控えると言った。深雪乃が「控えなくて結構です」と返すと、「俺がそうしたい」と言った。会話が成立しているようで、結局いつも赫臣の意思が畳の上に居座る。まったく迷惑な鬼である。
深雪乃は帯を解き、着物を肩から滑らせた。
室内には小さな衝立が置かれている。障子からは見えない位置だ。行灯の光は低く、肌を直接照らしすぎない。深雪乃は襦袢の紐を解き、ゆっくり袖を抜いた。肩に冷たい空気が触れる。妖に裂かれた傷はもう塞がっている。脇腹にも肩にも、赤い線は残っていない。だが、痛みの記憶はまだある。動かすたびに、身体の奥がその爪を覚えていた。
着替えは、いつも少し憂鬱だった。
鏡を見なければいい。
背中に触れなければいい。
そう思っていても、布を替える時には肌が空気に晒される。古い傷の場所が、冷えを拾う。背中から肩甲骨の下、腰へ向かって走るいくつもの痕。細く、薄く、古くなっても消えきらないもの。死なない身体なのに、なぜか完全には消えなかった傷跡。
鞭打ちの痕。
最初の一本は、いつだっただろう。
覚えていない。
覚えていないほど、何度もあった。
深雪乃は、新しい襦袢へ袖を通そうとして、ふと手を止めた。
廊下が騒がしい。
誰かの足音が近づき、すぐに遠ざかる。小さな悲鳴のような声がした。鵺喰家の女中の声だった。次に、篝火家の従者が低く制する声。何かが廊下の向こうで倒れた音がした。
深雪乃は反射的に振り向いた。
その瞬間、障子が開いた。
「深雪」
赫臣だった。
彼の声には緊張があった。外の騒ぎを聞いて、反射的に入ったのだろう。いつものような無遠慮な笑みはない。霊糸を展開する寸前の、鋭い顔をしていた。
だが、次の瞬間、その目が止まった。
深雪乃は衝立の影にいた。
前は襦袢で隠れている。けれど、肩から背中にかけて、布がまだ掛かりきっていなかった。黒髪は前へ流していたため、背中は隠れていない。行灯の淡い光の中、白い肌に残る鞭打ち痕が、赫臣の目に映った。
細い痕。
重なる痕。
古いものは白く、比較的新しいものは薄い赤紫を帯びている。肩甲骨の近くから斜めに走るもの、腰へ向かって裂けるように残るもの、何度も同じ場所を打たれ、皮膚の奥に沈んだようなもの。
赫臣の表情が、消えた。
深雪乃は、すぐに襟を押さえた。
肌を隠すより先に、声が冷たく出た。
「見世物ではありません」
赫臣は動かなかった。
その沈黙が、深雪乃の胸を刺した。
見られた。
見られたくなかったものを。
傷そのものより、その傷が語る過去を見られた気がした。膝をつかされ、腕を押さえられ、使用人の目がある中で、痛みを声にしないよう唇を噛んだ時間。死なないから平気でしょう、と笑われた声。赤く腫れた背を、自分で水で冷やした夜。痛みがあるのに、傷だけが先に塞がっていく気味の悪さ。
それらを、背中ごと見られた。
深雪乃は、襦袢を肩へ引き上げた。
「出てください」
声は震えなかった。
震えないようにした。
赫臣は、ようやく息を吸った。
「悪い」
低い声だった。
すぐに彼は視線を逸らした。遅い。見てしまった後だ。だが、逸らした。深雪乃の羞恥を無視して凝視することはしなかった。彼は障子を閉めようとしたが、その手が途中で止まる。
廊下の向こうで、篝火家の従者が声をかけた。
「旦那様、失礼を。鵺喰家の下女が燭台を倒しただけで、深雪乃様に危険はございません」
赫臣は短く答えた。
「下がれ」
「はっ」
足音が遠ざかる。
部屋に、赫臣と深雪乃だけが残った。
障子は半分開いたままだ。赫臣は外を向いている。深雪乃は襦袢の襟を押さえ、衝立の内側に立っている。
空気が変わっていた。
赫臣の怒りが、部屋を満たしていく。
それは、深雪乃へ向けられたものではない。分かる。けれど、それでも怖いほどだった。行灯の火が細く揺れ、障子紙がわずかに震える。彼の耳飾りが、小さな音を立てた。霊糸が、怒りに反応している。
「誰がやった」
赫臣の声は、ひどく静かだった。
静かすぎて、恐ろしい。
深雪乃は襟を押さえたまま、目を伏せた。
「どれのことでしょう」
「背中だ」
「傷跡の数を数えるご趣味があるなら、お勧めしません」
「深雪」
呼ばれて、胸の奥が痛んだ。
怒っている。
赫臣は本気で怒っている。
それは分かる。だが、深雪乃はどう答えればいいのか分からなかった。誰がやった。そんな簡単な問いではない。鞭を持った手は何本もあった。命じた者も、見ていた者も、止めなかった者もいる。親族。使用人。女中頭。夜岐。名も知らぬ下男。記憶の中で、顔が重なっている。
深雪乃は、唇だけで笑った。
「数が多すぎます。百鬼夜行でも残業になりますよ」
いつものように毒を吐いた。
赫臣は笑わなかった。
わずかにも。
その沈黙が、逆に深雪乃を追い詰めた。
「冗談です」
自分で言ってから、嘘だと思った。
冗談ではない。
数が多すぎるのは、本当だった。
赫臣が、ゆっくりこちらを向いた。
目は深雪乃の顔だけを見ていた。襟元より下へ視線を落とさない。見ないようにしている。けれど、彼はもう見てしまった。その記憶は、消えないだろう。
「冗談にするな」
低い声だった。
深雪乃は、少しだけ肩を揺らした。
「私の傷です。どう扱うかは、私の勝手ではございませんか」
「ああ」
赫臣は即座に言った。
「お前の傷だ。だから、お前が笑って隠すのも勝手だ。けどな、俺が怒るのも俺の勝手だ」
「勝手が多い方ですね」
「お前をああした奴らを、今すぐ全員探し出して斬りてえ」
「物騒です」
「物騒で済ませてるだけ、かなり我慢してる」
行灯の火が、また揺れた。
深雪乃は息を吸った。
部屋の空気が重い。赫臣の怒りが、畳の上を這うように広がっている。鵺喰家の者たちが見たら、きっと顔を青くするだろう。けれど深雪乃は、怒られているわけではないと分かっていながら、胸の奥が落ち着かなかった。
傷を見られることは、過去を見られることだった。
そして、過去を見られた時、人は同情する。
可哀想に、と言う。
憐れむ。
腫れ物のように扱う。
深雪乃が一番嫌いなものだった。
「憐れむなら、出てください」
深雪乃は言った。
赫臣の目が、鋭くなる。
「憐れんでねえ」
「では、何ですか」
「腹が立ってる」
「私にではなく?」
「お前に向ける怒りなんか、今あるわけねえだろ」
赫臣は一歩近づいた。
深雪乃は反射的に後ろへ下がりかけた。衝立が少し揺れる。赫臣はそこで止まった。
「触らねえ。勝手には」
その言葉に、深雪乃はかえって息を詰めた。
昨日の幻術の後から、彼は本当に少しずつ変わっている。触る前に言う。抱く前に待つ。深雪乃が本気で嫌がるかどうかを見る。完全ではない。むしろ、かなり危うい。けれど、覚えようとしている。
深雪乃は襟を押さえたまま、彼を見た。
「なぜ、そんな顔をなさるのですか」
「どんな顔だ」
「怒って、痛そうな顔です」
赫臣は黙った。
深雪乃は、ほんの少しだけ笑った。
「打たれたのは、あなたではありません」
「だから余計に腹が立つ」
「理屈が分かりません」
「俺がその場にいなかった。止められなかった。知らなかった。お前はずっとそれを背負ってた。俺が今さら見て、今さら怒ってる。それが腹立たしい」
「あなたが悪いわけでは」
「分かってる。分かってても腹が立つ」
赫臣の声が、少しだけ掠れた。
深雪乃は言葉を失った。
赫臣は、背の傷を見て、深雪乃を汚れたものとして見ていない。壊れたものとして見てもいない。ただ、そこにあった痛みを、遅れて知ったことに怒っている。自分が間に合わなかったことにまで、勝手に怒っている。
勝手な人だ。
けれど、その勝手さは、深雪乃を踏みつけるものではなかった。
赫臣は、手を下ろしたまま言った。
「抱いていいか」
深雪乃の指が、襟を握る。
「この状態でですか」
「嫌ならしねえ」
「嫌では、ありませんが」
言ってしまってから、深雪乃は口を閉じた。
赫臣の目が、わずかに揺れる。
「嫌じゃねえなら、抱く」
「まだ、着替えが」
「襟を押さえたままでいい。背中は見ねえ」
「見た後で言うことですか」
「悪かった」
深雪乃はしばらく黙った。
襦袢の襟を押さえたまま、赫臣を見る。彼の蒼い瞳は、いつものような甘い熱だけではなかった。怒りがある。後悔がある。だが、その奥に、深雪乃がよく知り始めたものもある。
離したくない、という執着。
そして、傷ごと抱こうとする強さ。
深雪乃は、小さく息を吐いた。
「少しだけです」
赫臣は近づいた。
ゆっくりと。
深雪乃が逃げないことを確かめながら、腕を伸ばす。襟を押さえた彼女の手を避け、肩の痛む場所にも触れず、風呂敷も鏡もない今の彼女を、正面から抱き寄せた。
深雪乃の額が、赫臣の胸元へ近づく。
熱い。
彼の胸はいつも熱い。煙管の香り、金属の匂い、和服に染みた雨の気配。深雪乃は襟を押さえたまま、片手で彼の着物を軽く掴んだ。支えるため。そう自分に言い聞かせたが、赫臣が気づかないはずはない。
彼の腕が、深雪乃の背に回る。
傷に触れない位置で止まった。
触れたいのだろう。
けれど触れない。
その抑え方に、深雪乃の胸が少し痛んだ。
赫臣が、低く言った。
「可愛い」
深雪乃は顔を上げた。
「今それを言う場面ですか」
「今だから言う」
赫臣の声は真剣だった。
「傷を見たからって、お前が傷だけになるわけじゃねえ。痛めつけられた過去があるからって、お前が哀れなだけの女になるわけでもねえ。お前は可愛い。綺麗だ。強い。腹立つくらい毒を吐く。俺にとっては、全部お前だ」
深雪乃の喉が詰まった。
赫臣は、彼女の頬に触れた。
事前に言わなかったことに気づいたのか、触れたあとで少しだけ眉を寄せる。
「悪い。触った」
「……頬は、もう慣れました」
「そうか」
「調子に乗らないでください」
「少し乗る」
「すぐ乗る」
「深雪が許すからな」
「許しておりません」
「でも、逃げねえ」
深雪乃は、言い返せなかった。
赫臣の指が、頬を撫でる。
そして、口づけが落ちた。
頬へ。
涙ではなく、今は羞恥と痛みの名残で熱くなった場所へ。短く、静かに。深雪乃は目を伏せた。唇ではないのに、胸が揺れる。
「傷に触っていいか」
赫臣が言った。
深雪乃の身体が、強張った。
赫臣の腕はすぐ緩む。
「嫌ならいい」
「なぜ、触りたいのですか」
「穢れじゃねえって、お前に分からせたい」
深雪乃は、息を止めた。
赫臣の言葉は、まっすぐだった。
「それに、俺が覚えたい」
「傷を?」
「ああ。誰かがつけた痛みを、なかったことにしたくねえ。見たことを、見なかったことにしたくねえ。お前が隠したいなら隠せばいい。けど、お前がいつか見てもいいと思うなら、俺は傷も含めて覚える」
深雪乃は、襟を押さえる手に力を込めた。
見せたくない。
隠したい。
けれど、赫臣の前でだけ、ほんの少しだけ、隠す力が緩んでいる。
それが怖かった。
「……少しだけです」
深雪乃は言った。
声は、かすかに震えていた。
赫臣は頷いた。
彼は深雪乃を無理に回さなかった。深雪乃が自分で少し身体の向きを変えるのを待った。衝立の影で、彼女は襦袢の襟を前で押さえたまま、肩の片側だけをわずかにずらした。背中全体を晒すわけではない。痕の一部だけが、行灯の光に出る。
それでも十分だった。
赫臣の息が、また静かに変わる。
怒り。
だが、今度は抑えている。
深雪乃は、顔を横へ向けたまま言った。
「見世物ではありません」
「分かってる」
「哀れまれるために見せたのでもありません」
「分かってる」
「……汚いと思うなら」
「言うな」
赫臣の声が低く落ちた。
深雪乃は口を閉じた。
赫臣は、しばらく何も言わなかった。
そして、膝をついた。
深雪乃は息を呑む。
彼の顔が、背中の高さへ近づく。触れる前に、赫臣は低く言った。
「口づける」
「……傷にですか」
「ああ」
「物好きですね」
「惚れた女の傷だ」
「理由になっているようで、なっておりません」
「俺にはなる」
深雪乃は、襟を握った。
「少しだけです」
「分かった」
赫臣の唇が、背中の古い傷跡の近くへ触れた。
深雪乃の身体が、びくりと震える。
痛くはなかった。
痛いはずがない。触れ方は、ひどく柔らかかった。けれど、そこはかつて何度も痛みを受けた場所だ。反射的に身体が逃げようとする。赫臣はすぐに離れた。
「痛いか」
「いいえ」
「怖いか」
深雪乃は少し黙った。
「……少し」
正直に答えると、赫臣の指が畳の上で握られた。
彼は怒りを飲み込むように、ゆっくり息を吐いた。
「やめるか」
「続ける気があったのですか」
「お前が許すなら」
「本当に、物好きです」
「深雪だからな」
深雪乃は目を伏せた。
逃げたいような、逃げたくないような感覚だった。背中に残る痕を誰かに見られるのは、裸を見られるよりも心を剥がされるようで怖い。だが、赫臣の口づけには、好奇も憐れみもなかった。
怒りと、愛だけがある。
重いほどに。
「……もう少しだけなら」
深雪乃は言った。
赫臣の口づけが、次の傷跡へ落ちた。
ひとつ。
またひとつ。
すべてではない。深雪乃が見せた範囲だけ。古い痕の上ではなく、そのすぐそばへ。まるで、痛みの記憶を直接踏まないように、それでも避けていないと伝えるように。赫臣の唇は熱く、背中の冷えた皮膚に触れるたび、深雪乃の身体が小さく震えた。
彼は、穢れとして扱わない。
壊れたものとしても扱わない。
傷跡を消そうとも、見なかったことにしようともしない。ただ、それが深雪乃にあった時間だと受け止めるように、静かに口づけていく。
深雪乃の目元が熱くなった。
「……赫臣様」
声が、思ったより弱く出た。
赫臣はすぐに止まる。
「やめるか」
「いいえ」
深雪乃は首を横に振った。
「ただ」
「何だ」
「そのように丁寧にされると、困ります」
赫臣が少しだけ顔を上げる。
「雑にされた方がいいのか」
「それは嫌です」
「じゃあ困っとけ」
「勝手な方ですね」
「今さらだな」
深雪乃は、ほんの少しだけ息を吐いた。
笑ったわけではない。
けれど、胸の奥に張り詰めていたものが、少しだけ揺らいだ。
赫臣は立ち上がり、深雪乃の背を見ない角度へ戻った。彼女が襟を整えるのを待つ。急かさない。触れない。深雪乃は襦袢の襟をきちんと合わせ、紐を結んだ。新しい着物を肩へ掛ける指は、まだ少し震えている。
赫臣は、その震えを見ていた。
「深雪」
「はい」
「今夜は、俺がそばにいる」
「昨日もおっしゃいました」
「今日も言う」
「毎晩おっしゃるつもりですか」
「ああ」
「迷惑です」
「迷惑でも言う」
「横暴」
「知ってる」
赫臣は、深雪乃が帯を結ぶのを待ってから、再び近づいた。
今度は正面から。
彼の手が、深雪乃の頬へ触れる。
「もう一回言う」
「何をですか」
「可愛い」
深雪乃は眉を寄せた。
「語彙が偏っています」
「背中を見ても変わらねえ」
深雪乃は黙った。
赫臣の声は、まっすぐだった。
「傷を見ても、過去を少し知っても、俺の目に映るお前は変わらねえ。むしろ、余計に離したくねえ」
「そこは変わらないでください」
「無理だな」
「少しは努力を」
「深雪を離す努力はしねえ」
「胸を張って言わないでください」
赫臣は笑わなかった。
ただ、彼女を見つめた。
「俺は、お前の傷を綺麗だとは言わねえ」
深雪乃は、息を止めた。
「痛みを綺麗なものにする気はねえ。あれをつけた連中の罪まで、美談みてえに飾る気もねえ。ただ、お前がその傷を背負って生きてきたことは、俺がちゃんと覚える。お前が忘れたいなら一緒に忘れ方を探す。忘れられねえなら、忘れられねえまま抱く」
胸が、痛いほど詰まった。
深雪乃は何か言おうとした。
だが、言葉が出なかった。
赫臣は頬に口づけた。
次に、額へ。
髪へ。
そして、唇の端へ。
深雪乃が逃げないことを確かめてから、正面から抱き寄せた。今度は背中に触れた。着物越しに。傷に直接ではない。けれど、そこにあることを知った上で、避けすぎることもなく、包み込むように。
深雪乃の身体が一瞬強張った。
赫臣は止まる。
「痛いか」
「いいえ」
「怖いか」
少しだけ間が空く。
「……先ほどよりは」
「少ないか」
「はい」
赫臣は、深雪乃を抱きしめた。
深雪乃は、彼の胸元に額を寄せた。
「私は」
声が低くなる。
「自分の傷を、好きにはなれません」
「ならなくていい」
「見るのも、触れられるのも、本当は嫌です」
「そうだな」
「でも」
深雪乃は、赫臣の着物を掴んだ。
「あなたが、汚いものを見る目をしなかったので」
赫臣の腕が、深くなる。
「するわけねえだろ」
「……それが、不思議です」
「俺はお前に惚れてる」
「そればかりですね」
「便利な真実だからな」
「便利に使いすぎです」
赫臣は、髪に口づけた。
「大好きだ」
「今、そういう場面では」
「今だから言う」
「先ほども聞きました」
「何度でも言う」
深雪乃は、彼の胸元を軽く叩いた。
弱い力だった。
「騒がしい方」
「黙るか」
「黙ると、余計に怖い顔をなさるので」
「じゃあ喋る」
「極端です」
「可愛い。綺麗。大好きだ。愛してる」
「増やせばいいというものではありません」
「足りねえ」
「あなたの語彙ではなく、加減が足りません」
赫臣は、ようやく少しだけ笑った。
その笑いに、深雪乃の身体から力が抜ける。
背中の傷は消えない。
過去も消えない。
見られた事実も、口づけられた感触も、すぐに整理できるものではない。だが、赫臣の腕の中で、深雪乃は初めて、背中の痕をただの恥や恐怖だけでなく、誰かに抱かれたまま存在させることができた。
それは、とても怖いことだった。
同時に、少しだけ息がしやすかった。
赫臣は、彼女の背を着物越しにゆっくり撫でた。
「嫌なら言え」
「……はい」
「本当に言え」
「しつこいです」
「しつこくする」
「でしょうね」
深雪乃は目を閉じた。
行灯の火が揺れる。障子の向こうでは、まだ雨が降り出しそうな風が庭を撫でている。北蔵の事件も、母の鏡の謎も、白絹の幻術も、赫臣が話さない心当たりも、すべて終わっていない。
けれど、今は赫臣の胸元にいた。
背中の傷を知られたあとでも。
見世物ではないと冷たく言ったあとでも。
赫臣は、離れなかった。
その事実が、深雪乃の中に静かに落ちる。
痛みの記憶を完全に癒すには、ほど遠い。
けれど、古い傷の上に、別の熱が一つだけ残った。
鞭の痛みではなく。
哀れみでもなく。
赫臣が、深雪乃の過去ごと抱いた熱だった。




