第19話 序盤の初夜
雨が降り始めた。
最初は、障子の向こうで庭木の葉を撫でる程度だった。湿った風が軒をくぐり、庭石に残っていた夜の冷えを動かす。やがて雨粒は少しずつ重くなり、瓦を叩き、樋を伝い、縁側の端から細い糸のように落ち始めた。
鵺喰家の夜に、雨音が満ちていく。
深雪乃は、赫臣の腕の中にいた。
着替えの途中で背の傷を見られ、襟を押さえ、「見世物ではありません」と冷たく言った。赫臣は怒った。誰がやった、と問うた。深雪乃は、数が多すぎます、百鬼夜行でも残業になりますよ、と毒を吐いた。いつものように、痛みを冗談の形に変えて逃がそうとした。
けれど、赫臣は笑わなかった。
笑わずに、傷を穢れとして扱わなかった。
哀れみもしなかった。
ただ怒り、それから、深雪乃の過去ごと抱くように口づけた。背中の傷跡の近くへ。痛みの記憶を踏み荒らさないように、それでいて見なかったことにもしないように。
その熱が、まだ背中に残っている。
傷は消えない。
だが、赫臣の口づけの熱が、その近くに重なっていた。
深雪乃は、赫臣の胸元に額を預けたまま、彼の着物を掴んでいた。片袖を抜いた崩し和装の襟元。指をかけた布は、何度も掴んだせいで少ししわになっている。赫臣はそれを嫌がらない。むしろ、そのしわを見るたびに、嬉しそうな目をする。
今もそうだった。
赫臣の指が、深雪乃の髪を撫でる。雨に湿った空気の中、彼の手だけが熱い。耳飾りが小さく鳴り、首元の金属が行灯の光臣はそれを嫌がらない。むしろ、そのしわを見るを拾った。
「深雪」
彼の声は低かった。
いつもより少し、余裕がない。
深雪乃は顔を上げた。
蒼い瞳が近い。いつものように甘くて、強くて、逃げ場のない目。けれど、そこには先ほどまでの怒りの余韻もあった。背中の傷を見た怒り。自分が間に合わなかったことへの怒り。深雪乃が痛みを冗談に変えるしかなかった時間への怒り。
それが、今は別の熱に変わりかけている。
深雪乃は、赫臣の襟を握る指に力を込めた。
逃げなかった。
むしろ、自分から彼を引いた。
赫臣の息が止まる。
「深雪」
「途中でやめたら怒ります」
言葉は、思ったより静かに出た。
けれど、室内の空気を変えるには十分だった。
赫臣の目が、わずかに見開かれる。
余裕を失った顔だった。
今まで、赫臣はいつも近かった。強引で、甘くて、口づける時も抱く時も、深雪乃の反応を見て楽しむような余裕があった。けれど今、その余裕が初めて薄く剥がれた。
彼の指が、深雪乃の頬に触れる。
熱い。
「煽るな」
声が掠れていた。
深雪乃は、赫臣の襟を掴んだまま見上げた。
「あなたが勝手に始めたので」
その先の言葉は、深い口づけに呑まれた。
最初は、啄むようだった。
ちゅ、と短く触れる。
離れる。
また触れる。
赫臣の唇が、深雪乃の唇の形を確かめるように、何度も軽く重なった。深雪乃は目を閉じる。額でも、髪でも、手の甲でもない。何度も奪われ、何度も熱を残された唇が、今はゆっくりと赫臣に確かめられていく。
ちゅ、ちゅ、と小さな音が雨音に混じる。
深雪乃の息が、少しずつ乱れた。
「ん……」
声が漏れる。
赫臣の腕が強くなる。
啄むだけだった口づけが、少し深くなった。
唇が押し重なり、離れかけたところをまた捕まえられる。ちゅ、と濡れた音。次に、ぬ、と深く沈むような音。赫臣の吐息が頬にかかる。煙管の香りが、近い。雨の匂いと混ざり、深雪乃の呼吸の中へ入ってくる。
「ふ、ん……っ」
深雪乃は、赫臣の襟を握る指を強めた。
足元が不安定だから。
そう言い訳しようとして、もう無理だと分かった。今は立っているわけではない。赫臣の腕の中にいる。彼に抱き寄せられ、畳の上で膝を崩しかけている。足元のせいにはできない。
掴んでいたいから、掴んでいる。
それだけだった。
赫臣はそれに気づいた。
彼は一瞬だけ唇を離し、深雪乃の指を見る。
「掴んだな」
「……言わないでください」
「可愛い」
「今、それを言う場面ですか」
「今だから言う」
前話と同じ言葉だった。
だが、今は熱が違った。
赫臣は、深雪乃の頬を包み、また口づけた。
今度は啄むだけではない。
深い。
長い。
くちゅ、と湿った音がして、深雪乃の肩が小さく跳ねた。彼の唇が角度を変え、さらに重なる。雨音が強くなる。障子の向こうで、庭の葉が濡れて重そうに揺れる。その音に紛れるように、二人の吐息が重なった。
「ん、ぁ……っ」
声が、今までよりはっきり漏れた。
深雪乃は自分で驚き、赫臣の襟に顔を寄せようとした。だが、赫臣は逃がさない。頬を包んだまま、唇を追う。ちゅ、と短く。すぐに深く。何度も、何度も。
赫臣の余裕が薄れている。
そのことが、深雪乃にも分かった。
いつものようにからかう言葉は少ない。可愛い、と言う声も、余裕のある甘さだけではなく、こぼれ落ちるようだった。彼の指が髪に入り、耳の横を撫で、首筋に触れかけて止まる。傷や恐怖を思い出させないように、触れる場所を選んでいる。
それでも、熱は激しかった。
「深雪」
赫臣が唇のすぐそばで名を呼ぶ。
深雪乃は返事をしようとした。
けれど、声は言葉にならなかった。
「……っ、ふ、ぁ」
吐息だけが漏れる。
赫臣の目が熱を増す。
「煽るなって言っただろ」
「勝手に……聞いているだけでしょう」
「声が可愛い」
「言わないで」
「無理だ」
また、口づけられる。
ちゅ、くちゅ、と音が続いた。
今までで一番激しい。
深雪乃は、そう思った。
障子裏で初めて唇を奪われた時も、北蔵の前で疑いを打ち消すように口づけられた時も、白絹の幻術の後も、雨宿りの軒下も、赫臣の口づけは深く、強かった。だが今は、何かが違う。
深雪乃自身が、拒まない。
それどころか、襟を掴み、赫臣を引き寄せている。
自分から。
それが、赫臣の余裕を崩している。
深雪乃は、薄く目を開けた。
近すぎる距離で、赫臣の睫毛が見える。金の髪が頬にかかる。蒼い瞳は半ば伏せられ、深雪乃だけを捉えている。彼は本当に、自分だけを見ていた。
白絹の幻術の声が、遠くで揺れた。
飽きた。
面倒だ。
壊れものみたいな女に付き合っていられると思ったか。
けれど、その声を、赫臣の熱が塗りつぶしていく。
深雪乃は、唇が離れた一瞬に息を吸った。
「赫臣様」
名前を呼ぶと、赫臣の喉が小さく鳴った。
「もう一回」
「……赫臣様」
「もう一回」
「強欲です」
「お前にだけな」
「赫臣様」
その声は、また口づけに呑まれた。
今度は、深雪乃も目を閉じ、逃げなかった。
ちゅ、ぬ、くちゅ、と音が雨に混じる。
赫臣の吐息が深くなる。
深雪乃の声は、もう抑えきれない。
「ん……っ、ふ、ぁ……赫臣、さま……っ」
自分の声が恥ずかしい。
だが、赫臣はその声を聞くたびに、さらに深く口づける。まるで、深雪乃の声をひとつずつ覚えるように。昨日、幻術の後で「怖かった声も覚えてる」と言った彼が、今は違う声を刻もうとしている。
恐怖ではない声。
泣き叫ぶ声ではない。
深雪乃自身が、彼を掴んで漏らす声。
赫臣は、それを大事そうに、同時に抑えきれない熱で受け止めていた。
深雪乃の背が、ゆっくり畳へ近づく。
赫臣は慌てたように手を回し、痛む肩や背の傷に触れない角度を探す。余裕を失っているのに、そこだけは忘れない。強引なのに、傷へは触れない。背中を直接畳へ押しつけないよう、近くの薄い掛けを引き寄せる。
その仕草に、深雪乃の胸がまた震えた。
「……そういうところが」
息の間に、どうにか言う。
赫臣が額を寄せる。
「何だ」
「ずるいです」
「何が」
「余裕をなくしても、傷は避けるところです」
赫臣の表情が、一瞬だけ苦しげに歪んだ。
「当たり前だろ」
「当たり前ではありません」
「俺には当たり前だ」
それだけ言って、赫臣は再び口づけた。
今度は、深雪乃の唇だけでなく、頬へ、目元へ、額へ、髪へと熱が落ちる。ひとつひとつ確かめるように。可愛い、と低く言う。大好きだ、と囁く。愛してる、とまだ夜の深さには早すぎるほど重い言葉を落とす。
深雪乃は、息を震わせた。
「……言いすぎです」
「足りねえ」
「足りています」
「足りねえ」
赫臣の指が、帯へ触れた。
深雪乃の身体が、ほんの少し強張る。
赫臣はすぐ止まった。
「深雪」
「……はい」
「嫌なら、ここで止める」
その声に、深雪乃は赫臣を見た。
赫臣の余裕はない。
けれど、待っている。
止まる気などなさそうな熱を抱えながら、それでも彼女の言葉を待っている。昨日までなら、そのまま勢いで抱き込んでいたかもしれない。だが、今は待っている。命令ではなく、深雪乃の返事を。
深雪乃は、赫臣の襟を掴み直した。
「途中でやめたら怒ります、と申し上げました」
赫臣の目が、燃えるように変わった。
「煽るな」
「二度目です」
「三度でも言う」
「あなたが勝手に始めたので」
「お前が続けろって言った」
「言いました」
赫臣は、短く息を吐いた。
笑おうとして、笑えなかったような顔だった。
「深雪」
「はい」
「大事にする」
その言葉が、深雪乃の胸に落ちた。
赫臣の声は、ひどく真剣だった。
深雪乃は、答えの代わりに彼の襟を引いた。
唇が重なる。
雨音が強くなる。
帯を解く指が、震えるほど丁寧だった。赫臣の手は熱く、けれど急ぎすぎない。深雪乃は目を閉じ、襟を掴んでいた手を少しずつ緩める。帯が畳へ落ちる音がした。
しゅる、と絹がほどける音。
とん、と帯留めが畳を打つ小さな音。
雨が屋根を叩く音。
赫臣の吐息。
深雪乃の声。
「ん……っ、ぁ……」
赫臣の装身具が、ひとつずつ外されていく。
耳飾りはそのままだが、指輪が畳の上の小箱へ置かれた。腕輪が外され、首飾りが枕元へ置かれる。金属が重なり、かすかな音を立てた。彼の装身具は退魔具であり、霊糸の起点でもある。その刃のようなものが、深雪乃のそばから少しずつ離れていく。
枕元に置かれた指輪が、行灯の光を受けて鈍く光った。
赫臣は煙管を手に取り、火を落とした。
煙管の香りだけが残る。
甘く、焦げた香り。
雨音に混ざって、夜の中へ広がる。
「深雪」
赫臣の声が、近い。
「怖いか」
「……少し」
「止めるか」
「怒ります」
赫臣が、初めてそこで少し笑った。
余裕のある笑みではない。
どうしようもなく胸を掴まれた男の、弱い笑みだった。
「怒らせたくねえな」
「では」
「ああ」
口づけが落ちる。
啄むように。
すぐに深く。
ちゅ、くちゅ、と音が重なり、深雪乃の吐息が震えた。
行灯の光が、少しずつ小さくなる。
障子の向こうでは、雨が途切れず降っている。瓦を叩き、庭の葉を濡らし、夜の鵺喰家を白く煙らせている。親族たちの声も、使用人の足音も、北蔵の血の匂いも、すべて遠ざかっていく。
残るのは、赫臣の熱だった。
帯が落ちた畳。
枕元に並ぶ装身具。
煙管の香り。
外の雨音。
赫臣の指が髪を撫でる感触。
深雪乃の声を呑み込む、深い口づけ。
夜は、静かに二人を隠した。
雨は、明け方近くまで降り続いた。
朝になっても、空はまだ白く濡れていた。
障子越しの光は柔らかく、部屋の中に薄い朝の色を落としている。庭の水音が、昨夜より少し澄んで聞こえた。行灯は消え、枕元には赫臣の装身具が丁寧に並べられたまま残っていた。指輪、腕輪、首飾り。夜の間に外されたものたちが、朝の光を受けて静かに沈黙している。
深雪乃は、布団の中で目を覚ました。
身体は重かった。
けれど、不快な重さではなかった。昨夜の雨音、赫臣の声、帯が落ちた音、煙管の香りが、まだ部屋の空気に残っている。背中の傷が痛むことはない。脇腹も、肩も、強く押された痛みはなかった。
赫臣が、隣にいた。
起きていた。
片肘をつき、深雪乃を見ている。
その目があまりにも甘くて、深雪乃は反射的に布団を少し引き上げた。
「……見ないでください」
「無理」
「朝から返事が早いです」
「可愛いからな」
「昨日から語彙が進歩しておりません」
「大好きだ」
「増やせばよいというものでは」
「愛してる」
深雪乃は言葉を失った。
赫臣は、本気で何度でも言うつもりらしい。
朝の光の中、彼は深雪乃の髪へ手を伸ばした。
「触るぞ」
深雪乃は少しだけ目を伏せた。
「……髪だけなら」
「髪だけから」
「から、が不穏です」
「今は髪だけ」
「信用してよろしいのですか」
「努力する」
「その言葉も信用が薄いです」
赫臣は笑いながら、深雪乃の髪をそっと梳いた。
指で。
ゆっくりと。
昨夜、何度も撫でられた髪。雨の匂いと煙管の香りを含んだ黒髪を、彼は丁寧に指でほどいていく。引っかかるとすぐ止まり、無理に引かない。深雪乃は最初、身体を硬くしたが、すぐに力を抜いた。
赫臣の指は、痛くなかった。
「大好きだ」
彼は髪を梳きながら言った。
深雪乃は、布団の中で顔を少し隠す。
「朝から重いです」
「夜も言った」
「朝も言う必要が?」
「ある」
「どこに」
「俺の中に」
「たいへん個人的な理由ですね」
「深雪に関わるなら個人的でいい」
赫臣は、髪の一房を指に絡め、そこへ口づけた。
「愛してる」
深雪乃の胸が、静かに熱くなる。
「……言いすぎです」
「足りねえ」
「足ります」
「足りねえ」
赫臣は、また髪を梳いた。
何度も。
深雪乃の髪を手の中で整えながら、そのたびに「大好きだ」「愛してる」と言った。囁くように。確かめるように。昨夜の熱が朝になっても消えていないことを、言葉で何度も置いていくように。
深雪乃は、うるさいと言おうとした。
けれど、声にならなかった。
昨夜、背の傷を見られた。
過去ごと抱かれた。
自分から襟を掴み、途中でやめたら怒ると言った。
暗い夜と雨音の中で、赫臣の装身具が枕元へ置かれ、煙管の香りの中で、深雪乃は彼を拒まなかった。
朝が来た。
そして彼は、まだ隣にいる。
飽きていない。
面倒だと言わない。
壊れものみたいな女に付き合っていられないとも言わない。
ただ、髪を梳きながら、大好きだ、愛してる、と何度も言っている。
それが、胸の奥を静かに揺らした。
「……赫臣様」
深雪乃は、小さく呼んだ。
赫臣の指が止まる。
「もう一回」
「朝から強欲です」
「昨日からだ」
「自覚があるなら」
「深雪」
「……赫臣様」
赫臣は、深く息を吐いた。
まるでそれだけで満たされたように。
それから、深雪乃の髪にまた口づけた。
「大好きだ」
「はい」
「愛してる」
「……はい」
初めて、否定しなかった。
赫臣の蒼い瞳が、静かに見開かれる。
深雪乃は布団を少し引き上げ、顔を隠した。
「見ないでください」
「無理」
「本当に、返事が早いです」
「可愛い」
「語彙が戻りました」
「大好きだ」
「増やさないでください」
「愛してる」
「……聞こえております」
「聞かせてる」
朝の雨上がりの光が、障子越しに部屋へ満ちていく。
枕元の装身具は、まだ静かに並んでいる。
昨夜落ちた帯は、畳の端に丁寧に畳まれていた。いつの間に赫臣が整えたのか、深雪乃は知らない。煙管は火を落とされたまま、香りだけを薄く残している。
赫臣は、深雪乃の髪を梳き続けた。
壊れもののようではなく。
手放したくないものを、朝の光の中で確かめるように。
深雪乃は、まだ布団の中で顔を隠していた。
けれど、逃げなかった。
赫臣の指が髪を通るたび、胸の中に昨夜とは違う熱が残る。
それは痛みではなかった。
鞭の記憶でも、蔵の冷えでも、幻術の恐怖でもない。
雨の夜を越えて、朝まで残った赫臣の愛だった。




