第20話 井戸端の女中頭
朝の鵺喰家には、雨の匂いが残っていた。
夜のあいだ降り続いた雨は、夜明け前にようやく細くなり、明るくなる頃には止んでいた。だが、庭石は濡れたままだった。苔は深い緑に沈み、樋の先からは時折、思い出したように水滴が落ちる。池の水面は曇り空を映し、濡れた葉の重みに耐えかねた枝が、風もないのにぽたりぽたりと雫を落としていた。
深雪乃は、控えの間の障子の前で膝を揃えて座っていた。
髪は、赫臣が梳いてくれたばかりだった。
朝の光の中で、彼は何度も「大好きだ」「愛してる」と言った。昨夜の雨音も、帯が畳へ落ちた音も、枕元へ置かれた装身具の金属音も、煙管の甘く焦げた香りも、まだ部屋の隅に残っている気がした。深雪乃はそのたびに顔を背けたが、赫臣はやめなかった。
言いすぎです、と言った。
足りねえ、と返された。
会話としては毎度ながら破綻している。人の言葉を受け取っているようで、赫臣は自分の熱量で返してくる。よくそれで会話が成り立つと思っているものだ。鬼の言語体系はたいへん乱暴である。
けれど、深雪乃はもう、それを完全には拒めなかった。
背中の傷を見られた。
過去の痛みを知られた。
その上で、赫臣は離れなかった。
初めて、深雪乃の方から彼の襟を掴んだ。途中でやめたら怒ります、と言った。思い出すだけで、頬が熱くなる。あの時の自分は何を言っていたのだろう。昨日までの自分が聞いたら、きっと眉をひそめる。いや、昨日の自分もすでにかなり赫臣に振り回されていたので、大差はないかもしれない。人は意外と早く崩れる。あまり認めたくはないが。
赫臣は今、蓮台と砂笙に呼ばれて北蔵へ向かっている。
蓮台累は昨夜から鵺喰家に泊まり込み、北蔵の現場と喜周の遺体を調べていた。封印札の二重貼り、外から糸で掛け金を引いた仕掛け、退魔糸による傷、母の髪飾りの欠片。まだ分からないことは多い。赫臣は深雪乃のそばを離れたがらなかったが、蓮台が「お前の顔を見ないと親族どもがまた面倒な妄想を始める」と言い、砂笙が「旦那様不在の方が面倒です」と重ねたため、渋々立った。
渋々、という顔をここまで堂々とできる大人も珍しい。
去り際に、赫臣は深雪乃の髪へ口づけた。
深雪乃が「人前です」と言うと、「砂笙しか見てねえ」と返した。砂笙は深く天井を見上げていた。彼の胃はきっと、篝火家の公式な犠牲である。
部屋には、朝の静けさだけが残っていた。
静かすぎる。
鵺喰家の静けさは、いつも底に何かを隠している。深雪乃はそれをよく知っている。誰かが悪意を練っている時、誰かが告げ口をしている時、誰かが次の嫌がらせを決めている時、この家は一瞬だけ妙に静かになる。
深雪乃は、膝の上に置いた母の鏡を見下ろした。
沈丁花の文様が、朝の光を受けて淡く光っている。
昨夜、鏡は病で痩せた母を映した。母の手を握る誰かの手も。黒い組紐と銀の輪。その気配を、赫臣は知っているようだった。けれど、まだ話さなかった。深雪乃は少しだけ待つと言った。待つと決めたのは自分だ。けれど、胸の奥に小さな棘は残っている。
母の最期。
母の遺品。
封印蔵。
髪飾り。
そして、不自然に死なない自分の身体。
すべてが、細い糸で結ばれているようだった。
その糸を誰が引いているのか、まだ分からない。
障子の向こうで、衣擦れがした。
「深雪乃様」
声は、小鈴だった。
深雪乃は、顔を上げた。
「何か」
返事をすると、障子の向こうの気配が少し強張った。小鈴は以前、深雪乃を押さえつけ、母の櫛が折られる場にいた女中の一人だ。北蔵の事件以降、彼女は深雪乃を見るたびに目を伏せるようになった。恐れているのは深雪乃ではない。深雪乃の背後にいる赫臣だ。
それでも、声の奥にはまだ小さな棘が残っている。
「お茶を、お持ちしてもよろしゅうございますか」
「結構です」
即座に答えると、障子の向こうで小さく息を呑む気配がした。
「ですが、朝から何も」
「篝火家の方が用意してくださいます」
「……さようでございますか」
わずかな沈黙。
そこに、昔の小鈴ならすぐに笑いを混ぜただろう。人間臭い娘が偉そうに、と。妾腹が客人のように、と。けれど今は言わない。言えない。言えば、赫臣の耳に入る可能性があるからだ。
深雪乃は、静かに言った。
「用が済んだなら、お下がりください」
「はい」
小鈴の足音が遠ざかる。
その少し後、廊下の向こうで別の声がした。
低く、年配の女の声。
薄墨祢々だった。
深雪乃は、鏡を握る指に力を込めた。
祢々はまだ、屋敷の中を動いている。女中頭として、事件後の使用人管理を任されているからだ。喜周が死んだあとも、白絹の幻術のあとも、母の遺品が殺人現場に現れても、彼女は淡々と女中たちへ指示を出していた。その顔には、昔から変わらぬ硬さがある。
母の遺品を管理していた女。
深雪乃へのいじめを、使用人たちの間で黙認し、時には整えていた女。
食事を抜く日を決め、冷えた白湯を出し、蔵へ閉じ込められた時にも鍵の所在を知っていた女。母の櫛が隠された時も、折られた時も、彼女はそこにいた。手を下したのは夜岐であっても、場を作ったのは祢々だった。
死なない方は楽でよろしゅうございますね。
あの声を、深雪乃は忘れていない。
廊下の向こうで、祢々の声が近づく。
「小鈴。深雪乃様にお茶をお持ちすると申したのでしょう」
「お断りになられました」
「それでは女中の務めになりません。お断りになられても、お出しするのが務めです」
「ですが、篝火家の方が」
「篝火家、篝火家と」
祢々の声に、わずかないらだちが混じった。
「この屋敷は鵺喰家でございます」
深雪乃は、障子の向こうを見た。
足音が止まる。
祢々が、障子のすぐ外に立ったのが分かった。小鈴は少し後ろにいる。朝の廊下に、湿った木の匂いと女中たちの気配が重なる。
「深雪乃様」
祢々が声をかけた。
表向きは丁寧だった。
だが、深雪乃はその丁寧さの裏を知っている。
「お茶をお持ちいたしました。お召し上がりくださいませ」
「結構です」
「朝から何も召し上がらずにおりますと、お身体に障ります」
「私の身体の心配をされるとは、珍しいですね」
障子の向こうで、祢々が黙った。
すぐに、薄く笑う気配がした。
「深雪乃様は、お丈夫でいらっしゃいますから」
その言葉だけで、背中の古い傷が冷えた。
深雪乃は目を細める。
祢々は続けた。
「少しお召し上がりにならずとも、少しお疲れになられても、すぐにお戻りになられる。死なない方は楽でよろしゅうございますね」
小鈴が息を呑んだ。
おそらく、いまそれを言うべきではないと分かったのだろう。赫臣が近くにいないから、祢々の口が昔の癖を取り戻した。人はなぜ、自分の首に縄を掛ける瞬間だけ懐かしい口調へ戻るのか。愚かさにも情緒があるらしい。必要ない情緒だが。
深雪乃は、鏡を膝の上に置いたまま、静かに返した。
「祢々」
「はい」
「楽なら、あなたも一度お試しになればよいのでは」
障子の外の空気が止まった。
「痛くても死なず、飢えても倒れず、閉じ込められても朝には生きている。そのたび、周囲に安心される気分は、なかなか得がたいものです」
祢々は答えなかった。
深雪乃は、さらに言った。
「もっとも、あなたは他人の苦痛を遠くから眺める方がお好きでしょうから、ご自分で体験なさるには向いていないかもしれません」
小鈴が小さく震えた。
祢々の声は、少し硬くなる。
「深雪乃様は、篝火様のお側にいらしてから、お口がますます達者になられましたね」
「昔からです。皆さまが聞く耳をお持ちでなかっただけです」
「……お茶は置いておきます」
「持ち帰ってください」
「失礼いたします」
障子の前に膳を置く音がした。
深雪乃は、それ以上何も言わなかった。飲むつもりはない。少ししてから、篝火家の従者に下げてもらえばいい。鵺喰家で出されたものを、今さら不用意に口へ入れる気にはなれなかった。
祢々と小鈴の足音が遠ざかる。
深雪乃は、母の鏡を手に取った。
鏡面には、自分の顔が映っている。少し青い顔。赫臣に髪を梳かれたばかりの黒髪。昨日よりも、どこか輪郭が変わったように見える。実際には何も変わっていない。けれど、赫臣に背の傷を見られ、抱かれ、朝まで愛を囁かれた記憶が、鏡の中の自分を少し違って見せているのかもしれない。
それがまた恥ずかしく、深雪乃は鏡を閉じた。
その時、廊下の遠くで悲鳴が上がった。
女の声だった。
短く、喉を引き裂くような声。
深雪乃は立ち上がった。
襖の向こうで、誰かが走る音がする。足袋が廊下を滑る音。桶が倒れる音。下女たちのざわめき。男の声。小鈴の声も混じっている。
「井戸端で……!」
その言葉だけが、廊下を伝って届いた。
深雪乃は障子を開けた。
篝火家の従者がすぐに現れる。
「深雪乃様、お部屋に」
「何があったのですか」
従者は迷った。
だが、深雪乃の目を見て答えた。
「井戸端で、人が倒れております」
「誰です」
従者は、息を飲むように一瞬黙った。
「薄墨祢々です」
深雪乃の胸が、冷たく沈んだ。
祢々。
つい先ほど、障子の向こうで笑った女。
死なない方は楽でよろしゅうございますね、と言った女。
深雪乃は一歩踏み出した。
従者が止めようとする。
「危険です。旦那様を」
「行きます」
「しかし」
「赫臣様は、すぐに気づかれます」
言ってから、自分が自然に赫臣様と呼んだことに気づいた。だが、今はそれどころではない。
深雪乃は廊下へ出た。
井戸端は、母屋の裏手にある。
昔から、深雪乃が何度も水を運ばされた場所だった。冬の朝、指先が赤くなるほど冷たい水を汲み、重い桶を持たされ、廊下を拭くために行き来した。水をこぼせば叱られた。こぼさなくても、誰かが足を引っかけ、桶を倒し、「不器用ね」と笑った。井戸端の石は濡れていることが多く、転べば膝を打った。膝の傷はすぐ塞がったが、痛みは残った。
そこへ向かう道は、深雪乃の身体が覚えていた。
廊下を曲がり、炊事場の脇を抜け、裏庭へ出る。
井戸端には、すでに人が集まっていた。
下女たちが震えながら壁際に寄り、下男たちは遠巻きに立っている。小鈴は顔を真っ青にして、手で口元を押さえていた。佐助もいる。御厨数馬が駆けつけ、親族の一人が庭石の上で足を止めている。少し離れた場所に、蓮台累がいた。彼は北蔵から急いで来たのか、外套の裾が乱れていた。
その隣に、赫臣がいた。
深雪乃を見た瞬間、赫臣の顔が変わる。
「深雪」
彼はすぐに歩み寄ろうとした。
深雪乃は首を横に振った。
「見ます」
「見なくていい」
「見ます」
「深雪」
「祢々です」
その一言で、赫臣は止まった。
深雪乃が見なければならない理由を、彼は理解したのだろう。深雪乃にとって祢々が何だったのか、すべてではないにしても知っている。母の遺品管理に関わり、使用人たちのいじめを管理していた女。深雪乃の痛みを、屋敷の仕事の一部のように整えていた女。
赫臣は、深雪乃の横へ来た。
「俺の後ろから出るな」
「命令ですか」
「お願いにしてもいいが、今は聞け」
「……はい」
深雪乃は、赫臣の少し後ろから井戸端を見た。
薄墨祢々は、井戸の横に倒れていた。
身体は仰向けに近い形で、片腕だけが井戸の縁へ伸びている。灰色の着物は乱れていない。帯も解けていない。髪も大きく崩れてはいなかった。水をかぶった様子はない。全身は乾いている。少なくとも、雨に濡れたような重さはなかった。
だが、口元だけが濡れていた。
顎へ向かって水が伝い、首筋の一部を濡らしている。唇は青白く、半ば開いていた。そこから、まだ水が少しだけ滲んでいるように見えた。
袖も濡れていた。
両袖ではない。右袖の先だけがぐっしょりと濡れ、井戸の石に触れている。袖口から水がぽたりと落ち、石の上に小さな染みを作っていた。
溺死。
最初に見た者は、そう思うだろう。
だが、井戸に落ちたなら、全身が濡れているはずだった。髪も、着物も、帯も、襟元も。祢々の身体には、それがない。口元と袖だけが濡れている。まるで、水を飲まされ、袖だけを井戸へ突っ込まれたように。
深雪乃の喉が、ゆっくり詰まった。
蓮台がしゃがみ込み、祢々の口元を確認している。
「息はない」
低い声だった。
「口腔内に水。鼻の周りにも少量。だが、着物はほとんど濡れていない。井戸へ落ちたわけじゃないな」
赫臣が井戸を見る。
「じゃあ、溺れさせた」
「そう見るのが自然だ」
蓮台は祢々の袖を見た。
「右袖だけ濡れている。井戸の水を使った可能性がある。だが、ここでどうやって口元だけ水を」
言いかけて、蓮台は周囲を見た。
「誰が最初に見つけた」
小鈴が震えながら手を挙げた。
「わ、わたくしです。祢々様に、水桶を持ってくるよう言われて……井戸端へ来たら、もう」
「倒れていた?」
「はい」
「最後に生きているのを見たのは」
小鈴の視線が、一瞬だけ深雪乃へ向いた。
それからすぐ伏せる。
「先ほど、深雪乃様のお部屋へお茶を」
場の空気が変わる。
深雪乃は、それを肌で感じた。
赫臣の妖気が、わずかに鋭くなる。
小鈴は慌てて続けた。
「祢々様が、お茶を置いて……それから、炊事場の方へ戻られて。わたくしは、膳を下げる準備をしておりました。祢々様は井戸端へ向かわれて」
蓮台が問う。
「その時、誰か一緒にいたか」
「いいえ」
「祢々は何か言っていたか」
小鈴は唇を震わせた。
言うべきか迷っている。
深雪乃は、静かに言った。
「死なない方は楽でよろしゅうございますね、と」
小鈴が顔を上げた。
その目に、怯えが浮かんだ。
深雪乃は祢々の死体を見たまま続ける。
「私へ言いました。つい先ほど。小鈴も聞いていたはずです」
小鈴は、がくがくと頷いた。
「はい……聞きました」
蓮台が目を細める。
赫臣は黙っていた。
だが、その沈黙が怖かった。祢々が生きていれば、彼はその場で怒っただろう。いま祢々は死んでいる。怒りの向け先が失われたように、赫臣の周囲の空気だけが冷えていく。
親族の一人が、小さく言った。
「では、罰が当たったのでは」
誰もすぐには咎めなかった。
祢々は深雪乃を虐げた女中頭だった。
母の遺品を管理し、隠し、夜岐の意を汲み、使用人たちの嫌がらせを整えていた。深雪乃が食事を抜かれた日も、蔵へ閉じ込められた日も、彼女は知っていた。死なない身体を理由に、痛みを軽く見た。
その祢々が、井戸端で死んでいる。
全身は濡れず、口元だけ水に濡れ、袖だけ井戸の水を吸っている。
まるで、水を扱ってきた女が、水で裁かれたように。
その場にいる誰もが、口に出さずとも同じことを思ったのが分かった。祢々が受けたものは、単なる死ではなく、何かの報いのように見える。死なない方は楽、と笑った女が、息を奪われている。
深雪乃は、祢々の顔を見た。
勝ち誇る気持ちは湧かなかった。
祢々は嫌いだ。
憎んでいないとは言えない。
母のものを管理していたことも、深雪乃を傷つける仕組みを整えていたことも、許せるはずがない。
それでも、目の前で死体となった女を見ると、胸の奥が冷えていく。言葉を返す相手が、もういない。祢々の口からは、二度と嫌味も、嘲りも、言い訳も出ない。死は、時にあまりにも乱暴に会話を終わらせる。
赫臣が深雪乃を見た。
「大丈夫か」
「……はい」
「嘘だな」
「嘘です」
正直に答えると、赫臣の目が少しだけ柔らかくなった。
蓮台が祢々の袖を紙で持ち上げる。
「袖の内側に、紙の繊維がついているな」
「紙?」
御厨が顔を上げる。
蓮台は頷いた。
「水でふやけている。何か紙を握っていたか、袖に入れていた可能性がある」
深雪乃は、井戸を見た。
古い石で組まれた井戸だった。幼い頃から知っている。何度も水を汲まされた。石の縁には細かな傷があり、苔がつき、雨で濡れて黒くなっている。祢々の袖から落ちた水が、その石の上を伝っていた。
深雪乃は、ふと耳を澄ませた。
井戸からは、水音がするはずだった。
深い底で、水面が揺れる音。桶を下ろした時に響く、冷たい反響。雨上がりの井戸なら、周囲の水滴が石を叩く音も混ざる。
けれど、今、深雪乃の耳に届いたのは水音ではなかった。
ぴり。
紙を裂くような音。
細く、乾いた音。
濡れた井戸端には似つかわしくない音だった。
深雪乃は息を止めた。
ぴり、ぴり。
また聞こえる。
井戸の石から。
水の底ではない。
石の表面から、紙を破るような音がしている。古い和紙を指で裂く時の、繊維が抵抗しながら切れる音。遺言書の紙が擦れた音。父の書斎の前で聞いた、あの夜の紙の音に似ていた。
深雪乃の背筋が冷えた。
赫臣がすぐに気づく。
「深雪」
「音が」
「何の音だ」
深雪乃は、井戸の石を見つめた。
「水音ではありません」
蓮台が顔を上げる。
砂笙も、いつの間にか到着していた。彼は眼鏡の奥で深雪乃を見る。
「何が聞こえますか」
深雪乃は、喉を鳴らした。
「紙を破るような音です」
その場に、沈黙が落ちた。
雨上がりの井戸端で、死んだ女中頭のそばで、紙を破る音。
蓮台の表情が変わる。
砂笙も、井戸の石へ視線を落とした。
赫臣の蒼い瞳が、鋭く細くなる。
「遺響か」
彼が低く言った。
深雪乃は、まだ井戸の石から目を離せなかった。
ぴり。
ぴり、と。
紙を裂く音は、祢々の濡れた袖の水滴が石に落ちるたび、かすかに強くなる。
まるで、この井戸端で何かの紙が破かれたことを、石そのものが覚えているようだった。
深雪乃は、母の鏡を握る手に力を込めた。
祢々は、何かを破いたのか。
それとも、誰かに破かれたのか。
母の遺品を管理していた女。
遺言書が消えた夜。
父の書斎から聞こえた紙の音。
北蔵の封印札。
井戸端の濡れた袖。
すべてが、また細い糸で繋がり始める。
井戸の底からは、水音がしない。
聞こえるのは、紙を破る音だけだった。




