第21話 井戸端殺人のトリック解説
井戸端の石は、まだ濡れていた。
雨の名残ではない。祢々の袖から滴った水が、井戸の縁を伝い、石の目地へ染み込んでいる。その水は、庭の雨水よりも妙に澄んで見えた。朝の薄曇りの光を受けて、濡れた石だけが細く光っている。祢々の遺体は、白い布を掛けられたまま、井戸から少し離れた場所へ移されていた。だが、口元の水の跡も、右袖だけが濡れていた不自然さも、その場にいた者たちの目にはまだ残っている。
深雪乃は、赫臣の少し後ろに立っていた。
赫臣は約束通り、彼女の前へ立っている。けれど、完全に視界を塞ぐことはしなかった。見なくていい、と言いながら、深雪乃が見なければならないことも分かっている。だから彼は、彼女が必要なら井戸も、祢々の遺体も、使用人たちの顔も見られる位置に立ち、なおかつ何かがあればすぐ庇える距離を保っていた。
実に面倒な気遣い方だった。
乱暴なくせに、こういうところだけ細かい。
深雪乃は、母の鏡を握っていた。
昨夜、病で痩せた母と、母の手を握る誰かの手を映した鏡。白絹の幻術を弾いた鏡。沈丁花の文様を持つ、母の遺品。祢々の袖の水には、その鏡を清めるための塩が混じっているかもしれないと、蓮台が言った。
まだ確定ではない。
だが、井戸端の石から聞こえた紙を破るような音と、祢々の濡れた袖、そして母の遺品管理に関わっていた祢々の立場が、深雪乃の中で不吉に繋がっていた。
蓮台累は、井戸のそばにしゃがみ込んでいた。
帝都警視庁の怪異事件担当である男は、濡れた石を紙片で拭い、匂いを確かめるように目を細めた。傍らには砂笙がいる。細い指で小さな硝子瓶を持ち、袖から採った水を入れていた。少し離れたところでは、白絹が腕を組んで立っている。昨日の幻術の件があるため、赫臣の周囲の霊糸は彼女の方角へずっと薄く張られていた。
白絹は気づいている。
だが、何も言わない。
言えば本当に髪飾りでは済まないと分かっているのだろう。さすがに玉藻前の先祖返りは、火に手を突っ込む時も火傷の計算はするらしい。そもそも突っ込まない方が賢いのだが、そこは狐の血が余計な趣味を持っているのかもしれない。
蓮台が、祢々の遺体の方へ視線を向けた。
「井戸で溺れたわけじゃないな」
御厨数馬が、顔を青くしたまま聞き返す。
「井戸で、ではないと?」
「ああ。井戸に落ちて溺れたなら、全身が濡れる。髪も、襟も、帯も、裾もな。祢々の身体は濡れていなかった。濡れているのは口元と右袖だけだ」
親族たちがざわめく。
使用人たちは、井戸端からさらに一歩下がった。小鈴は両手を胸の前で握りしめ、佐助は顔色を悪くして足元を見ている。下男や女中たちは互いの顔を見ない。喜周の死の時もそうだったが、人は死体の前で急に目の置き場を失う。普段は他人の不幸を遠慮なく見物するくせに、自分の足元に火がつくと目を伏せる。便利な倫理観だ。
砂笙が硝子瓶を掲げた。
「袖に含まれていた水を調べました。井戸水であることは間違いありません。ただし、微量の塩が混じっています」
兼近が眉をひそめる。
「塩?」
「普通の食塩ではありません。清めに使う塩です。粒が細かく、霊力を通しやすいよう焼き直されています」
深雪乃の指が、母の鏡を強く握った。
砂笙は、静かに続ける。
「この塩は、退魔具や古い遺品を清める時に使われるものです。特に鏡、櫛、髪飾りのように持ち主の気配を吸いやすいものを拭う時に使われる。水に溶かし、布や紙に含ませて拭き取る。鵺喰家でこの扱いを知っていた者は、限られるでしょう」
祢々。
その名は、誰もすぐには口にしなかった。
だが、全員が思った。
祢々は、母の遺品管理に関わっていた。澄子の櫛、鏡、髪飾り、文箱、弓具。その所在や扱いを知っていた。母のものをどこにしまい、どのように封じ、何を使って清めるか。女中頭として、彼女は細かな実務を握っていたはずだ。
深雪乃は、鏡面へ視線を落とした。
昨夜、赫臣が拭ってくれた涙の跡はもうない。銀縁の沈丁花は静かに光を受けている。この鏡を清めるための塩。それと同じものが、祢々の袖の水に混じっていた。
母の遺品を知る者。
遺品に触れる術を知る者。
犯人は、またそこへ近づいている。
蓮台は祢々の首元へ視線を向けた。
「溺死に見せかけたいなら、井戸へ突き落とすのが一番早い。だが、それはしていない。できなかったのか、やる必要がなかったのか。祢々の肺に入っている水はごく少量だ。口元に水を含まされ、濡らされてはいるが、井戸に沈められた量じゃない」
御厨が震える声で言う。
「では、死因は」
蓮台は少し間を置いた。
「幻術だ」
その言葉に、庭の空気が冷えた。
白絹の琥珀色の瞳が、わずかに動く。
赫臣の視線が、すぐ白絹へ向いた。
「お前じゃねえだろうな」
声は低い。
白絹は、薄く笑った。
「この状況で私が同じ手を使うほど、愚かに見えます?」
「昨日のことがあるからな」
「昨日のことを持ち出されると、少し分が悪いですわね」
「かなりだ」
白絹は肩をすくめた。
「私ではありません。少なくとも、この幻術の残り香は蘆野火のものではない。もっと粗い。けれど、人の恐怖を突く点では、よく知っている者の手ですわ」
深雪乃の背筋が冷えた。
人の恐怖を突く。
白絹が深雪乃に見せた幻術は、母に見捨てられる幻、赫臣に飽きられる幻、蔵に閉じ込められる幻だった。どれも深雪乃の心の奥にある恐怖を突いていた。祢々の場合は、水だったのか。それとも、別のものだったのか。
蓮台が白絹を見た。
「説明できるか」
「できますわ」
赫臣の霊糸が、白絹の手前で細く鳴った。
白絹はそれを一瞥し、軽く息を吐く。
「祢々さんは、実際に井戸へ沈められたわけではありません。幻術で、水に沈められる感覚を与えられた。口と鼻を塞がれ、肺に水が入ってくる錯覚。身体は乾いていても、本人の感覚は溺れている。人は、肉体だけで呼吸しているわけではありませんもの」
小鈴が、青ざめた顔で口元を押さえる。
白絹は続けた。
「恐怖で呼吸が乱れる。息を吸えないと思い込む。喉が閉じ、胸が強張り、身体は本当に窒息へ近づく。そこへ、口元へ少量の水を含ませれば、幻と現実が繋がる。本人には、自分が本当に水の中で溺れているとしか感じられないでしょう」
深雪乃は、拳を握った。
白絹の幻術を受けた時の感覚が蘇る。
蔵の闇。
足首を掴む影。
母の冷たい声。
赫臣に飽きられる声。
幻だと頭では思っても、身体は本当に震えた。喉は本当に叫び、涙は本当に出た。恐怖は肉体を動かす。偽物の景色でも、本物の痛みを呼ぶ。
祢々は、それを受けたのか。
水責めの幻。
息ができない恐怖。
死なない方は楽だと笑った女が、呼吸を奪われる幻で死んだ。
罰のように見える。
あまりにも、そう見える。
だが、これは罰ではない。
殺人だ。
深雪乃は、自分にそう言い聞かせた。
赫臣が低く言った。
「つまり、井戸は舞台装置か」
「そうですわ」
白絹が答える。
「祢々さんを井戸端まで呼び出し、幻術をかける。水に沈められる感覚で呼吸を乱させ、口元を水で濡らす。右袖には、清め塩を混ぜた井戸水を含ませる。溺死に見せかけると同時に、母君の遺品へ関わる者だと示す印にもなります」
砂笙が頷いた。
「袖の水に清め塩がある以上、ただの偽装ではありません。犯人は祢々様が遺品の管理に関わっていたことを知っていた。母君の鏡を清める塩の扱いも知っていた。喜周殿の事件で使われた髪飾りの欠片と同じく、遺品の周辺知識を使っております」
御厨が、顔を強張らせる。
「つまり、犯人は鵺喰家の内側にいると」
蓮台は淡々と返した。
「外の者でも、内情をよほど詳しく知っていれば可能だ。だが、祢々を井戸端へ呼び出せる者となると、かなり絞られる」
使用人たちの間に、ざわめきが走った。
小鈴が震える。
佐助が一歩後ろへ下がる。
下女の一人が、耐えきれなくなったように声を上げた。
「わ、私たちは何もしておりません!」
蓮台がそちらを見る。
その下女は、以前、深雪乃が掃除した廊下へわざと泥水をこぼした女だった。名はたしか、お咲だったはずだ。年は深雪乃より少し上。以前は深雪乃を見るたびに鼻で笑っていたが、今は怯えきった顔をしている。
「何も、とは」
蓮台が聞く。
お咲は泣きそうな声で言った。
「祢々様に命じられていただけです! 深雪乃様へ冷えた白湯をお出ししたことも、お食事を下げたことも、蔵の鍵を持っていくよう言われたことも、全部、祢々様や夜岐様のご指示で……私たちは、命じられただけで」
小鈴も、すぐに続いた。
「私もです。櫛の時も、夜岐様が押さえなさいとおっしゃったから……逆らえませんでした。女中頭の祢々様もいらっしゃいましたし、私たちは下の者ですから」
佐助が青い顔で頷く。
「俺も、深雪乃様を蔵へ入れたのは命じられたからです。鍵を落とすなと言われて、それで……笑ったのも、周りが笑っていたからで」
笑ったのも、周りが笑っていたから。
その言葉が、深雪乃の耳に妙に残った。
庭の空気が湿っている。
井戸端の石は濡れている。
祢々の遺体には白い布が掛かっている。
その前で、使用人たちは口々に言い訳を重ねる。
命じられただけ。
逆らえなかった。
下の者だから。
周りが笑っていたから。
誰も、自分が笑いたかったとは言わない。
誰も、自分が面白がったとは言わない。
誰も、深雪乃が痛がる顔を見て胸がすいたとは言わない。
命令という布を、今になって自分たちの上へ掛けようとしている。泥水をかけた手も、冷えた白湯を置いた手も、蔵の閂を落とした手も、母の櫛が折れるのを見て笑った口元も、その布の下に隠せると思っている。
深雪乃は、静かに口を開いた。
「命じられただけで、人はあそこまで楽しそうに笑えるのですね」
声は大きくなかった。
けれど、井戸端にいた全員へ届いた。
お咲の顔が白くなる。
小鈴が震えた。
佐助は目を伏せる。
深雪乃は、彼らを一人ずつ見た。
「水桶を倒した時、皆さまは笑っていました。私が濡れた袖を絞っている時も。冷えた白湯を出した時も。食事を下げた時も。母の櫛が折られた時も。蔵の中で私が朝まで生きていたと知った時も」
喉は震えなかった。
泣き声にもならなかった。
淡々と、ただ事実を置いていく。
「祢々が命じたのでしょう。夜岐様が命じたのでしょう。鵺喰家の空気がそうさせたのでしょう。たいへん便利な話です。けれど、笑った口は、皆さまご自身のものではありませんでしたか」
誰も答えられない。
深雪乃は、少しだけ息を吸った。
「命令された手は、あるのでしょう。けれど、楽しんだ顔まで命じられたものだったとは、私には思えません」
沈黙が落ちた。
井戸の底から、水音がした。
いや、違う。
深雪乃には、まだ紙を破るような音が混じって聞こえた。ぴり、と。濡れた石の奥で、古い紙が裂ける音。祢々の袖の水が石に染み込むたび、その音はわずかに強くなる。
赫臣が、静かに動いた。
彼は深雪乃を抱きしめた。
人前だった。
使用人たちも、親族も、蓮台も、砂笙も、白絹もいる。祢々の遺体もある。事件の説明の途中だ。それでも赫臣は、迷わず深雪乃を抱いた。
深雪乃の背を包む腕は、昨夜より少し慎重だった。背の傷を知った後の腕。痛む場所を避け、それでも離さない腕。彼は深雪乃の頭を自分の胸元へ引き寄せるように、ゆっくり抱き込んだ。
深雪乃は、最初だけ身体を強張らせた。
すぐに力を抜いた。
「赫臣様」
「よく言った」
低い声だった。
「何も、よくは」
「よく言った」
もう一度。
赫臣の声は、深雪乃の髪の上へ落ちる。
「本当は、もっと怒っていい。もっと罵っていい。泣いてもいい。叫んでもいい。お前は、あいつらの言い訳を聞いてやる必要なんかねえ」
深雪乃は、赫臣の胸元に額が触れそうな距離で目を閉じた。
「……祢々は死にました」
「ああ」
「死んだ人を、責め続けるのは」
「生きてる連中が勝手に祢々のせいへ逃げてるだけだ」
赫臣の腕が少し強くなる。
「死んだ女に罪を全部押しつけて、自分らは命じられただけだと抜かす。ふざけてる」
小鈴がびくりと肩を震わせた。
お咲は泣き出しそうになっている。
佐助は唇を噛んだまま動かない。
蓮台は、彼らを冷めた目で見ていた。
「今の話は、あとで一人ずつ聞く」
蓮台が言った。
「祢々が命じたこと、夜岐が命じたこと、自分たちがやったこと。全部だ。命じられただけで済むかどうかは、俺が判断する」
使用人たちの顔がさらに青ざめる。
赫臣は、深雪乃を抱いたまま低く言った。
「俺も聞く」
蓮台が眉をひそめる。
「お前が聞くと全員気絶する」
「気絶で済むなら優しいだろ」
「警視庁の手続きが面倒になる」
「知るか」
「知れ」
砂笙が静かに咳払いした。
「旦那様。処分は後ほどに。今は祢々様の死の方を」
「分かってる」
「分かっていないお声でした」
「半分は分かってる」
「残り半分を至急お戻しください」
赫臣は深雪乃を抱いたまま、不機嫌そうに黙った。
深雪乃は、その腕の中で少しだけ息を整えた。
祢々の死は、罰のように見えた。
しかし、罰ではない。
誰かがそう見えるように仕立てた。
深雪乃を虐げた者が、深雪乃に向けた言葉の後に死ぬ。死なない方は楽だと笑った女が、水責めの幻で呼吸を奪われる。口元を濡らし、袖に母の鏡を清める塩を混ぜた井戸水を含ませ、遺品の管理者であることを示す。
犯人は、祢々の罪を知っている。
深雪乃への加害を知っている。
母の遺品の扱いも知っている。
そして、その罪を利用している。
深雪乃は、赫臣の胸元から顔を上げた。
「犯人は」
声が、自然に出た。
蓮台がこちらを見る。
「何だ」
「祢々を裁いたのではなく、祢々を使ったのですね」
井戸端の空気が止まった。
深雪乃は続けた。
「祢々が私に何をしたかを知っていれば、この死は罰に見えます。母の遺品管理に関わっていたことを知っていれば、袖の水に清め塩を混ぜる意味も作れる。祢々が死ぬことで、使用人たちは祢々に命じられただけだと逃げられる」
小鈴が息を止めた。
深雪乃は彼女を見た。
「犯人は、祢々だけを殺したのではありません。祢々を殺すことで、この家の罪の形を動かそうとしている」
蓮台の目が鋭くなる。
砂笙も、わずかに頷いた。
「その通りです」
砂笙が言う。
「喜周殿の死では、篝火様の霊糸に似せた傷を使い、旦那様と深雪乃様へ疑いを向けた。今回の祢々様の死では、深雪乃様への加害と母君の遺品管理を利用し、罰のように見せた。犯人は現場だけではなく、人間関係そのものを仕掛けにしています」
人間関係そのものを仕掛けにする。
嫌な言葉だった。
だが、正しい。
鵺喰家の中に積もった蔑み、嫉妬、罪、沈黙。犯人はそれを知っている。そして、死体の置き方や傷のつけ方、濡らす場所、残す遺品で、その感情を動かしている。
死体だけではない。
疑いを作っている。
感情を誘導している。
深雪乃は、母の鏡を握りしめた。
井戸の石からは、まだ紙を破るような音がしている。
蓮台が井戸の縁を調べた。
「紙の繊維は袖だけじゃない。石の隙間にもあるな。水でかなり崩れているが、札か、目録か、手紙か。何かをここで破いて、水へ流した可能性がある」
深雪乃の胸が跳ねた。
父の書斎で聞いた紙の音。
遺言書が消えた夜。
北蔵の封印札。
井戸の石から聞こえる紙を破る音。
蓮台は、深雪乃を見た。
「お前が聞いた音は、たぶん遺響だ。この井戸端で紙が破られた。祢々が破ったのか、犯人が破ったのかはまだ分からない。だが、祢々の死と無関係じゃない」
深雪乃は頷いた。
声が出なかった。
赫臣が、彼女の肩を抱いたまま井戸を見た。
「紙か」
砂笙が低く言う。
「母君の遺品目録、北蔵の控え、あるいは斎臣様の遺言に関わる写し。可能性はいくつかございます」
御厨が顔色を変える。
「遺言の写しなら、書庫に」
「本当にございますか」
砂笙の声は静かだった。
御厨はすぐに答えられなかった。
沈黙が、また鵺喰家の空気を重くする。
深雪乃は、井戸の石を見た。
濡れた石。
祢々の袖から落ちた水。
清め塩。
破かれた紙の遺響。
母の鏡。
女中頭の死。
命じられただけだと逃げる使用人たち。
どれも、ばらばらに見えて、少しずつ同じ場所へ向かっている。
母の遺品。
父の遺言。
鵺喰家の罪。
赫臣の腕が、深雪乃の肩を包む。
深雪乃は、そこから逃げなかった。
祢々の死体の前で、笑う気にはなれない。
同情する気にもなれない。
ただ、この死が誰かに利用されていることだけは分かった。
死なない方は楽だと笑った女は、もう何も言わない。
代わりに、井戸の石が紙を破る音を残している。
ぴり。
ぴり、と。
その音は、濡れた朝の井戸端で、まだ小さく続いていた。




