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人間臭いと蔑まれた不死身の娘は、百鬼夜行の主に愛される  作者: なつめ


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第22話 母を愛した男


 井戸端の水音は、いつまでも耳から離れなかった。


 いや、水音ではない。


 深雪乃が聞いたのは、紙を破る音だった。


 ぴり、ぴり、と。


 雨上がりの井戸端で、濡れた石の奥から響いていた乾いた音。祢々の袖から落ちた水に清め塩が混じり、その水が石へ染み込むたび、古い和紙が裂けるような音がした。父の書斎の前で聞いた紙の擦れる音、北蔵の封印札、遺言書、母の遺品目録。それらが頭の中で重なり、深雪乃の胸を落ち着かなくさせていた。


 祢々は死んだ。


 井戸で溺れたわけではなかった。


 幻術で水責めの感覚を与えられ、呼吸を乱され、口元だけを水で濡らされた。袖の水には、母の鏡を清める塩が混じっていた。母の遺品の扱いを知る者が、祢々の罪を利用し、彼女の死を罰のように見せかけた。


 使用人たちは、命じられただけだと言った。


 深雪乃は、それに淡々と返した。


 命じられただけで、人はあそこまで楽しそうに笑えるのですね。


 その言葉を口にした時、自分の声が思ったより冷静だったことを、深雪乃は覚えている。怒鳴らなかった。泣かなかった。ただ、事実を置いた。それが、使用人たちの顔から血の気を引かせた。


 赫臣は、その場で深雪乃を抱きしめた。


 人前だった。


 祢々の遺体の近くで、蓮台も砂笙も白絹も、親族も使用人もいる前で。だが、赫臣は何も気にしなかった。背の傷を知った後の腕で、深雪乃を包み、よく言った、と低く囁いた。


 今も、その腕の熱が残っている。


 控えの間へ戻った深雪乃は、膝の上に母の遺品を並べていた。


 懐中鏡。


 折れた櫛の欠片。


 白藤色の着物の端切れ。


 北蔵で見つかった髪飾りの欠片は、まだ砂笙と蓮台が証拠として保管している。触れたい気持ちはあるが、血のそばに落ちていたものを不用意に扱うわけにはいかなかった。母の遺品であり、事件の印でもある。その二つが重なってしまったことが、深雪乃の胸を重くする。


 赫臣は、すぐ隣にいた。


 今日は、いつものような無遠慮な近さではない。


 近いことは近い。深雪乃の指が少し動けば、赫臣の袖に触れそうな距離ではある。だが、肩がぶつかるほどではなかった。彼は深雪乃の様子を見て、触れるかどうかを測っている。その慎重さが、かえって胸へ染みた。


 行灯の火が揺れている。


 外では、また雨になりそうな風が庭木を揺らしていた。障子の紙に、枝の影が細く映る。遠くで、使用人の足音がした。だが、この部屋の周囲には篝火家の従者が控えており、鵺喰家の者は不用意に近づけない。


 赫臣は、長く黙っていた。


 深雪乃も、黙っていた。


 母の鏡を見つめる。


 昨夜、この鏡は病で痩せた母を映した。母の手を握る誰かの手も。黒い組紐と銀の輪。その気配に、赫臣は反応した。心当たりがある顔をした。けれど、その時はまだ話さなかった。


 なるべく早く話す、と言った。


 深雪乃は、少しだけ待つと言った。


 その約束の重さが、今、二人の間に置かれている。


 赫臣が、先に口を開いた。


「深雪」


「はい」


「昨日の鏡に映った手のことだ」


 深雪乃の指が、鏡の縁を握った。


 胸の奥が静かに固くなる。


「……お話しくださるのですか」


「ああ」


 赫臣の声は低かった。


 いつもの甘さがないわけではない。だが、それ以上に慎重だった。深雪乃を傷つける言葉を選ぶ時の声。もしくは、自分自身がまだ受け止めきれていないものを、少しずつ外へ出す声だった。


「確かなことは、まだ全部じゃねえ」


「分かっております」


「俺が見たこと、聞いたこと、先代から知らされたことが少しある。だが、鵺喰家の記録は意図的に削られてる。宵待澄子という女について、残ってるものが少なすぎる」


 母の名が出た瞬間、深雪乃の胸が小さく震えた。


 宵待澄子。


 妾だった母。


 人間だと扱われた母。


 鵺喰家の中で、いつも静かに笑っていた母。


 深雪乃の髪を梳き、少しだけ甘いものを隠してくれた母。


「母は」


 深雪乃は、ゆっくり言った。


「鵺喰家では、何だったのでしょう」


 赫臣は、すぐには答えなかった。


 それだけで、答えが軽いものではないと分かる。


「表向きは、斎臣の妾だ」


「表向き」


「ああ」


 赫臣は鏡を見た。


「だが、それだけじゃねえ。澄子は宵待家の女だ。宵待家は、古い退魔の血を引いてる。派手な家じゃない。先祖返り会の席も持たねえ。華族でも財閥でもねえ。けど、弓と鏡と清めに関わる古い術を持ってた」


「弓……」


「北蔵の封印に弓形の印があっただろ。あれは鵺喰のものじゃない。宵待に近い。正確には、宵待と朱楽の弓師たちが使っていた印だ」


 朱楽。


 深雪乃は、その名を胸の中で繰り返した。


 朱楽眞白という老女の名を、まだ直接聞いたわけではない。だが、母を知る者がいるという気配は、以前から話の端にあった。古い弓師。破魔の矢。母の遺品。そのすべてが、少しずつ形を持ち始めている。


 赫臣は続けた。


「鵺喰家は、澄子をただ斎臣の側に置いただけじゃねえ。宵待の血と術を、欲しがった」


「母の術を、ですか」


「そうだ。鏡、櫛、髪飾り、着物、文箱、弓。あれはただの形見じゃねえ。澄子の霊力と、宵待の術の気配を宿したものだ。鵺喰家はそれを利用した」


 深雪乃は、膝の上の端切れを見た。


 白藤色の布。


 母が着ていた着物の一部。


 柔らかく、古く、今でもどこかに沈丁花の匂いを残している気がする。その布が、ただの布ではなかった。母が生きていた証だけでなく、術を宿したものだった。


「母は、それを望んだのでしょうか」


 声が小さくなる。


 赫臣は、答える前に深雪乃を見た。


「望んだ部分もあっただろう。望まなかった部分もあったはずだ」


「曖昧ですね」


「ああ」


「あなたにしては珍しく、歯切れが悪い」


「悪くもなる」


 赫臣は苦く笑った。


 笑ったが、目は笑っていない。


「澄子は鵺喰家に入った時、まだ若かった。斎臣に惚れてたのか、利用されると知っていたのか、その両方だったのかは分からねえ。ただ、鵺喰家は澄子を大事にしなかった。術だけを欲しがって、女としても、母としても、守らなかった」


 深雪乃の指が震えた。


 母の姿が浮かぶ。


 病で痩せた母。


 布団の上で、細い手を誰かに握られていた母。


 微笑んだ母。


 あの母が、鵺喰家の中でどれだけ孤独だったのか。どれほど利用され、どれほど追い詰められたのか。考えるだけで、胸が痛む。


 だが、完全な孤独ではなかったかもしれない。


 鏡は、手を映した。


 母の手を握る、誰かの手を。


 深雪乃は、赫臣を見た。


「その人は」


 声が掠れた。


「母を愛していたのですか」


 赫臣は、ゆっくり息を吐いた。


「ああ」


 短い答えだった。


 深雪乃の胸に、何かが落ちた。


 重く。


 温かく。


 痛いものが。


「名は、まだ言えねえ」


「なぜ」


「生きてる者にも、死んだ者にも関わる。鵺喰家だけじゃねえ。宵待、朱楽、先祖返り会、篝火家にも触れる話になる。半端に言えば、お前が余計に狙われる」


「私は、すでに狙われているのでは」


「だから余計に慎重にする」


 赫臣の声は固かった。


「深雪に隠したいんじゃねえ。守るために、順番が要る」


「順番」


「嫌いだろうけどな」


「嫌いです」


「だろうな」


 赫臣は、少しだけ笑った。


 深雪乃は笑えなかった。


 母を愛した男。


 母の手を握っていた男。


 母が完全な孤独で死んだわけではない可能性。


 それは、救いだった。


 けれど同時に、胸をひどく揺さぶる。もし母を愛した人がいたなら、なぜ母は鵺喰家で死んだのか。なぜ深雪乃は守られなかったのか。なぜ、その人は母の手を握ることはできたのに、母を連れ出せなかったのか。


 問いが、いくつも喉へ上がる。


 赫臣は、それを分かっている顔をしていた。


「責めたくなるだろ」


 深雪乃は目を伏せた。


「はい」


「そうだろうな」


「その方が母を愛していたなら、なぜ母は鵺喰家であのように……」


 言葉が詰まる。


 赫臣は手を伸ばしかけ、止めた。


「触るぞ」


 深雪乃は、うなずいた。


 赫臣の手が、彼女の頬へ触れる。


 温かい。


 深雪乃は、その熱に少しだけ呼吸を乱した。


「愛してても、守りきれねえことがある」


 赫臣は言った。


 声が、低く沈む。


「俺はそういう言い訳が嫌いだ。守れなかったなら、それは守れなかったってことだ。だけど、何もなかったことにはならねえ。澄子は、完全に捨てられたわけじゃない。少なくとも、最後に手を握った奴がいた。澄子も、その手を握り返した」


 深雪乃の視界が、滲んだ。


 母が手を握り返した。


 あの弱い指で。


 病に痩せ、息をするだけで苦しそうな身体で。


 それでも、最後に誰かの手を握り返した。


「母様は」


 深雪乃の声が震える。


「一人で、死んだわけでは」


「なかった可能性が高い」


 赫臣は、あえて断定しなかった。


 それでも十分だった。


 深雪乃の目から涙が落ちた。


 赫臣の指が、すぐにその涙を拭う。


「泣いていい」


「また、そうやって」


「言う。何度でも」


「泣き顔まで所有しようとなさらないで、と申し上げたはずです」


「覚えてる」


「では」


「でも、俺の前で泣け」


 強引な声だった。


 けれど、命令だけではなかった。


 深雪乃は涙を拭われながら、赫臣を見た。


「あなたは、本当に」


「何だ」


「人の涙に遠慮がありません」


「遠慮したら、お前は引っ込めるだろ」


 深雪乃は言い返せなかった。


 その通りだった。


 泣きそうになれば、飲み込む。痛ければ、毒舌に変える。怖ければ、背筋を伸ばす。そうして生きてきた。涙を誰かに見せても、笑われるか、弱みとして使われるだけだったから。


 赫臣は、涙を弱みとして奪うのではない。


 自分の前でだけ出せと、横暴に言う。


 それが厄介で、温かい。


 深雪乃は、鏡を見つめた。


 その時、鏡面がまたわずかに曇った。


 深雪乃と赫臣は同時に息を止める。


 鏡の中に、薄い光が浮かぶ。


 病床の母ではない。


 今度は、庭だった。


 鵺喰家の庭ではない。もっと小さく、古い寺社の裏庭のような場所。白藤の花が垂れ、石畳の端には沈丁花が植えられている。夕暮れの光が、花の影を淡く伸ばしていた。


 母が立っている。


 まだ病の影は薄い。


 少し痩せてはいるが、鏡の中の病床の母よりずっと若く見えた。白藤色の着物を着て、髪には銀の髪飾りが挿されている。母は、誰かを待っていた。


 やがて、画面の端から手が現れる。


 黒い組紐。


 銀の輪。


 昨日見た、あの手だった。


 母の手へ、小さなものを渡す。


 鏡だった。


 沈丁花の文様が彫られた懐中鏡。


 深雪乃が今、手にしているもの。


 深雪乃の息が止まる。


 母は鏡を受け取り、何かを言う。音はない。だが、唇の形がかすかに動く。ありがとう、と言っているように見えた。


 手の持ち主は、母の髪に触れようとして、途中で止めた。


 触れてよいか迷うように。


 母は少し笑い、自分からその手に髪飾りを触れさせた。


 深雪乃の胸が、痛いほど鳴った。


 そこにあったのは、利用や命令だけではなかった。


 少なくとも、この一瞬には、母を大事に見つめる手があった。母も、それを拒んでいなかった。


 鏡の光が揺れる。


 次に、折れた櫛の欠片が微かに熱を持った。


 深雪乃は、震える手で櫛の欠片を取った。


 黒檀に銀細工の残る、小さな欠片。


 折られた櫛。


 夜岐の手で歯を一本ずつ折られた母の櫛。


 それを手にした瞬間、別の遺響が流れ込んだ。


 髪を梳く音。


 しゃら、しゃら、と静かな音。


 母が座っている。


 その背後に、誰かが立っている。


 顔は見えない。やはり、手だけだ。黒い組紐と銀の輪。その手が、母の髪へ櫛を入れている。ひどく慎重に。絡まった髪を無理に引かず、少しずつほどいていく。母は目を伏せ、疲れたように微笑んでいた。


 その口元が、かすかに動く。


 ――深雪には、知られないように。


 音はないはずなのに、深雪乃にはそう伝わった。


 手の持ち主が、櫛を止める。


 母が、もう一度何かを言う。


 ――あの子だけは、私のようにしないで。


 深雪乃の目から、さらに涙が落ちた。


 櫛の遺響が消える。


 白藤色の端切れが、今度は淡く温かくなった。


 深雪乃は、それを手に取った。


 布の感触は柔らかい。


 その瞬間、雨の匂いがした。


 鏡でも櫛でもない。


 布が覚えていたのは、夜の廊下だった。


 母が白藤色の着物を羽織り、薄暗い廊下に立っている。向かいには、あの手の男がいる。顔は、また映らない。影のように輪郭が隠れている。ただ、黒い組紐と銀の輪だけが、薄い光を拾っていた。


 母は、男に向かって首を横に振る。


 行けない、と言っているようだった。


 男の手が、わずかに握られる。


 母は自分の腹に手を添えた。


 その仕草に、深雪乃は息を呑んだ。


 母は、深雪乃を宿していたのかもしれない。


 男は母を連れ出そうとしていた。


 母は、行けないと言った。


 なぜ。


 鵺喰家に脅されていたからか。


 深雪乃を守るためか。


 それとも、逃げればもっと恐ろしいことが起きると知っていたからか。


 布の遺響は、そこまでしか見せなかった。


 光が消える。


 部屋に、行灯の火と雨前の風だけが戻った。


 深雪乃は、遺品を膝の上に抱えたまま泣いていた。


 声は出なかった。


 ただ涙が落ちる。


 母は、ただ捨てられた女ではなかった。


 利用された。


 追い詰められた。


 鵺喰家の中で孤独にされた。


 けれど、母を愛した人がいた。


 鏡を渡した人がいた。


 髪を梳いた人がいた。


 逃がそうとした人がいた。


 母は、その手を拒みきったわけではなかった。病床で握り返した。庭で微笑んだ。櫛を受け入れた。


 それだけで、深雪乃の胸の奥で固まっていた石が、少しずつ崩れていく。


 母は、誰にも愛されず死んだわけではない。


 それは、あまりにも遅く届いた救いだった。


 赫臣が、深雪乃を抱きしめた。


 今度は、何も聞かなかった。


 彼女が崩れる前に、静かに腕を回す。背の傷を知った腕で、痛む場所を避けながら、深雪乃の肩と背を包む。深雪乃は抵抗しなかった。むしろ、遺品を抱えたまま、彼の胸へ寄った。


 赫臣の手が、涙を拭う。


 頬に口づける。


 額へ。


 髪へ。


 また頬へ。


 何度も。


 深雪乃は、涙で濡れた目を上げた。


「泣いている女に何度も口づけるのはどうかと思います」


 声は震えていた。


 赫臣は、少しも悪びれなかった。


「泣いてる俺の女が可愛いから仕方ねえ」


 深雪乃は、涙の中で眉を寄せた。


「仕方なくありません」


「仕方ねえ」


「泣いているのに」


「泣いてても可愛い。泣いてるから余計に離したくねえ。俺の前で泣いてる深雪が、可愛くて、腹が立つくらい愛しい」


「語彙が、また」


「偏ってるか」


「はい」


「大好きだ」


「増やさないでください」


「愛してる」


「今は、その」


 唇に、軽く口づけが落ちた。


 深雪乃は言葉を失う。


 激しくはない。


 涙を塞ぐような、短い口づけだった。


 けれど、また次が来る。


 頬へ。


 目元へ。


 額へ。


 唇の端へ。


 赫臣は、深雪乃が泣き止むのを待つのではなく、泣いている彼女をそのまま抱いて、何度も口づけた。涙を否定せず、拭いすぎず、ただそこに自分の熱を重ねていく。


 深雪乃は、遺品を片手で抱え、もう片方の手で赫臣の襟を掴んだ。


「また、襟を掴んだ」


 赫臣が低く言う。


「足元が」


「座ってる」


「心元が不安定です」


 赫臣は一瞬黙り、それから深雪乃を強く抱きしめた。


「なら、掴んでろ」


「……はい」


 素直に返事をしてしまった。


 赫臣の胸元から、かすかな笑いが響く。


「可愛い」


「今のは撤回します」


「もう聞いた」


「都合のよい耳ですね」


「深雪の声だけはな」


 深雪乃は、また涙を落とした。


 赫臣が頬に口づける。


 何度も。


 そのたびに、母の遺響が胸の中で少しずつ形を変えていく。


 母は利用された。


 鵺喰家の中で追い詰められた。


 けれど、愛されてもいた。


 その事実は、すべてを救うわけではない。


 母が死んだことも、深雪乃が孤独に育ったことも、鵺喰家の罪も、消えない。


 だが、母の人生が苦しみだけで塗りつぶされていなかった可能性は、深雪乃にとってあまりにも大きかった。


 赫臣は、彼女の耳元で低く言った。


「深雪」


「……はい」


「あの男のことは、必ず話す」


「今は、まだ」


「まだ全部は言えねえ。けど、逃げねえ。約束する」


「約束を、増やしますね」


「守るために増やしてる」


「重いです」


「俺は重い男だ」


「自覚があるなら」


「改善しねえ」


「でしょうね」


 深雪乃は、涙の中で小さく息を吐いた。


 笑ったわけではない。


 けれど、泣きながら少しだけ力が抜けた。


 赫臣は、その気配を逃さず、また頬に口づけた。


「泣いてる顔も、少し落ち着いた顔も、可愛い」


「泣き顔まで所有しないでください」


「したい」


「返答が最悪です」


「俺の前で泣け」


「命令ですか」


「お願い」


「お願いの顔ではありません」


「お願いだ。俺の前で泣いてくれ。俺に拭わせろ。俺に抱かせろ」


 深雪乃の喉が詰まった。


 その言葉は、強引だった。


 だが、赫臣なりの願いだった。


 深雪乃は、遺品を抱えたまま、額を赫臣の胸へ預けた。


「……少しだけです」


「好きなだけ」


「少しだけです」


「じゃあ、少しずつ何度でも」


「言い方がずるいです」


「鬼だからな」


「便利に使わないでください」


 赫臣は笑い、深雪乃の髪に口づけた。


 外では、とうとう雨が降り始めた。


 細い雨だった。


 障子の向こうで、庭の葉が濡れる音がする。井戸端の石にも、きっとまた水が落ちている。紙を破る遺響はまだ残っているのかもしれない。祢々の死も、喜周の死も、母の遺品に絡む謎も、何ひとつ終わっていない。


 けれど、この部屋の中では、母の遺品が新しい記憶を見せた。


 鏡は、母へ渡されたものだった。


 櫛は、母の髪を梳いた手を覚えていた。


 白藤色の端切れは、母を逃がそうとした夜を覚えていた。


 そして深雪乃は、母が完全な孤独で死んだわけではないかもしれないと知った。


 涙はまだ止まらない。


 赫臣は、それを何度も拭い、何度も口づけた。


 泣いている女に何度も口づけるのはどうかと思う、と深雪乃はもう一度言おうとした。


 だが、赫臣の胸元に額を預けたままでは、言葉が少し弱くなる。


 それを知られたくなくて、深雪乃は黙った。


 赫臣は、黙った彼女の髪を撫でる。


「大好きだ」


 雨音の中で、彼はまた言った。


「愛してる」


 深雪乃は返事をしなかった。


 けれど、赫臣の襟を掴む指は、離れなかった。


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