第23話 猫の爪痕
雨は、昼を過ぎても止まなかった。
鵺喰家の庭は水に沈んだように静まり返っている。苔むした庭石は黒く濡れ、池の水面には雨粒が絶えず輪を描いていた。樋から落ちる水は、細い縄のように途切れず垂れ、軒下の砂利を小さく穿っている。
屋敷の中も、湿っていた。
畳はわずかに冷え、廊下の板には湿気が染みている。障子紙は雨を吸って柔らかく波打ち、行灯の火は昼間だというのに薄暗い廊下で頼りなく揺れていた。喜周が死に、祢々が死に、鵺喰家は表向き静まり返っている。だが、その静けさは祈りでも悼みでもない。
次は誰か。
その問いが、柱の影や畳の目にまで染み込んでいた。
深雪乃は、赫臣とともに奥座敷にいた。
母の鏡、櫛の欠片、白藤色の端切れを前に置き、先ほどまで赫臣と話していた。母を愛した男。鏡を渡し、櫛で髪を梳き、逃がそうとした誰か。黒い組紐と銀の輪を手首につけた、まだ顔の見えない人物。
母は完全な孤独で死んだわけではないかもしれない。
その可能性は、深雪乃の胸の奥に小さな灯をともした。けれど、その灯は同時に新しい影を生む。母を愛した男がいたなら、なぜ母は鵺喰家で死んだのか。なぜ深雪乃は守られなかったのか。その人はいま、生きているのか。死んでいるのか。赫臣はどこまで知っているのか。
答えはまだ揃わない。
それでも、深雪乃は母の遺品を膝の上に並べ、指先でそっと触れた。鏡はもう熱を持っていない。櫛の欠片も、端切れも静かだった。先ほどまで見せていた遺響が嘘のように、ただの古い形見としてそこにある。
赫臣は、彼女の隣に座っていた。
近い。
相変わらず近い。
だが、今日は触れる前に必ず一瞬だけ待つ。髪を撫でる時も、頬の涙を拭う時も、深雪乃の反応を見る。背中の傷を見た夜から、彼の手つきは少しだけ変わった。強引さが消えたわけではない。消えたら赫臣ではない。だが、強引さの中に、確かに待つ時間が混じるようになった。
それが、深雪乃には少し苦しかった。
優しくされることは、慣れない。
痛みや侮りなら、返し方を知っている。毒を吐けばいい。背筋を伸ばせばいい。心を冷やせばいい。けれど、待たれることには、まだどう応えればいいのか分からない。
赫臣が、低く言った。
「疲れたか」
「いいえ」
「嘘」
「決めつけが早いですね」
「顔に出てる」
「また顔ですか」
「可愛い顔が少し白い」
「語彙と観察が一緒に偏っています」
「寝るか」
「昼間です」
「昼でも寝られる」
「あなたはそうでしょうね」
「一緒に寝るか」
「話が急に危険な方向へ進みました」
赫臣の口元が少しだけ上がる。
深雪乃は視線を逸らした。
昨夜のことを思い出したからだ。
帯が畳に落ちる音。
煙管の香り。
枕元に置かれた装身具。
外の雨音。
赫臣の深い口づけと、朝になっても繰り返された「大好きだ」「愛してる」。
思い出すと、胸の奥が熱くなる。こんな屋敷で、死体が続く中で、そんなことを思い出す自分がどこか信じられなかった。けれど、赫臣はそこにいる。昨夜も、今朝も、今も。幻ではない。
その時、廊下の奥で物音がした。
軽いものではない。
誰かが障子にぶつかったような、鈍い音。
続いて、短い悲鳴が上がった。
深雪乃の身体が固まる。
赫臣はすでに立ち上がっていた。耳飾りが鳴る。指輪に仕込まれた退魔具が、薄く光ったように見えた。彼は深雪乃の前に出る。
「ここにいろ」
「命令ですか」
「今回は命令だ」
「嫌いです」
「嫌われてもいい。危険なら置いていく」
声が低かった。
深雪乃は立ち上がった。
「行きます」
「深雪」
「また死体でしょう」
自分の声が、驚くほど平坦だった。
言ってから、深雪乃自身も少しだけ不思議に思った。怖くないわけではない。死体など、見慣れたいものではない。喜周も祢々も、思い出せば胸の奥が冷える。だが、悲鳴を聞いた瞬間、深雪乃の身体は怯えるより先に考え始めていた。
次は誰か。
何が残されているか。
母の遺品はあるか。
犯人は今度、何を見せようとしているのか。
赫臣は、その顔を見た。
わずかに、眉を寄せる。
だが、止めなかった。
「俺の後ろだ」
「はい」
「手」
深雪乃は少しだけ彼を見た。
赫臣が手を差し出している。強引に掴むのではなく、待っていた。深雪乃は一瞬ためらい、その手を取った。赫臣の指が包む。熱い。生きている熱だった。
二人は廊下へ出た。
悲鳴は客間の方からだった。
鵺喰家の客間は、母屋の東側にある。外の客を通すための場所で、深雪乃が昔入ることを許されなかった部屋の一つだ。床の間には高価な掛け軸があり、棚には古い香炉や陶器が置かれている。いかにも名家らしい顔をした部屋だった。名家というものは、見せる場所だけはよく磨く。内側が腐っていても、客間の畳だけは青々としている。人間社会の涙ぐましい努力である。
廊下には、すでに人が集まり始めていた。
小鈴が壁際で震えている。佐助が顔を強張らせ、下男の一人を押しとどめていた。御厨数馬が廊下の角から駆けつけ、兼近は青ざめた顔で客間の前に立っている。蓮台累も北蔵の方から来たのか、外套の裾を揺らして歩いてきた。
そして、夜岐がいた。
深雪乃の異母姉。
化け猫の先祖返り。
美しい顔は、いつもより白い。可憐な唇はわずかに開き、琥珀がかった瞳が客間の障子を見つめている。袖の先が小刻みに震えていた。だが、その震えが恐怖だけなのか、それとも別のものなのか、深雪乃には分からなかった。
夜岐の指先には、爪がある。
普段は人の爪と変わらないように見えるそれが、今はわずかに尖っていた。感情が乱れている証拠かもしれない。化け猫の先祖返りである夜岐は、力が揺れると爪や瞳にその気配が出る。
蓮台が客間の障子を見た。
「開かないのか」
兼近が声を震わせる。
「内側から施錠されている。声がして、開けようとしたが」
赫臣が客間の戸を見た。
古い洋風の錠がついている。大正に入ってから改築した部分だろう。客間だけは外向きの体裁を整えるため、障子の内側に鍵付きの木戸が設けられていた。その鍵が内側から掛かっているらしい。
蓮台が戸を叩いた。
「中にいる者、返事をしろ」
返事はない。
雨音だけが、遠くで聞こえる。
蓮台が振り返る。
「誰が中にいる」
兼近が唇を震わせた。
「頼成だ」
鵺喰頼成。
深雪乃はその名を思い出した。
斎臣の従兄弟にあたる男で、相続会議でも何度か声を上げていた。喜周ほど前へ出る男ではなかったが、北蔵の管理権や古い目録について詳しい顔をしていた。深雪乃を見る時、いつも目を細め、値踏みするような視線を向けてきた男だ。
彼が、客間にいる。
内側から施錠された部屋で。
蓮台は顎を引いた。
「壊す」
赫臣が先に動いた。
彼の指がわずかに動く。目に見えない霊糸が走り、錠前の内側だけを正確に切った。木戸そのものはほとんど傷ついていない。金具が小さく鳴り、鍵が外れる。
蓮台が横目で睨む。
「証拠を壊すな」
「錠以外は切ってねえ」
「そういう問題じゃない」
「開かなきゃ中が見えねえだろ」
「だから俺が壊すと言った」
「俺の方が綺麗だ」
「綺麗かどうかで手続きを決めるな」
この状況で言い合う二人は、本当に相性が悪い。いや、悪いというより悪いまま成立している。人間と鬼の奇妙な共同作業である。深雪乃は少しだけ息を吐いた。
木戸が開かれる。
客間の空気が、廊下へ流れ出た。
血の匂いがした。
喜周の時ほど濃くはない。祢々の時のような水の匂いでもない。もっと乾いた、畳と香の中に混じった血の匂いだった。
頼成は、部屋の中央で倒れていた。
畳の上に仰向けになり、胸元を赤く染めている。着物の襟は乱れ、片手は床の間の方へ伸びていた。目は見開かれている。口元は半端に開き、何かを言いかけたまま止まっていた。
胸には、五本の傷があった。
斜めに走る、鋭い裂け目。
まるで大きな猫が爪を立て、胸を引き裂いたような傷だった。
五本。
太さも間隔も、獣の爪痕に似ている。
その場の視線が、自然に夜岐へ向いた。
夜岐は息を呑んだ。
「私ではありません」
誰もまだ何も言っていない。
だが、その言葉は出てしまった。
出てしまった時点で、疑いは形を持つ。
化け猫の先祖返り。
猫の爪痕。
内側から施錠された客間。
相続を巡る親族の死。
夜岐に向かう視線は、避けようがなかった。
兼近が、夜岐を見た。
「夜岐」
「違います」
夜岐の声は震えていた。
いつもの甘えるような柔らかさはない。美しい顔に、初めて露骨な恐怖が浮かんでいる。彼女は深雪乃を虐げる時、いつも余裕があった。母の櫛を折る時も、相続会議で深雪乃を追い出す話をする時も、口元には甘い笑みがあった。
今は、それがない。
深雪乃は、その顔を見ていた。
喜びはなかった。
夜岐に疑いが向くことを、待っていたわけではない。
だが、驚きも薄かった。
犯人は、これまでも疑いを作ってきた。喜周の死では赫臣の霊糸に似せた傷を残した。祢々の死では深雪乃への加害と母の遺品管理を利用し、罰のように見せた。ならば次は、夜岐だとしてもおかしくない。
化け猫の先祖返りに似せた爪痕。
分かりやすすぎる。
分かりやすすぎるから、危うい。
蓮台が部屋の中へ入った。
「誰も入るな」
彼は畳を確認しながら、頼成の遺体へ近づく。砂笙も遅れて到着し、入口の外から部屋全体を見ていた。白絹も廊下の向こうから姿を見せる。琥珀色の瞳が、頼成の胸の傷と夜岐の爪を順に見る。
赫臣は深雪乃を部屋の入口で止めた。
「ここまでだ」
「見えています」
「十分だ」
「そうですね」
深雪乃の声は静かだった。
赫臣が、彼女を見る。
何かを確かめるように。
深雪乃は、その視線に気づいたが、今は頼成の遺体を見ていた。胸の五本傷。内側から施錠された部屋。床の間へ伸びた手。畳の乱れ。香炉。棚。閉じた窓。雨の音。
血は、胸元から広がっている。
傷は深い。
しかし、部屋中に飛び散るほどではない。殺されたのは一瞬か、あるいは声を上げる間もなく倒れたのか。頼成の右手の指先には、畳を掴もうとした跡がある。左手は床の間へ伸びていた。何かを取ろうとしたのか、何かから逃げようとしたのか。
蓮台が窓を確認する。
「窓は内側から閉まっている。格子もある。外から入るのは難しい」
砂笙が鍵の金具を見る。
「錠は内側から掛かっていたと見てよさそうです。旦那様が切ったのは、開錠のための一部のみ。元から壊された痕はありません」
蓮台が渋い顔をする。
「だから俺が切る前に確認したかったんだがな」
「見た。内側施錠だった」
赫臣が返す。
「お前の見た、は証言として扱いづらい」
「俺の目が節穴だと?」
「気分で霊糸を飛ばす目は信用しにくい」
「殺すぞ」
「ほらな」
砂笙が静かに咳払いする。
「お二人とも、頼成殿が横たわる前で喧嘩をなさらないでください。死人も困惑します」
「死人が困惑するか」
「旦那様を見れば、死後も困惑くらいするでしょう」
赫臣は黙った。
深雪乃は、ほんの少しだけ息を吐いた。
その時だった。
胸の奥で、何かが冷えた。
母の鏡ではない。
櫛でもない。
端切れでもない。
もっと別の、細い氷のような感覚が、足元から這い上がってくる。
深雪乃は、畳を見た。
頼成の左手が伸びていた先。床の間のすぐ手前。畳の縁が、ほんのわずかに浮いている。雨の湿気で畳が膨らんだようにも見える。だが、その隙間から、何かが覗いていた。
白い。
いや、薄く紫がかった白。
深雪乃は一歩進もうとした。
赫臣が止める。
「深雪」
「畳の下に、何かあります」
蓮台がこちらを見る。
「どこだ」
深雪乃は指で示した。
「あそこです。床の間の前、畳の縁の下」
蓮台が近づき、紙を使って畳の縁を少し持ち上げた。
そこから、小さな玉が転がり出た。
割れていた。
丸い玉の半分ほどが欠け、断面は白く濁っている。色は白藤に近い薄紫。小さな銀の金具が一部ついており、何かの装身具から外れたもののようだった。
深雪乃の胸が、凍る。
見覚えがあった。
母の手首。
細い腕に揺れていた、白藤色の玉。
幼い頃、母が袖をまくって深雪乃の髪を梳いた時、その手首で小さく鳴っていた飾り。
ブレスレット。
母のものだ。
深雪乃は、声を出せなかった。
蓮台が割れ玉を白い紙に乗せる。
「これは?」
誰に向けた問いでもなかった。
だが、深雪乃が答えた。
「母の、ブレスレットの玉です」
部屋の空気が、また変わる。
白絹の目が細くなる。
砂笙が静かに息を吸う。
赫臣は、深雪乃を見た。
「確かか」
「はい」
声は冷静だった。
自分でも驚くほど。
「幼い頃、母の手首にありました。白藤色の玉が連なっていて、ところどころに銀の金具がついていました。髪を梳いていただいた時、よく音がしていました」
言いながら、胸の奥が冷えていく。
懐かしさより先に、冷えが来た。
髪飾りの欠片を見た時には、懐かしさと寒気が同時に来た。母の鏡を見た時には涙が出た。櫛と端切れが遺響を見せた時も、胸が痛んだ。
だが今は違う。
胸の奥が、すっと冷えた。
まるで、身体の中心に水を流し込まれたようだった。
母のものが、また死体のそばにある。
それも、畳の下に隠されて。
頼成の伸ばした手の先に。
犯人は、また母の遺品を使った。
深雪乃は、その事実を受け取った。
涙は出なかった。
叫びも出なかった。
手も震えていない。
彼女は、ただ割れ玉を見ていた。
赫臣は、その手を見た。
深雪乃の指先。
白い。
だが震えていない。
赫臣の表情が、ほんのわずかに変わった。
不安。
深雪乃は、それに気づいた。
彼は、深雪乃が震えていないことに気づいたのだ。母の遺品がまた死のそばに置かれているのに、手が震えない。顔も崩れない。声も乱れない。冷静すぎる。
事件現場で、深雪乃は泣かない。
怖がらない。
ただ、見ている。
自分でも、それが少しおかしいことは分かっていた。
けれど、涙は後から来る気がした。今ではない。今泣けば、見落とす。怒れば、聞き逃す。怖がれば、犯人が残したものを拾えない。そう身体が勝手に判断している。
赫臣は、それを危ういと感じている。
深雪乃は、割れ玉から目を離さずに言った。
「また、母のものです」
声は静かだった。
蓮台が頷く。
「ああ。今度はブレスレットの一部か」
「髪飾り、鏡を清める塩、そしてブレスレット」
砂笙が低く言う。
「犯人は、母君の遺品を一つずつ現場へ絡めております」
白絹が、夜岐を見た。
「そして今回は、猫の爪痕」
夜岐が震えた。
「私ではありません」
白絹は微笑まない。
「ええ。そうかもしれませんわ。けれど、犯人はあなたを指している」
夜岐の顔が歪む。
「なぜ私が」
深雪乃は、夜岐を見た。
その声には、初めて年相応の怯えが混じっていた。美しく、可憐で、人前では妹想いを演じてきた姉。深雪乃の母の櫛を折り、使用人たちに押さえつけさせ、楽しげに笑った女。その夜岐が、今は疑われる側に立っている。
不思議なほど、胸は揺れなかった。
夜岐が苦しめばいい、と思うわけでもない。
助けたい、とも思わない。
ただ、事実としてそこにいる。
その冷たさが、自分でも少し怖かった。
赫臣が、深雪乃の手を取った。
突然ではない。
そっと。
だが、深雪乃の指先を包むように。
「深雪」
「はい」
「怖いなら言え」
「怖いです」
即答した。
赫臣の目が、少しだけ揺れる。
深雪乃は続けた。
「ですが、今は怖がっている暇がありません」
「それが怖い」
「私がですか」
「ああ」
赫臣の声は低い。
「お前の手が震えてねえ」
深雪乃は、自分の手を見た。
赫臣の手の中にある指。
確かに震えていない。
冷たいが、震えていない。
「便利ですね」
深雪乃は言った。
「現場では、役に立ちそうです」
赫臣の表情が、はっきり歪んだ。
「便利って言うな」
「では、何と」
「深雪」
「はい」
「お前、自分の心を物みてえに扱うな」
その言葉が、胸に刺さった。
深雪乃は、すぐには答えられなかった。
自分の心を物のように扱う。
そうしなければ、生きられなかった。
痛い時、痛みを自分から切り離す。怖い時、怖さを畳んで奥へ押し込む。怒りも、涙も、悔しさも、全部、邪魔にならない場所へ置く。死なない身体に引きずられて、生きるためにはそうするしかなかった。
赫臣は、それを見抜く。
見抜いて、怒る。
深雪乃は視線を落とした。
「すぐには、直せません」
「直せって言ってねえ」
「では」
「俺が気づく。お前が自分で置き去りにしたものを、俺が拾う」
深雪乃の喉が詰まった。
赫臣は、彼女の手を握ったまま言った。
「だから、震えないなら俺が震える。泣けないなら、あとで泣ける場所を作る。今は見ろ。けど、全部一人で飲み込むな」
深雪乃は、言葉を探した。
だが、客間の血の匂いと、割れた白藤色の玉と、夜岐の怯えた顔と、赫臣の熱が混じり、うまく声にならない。
結局、小さく頷いた。
「……努力します」
「努力じゃ足りねえ」
「あなたは本当に要求が多い」
「お前には多い」
「自覚があるなら、少しは控えてください」
「無理だ」
「でしょうね」
赫臣の手が、ほんの少し強くなる。
蓮台が割れ玉を見ながら言った。
「今度も、遺品の欠片を現場へ残している。頼成の伸ばした手の先、畳の下。つまり、頼成はこれを見つけようとしたか、隠そうとしたか、どちらかだ」
砂笙が畳を見た。
「畳の縁の浮き方から見て、玉は事件前からそこにあった可能性もございます。頼成殿が倒れる直前に手を伸ばしたのなら、彼はその所在を知っていたかもしれません」
白絹が静かに言う。
「猫の爪痕に見せかけた傷、内側から施錠された部屋、母君のブレスレットの割れ玉。犯人は今度、夜岐さんへ疑いを向けながら、母君の遺品を頼成さんへ結びつけていますわ」
夜岐が、震える声で言った。
「私は知らない。そんな玉、見たことも」
深雪乃が夜岐を見る。
「姉上」
夜岐の肩が跳ねる。
「母の櫛は、見たことがありましたね」
夜岐の顔が強張る。
深雪乃の声は、淡々としていた。
「文箱から出し、歯を一本ずつ折りました。母の鏡は、捨てればいいとおっしゃいました。母の着物も、何度か蔵へ押し込まれました。では、母のブレスレットは、本当にご存じありませんか」
「知らないわ」
夜岐の声は細い。
「知らない。本当に知らない。私は、そんなもの」
深雪乃は、夜岐の目を見た。
嘘かどうか。
完全には分からない。
だが、夜岐は今、少なくとも恐れている。それは演技だけではなかった。犯人に利用されている恐怖。自分が次に疑われる場所へ立たされた恐怖。深雪乃を見下ろしていた夜岐が、今度は見られる側に立っている。
それでも、深雪乃の胸は冷えたままだった。
赫臣が、そっと彼女の手を撫でる。
深雪乃は、ようやく自分の手が冷たいことに気づいた。
蓮台が立ち上がる。
「部屋を封鎖する。頼成の死亡推定、傷の詳細、鍵の仕掛けはこれから調べる。夜岐、お前の爪も確認する」
夜岐の顔がさらに白くなる。
「私を疑うのですか」
「疑われるだけの形になっている」
「私は」
「やっていないなら、調べられることを拒むな」
夜岐は唇を噛んだ。
兼近が何か言おうとしたが、赫臣が一瞥しただけで黙った。
深雪乃は、割れ玉を見ていた。
白藤色。
銀の金具。
母の手首で鳴っていたもの。
母の遺品は、死体のそばへ置かれるたび、別の顔を見せる。髪飾りは喜周の死体のそばにあった。清め塩は祢々の袖に混じった。今度はブレスレットの割れ玉が、頼成の手の先にあった。
犯人は、母の人生を一片ずつ死体に添えている。
その意図が、深雪乃にはまだ分からない。
だが、確かに近づいている。
母の過去へ。
親世代の罪へ。
そして、深雪乃自身の不死身の理由へ。
赫臣が低く言った。
「深雪。部屋へ戻るぞ」
「まだ」
「ここからは蓮台が見る」
「でも」
「今のお前は冷えすぎてる」
深雪乃は、彼を見上げた。
赫臣の目は、怒りではなく不安で揺れていた。
その不安が、深雪乃の胸をかすかに刺す。
「冷静なのは、悪いことですか」
「悪くねえ」
「では」
「冷静すぎるのは、危ねえ」
赫臣は、彼女の手を包み直した。
「お前は死体を見てるんじゃねえ。自分を切り離して、外から眺めてる顔をしてる」
深雪乃は黙った。
何も言い返せなかった。
その通りだったからだ。
赫臣は彼女を抱き寄せた。
客間の入口で。
夜岐や親族たちの視線もある中で、深雪乃の肩を包む。強くはない。けれど、確かに現実へ引き戻すように。
「今は俺の熱を覚えとけ」
「また勝手な」
「勝手でいい」
「人前です」
「知ってる」
「事件現場です」
「知ってる」
「では、なぜ」
「お前が冷たい」
その一言で、深雪乃は黙った。
赫臣の腕の熱が、肩から背へ伝わる。
背中の傷を避ける手。
昨日、背の傷に口づけた手。
昨夜、帯が落ちる音の中で、装身具を枕元へ置いた手。
その手が、今は事件現場で冷えた深雪乃を抱いている。
深雪乃は、ほんの少しだけ目を閉じた。
怖い。
今になって、やっとその言葉が胸の奥から出てきた。
頼成の死体が怖い。
母のブレスレットの割れ玉が怖い。
夜岐が疑われることよりも、母の遺品が次々と死体のそばへ置かれていることが怖い。
そして、自分がそれを冷静に見ていたことが、何より怖い。
赫臣は、その気配を感じ取ったのか、髪に口づけた。
「そうだ。怖がれ」
「命令口調は嫌いです」
「お願いだ。怖いなら、俺の前で怖がれ」
深雪乃は、彼の着物を少しだけ掴んだ。
「……努力します」
「それでいい」
「甘いですね」
「深雪にはな」
赫臣は、深雪乃を抱いたまま客間から少し離した。
背後では、蓮台が頼成の遺体を調べ、砂笙が畳と鍵を確認し、白絹が夜岐の爪を見ている。親族たちのざわめきは続き、夜岐の細い声が一度だけ震えた。
雨は、まだ降っている。
客間の畳の下から見つかった白藤色の割れ玉は、白い紙の上で静かに光っていた。
母のブレスレットの欠片。
それは、死体のそばで見つかった三つ目の母の遺品だった。
深雪乃の手は、まだ震えていなかった。
赫臣の手だけが、その冷たさを包むように、強く握っていた。




