第59話 先祖返りのない帝都
帝都は、いつも通りの朝を迎えた。
市電は走り、新聞配達の少年は眠そうな顔で通りを駆け、商家の女中は店先に水を撒いていた。焼き菓子の匂い、炭の匂い、濡れた石畳の匂い。人々は昨日と同じように戸を開け、暖簾を出し、湯を沸かし、誰かの噂をしながら一日を始めている。
誰も、夜の底で何が終わったのか知らなかった。
鵺喰家の祈祷部屋から白い光が溢れたことも。
山本五郎左衛門の家紋が砕けたことも。
百鬼夜行が篝火の主からほどけていったことも。
蘆野火家の記録封じが焼け落ち、隠されていた名が紙の上へ戻ったことも。
人間と妖を血と契約で繋ぎ止めてきた、先祖返りの長い歴史が、ひとつの終わりを迎えたことも。
誰も知らない。
それなのに、街は少し変わっていた。
変わったことを、誰もはっきりとは言えない。
ただ、朝の空気が軽かった。
帝都の裏側に沈んでいた湿った夜の匂いが、少し薄れていた。古い屋敷の奥、蔵の隙間、寺社の床下、華族邸の封印部屋。そういう場所に溜まっていた何かが、夜明け前に静かにほどけていったようだった。
人々はそれを、「今日はよく晴れそうだ」とか、「昨夜は妙に眠れた」とか、「肩が軽い気がする」とか、そんな言葉で片づけた。
それで足りた。
普通の日常とは、だいたいそれくらい鈍い。
鵺喰家の門前には、朝靄が残っていた。
昨日まで、門柱に刻まれた鵺喰の家紋は見る者へ圧を与えていた。山本五郎左衛門の系譜を示す、怪異を試し、集め、支配する家の紋。人はもちろん、弱い妖であれば近づくだけで息が詰まるような重みを持っていた。
だが、今朝の家紋は違った。
ただの古い紋だった。
苔の生えた石に刻まれ、雨風に削られ、長い年月で少し角が丸くなった、ただの家印。
門番の下男は、ぼんやりとそれを見上げた。
「……こんなに、古びていたか」
誰に言うでもなく呟いた声は、朝靄に溶けた。
彼は昨日まで、その紋を見るたびに自然と背筋を伸ばしていた。恐れではなく、身に染みついた圧のようなものだった。鵺喰家に仕える者は、家紋の下では頭を下げる。それが当然だった。
けれど今は、何も感じない。
ただ、古い。
その程度だった。
屋敷の中も同じだった。
北蔵の封印札は、すべて白く焼け落ちていた。蔵の扉にはまだ古い傷が残っている。深雪乃が閉じ込められた記憶も、母の遺品が隠されていた事実も、消えたわけではない。だが、そこにまとわりついていた霊的な重圧はなくなっていた。
蔵は、ただの蔵になった。
祈祷部屋の山本五郎左衛門の家紋も、中央から割れていた。
割れた欠片は、白布の上に集められている。砂笙はそれを前に、長く黙っていた。彼の顔には疲れが深く刻まれていた。徹夜のせいだけではない。胃にも魂にも、負担という概念はある。人間も妖も、そこは妙に平等らしい。
蓮台は、祈祷部屋の入口に立っていた。
昨夜の光が去った後、そこには二人の姿は残っていなかった。
赫臣の血に濡れた畳。
深雪乃の血が染みた母の鏡。
砕けた装身具。
折れた弓。
白く灰になった破魔矢の残滓。
それだけが残っていた。
鵺喰深雪乃の身体も、篝火赫臣の身体も、祈祷部屋から消えていた。
消えた、という言葉が正しいのかは分からない。
白い光の中へ沈んだ。
境へ行った。
死んだ。
返った。
どの言葉も正しく、どの言葉も足りなかった。
蓮台は、畳に残った血痕を見下ろした。
「厄介なことをしてくれた」
低く呟く。
怒っているようにも聞こえた。
泣いているようにも聞こえた。
だが、蓮台累は泣かなかった。
その代わり、彼は記録を取った。
人が忘れるなら、紙に残す。
紙が燃えるなら、もう一度書く。
それしかできない者の意地だった。
砂笙が、静かに言った。
「旦那様は」
その先が続かなかった。
蓮台は答えない。
砂笙も、答えを求めていたわけではなかった。
百鬼夜行は、すでに変わっていた。
夜明け前、篝火家へ戻った使者たちは、屋敷の奥で異変を見た。百鬼の間に満ちていた夜の気配が薄くなっていたのだ。壁にかかっていた古い面は、ただの木彫りの面になっていた。酒呑童子の名を封じた札は、墨が薄れ、読めないほどかすれていた。
篝火家の家紋も、まだそこにある。
だが、それはもう百鬼夜行を従える王の印ではなかった。
古い家の紋。
それ以上でも、それ以下でもない。
屋敷に仕えていた者たちは、理由も分からず立ち尽くした。
昨日まで聞こえていた、夜の奥のざわめきがない。
主の命を待つ鬼たちの気配がない。
赫臣が戻らないことを、彼らはまだ信じられずにいた。だが、百鬼夜行がすでに主のもとへ戻らないことだけは、皮膚で分かった。
砂笙は、砕けた赫臣の装身具を布へ包んだ。
ひとつずつ。
ピアス。
舌ピアス。
指輪。
腕輪。
首飾り。
足首飾り。
もう退魔具としては機能しない。
百鬼を留める鎖でもない。
けれど、それは赫臣が赫臣であろうとした証だった。
深雪乃を百鬼夜行の檻へ沈めまいとした、男の残骸だった。
砂笙は、布を閉じる指に力を込めた。
「旦那様」
声は、ほとんど息だった。
「ご命令通り、百鬼は檻に戻しません」
部屋の隅で、黒い影がひとつ揺れた。
小さな妖のような影だった。
それは砂笙を見た後、赫臣の血が残る畳へ頭を下げるように沈み、やがて朝の光の中へ溶けた。
砂笙は、それを見送った。
篝火家の百鬼夜行は、終わった。
完全に消えたのではない。
百鬼は、百鬼へ戻った。
夜へ帰るものもいる。
人の世の隙間に残るものもいる。
寺社の軒下で鈴の音を聞くものも、古い橋の下で水音に紛れるものも、子どもの夢の端へ一瞬だけ現れるものもいるだろう。
だが、もう一人の主に従う群れではない。
少なくとも、赫臣はそれを望まなかった。
蘆野火家にも、朝は来ていた。
白絹は自邸の文庫蔵に立っていた。
昨夜、白い炎に包まれた記録封じは、夜明けまでにすべて燃え尽きた。炎は紙を焼かなかった。封じだけを焼いた。隠されていた文字が、古い紙の上へ戻っている。
宵待澄子の名。
胎内封じ。
白き客人。
篝火への報せ禁ず。
鵺喰の承認印。
枯野井家の記録。
蘆野火の立会い。
寺社方の札。
深雪乃という名の子を、誰がどう扱ったのか。
そこには、蘆野火家の筆跡もあった。
白絹は、文書を一枚ずつ読み、唇を固く結んだ。
美しい横顔は、今朝はひどく疲れていた。
侍女が後ろで震えている。
「お嬢様、これを外へ出せば」
「出します」
白絹の声は静かだった。
「ですが、蘆野火家が」
「蘆野火家は、隠した側ですわ」
侍女は何も言えなかった。
白絹は、燃え残った金の札を拾い上げた。
札はもうただの薄い金属片だった。
玉藻前の系譜を示す力も、言霊を隠す術も、そこには残っていない。
蘆野火家もまた、先祖返りとしての意味を失っていく。
白絹は、そのことに恐怖を覚えなかったわけではない。
家の力が薄れる。
幻術の権威が崩れる。
婚姻政治の意味が変わる。
先祖返り会の第三位という肩書きは、ただの古い家格になっていく。
だが、それでも彼女は文書を閉じなかった。
深雪乃に約束した。
会の記録を隠さないと。
蘆野火の名にかけて。
白絹は、深く息を吸った。
「記録を写しなさい」
「お嬢様」
「帝都警視庁の蓮台様へ送ります。寺社方にも。新聞社にも」
侍女が青ざめる。
「新聞社にも、ですか」
「ええ」
白絹は、少しだけ苦く笑った。
「隠してきたものは、人目に晒さなければまた闇へ戻りますもの」
その声には、まだ震えがあった。
しかし、決意もあった。
「それに」
白絹は、文庫蔵の窓から差し込む朝の光を見た。
「深雪乃さんは、誰にも知られずに消えるには、あまりに痛すぎる人でした」
だが、深雪乃と赫臣の真実を、誰も完全には知らない。
白絹も。
蓮台も。
砂笙も。
あの場にいた者でさえ、すべてを知ったわけではなかった。
白い光の中で、何が最後に起きたのか。
深雪乃が何を見て、何を祈り、赫臣の名を呼んだ後、二人がどこへ消えたのか。
それは誰にも分からない。
記録できるのは、残ったものだけだった。
砕けた紋。
燃えた封じ。
消えた百鬼夜行。
塞がらなかった血痕。
白く曇った母の鏡。
深雪乃と赫臣がいた、という事実。
それだけだった。
帝都の裏社会は、日が高くなるにつれてさらに揺れた。
ある華族邸では、代々「狐憑きの血」として隠されていた娘が、朝起きるとただの少女になっていた。鋭すぎた耳は人の形へ戻り、夜ごと聞こえていた狐火の囁きは消えていた。家の者たちは恐れ、怒り、医者を呼んだが、娘はただ窓の外を見て泣いた。怖かったのではない。初めて静かな朝を聞いたのだ。
ある寺では、妖を封じていた壺が空になっていた。住職は震えながら読経したが、壺の中から返事はなかった。ただ、縁側に小さな濡れた足跡が残っていた。夜のうちに何かが出て、どこかへ帰ったのだろう。
ある退魔師の家では、先祖代々の刀が重くなった。妖を斬るための刀ではなく、ただの刃になった。若い当主は戸惑い、老いた祖母は「やっとだね」と言って泣いた。
先祖返り会の議事堂では、序列表が白く焼けていた。
篝火。
鵺喰。
蘆野火。
その名は残っている。
けれど、そこにあった霊的な力は消えていた。家の名は家の名として残る。財産も、屋敷も、人脈も、完全になくなるわけではない。人間社会というものは、霊力が消えたくらいで権力まで素直に手放すほど可愛くない。そこは本当にしぶとい。
だが、もう「先祖返りだから」という理由で誰かを管理することはできない。
血を理由に婚姻を決めることも。
子を器と呼ぶことも。
妖の力を家紋で縛ることも。
少なくとも、昨日までと同じ形ではできない。
古い制度は、ひと晩で完全には消えない。
けれど、その根は焼かれた。
帝都の裏社会は、昨日までの帝都ではなくなっていた。
そして、表の帝都は何も知らない顔で動いていた。
昼前、学校の前では若者たちが笑っていた。
詰襟の学生服を着た少年たちが、門の前でふざけ合っている。ひとりが鞄を抱え直し、もうひとりがその肩を叩く。教室へ急ぐ者、友人を待つ者、試験の出来を嘆く者。誰かが先生の真似をして、周囲が笑った。
その向かいを、袴姿の女学生たちが通った。
ひとりが洋傘をくるりと回す。
晴れているのに、傘を差している。
友人が何か言い、傘の娘は頬を膨らませた。すぐに笑い出す。髪に結んだリボンが揺れる。
近くの甘味屋からは、餡の甘い匂いがした。
若い恋人たちが、少し照れながら暖簾をくぐっていく。男はぎこちなく、女はそれを見て笑っている。店の中から、茶器の音が小さく響いた。
そこに、深雪乃と赫臣の姿はない。
昨日、二人は同じように帝都を歩いた。
学校帰りの若者を見た。
洋傘を差す娘を見た。
甘味屋に入る恋人たちを見た。
そして、誰もいない路地で、深雪乃は言った。
お互い、ただの人間だったらよかったのに。
赫臣は泣きそうに笑った。
二人は、激しくもなく、ただ触れるだけのキスをした。
普通になれなかった二人の、最も痛い幸福だった。
今日、その街はもう二人を覚えていない。
昨日、白藤色の着物の小柄な女と、金髪で装身具だらけの背の高い男が歩いていたことを、甘味屋の娘はうっすら覚えていた。けれど、それも「綺麗なお二人でしたね」程度の記憶だった。
あの二人が何を背負っていたのか。
何を選んだのか。
何を失ったのか。
誰も知らない。
それでよかったのかもしれない。
深雪乃は、普通の日常を欲しがった。
赫臣と、ただの人間だったらよかったのにと願った。
ならば、彼女が最後に祈った世界は、こういうものだったのかもしれない。
誰も、血筋で縛られない。
誰も、妖の力を家の誇りとして押しつけられない。
誰も、神の子を鍵と呼ばない。
学校の前で若者が笑う。
洋傘の娘が晴れた日に傘を回す。
甘味屋の恋人たちが、白玉を分け合う。
それだけの世界。
あまりにも平凡で、あまりにも眩しい世界。
深雪乃と赫臣が手に入れられなかった世界。
午後、紅樹燈子は新聞社の机に座っていた。
彼女の前には、白絹から届いた写しと、蓮台から非公式に回された覚書が置かれている。先祖返り会、鵺喰家、宵待澄子、胎内封じ、深雪乃、篝火赫臣。どれも紙面に載せるには危険すぎる名だった。
燈子は煙草に火をつけようとして、やめた。
深く息を吐く。
「これは、書けないわね」
隣の記者が目を丸くする。
「紅樹さんが?」
「ええ。書けない」
だが、彼女は紙を捨てなかった。
「そのままでは、ね」
燈子は筆を取った。
真実を真実のまま書けば、誰も信じない。
信じないどころか、握り潰される。
だが、物語なら残せるかもしれない。
怪異譚として。
大正の帝都にあった、古い家と、死なない娘と、百鬼夜行の主の話として。
誰もそれを真実とは知らなくても。
誰かが、いつか、その痛みだけを受け取るかもしれない。
燈子は、白紙の最初に一行を書いた。
人間臭いと蔑まれた不死身の娘は、百鬼夜行の主に愛された。
書いてから、少しだけ目を閉じた。
「安っぽい題ね」
そう呟きながら、彼女はその一行を消さなかった。
夕方、蓮台は警視庁の怪異資料室にいた。
怪異資料室という名前は残っている。
けれど、部屋の空気は変わっていた。棚に並ぶ封印箱は、ただの箱になったものが多い。中にはまだ危険なものもあるだろう。人間の悪意は、妖がいなくても消えない。むしろそこからが本番だ。まったく、人間は妖に責任転嫁していた分まで自分で背負うべきである。
蓮台は、新しい記録簿を開いた。
事件名は、まだ決めていない。
鵺喰家連続怪異殺人。
宵待澄子胎内封じ事件。
先祖返り会隠蔽事件。
どれも違う気がした。
しばらく考え、彼は表紙に短く書いた。
鵺喰深雪乃・篝火赫臣関連記録。
それ以上の題名は、付けられなかった。
記録の一頁目に、彼はこう書いた。
両名の所在不明。死亡確認不能。ただし現場状況および関係者証言より、生存の可能性は極めて低い。
そこまで書いて、筆を止める。
死亡確認不能。
それは事実だった。
身体はない。
消えた。
白い光の中へ。
蓮台は、深雪乃の最後の血痕を思い出した。
塞がらなかった掌の傷。
不死身でなくなった証。
彼は、もう一行だけ書き足した。
鵺喰深雪乃は、最終局面において自身の意志を明確に示した。
少し考え、さらに続ける。
その意志は、いかなる家、会、血統、契約にも帰属しない。
蓮台は筆を置いた。
書けることなど、それくらいだった。
夜が近づく頃、鵺喰家の屋敷は静かになっていた。
あれほど人の気配と悪意と怯えに満ちていた屋敷が、ただの古い屋敷へ戻ろうとしている。いや、戻るのではない。初めてただの屋敷になるのかもしれない。
北蔵の扉は開け放たれた。
中には、もう封じの気配はない。
母の遺品は白布に包まれ、深雪乃のための小さな箱に納められた。箱の上には、沈丁花の枝が一本置かれている。誰が置いたのかは分からない。おそらく、白絹か砂笙だろう。
夜岐は、離れの一室でその話を聞いた。
彼女はまだ起き上がれない。
首の痕も、手首の痣も残っている。傷は治るだろう。けれど、見ていた側として残された記憶は消えない。
深雪乃が消えたと聞いた時、夜岐はしばらく黙っていた。
泣かなかった。
泣ける立場ではないと思ったのかもしれない。
やがて、彼女は小さく言った。
「……私、謝れなかった」
誰も答えなかった。
夜岐は天井を見つめた。
「一度も、ちゃんと」
声が震える。
「深雪乃に」
それだけ言って、彼女は顔を覆った。
遅すぎる後悔だった。
けれど、遅すぎるから無意味とは限らない。
後悔は、時に生き残った者を罰し、時に変える。実に効率の悪い教育装置である。できれば生きているうちにまともになってほしいものだが、人間は本当に手遅れが好きだ。
夜、帝都に灯りがともった。
街灯が並び、店の窓が明るくなり、市電の光が線のように走る。
先祖返りのない帝都。
完全にそう呼ぶには、まだ早いのかもしれない。
血は残る。
家名も残る。
記憶も、記録も、傷も残る。
だが、血が運命を命じる力は弱まった。
家紋が人を縛る夜は終わり始めた。
妖は妖へ。
人間は人間へ。
混ざり合ったものがすべて消えるわけではない。人の心には、妖より厄介なものも住んでいる。だが、少なくとも、誰かの恋が契約書に閉じ込められる時代は終わりへ向かっている。
学校の前では、夜になっても若者たちの声が少し残っていた。
明日の試験の話。
好きな娘の話。
新しくできた喫茶店の話。
どれも小さく、普通で、どうでもいいほど眩しい。
その笑い声を、誰かが聞いていたかもしれない。
白藤の花の香りが、ほんの一瞬だけ風に混ざった。
それに続いて、煙管の甘い匂いがかすかに流れた気がした。
だが、道行く人々は誰も気づかない。
気づかなくていい。
誰も深雪乃と赫臣の真実を知らない。
ただ、帝都は少しだけ軽くなった朝を迎え、普通の人々は普通の明日へ向かって歩いていく。
その普通こそが、二人の恋が最後に残したものだった。




