表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
人間臭いと蔑まれた不死身の娘は、百鬼夜行の主に愛される  作者: なつめ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

61/63

第59話 先祖返りのない帝都


 帝都は、いつも通りの朝を迎えた。


 市電は走り、新聞配達の少年は眠そうな顔で通りを駆け、商家の女中は店先に水を撒いていた。焼き菓子の匂い、炭の匂い、濡れた石畳の匂い。人々は昨日と同じように戸を開け、暖簾を出し、湯を沸かし、誰かの噂をしながら一日を始めている。


 誰も、夜の底で何が終わったのか知らなかった。


 鵺喰家の祈祷部屋から白い光が溢れたことも。


 山本五郎左衛門の家紋が砕けたことも。


 百鬼夜行が篝火の主からほどけていったことも。


 蘆野火家の記録封じが焼け落ち、隠されていた名が紙の上へ戻ったことも。


 人間と妖を血と契約で繋ぎ止めてきた、先祖返りの長い歴史が、ひとつの終わりを迎えたことも。


 誰も知らない。


 それなのに、街は少し変わっていた。


 変わったことを、誰もはっきりとは言えない。


 ただ、朝の空気が軽かった。


 帝都の裏側に沈んでいた湿った夜の匂いが、少し薄れていた。古い屋敷の奥、蔵の隙間、寺社の床下、華族邸の封印部屋。そういう場所に溜まっていた何かが、夜明け前に静かにほどけていったようだった。


 人々はそれを、「今日はよく晴れそうだ」とか、「昨夜は妙に眠れた」とか、「肩が軽い気がする」とか、そんな言葉で片づけた。


 それで足りた。


 普通の日常とは、だいたいそれくらい鈍い。


 鵺喰家の門前には、朝靄が残っていた。


 昨日まで、門柱に刻まれた鵺喰の家紋は見る者へ圧を与えていた。山本五郎左衛門の系譜を示す、怪異を試し、集め、支配する家の紋。人はもちろん、弱い妖であれば近づくだけで息が詰まるような重みを持っていた。


 だが、今朝の家紋は違った。


 ただの古い紋だった。


 苔の生えた石に刻まれ、雨風に削られ、長い年月で少し角が丸くなった、ただの家印。


 門番の下男は、ぼんやりとそれを見上げた。


「……こんなに、古びていたか」


 誰に言うでもなく呟いた声は、朝靄に溶けた。


 彼は昨日まで、その紋を見るたびに自然と背筋を伸ばしていた。恐れではなく、身に染みついた圧のようなものだった。鵺喰家に仕える者は、家紋の下では頭を下げる。それが当然だった。


 けれど今は、何も感じない。


 ただ、古い。


 その程度だった。


 屋敷の中も同じだった。


 北蔵の封印札は、すべて白く焼け落ちていた。蔵の扉にはまだ古い傷が残っている。深雪乃が閉じ込められた記憶も、母の遺品が隠されていた事実も、消えたわけではない。だが、そこにまとわりついていた霊的な重圧はなくなっていた。


 蔵は、ただの蔵になった。


 祈祷部屋の山本五郎左衛門の家紋も、中央から割れていた。


 割れた欠片は、白布の上に集められている。砂笙はそれを前に、長く黙っていた。彼の顔には疲れが深く刻まれていた。徹夜のせいだけではない。胃にも魂にも、負担という概念はある。人間も妖も、そこは妙に平等らしい。


 蓮台は、祈祷部屋の入口に立っていた。


 昨夜の光が去った後、そこには二人の姿は残っていなかった。


 赫臣の血に濡れた畳。


 深雪乃の血が染みた母の鏡。


 砕けた装身具。


 折れた弓。


 白く灰になった破魔矢の残滓。


 それだけが残っていた。


 鵺喰深雪乃の身体も、篝火赫臣の身体も、祈祷部屋から消えていた。


 消えた、という言葉が正しいのかは分からない。


 白い光の中へ沈んだ。


 境へ行った。


 死んだ。


 返った。


 どの言葉も正しく、どの言葉も足りなかった。


 蓮台は、畳に残った血痕を見下ろした。


「厄介なことをしてくれた」


 低く呟く。


 怒っているようにも聞こえた。


 泣いているようにも聞こえた。


 だが、蓮台累は泣かなかった。


 その代わり、彼は記録を取った。


 人が忘れるなら、紙に残す。


 紙が燃えるなら、もう一度書く。


 それしかできない者の意地だった。


 砂笙が、静かに言った。


「旦那様は」


 その先が続かなかった。


 蓮台は答えない。


 砂笙も、答えを求めていたわけではなかった。


 百鬼夜行は、すでに変わっていた。


 夜明け前、篝火家へ戻った使者たちは、屋敷の奥で異変を見た。百鬼の間に満ちていた夜の気配が薄くなっていたのだ。壁にかかっていた古い面は、ただの木彫りの面になっていた。酒呑童子の名を封じた札は、墨が薄れ、読めないほどかすれていた。


 篝火家の家紋も、まだそこにある。


 だが、それはもう百鬼夜行を従える王の印ではなかった。


 古い家の紋。


 それ以上でも、それ以下でもない。


 屋敷に仕えていた者たちは、理由も分からず立ち尽くした。


 昨日まで聞こえていた、夜の奥のざわめきがない。


 主の命を待つ鬼たちの気配がない。


 赫臣が戻らないことを、彼らはまだ信じられずにいた。だが、百鬼夜行がすでに主のもとへ戻らないことだけは、皮膚で分かった。


 砂笙は、砕けた赫臣の装身具を布へ包んだ。


 ひとつずつ。


 ピアス。


 舌ピアス。


 指輪。


 腕輪。


 首飾り。


 足首飾り。


 もう退魔具としては機能しない。


 百鬼を留める鎖でもない。


 けれど、それは赫臣が赫臣であろうとした証だった。


 深雪乃を百鬼夜行の檻へ沈めまいとした、男の残骸だった。


 砂笙は、布を閉じる指に力を込めた。


「旦那様」


 声は、ほとんど息だった。


「ご命令通り、百鬼は檻に戻しません」


 部屋の隅で、黒い影がひとつ揺れた。


 小さな妖のような影だった。


 それは砂笙を見た後、赫臣の血が残る畳へ頭を下げるように沈み、やがて朝の光の中へ溶けた。


 砂笙は、それを見送った。


 篝火家の百鬼夜行は、終わった。


 完全に消えたのではない。


 百鬼は、百鬼へ戻った。


 夜へ帰るものもいる。


 人の世の隙間に残るものもいる。


 寺社の軒下で鈴の音を聞くものも、古い橋の下で水音に紛れるものも、子どもの夢の端へ一瞬だけ現れるものもいるだろう。


 だが、もう一人の主に従う群れではない。


 少なくとも、赫臣はそれを望まなかった。


 蘆野火家にも、朝は来ていた。


 白絹は自邸の文庫蔵に立っていた。


 昨夜、白い炎に包まれた記録封じは、夜明けまでにすべて燃え尽きた。炎は紙を焼かなかった。封じだけを焼いた。隠されていた文字が、古い紙の上へ戻っている。


 宵待澄子の名。


 胎内封じ。


 白き客人。


 篝火への報せ禁ず。


 鵺喰の承認印。


 枯野井家の記録。


 蘆野火の立会い。


 寺社方の札。


 深雪乃という名の子を、誰がどう扱ったのか。


 そこには、蘆野火家の筆跡もあった。


 白絹は、文書を一枚ずつ読み、唇を固く結んだ。


 美しい横顔は、今朝はひどく疲れていた。


 侍女が後ろで震えている。


「お嬢様、これを外へ出せば」


「出します」


 白絹の声は静かだった。


「ですが、蘆野火家が」


「蘆野火家は、隠した側ですわ」


 侍女は何も言えなかった。


 白絹は、燃え残った金の札を拾い上げた。


 札はもうただの薄い金属片だった。


 玉藻前の系譜を示す力も、言霊を隠す術も、そこには残っていない。


 蘆野火家もまた、先祖返りとしての意味を失っていく。


 白絹は、そのことに恐怖を覚えなかったわけではない。


 家の力が薄れる。


 幻術の権威が崩れる。


 婚姻政治の意味が変わる。


 先祖返り会の第三位という肩書きは、ただの古い家格になっていく。


 だが、それでも彼女は文書を閉じなかった。


 深雪乃に約束した。


 会の記録を隠さないと。


 蘆野火の名にかけて。


 白絹は、深く息を吸った。


「記録を写しなさい」


「お嬢様」


「帝都警視庁の蓮台様へ送ります。寺社方にも。新聞社にも」


 侍女が青ざめる。


「新聞社にも、ですか」


「ええ」


 白絹は、少しだけ苦く笑った。


「隠してきたものは、人目に晒さなければまた闇へ戻りますもの」


 その声には、まだ震えがあった。


 しかし、決意もあった。


「それに」


 白絹は、文庫蔵の窓から差し込む朝の光を見た。


「深雪乃さんは、誰にも知られずに消えるには、あまりに痛すぎる人でした」


 だが、深雪乃と赫臣の真実を、誰も完全には知らない。


 白絹も。


 蓮台も。


 砂笙も。


 あの場にいた者でさえ、すべてを知ったわけではなかった。


 白い光の中で、何が最後に起きたのか。


 深雪乃が何を見て、何を祈り、赫臣の名を呼んだ後、二人がどこへ消えたのか。


 それは誰にも分からない。


 記録できるのは、残ったものだけだった。


 砕けた紋。


 燃えた封じ。


 消えた百鬼夜行。


 塞がらなかった血痕。


 白く曇った母の鏡。


 深雪乃と赫臣がいた、という事実。


 それだけだった。


 帝都の裏社会は、日が高くなるにつれてさらに揺れた。


 ある華族邸では、代々「狐憑きの血」として隠されていた娘が、朝起きるとただの少女になっていた。鋭すぎた耳は人の形へ戻り、夜ごと聞こえていた狐火の囁きは消えていた。家の者たちは恐れ、怒り、医者を呼んだが、娘はただ窓の外を見て泣いた。怖かったのではない。初めて静かな朝を聞いたのだ。


 ある寺では、妖を封じていた壺が空になっていた。住職は震えながら読経したが、壺の中から返事はなかった。ただ、縁側に小さな濡れた足跡が残っていた。夜のうちに何かが出て、どこかへ帰ったのだろう。


 ある退魔師の家では、先祖代々の刀が重くなった。妖を斬るための刀ではなく、ただの刃になった。若い当主は戸惑い、老いた祖母は「やっとだね」と言って泣いた。


 先祖返り会の議事堂では、序列表が白く焼けていた。


 篝火。


 鵺喰。


 蘆野火。


 その名は残っている。


 けれど、そこにあった霊的な力は消えていた。家の名は家の名として残る。財産も、屋敷も、人脈も、完全になくなるわけではない。人間社会というものは、霊力が消えたくらいで権力まで素直に手放すほど可愛くない。そこは本当にしぶとい。


 だが、もう「先祖返りだから」という理由で誰かを管理することはできない。


 血を理由に婚姻を決めることも。


 子を器と呼ぶことも。


 妖の力を家紋で縛ることも。


 少なくとも、昨日までと同じ形ではできない。


 古い制度は、ひと晩で完全には消えない。


 けれど、その根は焼かれた。


 帝都の裏社会は、昨日までの帝都ではなくなっていた。


 そして、表の帝都は何も知らない顔で動いていた。


 昼前、学校の前では若者たちが笑っていた。


 詰襟の学生服を着た少年たちが、門の前でふざけ合っている。ひとりが鞄を抱え直し、もうひとりがその肩を叩く。教室へ急ぐ者、友人を待つ者、試験の出来を嘆く者。誰かが先生の真似をして、周囲が笑った。


 その向かいを、袴姿の女学生たちが通った。


 ひとりが洋傘をくるりと回す。


 晴れているのに、傘を差している。


 友人が何か言い、傘の娘は頬を膨らませた。すぐに笑い出す。髪に結んだリボンが揺れる。


 近くの甘味屋からは、餡の甘い匂いがした。


 若い恋人たちが、少し照れながら暖簾をくぐっていく。男はぎこちなく、女はそれを見て笑っている。店の中から、茶器の音が小さく響いた。


 そこに、深雪乃と赫臣の姿はない。


 昨日、二人は同じように帝都を歩いた。


 学校帰りの若者を見た。


 洋傘を差す娘を見た。


 甘味屋に入る恋人たちを見た。


 そして、誰もいない路地で、深雪乃は言った。


 お互い、ただの人間だったらよかったのに。


 赫臣は泣きそうに笑った。


 二人は、激しくもなく、ただ触れるだけのキスをした。


 普通になれなかった二人の、最も痛い幸福だった。


 今日、その街はもう二人を覚えていない。


 昨日、白藤色の着物の小柄な女と、金髪で装身具だらけの背の高い男が歩いていたことを、甘味屋の娘はうっすら覚えていた。けれど、それも「綺麗なお二人でしたね」程度の記憶だった。


 あの二人が何を背負っていたのか。


 何を選んだのか。


 何を失ったのか。


 誰も知らない。


 それでよかったのかもしれない。


 深雪乃は、普通の日常を欲しがった。


 赫臣と、ただの人間だったらよかったのにと願った。


 ならば、彼女が最後に祈った世界は、こういうものだったのかもしれない。


 誰も、血筋で縛られない。


 誰も、妖の力を家の誇りとして押しつけられない。


 誰も、神の子を鍵と呼ばない。


 学校の前で若者が笑う。


 洋傘の娘が晴れた日に傘を回す。


 甘味屋の恋人たちが、白玉を分け合う。


 それだけの世界。


 あまりにも平凡で、あまりにも眩しい世界。


 深雪乃と赫臣が手に入れられなかった世界。


 午後、紅樹燈子は新聞社の机に座っていた。


 彼女の前には、白絹から届いた写しと、蓮台から非公式に回された覚書が置かれている。先祖返り会、鵺喰家、宵待澄子、胎内封じ、深雪乃、篝火赫臣。どれも紙面に載せるには危険すぎる名だった。


 燈子は煙草に火をつけようとして、やめた。


 深く息を吐く。


「これは、書けないわね」


 隣の記者が目を丸くする。


「紅樹さんが?」


「ええ。書けない」


 だが、彼女は紙を捨てなかった。


「そのままでは、ね」


 燈子は筆を取った。


 真実を真実のまま書けば、誰も信じない。


 信じないどころか、握り潰される。


 だが、物語なら残せるかもしれない。


 怪異譚として。


 大正の帝都にあった、古い家と、死なない娘と、百鬼夜行の主の話として。


 誰もそれを真実とは知らなくても。


 誰かが、いつか、その痛みだけを受け取るかもしれない。


 燈子は、白紙の最初に一行を書いた。


 人間臭いと蔑まれた不死身の娘は、百鬼夜行の主に愛された。


 書いてから、少しだけ目を閉じた。


「安っぽい題ね」


 そう呟きながら、彼女はその一行を消さなかった。


 夕方、蓮台は警視庁の怪異資料室にいた。


 怪異資料室という名前は残っている。


 けれど、部屋の空気は変わっていた。棚に並ぶ封印箱は、ただの箱になったものが多い。中にはまだ危険なものもあるだろう。人間の悪意は、妖がいなくても消えない。むしろそこからが本番だ。まったく、人間は妖に責任転嫁していた分まで自分で背負うべきである。


 蓮台は、新しい記録簿を開いた。


 事件名は、まだ決めていない。


 鵺喰家連続怪異殺人。


 宵待澄子胎内封じ事件。


 先祖返り会隠蔽事件。


 どれも違う気がした。


 しばらく考え、彼は表紙に短く書いた。


 鵺喰深雪乃・篝火赫臣関連記録。


 それ以上の題名は、付けられなかった。


 記録の一頁目に、彼はこう書いた。


 両名の所在不明。死亡確認不能。ただし現場状況および関係者証言より、生存の可能性は極めて低い。


 そこまで書いて、筆を止める。


 死亡確認不能。


 それは事実だった。


 身体はない。


 消えた。


 白い光の中へ。


 蓮台は、深雪乃の最後の血痕を思い出した。


 塞がらなかった掌の傷。


 不死身でなくなった証。


 彼は、もう一行だけ書き足した。


 鵺喰深雪乃は、最終局面において自身の意志を明確に示した。


 少し考え、さらに続ける。


 その意志は、いかなる家、会、血統、契約にも帰属しない。


 蓮台は筆を置いた。


 書けることなど、それくらいだった。


 夜が近づく頃、鵺喰家の屋敷は静かになっていた。


 あれほど人の気配と悪意と怯えに満ちていた屋敷が、ただの古い屋敷へ戻ろうとしている。いや、戻るのではない。初めてただの屋敷になるのかもしれない。


 北蔵の扉は開け放たれた。


 中には、もう封じの気配はない。


 母の遺品は白布に包まれ、深雪乃のための小さな箱に納められた。箱の上には、沈丁花の枝が一本置かれている。誰が置いたのかは分からない。おそらく、白絹か砂笙だろう。


 夜岐は、離れの一室でその話を聞いた。


 彼女はまだ起き上がれない。


 首の痕も、手首の痣も残っている。傷は治るだろう。けれど、見ていた側として残された記憶は消えない。


 深雪乃が消えたと聞いた時、夜岐はしばらく黙っていた。


 泣かなかった。


 泣ける立場ではないと思ったのかもしれない。


 やがて、彼女は小さく言った。


「……私、謝れなかった」


 誰も答えなかった。


 夜岐は天井を見つめた。


「一度も、ちゃんと」


 声が震える。


「深雪乃に」


 それだけ言って、彼女は顔を覆った。


 遅すぎる後悔だった。


 けれど、遅すぎるから無意味とは限らない。


 後悔は、時に生き残った者を罰し、時に変える。実に効率の悪い教育装置である。できれば生きているうちにまともになってほしいものだが、人間は本当に手遅れが好きだ。


 夜、帝都に灯りがともった。


 街灯が並び、店の窓が明るくなり、市電の光が線のように走る。


 先祖返りのない帝都。


 完全にそう呼ぶには、まだ早いのかもしれない。


 血は残る。


 家名も残る。


 記憶も、記録も、傷も残る。


 だが、血が運命を命じる力は弱まった。


 家紋が人を縛る夜は終わり始めた。


 妖は妖へ。


 人間は人間へ。


 混ざり合ったものがすべて消えるわけではない。人の心には、妖より厄介なものも住んでいる。だが、少なくとも、誰かの恋が契約書に閉じ込められる時代は終わりへ向かっている。


 学校の前では、夜になっても若者たちの声が少し残っていた。


 明日の試験の話。


 好きな娘の話。


 新しくできた喫茶店の話。


 どれも小さく、普通で、どうでもいいほど眩しい。


 その笑い声を、誰かが聞いていたかもしれない。


 白藤の花の香りが、ほんの一瞬だけ風に混ざった。


 それに続いて、煙管の甘い匂いがかすかに流れた気がした。


 だが、道行く人々は誰も気づかない。


 気づかなくていい。


 誰も深雪乃と赫臣の真実を知らない。


 ただ、帝都は少しだけ軽くなった朝を迎え、普通の人々は普通の明日へ向かって歩いていく。


 その普通こそが、二人の恋が最後に残したものだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ