表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
人間臭いと蔑まれた不死身の娘は、百鬼夜行の主に愛される  作者: なつめ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

62/63

最終話 月影の檻


 鵺喰深雪乃の名は、記録から少しずつ薄れていった。


 最初に消えたのは、先祖返り会の議事録だった。


 消されたのではない。


 むしろ、逆だった。


 封じが解け、隠されていた文字は紙の上へ戻った。宵待澄子、胎内封じ、白き客人、鵺喰の承認、蘆野火の立会い、枯野井家の記録、寺社方の封印札。かつて伏せられていた名は、いったんすべて露わになった。


 けれど、人の世に戻った記録は、やがて人の世の方法で整理された。


 訴追に必要なもの。


 家名を残すために伏せられるもの。


 新聞に載せられるもの。


 載せられないもの。


 読んでも誰も信じないもの。


 信じさせてはならないもの。


 人間社会とは、隠蔽を嫌いながら、整理の名で別の隠蔽を作る場所である。実に器用で、実に面倒くさい。


 蓮台累は、できる限り書いた。


 鵺喰家における連続殺人。


 先祖返り会による過去の封印儀式。


 宵待澄子とその娘、鵺喰深雪乃。


 篝火赫臣の関与。


 百鬼夜行の消失。


 記録不能の白光現象。


 けれど、彼の記録ですら、すべてを残せたわけではなかった。


 白い光の中で、深雪乃が最後に何を見たのか。


 赫臣の息が止まった後、彼女がどんな声で彼の名を呼んだのか。


 自らの命で何を祈ったのか。


 白い影が、最後にどんな顔をしたのか。


 それらは紙に残せなかった。


 残そうとすると、言葉が足りなくなる。


 人の文字は、時々ひどく役立たずだ。


 蓮台は記録簿の最後に、簡潔に書いた。


 鵺喰深雪乃および篝火赫臣、所在不明。


 死亡と断定する物証なし。


 ただし、両名は同夜以降、帝都および各家記録に一切姿を現さず。


 その下に、彼は少し迷ってから、もう一行だけ足した。


 両名は、最終局面において、いかなる家、会、血統にも帰属しない意志を示した。


 それが、彼にできる精一杯だった。


 篝火家の記録からも、赫臣の名は少しずつ形を変えた。


 当主。


 百鬼夜行の主。


 酒呑童子の血を継ぐ者。


 最後の篝火。


 そう呼ばれていた男は、やがて「先代当主」と書かれるようになり、さらに時が経つと「ある当主」とぼかされた。百鬼夜行が消えた後、篝火家は表向きにはただの旧家となった。財産も、屋敷も、家人も残った。だが、夜を率いる権威は戻らなかった。


 砂笙は長く篝火家に残った。


 彼は赫臣の砕けた装身具を、黒い箱に収めた。


 ピアス。


 舌ピアス。


 指輪。


 腕輪。


 首飾り。


 足首飾り。


 それぞれに、小さな札を添えた。


 百鬼の声を分けたもの。


 名を縫い留めたもの。


 夜行の道を閉じたもの。


 鬼血の力を逃がしたもの。


 鬼の核を心臓へ戻したもの。


 影を地へ繋いだもの。


 そして最後に、砂笙は箱の蓋の裏へ短く記した。


 深雪乃様を檻とせず。


 主、これを選ぶ。


 その文字は、篝火家の公式記録には載らなかった。


 けれど、箱の内側には残った。


 誰かがいつか開けるまで。


 あるいは、誰にも開けられないまま朽ちるまで。


 蘆野火白絹は、約束を守った。


 蘆野火家の記録を隠さなかった。


 当然、家中は荒れた。


 親族は彼女を責めた。家の恥を晒すのかと怒鳴る者もいた。先祖返り会の残党は、彼女を裏切り者と呼んだ。婚姻政治で築いてきた足場は崩れ、蘆野火家の名は帝都の裏で長く囁かれた。


 白絹は、そのすべてを聞いた。


 美しい顔で。


 琥珀色の目を伏せずに。


 そして、ただ一度だけ言った。


「隠して守ったものが、誰を殺したのか、もう忘れるつもりはございません」


 それ以降、彼女は弁解しなかった。


 深雪乃を好きだったわけではない。


 許嫁を奪われた嫉妬が消えたわけでもない。


 だが、深雪乃を嫌いきれなかった。


 あの小さな娘が、最後に自分の命で祈ったものを、白絹は裏切れなかった。


 時が流れた。


 鵺喰家の屋敷は、やがて人手に渡った。


 かつて北蔵だった場所は取り壊され、庭の一角には白藤が植えられた。誰が植えたのかは分からない。最初の年は咲かなかった。次の年も咲かなかった。三年目の春、ようやく小さな房がひとつだけ垂れた。


 花は淡く、控えめだった。


 けれど、沈丁花に似た甘い香りがしたという。


 深雪乃の母の鏡は、行方が分からなくなった。


 祈祷部屋から持ち出された記録はある。


 だが、いつ、誰の手から消えたのか、はっきりしない。


 ある者は、蓮台が保管したと言った。


 ある者は、白絹が蘆野火の文庫蔵へ隠したと言った。


 ある者は、砂笙が篝火家の黒い箱のそばへ置いたと言った。


 またある者は、夜明け前、白い髪の女のような影が鏡を持って消えたと言った。


 どれが正しいのか、もう誰にも分からない。


 ただ、鏡の話だけは細く残った。


 沈丁花文様の懐中鏡。


 持ち主を映すのではなく、持ち主が愛したものを映す鏡。


 古い女学生の間では、そんな噂になったこともある。


 けれど、やがてそれも飽きられた。


 帝都は忙しい。


 悲劇も怪異も恋も、次の噂が来れば古くなる。人の世は薄情だ。だからこそ、生き残ることもできるのかもしれない。


 学校の前では、相変わらず若者たちが笑っていた。


 先祖返りという言葉を知らない世代が増えていった。


 篝火家も、鵺喰家も、蘆野火家も、古い家名として歴史の片隅に残るだけになった。かつてそこにどんな血が流れ、どんな力があり、どんな契約が交わされたのか、普通の人々は知らない。


 知らなくてよかった。


 深雪乃が最後に祈ったのは、そういう世界だったのだから。


 人間は人間として笑い、学び、恋をし、失敗し、年を取り、死ぬ。


 妖は妖として夜へ帰り、時に人の夢の端をかすめ、時に古い橋の下で水音に紛れる。


 血と契約で互いを縛らない。


 愛を、家の都合に変えない。


 子を、鍵と呼ばない。


 その祈りは、完全な形では叶わなかった。


 人間は相変わらず愚かで、妖がいなくても支配を作る。家の名で人を縛り、金で未来を決め、愛を都合よく歪める。世界は、たった二人の死で清くなれるほど素直ではない。そんなに簡単なら、とっくにもっとましになっている。


 けれど、少なくとも、先祖返りの血がすべてを決める時代は終わった。


 それは、確かだった。


 そして、もう一つだけ、確かではないものが残った。


 月夜の噂である。


 帝都の川にかかる古い橋。


 表通りから少し外れた、夜になると人通りの少ない橋だった。石の欄干には苔があり、雨の後には水面から冷たい匂いが上がる。昼間は何の変哲もない橋で、学生たちが近道に使い、商人が荷を引いて渡り、女学生が洋傘を回しながら通る。


 けれど、月の明るい夜だけ、その橋には奇妙な噂が立った。


 誰もいないはずの橋の上で、煙管の甘い匂いがする。


 火皿に残る煙草の匂いではない。


 もっと柔らかく、古い香と混ざったような匂い。


 その後で、黒髪の娘の笑い声が聞こえる。


 大声ではない。


 ほんの小さく、呆れたように。


 まるで、誰かに「調子に乗らないでください」と言った後、少しだけ笑ってしまったような声。


 橋を渡った者が振り返っても、誰もいない。


 ただ、月明かりの中に、白藤の花びらのような光が一瞬だけ揺れることがある。


 ある夜、遅くまで本を読んでいた学生が、その噂を確かめに行った。


 月は丸かった。


 川面には白い光が落ち、橋の欄干は濡れたように光っていた。学生は友人たちにけしかけられ、ひとりで橋へ向かった。怖くなどないと笑っていたが、実際に夜の橋へ立つと、少しだけ足が止まった。


 風が吹いた。


 煙管の匂いがした。


 学生は息を呑む。


 次の瞬間、橋の向こうから女の声が聞こえた。


「また、そういう言い方をなさる」


 若い娘の声だった。


 澄んでいて、少しだけ棘があって、けれど柔らかい。


 続いて、男の低い笑い声がした。


「可愛い」


「それは返事になっていません」


「俺にはなる」


「なりません」


 学生は、震えながら橋の上を見た。


 誰もいない。


 ただ、月明かりの中で、煙のようなものがふわりと立ち上がった。


 金色に近い光が一瞬だけ揺れた気がした。


 黒い髪が風に流れた気もした。


 けれど、目を凝らすと何もない。


 川の音だけが聞こえる。


 学生は、悲鳴を上げる代わりに、なぜか泣きそうになった。


 怖くなかった。


 寂しかった。


 とても幸せなものを、遠くから見てしまったような気がした。


 翌日、彼は友人たちに言った。


「怪異じゃなかった」


 友人たちは笑った。


「じゃあ何だよ」


 学生は、少し考えた。


「たぶん、記憶だ」


 それを聞いた友人たちは、ますます笑った。


 気取っている。


 詩人ぶっている。


 そう言われ、学生は赤くなって怒った。


 それで噂は、少しだけ形を変えた。


 月夜の橋には怪異が出る。


 いや、怪異ではない。


 誰かの記憶の残り香が漂う。


 煙管の匂いと、黒髪の娘の笑い声。


 触れようとすると消える。


 けれど、橋を渡り終えると、なぜか少しだけ胸が温かい。


 そんな噂。


 やがて、噂の名もついた。


 月影の檻。


 誰がそう呼び始めたのかは分からない。


 檻というには、そこに閉じ込められたものはなかった。


 むしろ、二人は最後に檻を壊した。


 人間と妖を血で縛る檻を。


 先祖返りの家名で人を縛る檻を。


 愛を所有に変える檻を。


 深雪乃を鍵と呼んだ檻を。


 赫臣を百鬼夜行の主としてしか生かさなかった檻を。


 それでも、人はその橋を月影の檻と呼んだ。


 月の光だけが、二人の影を閉じ込めているように見えたからかもしれない。


 あるいは、人は失われた恋に名前をつけずにはいられないからかもしれない。名前をつけても、何一つ取り戻せないのに。まったく、無駄で、少しだけ愛しい習性だ。


 橋の噂は、いつしか物語になった。


 不死身の娘がいた。


 人間臭いと蔑まれた娘。


 母の遺品を胸に抱き、鵺喰家で虐げられ、それでも静かに立っていた娘。


 百鬼夜行の主がいた。


 金髪で、蒼い目で、装身具だらけで、口の甘い鬼の男。


 男は娘を愛した。


 娘も男を愛した。


 けれど、二人はただの恋人ではいられなかった。


 血があり、家があり、会があり、契約があり、神と呼ばれたものの影があった。


 それでも、最後まで二人は恋人だった。


 妖でもない。


 神でもない。


 道具でもない。


 鍵でもない。


 ただ、互いの名を呼び合った恋人だった。


 その話を、真実として信じる者は少ない。


 たいていは、古い帝都の怪異譚として語られた。


 怖くはない怪異。


 月の夜だけ橋に残る、甘くて痛い噂。


 それでよかった。


 深雪乃も赫臣も、歴史の大きな文字にはならなかった。


 先祖返り会の崩壊を語る時、政治の記録には家名が並ぶ。


 鵺喰。


 篝火。


 蘆野火。


 枯野井。


 寺社方。


 警視庁。


 そこに、深雪乃と赫臣の名は薄い。


 けれど、月夜の橋には残った。


 紙よりも頼りない場所に。


 人の噂よりも脆い形で。


 煙管の匂いと、黒髪の娘の笑い声として。


 それは怪異ではなかった。


 記憶の残り香だった。


 ある春の夕暮れ。


 学校帰りの若者たちが、橋の近くを通りかかった。


 詰襟の学生服。


 袴姿の女学生。


 肩から鞄を下げた少年。


 洋傘を持つ娘。


 彼らは試験の話をしていた。


 誰が一番できなかったか。


 先生の癖がおかしいとか。


 甘味屋へ行くかどうか。


 そんな、本当にどうでもいい話。


 ひとりの少年が、橋の方を見た。


「なあ、ここって月夜に何か出るって噂、知ってるか」


 隣の少女が笑った。


「また怪談? 好きねえ」


「怪談じゃないらしいぞ」


「じゃあ何?」


「煙管の匂いと、女の人の笑い声」


「何それ。怖くないじゃない」


「だから、怖くないって」


 別の少年が割り込んだ。


「じゃあ甘味屋行こうぜ。怖くない怪談より、団子の方がいい」


 全員が笑った。


 その笑い声が、橋の上を渡っていく。


 明るく、軽く、何も知らない笑い声。


 深雪乃が最後に祈った世界の音だった。


 橋の欄干に、月より早い白い光が一瞬だけ落ちた。


 煙管の甘い匂いが、ほんのかすかに風へ混ざる。


 誰かの黒髪が揺れたような気がした。


 けれど、若者たちは気づかない。


 笑いながら、甘味屋の方へ歩いていく。


 その声は遠ざかり、それでもしばらく夕暮れの空気に残っていた。


 普通の若者たちの笑い声。


 ただ、それだけの音。


 その何でもなさが、二人の恋が残した最後の幸福だった。


【完】


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ