最終話 月影の檻
鵺喰深雪乃の名は、記録から少しずつ薄れていった。
最初に消えたのは、先祖返り会の議事録だった。
消されたのではない。
むしろ、逆だった。
封じが解け、隠されていた文字は紙の上へ戻った。宵待澄子、胎内封じ、白き客人、鵺喰の承認、蘆野火の立会い、枯野井家の記録、寺社方の封印札。かつて伏せられていた名は、いったんすべて露わになった。
けれど、人の世に戻った記録は、やがて人の世の方法で整理された。
訴追に必要なもの。
家名を残すために伏せられるもの。
新聞に載せられるもの。
載せられないもの。
読んでも誰も信じないもの。
信じさせてはならないもの。
人間社会とは、隠蔽を嫌いながら、整理の名で別の隠蔽を作る場所である。実に器用で、実に面倒くさい。
蓮台累は、できる限り書いた。
鵺喰家における連続殺人。
先祖返り会による過去の封印儀式。
宵待澄子とその娘、鵺喰深雪乃。
篝火赫臣の関与。
百鬼夜行の消失。
記録不能の白光現象。
けれど、彼の記録ですら、すべてを残せたわけではなかった。
白い光の中で、深雪乃が最後に何を見たのか。
赫臣の息が止まった後、彼女がどんな声で彼の名を呼んだのか。
自らの命で何を祈ったのか。
白い影が、最後にどんな顔をしたのか。
それらは紙に残せなかった。
残そうとすると、言葉が足りなくなる。
人の文字は、時々ひどく役立たずだ。
蓮台は記録簿の最後に、簡潔に書いた。
鵺喰深雪乃および篝火赫臣、所在不明。
死亡と断定する物証なし。
ただし、両名は同夜以降、帝都および各家記録に一切姿を現さず。
その下に、彼は少し迷ってから、もう一行だけ足した。
両名は、最終局面において、いかなる家、会、血統にも帰属しない意志を示した。
それが、彼にできる精一杯だった。
篝火家の記録からも、赫臣の名は少しずつ形を変えた。
当主。
百鬼夜行の主。
酒呑童子の血を継ぐ者。
最後の篝火。
そう呼ばれていた男は、やがて「先代当主」と書かれるようになり、さらに時が経つと「ある当主」とぼかされた。百鬼夜行が消えた後、篝火家は表向きにはただの旧家となった。財産も、屋敷も、家人も残った。だが、夜を率いる権威は戻らなかった。
砂笙は長く篝火家に残った。
彼は赫臣の砕けた装身具を、黒い箱に収めた。
ピアス。
舌ピアス。
指輪。
腕輪。
首飾り。
足首飾り。
それぞれに、小さな札を添えた。
百鬼の声を分けたもの。
名を縫い留めたもの。
夜行の道を閉じたもの。
鬼血の力を逃がしたもの。
鬼の核を心臓へ戻したもの。
影を地へ繋いだもの。
そして最後に、砂笙は箱の蓋の裏へ短く記した。
深雪乃様を檻とせず。
主、これを選ぶ。
その文字は、篝火家の公式記録には載らなかった。
けれど、箱の内側には残った。
誰かがいつか開けるまで。
あるいは、誰にも開けられないまま朽ちるまで。
蘆野火白絹は、約束を守った。
蘆野火家の記録を隠さなかった。
当然、家中は荒れた。
親族は彼女を責めた。家の恥を晒すのかと怒鳴る者もいた。先祖返り会の残党は、彼女を裏切り者と呼んだ。婚姻政治で築いてきた足場は崩れ、蘆野火家の名は帝都の裏で長く囁かれた。
白絹は、そのすべてを聞いた。
美しい顔で。
琥珀色の目を伏せずに。
そして、ただ一度だけ言った。
「隠して守ったものが、誰を殺したのか、もう忘れるつもりはございません」
それ以降、彼女は弁解しなかった。
深雪乃を好きだったわけではない。
許嫁を奪われた嫉妬が消えたわけでもない。
だが、深雪乃を嫌いきれなかった。
あの小さな娘が、最後に自分の命で祈ったものを、白絹は裏切れなかった。
時が流れた。
鵺喰家の屋敷は、やがて人手に渡った。
かつて北蔵だった場所は取り壊され、庭の一角には白藤が植えられた。誰が植えたのかは分からない。最初の年は咲かなかった。次の年も咲かなかった。三年目の春、ようやく小さな房がひとつだけ垂れた。
花は淡く、控えめだった。
けれど、沈丁花に似た甘い香りがしたという。
深雪乃の母の鏡は、行方が分からなくなった。
祈祷部屋から持ち出された記録はある。
だが、いつ、誰の手から消えたのか、はっきりしない。
ある者は、蓮台が保管したと言った。
ある者は、白絹が蘆野火の文庫蔵へ隠したと言った。
ある者は、砂笙が篝火家の黒い箱のそばへ置いたと言った。
またある者は、夜明け前、白い髪の女のような影が鏡を持って消えたと言った。
どれが正しいのか、もう誰にも分からない。
ただ、鏡の話だけは細く残った。
沈丁花文様の懐中鏡。
持ち主を映すのではなく、持ち主が愛したものを映す鏡。
古い女学生の間では、そんな噂になったこともある。
けれど、やがてそれも飽きられた。
帝都は忙しい。
悲劇も怪異も恋も、次の噂が来れば古くなる。人の世は薄情だ。だからこそ、生き残ることもできるのかもしれない。
学校の前では、相変わらず若者たちが笑っていた。
先祖返りという言葉を知らない世代が増えていった。
篝火家も、鵺喰家も、蘆野火家も、古い家名として歴史の片隅に残るだけになった。かつてそこにどんな血が流れ、どんな力があり、どんな契約が交わされたのか、普通の人々は知らない。
知らなくてよかった。
深雪乃が最後に祈ったのは、そういう世界だったのだから。
人間は人間として笑い、学び、恋をし、失敗し、年を取り、死ぬ。
妖は妖として夜へ帰り、時に人の夢の端をかすめ、時に古い橋の下で水音に紛れる。
血と契約で互いを縛らない。
愛を、家の都合に変えない。
子を、鍵と呼ばない。
その祈りは、完全な形では叶わなかった。
人間は相変わらず愚かで、妖がいなくても支配を作る。家の名で人を縛り、金で未来を決め、愛を都合よく歪める。世界は、たった二人の死で清くなれるほど素直ではない。そんなに簡単なら、とっくにもっとましになっている。
けれど、少なくとも、先祖返りの血がすべてを決める時代は終わった。
それは、確かだった。
そして、もう一つだけ、確かではないものが残った。
月夜の噂である。
帝都の川にかかる古い橋。
表通りから少し外れた、夜になると人通りの少ない橋だった。石の欄干には苔があり、雨の後には水面から冷たい匂いが上がる。昼間は何の変哲もない橋で、学生たちが近道に使い、商人が荷を引いて渡り、女学生が洋傘を回しながら通る。
けれど、月の明るい夜だけ、その橋には奇妙な噂が立った。
誰もいないはずの橋の上で、煙管の甘い匂いがする。
火皿に残る煙草の匂いではない。
もっと柔らかく、古い香と混ざったような匂い。
その後で、黒髪の娘の笑い声が聞こえる。
大声ではない。
ほんの小さく、呆れたように。
まるで、誰かに「調子に乗らないでください」と言った後、少しだけ笑ってしまったような声。
橋を渡った者が振り返っても、誰もいない。
ただ、月明かりの中に、白藤の花びらのような光が一瞬だけ揺れることがある。
ある夜、遅くまで本を読んでいた学生が、その噂を確かめに行った。
月は丸かった。
川面には白い光が落ち、橋の欄干は濡れたように光っていた。学生は友人たちにけしかけられ、ひとりで橋へ向かった。怖くなどないと笑っていたが、実際に夜の橋へ立つと、少しだけ足が止まった。
風が吹いた。
煙管の匂いがした。
学生は息を呑む。
次の瞬間、橋の向こうから女の声が聞こえた。
「また、そういう言い方をなさる」
若い娘の声だった。
澄んでいて、少しだけ棘があって、けれど柔らかい。
続いて、男の低い笑い声がした。
「可愛い」
「それは返事になっていません」
「俺にはなる」
「なりません」
学生は、震えながら橋の上を見た。
誰もいない。
ただ、月明かりの中で、煙のようなものがふわりと立ち上がった。
金色に近い光が一瞬だけ揺れた気がした。
黒い髪が風に流れた気もした。
けれど、目を凝らすと何もない。
川の音だけが聞こえる。
学生は、悲鳴を上げる代わりに、なぜか泣きそうになった。
怖くなかった。
寂しかった。
とても幸せなものを、遠くから見てしまったような気がした。
翌日、彼は友人たちに言った。
「怪異じゃなかった」
友人たちは笑った。
「じゃあ何だよ」
学生は、少し考えた。
「たぶん、記憶だ」
それを聞いた友人たちは、ますます笑った。
気取っている。
詩人ぶっている。
そう言われ、学生は赤くなって怒った。
それで噂は、少しだけ形を変えた。
月夜の橋には怪異が出る。
いや、怪異ではない。
誰かの記憶の残り香が漂う。
煙管の匂いと、黒髪の娘の笑い声。
触れようとすると消える。
けれど、橋を渡り終えると、なぜか少しだけ胸が温かい。
そんな噂。
やがて、噂の名もついた。
月影の檻。
誰がそう呼び始めたのかは分からない。
檻というには、そこに閉じ込められたものはなかった。
むしろ、二人は最後に檻を壊した。
人間と妖を血で縛る檻を。
先祖返りの家名で人を縛る檻を。
愛を所有に変える檻を。
深雪乃を鍵と呼んだ檻を。
赫臣を百鬼夜行の主としてしか生かさなかった檻を。
それでも、人はその橋を月影の檻と呼んだ。
月の光だけが、二人の影を閉じ込めているように見えたからかもしれない。
あるいは、人は失われた恋に名前をつけずにはいられないからかもしれない。名前をつけても、何一つ取り戻せないのに。まったく、無駄で、少しだけ愛しい習性だ。
橋の噂は、いつしか物語になった。
不死身の娘がいた。
人間臭いと蔑まれた娘。
母の遺品を胸に抱き、鵺喰家で虐げられ、それでも静かに立っていた娘。
百鬼夜行の主がいた。
金髪で、蒼い目で、装身具だらけで、口の甘い鬼の男。
男は娘を愛した。
娘も男を愛した。
けれど、二人はただの恋人ではいられなかった。
血があり、家があり、会があり、契約があり、神と呼ばれたものの影があった。
それでも、最後まで二人は恋人だった。
妖でもない。
神でもない。
道具でもない。
鍵でもない。
ただ、互いの名を呼び合った恋人だった。
その話を、真実として信じる者は少ない。
たいていは、古い帝都の怪異譚として語られた。
怖くはない怪異。
月の夜だけ橋に残る、甘くて痛い噂。
それでよかった。
深雪乃も赫臣も、歴史の大きな文字にはならなかった。
先祖返り会の崩壊を語る時、政治の記録には家名が並ぶ。
鵺喰。
篝火。
蘆野火。
枯野井。
寺社方。
警視庁。
そこに、深雪乃と赫臣の名は薄い。
けれど、月夜の橋には残った。
紙よりも頼りない場所に。
人の噂よりも脆い形で。
煙管の匂いと、黒髪の娘の笑い声として。
それは怪異ではなかった。
記憶の残り香だった。
ある春の夕暮れ。
学校帰りの若者たちが、橋の近くを通りかかった。
詰襟の学生服。
袴姿の女学生。
肩から鞄を下げた少年。
洋傘を持つ娘。
彼らは試験の話をしていた。
誰が一番できなかったか。
先生の癖がおかしいとか。
甘味屋へ行くかどうか。
そんな、本当にどうでもいい話。
ひとりの少年が、橋の方を見た。
「なあ、ここって月夜に何か出るって噂、知ってるか」
隣の少女が笑った。
「また怪談? 好きねえ」
「怪談じゃないらしいぞ」
「じゃあ何?」
「煙管の匂いと、女の人の笑い声」
「何それ。怖くないじゃない」
「だから、怖くないって」
別の少年が割り込んだ。
「じゃあ甘味屋行こうぜ。怖くない怪談より、団子の方がいい」
全員が笑った。
その笑い声が、橋の上を渡っていく。
明るく、軽く、何も知らない笑い声。
深雪乃が最後に祈った世界の音だった。
橋の欄干に、月より早い白い光が一瞬だけ落ちた。
煙管の甘い匂いが、ほんのかすかに風へ混ざる。
誰かの黒髪が揺れたような気がした。
けれど、若者たちは気づかない。
笑いながら、甘味屋の方へ歩いていく。
その声は遠ざかり、それでもしばらく夕暮れの空気に残っていた。
普通の若者たちの笑い声。
ただ、それだけの音。
その何でもなさが、二人の恋が残した最後の幸福だった。
【完】




