第58話 深雪乃
赫臣の胸は、もう動かなかった。
深雪乃は、それでも離れなかった。
祈祷部屋の畳には、砕けた装身具の欠片が散っている。赤い石の砕けたピアス。白い光で割れた舌ピアス。指輪の銀片。ブレスレットの歪んだ輪。ネックレスの黒い石の粉。足首飾りの細い鎖。
それらは、もう飾りではなかった。
赫臣という男を、百鬼夜行の主として、同時に一人の人として留めていたものの残骸だった。
彼の血は、深雪乃の白藤色の着物に濃く染みている。
深雪乃の掌から流れた血も、そこに混ざっていた。
傷は塞がらない。
指輪の破片で切れた掌の傷は、赤い線のまま、痛みを持ってそこにあった。これまでなら、すぐに皮膚が戻り、血は止まり、痛みだけが深雪乃の中へ置き去りにされた。けれど今は違う。
血が流れる。
痛い。
塞がらない。
それは、深雪乃がようやく死ねる身体になった証だった。
死なないのではなかった。
死ぬことを許されていなかった。
白い影が告げた言葉が、まだ部屋に残っている。
鵺喰家は、胎内の子を器にできなかった。
だから鍵として保管した。
死へ至る道を閉じ、境へ返る流れを山本五郎左衛門の紋で縛った。
宵待の破魔は深雪乃を穢れから守り、鵺喰の紋は深雪乃を境から引き戻し、先祖返り会の印は深雪乃を契約の内に留めた。
そして、赫臣の鬼血が最後の楔になった。
彼が深雪乃を愛し、深雪乃が彼を愛した時、封は揺らいだ。
鬼血は鍵へ触れた。
百鬼夜行の主の愛は、深雪乃を守ろうとして、深雪乃をこの世へ留める最後の鎖にもなった。
だから、破魔の矢は赫臣を撃ち抜いた。
愛していたから。
愛されたから。
深雪乃は、ようやく不死身ではなくなった。
そして赫臣は、息を止めた。
こんな結末を、誰が望んだというのだろう。
深雪乃は、赫臣の頬に触れた。
冷たくなり始めている。
ついさっきまで、泣きながら笑っていた顔。
撃てたな。偉い。
そう言った顔。
褒めないで、と泣いた深雪乃を、血を吐きながら抱きしめてくれた腕。
その腕は、まだ深雪乃の背にかかっている。
力はない。
けれど、形だけは彼女を守るように残っていた。
「赫臣様」
返事はない。
深雪乃は、彼の胸に額を寄せた。
「あなたは、約束を破りました」
声は静かだった。
泣き叫ぶ力は、もう何度も使い果たしていた。
「生きると、約束したのに」
掌の傷が痛む。
痛みは、妙に鮮明だった。
生きているから痛い。
生きているから失う。
生きているから、赫臣の冷たさが分かる。
不死身でなくなるとは、こういうことなのか。
傷つくことを、戻されないこと。
血を流すことを、消されないこと。
死へ向かう道を、誰にも押し戻されないこと。
それは自由だった。
けれど、深雪乃はその自由を抱きしめて喜ぶことなどできなかった。
赫臣がいない。
その一点だけで、世界のすべてが意味を失いかけていた。
祈祷部屋の奥では、山本五郎左衛門の家紋に亀裂が入ったまま震えている。鵺喰家の結界は、屋敷中で割れていた。遠くから使用人の悲鳴が聞こえ、親族たちの怒号が聞こえ、札が燃える音が聞こえた。
蘆野火の記録封じも、白い炎に包まれている。
百鬼夜行の影は、赫臣の周囲で揺れながら、主の命を待つでもなく、完全に去るでもなく、戸惑うように震えていた。
帝都の裏社会は、鳴っていた。
寺社の鐘。
警視庁の怪異鈴。
華族屋敷の封印札。
新聞社の裏棚で眠っていた古い紙。
退魔師の蔵に仕舞われた刀。
先祖返り会の記録庫。
長いあいだ隠されてきたものが、同時に息をし始めている。
けれど、深雪乃の世界は、赫臣の胸元だけだった。
白い影が、まだそこにいる。
母の影も薄く残っていた。
白い髪。
蒼い目。
黒い組紐と銀の輪。
それは、神と呼ばれたものだった。
人が理解できず、妖とも括れず、祓えず、喰えず、縛れず、ただ恐れて名前を与えたもの。
白き客人。
境に立つもの。
その存在が、宵待澄子を愛した。
神のように呼ばれたものが、人の女を愛した。
澄子もまた、その手を取った。
その結果として、深雪乃は生まれた。
神の子。
人でも、妖でも、先祖返りでもない。
境の血と、宵待の破魔と、人の母の愛から生まれた子。
けれど、その子は祝福されなかった。
鵺喰家は恐れた。
先祖返り会は管理しようとした。
寺社方は封じようとした。
蘆野火家は記録を隠した。
篝火家には知らせなかった。
母は子として産みたいと願った。
父は守るふりをして閉じ込めた。
そして深雪乃は、死ぬことすら許されない身体にされた。
神の子は恋をした。
恋をした相手は、酒呑童子の血を引く百鬼夜行の主だった。
その恋は、封を揺らした。
その恋は、深雪乃を人へ近づけた。
その恋は、最後に赫臣を奪った。
深雪乃は、赫臣の頬を撫でた。
「ひどいですね」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
神にか。
鵺喰家にか。
先祖返り会にか。
それとも、自分の生まれそのものにか。
「恋をしただけなのに」
涙が落ちた。
「私たちは、ただ恋をしただけなのに」
母の影が、静かに揺れた。
白い影は、深雪乃を見ている。
深雪乃は、ゆっくり顔を上げた。
「あなたは、母さまを愛したのですか」
白い影は答えなかった。
けれど、沈黙が答えだった。
「それで、母さまは幸せでしたか」
今度も答えはない。
母の影が、わずかに目を伏せた。
幸せだけではなかったのだろう。
愛した。
けれど、奪われた。
子を産んだ。
けれど、子は契約書に書かれた。
人と、人ならざるものの恋は、先祖返り会の歴史にとって都合が悪かった。だから隠された。封じられた。利用された。
深雪乃は、その結果だった。
愛の子であり、罪の証であり、封じの鍵であり、誰かへ返されるべきものとして扱われた。
胸の奥で、何かが静かに冷えていく。
怒りではない。
憎しみでもない。
もっと澄んだ、決意だった。
深雪乃は、赫臣の身体をそっと畳へ横たえた。
彼の頭を自分の膝へ置き、乱れた金髪を撫でる。血で汚れている。美しい髪だった。帝都の街で、光を受けて少し眩しかった髪。
何度も撫でられた。
何度も口づけられた。
その手は、もう動かない。
「赫臣様」
深雪乃は、優しく呼んだ。
「少しだけ、待っていてください」
誰かが息を呑んだ。
白絹だった。
「深雪乃さん」
その声には、恐怖があった。
深雪乃は振り返らない。
白絹が近づこうとする。
蓮台が低く言った。
「待て」
「ですが」
「動くな」
蓮台の声も震えていた。
彼は気づいている。
深雪乃が何をしようとしているのか。
砂笙も、膝をついたまま顔を上げていた。
その顔から血の気が引いている。
「深雪乃様」
深雪乃は、赫臣の髪を撫でながら言った。
「私は、もう鍵ではありません」
誰も答えない。
「でも、鍵として使われた私が終わらなければ、この揺れは止まりません」
母の鏡が、白く光る。
山本五郎左衛門の家紋の亀裂が広がる。
百鬼夜行の影が震える。
蘆野火の札が燃え続ける。
帝都の鐘が鳴り続ける。
深雪乃は、分かっていた。
破魔の矢は、封を撃ち抜いた。
不死身は終わった。
赫臣の鬼血に絡んだ楔も砕けた。
だが、深雪乃自身がまだ残っている。
神の子として。
境に触れる血として。
人と妖、神と先祖返り、人間社会と裏社会を繋ぐ歪んだ結び目として。
深雪乃が生きている限り、先祖返り会はまた彼女を欲しがるだろう。
鵺喰の名を持つ者は、彼女を取り戻そうとするだろう。
蘆野火は隠そうとする者と、利用しようとする者に割れるだろう。
篝火の百鬼夜行は、赫臣を失ったまま深雪乃へ反応し続けるかもしれない。
人は、また神の子を道具にする。
妖は、また人の世へ混ざろうとする。
そして、誰かがまた恋を契約書に変える。
それでは、何も終わらない。
深雪乃は、赫臣の頬へ口づけた。
血の味はもう薄い。
冷たい。
「あなたは、私を物ではないと言ってくださいました」
声は静かだった。
「恋人だと、言ってくださいました」
赫臣は答えない。
けれど、深雪乃は続けた。
「だから私は、最後まで私として選びます」
彼女は、そっと赫臣の頭を白布の上へ移した。
母の鏡を手に取る。
鏡面は白く曇っていた。
そこには、母の影と、白い影と、血で濡れた深雪乃自身が映っている。
そして、少し離れたところに、赫臣の動かない姿。
深雪乃は、自分の映った顔を見た。
前髪ぱっつんの黒髪。
赤みを帯びた瞳。
白い肌。
泣き腫らした目。
血に濡れた着物。
十九歳の、小さな女。
神の子と呼ぶには、あまりにも人間らしい顔だった。
「母さま」
深雪乃は鏡へ向かって言った。
「私は、母さまを恨みません」
母の影が揺れた。
「でも、母さまたちの恋がこうなったことを、なかったことにはしません」
白い影の蒼い目が、わずかに揺れた。
「あなたのことも、恨みきれません。あなたは母さまを愛したのでしょう。私を取り戻そうとしたのでしょう。けれど、あなたの返してという声も、私には鎖でした」
深雪乃の声は震えていた。
それでも、止まらない。
「赫臣様も、私を愛して、守ろうとして、最後の楔になりました」
涙が、また落ちる。
「愛だけでは、駄目だったのです」
それを言うのが、こんなにも苦しいとは思わなかった。
愛していた。
愛されていた。
だからこそ、深雪乃はここまで来た。
けれど、愛だけでは救えなかった。
愛が封にもなった。
愛が楔にもなった。
愛が誰かを縛る時、そこには必ず別の言葉が必要だった。
意志。
選択。
別れ。
深雪乃は、鏡を白布の中央へ置いた。
その横に、弓を置く。
破魔矢はもう放たれている。
けれど、その残光はまだ祈祷部屋に漂っていた。
深雪乃は、掌の傷から流れる血を鏡の縁へ落とした。
血は、銀細工の沈丁花文様へ染み込むように広がる。
白い光が立ち上がった。
白絹が叫ぶ。
「深雪乃さん、やめて!」
初めて、彼女の声から気品が剥がれた。
深雪乃は振り返った。
白絹は、真っ青な顔で立っていた。
「あなたがそれをすれば、本当に」
「白絹様」
深雪乃は、静かに呼んだ。
「蘆野火家は、これから変われますか」
白絹の唇が震える。
「……変えます」
「会の記録を、隠しませんか」
「隠しません」
「深雪乃さん」
「約束してください」
白絹は、涙を浮かべた。
けれど、頷いた。
「約束しますわ。蘆野火の名にかけて」
深雪乃は、少しだけ微笑んだ。
「あなたを嫌いきれなくて、よかった」
白絹が、泣き崩れそうな顔になる。
深雪乃は、蓮台を見た。
「蓮台様」
「何だ」
蓮台の声は硬かった。
「人の法で、できるところまで暴いてください」
「言われなくてもやる」
「はい」
「お前まで死ぬ必要はない」
深雪乃は、少しだけ目を伏せた。
「あります」
「ない」
「蓮台様は、優しいのですね」
「今そんなことを言うな」
「すみません」
蓮台は奥歯を噛んでいた。
深雪乃は、砂笙を見る。
「砂笙様」
「……はい」
「百鬼夜行を、赫臣様の檻に戻さないでください」
砂笙の目が赤くなる。
「旦那様は、それを望まれません」
「はい」
「必ず」
砂笙は頭を下げた。
「必ず、そうします」
深雪乃は頷いた。
それから、赫臣へ向き直る。
彼のそばへ戻り、膝をついた。
顔を見つめる。
整った顔。
口の悪い、甘い、強引な男。
深雪乃を抱きしめる時だけ、あまりにも優しく背の傷を避けた男。
可愛い、大好きだ、愛してる、お前しかいない。
何度も何度も囁いた男。
深雪乃は、彼の唇へそっと触れた。
「赫臣様」
返事はない。
深雪乃は、彼の耳元へ顔を寄せた。
「私も、最初に助けていただいた時から、きっとあなたを見ていました」
言ってから、胸が痛くなった。
もっと早く言えばよかった。
もっと何度も言えばよかった。
もっと素直に、好きですと、愛していますと、伝えればよかった。
後悔は、こんなにも遅れてやってくる。実に無能な感情である。必要な時に来ず、もう戻れない時だけ律儀に顔を出す。
深雪乃は、赫臣の冷たい手を握った。
「私は、あなたと逃げたかったです」
涙が落ちる。
「甘味屋へまた行きたかった。あなたに食べさせられて、文句を言いたかった。帝都の街を歩いて、ただの人間だったらよかったのにと、また言いたかった」
赫臣の手は動かない。
「あなたに、可愛いと言われて怒りたかった。調子に乗らないでくださいと、何度も言いたかった」
深雪乃は、彼の指へ頬を寄せた。
「でも、もう言えません」
掌の傷が、痛む。
塞がらない。
その痛みが、深雪乃を今に繋ぎ止める。
けれど、彼女はもう選んでいた。
これは絶望ではない。
ただ赫臣を追うためだけの死でもない。
すべてを終わらせるための選択だった。
神の子として、境を繋ぐ最後の結び目を解く。
人間は人間として。
妖は妖として。
愛するなら、契約ではなく、血の支配でもなく、封じでもなく、互いの意志で。
そのために、深雪乃は祈る。
深雪乃は、赫臣の手を胸元へ抱いたまま、母の鏡へ向かって座り直した。
白い光が、彼女を包む。
破魔矢の残光が、弓から細く伸びる。
鏡の中で、母の影が泣いている。
白い影が、蒼い目で深雪乃を見ている。
深雪乃は、目を閉じた。
そして祈った。
先祖返りと人間が、これ以上、血と契約で混ざらないように。
人の子が、妖の力を封じる器にされないように。
妖が、人の世の権力に飼い慣らされないように。
人間は人間として生き、死ねるように。
妖は妖として、夜へ帰れるように。
先祖返りの血を持つ者たちが、支配のためではなく、自分の意志で人の世に立つか、妖の側へ戻るかを選べるように。
恋が、契約書にならないように。
愛が、檻にならないように。
子が、鍵と呼ばれないように。
祈りは、言葉ではなく光になった。
深雪乃の掌の血が、鏡へ流れる。
彼女の身体から白い光が立ち上がる。
痛みはあった。
けれど、それを細かく考える余裕はなかった。
命がほどけていく感覚だけがある。
死へ向かう道が、今度は誰にも塞がれずに開いている。
怖い。
当然怖い。
死ぬことを許されなかった女が、初めて自分の死を選んでいる。
怖くないはずがない。
けれど、深雪乃は逃げなかった。
赫臣が見ていてくれたから。
赫臣が、撃てたな、偉いと褒めてくれたから。
褒めないでと泣いたけれど、本当は少しだけ、あの言葉に支えられていたから。
白い光は、祈祷部屋から溢れた。
鵺喰家の家紋が砕けた。
大きな音ではなかった。
長い沈黙が、ようやく息を吐いたような音だった。
蘆野火の燃えていた札は、黒い灰になり、その灰の中から隠されていた文字が浮かび上がる。白絹が泣きながらそれを見ていた。
百鬼夜行の影は、赫臣の周囲で揺れ、ひとつ、またひとつと形を変えた。
主に縛られた群れではなく、夜へ帰るものたちとして。
ある影は、赫臣へ頭を下げた。
ある影は、深雪乃を見た。
そして、静かにほどけていった。
帝都の裏社会では、封印札が次々に剥がれた。
先祖返り会の記録庫では、消されていた名が紙の上に戻った。
寺社の蔵では、閉じ込められていた妖の欠片が夜へ消えた。
警視庁の怪異鈴は鳴り続け、蓮台はきっと後で頭を抱えるだろう。世界を正すというのは、後片付けがひどい。人間社会の面倒さは、最後まで抜かりがない。
だが、深雪乃にはもう遠かった。
彼女は、赫臣のそばへ倒れ込むように身体を傾けた。
力が抜ける。
白い光が、視界を満たしていく。
赫臣の顔が近い。
冷たい。
けれど、愛しい。
深雪乃は、最後の力で彼の手を握った。
「赫臣様」
声が、かすれた。
けれど、確かに呼んだ。
彼の名を。
何度も呼んだ名を。
怒る時も、甘える時も、泣く時も、怖い時も、愛していると告げる時も、ずっと呼んできた名を。
「赫臣様」
白い光の中で、ほんの一瞬だけ、彼の指が動いた気がした。
気のせいかもしれない。
願いかもしれない。
けれど、深雪乃はそれでよかった。
彼女は微笑もうとした。
うまくできたかは分からない。
「愛しています」
最後の言葉は、それだった。
返事はない。
けれど、深雪乃の耳には、いつかの声が重なった。
俺もだ。
最初に見た時から、ずっと。
その声を抱いて、深雪乃は目を閉じた。
神の子は恋をした。
恋をした相手を失い、不死身ではなくなった。
そして最後に、自分の命で祈った。
人間は人間へ。
妖は妖へ。
血と契約で縛られた先祖返りの歴史が、ひとつの終わりへ向かうように。
鵺喰深雪乃は、赫臣の名を呼びながら、白い光の中へ沈んだ。




