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人間臭いと蔑まれた不死身の娘は、百鬼夜行の主に愛される  作者: なつめ


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第57話 不死身の終わり


 赫臣の息が、途切れた。


 最初は、深雪乃には分からなかった。


 彼の胸に顔を押しつけ、血で濡れた着物を掴み、何度も名前を呼んでいたからだ。赫臣の腕は、まだ深雪乃の背に回っていた。背中の古い傷を避ける位置で、最後まで優しく、最後まで癖のように彼女を守っていた。


 だから、深雪乃は信じなかった。


 信じられるはずがなかった。


「赫臣様」


 返事はない。


 さっきまで、掠れた声で返ってきていた。


 いる。


 ここにいる。


 離れねえ。


 そう言っていた声が、もうない。


「赫臣様」


 深雪乃は彼の胸に耳を当てた。


 何も聞こえなかった。


 先ほどまで強く、速く、苦しげに打っていた音がない。血の匂いばかりが濃い。破魔の光に焼けた金属の匂いと、沈丁花の香りと、赫臣の血の鉄の匂いが混ざって、息ができなくなる。


 深雪乃の指が、赫臣の胸元を探った。


 血で濡れた布。


 砕けた首飾りの破片。


 破魔矢の光に撃ち抜かれたような、霊的な焼け跡。


 心ノ臓の真上。


 そこに、彼の鼓動がなかった。


「嘘」


 声が、ひどく小さく落ちた。


「嘘です」


 赫臣の身体が、深雪乃の腕の中で重くなっていく。


 生きている人の重さではない。


 支えようとしても、彼の力がもう戻ってこない。深雪乃は必死に抱きしめ返した。けれど、赫臣の膝が崩れ、深雪乃も一緒に畳へ倒れ込む。


 どさり、と鈍い音がした。


 百鬼夜行の主が倒れた音。


 あまりにも人間の身体らしい音だった。


「赫臣様!」


 深雪乃は叫んだ。


 祈祷部屋の空気が破れる。


 白絹が息を呑み、砂笙が駆け寄ろうとして結界の縁で足を止めた。蓮台が何かを叫んだ。けれど、その声は遠い。


 深雪乃には、赫臣しか見えなかった。


 彼の顔は青白い。


 唇には血が残っている。


 血の味のキスをした唇。


 つい先ほどまで、「撃てたな。偉い」と笑っていた唇。


 その唇が、もう動かない。


「起きてください」


 深雪乃は赫臣の頬を両手で包んだ。


 冷たくなり始めていた。


「赫臣様。起きてください。約束しました。生きると約束しました。破ったら刺すと言いました。まだ刺していません。起きてください」


 声が壊れていく。


「赫臣様」


 何度呼んでも、返事がない。


 深雪乃は、彼の胸を押さえた。


 血が手につく。


 温かい。


 温かいのに、命がない。


「嫌」


 深雪乃の喉から、子どものような声が漏れた。


「嫌です」


 破魔矢は放った。


 撃てた。


 偉い。


 そう褒められた。


 褒めないでと言った。


 それでも彼は笑った。


 血を吐きながら、自分を抱きしめた。


 血の味のキスをした。


 それが最後だなんて、誰が許したのか。


「返して」


 深雪乃は、無意識に言っていた。


 その言葉を口にした瞬間、部屋の空気が変わった。


 母の鏡が、白布の上で強く震えた。


 沈丁花の香りが一気に濃くなる。


 山本五郎左衛門の家紋が、畳の奥で悲鳴のような音を立てた。砕けた赫臣のピアス、舌ピアス、指輪、ブレスレット、ネックレス、アンクレットの破片が、白く光る。


 返して。


 それは、白い影が言っていた言葉だった。


 まだ返していない。


 深雪乃は、その言葉を今、自分の口で赫臣へ向けていた。


 白絹の声が震えた。


「深雪乃さん、駄目ですわ」


 深雪乃は顔を上げなかった。


「何が」


「その言葉を、今ここで言っては」


「返して」


 深雪乃は、赫臣を抱きしめたまま言った。


「赫臣様を返して」


 その瞬間、鏡の中から白い光が溢れた。


 部屋が白く染まる。


 深雪乃の視界に、母の影が浮かんだ。


 澄子。


 白藤色の着物をまとい、痩せた手を胸に当てている母。


 その後ろに、白い影が立っていた。


 白い髪。


 白い衣。


 蒼い目。


 黒い組紐と銀の輪。


 顔はまだはっきり見えない。


 けれど、もう深雪乃は恐怖だけでは見られなかった。


 あれは、母を愛したもの。


 母の血へ触れたもの。


 深雪乃を返せと求め続けていたもの。


 そして、鵺喰家に封じられ、契約書に歪められ、先祖返り会に隠されたもの。


 白い影は、深雪乃を見ていた。


 赫臣ではない。


 深雪乃を。


『返す時が来た』


 声がした。


 人の声ではない。


 頭の中に、白い糸を通されるような声。


 夜岐が聞いたと言った声。


 深雪乃は、赫臣の身体を抱きしめたまま、睨むように白い影を見た。


「誰を」


『奪われたものを』


「赫臣様を返してください」


『それは、返せない』


 深雪乃の胸が、裂けた。


「なぜ」


『彼は、自ら差し出した』


「違います」


『鬼血は、鍵を揺らした。鬼は、鍵を守ろうとした。鬼の愛は、封の最後の楔になった』


 白い影の声は、静かだった。


 冷たくはない。


 けれど、あまりにも遠い。


『破魔の矢は、その楔を射抜いた』


 深雪乃は、赫臣の血に濡れた手を見た。


 震えている。


「私が、赫臣様を」


『お前一人ではない』


 母の影が、深雪乃を見た。


 その目は、悲しかった。


『澄子の血。鵺喰の紋。会の印。白藤の誓い。鬼血。すべてが揃い、矢は放たれた』


 白い影の声が重なる。


『鵺喰は、胎内の子を器にできなかった。だから鍵として保管した。死へ至る道を閉じ、境へ返る流れを山本五郎左衛門の紋で縛った』


 深雪乃の息が止まる。


 死へ至る道。


 境へ返る流れ。


 それが、自分の不死身の正体。


『お前は死ななかったのではない。死ぬことを許されなかった』


 深雪乃の身体が、震えた。


 死ななかったのではない。


 死ぬことを許されなかった。


 それは、呪いより残酷な言葉だった。


 白い影は続ける。


『傷は戻された。骨は戻された。血は戻された。死へ進むたび、封はお前をこちら側へ押し戻した。宵待の破魔は、お前を穢れから守った。鵺喰の紋は、お前を境から引き戻した。会の印は、お前を契約の内に留めた』


 深雪乃は、今までの痛みを思い出した。


 殴られた痛み。


 蔵に閉じ込められた寒さ。


 毒で倒れた時の喉の焼け。


 骨が戻る時の吐き気。


 傷が塞がる時の熱。


 死なない便利な身体ではなかった。


 死ぬことすら奪われた身体だった。


『そして鬼血が近づいた』


 白い影の蒼い目が、赫臣へ向く。


『篝火の血は、百鬼夜行の夜を繋ぐ。死と生の境を歩く鬼の血。お前が彼を愛し、彼がお前を愛した時、封は揺らぎ、鍵は開きかけた』


 赫臣の手は、もう動かない。


 けれど深雪乃は、その手を握りしめた。


『鬼はお前を守ろうとし、鬼血は最後の楔になった。お前をこちら側へ留めるために。お前を返さないために。愛が、封の一部になった』


「やめて」


 深雪乃は震える声で言った。


「それ以上、言わないで」


『だから、矢は鬼血をも射抜いた』


 白い影の声は止まらない。


『百鬼夜行の主を撃ち抜かなければ、封は終わらなかった』


 深雪乃の喉から、声にならない音が漏れた。


 理解してしまった。


 破魔矢は、鵺喰家の封だけを射たのではない。


 山本五郎左衛門の紋だけではない。


 会の印だけではない。


 深雪乃を死から引き戻す歪んだ仕組みの最後に絡まっていた、赫臣の鬼血まで射抜いた。


 赫臣の愛が、深雪乃を守るために封と絡まっていたから。


 だから、矢は彼の装身具を砕き、胸を撃ち抜いた。


 彼の息を止めた。


「そんなの」


 深雪乃は、赫臣の胸に縋った。


「そんなの、あんまりです」


 母の影が、泣いているように見えた。


 深雪乃は母へ向かって叫びそうになった。


 どうして。


 どうして産んだの。


 どうして守れなかったの。


 どうして私をこんなふうに残したの。


 けれど、その言葉は喉で止まった。


 母もまた、奪われていた。


 子を子として産むことすら、会の許しの中に置かれた女だった。


 母は、深雪乃を器ではないと言った。


 子として産もうとした。


 深雪乃は、涙を流しながら母の影を見た。


「母さま」


 澄子の影が、深雪乃を見ていた。


『ごめんね』


 声が聞こえた。


 深雪乃の胸が、壊れそうになる。


『守りきれなくて、ごめんね』


「謝らないで」


 深雪乃は泣いた。


「今、謝らないでください。私、赫臣様まで」


 言葉が続かない。


 赫臣まで失った。


 自分の不死身が終わるために。


 自分が自分として死ねる身体になるために。


 赫臣の息が止まった。


 そんな自由を、望んでいたはずなのに。


 こんな形で欲しかったわけではない。


 その時、深雪乃の手に鋭い痛みが走った。


「っ」


 赫臣の砕けた指輪の破片が、深雪乃の掌に食い込んでいた。


 小さな傷だった。


 これまでなら、すぐ塞がった。


 血が滲んでも、次の瞬間には皮膚が戻っていた。


 深雪乃は、無意識にその傷を見た。


 赤い血が、ゆっくり流れている。


 塞がらない。


 一滴。


 また一滴。


 掌の線を伝って、手首へ落ちる。


 痛い。


 鋭い痛みが、いつまでも残っている。


 深雪乃は、息を止めた。


 傷が、塞がらない。


 白絹も気づいた。


「深雪乃さん」


 砂笙が目を見開く。


「再生が」


 蓮台が低く言う。


「止まったのか」


 深雪乃は、自分の掌を見つめた。


 赫臣の血と、自分の血が混ざっている。


 これまで、どれほど傷ついても、身体は勝手に戻った。


 痛みだけを残して。


 自分の意志とは関係なく。


 死へ進む流れを押し戻されて。


 けれど今、掌の小さな傷は塞がらない。


 血が流れる。


 痛みが続く。


 深雪乃は、震える息を吐いた。


「終わった」


 その言葉を口にして、自分で理解した。


 終わった。


 不死身が。


 死なない身体が。


 死ぬことを許されなかった異常が。


 終わりへ向かっている。


 白い影が言う。


『鍵は、保管を終えた』


 深雪乃は、赫臣を抱きしめたまま、白い影を睨んだ。


「私は、物ではありません」


『知っている』


「鍵でもありません」


『鍵として使われた』


「私は、鵺喰深雪乃です」


『だから、戻る』


 白い影の声が、少しだけ柔らかくなった気がした。


『死ぬことも、生きることも、お前のものへ』


 深雪乃の涙が落ちる。


 死ぬことも。


 生きることも。


 自分のものへ。


 それは、自由だった。


 けれど、赫臣の胸はもう動かない。


 こんな自由を、どう喜べばいいのか。


「赫臣様がいなければ、嫌です」


 深雪乃は、子どものように言った。


 白い影は答えない。


 母の影も、答えない。


 その沈黙が残酷だった。


 祈祷部屋の外で、何かが崩れる音がした。


 遠い。


 けれど、確かに聞こえた。


 蓮台が障子へ走る。


 外を見て、息を呑んだ。


「庭の結界が割れている」


 砂笙が顔を上げる。


「鵺喰家の家紋結界が」


 次の瞬間、屋敷全体が揺れた。


 柱が軋む。


 天井の埃が落ちる。


 祈祷部屋の奥に祀られた山本五郎左衛門の家紋に、亀裂が入った。


 黒い線が、紋の中央から広がっていく。


 鵺喰家が長く守り、隠し、支配の象徴としてきた紋が、音を立てて割れていく。


 深雪乃は、それを見た。


 不思議と、恐怖は薄かった。


 それよりも、赫臣の身体の重さがつらい。


 砂笙が、震える声で言った。


「封が、解けています」


 白絹が立ち上がる。


 その顔は蒼白だった。


「鵺喰家だけではありませんわ」


 彼女の袖の内側で、小さな金の札が燃え始めていた。


 蘆野火家から持ってきた控え札。


 過去の隠蔽記録に連なる幻術封じ。


 それが、白い炎に包まれている。


「蘆野火の記録封じも、反応しています」


 白絹の声は震えていた。


「隠していたものが、焼かれている」


 蓮台が低く呟く。


「帝都の裏が揺れているな」


 その言葉が終わる前に、遠くで鐘が鳴った。


 一つではない。


 寺社の鐘。


 警鐘。


 どこかの屋敷の結界鈴。


 帝都のあちらこちらで、夜の奥に隠されていたものが鳴り始めている。


 百鬼夜行が揺れた。


 赫臣の砕けた足首飾りの破片が、黒い影を滲ませる。けれど、その影は赫臣の背へ戻らなかった。部屋の隅で、迷うように震えている。主を失った夜行。けれど、完全な暴走でもない。深雪乃が放った矢が、赫臣の鬼血に絡んでいた封だけでなく、百鬼夜行を主の所有物として縛る古い誓いにも触れたのだ。


 砂笙が膝をついた。


「百鬼が、主の命を待っていない」


「暴走か」


 蓮台が問う。


 砂笙は首を横に振った。


「違う。分かれようとしている。旦那様の支配から、古い篝火の命令から、夜行そのものがほどけている」


 白絹が震える声で言った。


「百鬼夜行が、個々の怪異へ戻ろうとしているのですわ。篝火家の主に率いられる群れではなく」


 深雪乃は、赫臣の胸に縋った。


 赫臣は、それを望んだのだろうか。


 百鬼を捨てないと言った。


 けれど、自分の愛を百鬼の檻にはしないと誓った。


 深雪乃を夜行の一部にしないと決めた。


 その言葉もまた、矢に乗ったのかもしれない。


 鵺喰家の罪。


 蘆野火家の沈黙。


 篝火家の百鬼夜行。


 先祖返り会の契約。


 帝都の裏に張り巡らされた、古い支配の糸。


 それらが、深雪乃の不死身の終わりと同時に揺らぎ始めていた。


 屋敷の外で、誰かが叫んでいる。


 使用人たちの悲鳴。


 親族の怒号。


 結界札の破裂する音。


 遠くから、獣とも人ともつかない声。


 帝都の夜が、隠しきれなくなっている。


 けれど、深雪乃はそのすべてを遠く聞いていた。


 腕の中の赫臣が、動かない。


 それだけが現実だった。


「赫臣様」


 深雪乃は、彼の頬に触れた。


 掌の傷が痛む。


 血がまだ流れている。


 塞がらない。


 その痛みが、今の深雪乃が生きている証だった。


 死ねる身体になった証。


 人のように傷つき、人のように血を流し、人のように失う身体になった証。


 なんて残酷な証だろう。


「起きてください」


 深雪乃は、また言った。


「私、死ねるようになりました」


 笑いにもならない声だった。


「あなたが、褒めてくださったから。撃てたな、偉いって。だから、ちゃんと終わりました」


 涙が赫臣の頬に落ちる。


「でも、あなたがいなければ、意味がありません」


 白い影は、沈黙している。


 母の影も薄れ始めていた。


 深雪乃は、赫臣を抱きしめたまま叫んだ。


「返して!」


 祈祷部屋が震える。


「私から死を奪ったのなら、返しました。鍵も、封も、契約も、撃ち抜きました。なら、赫臣様を返して!」


 白い影の蒼い目が、深雪乃を見た。


『返すものは、すべて返る』


「では、赫臣様を」


『鬼は、まだ境に落ちきっていない』


 深雪乃の息が止まった。


 白絹が顔を上げる。


 砂笙が、震える声で言った。


「旦那様は」


 白い影の声が、白い糸のように響く。


『百鬼夜行の主は、息を止めた。だが、百鬼すべてが別れを告げてはいない』


 深雪乃は、赫臣の胸に手を当てた。


 鼓動はない。


 呼吸もない。


 それでも、彼の砕けた装身具の破片が、かすかに光っている。


 ピアスの破片。


 舌ピアスの欠片。


 指輪の割れた石。


 ブレスレットの銀片。


 ネックレスの黒い石の粉。


 アンクレットの鎖。


 それらが、赫臣の周囲で白く、赤く、淡く光っている。


 終わったはずなのに。


 まだ、何かが残っている。


 深雪乃は、涙で濡れた目で白い影を見た。


「どうすればいいのですか」


 白い影は答えた。


『選べ』


 その言葉に、深雪乃は息を詰めた。


 また。


 また選べと言われる。


 弓を構えた時も。


 矢を放った時も。


 逃げないと決めた時も。


 そして今も。


 世界は、彼女に選べと言う。


 どこまで残酷なのか。


『お前は、もう保管された鍵ではない。死なない器でもない。選べる者だ』


 母の影が、消えかけながら深雪乃を見ていた。


『深雪』


 母の声。


『生きることも、死ぬことも、愛することも、あなたのもの』


 深雪乃は、赫臣を抱きしめた。


 掌の傷が痛む。


 血が赫臣の血と混ざる。


 不死身は終わった。


 異常は終わりへ向かっている。


 先祖返りの世界そのものも、揺らぎ始めている。


 けれど、深雪乃の中でまだ終わっていないものがある。


 赫臣への愛。


 彼を生かしたいという願い。


 彼に怒りたいという、あまりにも人間らしい欲。


 可愛いと言われて文句を言いたい。


 甘味屋へ行きたい。


 ただの人間だったらよかったのにと、もう一度言いたい。


 彼に泣きそうに笑ってほしい。


 その全部が、深雪乃の中にあった。


 深雪乃は、涙を拭わないまま顔を上げた。


 赫臣の冷え始めた頬へ、自分の額を寄せる。


「赫臣様」


 返事はない。


 それでも、深雪乃は言った。


「私は、もう死ねる身体になりました」


 声が震える。


「だから、あなたを失っても、死なずに戻されることはありません。痛みも、傷も、全部このまま残ります」


 掌の血が、また一滴落ちる。


「それでも、生きます」


 白い影が、静かに見ている。


 深雪乃は、赫臣の胸へ手を当てた。


「あなたが戻るなら、一緒に生きます。戻らなくても、私はあなたを愛した私として生きます。契約書の鍵ではなく、鵺喰家の預かりものではなく、誰かへ返される器ではなく」


 喉が詰まる。


 それでも、言い切った。


「鵺喰深雪乃として」


 砕けた赫臣の装身具が、微かに鳴った。


 ほんの小さな音。


 深雪乃の耳には、確かに届いた。


 赫臣の胸は、まだ動かない。


 息も戻らない。


 けれど、百鬼夜行の影が、彼の周囲で揺れた。


 消えるのではなく、待つように。


 鵺喰家の家紋は割れ続けている。


 蘆野火の札は燃え続けている。


 帝都の裏社会は、夜の底で軋み続けている。


 何かが終わった。


 そして、何かが始まろうとしていた。


 深雪乃は、赫臣を抱きしめたまま、掌の塞がらない傷を見た。


 血が流れている。


 痛い。


 けれど、それは自分のものだった。


 死ぬことも、生きることも、自分のものへ戻ってきた証。


 不死身の終わり。


 その代償として、赫臣の息は止まった。


 深雪乃は泣いた。


 声を殺せなかった。


 祈祷部屋の中で、彼の名を何度も呼んだ。


「赫臣様」


 返事はない。


 それでも、深雪乃は呼び続けた。


 約束したから。


 私が私でなくなりそうになったら、名前を呼んでください。


 そう言った。


 今度は、深雪乃が呼ぶ番だった。


「赫臣様」


 砕けた装身具が、また小さく鳴る。


 百鬼夜行が、揺れる。


 帝都の夜が、震える。


 深雪乃の血が、赫臣の胸に落ちる。


 不死身ではなくなった女の、生きた血。


 その赤が、赫臣の胸で静かに滲んだ。


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