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人間臭いと蔑まれた不死身の娘は、百鬼夜行の主に愛される  作者: なつめ


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第56話 撃ち抜いた胸のキス



 弓弦が、鳴っていた。


 深雪乃の指先で、白い光が震えている。


 破魔矢は、すでに弦へ番えられていた。


 矢尻は白く燃えていた。炎ではない。けれど、火よりも鋭い光だった。触れれば肉を焼き、骨を砕き、血を蒸発させるような熱ではなく、もっと深いところを射抜く光。血筋、契約、呪い、因果。目に見えないものを、目に見える傷より残酷に断つ力。


 命さえ奪うほどの、強い霊力の塊。


 深雪乃は、それを自分の手で支えていた。


 弓を引く指が震える。


 腕が震える。


 肩が震える。


 視界が涙で滲む。


 それでも、弓を下ろさなかった。


 祈祷部屋の中央に、白い光が満ちていた。山本五郎左衛門の家紋が、畳の奥から軋むような音を立てている。母の鏡は白布の上で震え、沈丁花の香りを濃く放っていた。白藤色の着物の袖が深雪乃の腕に触れ、そのたびに母の手に支えられているような錯覚が起きた。


 赫臣は、少し離れた場所に立っていた。


 泣いている。


 それでも、動かない。


 深雪乃が「来ないで」と言ったから。


 見ていてください、と言ったから。


 彼は、泣きながら立っていた。


 百鬼夜行の主でありながら、愛する女を止めずに見届けるという、何より残酷な役目を選んでいた。


「深雪」


 赫臣の声が、かすかに響いた。


 その声で、深雪乃の涙がまた落ちた。


「はい」


「怖いか」


「怖いです」


「やめてもいい」


「やめません」


「俺が止めていいか」


「駄目です」


 赫臣は、泣きながら笑った。


 壊れそうな顔だった。


「本当に、ひでえ女だな」


「あなたが選んだのです」


「ああ」


 赫臣の蒼い目が、まっすぐ深雪乃を見ている。


「俺が選んだ」


 その言葉で、深雪乃の指が少しだけ強く弦を引いた。


 弓が鳴る。


 空気が震える。


 部屋の隅に垂れた札が一斉に裏返り、清めの塩が白く光った。白絹が息を呑む気配がした。蓮台が何かを言いかけて、やめた。砂笙の筆が畳に落ちる音がした。


 けれど、深雪乃にはもう聞こえなかった。


 赫臣の声しか。


 赫臣の息しか。


 赫臣の涙しか。


 世界には、それしかなかった。


「深雪乃」


 赫臣が呼ぶ。


 深雪乃は、弓を引いたまま涙をこぼした。


「はい」


「俺を見ろ」


 深雪乃は、彼を見た。


 破魔矢の先ではなく。


 家紋でも、鏡でも、白い影でもなく。


 赫臣を見た。


 蒼い目。


 濡れた頬。


 震える唇。


 砕けそうなほど愛している顔。


「お前は、撃てる」


 赫臣が言った。


 声は震えていた。


 それでも、確かだった。


「俺が見てる。お前は、撃てる」


 深雪乃は、泣きながら首を横に振りそうになった。


 できない。


 怖い。


 撃ちたくない。


 けれど、その言葉を飲み込んだ。


 撃てる。


 赫臣はそう言った。


 止めたいはずなのに。


 抱きしめたいはずなのに。


 弓を奪って、彼女を腕の中に隠してしまいたいはずなのに。


 それでも、赫臣は深雪乃を見て、「撃てる」と言った。


 それは、愛だった。


 守るだけではなく、深雪乃の選択を信じる愛だった。


 深雪乃は、息を吸った。


 胸が痛い。


 痛くて、苦しくて、立っているだけで崩れそうだった。


 けれど、矢を放つには、息を止めなければならない。


 弓を構える。


 弦を引き切る。


 白い光が、矢尻から弓身へ、弓身から深雪乃の腕へ流れ込む。


 熱い。


 けれど、焼ける熱さではない。


 自分の中にあった何かが、矢に吸い上げられていくようだった。母の声。父の「忘れろ」。白い影の「返して」。赫臣の「愛してる」。自分の名。自分の涙。全部が、白い光へ溶けていく。


「愛しています」


 深雪乃は、もう一度言った。


 声は小さかった。


 だが、赫臣へ届いた。


 赫臣の顔が、痛々しく歪む。


「俺もだ」


 彼は、涙を流したまま答えた。


「最初に見た時から、ずっと」


 深雪乃は、弦を放した。


 破魔矢が、放たれた。


 音はなかった。


 あるいは、大きすぎて聞こえなかったのかもしれない。


 白い光が、祈祷部屋を裂いた。


 一瞬、昼よりも明るくなった。


 畳も、柱も、家紋も、白布も、母の鏡も、赫臣の涙も、すべてが白く染まった。深雪乃は、矢の軌跡を目で追うことすらできなかった。ただ、放った瞬間、自分の胸の奥から何かが引き抜かれるような感覚があった。


 痛い。


 けれど、傷の痛みではない。


 自分を繋いでいた見えない糸が、一本、また一本と白い光へ焼かれていくような痛みだった。


 矢は、山本五郎左衛門の家紋へ向かった。


 そのはずだった。


 けれど、途中で軌道が揺れた。


 鬼血。


 赫臣。


 百鬼夜行。


 深雪乃の封に近づきすぎた、愛する者の血。


 それが、矢に呼ばれた。


 赫臣の装身具が、一斉に悲鳴を上げた。


 最初に砕けたのは、左耳のピアスだった。


 小さな赤い石が、白い光に触れて弾ける。破片が宙で燃え、赤から白へ変わって消えた。続いて右耳の銀環が割れた。ひとつ。ふたつ。三つ。次々に、耳のピアスが砕けていく。


 百鬼の声を分けていた退魔具。


 赫臣が赫臣の声を見失わないためのもの。


 それが、白い光の中で散った。


「赫臣様!」


 深雪乃は叫んだ。


 赫臣は動かなかった。


 動けなかったのではない。


 動かなかった。


 彼は、矢の光を受け止めるように立っていた。


 次に、舌の鋲が砕けた。


 赫臣の口元から血がこぼれる。


 舌ピアスが割れ、白い光の欠片となって落ちる。彼の喉から、低い呻きが漏れた。百鬼の名を縫い留めていた鋲が壊れ、部屋の奥から無数の声が溢れかける。


 守れ。


 奪え。


 囲え。


 喰らえ。


 呼べ。


 閉じ込めろ。


 深雪乃の肌が粟立った。


 だが赫臣は、血の混じる口で低く命じた。


「黙れ」


 その一言で、声は押し戻された。


 舌の鋲は砕けているのに、赫臣はなお、自分の声で百鬼を抑えていた。


 次に指輪が割れた。


 右手の人差し指。


 中指。


 薬指。


 小指。


 左手も。


 霊糸の起点。


 百鬼の道を閉じていた指輪。


 ひとつ割れるたびに、空気に黒い裂け目のような影が開きかけた。赫臣は、拳を握る。爪が掌へ食い込み、血が滲む。彼の霊糸が一瞬だけ宙へ走り、裂け目を縫い止める。


 白い矢の光は止まらない。


 次に、ブレスレットが砕けた。


 腕輪が、片方ずつ白く割れる。


 赫臣の腕から赤い妖気が噴き出しかけ、それを破魔の光が焼いた。彼の肩が大きく揺れる。血が唇から落ちる。けれど、彼は倒れなかった。


「赫臣様、もう」


 深雪乃は、弓を落としそうになった。


 放った矢は戻らない。


 止められない。


 自分が放った。


 自分の手で。


 赫臣の装身具が砕けていく。


 彼が赫臣でいるためのものが。


 彼が百鬼夜行を人の世へ溢れさせないためのものが。


 ひとつずつ。


 次に、ネックレスが割れた。


 首飾りの中心にあった黒い石が、胸元で白く亀裂を走らせる。ぱきん、と小さな音がした。それなのに、その音は部屋の中でひどく大きく響いた。


 鬼の核を心臓へ戻す楔。


 赫臣が赫臣へ戻るための首飾り。


 それが砕けた瞬間、彼の胸元から凄まじい妖気が噴き上がった。


 百鬼夜行の気配が、部屋の壁を叩く。


 鈴が一斉に鳴り、札が千切れそうに震えた。白絹が結界を張る声が聞こえた。砂笙が何かを叫んだ。蓮台が深雪乃の名を呼んだ気がした。


 けれど、深雪乃は赫臣しか見ていなかった。


 赫臣は、胸を押さえた。


 白い矢の光が、彼の胸を貫くように走っていた。


 肉体を裂いたのではない。


 けれど、もっと深い場所を撃ち抜いた。


 鬼血。


 百鬼夜行の主の責務。


 深雪乃の封へ絡んだ、彼の血と愛と誓い。


 それらが、破魔の矢に射抜かれていた。


 赫臣の口から、血が溢れた。


 赤い。


 白い光の中で、その赤だけがあまりにも鮮やかだった。


 最後に、足首飾りが砕けた。


 アンクレットが、左、右と音を立てて割れる。


 足元の影が大きく揺れた。


 百鬼夜行の影を地へ縫っていた鎖。


 それが壊れ、赫臣の背後に黒い夜が開きかける。


 深雪乃は、涙でぐちゃぐちゃの顔で叫んだ。


「赫臣様!」


 その瞬間、赫臣が動いた。


 白い光の中を、彼は歩いた。


 一歩。


 砕けた装身具の破片を踏む。


 二歩。


 血が畳へ落ちる。


 三歩。


 百鬼夜行の影が背中から伸びかける。


 それでも、赫臣は深雪乃へ向かって歩いた。


 誰も止められなかった。


 深雪乃も動けなかった。


 彼が来る。


 あれほど来ないでと言ったのに。


 今は、来てほしかった。


 矛盾している。


 ひどく勝手だ。


 けれど、深雪乃はもう、彼の腕が欲しくてたまらなかった。


 赫臣は、深雪乃の前へたどり着いた。


 そして、崩れるように彼女を抱きしめた。


 強く。


 けれど、最後まで背の傷は避けていた。


 深雪乃の身体が、赫臣の血で濡れる。


 彼の胸から、口元から、手のひらから、血が落ちる。深雪乃の白藤色の着物に赤が広がっていく。赫臣の息は荒く、重く、血の匂いが近かった。


「赫臣様、赫臣様、赫臣様」


 深雪乃は、弓を落とした。


 破魔矢はもうない。


 放たれた光は、部屋の奥で何かを撃ち抜き、白く燃え尽きている。


 だが、そんなことはもうどうでもよかった。


 赫臣が血を吐いている。


 装身具が砕けた。


 胸を撃ち抜かれた。


 それなのに、自分を抱きしめている。


「赫臣様!」


 深雪乃は、彼の着物を掴んだ。


 手が震える。


 涙が止まらない。


 赫臣は、血の混じる息で笑った。


 ひどく苦しそうに。


 それでも、笑った。


「撃てたな」


 深雪乃の呼吸が止まった。


 赫臣は、彼女の髪へ頬を寄せた。


 血の匂いがした。


 それでも、声は優しかった。


「偉い」


 深雪乃の胸が、壊れた。


「褒めないで」


 泣き声が、喉からこぼれた。


「褒めないでください」


 赫臣の腕が、わずかに深くなる。


「偉い」


「嫌です」


「深雪」


「嫌です。私は、あなたを」


 言葉にならない。


 撃った。


 彼の胸を。


 彼の装身具を。


 彼の責務を。


 彼の血を。


 彼の愛までも、矢の光で裂いたような気がした。


「私が、あなたを傷つけました」


「違う」


 赫臣はすぐに言った。


 血を吐きながら。


「違わない」


「違う」


「赫臣様」


「お前は、選んだ」


 赫臣の声は、掠れていた。


 それでも、深雪乃の耳へしっかり届く。


「俺が守りたかったものを、お前が選んだ。お前が、お前の手で」


「でも、あなたが」


「俺は、ここにいる」


 赫臣は、深雪乃を抱きしめたまま言った。


「まだいる」


「血が」


「少しだ」


「少しではありません」


「なら、多い」


「ふざけないでください」


「悪い」


 赫臣は笑おうとして、咳き込んだ。


 血が口元から溢れる。


 深雪乃は悲鳴を上げそうになった。


 赫臣は彼女の後頭部を撫でた。


 いつものように。


 いや、いつもより弱い。


 けれど、その手は確かに深雪乃を撫でていた。


「泣くな」


「無理です」


「そうか」


「あなたが泣かせています」


「ああ」


「最低です」


「悪い」


「謝罪も嫌です」


「じゃあ、何ならいい」


 深雪乃は、彼の胸元を掴んだ。


 血で濡れている。


 温かい。


 怖い。


「生きてください」


 赫臣の目が、揺れた。


「赫臣様、生きてください」


「ああ」


「約束してください」


「する」


「嘘なら刺します」


「今は射るんじゃねえのか」


「もう矢はありません」


「じゃあ、刺すか」


「本当に刺します」


 赫臣は、血の混じる笑みを浮かべた。


「怖えな」


「怖がってください」


「深雪」


「はい」


「怖い」


 その声は、冗談ではなかった。


 深雪乃は息を止める。


 赫臣は、彼女の頬へ手を添えた。


 血のついた指だった。


 深雪乃の頬に、赤が移る。


「俺も、怖い」


「赫臣様」


「お前が撃つのを見るのが怖かった。お前が壊れるのが怖かった。俺が壊れるのも、少しだけ怖かった」


「少しではありません」


「そうだな」


 赫臣は、深雪乃の額に自分の額を触れさせた。


 熱い。


 血の匂い。


 破魔の光の残り香。


 沈丁花の香り。


 それらが混ざって、息が苦しい。


「でも、見た」


「はい」


「お前は撃った」


「はい」


「偉い」


「褒めないで」


 深雪乃はまた泣いた。


「褒めないでください。私は、あなたを傷つけてまで選んだのです」


「だから、偉い」


「嫌です」


「深雪」


「嫌です」


「愛してる」


 深雪乃は、言葉を失った。


 こんな時に。


 血を吐いて。


 装身具を砕かれて。


 胸を撃ち抜かれたように苦しんで。


 それでも赫臣は、その言葉を選ぶ。


 深雪乃は、泣きながら彼を見上げた。


「どうして」


「言いたい」


「こんな時に」


「こんな時だからだ」


 赫臣の親指が、深雪乃の涙を拭う。


 血と涙が混ざる。


「深雪」


「はい」


「愛してる」


 深雪乃は、もう抗議できなかった。


 彼の顔が近づく。


 赫臣の唇には血がついている。


 深雪乃は、分かった。


 これが最後になるかもしれないと。


 今この瞬間の口づけが。


 これまで何度も交わしたキスの中で、もっとも痛く、もっとも怖く、もっとも逃げられないものになると。


「赫臣様」


「嫌か」


 彼は、こんな時でも聞いた。


 深雪乃は首を横に振った。


「嫌ではありません」


「血の味がする」


「知っています」


「汚れる」


「もう汚れています」


 赫臣の顔が、泣きそうに歪む。


「深雪」


「してください」


 深雪乃は、震える声で言った。


「今、してください」


 赫臣の目が揺れた。


 そして、彼は深雪乃へ口づけた。


 血の味がした。


 鉄の味。


 熱い血。


 赫臣の息。


 破魔の光の焦げたような匂い。


 深雪乃の涙の塩気。


 唇が触れた瞬間、深雪乃は泣きながら彼に縋った。


 これは甘いキスではなかった。


 慰めだけでもなかった。


 祝福でも、別れでも、罰でもあった。


 撃てたな。


 偉い。


 褒めないで。


 その言葉が、唇の奥でまだ震えている。


 赫臣は深く奪わなかった。


 力が残っていないのかもしれない。


 それとも、深雪乃を壊さないためかもしれない。


 ただ、血の味を分け合うように、唇を重ねた。


 深雪乃は、それでも離れたくなかった。


 彼の着物を掴み、血で濡れた胸に額を寄せ、唇を離されるたびに小さく息を吸った。


 また、唇が触れる。


 短く。


 深くはない。


 けれど、痛いほど近い。


 赫臣の血が、深雪乃の唇に残る。


 自分が撃ち抜いた胸の血。


 自分が愛している男の血。


 深雪乃は、涙を流しながらその味を受け止めた。


 赫臣の腕が、少しずつ弱くなる。


「赫臣様」


「いる」


 すぐに答えが返る。


 掠れている。


 けれど、返ってくる。


「ここにいる」


「離れないで」


「離れねえ」


「嘘は嫌です」


「嘘じゃねえ」


「本当に?」


「本当に」


 赫臣は、深雪乃の髪へ唇を寄せた。


 息が震えている。


「深雪」


「はい」


「泣くなって言っても泣くな」


「泣きます」


「だろうな」


「あなたのせいです」


「ああ」


「私のせいでもあります」


「違う」


「違いますか」


「選んだせいだ」


 赫臣の声は、かすかだった。


「俺たちが、選んだせいだ」


 深雪乃は、目を閉じた。


 その言葉が胸に落ちる。


 自分だけの罪ではない。


 赫臣だけの犠牲でもない。


 二人が逃げずに選んだ結果。


 だから、痛い。


 だから、消えない。


 だから、恋だった。


 祈祷部屋の奥で、破魔矢の残光が静かに消えていく。


 山本五郎左衛門の家紋は、まだそこにある。


 母の鏡も、まだ白く曇っている。


 真相はまだ、完全には語られていない。


 何を射抜いたのか。


 何が開いたのか。


 何が砕けたのか。


 それを語るには、まだ言葉が足りなかった。


 今あるのは、赫臣の血と、深雪乃の涙と、二人の選択だけだった。


 赫臣が、再び咳き込む。


 血が畳へ落ちる。


 深雪乃は彼を支えようとしたが、逆に赫臣に抱き込まれた。


「赫臣様、もう」


「少しだけ」


「何がですか」


「抱かせろ」


「あなたは」


「今だけ」


 深雪乃は、泣きながら彼の胸に顔を埋めた。


 血で濡れていた。


 熱かった。


 怖かった。


 それでも、そこが赫臣の胸だった。


 撃ち抜いた胸。


 血を吐きながら、自分を抱きしめている胸。


 深雪乃は、そこに縋った。


「赫臣様」


「何だ」


「褒めないでください」


「無理だ」


「どうして」


「お前が偉かったからだ」


「嫌です」


「嫌でも、偉い」


「嫌です」


「深雪」


 赫臣は、かすれた声で笑った。


「泣きながら怒るな」


「怒ります」


「可愛い」


「今、言うことですか」


「言う」


「最低です」


「ああ」


 深雪乃は泣きながら、ほんの少しだけ笑ってしまった。


 それが悔しくて、また泣いた。


 赫臣も、血の混じる息で小さく笑った。


 その笑いは弱かった。


 けれど、生きている音だった。


 深雪乃は、その音に縋った。


 赫臣は、もう一度だけ深雪乃の唇へ触れた。


 血の味のする、最後のようなキス。


 けれど、深雪乃は心の中で叫んでいた。


 最後にしないで。


 最後にしないでください。


 あなたが約束したのです。


 離れないと。


 生きると。


 私は、まだあなたに怒らなければならない。


 まだ刺すと言っていないことも、たくさんある。


 まだ可愛いと言われて、文句を言わなければならない。


 まだ甘味屋にも行く。


 まだただの人間だったらよかったのにと、何度でも言って、あなたに泣きそうに笑ってもらわなければならない。


 深雪乃は、口づけの終わりに、赫臣の着物を強く掴んだ。


「生きて」


 声は、ほとんど息だった。


 赫臣は、額を彼女の額へ寄せた。


 血の匂いがした。


 涙の匂いがした。


 赫臣の声が、かすかに落ちる。


「生きる」


「約束です」


「ああ」


「破ったら」


「刺せ」


「本当に刺します」


「知ってる」


 赫臣は、血で濡れた唇で笑った。


「俺の恋人だからな」


 深雪乃は、泣きながら頷いた。


 祈祷部屋の光は、少しずつ弱まっていく。


 砕けたピアス。


 割れた舌ピアス。


 弾けた指輪。


 砕け散ったブレスレット。


 裂けたネックレス。


 折れたアンクレット。


 赫臣を赫臣として留めていた装身具の欠片が、白い光の残り香の中で畳に散っていた。


 それらの中央で、赫臣は血を吐きながら深雪乃を抱きしめていた。


 深雪乃は泣きながら、彼の胸に縋っていた。


 矢は放たれた。


 胸は撃ち抜かれた。


 それでも、二人はまだ互いを離さなかった。


 恋と選択の痛みだけが、祈祷部屋に残っていた。


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