第57話 不死身の終わり
最初に気づいたのは、痛みだった。
これまでと違う痛み。
鋭く、細く、いつまでもそこに残り続ける痛み。
祈祷部屋の白い光が消え、砕けた装身具の破片が畳の上で鈍く光っている。赫臣は血を吐き、深雪乃を抱きしめたまま、ようやく蓮台と砂笙に支えられて横になった。彼は最後まで深雪乃の手を離そうとしなかった。離せば本当に深雪乃がどこかへ行ってしまうとでも思っているように、指先に力を残していた。
深雪乃は、その手を握っていた。
赫臣の血が、指の間に残っている。
鉄の匂いがする。
血の味のする口づけが、まだ唇に残っている。
撃てたな。偉い。
褒めないで。
そのやり取りが胸の奥で何度も反響する。赫臣は血を吐きながら、深雪乃を褒めた。彼の装身具を砕き、彼を痛めつけるような一射を放った深雪乃を、偉いと言った。
深雪乃は、泣きすぎて目の奥が熱かった。
それでも、まだ泣き足りない気がした。
赫臣は眠っていない。
意識はある。
だが、話すたびに血が喉へ絡むのか、砂笙に黙るよう厳しく止められていた。百鬼夜行の主に向かって「黙ってください」と言える参謀は、たぶん帝都にもそう多くない。砂笙の胃はもう殉職寸前だろう。せめて後で温かいものでも飲ませたい。
赫臣の耳元には、砕けたピアスの痕が赤く残っていた。
舌の鋲は割れ、唇には血が滲んでいる。
指輪のあった指には焼けたような痕。
腕輪の跡。
首飾りの切れた線。
足首飾りの砕けた欠片。
それらすべてが、彼が百鬼夜行の主であった重さを物語っていた。
深雪乃は、握った手へ視線を落とした。
自分の手のひらに、小さな切り傷があった。
弓弦で切ったのだろう。
破魔の矢を放った時、指の皮が裂けた。
細い傷。
大したことのない傷。
これまでなら、こんな傷は瞬きをする間に塞がっていた。血が滲む前に皮膚が戻り、痛みも薄れていった。蔵に閉じ込められた時も、転んで膝を割った時も、爪を立てられた時も、鞭打たれた背でさえ、時間が経てば傷口は閉じた。
痛みだけは残った。
けれど、傷は塞がった。
そういう身体だった。
死にきれない身体。
壊れても戻る身体。
便利だと笑われた身体。
だが、今は違った。
手のひらの切り傷から、赤い血がゆっくり滲んでいる。
血は止まらない。
いや、激しく流れているわけではない。普通の傷として、普通に血が滲んでいるだけだ。
けれど、塞がらない。
皮膚が戻らない。
死へ進む流れを押し戻す、あの異常な力が動かない。
深雪乃は、手を見つめたまま固まった。
「深雪乃様?」
砂笙が先に気づいた。
深雪乃は、答えられなかった。
赫臣も、彼女の手へ視線を向けた。
血の気の引いた顔が、さらに強張る。
「深雪」
かすれた声。
砂笙がすぐに制止する。
「旦那様、お話にならないでください」
「深雪の手が」
「承知しています」
砂笙が深雪乃の前へ来て、膝をついた。
「見せてください」
深雪乃は、ゆっくり手を差し出した。
手のひらの傷。
ほんの小さな裂け目。
そこから赤い血が流れている。
砂笙は、その傷をじっと見た。
表情を変えない。
だが、目の奥に緊張が走った。
白絹も近づいた。
彼女は深雪乃の手を見るなり、細い眉をわずかに寄せた。
「塞がっていませんわね」
深雪乃は、ようやく声を出した。
「はい」
自分の声が遠い。
「塞がりません」
蓮台が、低く言った。
「普通の傷だな」
その言葉が、ひどく奇妙に響いた。
普通の傷。
それだけのことなのに。
深雪乃にとって、それは世界がひっくり返るような言葉だった。
赫臣が起き上がろうとした。
砂笙と蓮台が同時に止める。
「動くな」
「旦那様」
「離せ」
赫臣の声は弱いのに、怒りだけは強かった。
「深雪に」
「あなたが動けば、また血を吐きます」
蓮台が容赦なく言った。
「今は黙って横になれ。お前が倒れれば、深雪乃がさらに泣くぞ」
赫臣は、悔しそうに唇を噛んだ。
それでも、動きを止めた。
深雪乃のためなら止まる。
それが分かって、深雪乃はまた胸が痛くなった。
白絹が、深雪乃の手へそっと清めの布を当てた。
「痛みますか」
「はい」
「どのように?」
「普通に、痛いです」
普通に。
その言葉が、また胸の奥へ落ちる。
深雪乃は、傷口を見つめた。
「普通の傷のように」
白絹は、静かに息を吐いた。
「破魔の矢が、あなたの中の死門返しを射抜いたのですわ」
死門返し。
深雪乃は、その言葉を繰り返した。
「死門、返し」
砂笙が、低く説明を継いだ。
「深雪乃様の不死は、再生ではございませんでした。傷を治す力ではなく、死へ向かう流れそのものを境で押し戻す力。澄子様の宵待の破魔、白き客人との誓い、鵺喰家の山本五郎左衛門の紋、そして会の契約が、それを歪めて繋ぎ止めていた」
深雪乃は、自分の胸へ手を当てた。
鼓動がある。
いつもと同じ。
けれど、何かが違う。
胸の奥にあった白い冷たさが、薄くなっている気がする。
「私は、治っていたのではなかったのですね」
「はい」
砂笙は、ごまかさなかった。
「死なないのではなく、死へ進むたびに、死門の前から戻されていた。あなたの身体は生へ戻っていたのではなく、死へ行くことを許されなかったのです」
許されなかった。
深雪乃の喉が震えた。
生きていた、のではない。
死ぬことを許されていなかった。
だから不死だった。
だから痛みは消えなかった。
身体は戻るのに、痛みは残った。
魂だけが、何度も境まで引きずられ、何度も戻されていた。
深雪乃は、急に息が苦しくなった。
「では、私は」
声が震える。
「私は今まで、何度も」
赫臣が、苦しげに目を閉じた。
白絹が、痛ましげに言った。
「ええ。あなたは、死にかけるたびに戻されていたのでしょう。あなたの意志ではなく、契約と封じの力で」
深雪乃の手から、また血が滲む。
赤い血。
普通の血。
白絹が布で押さえた。
「破魔の矢は、その異常な返しを射抜きました。あなたを殺さないために張られていたものではありません。あなたを返還させないために、死門の手前へ縛り続けていたものです」
深雪乃は、目を見開いた。
返還させないため。
返して。
まだ返していない。
白い影の声。
母の「連れていかないで」。
父の「まだ返せない」。
会の契約。
鍵として保管。
それらが、胸の中で一つの線になった。
砂笙が続ける。
「鵺喰家は、白き客人との古い誓いによって境へ触れた宵待の血を、山本五郎左衛門の紋で繋ぎ止めました。澄子様の胎内に宿った深雪乃様は、その中心に置かれた。会はそれを預かりと呼び、鵺喰は保管と呼び、契約書は鍵と呼んだ」
白絹が、静かに目を伏せる。
「ですが、母君はあなたを子として産んだ。だから封は歪んだのですわ。あなたは道具ではなく、人として生まれた。けれど、契約はあなたを鍵として扱い続けた」
深雪乃の胸が熱くなる。
母さま。
母は、抗った。
契約の中でも、自分を子として産もうとした。
器ではない。
この子は私の子です。
その声が、鏡の中から蘇る。
「私の不死身は」
深雪乃は、ようやく言った。
「母さまが私を守ったからでは、なかったのですか」
砂笙は、少しだけ沈黙した。
その沈黙が優しかった。
「一部は、守りでもあったのでしょう」
彼は言った。
「澄子様の血と願いがなければ、深雪乃様は生まれる前に契約そのものへ呑まれていたかもしれません。けれど鵺喰家と会は、その守りを利用した。あなたを死なせないためではなく、返還の期まで壊さず保管するために」
深雪乃の身体が震えた。
保管。
また、その言葉。
胸が苦しくなる。
赫臣が、血の滲む唇を開いた。
「違う」
砂笙が止めようとしたが、赫臣はやめなかった。
声は弱い。
それでも、深雪乃へ届いた。
「お前は、保管されてたんじゃねえ」
「でも」
「連中はそうしたつもりだった。契約書はそう書いた。鵺喰も会も、そう扱った」
赫臣は、苦しげに息を吸う。
「でも、お前は生きてた。泣いて、怒って、刺して、俺を叱って、甘味食って、俺にもっと触れろって言った」
深雪乃の目に、涙が滲む。
「深雪は物じゃねえ。保管された鍵じゃねえ。ずっと、深雪だった」
赫臣の声が、そこで咳に崩れた。
血が唇からこぼれる。
深雪乃は悲鳴を上げそうになった。
だが、彼は手を伸ばした。
深雪乃は、その手を握った。
小さな傷のある手で。
血が赫臣の血と混ざる。
赫臣の目が、深雪乃の傷を見る。
「塞がらねえのか」
小さな声。
深雪乃は、ゆっくり頷いた。
「はい」
赫臣の顔が歪む。
安心と恐怖が同時に来たような顔だった。
「痛いか」
「はい」
「そうか」
赫臣の手が震える。
「普通に、痛いのか」
「はい」
深雪乃は、涙をこぼした。
「普通に、痛いです」
赫臣は、目を閉じた。
その頬に、涙が一筋流れた。
「よかった」
彼は言った。
深雪乃は息を呑んだ。
赫臣はすぐに目を開ける。
「違う。傷が痛くてよかったって意味じゃねえ」
「分かっています」
「分かるのか」
「はい」
深雪乃は、傷口を押さえた布を見た。
「私の身体が、私のものになったのですね」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが震えた。
怖い。
不死身でなくなることが怖い。
これからは傷つけば血が流れ、塞がるまで時間がかかる。深い傷を負えば、命に関わるかもしれない。毒を飲めば死ぬかもしれない。骨が折れれば、戻るまで痛みが続くかもしれない。
死ねる身体。
それは恐ろしい。
けれど。
死ねるということは、生きることを自分のものにできるということでもあった。
深雪乃は、震える息を吐いた。
「私は、もう死に戻されないのですね」
白絹が頷いた。
「少なくとも、これまでの異常な返しは切れていますわ」
蓮台が、現実的に言う。
「つまり、これからは怪我をすれば治療が必要だ。無茶をするな」
赫臣が、横になったまま低く言った。
「俺が見る」
蓮台が即座に返す。
「お前は今、見られる側だ」
「深雪の」
「黙れ。血を吐くぞ」
赫臣は悔しそうに黙った。
深雪乃は、そのやり取りに泣きながら少しだけ笑いそうになった。
普通の傷。
普通の痛み。
普通に止血される自分の手。
それだけのことが、こんなにも恐ろしく、こんなにも愛しかった。
その時、祈祷部屋の外で鈴が鳴った。
誰かが鳴らしたものではない。
廊下に下げられていた古い魔除けの鈴が、風もないのに一斉に鳴り始めた。
砂笙が顔を上げる。
白絹が、目を細めた。
「始まりましたわね」
「何がですか」
深雪乃が問うと、白絹は廊下の方を見た。
「変化が、外へ広がっています」
廊下へ出ると、屋敷全体が震えているようだった。
地震ではない。
柱は揺れていない。
畳も軋まない。
だが、屋敷に染みついていた古い気配が、奥から剥がれていくような感覚があった。
鵺喰家の家紋を刻んだ欄間が、白く光る。
北蔵の方角から、紙を破るような音が聞こえた。
だが、これまでのような不気味な笑いではない。
封じられていた古い紙が、内側から自然に裂けていくような音。
使用人たちが廊下の端で怯えている。
小鈴が口元を押さえ、佐助が膝をつき、お咲が何か祈るように手を合わせていた。
その先で、夜岐が女中に支えられながら立っていた。
顔色は悪い。
首にはまだ痕がある。
それでも、彼女は深雪乃を見た。
「深雪乃」
声は弱かった。
けれど、敵意だけではない。
恐怖と、後悔と、何かを見届ける覚悟が混ざっていた。
夜岐は、北蔵の方を見た。
「白い女の声が、少し遠くなった」
深雪乃は、息を止めた。
「姉上にも、まだ聞こえるのですか」
「聞こえるというより、見られていたのが薄くなった」
夜岐は、震える手で自分の腕を抱いた。
「でも、完全には消えていない。怒っているのか、泣いているのか、分からない」
白絹が低く言う。
「返還の道を歪めていた封が切れたのでしょう。ですが、返還そのものが終わったとは限らない」
返還。
その言葉に、深雪乃の胸が冷える。
不死身は終わりへ向かっている。
しかし、それで全てが終わったわけではない。
鵺喰家の罪が、今ようやく表へ出始めたのだ。
北蔵へ続く廊下の奥で、封印札が一枚、ひらりと落ちた。
次に二枚目。
三枚目。
古い札が次々と剥がれ、畳の上に落ちる。
蓮台が舌打ちした。
「厄介だな」
「何がですか」
「証拠が勝手に開き始めている」
砂笙が、赫臣を支えながら廊下へ出てきた。
赫臣は青ざめていたが、深雪乃を見るとすぐに目を細めた。
「深雪」
「寝ていてください」
「無理だ」
「命令です」
「聞きたいが、無理だ」
「あなたは」
深雪乃が怒ろうとした瞬間、赫臣の足元の影が大きく揺れた。
百鬼夜行。
深雪乃は息を呑む。
だが、影は暴れなかった。
むしろ、静かに赫臣の足元へ戻っていく。
砕けた装身具を失ったのに、百鬼の影は赫臣を呑まなかった。
砂笙が驚いたように目を細める。
「旦那様」
赫臣も、自分の足元を見た。
影は、静かに彼の足へ沿っている。
以前のように、装身具で押さえつけられているのとは違う。
主の命令を待つように、静かに伏せていた。
赫臣は、かすかに息を吐いた。
「……深雪を囲うなと言ったのが、効いたか」
砂笙が、珍しく言葉を失った。
白絹が静かに言う。
「百鬼夜行も変わり始めているのですわ。力で縛られた夜行から、主の選択に従う夜行へ」
赫臣は、苦く笑った。
「随分きれいに言うな」
「事実を少し美しく包みました」
「包みすぎだ」
「あなたが血まみれなので、言葉くらい整えましたの」
赫臣は笑おうとして、咳き込んだ。
深雪乃はすぐに彼の腕を掴んだ。
「笑わないでください」
「無茶言うな」
「笑うにも体力を使います」
「恋人に笑うなって言われる日が来るとはな」
「怪我人だからです」
「深雪」
「何ですか」
「恋人って言った」
深雪乃は、こんな時なのに顔が熱くなった。
「今はそこではありません」
「俺にはそこだ」
「黙ってください」
蓮台が横から低く言った。
「二人とも黙れ。屋敷が開く」
その言葉どおり、鵺喰家の奥で、何か大きなものが軋む音がした。
北蔵。
祈祷部屋。
父の書斎。
母の部屋。
別々に封じられていた場所が、一本の道で繋がるように気配を変えている。
鵺喰家そのものが、隠してきたものを吐き出そうとしていた。
白絹の袖の中で、蘆野火家の札が燃え上がった。
彼女はすぐに取り出し、畳へ落とす。
札の端が黒く焦げ、金の文字が浮かんだ。
白絹はそれを見て、顔を強張らせる。
「蘆野火家にも影響が」
「何が起きた」
蓮台が問う。
白絹は、焦げた札を見つめたまま答えた。
「過去の隠蔽記録にかけていた幻術が、崩れ始めています。おそらく、本家の文庫でも同じことが起きている」
「つまり」
「隠していた記録が、隠れなくなりますわ」
その声には、恐れと覚悟が混じっていた。
「蘆野火家だけではありません。会の文書、枯野井の控え、寺社方の封印記録。深雪乃さんに関わる契約に連なる隠蔽が、順に揺らぐ可能性があります」
帝都の裏社会が揺れる。
その言葉が、深雪乃の胸に浮かんだ。
ここは鵺喰家の屋敷だ。
けれど、変化はここだけに留まらない。
百鬼夜行。
鵺喰家。
蘆野火家。
先祖返り会。
寺社方。
怪異事件を隠してきた帝都の裏側。
深雪乃の不死身を縛っていた一射は、個人の身体だけではなく、長く隠されてきた世界の縫い目を撃ち抜いた。
深雪乃は、傷のある手を見た。
血は、まだ止まりきっていない。
白絹が巻いてくれた布に、赤が滲んでいる。
普通の傷。
普通の血。
その小さな傷が、帝都の裏側を揺らしている。
あまりにも不釣り合いだった。
けれど、きっとそういうものなのだ。
誰か一人の命を道具として扱った罪は、一つの屋敷だけで終わるものではない。
それを許した世界ごと、揺れなければならない。
深雪乃は、赫臣を見た。
彼は砂笙に支えられながら、苦しそうに立っている。
血の気はない。
だが、目だけは生きている。
深雪乃を見る目。
深雪乃を守りたいと願いながら、もう囲わないと決めた目。
「赫臣様」
「何だ」
「私、不死身ではなくなるのですね」
赫臣の顔が痛む。
「ああ」
「死ぬかもしれない身体に」
「ああ」
「怖いです」
正直に言った。
赫臣はすぐに手を伸ばしかけ、途中で止めた。
深雪乃が自分から一歩近づき、その胸に額を寄せた。
赫臣の身体が震える。
「深雪」
「触れてください」
彼の腕が、深雪乃を包んだ。
弱い。
いつもよりずっと弱い抱擁。
それでも、確かに赫臣の腕だった。
「怖いです」
「ああ」
「でも、少しだけ」
深雪乃は、涙をこぼした。
「嬉しいのです」
赫臣の腕が震えた。
「自分の身体が、自分のものに戻っている気がします」
「ああ」
「死ぬのは怖いです」
「ああ」
「でも、死ねないことも怖かったのです」
赫臣は、何も言わなかった。
ただ、深雪乃の髪に唇を落とした。
一度。
もう一度。
何度も。
弱い口づけだった。
それでも、深雪乃は泣いた。
「傷が塞がらないのです」
「うん」
赫臣の声は、ひどく優しかった。
「普通に痛いのです」
「うん」
「血が止まるまで、待たなければならないのですね」
「うん」
「面倒ですね」
「そうだな」
「でも」
深雪乃は、赫臣の胸で涙を吸い込む。
「私は今、生きている感じがします」
赫臣の呼吸が止まった。
それから、彼は深雪乃の頭を抱くようにして、低く囁いた。
「生きてる」
「はい」
「深雪は、生きてる」
「はい」
「俺の前で」
「はい」
「ちゃんと、生きてる」
その言葉に、深雪乃はまた泣いた。
生きている。
死へ戻されるのではなく。
保管されるのではなく。
契約の期を待つのではなく。
今、この痛みと血と恐怖を持って、生きている。
廊下の奥では、北蔵の札がまた一枚落ちた。
蘆野火の札は燃え尽き、白い灰になった。
百鬼の影は赫臣の足元で静かに伏せている。
帝都のどこかで、先祖返り会の文庫が震えているかもしれない。
裏社会の誰かが、封じていた記録の文字が浮かぶのを見て青ざめているかもしれない。
世界は揺らぎ始めている。
深雪乃の不死身が終わりへ向かうことで。
彼女の身体が、ようやく彼女自身のものになり始めたことで。
赫臣は、血の滲む唇で深雪乃の額に口づけた。
「深雪」
「はい」
「痛かったら、言え」
「言います」
「怖かったら」
「言います」
「嬉しかったら」
深雪乃は、涙の中で少しだけ顔を上げた。
「それも、言わなければなりませんか」
「聞きたい」
「あなたは本当に」
「聞きたい」
赫臣の顔は青ざめているのに、目だけは必死だった。
深雪乃は、傷のある手を胸元へ寄せた。
「怖いです」
「ああ」
「痛いです」
「ああ」
「でも、嬉しいです」
赫臣の目に、涙が滲んだ。
「そうか」
「はい」
「よかった」
「また褒めますか」
「褒めたい」
「褒めないでください」
「じゃあ」
赫臣は、深雪乃の髪を撫でた。
「生きててくれて、嬉しい」
深雪乃は、何も言えなくなった。
褒められるより、ずっと胸に刺さった。
彼女は赫臣の胸に顔を埋める。
「私も」
小さく言った。
「あなたが生きていて、嬉しいです」
赫臣の腕が、少しだけ深くなった。
弱い力で。
けれど、深く。
その背後で、鵺喰家の奥が軋む。
不死身の終わりは、静かな終わりではなかった。
隠された罪が開く音。
百鬼夜行が姿を変える音。
蘆野火の幻術が崩れる音。
帝都の裏社会が震える音。
そのすべての始まりだった。
深雪乃は、痛む手を抱えたまま、赫臣の胸の音を聞いていた。
自分の鼓動も聞こえる。
二つの心臓が、弱く、確かに鳴っている。
不死身ではない身体で。
血の流れる身体で。
死ぬかもしれない身体で。
それでも、今、生きている。
深雪乃は、その事実に震えながら、赫臣の着物を掴んだ。
もう戻れない。
けれど、ようやく戻ってきたのかもしれなかった。
自分自身の命へ。




