第55話 破魔の矢を番える
弓は、白布の上に置かれていた。
古弓だった。
飾り気はない。けれど、古びているだけの道具ではなかった。握りの部分には、何度も人の手が触れた跡があり、木の色が深く沈んでいる。弓弦は張り直され、篝火家の術師と砂笙の手で清められていた。そばには破魔矢が一本、静かに置かれている。
十二本あった矢のうち、残っているもの。
宵待澄子が、深雪乃へ残したもの。
弓を、忘れないで。
鏡を、恐れないで。
母の声が、今も耳の奥にある。
深雪乃は、その前に正座していた。
場所は、鵺喰家の祈祷部屋だった。
山本五郎左衛門の家紋が祀られ、母が胎内封じを受けた場所。玄磊が死に、古い記録が見つかり、深雪乃が自分の出生に近づき始めた場所。畳には新しい白布が敷かれ、四方には清めの塩と銀の杭が置かれている。部屋の空気は冷たく、静まり返っていた。
誰も余計な言葉を発しなかった。
蓮台も、白絹も、砂笙も、少し離れた場所に控えている。
けれど、深雪乃の世界には、もうほとんど赫臣しかいなかった。
赫臣は、深雪乃の後ろに立っていた。
いつものように近くはない。
近づきたいのを耐えている距離。
それが痛いほど分かった。
深雪乃は弓を見つめたまま、ゆっくり息を吸った。
弓を取れば、もう後戻りはできない。
破魔の矢は、ただ敵を射るためのものではない。
血筋、契約、呪い、因果を射抜くもの。
深雪乃が何を射るのか、まだ完全には言葉にできない。けれど、これを持つということは、自分が契約書の中の鍵でも、会の預かりものでも、誰かに返されるものでもないと示すことだった。
自分で選ぶ。
自分で構える。
自分で番える。
それが、怖かった。
深雪乃の手は震えていた。
不死身の身体なのに、手は震える。
傷は塞がるのに、恐怖は塞がらない。
骨は戻るのに、心は簡単には戻らない。
それでも、この震える手で選ばなければならない。
深雪乃は、そっと弓へ手を伸ばした。
その瞬間、背後で赫臣の装身具が激しく鳴った。
耳飾り。
指輪。
腕輪。
首飾り。
足首飾り。
百鬼夜行の主を人の形に留める音。
それが、今は悲鳴のように聞こえた。
「深雪」
赫臣の声が、掠れていた。
深雪乃は振り返らなかった。
振り返ったら、手が止まる。
弓を取れなくなる。
「はい」
「やめろ」
その声は、命令ではなかった。
懇願だった。
深雪乃の胸が痛む。
「赫臣様」
「俺がやる」
「できません」
「できる。俺がどうにかする。百鬼を使ってでも、会を潰してでも、白い影だろうが神と呼ばれたものだろうが、全部俺が相手をする」
赫臣の足音が、一歩近づいた。
深雪乃の背中に、彼の熱が近づく。
「お前が弓を持つ必要はねえ」
「あります」
「ない」
「あります」
「深雪!」
声が、部屋に響いた。
蓮台も白絹も何も言わない。
砂笙も止めない。
これは、二人の間のことだった。
赫臣は、もう一歩近づいた。
深雪乃はようやく振り返った。
そして、息を呑んだ。
赫臣は泣いていた。
静かにではない。
隠しきれないほど、顔を歪めていた。
男泣き、という言葉がそのまま形になったようだった。蒼い目は赤く潤み、唇は震え、奥歯を噛みしめる顎の線が痛々しい。彼は泣くまいとしている。けれど、涙は止まっていない。
篝火赫臣。
百鬼夜行の主。
酒呑童子の当主。
先祖返り会第一位の男。
その男が、深雪乃の前で泣いている。
深雪乃の胸が、裂けそうになった。
「赫臣様」
「来い」
赫臣が手を伸ばした。
「深雪、こっちへ来い。俺が抱く。俺が守る。俺が全部」
深雪乃は、涙をこぼしながら首を横に振った。
「来ないでください」
赫臣の足が止まる。
その顔が、さらに壊れた。
「深雪」
「来ないでください」
声は震えていた。
けれど、言った。
言わなければならなかった。
「今、あなたに抱きしめられたら、私は弓を取れません」
赫臣の手が宙で止まる。
深雪乃は泣いていた。
涙が頬を伝い、顎から落ちる。
自分でも止められない。
「あなたの腕は、温かいのです」
深雪乃は、途切れそうな声で言った。
「あなたに抱きしめられると、私は怖いものから少しだけ逃げられます。契約書の文字も、白い影の声も、父の『忘れろ』も、母さまの涙も、少しだけ遠くなります」
赫臣の顔が歪む。
「なら」
「だから、今は駄目なのです」
深雪乃は、涙を拭わなかった。
「今は、逃げてはいけない時です」
赫臣の胸が大きく上下した。
「深雪」
「私も逃げたいです」
その言葉は、正直だった。
ずっと言えなかった本音だった。
「あなたの腕の中へ逃げたい。全部やめて、何も知らないふりをして、あなたに可愛いと言われて、甘いものを食べて、ただ眠りたい」
赫臣の涙が、また落ちた。
「それでいい」
「よくありません」
「俺は、それでいい」
「私は、よくありません」
深雪乃は、強く言った。
涙声だった。
それでも、強かった。
「私は、もう知らないまま守られるだけの女ではいたくありません」
部屋の空気が、静かに震えた。
弓の周囲に置かれた清めの塩が、淡く光る。
母の鏡が、白布の端で微かに沈丁花の香りを放った。
深雪乃は、赫臣を見つめた。
「あなたを愛しています」
赫臣の呼吸が止まった。
深雪乃も震えた。
はっきりと言った。
逃げではなく、縋りではなく、選ぶ言葉として。
「愛しているから、あなたの腕の中に隠れて終わりにはできません」
赫臣の顔が、苦しさで崩れそうになる。
「俺は、お前を失いたくねえ」
「私も、あなたを失いたくありません」
「なら、やめろ」
「やめません」
「深雪!」
「あなたを愛しているからです」
赫臣の手が震える。
深雪乃は、膝の上で両手を握った。
「私が私を選ばなければ、あなたはずっと私を守るために百鬼夜行と戦い続けます。会と戦い、鵺喰の罪と戦い、白い影と戦い、私の中の空白と戦う。あなたの愛が、私の檻になるかもしれないと怯えながら」
赫臣は何も言えなかった。
「私は、それが嫌です」
深雪乃は、涙をこぼしながら笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「あなたに守られたいです。でも、あなたを私のためだけに壊したくありません」
「壊れねえ」
「嘘です」
「深雪」
「あなたは、私の前では嘘が下手です」
赫臣は、唇を噛んだ。
血が滲みそうなほど強く。
深雪乃は立ち上がった。
足元が少しふらつく。
それでも立った。
白藤色の着物の裾が、畳の上で静かに揺れる。
彼女は弓の前に立った。
赫臣は、また一歩近づこうとした。
深雪乃は、泣きながら片手を上げて止めた。
「来ないで」
その言葉は、彼を拒むためではない。
愛しているからこそ、今は近づかないでほしいという願いだった。
赫臣は、そこで止まった。
止まってくれた。
それだけで、深雪乃はまた泣きそうになった。
「深雪」
赫臣の声は、もうほとんど砕けていた。
「俺は、どうすればいい」
深雪乃は、その問いに胸を刺された。
いつも強引な男が、今は本当に分からない顔をしている。
抱きしめたい。
止めたい。
守りたい。
けれど、深雪乃の選択を奪いたくない。
その間で、彼は壊れそうになっている。
深雪乃は、涙の中で答えた。
「見ていてください」
赫臣の目が揺れる。
「私が、私の手で選ぶところを」
「それだけか」
「それが、一番つらいでしょう」
赫臣は、泣きながら笑った。
本当に、痛々しく笑った。
「よく分かってるな」
「あなたの恋人ですので」
赫臣の表情が、また崩れた。
「深雪」
「はい」
「そんな時に、その言い方はずりい」
「あなたほどではありません」
「俺は何もできねえのか」
「できます」
「何を」
「私の名前を呼んでください」
赫臣の涙が、顎を伝った。
彼は、深雪乃を見つめたまま、低く呼んだ。
「深雪」
胸が震える。
深雪乃は弓へ手を伸ばした。
「深雪乃」
指が、弓に触れる。
冷たい。
けれど、手に馴染む。
母の手の記憶が、ほんの一瞬だけ重なった気がした。
「俺の深雪」
深雪乃は、小さく息を吐いた。
「所有物ではありません」
涙声なのに、いつものように言えた。
赫臣は泣きながら笑った。
「恋人だ」
「はい」
深雪乃は、弓を持ち上げた。
重い。
想像していたよりずっと重い。
木の重さではない。
母の願い。
鵺喰家の罪。
白い影の声。
自分の不死。
赫臣の鬼血。
先祖返り会の沈黙。
すべてが、手の中の弓に集まっているようだった。
膝が震える。
だが、落とさなかった。
赫臣が、今にも駆け寄りそうな顔で見ている。
深雪乃は首を横に振った。
「まだ、来ないでください」
「ああ」
赫臣は頷いた。
泣きながら。
「行かねえ」
深雪乃は、破魔矢を取った。
矢羽が白く揺れる。
指先に触れた瞬間、淡い光が走った。
痛みはない。
ただ、胸の奥が熱くなる。
母の鏡が、小さく震えた。
弓を、忘れないで。
鏡を、恐れないで。
母の声が聞こえたような気がした。
深雪乃は、矢を持ったまま赫臣を見た。
「赫臣様」
「何だ」
「私が怖いですか」
赫臣は、一瞬だけ息を止めた。
それから、嘘をつかなかった。
「怖い」
深雪乃の胸が痛む。
けれど、受け止めた。
「はい」
「お前の中に何があるのか、まだ怖い。何を開くのか、何を射るのか、お前がどうなるのか、怖くてたまらねえ」
「はい」
「でも」
赫臣は、涙を拭わなかった。
蒼い目を濡らしたまま、深雪乃を見ていた。
「お前を愛してる」
深雪乃の手が震えた。
破魔矢の先が、白く揺れる。
「疑っても?」
「ああ」
「怖くても?」
「ああ」
「私が何か分からなくても?」
「ああ」
赫臣の声が、深く沈む。
「愛してる」
深雪乃の涙が、また落ちた。
「私も」
言葉が震える。
けれど、もう逃げなかった。
「私も、あなたを愛しています」
赫臣の顔が、今までで一番悲しく、幸せそうに歪んだ。
深雪乃は、矢を弓へ添えた。
まだ番えきってはいない。
弦に指をかける前に、どうしても言わなければならないことがあった。
「赫臣様」
「何だ」
「もし、私が私でなくなりそうになったら」
「やめろ」
「聞いてください」
「嫌だ」
「赫臣様」
「嫌だ」
赫臣は子どものように首を振った。
涙で濡れた顔で。
深雪乃は、胸が張り裂けそうになった。
「お願いです」
その一言で、赫臣は動きを止めた。
深雪乃は続ける。
「私が、契約書の鍵でも、白い影の返すものでも、誰かの器でもなく、鵺喰深雪乃として立つために、この矢を持ちます」
「ああ」
「だから、私が私でなくなりそうになったら、呼んでください」
赫臣の目が見開かれる。
「止めろって言うと思ったのか」
「少し」
「馬鹿」
赫臣の声が震えた。
「俺がお前を殺せると思うな」
「そんなことは言っていません」
「同じだ」
「違います」
「違わねえ」
深雪乃は、涙のまま小さく笑った。
「では、呼んでください。何度でも。私の名前を」
赫臣は、胸を押さえるように片手を握った。
「ああ」
「約束です」
「約束する」
「破ったら」
「刺せ」
「今は弓を持っています」
「じゃあ射るな」
「状況によります」
赫臣は泣きながら、また少し笑った。
「本当に、俺の恋人は物騒だな」
「あなたが選んだのです」
「ああ」
赫臣は、深雪乃を見つめた。
「最初に見た時からな」
深雪乃の呼吸が止まった。
赫臣は、涙を流したまま、まっすぐ言った。
「雨の帝都で、お前を見た時から。妖に襲われて、ぼろぼろで、それでも目が死んでなくて。小さくて、震えてて、なのに折れてなくて」
深雪乃の胸が、熱く震える。
「あの時から、ずっとだ」
「赫臣様」
「拾ったからじゃねえ。可哀想だったからでもねえ。俺は、最初に見た時から、お前を離せなかった」
赫臣の声が、深く、優しく、痛かった。
「愛してる。最初に見た時から、ずっと」
深雪乃は、弓を持ったまま泣いた。
立っていなければならないのに。
弦に矢を番えなければならないのに。
涙が止まらなかった。
「愛しています」
深雪乃は言った。
震えながら。
それでも、はっきりと。
「私も、あなたを愛しています」
赫臣は、顔を覆いそうになって、やめた。
彼は深雪乃を見ていた。
見届けようとしていた。
抱きしめたくてたまらないのに、抱きしめないで。
止めたくてたまらないのに、止めないで。
ただ、愛する女が選ぶ姿を見ていた。
深雪乃は、破魔矢を弦へ番えた。
弦が、静かに鳴る。
白い光が、矢尻に灯る。
部屋の空気が震えた。
山本五郎左衛門の家紋が、かすかに軋むような音を立てる。母の鏡が沈丁花の香りを放ち、白藤色の着物の袖が深雪乃の腕に触れる。
赫臣の装身具が一斉に鳴った。
百鬼夜行が反応している。
けれど、赫臣は動かなかった。
ただ、声を出した。
「深雪」
深雪乃の指が弦にかかる。
「深雪乃」
涙で視界が滲む。
けれど、前を見る。
「俺の恋人」
深雪乃は、泣きながら笑った。
「はい」
その返事は、小さかった。
だが、確かだった。
深雪乃は弓を引いた。
まだ放たない。
今は、番えただけ。
選んだだけ。
けれど、その一歩が、もう戻れない境目だった。
赫臣は、泣きながら立っていた。
深雪乃も、泣きながら弓を構えていた。
二人は、互いを愛している。
だから抱きしめたい。
だから止めたい。
だから逃げたい。
けれど、愛しているからこそ、選ばなければならない。
守るだけでは救えない。
縛るだけでは愛ではない。
逃げるだけでは終わらない。
深雪乃は弓を構えたまま、赫臣を見た。
赫臣は、涙に濡れた顔で笑った。
泣きながら。
壊れそうに。
それでも、誇るように。
「愛してる」
彼はもう一度言った。
「俺もだ。最初に見た時から、ずっと」
深雪乃は、その言葉を胸の奥に置いた。
矢の光が、静かに強くなる。
終わらせるための一射が、近づいていた。




