第54話 百鬼夜行への別れ
篝火家の使者が鵺喰家へ到着したのは、夜が落ちきる少し前だった。
帝都の街から戻ったばかりの深雪乃は、まだ白藤色の着物のままでいた。甘味屋の白玉の甘さも、路地で交わした触れるだけの口づけも、胸の奥に薄く残っている。普通になれなかった二人の、短くて痛い幸福。あの時間だけは、鵺喰家の罪も、先祖返り会の沈黙も、白い影の声も、少し遠かった。
けれど、屋敷へ戻れば、夜は待っていた。
鵺喰家の廊下は、昼の帝都よりもずっと暗い。障子の向こうに並ぶ庭木は黒く沈み、古い柱には湿った木の匂いがまとわりついている。遠くで使用人の足音がして、すぐ途切れる。誰もが声を潜めていた。死体と契約書と怪異の気配に慣れた屋敷など、もう家ではない。人間が住む形をした秘密の倉である。
使者は、篝火家の者だった。
若い男ではない。灰色の髪をきっちり後ろへ撫でつけた、痩せた老従者で、黒羽織の襟元には篝火家の小さな紋が入っている。砂笙ほど皮肉げではなく、蓮台ほど無愛想でもない。ただ、篝火家の内側で長く働いてきた者特有の、夜に慣れた静けさがあった。
彼は赫臣の前で膝をつき、黒い封箱を差し出した。
「当主様。ご命令の品をお持ちいたしました」
赫臣は、しばらくその箱を見ていた。
深雪乃は、彼の横顔を見上げる。
赫臣の表情は動かない。
けれど、彼の耳飾りがわずかに鳴った。風もないのに、金属が小さく揺れた。まるで、箱の中身に反応しているようだった。
「下がれ」
赫臣が言う。
老従者は深く頭を下げた。
「百鬼の間は、すでに開けてございます」
「誰も入れるな」
「承知しております」
深雪乃は、その言葉を聞いた。
百鬼の間。
篝火家の屋敷ならまだ分かる。
けれど、ここは鵺喰家だ。
赫臣が連れてきた篝火家の者たちは、いつの間にか鵺喰家の離れの奥に簡易の結界室を作っていた。百鬼夜行の主が一時的に夜行の力へ向き合うための部屋。砂笙はそれを「仮の百鬼の間」と呼んだ。仮で作る部屋にしては名前が重すぎる。世の中にはもっと軽い命名があっていい。
老従者が下がると、赫臣は封箱を持ち上げた。
深雪乃は、思わず声をかけた。
「赫臣様」
「何だ」
「その箱は」
「俺のものだ」
彼の声は低かった。
「正確には、篝火家当主のものだ」
深雪乃は、箱を見つめた。
黒漆の表面に、酒呑童子の角を模した銀細工がある。四隅には細い鎖。中央には赤い石。以前、赫臣が隣室で開いていた封箱と似ている。いや、同じ箱かもしれない。
「百鬼夜行に関わるものですか」
「ああ」
赫臣は隠さなかった。
そのことに、深雪乃は少しだけ胸を締めつけられた。
隠さないことが嬉しい。
けれど、隠さずに言われる内容がいつも重い。まったく、信頼関係というものは、知れば知るほど負担が増える。人はなぜこれを美徳にしたのか。
「俺は、今夜これに向き合う」
「お一人で?」
「本来ならな」
赫臣は深雪乃を見る。
蒼い目が、いつもより暗い。
「でも、お前には見ておいてほしい」
深雪乃は、息を止めた。
「私が?」
「ああ」
「危険ではありませんか」
「危険だ」
「では」
「でも、隠したくねえ」
その言葉で、深雪乃は黙った。
赫臣は、静かに続ける。
「俺の装身具の話を、まだ全部してねえ。百鬼夜行の主って役目の話も。俺が何を抑えて、お前のそばにいるのかも。今夜、見せる」
「なぜ、今なのですか」
赫臣は少しだけ目を伏せた。
「逃げねえって決めたからだ」
深雪乃の胸が揺れる。
「昨日、私たちは逃げないと決めました」
「ああ。帝都でも、ただの人間だったらって話をした」
「はい」
「あの後、ずっと考えてた」
赫臣の指が、封箱の鎖へ触れる。
「俺は、お前に普通をやれねえ。百鬼夜行の主である限り、ただの男にはなれねえ。なら、せめて俺が何に縛られているのか、お前に隠したまま抱きしめたくねえ」
深雪乃は、ゆっくり息を吸った。
痛い。
けれど、逃げたくない痛みだった。
「分かりました」
赫臣の目が、わずかに揺れる。
「見るのか」
「見ます」
「怖いぞ」
「はい」
「俺も、怖い」
正直な声だった。
深雪乃は、彼の手へそっと触れた。
「では、一緒に怖がります」
赫臣が、泣きそうに笑った。
「お前、本当に強いな」
「強くありません」
「強い」
「強いのなら、こんなに何度も泣きません」
「泣けるのも、強さだろ」
「あなたは時々、ずるいことを言います」
「本気だ」
赫臣は、深雪乃の指先へ短く口づけた。
「行くぞ」
百鬼の間は、離れの最奥にあった。
普段は使われていない小部屋を、篝火家の術師たちが短い時間で作り替えたのだという。障子はすべて外され、内側に黒い布が垂らされている。床には円形の退魔陣が描かれ、その外周に小さな銀の杭が十二本打ち込まれていた。天井からは細い鎖が何本も垂れ、それぞれに小さな鈴が結ばれている。
行灯はない。
部屋の明かりは、退魔陣の線そのものが発する薄い赤い光だけだった。
砂笙が入口で待っていた。
「旦那様。深雪乃様も入られるのですか」
「ああ」
「危険です」
「分かってる」
「旦那様がお決めになったなら、止めませんが」
砂笙は、そこで深雪乃を見た。
「深雪乃様。何が見えても、旦那様から離れないでください。百鬼夜行は主の命に従いますが、主の感情にも反応します」
深雪乃は頷いた。
「分かりました」
「いえ、恐らく分かっておられません」
砂笙の声は静かだった。
「百鬼にとって、守ることと閉じ込めること、愛することと喰らうこと、従うことと所有することは、人ほど綺麗に分かれておりません。旦那様が深雪乃様を愛しているほど、百鬼はあなたを見ます」
深雪乃の喉が冷えた。
赫臣が低く言う。
「砂笙」
「必要な説明です」
砂笙は引かなかった。
「旦那様の口から言えないなら、私が言います」
赫臣は苦い顔をした。
深雪乃は、砂笙を見た。
「私は、赫臣様のそばにいます」
「それが一番危険で、一番安全です」
「難しいですね」
「ええ。実に面倒です」
砂笙の表情は変わらなかったが、深雪乃には、それが心配の言葉なのだと分かった。
部屋の中へ入ると、空気が変わった。
寒くはない。
むしろ、熱がある。
だが、その熱は火の温もりではなかった。夜の中に多くの目が開いているような、肌の上を無数の視線が撫でるような感覚。深雪乃は、思わず赫臣の袖を掴んだ。
赫臣はすぐに気づく。
「怖いか」
「はい」
「出るか」
「出ません」
「そう言うと思った」
「では、聞かなくても」
「聞く」
赫臣は、封箱を退魔陣の中央へ置いた。
それから、深雪乃へ向き直る。
「少し離れて見ていろ」
深雪乃は首を横に振った。
「離れません」
「深雪」
「砂笙様が、離れるなと」
「この場合は少し」
「あなたは都合よく解釈しますね」
赫臣は一瞬だけ困った顔をした。
それから、小さく笑う。
「じゃあ、ここにいろ」
彼は深雪乃を退魔陣の外側、入口に近い場所へ立たせた。
自分は陣の中央へ戻る。
封箱の鎖に、指輪を一つ触れさせた。
赤い石が光る。
箱が開いた。
中には、いくつもの装身具が入っていた。
深雪乃がいつも見ているものと似ている。
だが、少し違う。
古い。
重い。
金属が黒ずみ、石の色は深く沈んでいる。耳飾り、舌に通す小さな鋲、指輪、腕輪、足首飾り。どれもただの飾りではないことが、見ただけで分かった。
部屋の鈴が、一斉にかすかに鳴った。
赫臣の装身具も応えるように音を立てる。
耳元のピアスが、細かく震えた。
「まず、耳だ」
赫臣が言った。
声は低い。
深雪乃へ説明するための声だった。
「百鬼夜行の主は、百鬼の声を聞く。聞きたくなくても聞こえる。夜が深くなるほど、声は増える。従え、呼べ、喰え、殺せ、守れ、奪え、燃やせ。百の鬼が百の言葉で囁く」
赫臣は、耳飾りの一つへ触れた。
赤い石のついたピアス。
「このピアスは、声を分ける。ひとつの耳に全部流れ込まないように、百鬼の声を散らす。俺が俺の声を見失わないためのものだ」
深雪乃は、彼の耳を見る。
二十を超えるピアス。
派手だと思っていた。
色男の飾りだと思っていた。
けれど、それは赫臣が百鬼の声に呑まれないための退魔具だった。
次に、赫臣は舌の鋲へ触れた。
深雪乃は、思わず息を止めた。
「舌は、名を縫う」
赫臣の声が、少しだけ響きを変える。
「百鬼夜行は、名で動く。俺が本気で呼べば、来る。俺が命じれば、動く。けど、喉が開きすぎれば、呼ぶつもりのないものまで呼ぶ。この舌ピアスは、俺の言霊を縫い留める」
彼は、淡く笑った。
苦い笑みだった。
「甘い言葉ばっか吐いてるように見えるだろ」
「……はい」
「否定しねえんだな」
「事実ですので」
「そうだな」
赫臣は少し笑ったが、すぐ真顔に戻る。
「でも、この舌が百鬼の名を漏らせば、人の街に夜行が出る。だから縫ってる」
深雪乃の胸が締めつけられた。
彼の「可愛い」も、「大好きだ」も、「愛してる」も、その舌から出る。
同じ舌が、百鬼を呼び、夜を動かす力を持っている。
深雪乃は、その重さを初めて具体的に知った。
赫臣は、指輪を一つ外した。
部屋の鈴が強く鳴る。
同時に、退魔陣の外側の影が濃くなった。
深雪乃は息を呑む。
黒い影の中に、何かの目が見えた気がした。
人ではない。
獣でもない。
鬼のようで、妖のようで、影そのもののようなもの。
赫臣がすぐに指輪をはめ直した。
影は薄れる。
「指輪は、道を閉じる」
彼は言った。
「霊糸の起点でもあるが、それだけじゃねえ。百鬼夜行が俺の手から外へ出る道を塞いでる。俺が霊糸を使う時、百鬼の道も一瞬開きかける。だから指輪で分けてる」
深雪乃は、自分の手を見た。
これまで何度も、その指輪のある手に触れられた。
頬を包まれた。
涙を拭われた。
抱き上げられた。
口づけられた。
その手は、百鬼の道を閉じていた。
「腕輪は?」
深雪乃が、小さく問う。
赫臣は、自分の腕輪へ触れた。
「腕輪は力を逃がす。酒呑童子の血は、怒りや愛や欲で妖気が跳ねる。俺が深雪を守りたいと思うと、それだけで百鬼が動こうとする。腕輪はその力を受けて、外へ散らす」
「愛でも、ですか」
「ああ」
赫臣は、深雪乃を見た。
「愛でもだ」
深雪乃の胸が痛くなる。
赫臣が深雪乃を愛するほど、百鬼は動こうとする。
守る。
囲う。
隠す。
奪う。
そのすべてを、赫臣は腕輪で抑えていた。
足首飾りが鳴る。
赫臣は、足元へ視線を落とした。
「足首飾りは、影を地に縫う。百鬼夜行は歩く。主が一歩踏み出せば、夜も一歩動く。俺が何も考えずに深雪のところへ向かうだけで、夜行が背中についてくることがある」
深雪乃は、息を止めた。
赫臣が深雪乃へ近づく。
そのたびに、百鬼夜行も動く可能性がある。
彼はただ恋人のところへ行くことすら、封じを必要としていた。
「だから、足首に繋ぐ。俺の影が勝手に伸びないように」
赫臣は、首飾りへ触れた。
「首飾りは、鬼の核を心臓へ戻す。怒りで鬼が前に出すぎた時、俺が俺に戻るための楔だ」
深雪乃の目に、赫臣の全身が映る。
耳。
舌。
指。
腕。
足首。
首。
すべてが、彼を飾っているのではなく、彼を止めている。
彼の力を隠すためだけではない。
彼の責務を支えるため。
百鬼夜行を人の世へ溢れさせないため。
彼が赫臣という男であり続けるため。
深雪乃の喉が、熱くなった。
「赫臣様」
「何だ」
「重すぎます」
赫臣は、少しだけ目を伏せた。
「慣れてる」
「慣れていい重さではありません」
「でも、俺の役目だ」
「いつから」
「物心ついた頃から」
深雪乃の胸が痛む。
物心ついた頃から。
彼は百鬼夜行の主として育った。
耳には声が入り、舌は名を縫い、指は道を閉じ、腕は力を逃がし、足首は影を縫い、首は鬼の核を繋いだ。
彼が笑っていた時も。
煙管をふかしていた時も。
甘い言葉を投げていた時も。
深雪乃を可愛いと呼んでいた時も。
すべての下に、この重さがあった。
退魔陣の赤い光が、少し強くなった。
部屋の奥の影が揺れる。
深雪乃は、そこにいくつもの気配を感じた。
形はない。
だが、いる。
百鬼。
赫臣の背後にいる夜行。
それらが、主を見ている。
そして、深雪乃を見ている。
赫臣が、影へ向き直った。
「聞け」
声が変わった。
甘い男の声ではない。
篝火家当主の声。
百鬼夜行の主の声。
その一語で、部屋の影が静まった。
「俺は、お前らを捨てねえ」
赫臣は言った。
「だが、深雪を閉じ込めるためには使わせねえ。守ることと囲うことを履き違えるな。愛と所有を混ぜるな。深雪は百鬼の祭具じゃねえ。俺の恋人だ」
深雪乃の胸が強く鳴った。
恋人。
その言葉が、百鬼夜行へ向けて告げられた。
赫臣は続ける。
「深雪を守る。だが、深雪を俺の夜行へ沈めねえ。俺の愛を、お前らの檻にはしねえ」
影がざわめく。
鈴が鳴る。
耳飾りが激しく揺れる。
赫臣の腕輪が赤く熱を持った。
深雪乃は、思わず一歩踏み出す。
砂笙が入口で息を呑んだ気配がした。
だが、止めなかった。
深雪乃は、退魔陣の境まで近づいた。
「赫臣様」
赫臣は振り返らない。
「来るな」
「命令ですか」
「頼む。今は来るな」
声が少し苦しかった。
深雪乃は、足を止めた。
赫臣の背中が見える。
広い背。
強い背。
けれど今は、孤独な背だった。
百鬼夜行の主として、彼は一人で影に向き合っている。
深雪乃は、胸が痛くてたまらなくなった。
「赫臣様」
「深雪」
「私は、ここにいます」
赫臣の背が、わずかに震えた。
「あなたの百鬼夜行には沈みません。でも、あなたが一人で百鬼夜行に飲まれるのも嫌です」
影が、深雪乃の声に反応したように揺れる。
赫臣の舌ピアスが鈍く光った。
「私は、あなたの恋人です」
言った瞬間、赫臣が息を止めた。
深雪乃の声も震えていた。
けれど、言った。
「だから、あなたが私を檻にしないのなら、私もあなたを孤独な主のままにはしません」
赫臣の肩が震える。
百鬼の気配が一瞬強くなる。
赫臣は、低く唸った。
「黙れ」
それは深雪乃へではない。
百鬼へ向けた声だった。
「俺の深雪を見るな」
影が一斉に退く。
強い。
荒い。
けれど、赫臣はすぐに舌の鋲を噛んだのか、声を抑えた。
「違う」
彼は自分に言うように呟いた。
「見るなじゃねえ。喰うな。奪うな。閉じ込めるな。だが、覚えろ」
赫臣は、百鬼へ命じた。
「深雪乃は、俺が選んだ女だ。守る。だが、俺のものとして囲うんじゃねえ。一人の女として、俺が守る」
深雪乃の目から、涙がこぼれた。
理由は一つではなかった。
赫臣の重さを知ったから。
彼が自分の愛すら百鬼の檻にしないよう戦っているから。
彼が百鬼夜行の主でありながら、ただ一人の女の意志を守ろうとしているから。
そして、そのすべてがあまりにも苦しくて、愛しかったから。
退魔陣の光が、ゆっくり落ち着いていく。
鈴の音が静まる。
影が薄れる。
赫臣の装身具が、最後に小さく鳴った。
封箱の中の古い装身具も、静かになっていた。
赫臣はしばらく動かなかった。
やがて、ゆっくり振り返る。
顔色が悪い。
汗が額に滲んでいる。
それでも、彼は立っていた。
深雪乃は、もう我慢できなかった。
退魔陣の線を踏まないよう、慎重に回り込んで、赫臣のもとへ行く。
赫臣が、止めようとした。
「深雪、まだ」
「もう嫌です」
深雪乃は、彼の胸へ飛び込むように身を寄せた。
赫臣の腕が、反射的に彼女を受け止める。
背の傷を避ける。
こんな時でも。
そのことに、深雪乃はさらに泣いた。
「深雪」
赫臣の声が、驚きと痛みに揺れる。
深雪乃は、彼の胸に顔を押しつけた。
涙が着物に染みる。
「重すぎます」
「ああ」
「あなたは、ずっとそんなものを」
「ああ」
「平気な顔をして」
「平気じゃねえよ」
赫臣の手が、深雪乃の髪へ触れた。
優しく撫でる。
何度も。
根元から毛先へ。
黒髪を梳くように。
「平気じゃねえ。でも、俺の役目だ」
「役目でも、重いものは重いです」
「そうだな」
「あなたは、もっと怒っていいです」
「怒ってる」
「もっとです」
「お前が泣いてるから、今は無理だ」
深雪乃は、涙で濡れた顔を上げた。
「私のせいにしないでください」
「してねえ」
「しています」
「少しした」
「最低です」
「悪い」
赫臣は、泣いている深雪乃の頬へ手を添えた。
指が涙を拭う。
その手が震えている。
「深雪」
「はい」
「怖くなかったか」
「怖かったです」
「そうか」
「でも、あなたの方が怖かったです」
「俺が?」
「あなたが、ずっと一人でそれを背負っていたことが」
赫臣の顔が、くしゃりと歪んだ。
深雪乃は、彼の首飾りに触れた。
「これも」
耳飾りへ視線を向ける。
「これも」
指輪へ。
「これも」
腕輪へ。
「これも」
足首飾りへ。
「全部、あなたを縛っていたのですね」
「留めてた」
赫臣は、低く訂正した。
「縛ってもいた。けど、留めてもいた。俺が俺でいるために」
深雪乃は頷いた。
「では、嫌いにはなりません」
「深雪」
「ただ、重すぎて泣きます」
赫臣は、泣きそうに笑った。
「それは困る」
「困ってください」
「可愛い」
「今言うことですか」
「泣いてても可愛い」
「最低に聞こえます」
「泣かせたいわけじゃねえ」
「知っています」
赫臣は、深雪乃の額へ口づけた。
短く。
それから、瞼へ。
涙で濡れた頬へ。
唇へ。
深雪乃は、泣きながらそれを受けた。
口づけは、最初は優しかった。
慰めるように。
けれど、赫臣自身も慰められているのが分かった。彼は深雪乃の髪を撫で、頬を包み、何度も彼女の名前を呼んだ。
「深雪」
「はい」
「深雪乃」
「はい」
「俺の恋人」
深雪乃の涙がまた落ちる。
「はい」
赫臣の唇が、もう一度重なる。
今度は少し深い。
けれど、奪うためではない。
百鬼夜行へ別れを告げた後、自分がまだ一人の男でいられるか確かめるような口づけだった。
深雪乃は、彼の着物を掴んだ。
「赫臣様」
「何だ」
「私は、あなたの百鬼夜行にはなれません」
「ああ」
「あなたの責務を代わりに背負うこともできません」
「ああ」
「でも、あなたがそれを背負っていることを、知らないまま隣にはいたくありません」
赫臣の目が揺れる。
「もう、知った」
「はい」
「後悔してるか」
「していません」
「怖いだろ」
「怖いです」
「それでも?」
「それでも」
深雪乃は、彼の胸へ額を寄せた。
「あなたがいいです」
赫臣の腕が、深くなる。
痛くはない。
震えている。
「深雪」
「はい」
「俺は、お前を百鬼夜行の檻にしねえ」
「はい」
「守る。でも、閉じ込めねえ」
「はい」
「俺のものだって言いたくなる」
「それは知っています」
「でも、言葉を間違えたら刺せ」
「分かりました」
「いや、本当に刺すな」
「状況によります」
「怖えな」
「あなたの恋人ですので」
赫臣は、少しだけ目を見開いた。
それから、ひどく嬉しそうに、苦しそうに笑った。
「もう一回」
「言いません」
「深雪」
「言いません」
「頼む」
「調子に乗らないでください」
「乗った」
「早いです」
深雪乃は涙の跡が残る顔で、少しだけ笑った。
赫臣は、その笑みを見て、また泣きそうな顔になった。
そして、何度も口づけた。
額へ。
頬へ。
瞼へ。
髪へ。
唇へ。
深雪乃は、もう抗議しなかった。
百鬼の間の赤い光の中で、彼の装身具が静かに鳴る。その音は、もうただの鎖ではなかった。重い。痛い。けれど、赫臣をこの世に留める音でもあった。
深雪乃は、その音を聞きながら、彼の胸で泣いた。
赫臣は、髪を撫で続けた。
何度も、何度も。
まるで、百鬼夜行へ向けた声の強さを、今度は深雪乃へ優しさとして返すように。
「深雪」
「はい」
「俺は、百鬼を捨てられねえ」
「はい」
「でも、百鬼のためにお前を捨てることもしねえ」
「はい」
「百鬼夜行の主でいる。でも、お前の前では、ただ赫臣でいたい」
深雪乃は、涙の残る目で彼を見上げた。
「ただの人間ではなくても?」
「ああ」
「酒呑童子の先祖返りでも?」
「ああ」
「百鬼夜行の主でも?」
「ああ」
「それでも、赫臣様は赫臣様です」
赫臣の顔が、静かに崩れた。
彼は何も言わず、深雪乃を抱きしめた。
百鬼の間の奥で、鈴が一つだけ鳴った。
それは別れの音のようにも、承認の音のようにも聞こえた。
百鬼夜行への別れ。
完全に捨てることではない。
主であることを捨てるのではない。
ただ、深雪乃を夜行の一部にしないと決めること。
自分の愛を百鬼の檻にしないと決めること。
守ることと縛ることを、二度と同じものにしないと誓うこと。
赫臣は、その境目に立った。
深雪乃は、その重さを知った。
知って、泣いた。
泣きながらも、彼の胸から離れなかった。
そして赫臣は、彼女の髪を撫で、涙を拭い、何度も何度も口づけた。
百鬼の声が静まるまで。
夜が深くなるまで。
自分がまだ、深雪乃を愛する一人の男でいられると確かめるまで。




