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人間臭いと蔑まれた不死身の娘は、百鬼夜行の主に愛される  作者: なつめ


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第53話 ただの人間だったら


 帝都の街は、鵺喰家の屋敷よりもずっと明るかった。


 空は薄く晴れていた。


 前夜の雨は明け方には上がり、石畳の隙間にだけ水が残っている。路面を走る市電の車輪が、時折その水を小さく弾いた。遠くで鐘が鳴り、人力車の車夫が声を張り、洋装の紳士が新聞を小脇に抱えて歩いていく。女学生らしい娘たちが袴の裾を揺らしながら笑い、店先では焼き菓子の甘い匂いと、濡れた舗道の匂いが混ざっていた。


 深雪乃は、赫臣の隣を歩いていた。


 今日、彼女は淡い白藤色の着物を着ていた。


 母の着物そのものではない。篝火家から届けられた新しいものだった。赫臣が、深雪乃に似合うと勝手に用意した。勝手ではあるが、色は悔しいほどよく似合っている。人間も鬼も、余計なことをするときだけ妙に的確なことがある。大変腹立たしい。


 帯は控えめな銀鼠色。


 髪はいつもより丁寧に梳かれ、深雪乃の黒髪が背へ真っ直ぐ落ちていた。母の櫛はまだ折れたままだから、別の櫛を使った。けれど鏡の前で髪を整える時、深雪乃は一度だけ手を止めた。


 赫臣は何も言わなかった。


 ただ、背後から髪に触れ、「綺麗だ」とだけ言った。


 それがあまりにも自然だったので、深雪乃は返事に困った。


 今も、赫臣は隣にいる。


 人混みの中で、彼は少しだけ歩幅を落としていた。深雪乃の小さな歩みに合わせている。身長差があるのに、無理に引かない。だが、近い。肩が触れそうなほど近い。


 彼の耳飾りが、昼の光の中で揺れている。


 金、銀、赤い石、黒い石、小さな環。


 それらがただの洒落ではなく、退魔具であり、封具であり、百鬼夜行の主を人の形へ留める鎖だと知ってしまった今、深雪乃にはその音が以前とは違って聞こえた。


 きれいだ。


 けれど、重い。


 赫臣の装身具は、街の光の中では華やかに見える。


 誰かが振り返る。


 若い娘が小さく目を見張り、友人の袖を引いた。商家の若旦那らしい男が、赫臣の派手な姿と、その隣の小柄な深雪乃を見て、すぐ目を逸らす。赫臣の妖気を感じたわけではないだろう。それでも、この男はただ者ではないと、本能の端で分かるのだ。


 深雪乃は、それを見て少しだけ苦くなる。


 どこへ行っても、赫臣は普通には見えない。


 彼もまた、普通から遠い。


「疲れてねえか」


 赫臣が聞いた。


「まだ歩き始めたばかりです」


「それでも聞く」


「過保護です」


「否定しねえ」


「してください」


「無理だ」


「なぜですか」


「お前に関しては、俺は過保護だ」


 深雪乃は、横目で彼を見た。


「開き直りましたね」


「嘘ついても刺される」


「便利な覚え方をしないでください」


「役に立つ」


「役立てないでください」


 赫臣は少し笑った。


 その笑みが、街の光の中では少し若く見えた。


 深雪乃は、その顔を見て胸が痛くなった。


 もし彼が、篝火家当主ではなかったら。


 酒呑童子の先祖返りではなかったら。


 百鬼夜行の主ではなかったら。


 装身具を封具として身につける必要もなく、鬼血が誰かの封を揺らすこともなく、ただ背の高い、少し派手で、口の甘い男として帝都を歩いていたら。


 深雪乃は、何も知らずに彼と出会えただろうか。


 くだらない想像だった。


 けれど、一度浮かぶと消えなかった。


 通りの向こうから、学校帰りの若者たちが歩いてきた。


 詰襟の学生服に、少し大きな鞄。


 彼らは三人連れで、何やら声をひそめて笑っている。内容は聞こえない。試験のことか、教師の悪口か、誰かの恋文の話か。ひとりが手にした本を奪われそうになり、慌てて胸に抱え込んだ。友人たちが笑う。本人も怒ったふりをしながら、笑っている。


 深雪乃は、足を少し止めた。


 学生たちは、深雪乃たちの前を通り過ぎていく。


 誰も、彼らを見張っていない。


 誰も、契約書の中へ彼らを閉じ込めていない。


 彼らは、ただ学生だった。


 明日も学校へ行くのだろう。


 退屈だと文句を言いながら、授業を受け、友人と話し、帰りにどこかへ寄る。そういう時間を、当然のように持っている。


 深雪乃は、少しだけ唇を引き結んだ。


「深雪」


 赫臣が呼ぶ。


「何でもありません」


「嘘だな」


「嘘ではありません」


「じゃあ、何を見てた」


「学生さんたちを」


 赫臣は、通り過ぎる若者たちへ視線を向けた。


「学校か」


「はい」


「行きたかったのか」


 深雪乃は、すぐには答えなかった。


 行きたかった。


 その言葉は、少し違う。


 深雪乃は、学校というものを自分の人生にあるものとして想像したことがなかった。鵺喰家で雑用を押しつけられ、蔵へ閉じ込められ、母の遺品を隠され、相続から排除されることが、彼女の日常だった。学ぶことも、本を読むことも、自由に外へ出ることも、深雪乃のためには用意されなかった。


「行きたかったのかは、分かりません」


 深雪乃は正直に答えた。


「ただ、ああいう日常が私にもあるものだとは、思ったことがありませんでした」


 赫臣の顔が少し痛む。


「深雪」


「同情しないでください」


「する」


「しないでください」


「無理だ」


「あなたは本当に、無理が多いですね」


「お前のことだと多い」


 深雪乃は、ほんの少しだけ息を吐いた。


 怒るほどではなかった。


 赫臣の同情は、深雪乃を見下ろすものではない。痛みを一緒に見てしまう男の顔だった。


 それが、時々苦しい。


 二人はまた歩き出した。


 通りには、洋傘を差す娘がいた。


 雨は降っていない。


 日差しも強くない。


 それでも、その娘は淡い生成りの洋傘を差し、白い手袋をした手で柄を持っている。隣には同じ年頃の友人がいて、二人で店先の飾り窓を覗き込んでいた。リボン、手袋、香水瓶、小さな硝子の髪飾り。娘たちはそれを見ながら、楽しそうに話している。


 深雪乃は、無意識に自分の髪へ触れた。


 母の髪飾りの欠片。


 北蔵の血のそばに落ちていたもの。


 それを思い出してしまう。


 誰かが楽しそうに髪飾りを選ぶ光景を見て、母の遺品の欠片を思い出す。自分の心の癖が、少し悲しかった。


 赫臣が、店先を見た。


「欲しいのか」


「違います」


「買うぞ」


「違います」


「全部でもいい」


「話を聞いてください」


「聞いてる」


「聞いていません」


 赫臣は真顔だった。


 本当に買う気だったのだろう。そういうところが怖い。権力と財力と恋愛感情が組み合わさると、判断が雑になる。人類社会にも鬼社会にも良くない。


「欲しいものがあれば、自分で言います」


 深雪乃が言うと、赫臣は少しだけ目を細めた。


「言うのか」


「……言う努力はします」


「努力か」


「今は、それで許してください」


「許す」


 赫臣は、深雪乃の手を取った。


 通りの中で。


 深雪乃は少しだけ身を固くした。


 人目がある。


 だが、赫臣は気にしない。


 彼はいつだって気にしない。気にしてほしい時ほど気にしない。困った男である。


「赫臣様」


「何だ」


「人が見ています」


「見せておけ」


「困ります」


「俺は困らねえ」


「私は困ります」


 赫臣は深雪乃を見下ろした。


「嫌か」


 その一言で、深雪乃は少しだけ黙った。


 嫌ではない。


 それが困る。


「嫌ではありません」


 小さく答えると、赫臣の顔が明らかに緩んだ。


「調子に乗らないでください」


「もう遅い」


「早すぎます」


 赫臣は手を離さなかった。


 深雪乃も、離せとは言わなかった。


 甘味屋の前を通ると、店の中から甘い匂いがした。


 焼いた餅、蜜、餡、温かい茶。


 暖簾の向こうでは、若い男女が向かい合って座っていた。恋人同士だろうか。男の方が少し緊張した顔で、女の前へ小さな皿を押し出している。女は笑い、遠慮しながらも匙を取った。


 それだけの光景だった。


 何も特別ではない。


 けれど、深雪乃は目を離せなかった。


 甘味屋へ入る恋人たち。


 何でもない日。


 誰も死んでいない日。


 契約書も、封じも、白い影もない時間。


 赫臣が、深雪乃の視線を追った。


「入るか」


「いいのですか」


「いいに決まってる」


「調査は」


「今日くらい、甘味屋へ入ったところで世界は滅びねえ」


「あなたが言うと、本当に滅びそうな気がします」


「俺を何だと思ってる」


「百鬼夜行の主です」


「正しいな」


「否定してください」


「できねえ」


 深雪乃は、少しだけ笑った。


 本当に少しだけ。


 赫臣は、その笑いを見て、表情を止めた。


「何ですか」


「今、笑った」


「笑いました」


「可愛い」


「それは不要です」


「必要だ」


「不要です」


「俺には必要だ」


「便利ですね」


 それでも、深雪乃は甘味屋へ入った。


 店の中は温かかった。


 畳敷きの小上がりと、洋風の椅子席が混ざっている。時代が無理やり一つの店に座っているようで、少し可笑しい。壁には季節の菓子の札がかかり、店員の娘が明るい声で客を迎えていた。


 赫臣が入ると、店内の何人かが振り返った。


 当然だ。


 背が高く、金髪で、蒼い目で、耳飾りがいくつも揺れる男。しかも和服を崩して着ている。目立たないはずがない。隣にいる深雪乃は小柄で、白藤色の着物を着ている。二人の差は、どうしても視線を引いた。


 赫臣はまったく気にしなかった。


 深雪乃だけが少し居心地悪くなる。


 席に座ると、赫臣はすぐに品書きを見た。


「何がいい」


「赫臣様が選んでください」


「全部」


「すぐそうなりますね」


「じゃあ、半分」


「店が困ります」


「困らせない量にする」


「最初からそうしてください」


 結局、二人は白玉ぜんざいと、抹茶と、季節の小さな菓子を頼んだ。


 白玉ぜんざいが運ばれてくると、湯気と甘い匂いが広がった。


 深雪乃は匙を取る。


 赫臣は、それを見ている。


「また見ています」


「見たい」


「食べにくいです」


「じゃあ、食わせる」


「なぜそうなるのですか」


「俺がしたい」


「いつもの理屈です」


 深雪乃は少しだけ呆れた。


 だが、今日は怒る気になれなかった。


「一口だけです」


 許した瞬間、赫臣の顔が緩んだ。


 深雪乃は、もう少し威厳を持ってほしいと思った。百鬼夜行の主が、白玉一口でそんな顔をするものではない。いや、するのだろう。この男は、深雪乃に関しては本当に節操がない。


 赫臣が匙で白玉をすくい、少し冷ましてから深雪乃の口元へ運ぶ。


 深雪乃は、目を伏せて食べた。


 甘い。


 温かい。


 その甘さが、胸に沁みた。


「美味いか」


「はい」


「よかった」


「あなたが作ったわけではありません」


「でも、食わせた」


「威張るところではありません」


 赫臣は笑った。


 深雪乃は、自分でもう一口食べた。


 店の中では、他の客たちが普通に話している。誰かの縁談の話。学校の話。新しい洋服店の噂。市電が遅れたことへの文句。どれも、深雪乃たちの問題に比べればささやかだった。


 けれど、そのささやかさが羨ましかった。


 人は、自分にとって当然のものがどれだけ尊いか、失わないと分からない。実に非効率な生き物である。


 深雪乃は、店の窓から外を見た。


 通りを、手を繋いだ恋人たちが歩いていく。


 女は笑っている。


 男は少し照れた顔をしている。


 その後ろを、買い物帰りの母親と子どもが通り過ぎる。子どもが菓子屋の方を指さし、母親が困ったように笑う。


 普通の日常。


 深雪乃が選べなかったもの。


 赫臣も選べなかったもの。


 深雪乃は、匙を置いた。


「深雪」


 赫臣がすぐに気づく。


「どうした」


「少し、外を歩きたいです」


「ああ」


 店を出ると、空気は少し冷えていた。


 夕方が近づいている。


 帝都の街は、昼の賑やかさから夜の灯りへ移る途中だった。街灯に火が入り始め、店先の暖簾が風に揺れる。遠くで市電の音がし、馬車の蹄が石畳を叩く。


 二人は、人の多い通りから少し外れた道を歩いた。


 表通りの華やかさが少し遠ざかり、古い煉瓦塀と細い路地が続く場所へ出る。路地の奥には、使われていない井戸と、苔の生えた石段があった。人の気配はない。


 深雪乃は、そこで立ち止まった。


 赫臣も止まる。


 表通りの笑い声が、遠くに聞こえる。


 学校帰りの若者たち。


 洋傘を差す娘。


 甘味屋へ入る恋人たち。


 普通の日常。


 自分たちが選べなかったもの。


 深雪乃は、路地の壁に伸びる夕方の影を見つめた。


「赫臣様」


「何だ」


「もし、あなたが篝火家の当主ではなかったら」


 赫臣は黙っていた。


 深雪乃は続ける。


「百鬼夜行の主ではなく、酒呑童子の先祖返りでもなく、先祖返り会の第一位でもなく、ただの人だったら」


 赫臣の装身具が、風に小さく鳴る。


「私は、鵺喰家の契約書に書かれた鍵ではなく、不死身でもなく、母の血や白い影に縛られず、ただの人だったら」


 声が少しだけ震えた。


 言ってはいけないことではない。


 けれど、言えば戻れなくなる気がした。


 深雪乃は、赫臣を見上げた。


 彼の蒼い目は、夕方の光の中で少し暗く見えた。


「――お互い、ただの人間だったらよかったのに」


 言った瞬間、胸がひどく痛んだ。


 それは願いだった。


 叶わない願い。


 生まれ直さなければ届かない願い。


 いや、生まれ直しても、同じ時代、同じ街、同じ人として出会える保証などどこにもない。普通を願うことすら、贅沢なのかもしれなかった。


 赫臣は、何も言わなかった。


 ただ、深雪乃を見ていた。


 その顔が、ゆっくり歪む。


 泣きそうに。


 けれど、笑おうとして。


 結局、どちらにもなりきれない顔で。


「そうだな」


 声が、低くかすれていた。


「ただの人間だったら」


 赫臣は、深雪乃へ手を伸ばした。


 触れる前に止める。


「触っていいか」


 深雪乃は、小さく頷いた。


 赫臣の手が、深雪乃の頬に触れる。


 路地には誰もいない。


 表通りの喧騒は遠い。


 二人だけが、夕方と夜の境目に立っている。


「俺がただの男で」


 赫臣が言う。


「お前がただの女で」


 深雪乃の喉が熱くなる。


「学校帰りの連中みたいに、くだらねえことで笑って。洋傘見て、似合う似合わねえって言って。甘味屋で白玉食って」


「あなたは、きっと私に食べさせようとします」


「するだろうな」


「ただの人間でも?」


「ああ。俺はたぶん、ただの人間でも調子に乗る」


 深雪乃は、少し笑った。


 泣きそうな笑いだった。


「困った人ですね」


「お前に怒られる」


「怒ります」


「それで、俺はまた口づける」


「ただの人間でも、ですか」


「ただの人間なら、もっと気楽にできたかもな」


 赫臣の親指が、深雪乃の頬を撫でる。


「隠し事も、鬼血も、百鬼夜行も、封も、白い影もなく」


 彼の声が、苦くなる。


「ただ好きだって言えたかもしれねえ」


 深雪乃の目に涙が滲んだ。


「今も、言っています」


「今の好きは、重すぎる」


「はい」


「痛いだろ」


「はい」


「それでも、好きだ」


 赫臣の顔が近づく。


 けれど、彼はまだ口づけない。


 深雪乃を待っている。


 深雪乃は、彼の着物の袖を掴んだ。


「私も」


 赫臣の目が揺れる。


「私も、あなたが好きです」


 その言葉は、路地の静けさに溶けた。


 激しい告白ではなかった。


 泣き叫ぶようなものでもない。


 ただ、ずっと胸の奥で重くなっていたものを、そっと置くような声だった。


 赫臣の顔が、今度こそ崩れそうになる。


「深雪」


「はい」


「今、ここが路地じゃなかったら、たぶん膝をついていた」


「やめてください」


「たぶん抱き上げてる」


「ここでもやめてください」


「可愛い」


「それは、もう聞きました」


「何度でも言う」


「調子に乗らないでください」


「無理だ」


 赫臣は、泣きそうに笑ったまま、深雪乃へ顔を寄せた。


 口づけは、激しくなかった。


 本当に、触れるだけだった。


 唇がそっと重なる。


 ほんの短い。


 深く奪うわけでも、呼吸を乱すわけでもない。


 ただ、そこにいることを確かめるだけの口づけ。


 それが、ひどく痛かった。


 激しい口づけなら、感情の勢いで隠せたかもしれない。


 深い熱なら、苦しさを一瞬忘れられたかもしれない。


 けれど、この口づけは静かだった。


 だから、全部が分かってしまう。


 二人は普通にはなれない。


 ただの人間にはなれない。


 赫臣は百鬼夜行の主で、深雪乃は契約書に書かれた鍵で、不死身の身体を持ち、白い影に返せと呼ばれている。


 それでも、今ここで触れ合っている。


 普通になれなかった二人が、普通の恋人たちのように、誰もいない路地で短い口づけをしている。


 それが幸福だった。


 そして、痛かった。


 唇が離れる。


 赫臣は、額を深雪乃の額へ触れさせた。


「深雪」


「はい」


「ただの人間じゃなくて悪い」


 深雪乃は、涙をこぼした。


「謝らないでください」


「でも」


「私も、ただの人間ではありません」


「ああ」


「それでも、あなたに会えてよかったと思っています」


 赫臣の呼吸が止まる。


 深雪乃は、涙を拭わずに続けた。


「そう思うことまで、罪にしたくありません」


 赫臣の手が、深雪乃の頬を包む。


「罪じゃねえ」


「はい」


「俺も、お前に会えてよかった」


 赫臣の声は、低く震えていた。


「どれだけ苦くても、怖くても、疑っても、隠しても、俺はお前に会えてよかった」


 深雪乃は、目を閉じた。


 もう一度、唇が触れた。


 先ほどと同じように、触れるだけ。


 それでも、二度目は涙の味がした。


 甘味屋の白玉の甘さが、まだ舌の奥に残っている。


 そこへ涙の塩気が混ざる。


 甘くて痛い。


 まるで、今日一日そのものだった。


 表通りから、若い笑い声が聞こえた。


 誰かが走っていく足音。


 店の暖簾が揺れる音。


 市電の鐘。


 普通の街の音。


 深雪乃は、その音を聞きながら、赫臣の袖を掴んでいた。


「戻りましょう」


 深雪乃が言うと、赫臣は少しだけ目を伏せた。


「戻るのか」


「はい」


「このまま、もう少し」


「戻ります」


「厳しいな」


「逃げないと決めました」


 赫臣は、苦く笑った。


「そうだったな」


「忘れないでください」


「忘れねえ」


 赫臣は、深雪乃の手を取った。


 今度は、深雪乃も迷わず握り返した。


 表通りへ戻ると、街は夕暮れの灯りに包まれていた。


 学校帰りの若者たちは、もう見えない。


 洋傘の娘たちも、甘味屋の恋人たちも、それぞれの場所へ帰っていったのだろう。


 普通の日常は、深雪乃たちの横を通り過ぎていく。


 追いつけない。


 手に入らない。


 けれど、見なかったことにはできない。


 深雪乃は、赫臣の手を握ったまま歩いた。


 自分たちは、普通にはなれなかった。


 ただの人間にはなれなかった。


 それでも、今この手を選んでいる。


 それは、最も痛い幸福だった。


 鵺喰家へ戻る道は、夕闇の中へ続いていた。


 深雪乃は、胸の奥で先ほどの言葉をもう一度繰り返した。


 お互い、ただの人間だったらよかったのに。


 けれど、そうではなかった。


 だからこそ、終わらせなければならない。


 普通になれなかった二人が、せめて自分たちの意志で立てるように。


 誰かの契約書でも、誰かの血筋でも、誰かの夜行でもない場所へ。


 その場所がどこにあるのか、まだ分からない。


 けれど、深雪乃の手は赫臣の手の中にあった。


 赫臣も、もう離さなかった。


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