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人間臭いと蔑まれた不死身の娘は、百鬼夜行の主に愛される  作者: なつめ


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第51話 終わらせる方法

 終わらせる方法。


 その言葉を最初に口にしたのは、蓮台だった。


 場所は鵺喰家の離れではなく、父の書斎に近い控えの間だった。書斎そのものはまだ封じられている。御厨数馬の死体は移され、隠し棚の仕掛けも保存され、破られた遺言書の写しと古い契約書は白布に包まれて砂笙の管理下に置かれていた。


 けれど、書斎の気配は廊下を越えて滲んでくる。


 古い紙の匂い。


 墨の匂い。


 父が残した後悔の匂い。


 深雪乃は、控えの間の中央に敷かれた座布団の上に座っていた。


 体調は戻っている。


 そう見えるだけだ。


 母の鏡が見せた記憶は、まだ身体の奥に残っている。母の死の夜。白い影。父の黒塗りの手鏡。「忘れろ」という声。幼い自分が白い影に「まだ行かない」と言っていたかもしれない記憶。全部が、胸の奥でまだ白く揺れている。


 深雪乃は、自分の過去を取り戻し始めた。


 その代わり、今の自分がどこから始まっているのか分からなくなっている。


 赫臣は隣にいた。


 相変わらず近い。


 だが、今は触れていない。彼の指先は膝の上に置かれ、指輪がわずかに光を受けている。耳飾り、舌の鋲、腕輪、首飾り、足首飾り。それらはもう深雪乃には、派手な装身具だけには見えなかった。


 退魔具。


 封具。


 鎖。


 百鬼夜行の主を人の形に留めるもの。


 そして、鬼血。


 契約書に記されていた言葉。


 鬼血、近づく時、封は揺らぐ。


 赫臣が近くにいるだけで、深雪乃の封が揺れているかもしれない。彼が深雪乃を抱きしめ、口づけ、守ろうとするほど、白い影や開鍵へ近づいているかもしれない。


 それでも、深雪乃は離れなかった。


 赫臣も離れなかった。


 離れられなかった、の方が正しいのかもしれない。


 控えの間には、蓮台、白絹、砂笙もいた。


 夜岐は来ていない。まだ傷が深い。けれど、彼女の証言はここにある。白い影に「返すものを隠したのは誰」と問われ、「あなたは返す側ではない。隠した側でもない。見ていた側」と言われたという証言。殺されず、見ていろと残された姉。


 白絹は、昨日よりもさらに静かだった。


 彼女の前には、蘆野火家から届いた控えの写しが置かれている。金糸の着物は美しいが、その美しさが今はどこか重く見える。家の誇りも、婚姻政治も、赫臣への未練も、今この場では小さく見えるほど、話は大きくなっていた。


 蓮台は、古い記録を指で押さえた。


「終わらせる方法を考える段階だ」


 その声は冷たかった。


 だが、冷たいからこそ聞けた。


「犯人を捕まえる、だけでは足りない可能性がある」


 赫臣の目が鋭くなる。


「どういう意味だ」


「現場には人為的な仕掛けがある。人間の犯人、あるいは人間側の協力者はいるだろう。だが、殺害の一部には通常の人間や妖では不可能な破魔が絡んでいる。白い影、深雪乃の記憶の空白、宵待の遺品、開鍵の条件。これらを放置したまま犯人だけを縛っても、同じことがまた起きる可能性がある」


 白絹が静かに頷いた。


「白い影が何を求めているのかを見誤れば、犯人を裁いても終わりませんわ」


 深雪乃は、胸元の鏡へ手を当てた。


 鏡は熱を持っていない。


 だが、そこにあるだけで重い。


「白い影は、私を返せと言いました」


 誰もすぐには答えない。


 深雪乃は続けた。


「母は、私を連れていかないでと言いました。父は、まだ返せないと言いました。契約書には、私は鍵として保管されると書かれていました。では、終わらせるとは、何を終わらせることなのですか」


 赫臣の手が、わずかに動いた。


 触れたいのを堪えた手。


 深雪乃は気づいたが、今は見ないふりをした。


 蓮台が、少し間を置いて答えた。


「それを整理する」


 彼は紙を一枚、畳の中央へ置いた。


「一つ。先祖返りの歴史。大妖や鬼、狐、怪異の血を引く家々は、人の世で生きるために序列を作った。篝火、鵺喰、蘆野火。力の強い家ほど、秩序維持の名目で他家や弱い者を管理してきた」


 白絹の瞳が、わずかに伏せられる。


「二つ。鵺喰家の罪。鵺喰は山本五郎左衛門の紋を持つ家として、怪異を集め、試し、封じ、支配する術を受け継いできた。その術を、澄子様と深雪乃へ使った可能性が高い」


 砂笙が低く補う。


「胎内封じ。器ではない。鍵。開鍵。鵺喰家は深雪乃様を、山本五郎左衛門の紋で繋ぎ止めたのでしょう」


 深雪乃の胸が冷える。


 繋ぎ止めた。


 自分が生きていることと、不死であることと、封じられていること。


 それらが同じ線へ重なっていく。


 蓮台は、赫臣を見た。


「三つ。百鬼夜行の力。篝火家の当主は、ただ強い鬼ではない。先祖返り社会の秩序そのものを支える存在だ。百鬼夜行を率いると同時に、夜が人の世へ溢れないよう堰き止めている」


 赫臣の顔は動かなかった。


 だが、指輪の光がかすかに揺れた。


 白絹が赫臣を見た。


「その力は、深雪乃さんを守る盾にもなります。けれど、鬼血が開鍵条件の一部なら、深雪乃さんの封を揺らす鍵にもなる。篝火家の当主が近づくこと自体が、危険であり、必要でもある」


 赫臣が低く笑った。


 笑いではなかった。


「便利な役割だな。守っても危険、離れても危険。鬼ってのは、どこまで面倒な血をしてる」


「自覚があるだけ、まだましですわ」


 白絹は静かに返した。


 赫臣は睨むように見たが、言い返さなかった。


 蓮台が続ける。


「四つ。深雪乃の不死身の謎。単なる再生ではない。死へ進む流れが押し戻される。宵待の破魔、白き客人との誓い、鵺喰の秘術、山本五郎左衛門の紋、そして百鬼夜行の鬼血。これらが絡み合っている可能性がある」


 可能性。


 誰も断定しない。


 核心はまだ見えない。


 だが、もう逃げられないほど、線は近づいている。


 深雪乃は、自分の胸へ手を当てた。


 鼓動がある。


 生きている。


 けれど、その生が自分だけのものではないように思える。


 母の血。


 鵺喰の封じ。


 白い影の返還。


 赫臣の鬼血。


 先祖返り会の契約。


 自分は、その線の交点にいる。


 そして、その線が引きちぎられない限り、誰かが死に続けるのかもしれない。


 深雪乃は、静かに言った。


「このままでは、誰も救われませんね」


 声は小さかった。


 だが、部屋の中ではっきり響いた。


 赫臣が深雪乃を見る。


 深雪乃は、白布の上の記録を見つめた。


「母さまは戻りません。死んだ方々も戻りません。姉上も傷つきました。父も後悔したまま死にました。あなたも、自分が私を救うのか縛るのか分からず苦しんでいる。白絹様も、蘆野火家の罪を背負っている。蓮台様も、事件を追っているだけでは終わらないと分かっている」


 言葉にするたび、胸が重くなる。


「そして、私は、自分が何なのかまだ分かりません」


 赫臣の手が、ついに深雪乃の手へ触れた。


「深雪」


「でも、分からないままでも、一つだけ分かります」


 深雪乃は、彼を見た。


「このままでは、誰も救われません」


 赫臣の蒼い目が揺れた。


 その中に、痛みと愛と恐れがある。


 彼も同じことを分かっている。


 白絹が、ゆっくり息を吐いた。


「蘆野火家は、今まで先祖返り会の秩序を守る側にいました。婚姻、情報、幻術、記録の調整。家を守るため、会を守るため、表沙汰にしてはならないものを隠してきた」


 彼女の声は静かだった。


 けれど、いつもの余裕とは違う。


「私も、その中で育ちました。赫臣様との婚約も、家の利であり、会の安定のためのものだった。深雪乃さんの存在は、最初は私にとって邪魔でしたわ」


「今は違うのですか」


 深雪乃が問うと、白絹は苦く笑った。


「まだ、個人的には複雑ですわ。私はそこまで綺麗な女ではございませんもの」


 その正直さに、深雪乃は少しだけ目を瞬いた。


 白絹は続けた。


「けれど、今は家の利だけを考えている場合ではありません。鵺喰家がしたことを隠し続け、先祖返り会が同じように都合の悪いものを封じ続ければ、また誰かが契約書の中で子を奪われます。誰かの血が、誰かの封に使われます。誰かが、誰かの秩序のために人ではなくされる」


 白絹の琥珀色の目が、深雪乃を見た。


「それは、先祖返り全体の未来を腐らせますわ」


 部屋の空気が、少しだけ変わった。


 白絹は、もう赫臣の許嫁としてだけ座っているのではない。


 蘆野火家の令嬢として、会の中にいる者として、この先の形を考え始めている。


 蓮台が皮肉げに言う。


「ようやく政治家らしくなったな」


「皮肉としては甘いですわね」


「褒めていない」


「知っております」


 二人のやり取りは短かった。


 だが、張り詰めた部屋に少しだけ人の温度を戻した。


 赫臣は、深雪乃の手を握ったまま、低く言った。


「終わらせるには、鵺喰家だけじゃ足りねえ」


「はい」


 砂笙が答える。


「会の記録、蘆野火の控え、篝火家に残る百鬼夜行の旧記、宵待の退魔術の遺物。少なくとも、それらを照合する必要がございます」


 蓮台が頷く。


「そして、人間の犯人を捕まえる。仕掛けを動かし、遺品を配置し、書類を破り、現場を作った者がいる」


 白絹が続ける。


「同時に、白い影の求める返還が何なのかを見極める。深雪乃さん自身を返せという意味なのか、奪われた記憶を返せという意味なのか、境へ預けられた何かを返せという意味なのか」


 赫臣の声が低くなる。


「開鍵を止めるのか、正しい形で終わらせるのか。それも見極めねえとな」


 深雪乃は、赫臣を見た。


「正しい形で、終わらせる」


「ああ」


「開くことが、必ず悪いとは限らないということですか」


 赫臣の顔が硬くなる。


 その反応だけで、深雪乃は彼がまた何かを考えていると分かった。


「まだ分からねえ」


「そうですか」


「深雪」


「隠していますね」


 赫臣は、わずかに眉を寄せた。


 だが、今回は逃げなかった。


「核心じゃねえ。まだ推測だ」


「それでも、隠している」


「ああ」


「なぜですか」


「言えば、お前は今すぐそこへ行こうとする」


「かもしれません」


「だから、今は止める」


「お願いですか」


「お願いだ」


 深雪乃は、彼の手を見た。


 強い手。


 昨夜、何度も口づけられた手。


 自分を抱きとめ、自分を引き止め、時に自分を縛りかねない手。


「分かりました」


 赫臣が少しだけ驚いた顔をする。


 深雪乃は続けた。


「ただし、後で必ず話してください」


「ああ」


「また甘やかして誤魔化したら怒ります」


「分かってる」


「刺します」


「覚悟してる」


「それは覚悟しないでください」


 赫臣が、ほんの少し笑った。


 その笑みは疲れていた。


 けれど、深雪乃の胸を少しだけ温かくした。


 蓮台は、資料をまとめながら言った。


「逃げるという選択肢もある」


 その言葉に、部屋の空気がまた変わった。


 赫臣の目が蓮台へ向く。


「何だと」


「可能性の話だ。深雪乃を篝火家へ連れていく。百鬼夜行の守りの下に置く。鵺喰家と会から切り離す。現実的には、一時的な保護策としては有効だろう」


 白絹が目を細める。


「会は黙っておりませんわ」


「黙らせる力は、赫臣にある」


 蓮台は淡々と言った。


「篝火家が本気で深雪乃を匿えば、今すぐ会が手を出すのは難しい。鵺喰家の親族も、もうほとんど動けない。犯人も、深雪乃へ近づきにくくなる」


 深雪乃の胸が揺れた。


 逃げる。


 篝火家へ行く。


 鵺喰家を出る。


 この屋敷から離れる。


 母の遺品、契約書、白い影、殺人の続く廊下、父の書斎、祈祷部屋、北蔵。


 全部から離れる。


 一瞬だけ、その選択肢が甘く見えた。


 赫臣の家へ。


 彼の腕の中へ。


 百鬼夜行の守りの中へ。


 そこで、二人だけで息をする。


 何も見ない。


 何も聞かない。


 誰にも触れさせない。


 深雪乃は、その甘さに自分でぞっとした。


 赫臣も、同じことを考えたのだろう。


 彼の手が、深雪乃の手を強く握った。


 赫臣の声は低かった。


「逃げるなら、俺は今すぐでもできる」


 深雪乃は、彼を見た。


「本当に?」


「ああ。深雪を抱えて、百鬼を開いて、屋敷ごと背にして出る。追ってくる奴は全部切る。会が何を言おうが関係ねえ」


 その声には、嘘がなかった。


 赫臣ならできる。


 篝火赫臣なら。


 百鬼夜行の主なら。


 深雪乃一人を連れて逃げることなど、きっと難しくない。


 いや、難しいのは力ではない。


 その後だ。


 深雪乃は、静かに言った。


「それでは、何も終わりません」


 赫臣の目が揺れる。


 深雪乃は続ける。


「私は、また誰かに守られる場所へ移されるだけです。鵺喰家から篝火家へ。会の契約書から、百鬼夜行の守りへ。名前が変わるだけかもしれません」


「俺は、お前を縛りたくねえ」


「知っています」


「でも、そうなるかもしれない」


「はい」


 深雪乃は、赫臣の手を握り返した。


「それに、逃げても母さまの過去は終わりません。父が消した記憶も、白い影の返してという声も、契約書の文言も、夜岐姉上の傷も、殺された方々の死も、何も終わりません」


 言葉にするたび、胸が痛む。


「私たちだけが逃げても、次にまた誰かが利用されます。誰かの子が、契約書に書かれます。誰かの血が、封じに使われます」


 白絹が目を伏せた。


 その言葉は、彼女にも刺さっている。


 赫臣は、深雪乃を見つめていた。


 痛そうに。


 誇らしそうに。


 恐ろしそうに。


「深雪」


「はい」


「お前は、逃げたいか」


 深雪乃は、すぐには答えなかった。


 逃げたい。


 本当は。


 怖い。


 これ以上見たくない。


 自分の中の空白に触れたくない。


 白い影に見られたくない。


 契約書の中の自分を読みたくない。


 赫臣が自分を疑う顔も見たくない。


 全部から逃げて、彼の腕の中で甘い時間だけを選べたら、どれほど楽だろう。


 深雪乃は、正直に言った。


「逃げたいです」


 赫臣の顔が、かすかに歪む。


「なら」


「でも、逃げません」


 赫臣の言葉を遮る。


 深雪乃は、彼の目を見た。


「逃げても、私は私を追ってくるものから逃げられません。母さまの声も、私の記憶も、白い影も、きっとどこまでも来ます」


 胸元の鏡が、ほんのわずかに冷たく感じた。


「終わらせるなら、ここで終わらせなければならないのですね」


 蓮台が頷いた。


「そうだ」


 白絹も、静かに言った。


「逃げて保護するだけでは、先祖返り会は変わりません。鵺喰家の罪も、蘆野火家の沈黙も、篝火家の役割も、そのまま残る」


 赫臣が、低く言う。


「俺が深雪を連れて逃げれば、俺はまた会の秩序を力でねじ伏せるだけだ。何も正さねえ。ただ、俺のものを守ったって形になる」


 深雪乃は、彼を見る。


「それは、あなたが嫌なのですね」


「ああ」


 赫臣は苦く笑った。


「俺はお前を守りたい。けど、俺の腕の中に閉じ込めて終わりにしたくねえ」


「私も、閉じ込められたくありません」


「知ってる」


「でも、抱きしめられるのは嫌ではありません」


 赫臣の目がわずかに見開かれる。


 深雪乃は、視線を逸らした。


「今のは、忘れてください」


「無理だ」


「忘れてください」


「絶対に無理だ」


「調子に乗らないでください」


「少し乗った」


「早いです」


 白絹が静かに目を伏せ、蓮台が面倒そうにため息をついた。


 砂笙は筆を止めず、何も聞かなかったことにした顔で記録を続けている。非常に優秀な参謀である。胃は犠牲になっているが。


 重い話の中で、ほんの少しだけ息ができた。


 だが、すぐに現実は戻る。


 蓮台が言った。


「終わらせるには、三つ必要だ」


 全員が彼を見る。


「一つ、人間の犯人を捕まえる。仕掛けを作った者だ。二つ、白い影の目的を見極める。返還が何を意味するのか。三つ、深雪乃の封じと不死がどう成り立っているのかを知る」


 白絹が続ける。


「そして、四つ目ですわ」


「何だ」


「先祖返り会に、記録を消させないこと」


 白絹の声は静かだったが、強かった。


「真相を知っても、会が隠してしまえば同じことです。鵺喰家の罪だけにされ、蘆野火家も、枯野井家も、寺社方も、関わった家は口を拭うでしょう。そうなれば、次も起きます」


 蓮台が白絹を見る。


「お前がそれを言うのか」


「ええ。私が言わなければ、蘆野火はまた同じ沈黙を選びますもの」


 深雪乃は、白絹を見た。


 初めて会った時、彼女は赫臣の許嫁だった。


 美しく、強く、余裕があり、深雪乃を危うい子と呼んだ。


 その白絹が今、家の利ではなく、先祖返り全体の未来を口にしている。


 人は変わるのかもしれない。


 いや、変わらなければならないのかもしれない。


 深雪乃もまた。


 赫臣が深く息を吐いた。


「会を敵に回すことになるな」


 白絹が答える。


「すでに半分ほど回っておりますわ」


「上品な言い方だな」


「全面戦争と言うよりは、まだ優しいでしょう?」


「優しくねえよ」


 赫臣はそう言いながらも、どこか決めた顔になっていた。


 深雪乃は、それを見た。


 彼はもう、逃げるだけの選択肢を捨て始めている。


 深雪乃も同じだった。


 怖い。


 逃げたい。


 それでも、終わらせるには進むしかない。


 夜が近づく頃、会議は一度終わった。


 蓮台は書斎の仕掛けと犯人候補を洗い直すと言い、砂笙は篝火家の旧記を取り寄せる手配に向かった。白絹は蘆野火家の追加記録と、過去に関わった家の名を探るために席を外した。


 控えの間に残ったのは、深雪乃と赫臣だけだった。


 障子の外は薄暗い。


 庭の木々が黒い影になっている。


 深雪乃は、しばらく黙っていた。


 赫臣も黙っている。


 だが、沈黙は先ほどより苦くなかった。


 深雪乃は、ぽつりと言った。


「本当は、少しだけ考えました」


「何を」


「あなたと逃げることを」


 赫臣の息が止まる。


「深雪」


「篝火家へ行けば、私は鵺喰家から離れられる。会もすぐには手を出せない。あなたはきっと、私を守ってくださる。甘いものを食べさせて、何度も可愛いと言って、嫌になるほど口づけるのでしょう」


「嫌になるほどはしねえ」


「本当ですか」


「……多分」


「信用が薄いです」


 赫臣が、苦く笑った。


 深雪乃も、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 けれど、すぐに続けた。


「でも、それでは私はまた知らないままです。母さまが何をされたのか。父が何を隠したのか。白い影が何を返せと言っているのか。私がなぜ死なないのか。あなたの鬼血がなぜ関わるのか。何も知らないまま、あなたの腕の中で生きることになります」


 赫臣は、深雪乃を見た。


 深雪乃は、その視線を受け止める。


「それは、幸せかもしれません」


 嘘ではなかった。


 赫臣の腕の中は温かい。


 彼の口づけは、苦くても深雪乃を今に繋ぎ止める。


 彼に愛されていることは、怖いほど深雪乃を支えている。


 けれど。


「でも、それは救いではありません」


 赫臣の顔が、痛む。


 深雪乃は続けた。


「少なくとも、私には」


 赫臣は、深く息を吐いた。


「俺も、考えた」


「逃げることを?」


「ああ」


「今も?」


「ああ」


 正直な答えだった。


「今でも、お前を抱えてここを出たい。会も鵺喰も白い影も全部置いていきたい。誰が死んだとか、誰が何を隠したとか、そんなものを全部斬って、深雪だけ連れていきたい」


 赫臣の声が低く震える。


「でも、それをしたら、俺はお前を救った顔をして、お前から真相を奪う」


 深雪乃は、彼の手を取った。


「はい」


「それは嫌だ」


「はい」


「でも、怖い」


「私もです」


「終わらせるには、お前を危ない場所へ連れていくことになる」


「はい」


「俺が一番したくねえことだ」


「知っています」


 深雪乃は、彼の手を両手で包んだ。


「それでも、一緒に来てください」


 赫臣の目が揺れる。


「深雪」


「私一人では、たぶん崩れます。あなたが隠すなら怒ります。あなたが疑うなら痛いです。あなたが怖がるのも分かります。それでも」


 深雪乃は、彼の指輪に触れた。


 冷たい金属。


 封具。


 鎖。


 彼自身を人の形に留めるもの。


「一緒に終わらせてください」


 赫臣は、しばらく動かなかった。


 それから、深雪乃を抱きしめた。


 強くはない。


 けれど深い。


 背の傷を避け、肩を包み、彼女の頭を自分の胸へ寄せる。


「確認する」


「もう抱きしめています」


「遅かったか」


「遅いです」


「悪い」


「謝罪は聞きました」


 赫臣は、深雪乃の髪へ口づけた。


「終わらせる」


 低い声。


「逃げねえ。隠し切らねえ。会にも鵺喰にも白い影にも、お前を勝手に決めさせねえ」


 深雪乃は、彼の胸元で目を閉じた。


「私も、逃げません」


「無茶はするな」


「努力します」


「努力じゃ足りねえ」


「では、できるだけ」


「深雪」


「あなたも、無茶をなさるでしょう」


「する」


「正直ですね」


「嘘ついても刺される」


「はい」


 赫臣の腕が少しだけ深くなる。


「深雪」


「はい」


「可愛い」


「今言うことですか」


「言いたい時に言う」


「便利ですね」


「大好きだ」


「話が逸れています」


「愛してる」


 深雪乃は、少しだけ息を詰めた。


 その言葉は、今も甘くて苦い。


 疑いが消えたわけではない。


 不安がなくなったわけでもない。


 けれど、逃げないと決めた後の愛の言葉は、昨日までと少し違って聞こえた。


「私も」


 深雪乃は、小さく言った。


 赫臣の身体が止まる。


「深雪」


「まだ全部を許したわけではありません」


「ああ」


「隠し事も嫌です」


「ああ」


「疑われるのも苦いです」


「ああ」


「でも、あなたと終わらせたいです」


 赫臣は、深雪乃の顔を見下ろした。


 蒼い目が、深く揺れている。


「それは、好きって意味にしていいか」


「調子に乗らないでください」


「だめか」


「……少しなら」


 赫臣の顔が、今までで一番苦く、そして甘く緩んだ。


「少しか」


「少しです」


「じゃあ、少しだけ調子に乗る」


「少しだけです」


 赫臣は、深雪乃の頬に手を添えた。


「口づけていいか」


 深雪乃は、彼を見た。


 逃げないと決めた。


 終わらせると決めた。


 それでも、怖い。


 だからこそ、今はこの熱が欲しかった。


「はい」


 赫臣の唇が重なった。


 甘い。


 けれど、痛みだけではなかった。


 昨日のように疑いで胸を裂く口づけではない。逃げないための、引き返さないための口づけだった。赫臣は深雪乃を壊さないように、それでも確かに求めるように、唇を重ねる。深雪乃は彼の襟を掴み、少しだけ応えた。


 唇が離れる。


 赫臣は額を寄せた。


「終わらせよう」


 深雪乃は頷いた。


「はい」


 外では、夜が完全に落ちていた。


 鵺喰家の奥には、まだ解かれていない封じがある。


 白い影は、どこかで待っている。


 先祖返り会は、まだ沈黙の奥にいる。


 人間の犯人も、まだ姿を見せていない。


 けれど、深雪乃と赫臣はもう逃げるだけの道を選ばなかった。


 逃げれば二人だけは少し楽になれたかもしれない。


 けれど、それでは何も終わらない。


 母の声も。


 父の罪も。


 鵺喰家の契約も。


 先祖返り会の沈黙も。


 白い影の「返して」も。


 深雪乃の不死の謎も。


 百鬼夜行の主が抱える鎖も。


 全部が、まだ残る。


 終わらせる方法は、まだ完全には見えていない。


 けれど、終わらせなければならないことだけは、もう分かった。


 深雪乃は赫臣の腕の中で、静かに息をした。


 怖い。


 それでも、逃げない。


 赫臣の手が、彼女の背を支える。


 深雪乃は、その熱を受け止めながら、胸の奥で母の声を思い出した。


 同じ沈黙を選ばないで。


 その言葉に、今度は小さく答える。


 選びません。


 誰にも聞こえない声で。


 けれど、確かに。


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