第50話 愛と疑い
鏡が見せたものは、深雪乃の中に消えずに残った。
母の過去。
鵺喰家の罪。
先祖返り会の沈黙。
そして、深雪乃自身が知らなかった時間。
母が死んだ夜、白い影は来ていた。
母は「この子を、連れていかないで」と言った。
父は「まだ返せない」と言った。
封はまだ安定していない、と。
その後、父は黒塗りの手鏡を幼い深雪乃へ向け、「忘れろ」と命じた。
忘れさせられた。
深雪乃は、自分の過去を奪われていた。
それを思い出すたび、胸の奥に冷たい穴が開くようだった。自分の記憶なのに、自分の手元になかった。母の死の夜も、白い影の蒼い目も、父の震えた声も、幼い自分の泣き声も。すべて鏡が映すまで、深雪乃は知らなかった。
いや、知らないようにされていた。
その違いは大きかった。
知らなかっただけなら、まだ空白で済む。
忘れさせられていたのなら、その空白には誰かの手が入っている。
父の手。
鵺喰家の手。
先祖返り会の手。
そして、白い影の手。
深雪乃は、自分が大きなものに巻き込まれていることを、ようやく理解し始めていた。
相続争いだけではない。
母の遺品を巡る事件だけでもない。
鵺喰家の連続殺人だけでもない。
深雪乃の出生そのものが、何かの中心に置かれている。
胎内に宿るもの。
鍵。
開鍵。
返して。
鬼血。
神と呼ばれたもの。
その言葉たちが、深雪乃の周囲に輪を作り、少しずつ狭まっている。
息苦しかった。
離れの部屋は静かだった。
外は夕方に近く、障子越しの光は薄く灰色を帯びている。庭の木々は風に揺れ、葉の擦れる音が遠く聞こえた。行灯にはまだ火が入っていない。暗くなりきる前の、昼と夜の境目の時間だった。
深雪乃は布団の上に座っていた。
倒れた後、赫臣に抱えられ、この部屋へ運ばれた。身体はもう戻っている。深雪乃の身体は、倒れても、傷ついても、戻る。痛みや恐怖まで消えるわけではないのに、見た目だけは戻ってしまう。便利な身体だと、昔なら誰かが笑ったかもしれない。
今は、その言葉を自分で考えてしまい、嫌になった。
赫臣は部屋の入口近くに立っていた。
近づきたいのに、近づけない顔をしている。
昨夜、彼は深雪乃に「疑っても、愛してる」と言った。
その言葉は、綺麗ではなかった。
けれど、深雪乃には必要だった。
信じている、とだけ言われたら嘘に聞こえたかもしれない。疑っていない、と強く言われたら、余計に苦しくなったかもしれない。赫臣は、なぜとは考える。深雪乃の中に何があるのか怖い。白い影と深雪乃の空白が繋がっているかもしれないと考えている。鬼血が封を揺らすかもしれないと恐れている。
それでも、愛している。
その矛盾ごと口づけられた。
深雪乃は、赫臣を見た。
「赫臣様」
「何だ」
「そこに立っていると、監視されている気分になります」
赫臣の顔が少し歪んだ。
「悪い」
「謝罪は聞きました」
「じゃあ、近づいていいか」
「聞くようになったのですね」
「お前が怒るからな」
「それだけですか」
「それだけじゃねえ」
赫臣は、ゆっくり近づいた。
いつもより慎重だった。まるで、深雪乃が少しでも身を引けば、その場で止まるつもりのように。
膝をつき、深雪乃の前に座る。
手を伸ばす前に、低く言った。
「確認する」
深雪乃は、小さく頷いた。
赫臣の手が、深雪乃の頬に触れた。
熱い。
それだけで、自分の頬が冷えていたことに気づいた。彼の親指が目元をなぞる。泣き腫らした跡を確かめるように、優しく。
「痛いところは」
「ありません」
「気持ち悪さは」
「少し」
「飯は」
「あとで食べます」
「今」
「赫臣様」
「何だ」
「尋問です」
赫臣は口を閉じた。
それから、少しだけ苦く笑う。
「心配だ」
「知っています」
「怖い」
「それも知っています」
「深雪」
「はい」
「俺は、お前に何を言えばいい」
その問いは、赫臣らしくなかった。
いつもは強引で、甘くて、勝手に決めて、後から深雪乃に刺される男だ。そんな彼が、今は言葉を探している。
深雪乃は、胸の奥が少し痛んだ。
「真実を」
短く答えた。
赫臣の目が揺れる。
「全部は、まだ言えねえ」
「分かっています」
「分かってるのか」
「はい。あなたはまだ確信がない。私が壊れることも怖い。あなた自身が、私から離れるべきかもしれないと考えていることも」
赫臣が息を止めた。
深雪乃は、彼の手に自分の手を重ねた。
「ですが、隠したまま甘やかされるのは嫌です」
「分かってる」
「隠したまま抱きしめられるのも、苦しいです」
「分かってる」
「でも、離れられるのはもっと嫌です」
赫臣の顔が歪む。
「深雪」
「私は、自分が何かに巻き込まれていることを理解しました。相続でも、屋敷の恨みでも、母の遺品だけでもありません。私は、生まれる前から契約書に書かれ、幼い頃に記憶を消され、今も白い影に見られています」
声は震えなかった。
震えないように、深雪乃は手に力を込めた。
「私の中の空白が、白い影を呼んでいる可能性もある。あなたの鬼血が、封を揺らしている可能性もある。あなたが私を守ろうとするほど、何かを進めている可能性もある」
赫臣の指が強張る。
「それでも、私はあなたに離れてほしくありません」
赫臣は、深雪乃を見ていた。
痛いほど真剣に。
何か言いたそうに唇を開き、閉じる。
その時、障子の外で砂笙の声がした。
「旦那様。蓮台様と白絹様が、夜岐様の証言を取られました」
赫臣の顔が変わる。
深雪乃も顔を上げた。
「姉上が?」
「はい。深雪乃様がお目覚めであれば、共有を、と」
赫臣がすぐに言う。
「深雪は休ませる」
「聞きます」
「深雪」
「聞きます」
深雪乃は、彼の手を離さなかった。
「私に関わることです」
赫臣は苦しそうに眉を寄せたが、反論しなかった。
しばらくして、蓮台、白絹、砂笙が部屋へ入った。
蓮台はいつものように表情を変えず、しかし目だけは険しい。白絹は顔色が悪かった。彼女が顔色を崩すのは珍しい。蘆野火家の記録でも、母の遺響でも、平静を保とうとしていた女が、今は明らかに何かを抱えている。
砂笙は記録を持っていた。
赫臣が低く問う。
「夜岐は何を言った」
蓮台が答える。
「白い影を見た時の記憶を、もう少し思い出した」
深雪乃の胸が鳴った。
白い影。
夜岐は襲撃の時、蒼い目の白い女を見たと言った。
母ではない、分からない、と怯えていた。
蓮台は続ける。
「夜岐は、襲撃の前に声を聞いている。『返すものを隠したのは誰』と」
深雪乃の指が赫臣の手を握る。
赫臣の手がすぐに握り返した。
白絹が静かに言う。
「夜岐様は、それを最初、澄子様の声だと思ったそうですわ。けれど、近くで聞くと違った。澄子様の声ではない。人の声でもない。頭の中に白い糸を通されるような声だった、と」
砂笙が記録を読む。
「夜岐様は、白い影に『あなたは返す側ではない。隠した側でもない。見ていた側』と言われたそうです」
深雪乃は、目を伏せた。
見ていた側。
夜岐は深雪乃を虐げた。
母の遺品を壊し、隠し、笑った。
けれど、契約や胎内封じの中心人物ではない。
見ていた側。
それでも罪はある。
だが殺されなかった。
蓮台が言う。
「白い影は、夜岐を殺す能力があった。だが殺さなかった。夜岐は『まだ見ていろ』と言われたと証言している」
「まだ見ていろ」
深雪乃は呟いた。
夜岐を証人として残した。
それとも、罰として生かした。
どちらか分からない。
白絹が、深雪乃を見た。
「夜岐様はもう一つ、幼い深雪乃さんのことを思い出しました」
深雪乃の胸が冷える。
「私の?」
「ええ。澄子様が亡くなった後、あなたが数日間、ほとんど喋らなかった時期があったそうです。夜岐様は当時幼く、それを『母を亡くしたせい』だと思っていた。ですが、今思い出すと、あなたは時々、誰もいない廊下へ向かって話しかけていたそうです」
深雪乃は息を止めた。
覚えていない。
そんな記憶はない。
「何と」
赫臣が低く問う。
白絹は、言いにくそうに続けた。
「『まだ行かない』と」
部屋が静まった。
深雪乃の背筋に冷たいものが走る。
まだ行かない。
誰に言っていたのか。
白い影か。
母か。
神と呼ばれたものか。
自分の中の何かか。
蓮台が、別方向から言った。
「夜岐の証言だけでは足りない。だが、深雪乃の記憶の空白と合う。母の死の夜、白い影が来た。斎臣は黒塗りの手鏡で深雪乃の記憶を消した。消した後も、深雪乃は完全に忘れきっていなかった可能性がある」
深雪乃の喉が乾いた。
「私は、誰かに話しかけていたのですね」
「可能性だ」
蓮台は断定しなかった。
「ただし、それを深雪乃自身の異常として決めつけるのは早い。幼い子が死者に話しかけること自体は珍しくない。問題は、今回の事件と同じ言葉が出ていることだ」
まだ行かない。
返して。
まだ返していない。
言葉が繋がる。
白絹が、自分の視点から語った。
「蘆野火家の追加記録も届きました。まだ一部ですが、白き客人に関して『返還』という言葉が繰り返し出ます。けれど、それは所有権の返還ではありません」
深雪乃が顔を上げる。
「どういうことですか」
「魂や血そのものを返す、という表現に近いですわ。ある存在が、宵待の血に触れた。その誓いにより、血の一部が境へ預けられた。鵺喰家はそれを山本五郎左衛門の紋で繋ぎ止めた。そう読める箇所がございます」
境へ預けられた血。
鵺喰家が繋ぎ止めた。
深雪乃は自分の胸へ手を当てた。
「それが、私の中にあるのですか」
「断定はできません」
白絹は慎重に言った。
「ただ、あなたの不死は、単なる再生ではありません。死へ進む流れが押し戻される。境へ預けられたものが、こちら側から完全に失われることを拒んでいるようにも見えます」
赫臣の顔が硬くなる。
蓮台が、実務的に言う。
「白絹の仮説は霊的すぎるが、現場の痕跡とは合う。死体には、復讐というより『返還を妨げた者を排除する』ような選び方がある。被害者たちは、澄子と深雪乃を契約や封じで管理する側にいた。夜岐は見ていた側だから殺されなかった」
「では、白い影は私を返そうとしているのですか」
深雪乃の声は小さかった。
赫臣の手が強くなる。
痛くはない。
けれど、彼の恐怖が伝わってくる。
蓮台は答える前に少し沈黙した。
「そう見える材料はある」
白絹が続ける。
「ただし、返す先が分かりませんわ。母君の元へ返すのか、白き客人へ返すのか、境へ返すのか、それとも、深雪乃さん自身の失われた記憶を返そうとしているのか」
砂笙が、さらに別の可能性を置いた。
「また、白い影そのものが殺しているとは限りません。人間側の犯人が白い影の伝承や深雪乃様の反応を利用し、遺品を集め、開鍵の条件を整えている可能性もございます」
蓮台が頷く。
「人為的な仕掛けは毎回ある。白い影だけなら、密室偽装や骨針、隠し棚の仕掛けは不要だ」
白絹が目を細める。
「ですが、人間だけでは、枯野井殿の結界内反転や数馬様の内側焼きは説明できません」
赫臣が低く言う。
「二重になってる」
全員の視線が赫臣へ向いた。
赫臣は白布の上の遺品を見ていた。
「人間の仕掛けと、白い影の力。あるいは、誰かが仕掛けを作り、力がそこに乗っている。犯人が意図してやっているのか、白い影が犯人の仕掛けを利用しているのか、まだ分からねえ」
蓮台が、赫臣を見た。
「お前は、どちらだと思う」
赫臣はすぐには答えなかった。
深雪乃は、その横顔を見る。
彼は何かに近づいている。
また。
そして、まだ言わない。
「赫臣様」
深雪乃が呼ぶ。
赫臣は、彼女を見た。
「あなたは、どちらだと思うのですか」
赫臣の目が揺れた。
問いは、蓮台と同じだった。
だが、深雪乃が聞くと意味が変わる。
彼が言うか。
隠すか。
それも含めて、深雪乃は見ていた。
赫臣は、低く答えた。
「両方だと思う」
「両方」
「ああ。人間の犯人はいる。仕掛けを作り、書類を動かし、遺品を配置した者がいる。だが、その仕掛けの上に、白い影か、お前の中の空白か、境の力が乗ってる」
「私の中の空白も、ですか」
「可能性だ」
赫臣は目を逸らさなかった。
「お前が殺しているって意味じゃねえ。だが、お前の記憶や力が、事件の引き金になっている可能性は消せない」
深雪乃の胸が、冷たく痛んだ。
それは、赫臣が彼女を疑っていると言うより、現実を言葉にしたものだった。
それでも痛い。
甘さが、そこから痛みに変わっていく。
赫臣は、深雪乃の手を握った。
「悪い」
「謝罪は聞きました」
「言わなきゃならねえと思った」
「はい」
「言いたくなかった」
「はい」
「言った」
「はい」
深雪乃は、小さく息を吸った。
「苦いです」
「分かってる」
「でも、隠されるよりは」
少し間を置いた。
「ましです」
赫臣は、痛そうに笑った。
「ましか」
「はい。まだ、ましです」
白絹が静かに目を伏せた。
蓮台は、記録を閉じた。
「ここから先は、終盤だな」
誰も、その言葉を否定しなかった。
終わりが近づいている。
事件の終わり。
母の過去の真相。
白い影の正体。
深雪乃の出生。
赫臣の鬼血と百鬼夜行の意味。
それらが、もう別々ではいられなくなっている。
夜岐、白絹、蓮台。
それぞれが違う方向から、真相の輪郭を見始めている。
夜岐は、見ていた者として。
白絹は、蘆野火の罪と境の力を知る者として。
蓮台は、人間の仕掛けと殺人の構造を追う者として。
赫臣は、鬼血と百鬼夜行の主として。
そして深雪乃は、鏡の中の自分と向き合う者として。
部屋の空気は重かった。
やがて蓮台たちは席を外した。
夜岐の証言と蘆野火家の追加記録、現場の整理をまとめるためだ。砂笙も一緒に出ていった。白絹は最後に深雪乃を見たが、何も言わなかった。ただ、ほんのわずかに頭を下げた。
障子が閉まる。
部屋には深雪乃と赫臣だけが残った。
灰色の夕方が、いつの間にか夜へ傾いている。
行灯に火が入り、部屋の隅に柔らかな影が揺れた。
深雪乃は、しばらく黙っていた。
赫臣も黙っていた。
沈黙は苦い。
だが、もうただ隠すための沈黙ではなかった。
深雪乃は、自分の手を見た。
「私は、何かに巻き込まれているのですね」
赫臣が答える。
「ああ」
「自分の意志より前から」
「ああ」
「母の胎内にいた時から」
赫臣は、少しだけ目を伏せた。
「ああ」
「でも、今は私が選びます」
赫臣が顔を上げる。
深雪乃は、彼を見た。
「私は、真相を知ります。怖くても。私の中の空白が白い影を呼んでいるとしても。あなたの鬼血が封を揺らすとしても。知ります」
「分かってる」
「でも」
深雪乃の声が震えた。
ここからが、言いたいことだった。
「あなたが、私を疑うかもしれないことが怖いです」
赫臣の顔が痛む。
「深雪」
「あなたが、私の中の何かを怖がることも。私を見て、なぜと考えることも。あなたの手が、いつか私から離れるのではないかと思うことも」
涙はまだ出ていない。
けれど、喉の奥が熱くなっていた。
「それでも」
深雪乃は、赫臣の着物の袖を掴んだ。
「疑っていてもいいです。だから、離れないで」
赫臣の呼吸が止まった。
その言葉は、以前にも言った。
けれど、今は意味が重かった。
鏡の中の過去を見た後で。
自分の記憶の空白を知った後で。
赫臣の鬼血が封を揺らすかもしれないと知った後で。
彼が自分を疑いながらも愛していると聞いた後で。
それでも、深雪乃は同じ言葉を選んだ。
疑っていてもいい。
だから、離れないで。
赫臣は、深雪乃を抱き寄せた。
激しくはなかった。
最初は、壊れ物を包むようだった。
けれど、腕はすぐに深くなる。背の傷を避け、肩を抱き、頭を胸へ寄せる。赫臣の心臓の音が、深雪乃の耳元で速く響いた。
「離れねえ」
赫臣の声が低く落ちる。
「疑ってるみたいな顔をしても、なぜって考えても、怖くても、離れねえ」
「本当に?」
「本当に」
「あなたは、怖い時に隠します」
「分かってる」
「甘やかします」
「分かってる」
「キスで誤魔化します」
「分かってる」
「それでも、またするのでしょう」
「……するかもしれねえ」
深雪乃は、少しだけ笑いそうになった。
泣きそうな顔のまま。
「正直ですね」
「嘘ついても、お前には分かる」
「はい」
「だから」
赫臣は、深雪乃の頬に手を添えた。
「今からするのは、誤魔化しじゃねえ」
深雪乃は、彼を見上げた。
「では、何ですか」
「痛くても、ここにいるって確認」
赫臣の顔が近づく。
「していいか」
深雪乃は、ほんの少しだけ目を伏せた。
「はい」
唇が重なった。
最初は、静かだった。
けれど、すぐに深くなる。
甘い。
けれど、甘さの底が痛い。
深雪乃は、赫臣の襟を掴んだ。彼の唇が涙の出る前の震えを拾う。呼吸が混ざる。名前を呼ばれる。深雪。深雪乃。俺の深雪。深雪乃は、そのたびに少し苦しくなった。
所有の言葉は危うい。
けれど今は、契約書の冷たい文字よりも、赫臣の声が近かった。
唇が離れる。
赫臣はすぐに額へ口づけた。
頬へ。
瞼へ。
また唇へ。
何度も。
深雪乃が息を整える間を与えながら、それでも離れない。甘やかすようで、縋るようで、罰のようで、祈りのようだった。
「赫臣様」
深雪乃の声はかすれていた。
「何だ」
「痛いです」
赫臣の腕がすぐに緩む。
「どこが」
「ここが」
深雪乃は、自分の胸元に手を当てた。
身体の痛みではない。
赫臣は、息を止めた。
「悪い」
「あなたのせいだけではありません」
「でも、俺も痛くしてる」
「はい」
「やめるか」
深雪乃は首を横に振った。
「やめないでください」
赫臣の顔が歪んだ。
それから、彼はもう一度深雪乃に口づけた。
今度は、さっきよりも切なかった。
深雪乃は、彼に応えながら、甘さが痛みに変わっていくのを感じた。
愛されている。
疑われている。
守られている。
恐れられている。
抱きしめられている。
開かれてしまうかもしれない。
すべてが同じ腕の中にあった。
それでも、離れたくなかった。
赫臣は何度も彼女にキスをした。
深雪乃はそのたびに、彼の着物を掴んだ。
昼の甘さとは違う。
これは、夜の痛みに近い甘さだった。
終盤へ向かう扉の前で、二人はまだ互いを疑いながら、互いを離せずにいた。
深雪乃は、口づけの合間に、もう一度だけ言った。
「疑っていてもいいです。だから、離れないで」
赫臣は、彼女の唇に触れる直前、低く答えた。
「離れねえ」
その言葉は、甘くて痛かった。
深雪乃は、その痛みごと受け止めるように、赫臣の口づけを受けた。




