第49話 鏡の中の私
母の鏡は、深雪乃の膝の上で静かに眠っていた。
沈丁花文様の銀細工は、曇った昼の光を受けても派手には光らない。ただ、古い水のように淡く、冷たく、手のひらの中で沈んでいる。これまで何度も熱を持ち、母の声を運び、遺響を映してきた鏡だった。母の病んだ姿。黒い組紐と銀の輪をつけた手。白藤の庭。祈祷部屋。深雪乃を宿した母の涙。
それでも、今朝の鏡は違って見えた。
ただの遺品ではない。
ただの証拠でもない。
閉じた目のようだった。
いつ開くか分からない目。
深雪乃は、それを見下ろしながら息を整えた。
離れの部屋には、赫臣、蓮台、白絹、砂笙がいた。
人は少ない。
使用人も親族も入れていない。書斎の死体、契約書、白い影、記憶の空白。あれらが明らかになった後で、母の鏡に触れるのは危険だと全員が分かっていた。けれど、触れないままでは先へ進めないことも分かっている。
厄介なものほど、見なければならない。
人間は本当に面倒な生き物だ。見たくないものに限って、見ないと人生が先に進まないようにできている。ずいぶん性格の悪い設計である。
赫臣は、深雪乃のすぐ隣に座っている。
肩が触れそうな距離。
手はまだ触れていない。
けれど、深雪乃が少しでも揺れれば即座に抱き寄せる気配があった。昨夜からずっとそうだ。赫臣は、深雪乃が白い影に呼ばれることを恐れている。深雪乃自身の記憶の空白が白い影を呼んでいるかもしれないと言った時、彼は顔を歪めた。
白い影は、外側から来ているだけではないかもしれない。
深雪乃の中の空白が、影を呼んでいる可能性がある。
その言葉は、今も胸に残っている。
深雪乃は、自分の記憶を思い返そうとした。
母が亡くなる前。
北蔵の近くで目覚めた夜。
手に白藤色の糸を握っていたこと。
母が亡くなった日の夜、誰かに抱き上げられた気がすること。
手首に黒い組紐と銀の輪があったこと。
父が亡くなった夜、書斎の前にいたはずなのに、もしかすると中に入ったかもしれないこと。
父の書斎の黒塗りの手鏡を、以前にも見たことがある気がすること。
どれも、白く霞んでいる。
深雪乃のものなのに、深雪乃には見えない。
そのことが、ひどく気持ち悪かった。
蓮台が低く言う。
「無理に覗く必要はない」
深雪乃は顔を上げた。
「必要があるから、ここにいるのではありませんか」
「必要があることと、今すぐやるべきことは違う」
「蓮台様は、意外と優しいのですね」
「捜査対象に倒れられると面倒なだけだ」
「言い方が台無しです」
「事実だ」
そのやり取りで、ほんの少しだけ空気が緩んだ。
白絹が静かに鏡を見た。
「母君の鏡は、これまで遺品同士の反応で遺響を再生してきました。ですが、今回は違いますわ。深雪乃さん自身の記憶の空白へ触れる可能性がある」
「私の中へ、鏡が入るということですか」
「入る、というより、映すのでしょう。鏡は本来、そこにあるものを映す道具です。ただし、宵待の鏡は表面だけではなく、魂に残った影も映す」
魂に残った影。
深雪乃は、鏡の縁を指でなぞった。
「母は、これで何を見ていたのでしょう」
砂笙が答える。
「澄子様は、鏡で遺響を読む力を持っていたと見られます。物や場所に残る声、匂い、痛み、誓い。そうしたものを映したのでしょう」
「では、私も同じことができるのですか」
砂笙は、少しだけ言葉を選んだ。
「深雪乃様は、すでに見ています。ただし、それが澄子様と同じ力なのか、澄子様の鏡を媒介にしているだけなのか、あるいは深雪乃様の中の別の力が鏡を使っているのかは、まだ分かりません」
別の力。
神気。
破魔。
白き客人。
神と呼ばれたもの。
契約書の鍵。
鬼血。
開鍵。
深雪乃は、胸の奥が冷えるのを感じた。
赫臣の手が、そこでようやく深雪乃の手に触れた。
「確認する」
低い声。
深雪乃は、小さく頷いた。
彼の指が、深雪乃の指を包む。熱い。自分の手が冷えていたことに、そこで初めて気づいた。
「怖いなら、やめる」
赫臣が言った。
「怖いです」
「なら」
「でも、見ます」
赫臣の顔が苦くなる。
「そう言うと思った」
「止めますか」
「止めたい」
「命令ですか」
「願望だ」
「正直ですね」
「お前に嘘つくと刺される」
「必要なら刺します」
「ああ」
深雪乃は、彼の手を握り返した。
「でも、今は離さないでください」
赫臣の目が揺れる。
「離さねえ」
深雪乃は、鏡へ視線を戻した。
鏡面は曇っている。
銀の縁は冷たい。
深雪乃は、ゆっくり息を吸った。
「母さま」
声は、小さく落ちた。
「見せてください」
その瞬間、鏡が熱を持った。
はじめは、掌の中へ温かな水が注がれたようだった。次に、その熱が指先から腕へ、胸へ、喉へと上がってくる。沈丁花の香りが部屋に満ちた。濃い。昨日よりもさらに濃い。白藤の花の匂いも混ざっている。雨に濡れた木と、古い紙と、かすかな血の匂い。
鏡面が白く曇る。
白い霧が、鏡の中だけでなく、部屋の空気にも滲み出した。
赫臣の装身具が鳴った。
小さく、鋭く。
蓮台が一歩近づく。
白絹が指を結び、幻術の干渉を防ぐ形を取った。
砂笙が低く呟く。
「始まります」
鏡の中に、白藤の庭が映った。
母が立っている。
若い。
まだ病に痩せる前の澄子だった。白藤色の着物を着て、黒髪を長く垂らし、古弓を腕に抱いている。深雪乃の記憶の母よりも、ずっと凛としていた。妾として屋敷の片隅に置かれていた女ではない。背筋の通った、術者の姿だった。
その前に、鵺喰斎臣が立っていた。
深雪乃の父。
若い斎臣は、今までの記憶よりも冷たく見えた。だが、完全な冷酷ではない。迷いがあった。目元に、何かを飲み込んだような陰がある。
澄子が言う。
『私は契約の品ではありません』
声は、はっきり聞こえた。
深雪乃の胸が鳴る。
母の声。
生きている声。
『この子も、契約の品ではありません』
母の手が腹へ添えられる。
まだ深雪乃は生まれていない。
胎内にいる。
斎臣は、唇を強く結んだ。
『会の裁定は下りている』
『私の意志は』
『記録には残せない』
澄子の目に、怒りが宿った。
『では、あなたは私に何を残せと言うのですか』
斎臣は答えない。
鏡の中の景色が揺れる。
次に映ったのは、鵺喰家の大広間だった。
先祖返り会の者たちが座っている。
顔ははっきり見えない。ぼんやりと影になっている。鵺喰の家紋。蘆野火の金の印。寺社方の札。枯野井家の文書箱。篝火家の紋だけが、そこにはない。
澄子は畳の中央に座らされていた。
背筋は伸びている。
だが、膝の上の手は硬く握られていた。
誰かが言う。
『宵待の破魔は、白き客人との誓約により変質した』
『鵺喰の紋で一時預かり、封を安定させる』
『胎内のものは、出生後、会の監督下に置く』
澄子が顔を上げた。
『この子は、私の子です』
影の一つが答える。
『それは認める』
『ならば』
『ただし、契約上は預かりとする』
深雪乃の喉が詰まった。
契約書の文言が、そのまま声になっている。
母の前で。
母が生きている前で。
母の腹に深雪乃がいる前で。
その子は契約上の預かりだと、彼らは言った。
赫臣の手が、深雪乃の手を強く包む。
深雪乃はその熱に縋った。
鏡の中で、澄子の瞳が揺れる。
怒り。
恐怖。
それでも、折れない意志。
『この子は、誰にも預けません』
澄子が言った。
『私が産みます。私の子として』
影の一つが低く笑った。
『産むことは許される』
その言い方に、深雪乃の胸が冷えた。
許される。
母が自分の子を産むことすら、彼らの許可の中に置かれている。
『ただし、出生後の処遇は会の判断に従う』
澄子の唇が震えた。
だが、泣かなかった。
鏡の景色がまた揺れる。
今度は、夜の廊下だった。
深雪乃は息を止めた。
見覚えがある。
幼い頃の鵺喰家の廊下。
障子の桟の高さ。
行灯の淡い光。
床板の冷たさ。
小さな足。
自分の足だ。
深雪乃は、鏡の中で幼い自分を見た。
まだ五つか六つほどの、幼い深雪乃。
髪は今より短く、寝間着の裾を引きずっている。裸足の足裏が冷えた廊下に触れ、白い息が口から漏れていた。
深雪乃は、思わず喉を押さえた。
「私……」
鏡の中の幼い深雪乃は、誰かに呼ばれているように歩いていた。
ふらふらと。
眠っているようで、目は開いている。
その手には、白藤色の糸が握られていた。
北蔵へ向かっている。
忘れていた記憶。
いや、封じられていた記憶。
幼い深雪乃の前に、白い影が立った。
白い髪。
白い衣。
蒼い目。
顔ははっきり見えない。
けれど、恐怖よりも先に、懐かしさが来た。
深雪乃は、息が苦しくなった。
鏡の中の幼い自分は、その白い影へ手を伸ばした。
『かえすの?』
幼い声がした。
深雪乃自身の声だった。
赫臣の手が震える。
幼い深雪乃は、白い影を見上げていた。
『おかあさまを、かえすの?』
白い影は答えない。
ただ、幼い深雪乃の手に触れた。
黒い組紐と銀の輪が、手首で揺れる。
その手は冷たく白い。
人の手のようで、人ではない。
幼い深雪乃は泣いていなかった。
ただ、ぼんやりと白い影を見ている。
次の瞬間、場所が変わった。
北蔵の前。
冷たい夜。
幼い深雪乃は蔵の前に座り込み、白藤色の糸を握っている。足袋が濡れている。手は赤くなっている。けれど、寒がっている様子はない。
白い影が、蔵の扉へ手を当てた。
扉の封印札が、淡く光る。
その奥から、紙を破るような音がした。
深雪乃は、胸の奥が裂けるような感覚に襲われた。
紙を破る音。
父の死の後にも聞いた音。
事件の前にも聞こえていた音。
それは、もっと昔から深雪乃の記憶の中にあった。
忘れていた。
忘れさせられていた。
幼い深雪乃が、ぽつりと言う。
『あけるの?』
白い影は、首を横に振ったように見えた。
そして、幼い深雪乃の額へ指を触れた。
その瞬間、鏡の中の映像が白く弾けた。
深雪乃の頭の奥に、痛みが走る。
「っ」
赫臣がすぐに深雪乃を抱き寄せた。
「深雪!」
けれど鏡は止まらない。
次に映ったのは、母の死の夜だった。
布団の中の澄子。
ひどく痩せている。
頬はこけ、唇は白く、髪は額に張り付いていた。深雪乃は幼い姿でその横に座っている。泣いている。小さな手で母の袖を掴み、何度も母を呼んでいる。
『おかあさま』
澄子は、震える手で幼い深雪乃の頬に触れた。
『深雪』
声はかすれていた。
『弓を、忘れないで』
『いや』
『鏡を、恐れないで』
『いや、おかあさま』
『同じ沈黙を選ばないで』
幼い深雪乃には、その意味が分かっていない。
ただ泣いている。
澄子の目からも涙が落ちた。
その時、部屋の奥に白い影が立った。
幼い深雪乃は振り返る。
澄子も、わずかに目を動かした。
白い影は、澄子の枕元へ近づいた。
黒い組紐と銀の輪が、淡く光る。
澄子が、かすれた声で言った。
『まだ、だめ』
白い影は止まった。
『この子を、連れていかないで』
深雪乃の胸が凍る。
連れていく。
誰を。
自分を。
澄子は、幼い深雪乃を抱き寄せようとした。
だが、力が足りない。
『あの子は、私の子です』
白い影は、何も言わない。
ただ、澄子を見ている。
そして、幼い深雪乃を見た。
その蒼い目が、鏡の外の深雪乃と重なる。
深雪乃は、赫臣の腕の中で息を忘れた。
白い影が、幼い深雪乃へ手を伸ばす。
その瞬間、斎臣が部屋へ入ってきた。
若い父。
顔は青ざめている。
彼は白い影を見て、息を呑んだ。
『まだ返せない』
斎臣が言った。
震えた声だった。
『封は、まだ安定していない』
白い影は、斎臣を見た。
空気が白く凍る。
斎臣の手に、黒塗りの手鏡がある。
父の書斎で見た鏡。
深雪乃が以前にも見たことがあると感じた鏡。
斎臣はその鏡を掲げた。
鏡面に白い影が映る。
次の瞬間、影は揺らぎ、部屋の空気から薄れていった。
幼い深雪乃は、泣きながらそれを見ていた。
そして、気づいた。
斎臣が自分へ近づく。
黒塗りの手鏡が、幼い深雪乃の前へかざされる。
『忘れろ』
父の声。
深雪乃の心臓が止まりかけた。
『今は、忘れろ』
鏡面が白く光る。
幼い深雪乃の泣き声が、そこで途切れた。
映像が崩れる。
深雪乃は、赫臣の腕の中で震えた。
自分の記憶の空白。
母の死の夜。
白い影。
父。
黒塗りの手鏡。
忘れろ。
深雪乃は、忘れさせられていた。
父に。
あるいは、父が使った鏡に。
母の死の夜に、白い影が来ていた。
母は、深雪乃を連れていかないでと言った。
父は、まだ返せないと言った。
封は安定していない、と。
返す。
まだ返していない。
書斎の鏡に映った白い影の声と繋がる。
深雪乃の身体が、崩れそうになった。
「もういい!」
赫臣が低く叫んだ。
鏡へ手を伸ばしかける。
だが、深雪乃が彼の着物を掴んだ。
「やめないで」
「深雪!」
「やめないでください」
声は震えていた。
涙も出ている。
それでも、深雪乃は鏡から目を逸らさなかった。
まだ見える。
まだ終わっていない。
今やめたら、また何も分からないままになる。
鏡の中で、最後の景色が映った。
父の書斎だった。
夜。
斎臣が一人で文机に向かっている。
顔は老けていた。深雪乃がよく知る父に近い。だが、目元には疲れと後悔が深く刻まれていた。机の上には遺言書の草稿がある。
宵待澄子の遺品一式、深雪乃へ返還すべし。
北蔵封印の開封には、深雪乃本人の立会いを要す。
鵺喰家に残る宵待の品について、親族および使用人の私的処分を禁ず。
斎臣の手が震えている。
彼は、黒塗りの手鏡を机の端へ置いた。
『澄子』
父が呟く。
『私は、間違えた』
その声に、深雪乃の胸が痛んだ。
今さら。
今さらだ。
けれど、父の声は確かに痛んでいた。
『深雪乃を、返すべきではなかったのかもしれない。いや、返すべきだったのかもしれない。だが、あれは私の子でもある』
深雪乃は息を止めた。
父は、自分をそう呼んだ。
私の子、と。
『会にも、白き客人にも、篝火にも渡せなかった』
斎臣は、両手で顔を覆った。
『守ったのではない。閉じ込めただけだ』
鏡の中の父の背が震える。
『私もまた、鵺喰だった』
その時、書斎の障子の向こうで紙を破るような音がした。
斎臣が顔を上げる。
黒塗りの手鏡の表面に、白い影が映った。
蒼い目。
斎臣が立ち上がる。
『まだだ』
白い影の声が、初めてはっきり聞こえた。
『返して』
斎臣の喉が震えた。
『深雪乃は、もう物ではない』
『返して』
『あれは、私の子だ』
『返して』
『澄子の子だ』
白い影の蒼い目が、冷たく光る。
『まだ、返していない』
斎臣が鏡へ手を伸ばす。
その瞬間、鏡の中の景色は白く弾けた。
深雪乃の視界も、同時に揺れた。
部屋に戻る。
離れの一室。
白布。
母の鏡。
赫臣の腕。
蓮台の声。
白絹の気配。
砂笙の筆が落ちる音。
深雪乃は、崩れた。
座っていることすらできなくなった。
赫臣が抱きとめる。
深雪乃の身体は、彼の腕の中へ落ちた。息が浅い。目の奥が熱い。涙が勝手に流れる。泣いているのか、過去の深雪乃と今の深雪乃が混ざっているのか、自分でも分からない。
「深雪!」
赫臣の声が近い。
強い腕が背を支える。
痛くない。
傷を避けている。
こんな時でも。
深雪乃は、そのことに胸がさらに痛くなった。
「私は」
声がかすれる。
「私は、忘れさせられていたのですね」
誰も答えられない。
答えは、鏡がもう見せた。
「母さまの死の夜、白い影が来ていました。母さまは、私を連れていかないでと言っていました。父は、まだ返せないと言っていました」
言葉が壊れそうになる。
「私は、誰に返されるはずだったのですか」
赫臣の腕が、深くなる。
「深雪」
「私は、誰のものでもないと、言ってくださったのに」
深雪乃は、赫臣の胸元を掴んだ。
「でも、最初から、誰かへ返されるものだったのですか」
赫臣の顔が歪む。
「違う」
「何が違うのですか」
「お前は物じゃねえ」
「では、なぜ皆、返せと言うのですか」
涙が止まらない。
「母さまは私を子として産もうとしたのに。父は私の記憶を消したのに。会は私を預かりと見なしたのに。白い影は返してと言うのに。あなたは、俺のものだと言うのに」
赫臣の呼吸が止まった。
深雪乃は、顔を上げた。
目の前に、赫臣の蒼い目がある。
白い影とは違う蒼。
けれど、どちらも深雪乃を見ている。
深雪乃は、震える声で言った。
「それでも、私に口づけるのですか」
部屋の空気が止まった。
その問いは、赫臣だけに向けたものだった。
私は契約書に書かれた鍵かもしれない。
白い影が返せと求めるものかもしれない。
母が守れなかった子。
父に忘れさせられた子。
会に預かりと見なされた子。
自分自身の記憶すら信じられない女。
あなたは、それでも私に口づけるのですか。
赫臣は、深雪乃を見た。
長い沈黙。
その間に、彼の顔から余裕が消えていく。
色男の甘さも、皮肉も、強気な笑みもない。
ただ、恐れている男の顔があった。
愛している女を疑わずにいられない男。
真相に近づきながら、彼女を失うことを恐れている男。
百鬼夜行の主でありながら、一人の女の前で壊れそうになっている男。
赫臣は、深雪乃の頬へ手を添えた。
涙で濡れている。
彼の指が、震えていた。
「疑っても、愛してる」
深雪乃の呼吸が止まった。
赫臣は、目を逸らさなかった。
「なぜとは思う。お前の中に何があるのか怖い。白い影がお前を呼んでるのか、お前の空白が白い影を呼んでるのか、俺の血が封を揺らしてるのか、全部怖い。疑いみたいな形でしか見えねえものもある」
彼の声は低く、痛かった。
「それでも、愛してる」
深雪乃の涙が、また落ちる。
「契約書が何を言っても、会が何を決めてても、白い影が返せと言っても、父親がお前の記憶を消してても、母君が守れなかった過去があっても。俺は、今ここにいるお前を愛してる」
赫臣の顔が近づく。
だが、すぐには口づけない。
待っている。
深雪乃が拒むかどうか。
深雪乃は、震えながら彼を見た。
「私は、自分が何なのか分かりません」
「ああ」
「記憶も、身体も、出生も、全部」
「ああ」
「あなたも、私を完全には信じきれない」
赫臣の顔が痛む。
だが、否定しなかった。
「なぜとは考える」
「それでも?」
「ああ」
赫臣は、深雪乃の額に自分の額を触れさせた。
「それでも、口づける」
深雪乃は、目を閉じた。
拒まなかった。
その瞬間、赫臣の唇が重なった。
深い口づけではなかった。
最初は、祈るように静かだった。
涙に触れ、震えに触れ、壊れた記憶の端へ触れるような口づけ。深雪乃の唇は冷えていた。赫臣の唇は熱かった。その差が、今ここに自分がいることを教える。
深雪乃は、彼の襟を掴んだ。
赫臣の腕が、深くなる。
その途端、口づけも少し深くなった。
慰めでは足りない。
説明でも足りない。
疑いと愛が、同じ唇の上で溶け合う。苦い。けれど甘い。深雪乃は息を震わせ、赫臣へ縋った。涙がまだ止まらない。けれど、口づけから逃げなかった。
唇が離れる。
赫臣は、深雪乃の名前を呼んだ。
「深雪」
低く。
何度も。
「深雪」
「……聞こえています」
「大好きだ」
「今は」
「愛してる」
「今は、苦いです」
「知ってる」
「でも」
深雪乃は、彼の襟を掴んだまま、かすれた声で言った。
「もう一度」
赫臣の目が揺れた。
次の瞬間、彼はもう一度深雪乃に口づけた。
今度は、さっきより深かった。
蓮台が目を伏せる気配がした。
砂笙が、筆を拾う音がした。
白絹は何も言わなかった。
誰も止めなかった。
母の鏡は、深雪乃の膝から畳へ移され、まだ白く曇っている。
その鏡面には、もう過去は映っていない。
ただ、今の深雪乃と赫臣の影が、ぼんやり映っていた。
深雪乃は、赫臣の腕の中で崩れそうになりながらも、彼の唇を受け止めた。
過去は戻らない。
母は死んだ。
父は記憶を消した。
会は契約書を書いた。
白い影は返せと言う。
深雪乃は、自分の失われた時間を取り戻し始めている。
その先に何があるのか、まだ分からない。
けれど、もう戻れない。
鏡は、深雪乃に見えなかったものを映した。
母の過去。
鵺喰家の罪。
深雪乃自身の知らない時間。
そして、赫臣の愛が、疑いを抱えたままでも消えないこと。
深雪乃は、口づけの合間に涙を流した。
崩れそうだった。
それでも、完全には崩れなかった。
赫臣の腕が、彼女を支えていた。
疑っても、愛してる。
その言葉は、綺麗ではなかった。
けれど、今の深雪乃には、綺麗な嘘よりずっと必要だった。




