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人間臭いと蔑まれた不死身の娘は、百鬼夜行の主に愛される  作者: なつめ


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第48話 白い影の正体へ

 白い影は、いつから鵺喰家にいたのか。


 その問いが、離れの一室に重く置かれていた。


 朝から雨は降っていない。けれど空は厚い雲に覆われ、屋敷全体が薄い灰色の光に沈んでいる。庭の苔はまだ湿っていて、風が吹くたびに濡れた土と古い木の匂いが廊下へ流れ込んできた。


 深雪乃は、白布の前に座っていた。


 白布の上には、母の遺品と事件記録が並べられている。


 折れた櫛。


 沈丁花文様の懐中鏡。


 髪飾りの欠片。


 白藤色の着物の糸。


 ブレスレットの割れ玉。


 古弓の欠片。


 破魔矢の軸片。


 弓懸。


 父の書斎で見つかった契約書の写し。


 破られた遺言書の写し。


 枯野井宗顕の文箱から出た、焦げ残りの紙片。


 祈祷部屋から回収された、宵待澄子と胎内封じに関わる記録。


 それらは、もうばらばらの証拠には見えなかった。


 白布の上で、互いを呼び合っているように見えた。


 母の遺品が揃った時、深雪乃は母の遺響を見た。


 祈祷部屋で母が何かを封じられている場面。


 母が深雪乃を「器ではない」と言った場面。


 母が、深雪乃を自分の子として産もうとしていたこと。


 母が、深雪乃へ「同じ沈黙を選ばないで」と残したこと。


 そして父の書斎では、深雪乃が生まれる前から契約書の中で「胎内に宿るもの」「鍵」「保管されるもの」として扱われていた可能性が示された。


 深雪乃は、その文字を思い出すだけで胸が冷えた。


 胎内に宿るもの。


 出生後は鵺喰家が保護管理する。


 器と定めること叶わざる場合、鍵として保管し、開鍵の期まで封を維持する。


 鬼血、近づく時、封は揺らぐ。


 自分が人として生まれる前から、紙の上では何かの役割として書かれていた。


 それを見た時、深雪乃は倒れた。


 鏡に映った白い影の蒼い目を見たからか。


 契約書の文言を受け止めきれなかったからか。


 あるいは、自分の中の何かが反応したからか。


 それすら、まだ分からない。


 赫臣は、深雪乃の隣に座っていた。


 近い。


 手は触れていない。


 けれど、いつでも触れられる距離だ。昨夜、彼は深雪乃を抱きしめ、「俺のものだ」と何度も繰り返した。会のものではない、鵺喰のものではない、契約書のものではない、神と呼ばれたもののものでもない、と。


 深雪乃は、それを聞いた。


 所有物ではないと分かっていながら、その言葉に縋った。


 契約書の冷たい文字より、赫臣の腕の熱を選んだ。


 それでも朝になると、胸の奥に苦さが残る。


 赫臣は真相に近づいている。


 だが、まだ言わない。


 彼の沈黙が、部屋の中で白布の上の証拠と同じくらい重かった。


 蓮台は、低い机の向こうに座っている。


 警視庁の怪異事件担当として、彼の前には現場ごとの記録が並んでいた。字は簡潔で、余計な感傷がない。喜周、祢々、頼成、兼継、玄磊、枯野井、御厨数馬。名前が並ぶと、屋敷が死者の帳簿になったように見えた。


 白絹は、深雪乃の斜め向かいに座っている。


 白地に金糸の着物。


 淡い金茶の髪。


 琥珀色の瞳。


 美しさは変わらない。だが、以前のような余裕だけではない。蘆野火家も過去の隠蔽に関わっていた可能性を知ってから、白絹は時々、言葉の前にわずかな重さを置くようになった。


 砂笙は、記録係として控えていた。


 彼の顔は相変わらず胃が痛そうだった。いや、この状況で胃が痛くない方がおかしい。鵺喰家の殺人事件、先祖返り会の隠蔽、百鬼夜行の主の恋愛暴走、神と呼ばれたもの。これを一人の胃で受け止めるのは無理がある。胃にも人権が必要だ。


 蓮台が、最初に口を開いた。


「整理する。感情を抜きにして、現場だけを見る」


 その声は冷たい。


 だが、今はその冷たさが必要だった。


「第一、北蔵。喜周。赫臣の霊糸に見せかけた切創。実際は退魔糸による偽装。封印札の二重貼りと外部からの掛け金操作で密室に見せた。現場には澄子の髪飾りの欠片」


 砂笙が頷く。


「髪飾りは、宵待の退魔具の気配を残しておりました」


 蓮台は続ける。


「第二、井戸端。祢々。井戸に落ちた溺死に見せかけたが、実際は幻術による水責め感覚と窒息。口元と右袖だけが濡れていた。袖の水には、母の鏡を清める塩が混じっていた」


 白絹が静かに言った。


「幻術の系統は、蘆野火に似せることもできますわ。ただし、あの術は私のものではありません。似ているけれど、芯が違う」


 蓮台が頷く。


「第三、客間。頼成。内鍵の密室に見せたが、骨針で外から掛け金を落とした。胸の五本傷は化け猫の爪痕ではなく、五本刃の退魔具による偽装。夜岐に疑いを向ける形だった。畳下から澄子のブレスレットの割れ玉」


 深雪乃は、夜岐の名にわずかに反応した。


 夜岐は生きている。


 加害を認め、殺人を否定し、白い女を見たと怯えた姉。


 殺されなかった姉。


 あの違和感も、まだ消えていない。


 蓮台は、次の記録を取った。


「第四、桜の根元。兼継。胸に矢傷のような傷があるが、矢はない。破魔術を模した霊具による傷。桜に澄子の白藤色の着物の糸が結ばれ、呼び寄せの道標になった可能性がある。現場には白い髪のようなもの」


 赫臣の表情が、わずかに硬くなる。


 白い髪。


 最初にそれが出た時から、赫臣は何かを知っている顔をしていた。


 深雪乃は、その横顔を見た。


 彼は気づいている。


 しかし、まだ言わない。


 蓮台は記録をめくる。


「第五、祈祷部屋。玄磊。自分の護符を反転させられて死亡。山本五郎左衛門の家紋の前。記録には宵待澄子、胎内封じ、器ではない、鍵、白き客人、篝火への報せ禁ず、鬼に渡すな等の断片。玄磊の最期の言葉も、深雪乃は鵺喰の器ではない、鍵、鬼に渡すな」


 深雪乃の胸が冷える。


 鬼に渡すな。


 その言葉は、赫臣にも深雪乃にも刺さる。


 赫臣が深雪乃の手へ触れようとして、途中で止めた。


 深雪乃は、その手を見た。


 伸ばされなかった手。


 その遠慮が、嬉しくもあり、苦しくもあった。


 蓮台はさらに続けた。


「第六、先祖返り会の使者、枯野井宗顕。会の結界内で死亡。外から結界は破られていない。内部で結界核が反転し、破魔の光が爆ぜた。文箱には、開鍵の期、篝火血統との接触により封じの揺れを確認、結界これを認識せずと読める紙片」


 白絹が、低く言った。


「妖気結界に認識されない力。人でも妖でも、通常の退魔でもない可能性」


「第七、父の書斎。御厨数馬。密室は隠し棚の仕掛けで外から鍵と閂を操作できた。だが殺害そのものは仕掛けでは説明できない。契約書に触れた右手の指先から、破魔の力が体内へ流れ込み、心ノ臓を焼いた」


 砂笙が続ける。


「破魔の痕跡は宵待の血筋に近い。しかし、通常の人間や妖、通常の退魔師では不可能です。妖気の残滓も、旦那様の霊糸の焼けも、蘆野火の幻術の芯もございません」


 蓮台は、そこで紙を置いた。


「共通点は三つ。被害者は全員、宵待澄子、深雪乃、または鵺喰家の過去の契約に関わっている。現場には澄子の遺品、またはそれに連想する痕跡が置かれている。殺害方法は毎回、妖や先祖返りの仕業に見せながら、人為的な仕掛けと説明不能な破魔が混ざっている」


 部屋が静まった。


 深雪乃は、白布の上の遺品を見つめた。


 全部、自分へ近づいてくる。


 母の遺品。


 母の声。


 白い影。


 契約書。


 鬼血。


 開鍵。


 自分の出生。


 事件は、鵺喰家の罪を暴いているように見える。


 母を利用した者たちを裁いているようにも見える。


 けれど、本当にそれだけだろうか。


 夜岐は殺されなかった。


 枯野井は結界内で死んだ。


 御厨数馬は契約書に触れて死んだ。


 白い影は、深雪乃に「返して」と言った。


 復讐だけでは説明できない。


 赫臣が低く言った。


「被害者は、澄子を利用した連中だけじゃねえ」


 全員の目が赫臣へ向く。


 赫臣の顔は硬い。


「深雪を契約書の文言へ繋いだ連中だ。遺品を隠し、契約を隠し、封じを維持し、会へ報せるか報せねえかを決めていた。つまり、全員が『鍵を保管する側』に近い」


 鍵。


 深雪乃の指が、膝の上で動く。


 赫臣はその動きを見て、少しだけ言葉を止めた。


 それでも続ける。


「喜周は北蔵と遺品。祢々は使用人側で母の遺品と深雪の扱い。頼成は目録と客間の保管。兼継は白藤の着物を裂かせた。玄磊は胎内封じを知る祈祷師。枯野井は会の裁定と検分。数馬は契約書と遺言書の写し」


 白絹が頷く。


「全員、深雪乃さんが自分のことを知るための道を塞いでいた、または塞ぐ側にいた者たちですわね」


 蓮台が言う。


「なら、白い影は深雪乃を解放しようとしているのか」


 深雪乃は息を止めた。


 解放。


 その言葉は、甘く聞こえる。


 だが、白い影の「返して」は甘くなかった。


 白絹が静かに首を振る。


「解放だけとは限りませんわ。白い影は、深雪乃さんに真実を近づけている。けれど同時に、深雪乃さんの心を揺らし、遺品を揃え、契約書へ導き、鏡に姿を映した。解放ではなく、何かを開かせようとしている可能性もあります」


 赫臣の目が冷える。


「開鍵か」


 その言葉に、部屋の空気が張り詰めた。


 開鍵の期、近し。


 枯野井の紙片。


 契約書の文言。


 母鏡、弓、白藤、鬼血、会印。


 五つを要す。


 砂笙が、苦い声で言う。


「母鏡、弓、白藤、会印はすでに近くにございます。鬼血は旦那様。五つは、意図せず揃いつつあります」


 深雪乃の喉が乾く。


「意図せず、でしょうか」


 自分の声が、思ったよりも静かだった。


 皆が深雪乃を見る。


 深雪乃は白布の上を見つめたまま続けた。


「母の遺品は、事件現場から少しずつ戻ってきました。鏡、櫛、髪飾り、着物の糸、ブレスレット、弓の欠片。契約書は父の書斎で出てきました。会印もそこにありました。赫臣様は、最初から私のそばにいます」


 赫臣の息が止まった。


 深雪乃は、彼を見ないまま言った。


「意図せず、ではなく、揃えられているのではありませんか」


 沈黙。


 蓮台が、低く言った。


「その可能性はある」


 白絹も頷く。


「復讐に見せかけて、必要なものを深雪乃さんの前へ集めている。白い影がそれをしているのか、別の犯人が白い影を利用しているのか、深雪乃さん自身の中の力が遺品を呼んでいるのか。今は複数の可能性が残りますわ」


 複数の可能性。


 母の霊。


 白き客人。


 神と呼ばれたもの。


 人間の犯人。


 鵺喰家内部の生き残り。


 先祖返り会の誰か。


 深雪乃自身の無意識の力。


 どれも完全には否定できない。


 どれも、深雪乃の胸を冷やす。


 蓮台が、現実的な方向から言った。


「人間の犯人説を捨てるな。各現場には人為的な仕掛けがある。封印札、退魔糸、骨針、五本刃退魔具、桜の道標、隠し廊下、猫道、書斎の隠し棚。これらは知識と準備がなければ使えない」


 白絹が続ける。


「けれど、人間だけでも足りません。夜岐が見た蒼い目の白い女、枯野井の結界が認識しなかった力、数馬の体内を焼いた破魔、母の遺響の完全再生。そこには通常の幻術や退魔だけでは説明しきれないものがございます」


 赫臣が低く言う。


「そして、白い影は深雪を見てる」


 深雪乃は、彼を見た。


 赫臣の蒼い目は、深く険しい。


「夜岐を殺さなかった。白い女を証言させた。枯野井を殺して検分を止めた。数馬を父の書斎で殺し、契約書を深雪に見せた。白い影は、深雪の反応を読んでる。いや、読んでるってより」


 彼は言葉を切った。


 深雪乃は待つ。


 赫臣は、苦く続けた。


「深雪を、その方向へ導いてる」


 導く。


 その言葉は、優しくも、恐ろしくもあった。


 深雪乃は、胸元の鏡へ手を当てた。


「私は、導かれているのですか」


「そう見える」


 蓮台が言った。


 容赦のない声だった。


「少なくとも、事件はお前を中心に動いている。お前が知らされなかった過去を、お前の前に一つずつ出している。だが、それが善意か悪意かは分からない」


 善意か悪意か。


 深雪乃は、思わず笑いそうになった。


 笑える話ではないのに。


 母の遺品を事件現場に置き、人を殺し、契約書を見せ、鏡に白い影を映す。そんなものが善意かもしれないと言われる。悪意なら分かりやすい。善意なら、もっと恐ろしい。


 白絹が、深雪乃を見た。


「深雪乃さん。あなた自身の記憶に、空白はありませんか」


 深雪乃は、瞬きをした。


「記憶の空白」


「ええ。幼少期でも、最近でも構いません。気づけば場所が変わっていた、時間が飛んでいた、誰かに何かを言われたのに覚えていない。そういうことは?」


 深雪乃は、答えようとした。


 ない、と。


 だが、言葉はすぐには出なかった。


 胸の奥で、何かが小さく動いた。


 記憶。


 空白。


 深雪乃は、自分の過去を思い返した。


 鵺喰家での幼い日々。


 母の部屋。


 母の香り。


 白藤色の着物。


 蔵に閉じ込められた夜。


 食事を抜かれた日。


 夜岐に櫛を折られた日。


 雨の帝都へ追い出された日。


 その記憶の中に、確かにところどころ、薄い霧のような部分がある。


 思い出そうとすると、頭の奥が白くなる場所。


 深雪乃は、ゆっくり口を開いた。


「……あります」


 赫臣の手が、ぴくりと動いた。


 白絹の目が細くなる。


 蓮台が姿勢を正した。


「いつだ」


 深雪乃は、眉を寄せる。


「幼い頃、母が亡くなる少し前のことを、よく覚えていません」


 声が小さくなる。


「母の部屋にいたはずなのに、気づくと北蔵の近くにいたことがあります。寒かったことだけ覚えています。足袋が濡れていて、手に白藤色の糸を握っていました。でも、どうしてそこへ行ったのか、分かりません」


 砂笙が筆を取る。


 深雪乃は続けた。


「母が亡くなった日の夜も、全部は覚えていません。泣いたことは覚えています。誰かに抱き上げられた気がします。でも、その人の顔が思い出せません。父ではなかったと思います。使用人でもありません。手首に……」


 そこで、深雪乃は息を止めた。


 黒い組紐。


 小さな銀の輪。


 母の遺響に映った手。


 白き客人かもしれない手。


 深雪乃は、自分の手を見る。


「手首に、黒い組紐と銀の輪があった気がします」


 赫臣の顔が強張った。


 白絹が小さく息を吸う。


 蓮台が低く言う。


「つまり、お前は幼い頃、その人物に会っている可能性がある」


「覚えていません」


「だが、手首の印象は残っている」


「はい」


 深雪乃の喉が乾く。


「それから、父が亡くなった夜」


 赫臣が深雪乃を見る。


 深雪乃は、記憶の中を探った。


「父の書斎の前にいた気がします。紙を破る音を聞いたと思っていました。けれど、私はその時、本当に廊下にいたのでしょうか。書斎の中に、入ったことがあるような気もします」


 部屋の空気が変わった。


 赫臣が低く言う。


「深雪」


「分からないのです」


 深雪乃は、少し早口になる。


「私は、書斎へ入った記憶はありません。父の部屋には近づけませんでした。けれど、昨日、書斎の手鏡を見た時、初めて見た気がしませんでした」


 父の黒塗りの手鏡。


 白藤のような細工。


 そこに映った白い影。


「あの鏡を、私は前にも見ています」


 言葉にして、深雪乃自身が震えた。


「どこで」


 蓮台が問う。


 深雪乃は首を横に振る。


「分かりません。でも、見たことがあります。幼い頃か、父が亡くなった夜か、母が亡くなる前か。分からない。思い出そうとすると、白くなるのです」


 白くなる。


 白い霧。


 白い影。


 白い髪。


 蒼い目。


 深雪乃の視界が、少し揺れた。


 赫臣がすぐに彼女の肩を支える。


「無理に思い出すな」


「思い出さないと」


「今じゃなくていい」


「でも」


「今じゃねえ」


 赫臣の声が、強くなった。


 命令に近い。


 深雪乃は彼を見上げた。


「また、止めるのですか」


 赫臣の顔が痛む。


「止める」


「命令ですか」


「お願いだ。今は止まってくれ」


 深雪乃は、息を詰めた。


 赫臣は、深雪乃をまっすぐ見ている。


 隠している顔だ。


 そして、怖がっている顔だ。


 深雪乃は、それがもう分かる。


 白絹が、静かに言った。


「記憶の空白にも、何らかの封じがかかっている可能性がありますわ。無理に触れれば、深雪乃さんの中のものが反応するかもしれません」


 蓮台も珍しく同意した。


「倒れたばかりだ。今ここで無理に掘るな」


 深雪乃は、唇を噛んだ。


 悔しかった。


 自分の記憶なのに、自分で触れられない。


 また、自分のものではないようだった。


 赫臣の手が、肩から背へ回る。


「確認する」


 彼は言った。


 いつもなら、それで深雪乃は少し身構える。


 だが、今は別の言葉が先に出た。


「赫臣様」


「何だ」


 深雪乃は、彼を見上げた。


 蒼い目。


 白い影の蒼い目とは違う。


 温かくて、苦くて、嘘を隠しきれない目。


「あなたは、私を見ながら何を隠しているのですか」


 部屋が、静かになった。


 赫臣の手が、深雪乃の背で止まる。


 深雪乃は、彼から目を逸らさなかった。


「私の記憶の空白を聞いて、あなたは怖がりました。父の書斎の鏡を見たことがあると言った時も。母の遺品、白い影、鬼血、開鍵、百鬼夜行。あなたは何かに近づいています」


 赫臣は答えない。


 深雪乃の声は、少しだけ震えた。


「それなのに、私にはまだ言わない。あなたは、私を見ながら、何を隠しているのですか」


 赫臣の喉が動いた。


 答えは、すぐには出なかった。


 その沈黙だけで、深雪乃の胸は痛んだ。


 蓮台も、白絹も、砂笙も黙っている。


 これは、証拠の整理ではなくなっていた。


 深雪乃と赫臣の間に置かれた問いだった。


 赫臣は、ゆっくり息を吐いた。


「今、言えば」


「はい」


「お前は、自分の記憶を疑う」


「もう疑っています」


「自分の身体も疑う」


「もう疑っています」


「俺のことも疑う」


 深雪乃の息が止まった。


 赫臣は、苦く笑った。


「それでも、言えって言うか」


 深雪乃は、彼を見た。


 疑う。


 赫臣を。


 その言葉が胸に刺さる。


 けれど、すでに刺さっている。


 彼は隠している。


 愛しているのに。


 抱きしめるのに。


 俺のものだと言うのに。


 まだ、何かを隠している。


「言ってほしいです」


 深雪乃は、静かに答えた。


 赫臣の目が揺れる。


「でも、今あなたが本当に言えないのなら、言えない理由を隠さないでください」


 赫臣は、深雪乃を見つめた。


 長い沈黙の後、低く言った。


「白い影が、お前を呼んでるだけじゃねえかもしれねえ」


 深雪乃の胸が冷える。


「どういう意味ですか」


「お前の中の空白が、白い影を呼んでる可能性がある」


 言葉が、ゆっくり落ちた。


 深雪乃は、動けなかった。


 白い影が自分を呼ぶ。


 自分の記憶の空白が白い影を呼ぶ。


 その二つは、似ているようで違う。


 後者は、深雪乃の内側に原因がある。


「私が、呼んでいると?」


「お前が意識してるとは思ってねえ」


 赫臣はすぐに言った。


「でも、お前の中に封じられた記憶や力が、遺品や契約書や鬼血に反応して、白い影を近づけている可能性がある」


「それを、隠していたのですか」


「推測だからだ」


「それだけですか」


 赫臣は、答えなかった。


 深雪乃は、胸が痛くなる。


「それだけではないのですね」


 赫臣は、目を伏せた。


「もう一つある」


「はい」


「俺が近くにいることで、その反応が強まっている可能性がある」


 鬼血。


 封の揺れ。


 赫臣の存在。


 百鬼夜行の主。


 深雪乃は、息を止めた。


 赫臣は続けた。


「俺は、お前を守ってるつもりで、お前を白い影へ近づけてるのかもしれねえ」


 その声は、ひどく苦かった。


 深雪乃は、何も言えなかった。


 赫臣が隠していたものの輪郭が、少し見えた。


 自分の中の空白が白い影を呼ぶ可能性。


 赫臣の鬼血が、その反応を強める可能性。


 ならば、深雪乃と赫臣が近づくほど、事件は進むのか。


 抱きしめるほど。


 口づけるほど。


 愛していると言うほど。


 深雪乃は、赫臣の腕の中で、白い影へ近づいているのか。


 赫臣が深雪乃を見つめる。


 その目に、恐れがある。


 彼は、深雪乃が離れると思っている。


 離れた方が安全かもしれないと、彼自身が考えている。


 それが分かった瞬間、深雪乃は彼の着物を掴んだ。


 強く。


「離れません」


 赫臣の目が見開かれる。


「深雪」


「今、そう考えましたね」


「……ああ」


「離れた方がいいかもしれないと」


「ああ」


「私は、離れません」


 深雪乃の声は震えていた。


 けれど、はっきりしていた。


「あなたが私を白い影へ近づけている可能性があっても。私の空白が白い影を呼んでいる可能性があっても。離れた方が安全かもしれなくても。今、あなたが勝手に決めて離れることだけは、許しません」


 赫臣の顔が歪む。


「深雪」


「あなたが私を見ながら隠していたことは、許していません」


「ああ」


「でも、話しました」


「ああ」


「まだ全部ではありませんね」


「……ああ」


「なら、次も話してください」


 深雪乃は、彼の襟を握る手に力を込めた。


「隠して、甘やかして、抱きしめて、苦い口づけで誤魔化すのではなく」


「深雪」


「話してください」


 赫臣は、深く息を吐いた。


 そして、深雪乃を抱きしめた。


 強くはない。


 けれど、深く。


 背の傷を避け、肩を包み、彼女の頭を胸へ寄せる。


「悪い」


「謝罪は聞きました」


「次は、話す」


「約束です」


「ああ」


「破ったら」


「刺せ」


「分かりました」


 蓮台が小さくため息をついた。


「物騒な約束をするな」


 白絹が、苦く笑う。


「お二人には、それくらいがちょうどよいのかもしれませんわ」


 砂笙は何も言わず、記録に筆を走らせていた。


 深雪乃は、赫臣の胸元で目を閉じる。


 白い影の正体は、まだ見えない。


 母の霊なのか。


 白き客人なのか。


 神と呼ばれたものなのか。


 人間の犯人が操る幻なのか。


 深雪乃自身の記憶の空白が呼んでいる何かなのか。


 赫臣の鬼血が、その影を近づけているのか。


 可能性は、いくつも残っている。


 けれど、一つだけ確かだった。


 白い影は、深雪乃の外側だけにいるのではない。


 彼女の過去の空白にも触れている。


 その事実が、恐ろしかった。


 赫臣の腕が、少しだけ深くなる。


「苦しいか」


「少し」


 すぐに力が緩む。


「今は?」


「大丈夫です」


「深雪」


「はい」


「どこにも行くな」


「命令口調です」


「お願いだ。どこにも行くな」


 深雪乃は、彼の胸に額を寄せた。


「あなたも、勝手に離れないでください」


「ああ」


 外では、曇り空の下で庭の木々が揺れていた。


 鵺喰家の奥には、まだ開かれていない記録がある。


 深雪乃の中にも、まだ開いていない記憶がある。


 白い影の蒼い目は、どこかでこちらを見ている。


 深雪乃は、その視線を感じながら、赫臣の腕の中で静かに息をした。


 怖い。


 でも、もう目を逸らせない。


 白い影の正体へ、少しずつ近づいている。


 その道が、自分の外から来るものなのか、自分の内側へ続いているものなのか。


 まだ、誰にも分からなかった。


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