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人間臭いと蔑まれた不死身の娘は、百鬼夜行の主に愛される  作者: なつめ


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第47話 書斎殺人のトリック解説


 深雪乃が目を覚ました時、最初に見えたのは、赫臣の胸元だった。


 黒に近い深い色の着物。


 その合わせ目にかかる首飾り。


 金属の冷たい光。


 それから、彼の手。


 深雪乃の肩と背を包むように添えられた大きな手が、少しも動かずそこにあった。


 部屋は薄暗い。


 昼なのか夜なのか、一瞬分からなかった。障子の向こうは白く、行灯は消えている。外の庭から鳥の声が聞こえる。朝だと気づくまで、少し時間がかかった。


 昨日、父の書斎で御厨数馬の死体を見た。


 机の上に破られた遺言書の写しがあった。


 古い契約書があった。


 契約書には、深雪乃が生まれる前から何かに利用されるような文言が残されていた。


 胎内に宿るもの。


 出生後は鵺喰家が保護管理する。


 器と定めること叶わざる場合、鍵として保管し、開鍵の期まで封を維持する。


 宵待澄子は、胎内のものを自身の子として出生させることを望む。


 ただし会は、これを契約上の預かりと見なす。


 母は、深雪乃を子として産もうとした。


 会は、預かりものと見なした。


 その意味を理解した瞬間、深雪乃は自分の身体が遠くなった。


 そして、父の書斎の手鏡に白い影を見た。


 白い髪。


 白い衣。


 蒼い目。


 返して。


 まだ、返していない。


 その声を聞いた後、意識が途切れた。


 深雪乃は、ゆっくり息を吸った。


 胸が痛い。


 身体に傷があるわけではない。けれど、胸の奥に冷たい爪が引っかかっているようだった。


 赫臣の腕が動いた。


「起きたか」


 声が近い。


 掠れていた。


 昨夜、眠っていない声だった。


 深雪乃は、顔を上げた。


 赫臣は、深雪乃を抱いたまま座っていた。寝ていたのではない。ずっと起きていたのだろう。蒼い目には疲れがあった。けれど、深雪乃を見た瞬間、その奥に強い安堵が滲んだ。


「……また、眠らなかったのですか」


「眠れるか」


「身体に悪いです」


「鬼だ」


「便利に使わないでください」


 いつものやり取りをしようとして、声が途中でかすれた。


 赫臣の顔が痛む。


「水を飲め」


 彼はすぐに湯呑みを取った。


 深雪乃を支えながら、口元へ水を運ぶ。深雪乃は自分で持とうとしたが、手に力が入りきらなかった。赫臣は何も言わず、彼女の手を添えさせるだけにした。


 水はぬるかった。


 喉を通る感覚が、自分がまだここにいることを教える。


 深雪乃は、少しずつ呼吸を整えた。


「書斎は」


「蓮台と砂笙が封じてる。白絹もいる」


「御厨様は」


「死んでる」


 赫臣の声は低い。


 深雪乃は目を伏せた。


「そうですか」


 悲しみは、来なかった。


 驚きも薄い。


 ただ、契約書の文言だけが胸の中に残っている。


 生まれる前から。


 自分は何かの契約に置かれていた。


 その事実が、御厨数馬の死よりも深く、深雪乃を沈ませていた。


 そんな自分がまた分からなくなる。


 人の死を見て、それより契約書の言葉の方が痛い。


 これは冷たいことなのか。


 当然のことなのか。


 自分では判断できない。


 赫臣は、深雪乃の表情を見ていた。


「深雪」


「はい」


「今、お前が何を感じても、それだけでお前を責める材料にはさせねえ」


 深雪乃は、彼を見た。


 言われる前に読まれていた。


 そのことに、少しだけ苦くなる。


「顔に出ていましたか」


「俺には」


「便利ですね」


「深雪だけだ」


「便利な言い訳です」


「本当だ」


 赫臣は、深雪乃の額へ軽く口づけた。


 深雪乃は目を閉じる。


「今のは、何ですか」


「確認」


「苦いです」


「知ってる」


「でも、嫌ではありません」


 赫臣の腕が、ほんの少しだけ強くなる。


 痛くはなかった。


 深雪乃は、その腕の中でしばらく動かなかった。


 やがて、廊下の向こうから足音が近づいた。


 砂笙だった。


 障子の外で立ち止まり、静かに声をかける。


「旦那様。深雪乃様はお目覚めでしょうか」


 赫臣は深雪乃を見る。


 深雪乃は頷いた。


「起きてる」


「蓮台様が、書斎の検分についてお伝えしたいと」


 赫臣の顔が険しくなる。


「後にしろ」


 深雪乃は、すぐに言った。


「行きます」


「深雪」


「私に関わることです」


「起きたばかりだ」


「起きています」


「倒れたばかりだ」


「倒れましたが、戻りました」


「そういう言い方をするな」


 赫臣の声が低くなる。


 深雪乃は、少しだけ目を伏せた。


「申し訳ありません」


「謝るな。怒ってるんじゃねえ」


「怒っています」


「……心配してる」


「知っています」


 深雪乃は、彼の着物を指先で掴んだ。


「だから、一緒に来てください」


 赫臣の息が止まる。


 それから、低く答えた。


「ああ」


 父の書斎は、朝の光の中でも暗かった。


 戸は昨日、赫臣の霊糸で最小限に切られた部分を仮止めされている。廊下側には篝火家の従者と蓮台の部下が立ち、部屋の中では蓮台、砂笙、白絹が検分を続けていた。


 御厨数馬の死体は、まだ机のそばにあった。


 深雪乃は、一度だけ息を止めた。


 だが、目は逸らさなかった。


 赫臣はすぐ隣で、肩へ手を添えている。確認の手。逃がさないためではなく、倒れた時に受け止めるための手だった。


 蓮台が深雪乃を見た。


「無理はするな」


「はい」


「する顔だな」


「必要ならします」


「似た者同士だな」


 蓮台は赫臣を一瞥した。


 赫臣が不機嫌そうに眉を寄せる。


「俺と深雪を雑に並べるな」


「悪い意味だけとは言っていない」


「なお悪い」


 白絹が、静かに口を挟んだ。


「今は検分を進めましょう。お二人が言い合うと、話が長くなりますわ」


 深雪乃は白絹を見る。


 白絹の顔色も少し悪い。昨日の契約書の文言は、彼女にも重かったはずだ。蘆野火家も情報調整に関わっていた。契約書に押された先祖返り会の印と、そこに残る蘆野火の痕跡。白絹はそれを背負った顔をしていた。


 蓮台が、書斎の戸を指した。


「まず密室だ。戸には内側から鍵と閂がかかっていた。窓は閉じており、格子も無事。床下からの侵入も今のところない」


 砂笙が、書棚の一角へ灯りを向ける。


「ですが、書斎には隠し棚がございました」


 深雪乃は、書棚を見る。


 壁一面の本と帳簿。父の部屋らしい、重く整った棚。その一部が、今は少しだけ開いている。普通に見れば、ただの書棚だ。だが、砂笙が端の木枠を押すと、棚の奥が薄くずれた。


 その裏に、細い縦穴があった。


 人が通れるほどではない。


 けれど、腕一本、あるいは細い棒や糸なら通せるほどの隙間だった。


 蓮台が言う。


「この隠し棚は、書斎の外、廊下の柱裏へ繋がっている。外から細い棒を差し込めば、内側の鍵のつまみを動かせる。さらに、閂にも細い金具が連動している」


 赫臣が目を細める。


「外から鍵と閂を操作できるのか」


「ああ。斎臣が生前、秘密裏に使っていた仕掛けか、もっと古いものかはまだ不明だがな」


 砂笙が補足する。


「柱裏の隠し口には、古い指跡がございました。近年も使われた形跡がございます。埃が不自然に拭われておりました」


 白絹が静かに言う。


「密室に見せかけるには、十分ですわね」


 深雪乃は、書棚の隠し穴を見た。


 父の書斎。


 外から鍵を操作できる仕掛け。


 そこまでして閉じた部屋。


 秘密を守るためか。


 秘密を作るためか。


 この屋敷は、いくつの隠し道と仕掛けを持っているのだろう。普通の扉は、もはや飾りなのかもしれない。家というより、悪事の道具箱である。


 蓮台は続けた。


「つまり、書斎の密室は説明できる。数馬が入った後、外から隠し棚の仕掛けを使って鍵と閂をかけた。あるいは、殺害後に密室を作った」


「犯人は外にいた」


 深雪乃が言うと、蓮台は頷いた。


「鍵についてはな」


 その言い方に、深雪乃は眉を寄せた。


「殺害については違うのですか」


 蓮台は、机の上に置かれた白布を見た。


 そこには、数馬の指先から採取された白い焦げ粉と、破れた契約書の端、そして父の手鏡の欠片が置かれている。


「殺害そのものは、仕掛けだけでは説明できない」


 砂笙が数馬の右手を示した。


「御厨数馬様の死因は、心ノ臓周辺の霊的焼損と見られます。外傷は少なく、出血もほとんどありません。ですが、右手の指先から胸の奥へ向かって、破魔の力が流れ込んだ痕跡がございます」


「右手から?」


 深雪乃は、数馬の手を見る。


 白く焦げた指先。


 机の上の契約書に触れていた手。


 蓮台が言う。


「数馬は契約書を読んでいた。あるいは破ろうとしていた。その時、契約書か、それに触れた何かを通じて破魔の力が入り、体内で心ノ臓を焼いた」


 白絹が目を細める。


「外から撃ち込まれた破魔ではありませんわ。矢でも、札でも、糸でもない。触れたところから内側へ通っております」


 赫臣の顔が険しくなる。


「破魔の毒みてえなもんか」


「近いですが、毒ではございません」


 砂笙が言う。


「毒なら血や臓腑を汚します。これは逆です。穢れを祓う力が強すぎて、肉体の内側を清めながら焼いた。普通の人間なら即死、妖なら核ごと裂かれる可能性がございます」


 深雪乃の胸が冷える。


 清めながら焼く。


 破魔。


 母の血筋。


 宵待の弓。


 鏡。


 神気に似た力。


「通常の退魔師に可能なのですか」


 深雪乃が問うと、砂笙は首を横に振った。


「いいえ。少なくとも、離れた場所から契約書を媒介にして、外部の結界や見張りに感知されず、指先から心ノ臓へ破魔を流し込むのは、通常の人間には不可能です」


 蓮台が続ける。


「妖でも無理だ。妖気で焼けば妖気の残滓が残る。今回はそれがない。赫臣の霊糸でもない。蘆野火の幻術でもない。寺社方の札なら札の焼けが残る」


 白絹が静かに言う。


「人でも妖でも、普通の破魔師でもない。そういう痕跡ですわね」


 部屋の空気が重くなった。


 深雪乃は、自分の手を見る。


 自分の中にあるもの。


 神気に似た破魔。


 境を曖昧にする力。


 妖気結界に認識されない力。


 契約書を通じて内側へ流れ込む破魔。


 違う。


 そう思いたい。


 けれど、すべての言葉が少しずつ近づいてくる。


 赫臣の手が、深雪乃の肩に強く触れた。


 痛くはない。


 だが、明らかに止めるような手だった。


「深雪。自分のせいだと思うな」


 言われる前に、読まれている。


 深雪乃は、苦く笑いそうになった。


「まだ、何も言っていません」


「顔が言ってる」


「便利ですね」


「深雪だけだ」


「便利な言い訳です」


 いつもの返しをしても、胸の冷えは消えなかった。


 蓮台は、書斎の机へ視線を戻した。


「数馬は契約書を隠していた。あるいは、斎臣の書斎に隠されたものを探しに来た。遺言書の写しも、ここで破られている。数馬が破ったのか、数馬に破らせたのかはまだ分からない」


 砂笙が、契約書の焦げた端を示す。


「契約書には、数馬様の指で押さえた跡がございます。恐らく、読んでいる最中に何かの文言へ触れた。その部分だけが白く焼けております」


 白絹が身を乗り出す。


「どの文言ですの?」


 砂笙は、慎重に紙片を並べた。


 焦げて欠けているが、わずかに読める文字がある。


『鍵、母胎より離れし後も、宵待血により保持』


『開鍵には、母鏡、弓、白藤、鬼血、会印の五つを要す』


『鬼血、近づく時、封は揺らぐ』


 鬼血。


 赫臣の身体が、わずかに強張った。


 深雪乃は、それを感じた。


「鬼血」


 声が、自分でも驚くほど小さく出た。


 赫臣は答えない。


 白絹が赫臣を見る。


「篝火家、酒呑童子の血ですわね」


 蓮台が低く言う。


「母鏡は深雪乃の鏡。弓は宵待の古弓。白藤は母親の着物、あるいは宵待の印。会印は先祖返り会の印。鬼血は篝火家」


 砂笙が、苦い顔で頷く。


「五つのうち、すでに多くが揃っております」


 深雪乃の耳が遠くなる。


 母の遺品は揃った。


 鏡。


 弓。


 白藤の糸。


 会印のある契約書。


 そして、鬼血。


 赫臣。


 深雪乃の隣にいる人。


 触れ、抱きしめ、口づけ、何度も名前を呼ぶ人。


 その赫臣が、封を揺らす条件の一つとして契約書に記されている。


 赫臣は、それを恐れていたのか。


 深雪乃を救うものか、縛るものかと悩んでいた理由。


 鬼に渡すな。


 百鬼の頭、近づけるべからず。


 篝火への報せ、禁ず。


 すべてが、この文言へ繋がる。


 深雪乃は、赫臣を見た。


「ご存じだったのですね」


 赫臣の顔が苦く歪む。


「全部じゃねえ」


「また、それですか」


「深雪」


「鬼血が関わる可能性を、ご存じだったのですね」


 赫臣は、目を逸らさなかった。


「ああ」


 その肯定は、深雪乃の胸に刺さった。


「なぜ、言わなかったのですか」


「言えなかった」


「言えなかった理由は、私が壊れると思ったからですか」


「ああ」


「私があなたから離れると思ったからですか」


「……ああ」


 深雪乃は、目を伏せた。


 怒りはある。


 だが今は、怒りよりも疲れが深かった。


「私は、離れないでと言いました」


「分かってる」


「それでも、言えなかった」


「怖かった」


 赫臣の声は低かった。


 深雪乃は、その声の苦さに胸を痛めた。


 自分も怖い。


 赫臣も怖い。


 怖い者同士が、互いを傷つけながら近くにいる。


 まったく器用ではない。


 白絹が静かに言う。


「赫臣様の隠し事を責めるのは後にいたしましょう。今は殺人の整理が先ですわ」


「白絹に言われたくねえ」


 赫臣が低く返す。


「それは認めますが、今は正論です」


 白絹は揺らがなかった。


 蓮台が話を戻す。


「密室は隠し棚の仕掛けで説明できる。犯人は外から鍵と閂を操作できた。だが、数馬を殺した破魔は、仕掛けだけでは説明できない。契約書に触れた瞬間、破魔の力が数馬の指先から心ノ臓へ流れ込んだ。通常の人間や妖では不可能な痕跡だ」


 砂笙が続ける。


「破魔の力は、宵待の血筋に近い。しかし、澄子様ご本人は亡くなっておられる。深雪乃様の意識的な術でもない。白き客人、または神と呼ばれたものに近い境の力が、契約書を媒介にして発動した可能性がございます」


 赫臣の目が、契約書へ向けられる。


 その目が変わった。


 深雪乃には分かった。


 彼は、真相に大きく近づいた。


 何かが繋がったのだ。


 書斎の密室。


 契約書。


 鬼血。


 母鏡。


 弓。


 白藤。


 会印。


 破魔の内側焼き。


 白い影。


 返して。


 まだ、返していない。


 赫臣の顔が、静かに険しくなる。


「赫臣様」


 深雪乃が呼ぶ。


 赫臣は、すぐには答えなかった。


「分かったのですね」


「……まだだ」


 嘘ではない。


 だが、全部ではない。


 深雪乃には、それも分かった。


「近づいたのですね」


 赫臣は、深く息を吐いた。


「ああ」


「私には、言えない」


「ああ」


 深雪乃の胸が痛む。


 分かっていた。


 それでも、聞くと痛い。


「理由は」


「言えば、お前が自分を契約書の文言で見る」


「もう見えています」


「違う。もっと酷くなる」


「決めつけないでください」


「決めつけじゃねえ。俺が怖い」


 また。


 けれど、赫臣は逃げなかった。


 怖いと認めた。


「深雪、今は言えねえ。だが、隠して終わりにはしねえ。証拠を揃える。間違った形でお前に刺さる前に、俺が確かめる」


「それは、私のためですか」


「お前のためでもあるし、俺のためでもある」


 正直な答えだった。


 深雪乃は、目を伏せる。


「では、今は覚えておきます」


「怒ってるか」


「怒っています」


「そうか」


「ですが、倒れた後なので、怒る力が少し足りません」


「無理に怒るな」


「後で怒ります」


「分かった」


 赫臣は、少しだけ苦い顔で頷いた。


 検分はさらに続いた。


 隠し棚の仕掛けは、父の書斎の外、廊下の柱裏へ続いていた。そこには、細い棒を差し込むための古い穴があり、使用したばかりの擦れ跡が残っていた。棒そのものは見つからなかったが、木の粉とわずかな金属粉が落ちている。犯人は道具を持ち去ったのだろう。


 机の引き出しには、斎臣が隠していたと思われる封筒が複数残っていた。


 いくつかは空だった。


 いくつかは燃えかけていた。


 その中に、短い走り書きがあった。


『深雪乃へ渡す前に、数馬を通すな』


 父の字だった。


 深雪乃は、その紙を見て、胸がまた痛んだ。


 父は、数馬を警戒していた。


 それなのに、止めきれなかった。


 生前に渡さなかった。


 遺言書の写しに書いただけ。


 それをどう受け取ればいいのか、深雪乃には分からなかった。


 赫臣は、その紙を見て低く言った。


「斎臣は、全部知らなかった可能性もある」


 深雪乃は彼を見る。


「父が?」


「ああ。契約の全容を知っていたかは分からねえ。澄子を守れなかったのは確かだ。お前を守らなかったのも確かだ。だが、後から何かに気づいて、遺品をお前へ返そうとした可能性はある」


 深雪乃は、紙から目を離せなかった。


「今さら、です」


「ああ」


「今さらです」


「そうだな」


 赫臣は否定しなかった。


 深雪乃の声は震えなかった。


 ただ、胸の奥が少しだけ空洞になった。


 父のことを憎めばいいのか。


 哀れめばいいのか。


 怒ればいいのか。


 何も感じなければいいのか。


 分からない。


 分からないことばかりだ。


 その日の夕方、御厨数馬の死体はようやく別室へ移された。


 書斎は封じられ、隠し棚の仕掛けも保存された。契約書と遺言書の写しは、蓮台、砂笙、白絹の立会いで封筒へ入れられた。赫臣はその間、深雪乃のそばを離れなかった。


 夜になった。


 離れの部屋には、行灯が一つ灯されている。


 深雪乃は布団の上に座っていた。


 昼間の疲れが、身体の奥に残っている。倒れた後の身体は、外から見れば戻っている。だが、心まで同じように戻るわけではない。契約書の文言が、何度も頭の中で繰り返される。


 胎内に宿るもの。


 鍵として保管。


 鬼血。


 開鍵。


 赫臣は、しばらく部屋の入口に立っていた。


 深雪乃を見ている。


 近づきたいのに、近づくのが怖い顔だった。


 深雪乃は、彼を見上げた。


「来ないのですか」


 赫臣の目が揺れる。


「いいのか」


「来てほしくないように見えますか」


「分からねえ」


「今日は、正直ですね」


「お前に触れるのが怖い」


 深雪乃の胸が痛む。


 赫臣は続けた。


「鬼血って言葉が出た。俺が近づくことで封が揺らぐ可能性がある。俺が深雪を抱くことが、深雪を救うのか、縛るのか、開くのか、分からねえ」


 深雪乃は、布団の上で手を握った。


 怖い。


 その言葉は、深雪乃の中にもある。


 けれど、今、赫臣が遠くに立っていることの方が怖かった。


「私は」


 深雪乃は、ゆっくり言った。


「あなたに離れられる方が怖いです」


 赫臣の顔が歪む。


「深雪」


「疑っていてもいいと言いました。怖くてもいいとも。ですから、離れないでください」


 赫臣は動かなかった。


 深雪乃は、少しだけ眉を寄せる。


「それとも、私が契約書に書かれた鍵だから、触れない方がよいと思いますか」


「違う」


「では」


 赫臣は、深く息を吸った。


 そして、ゆっくり近づいた。


 膝をつき、深雪乃の前に座る。


 手を伸ばしかけて、止める。


「確認する」


 声が低い。


「はい」


 深雪乃が頷いた瞬間、赫臣は彼女を抱きしめた。


 強かった。


 息が少し詰まるほど。


 けれど、痛くはない。


 背の傷は避けられている。


 肩と頭を包み、胸へ抱き込む。逃がさない、というより、離したら自分が壊れると言わんばかりの抱擁だった。


「深雪」


 赫臣が囁く。


「俺のものだ」


 深雪乃の身体が、わずかに強張った。


 その言葉は、いつもなら刺すところだった。


 所有物ではありません、と。


 あなたのものではありません、と。


 だが、今夜の赫臣の声はあまりにも苦しく、あまりにも必死だった。


「俺のものだ」


 二度目。


 耳元で落ちる声。


「会のものじゃねえ。鵺喰のものじゃねえ。契約書のものじゃねえ。神と呼ばれたもののものでもねえ」


 赫臣の腕が深くなる。


「俺のものだ」


「赫臣様」


 深雪乃の声は小さかった。


「その言い方は」


「分かってる」


「分かっていて」


「ああ」


 赫臣の声が震えた。


「分かってて言ってる。お前は物じゃねえ。俺の所有物でもねえ。恋人だ。分かってる。けど、今は言わせろ。俺のものだって言わねえと、会の契約書からお前を引き剥がせねえ」


 深雪乃は、胸が痛んだ。


 その理屈は正しくない。


 それでも、その感情は分かってしまう。


 契約書は、深雪乃を胎内のもの、鍵、保管されるものとして書いた。


 赫臣の「俺のものだ」もまた、深雪乃を誰かのものとして言っている。


 だが、そこにある熱は違う。


 紙の冷たさとは違う。


 人の腕の熱だった。


「私は、物ではありません」


 深雪乃は、彼の胸元で言った。


「ああ」


「あなたの所有物でもありません」


「ああ」


「それでも」


 深雪乃は、赫臣の着物を掴んだ。


「今夜は、言っていてください」


 赫臣の呼吸が止まった。


「深雪」


「私は、会のものでも、契約書のものでもないと、今は聞きたいのです」


 赫臣の腕が、震える。


 彼は深雪乃の髪へ顔を埋めるようにして、低く何度も言った。


「俺のものだ」


 深雪乃は目を閉じる。


「俺の深雪だ」


 苦い。


 甘い。


 痛い。


 縋りたい。


 全部が混じる。


「会には渡さねえ。鵺喰にも返さねえ。白い影にも、神と呼ばれたものにも、百鬼にも渡さねえ」


 百鬼。


 その言葉に、深雪乃の指が少し動いた。


 赫臣は気づいたが、止まらなかった。


「俺のものだ。俺の恋人だ。俺が愛してる女だ。契約書の文言なんかじゃねえ」


 深雪乃の目から、涙が落ちた。


 また泣いている。


 最近、自分は泣いてばかりだと思う。


 けれど今は、止められなかった。


 契約書の冷たい文字が、赫臣の声で少しずつ上書きされていく。


 完全には消えない。


 消えるはずがない。


 でも、赫臣の腕の中でだけは、深雪乃は紙の上の鍵ではなかった。


 彼に抱きしめられている、一人の女だった。


「赫臣様」


「何だ」


「苦しいです」


 赫臣がすぐに力を緩める。


「悪い」


「でも、離さないでください」


 赫臣の顔が、今にも崩れそうになる。


「離さねえ」


 彼は、深雪乃の頬へ口づけた。


 涙を拭うように。


 額へ。


 瞼へ。


 唇へ。


 深雪乃は、今夜は「説明になっていません」とは言わなかった。


 説明ではないと分かっていた。


 でも、今は説明では足りない。


 契約書に奪われた自分の輪郭を、赫臣の腕と声で取り戻したかった。


 赫臣は、何度も言った。


「俺のものだ」


「俺の深雪だ」


「大好きだ」


「愛してる」


「お前しかいない」


 深雪乃はそのたび、彼の襟を掴んだ。


 所有の言葉は危うい。


 彼の百鬼夜行の力も、愛も、縛りになるかもしれない。


 それでも今夜は、その言葉に縋った。


 契約書の中へ戻されないために。


 白い影の声へ引かれないために。


 自分がまだここにいると、赫臣の腕の中で確かめるために。


 夜が更けても、赫臣は深雪乃を離さなかった。


 眠ることもできなかった。


 深雪乃も、彼の胸元で目を閉じたまま、完全には眠れなかった。


 鬼血。


 開鍵。


 契約。


 破魔。


 白い影。


 まだ、何一つ終わっていない。


 赫臣は真相に大きく近づいている。


 だが、深雪乃にはまだ言えない。


 その沈黙は苦かった。


 けれど、今夜の抱擁は、その苦さごと二人を繋いでいた。


 深雪乃は、赫臣の胸の中で小さく言った。


「次は、言ってください」


「ああ」


「隠したまま、私を抱かないでください」


「……努力する」


「努力では足りません」


「分かってる」


「でも、今夜は」


 深雪乃は、彼の襟を掴む。


「離れないで」


 赫臣の腕が、深くなる。


「離れねえ」


 低い声が、夜の中で何度も繰り返された。


 契約書の文字よりも強く。


 白い影の声よりも近く。


 深雪乃を、今ここに繋ぎとめるために。


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