第46話 父の書斎の死体
父の書斎は、長いあいだ閉じられていた。
鵺喰斎臣が死んでから、そこは屋敷の中で奇妙な場所になった。誰も堂々とは近づかない。けれど、誰も無関心ではいられない。書斎の戸の前を通る使用人は足音を殺し、親族たちは用もないのに廊下の角で立ち止まり、夜になれば紙を擦るような音がしたと囁かれた。
深雪乃にとっても、そこは遠い部屋だった。
父の部屋。
そう呼ぶには、斎臣はあまりにも遠い男だった。
深雪乃に優しかったわけではない。守ってくれたわけでもない。母の遺品を返してくれたわけでも、深雪乃が使用人に蔵へ閉じ込められた時に戸を開けてくれたわけでもない。父はいつも屋敷の奥にいて、深雪乃の前では沈黙していた。
それでも、時々、視線を感じたことはある。
親族たちの冷たい侮りとは違う視線。
深雪乃が廊下の端を通る時、障子の向こうからふと見られている気がした。振り返ると、書斎の障子がほんの少しだけ閉まる音がした。あれが父だったのか、使用人だったのか、それとも別の誰かだったのかは分からない。
分からないことばかりだ。
母のことも。
父のことも。
自分のことも。
その書斎の前で、深雪乃は立ち止まっていた。
朝の空気は冷えている。
廊下の板は古く、足元から湿気が上がってくる。庭の方では鴉が鳴いていた。嫌な声だった。鵺喰家の古い屋根に止まり、何かを待っているような鳴き方だった。
深雪乃の隣には赫臣がいる。
近い。
昨夜から、さらに近い。
昼は甘く、夜は苦かった。赫臣は人払いをして深雪乃に甘い時間を与え、何度も抱きしめ、何度も名を呼び、何度も口づけた。深雪乃は「隠し事がある時ほど、あなたは私を甘やかします」と言った。赫臣は否定しなかった。
夜、彼は眠らなかった。
深雪乃の寝顔を見ていた。
深雪乃は眠っていたはずなのに、何度か意識の底で、彼の視線と指の温度を感じた。額へ落ちる口づけ。手を包む熱。舌の鋲を噛むような、かすかな金属音。
赫臣は何かを抑えている。
彼の装身具は退魔具であり、封具であり、鎖でもある。
深雪乃には、まだそのすべては話されていない。
けれど、もう気づいている。
彼の秘密も、事件の中心へ近づいている。
蓮台が書斎の戸の前に立っていた。
その横には砂笙と白絹がいる。白絹は顔色を変えてはいないが、目だけが鋭い。蘆野火家の情報調整、先祖返り会の隠蔽、母の遺響。あれから彼女もまた、表情の奥に重いものを置くようになった。
使用人たちは、廊下の遠くへ下げられている。
親族たちも少ない。
もう有力な者はほとんど残っていない。喜周、頼成、兼継、玄磊、枯野井。夜岐は生きているが、重傷で別室に伏せっている。鵺喰家の声は、死人と恐怖で細っていった。
そして今、最後に残っていた有力親族の一人、鵺喰御厨数馬の姿が見えない。
御厨数馬。
斎臣の従弟にあたり、鵺喰家の財産管理と古い書類の扱いに深く関わっていた男。相続会議では強く出すぎず、しかし肝心なところで必ず口を挟んだ。北蔵の目録や、母の遺品の保管についても、彼は妙に詳しかった。
父の死後、遺言書の扱いに最も口を出していたのも数馬だった。
蓮台が、戸へ視線を向けた。
「中から返事がない。昨夜、数馬がこの部屋へ入ったことは複数の使用人が見ている。出たところは誰も見ていない」
赫臣が低く言う。
「また密室か」
「鍵は内側からかかっている」
蓮台は懐から細い器具を取り出した。
「だが、この屋敷の密室はもう信用しない」
「賢明ですわね」
白絹が静かに言った。
蓮台が鍵穴を調べる。
かすかな音。
古い錠が動く。
だが、開かない。
蓮台は眉をひそめた。
「閂も落ちている」
砂笙が戸の隙間へ灯りを近づけた。
「内側の閂に退魔糸の痕はございません。骨針の痕も今のところ見えません」
「窓は」
「外から確認しました。すべて閉じられております。格子も無事です」
赫臣が舌打ちした。
「じゃあ壊すか」
蓮台が即座に言う。
「証拠を壊すな」
「戸だけだ」
「戸も証拠だ」
「面倒くせえ」
「事件現場だからな」
深雪乃は、二人のやり取りを聞きながら、胸元の鏡を押さえた。
熱はない。
けれど、書斎の奥から何かが滲んでくるような気がした。
紙。
墨。
古い血ではなく、古い約束の匂い。
約束。
いや、契約。
そう思った瞬間、深雪乃の指先が冷えた。
「深雪」
赫臣がすぐに気づく。
「鏡か」
「熱はありません」
「顔が悪い」
「元からですか」
「ふざけるな。綺麗だ」
「今言うことですか」
「いつでも言う」
「調子に乗らないでください」
赫臣の目が少しだけ緩む。
だが、すぐに険しく戻った。
砂笙が静かに言った。
「旦那様。戸を壊すのであれば、最低限の記録を取ってからにいたしましょう」
「早くしろ」
「急ぎます」
砂笙と蓮台の部下が戸の状態を記録し、白絹が簡易の幻術で戸周りの痕跡を写した。蓮台はそれを確認してから、赫臣へ顎で合図する。
赫臣の霊糸が走った。
見えない刃が戸板の端だけを切る。
閂のかかる部分が、最小限の音で落ちた。
戸が開く。
書斎の空気が、廊下へ流れ出した。
古い紙の匂い。
墨の匂い。
そして、焦げた破魔の匂い。
深雪乃は息を止めた。
書斎の中は、荒れていなかった。
壁一面の書棚。
中央の大きな文机。
硯箱、筆筒、封蝋、帳簿。
斎臣が使っていたものが、そのまま残されている。庭に面した窓は閉じられ、障子も乱れていない。床に散った紙は少ない。争った痕跡はほとんどなかった。
その静けさの中で、御厨数馬は文机にもたれるように死んでいた。
座ったまま、上半身だけが机へ倒れている。
顔は横を向き、目は見開かれていた。口元には、最後に何かを言おうとしたような歪みが残っている。胸元は焼けていない。首にも糸の痕はない。外傷は少なく見えた。
だが、右手だけが異様だった。
机の上へ伸ばされた右手の指先が、白く焦げている。
破魔の光に触れた痕だ。
その手の下に、破られた紙があった。
蓮台が近づき、数馬の脈を確認する。
「死亡している」
また。
その言葉は、もう屋敷に馴染みすぎていた。
深雪乃は、御厨数馬の顔を見た。
父の書斎にいる最後の有力親族。
相続書類を握っていた男。
母の遺品と父の遺言に詳しかった男。
その男が、父の机の上で死んでいる。
赫臣が深雪乃の前へ半歩出た。
「無理して見るな」
「見ます」
「深雪」
「見なければ、また私の知らないところで私のことが決まります」
赫臣の顔が痛んだ。
それ以上、止めなかった。
蓮台が机の上を調べる。
「破られた紙が二種類ある」
砂笙が白布を広げ、蓮台が慎重に紙片を移す。
一つは、遺言書の写しだった。
斎臣の名と印が残っている。
だが、中央から無理に破られていた。いくつかの文言は読める。
『宵待澄子の遺品一式、深雪乃へ返還すべし』
『北蔵封印の開封には、深雪乃本人の立会いを要す』
『鵺喰家に残る宵待の品について、親族および使用人の私的処分を禁ず』
深雪乃は、息を呑んだ。
父は、遺品を返すよう書いていた。
北蔵の開封に深雪乃を立ち会わせるよう書いていた。
母の品を勝手に処分するなと書いていた。
それなら。
それなら、なぜ。
なぜ母の櫛は折られたのか。
なぜ遺品は隠されたのか。
なぜ深雪乃は追い出されたのか。
父は守らなかった。
だが、書類には残していた。
それが救いなのか、さらに残酷なのか、深雪乃には分からなかった。
赫臣の手が、深雪乃の肩へ触れる。
確認する、とは言わなかった。
だが、触れる手は慎重だった。
蓮台は、もう一つの紙束を見た。
「古い契約書だ」
部屋の空気が変わった。
白絹が顔を上げる。
砂笙が息を潜める。
赫臣の妖気が、静かに鋭くなる。
契約書。
深雪乃の胸が冷えた。
紙は古い。
遺言書よりもずっと古い。
端は黄ばみ、折り目は硬くなっている。朱印が複数押されていた。鵺喰家の印、宵待家の印らしき白藤の印、先祖返り会の印、寺社方の印。そして、擦れてはいるが、篝火家の紋を避けるように空白が残されている。
そこに、本来なら押されるはずだった印がない。
篝火への報せ、禁ず。
その言葉が頭をよぎる。
蓮台が、読める部分を拾った。
「『契約当事者、鵺喰斎臣、宵待澄子』」
深雪乃の呼吸が浅くなる。
父と母の名。
契約。
婚姻ではない。
妾入りでもない。
契約。
砂笙が続けて読む。
「『宵待の血に宿る破魔、鵺喰の秘術をもって一時預かる』」
白絹の顔が硬くなる。
蓮台が別の行を見る。
「『胎内に宿るもの、出生後は鵺喰家が保護管理する。ただし器と定めること叶わざる場合、鍵として保管し、開鍵の期まで封を維持する』」
深雪乃の耳が、遠くなった。
胎内に宿るもの。
出生後。
保護管理。
器と定めること叶わざる場合。
鍵として保管。
開鍵の期。
言葉が、胸の中へ一つずつ落ちる。
冷たい石のように。
自分のことだ。
生まれる前から。
母の胎内にいる時から。
自分は、契約書に書かれていた。
人としてではなく。
子としてではなく。
胎内に宿るもの。
器。
鍵。
保管されるもの。
深雪乃は、息を吸えなくなった。
赫臣がすぐに彼女の手を握る。
「深雪」
声が近い。
だが、遠い。
蓮台は読み続けるべきか迷ったように見えた。
深雪乃は、唇を動かした。
「読んでください」
声は小さかった。
だが、止めなかった。
蓮台は、少しだけ目を伏せ、続けた。
「『篝火家への引き渡し、ならびに酒呑童子系譜との接触は、封が安定するまで禁ず』」
赫臣の手が、深雪乃の手を包む力を少し強める。
深雪乃は、それを感じた。
篝火家への引き渡し。
酒呑童子系譜との接触。
禁ず。
赫臣は、この文言を恐れていたのか。
砂笙が、別の破片を読み取る。
「『白き客人との旧誓約、いまだ効力を残す。誓約破れし場合、返還請求発生の恐れあり』」
白絹が低く呟く。
「返還請求……」
誰が、誰を返すのか。
深雪乃の身体が冷えていく。
さらに蓮台が読む。
「『宵待澄子は、胎内のものを自身の子として出生させることを望む。ただし会は、これを契約上の預かりと見なす』」
その瞬間、深雪乃の中で何かが壊れたような音がした。
母は、自分を子として産もうとしていた。
会は、それを契約上の預かりと見なした。
母の意志はそこにあった。
だが、契約書の文面はそれを押し潰している。
深雪乃は、ゆっくり首を横に振った。
「……私は」
声が出ない。
赫臣が彼女の肩を支える。
「深雪」
「私は、生まれる前から」
喉が詰まる。
言葉にしたくない。
けれど、してしまう。
「何かに、利用されることが決まっていたのですか」
誰もすぐに答えなかった。
その沈黙が、答えのようだった。
赫臣の腕が、深雪乃を抱き寄せようとする。
深雪乃は一瞬、動けなかった。
拒みたいのではない。
動き方が分からなかった。
自分の身体が、急に自分のものではないように感じた。
胎内に宿るもの。
出生後は保護管理。
鍵として保管。
開鍵の期。
自分は、まだ生まれてもいない頃から、何かの文面に置かれていた。
母の腹の中にいた時から。
母が自分を子として産もうとした時から。
自分の意志どころか、息をする前から。
深雪乃の視界が滲んだ。
涙は出ていない。
それよりも、身体の奥が急に遠くなった。
「深雪、こっちを見ろ」
赫臣の声が、強くなる。
「深雪」
深雪乃は、彼を見ようとした。
けれど、その時、机の上の懐中鏡が光った。
深雪乃の鏡ではない。
書斎の机の引き出しから、半分だけ覗いていた小さな鏡だった。沈丁花文様ではない。父の書斎に残されていた、古い黒塗りの手鏡。誰のものか分からない。縁に白い藤のような細工がある。
その鏡面に、白い影が映った。
一瞬だった。
深雪乃は、息を止めた。
白い髪。
白い衣。
顔ははっきりしない。
けれど、目だけが見えた。
蒼い目。
夜岐が言った、蒼い目の白い女。
だが、女と断じるには、その影は曖昧だった。
細い肩。
長い髪。
白い輪郭。
けれど、性別というものが、そこでは意味を失っているように見えた。
人ではない。
妖でもない。
神でもない。
神と呼ばれたもの。
その言葉が、深雪乃の頭の中に落ちた。
鏡の中の蒼い目が、深雪乃を見た。
見られた。
全身が凍った。
次の瞬間、頭の中に声が響いた。
声というより、白い光が言葉の形を取ったようなものだった。
『返して』
深雪乃の喉が閉じる。
『まだ、返していない』
誰を。
何を。
どこへ。
深雪乃は問い返そうとした。
だが、声が出なかった。
鏡の影が、少しだけ近づいたように見えた。
蒼い目が、深雪乃の奥を覗き込む。
胸の奥で、冷たい何かが開きかける。
鍵。
そう呼ばれたものが、内側から反応する。
痛い。
痛みではないのに、痛い。
死ぬ痛みではない。
生まれる前へ引き戻されるような、存在そのものが紙へ書き戻されるような感覚。
深雪乃の膝から力が抜けた。
「深雪!」
赫臣の声が、今度ははっきり聞こえた。
けれど、身体が応えなかった。
視界が傾く。
書斎の天井がゆがむ。
父の文机。
破られた遺言書。
古い契約書。
白い影。
蒼い目。
返して。
まだ、返していない。
すべてが混ざる。
赫臣の腕が、深雪乃を受け止めた。
強く。
痛くないように。
だが必死に。
彼の装身具が激しく鳴った。
耳飾り。
指輪。
首飾り。
鎖のような音。
百鬼の気配が、部屋の隅でざわめいたような気がした。
赫臣が低く唸る。
「見るな!」
誰へ向けた声なのか分からない。
鏡へか。
白い影へか。
深雪乃の中の何かへか。
白い手鏡の表面が、ぴしりと音を立てた。
鏡面に細い亀裂が入る。
蒼い目の影は、消えた。
書斎に戻る。
古い紙の匂い。
破魔の焦げた匂い。
赫臣の腕。
深雪乃は、そこまでは分かった。
それ以上は、分からなかった。
意識が落ちる直前、赫臣の声が聞こえた。
「深雪、俺を見ろ。こっちだ。どこにも行くな」
深雪乃は、答えようとした。
だが、唇は動かなかった。
最後に見えたのは、赫臣の蒼い目だった。
怒りと恐怖と愛で、壊れそうに揺れている目。
その奥で、深雪乃は思った。
白い影の蒼い目と、赫臣の蒼い目は違う。
違うはずなのに。
どちらも、自分を見ている。
そこで、深雪乃の意識は途切れた。




