第45話 甘い昼、苦い夜
昼の光は、鵺喰家の離れに似合わなかった。
障子越しに差し込む白い光は、畳の目を明るく浮かび上がらせ、机の上に置かれた母の鏡の銀細工を淡く光らせていた。庭では、雨上がりの葉が水を含んで重たげに揺れている。夜の屋敷に染みついた血と香と古い紙の匂いは、昼になっても完全には消えない。それでも、日差しがあるだけで、怪異の気配は少しだけ遠ざかったように見えた。
もちろん、見えるだけだ。
この屋敷は、光が差したくらいで清くなるほど素直ではない。
深雪乃は、文机の前に座っていた。
母の遺品は、昨夜の調査の後、再び白布に包まれ、篝火家の術師と砂笙の管理下に置かれている。けれど沈丁花の香りはまだ部屋の隅に残っていた。母の声も、胸の奥に残っている。
同じ沈黙を選ばないで。
その言葉は、深雪乃の中で何度も繰り返されていた。
赫臣は、まだすべてを話していない。
神と呼ばれたもの。
白き客人。
深雪乃の中の力。
そして、赫臣自身の秘密。
昨夜、深雪乃は彼の装身具が鎖の音に聞こえると言った。赫臣は否定しなかった。百鬼夜行の主として、彼もまた何かに縛られている。深雪乃を救うものなのか、縛るものなのか、自分でも分からない顔をしていた。
その顔を思い出すと、胸が苦くなる。
深雪乃は、赫臣を責めたい。
隠さないでほしい。
自分に関わることを、自分から取り上げないでほしい。
けれど、同時に、赫臣が怖がっていることも分かってしまう。分かるから腹立たしい。分からなければ、もっと綺麗に怒れたかもしれない。理解というものは、怒りの足元に勝手に絡みつく。たいへん邪魔である。
障子の外で、足音が止まった。
深雪乃は顔を上げる。
赫臣の気配だった。
「入るぞ」
「どうぞ」
障子が開く。
赫臣が立っていた。
いつものように着崩した和服。片腕は袖を抜き、耳元にはいくつもの飾りが光っている。首飾り、指輪、腕輪、足首飾り。昨日までなら、それらは派手な退魔具に見えた。今は違う。綺麗な鎖にも見える。
赫臣は、深雪乃の視線が装身具へ向いたことに気づいた。
ほんの一瞬、顔が強張る。
深雪乃は、それも見逃さなかった。
「赫臣様」
「何だ」
「また、隠した顔をなさいました」
「……まだ刺すのか」
「必要なら」
「今日は勘弁しろ」
「理由によります」
赫臣は、低く息を吐いた。
それから、障子の外へ向かって言う。
「人払いだ」
廊下に控えていた篝火家の従者が、静かに頭を下げる気配がした。
深雪乃は眉を寄せる。
「人払い?」
「ああ」
「何のために」
「二人でいるために」
あまりにも堂々と言われ、深雪乃は一瞬言葉を失った。
赫臣は部屋に入り、障子を閉める。
庭の光だけが、部屋の中に残った。
「赫臣様」
「何だ」
「調査は」
「蓮台と砂笙と白絹がやってる」
「あなたは」
「今は、深雪といる」
「それは理由になりますか」
「俺にはなる」
赫臣は、ゆっくり深雪乃へ近づいた。
逃げ道を塞ぐ歩き方ではない。けれど、距離は確実に縮まっていく。深雪乃は座ったまま、彼を見上げた。
彼の目は甘い。
甘いのに、奥が苦い。
深雪乃はすぐに分かった。
まただ。
隠し事がある時の顔。
何かを言えないまま、代わりに触れようとする時の顔。
赫臣は、深雪乃の前に膝をついた。
「触るぞ」
深雪乃は、少しだけ睫毛を伏せる。
「嫌だと言ったら?」
「やめる」
「本当に?」
「ああ」
「……では、どうぞ」
許可した瞬間、赫臣の手が深雪乃の頬に触れた。
熱い。
深雪乃の頬が、彼の手のひらに包まれる。親指が目元をなぞる。昨日泣いた跡を確かめるような、壊れ物に触れるような手つきだった。
「まだ赤い」
「昨日泣きましたので」
「可愛い」
「流れがおかしいです」
「泣いた顔も可愛い」
「最低に聞こえます」
「泣かせたいわけじゃねえ」
「では言い方を」
「全部可愛い」
「悪化しています」
深雪乃が呆れると、赫臣は少しだけ笑った。
その笑みが、ひどく優しい。
腹立たしいほどに。
深雪乃の胸が、少し揺れた。
赫臣は、額へ口づけた。
短く。
次に、頬へ。
目元へ。
涙の跡を辿るように。
深雪乃は、肩を小さく揺らした。
「赫臣様」
「何だ」
「また昼です」
抗議のつもりだった。
第26話の昼の部屋を思い出す。白粥を食べさせられ、人払いされ、昼の光の中で何度もキスされたあの日。深雪乃は今でも、昼の部屋で赫臣と二人きりになると、少し警戒する。まったく、鬼の教育は悪影響が長い。
赫臣は、悪びれなかった。
「昼も夜も関係ねえ」
そう言って、唇へ口づけた。
深雪乃の抗議は、そこで途切れた。
昼の光が、障子越しに二人を照らしている。夜の闇に紛れることも、行灯の影へ逃げることもできない。明るい中で、赫臣の顔が近い。蒼い目が深雪乃を見つめ、唇がゆっくり重なる。
最初は柔らかかった。
けれど、すぐに深くなる。
赫臣の手が深雪乃の背へ回る。傷を避け、肩を包み、腰ではなく背中の上の方を支える。その慎重さは、もう身体に染みついているようだった。深雪乃は息を詰める。赫臣のもう一方の手が、深雪乃の髪へ滑り込む。
「深雪」
唇が離れた隙間で、彼が名前を呼んだ。
低く。
何かを確かめるように。
「深雪」
二度目。
深雪乃の胸が、少し痛む。
「聞こえています」
「深雪」
「何度も呼ばなくても」
「呼びたい」
「理由になっていません」
「俺にはなる」
また、それだ。
赫臣は、深雪乃の額に額を寄せた。
「可愛い」
「また」
「大好きだ」
「言葉が多いです」
「愛してる」
「……赫臣様」
「お前しかいない」
深雪乃は、彼の胸元を軽く押した。
強くではない。
止めるための手だった。
赫臣は止まった。
それが、少しだけ嬉しかった。
以前なら、止めてもさらに甘い言葉で押してきたかもしれない。今もその気配はある。たいへんある。だが、止まった。
「どうした」
赫臣が聞く。
深雪乃は彼を見上げた。
「隠し事がある時ほど、あなたは私を甘やかします」
赫臣の顔が、はっきり固まった。
図星だった。
深雪乃は小さく息を吐く。
「分かりやすすぎます」
「……悪い」
「謝罪は聞きました」
「他に言えることがねえ」
「それが問題です」
赫臣は、苦く笑った。
その笑みがあまりにも痛そうで、深雪乃はまた腹が立った。
「そんな顔をされると、こちらが悪いことを言ったように感じます」
「悪くねえ」
「では、苦しそうな顔をしないでください」
「無理だ」
「無理が多いですね」
「お前の前だと特にな」
「便利に使わないでください」
深雪乃はそう言いながらも、手を完全には離せなかった。
赫臣の胸元に置いた手が、そのまま襟を掴む。
少しだけ。
赫臣が気づかないはずがない。
彼の目が揺れる。
「深雪」
「はい」
「嫌なら、やめる」
「嫌ではありません」
言ってから、深雪乃は少し顔を背けた。
赫臣の気配が、すぐに熱を帯びる。
「今の、もう一回」
「言いません」
「聞きたい」
「調子に乗らないでください」
「乗った」
「早すぎます」
赫臣は、深雪乃を抱きしめた。
今度は、先に「確認する」とは言わなかった。
だが、乱暴ではない。
甘えるような、縋るような抱擁だった。深雪乃の身体を胸へ引き寄せ、髪に頬を寄せ、深く息を吸う。沈丁花ではない。赫臣の煙管と金属と、少しだけ焚きしめた香の匂いがした。
「赫臣様」
「何だ」
「苦しいです」
赫臣がすぐ腕を緩める。
「悪い」
「痛いとは言っていません」
「でも苦しい」
「少し」
「じゃあ、こうか」
腕の力が変わる。
抱きしめられているのに、呼吸はできる。逃げ道はないのに、痛くはない。赫臣が学習しているのが分かる。進歩は遅いが、確かにある。問題は、進歩するたびに別の厄介さも増えるところだった。
赫臣は、何度も深雪乃の名前を呼んだ。
深雪。
深雪乃。
俺の深雪。
深雪乃はそのたびに、訂正したくなったり、黙っていたくなったりした。俺の、という言い方は少し引っかかる。けれど、その声があまりにも切実で、すぐには刺せなかった。
昼の時間は、奇妙に甘かった。
赫臣は深雪乃へ茶を淹れた。
菓子も持ってきた。
小さな羊羹を一口大に切り、深雪乃の前へ置く。深雪乃が自分で食べようとすると、赫臣は少し不満そうな顔をした。
「何ですか」
「食わせたい」
「子どもではありません」
「知ってる」
「では」
「食わせたい」
「理由になっていません」
「俺にはなる」
「便利ですね」
結局、深雪乃は一切れだけ許した。
赫臣が差し出す羊羹を口に含むと、甘さが舌に広がった。昼の光の中で、赫臣がひどく満足そうに笑う。
「可愛い」
「羊羹を食べただけです」
「可愛い」
「語彙が」
「深雪に使う分には、これでいい」
「よくありません」
文句を言いながら、深雪乃はもう一切れ自分で食べた。
赫臣はそれを見ていた。
嬉しそうに。
痛そうに。
その二つが混じった顔で。
深雪乃は、湯呑みを両手で包みながら言った。
「甘い時間を与えれば、私が隠し事を忘れると思っていますか」
赫臣の目が、少し伏せられる。
「思ってねえ」
「では、なぜ」
「忘れさせたいんじゃねえ。少しでも休ませたい」
「同じように聞こえます」
「違う」
「どう違いますか」
赫臣は、しばらく考えた。
それから、低く言った。
「忘れろとは思わねえ。忘れられるわけもねえ。俺が隠してることも、母君の遺響も、神と呼ばれたものの話も、お前の中の力も、全部消えねえ」
深雪乃は、彼を見る。
赫臣は続けた。
「でも、全部抱えたまま息をしてると、お前は壊れる。だから、ほんの少しでも甘いものを食わせたい。昼の光の中で、怖くねえ時間を作りたい。俺の腕の中で、事件以外のことを考えさせたい」
「それも、あなたの願望ですね」
「ああ」
「私のためと言いながら、あなたがそうしたいだけではありませんか」
「そうだ」
あまりにあっさり認められ、深雪乃は黙った。
赫臣は、苦く笑う。
「俺がしたい。深雪に甘いもの食わせたい。抱きしめたい。キスしたい。可愛いって言いたい。お前が事件の中心でも、鍵でも、神と呼ばれたものに関わってても、俺の前で茶を飲んで、文句言って、羊羹を食う女だって確かめたい」
深雪乃の胸が揺れた。
「確かめたいのですね」
「ああ」
「また」
「まただ」
「本当に、確認ばかり」
「悪い」
「嫌とは言っていません」
赫臣が、息を止めた。
深雪乃は視線を逸らす。
「ただ、甘すぎます」
「減らすか」
「……少し」
「少しか」
「全部やめろとは言っていません」
赫臣の顔が、明らかに緩んだ。
「調子に乗らないでください」
「もう遅い」
「早すぎます」
赫臣は深雪乃の手を取り、指先へ口づけた。
深雪乃は逃げなかった。
昼の光の中で、彼は何度も彼女を抱きしめた。
何度も名前を呼んだ。
何度も口づけた。
深くしすぎると深雪乃が眉を寄せるので、途中で額や頬へ逃げる。けれど結局また唇へ戻ってくる。深雪乃はそのたびに「またですか」と言い、赫臣は「まただ」と答えた。
昼は甘かった。
甘すぎるほどに。
けれど、その甘さの底にはずっと苦味があった。
赫臣がまだ言えない真実。
百鬼夜行の主としての秘密。
装身具が封具であること。
赫臣自身が深雪乃を救うのか、縛るのか分からないこと。
それらを、深雪乃はまだすべて知らない。
知らないまま、甘やかされている。
そのことが、嬉しくて、苦しかった。
夕刻になる頃、赫臣はようやく深雪乃を離した。
離したと言っても、手は繋いだままだった。
「そろそろ蓮台が怒鳴り込んでくる」
「怒鳴り込まれる心当たりがあるのですね」
「ある」
「反省は」
「少し」
「少し」
「深雪といたかった」
「便利な言い訳です」
「本当だ」
「本当でも便利です」
赫臣は笑った。
深雪乃も、ほんの少しだけ息を吐いた。
昼の甘さは、そこで一度終わった。
夜は、別の顔で訪れた。
鵺喰家の夜は、昼の光が嘘だったように重くなる。廊下の奥に影が溜まり、庭の木々が黒く沈み、障子の紙がわずかな風にも不安げに鳴る。結界の気配は幾重にも張られているが、それでも白い影がどこかに立っていそうだった。
深雪乃は、昼の疲れもあって早く眠った。
赫臣の腕の中で。
彼女は寝つく前、少しだけ文句を言った。
「昼に、甘やかしすぎです」
「悪い」
「謝罪は聞きました」
「また明日もする」
「反省していませんね」
「してる」
「どこが」
「痛くしない」
「そこだけですか」
「まずそこから」
深雪乃は呆れたように息を吐き、それでも赫臣の腕から離れなかった。
やがて、呼吸がゆっくりになる。
小さな寝息。
赫臣は、その音を聞いていた。
眠れなかった。
昼、深雪乃に甘い時間を与えた。
与えた、などと考えること自体が傲慢なのかもしれない。ただ、一緒に過ごした。菓子を食べさせ、抱きしめ、何度も名前を呼び、何度も口づけた。深雪乃は抗議し、文句を言い、隠し事がある時ほど甘やかすと見抜いた。
その通りだった。
赫臣は、真実を言えないまま、甘やかした。
言えない。
百鬼夜行の主としての自分。
装身具が封具であること。
百鬼が深雪乃へ反応していること。
自分の愛が、深雪乃を守るものなのか、それとも百鬼夜行の檻へ変わるのか分からないこと。
言えない。
言えば、深雪乃はどうする。
赫臣から離れるだろうか。
それとも、離れないと言ってくれるだろうか。
疑っていてもいい。だから、離れないで。
深雪乃の言葉が蘇る。
赫臣は、彼女の寝顔を見下ろした。
昼にあれほど文句を言っていた顔は、眠ると少し幼く見える。睫毛は長く、唇は薄く開き、呼吸は浅い。黒髪が枕へ広がり、白い頬に一筋かかっている。赫臣は、それを指で避けた。
可愛い。
大好きだ。
愛してる。
お前しかいない。
言葉は胸の中に溢れる。
だが、夜になると、その言葉の底が苦くなる。
自分は、深雪乃を愛している。
疑いようがない。
けれど同時に、なぜと考える。
なぜ、深雪乃の周りに事件が集まる。
なぜ、母の遺品が現場から戻ってくる。
なぜ、神気に近いものが彼女の中にある。
なぜ、枯野井の結界は認識できない力に殺された。
なぜ、百鬼が深雪乃に反応する。
なぜ、赫臣が触れるたび、封じが揺れているように感じる。
深雪乃が犯人だとは思わない。
思いたくもない。
だが、深雪乃の中の何かが事件と繋がっている可能性はある。
その「何か」を、自分は愛しているのか。
深雪乃という女を愛している。
それは確かだ。
では、彼女の中の神と呼ばれたものに近い力を、恐れている自分は何なのか。
恐れながら、離れたくない。
疑いながら、抱きしめたい。
真相を知りたい。
でも、知った真相が深雪乃を自分から奪うなら、知りたくない。
醜い。
赫臣は、自分の胸の内をそう思った。
強い鬼。
百鬼夜行の主。
先祖返り会第一位の篝火家当主。
それらの名を持つくせに、一人の女の寝顔を前にして、こんなにも情けなく揺れている。
装身具が、夜の中で小さく鳴った。
耳飾り。
舌の鋲。
指輪。
腕輪。
首飾り。
足首飾り。
すべてが赫臣を人の形に留めている。
百鬼の声は、今夜も遠くで囁いている。
守れ。
囲え。
隠せ。
奪われる前に、閉じ込めろ。
赫臣は舌の鋲を歯で噛んだ。
冷たい痛みが走る。
黙れ。
心の中で低く命じる。
深雪乃は物じゃない。
鍵でも、器でも、会の管理物でも、百鬼の祭具でもない。
俺のもの、と言いたくなる自分すら、今は危うい。
恋人。
深雪乃が許した言葉。
それを忘れるな。
赫臣は、眠る深雪乃の手を取った。
細い指。
冷えやすい手。
昼、羊羹を持った手。
母の遺品へ触れ、涙を拭えなかった手。
赫臣の襟を掴み、「離れないで」と言った手。
その手に、唇を寄せる。
深雪乃は少し身じろぎしたが、起きなかった。
「深雪」
声は、ごく低かった。
眠る彼女へ向けた言葉。
「俺は、お前を疑いたくねえ」
返事はない。
それでよかった。
「でも、疑いみたいな形でしか見えないものがある。なぜって考えるたび、お前を傷つける気がする」
深雪乃の寝息が、静かに続く。
赫臣は、その呼吸に合わせるように息を吐いた。
「愛してる」
夜の中で言うと、その言葉は昼よりも苦かった。
「大好きだ」
これも苦い。
「可愛い」
少しだけ甘い。
「お前しかいない」
これは、甘くて苦い。
赫臣は、深雪乃の手を両手で包んだ。
この手を離せない。
離したくない。
けれど、握る力を間違えれば、縛ることになる。
昼は甘くできる。
菓子を食べさせ、キスをし、可愛いと言い、深雪乃を少しだけ笑わせることができる。
だが夜は、どうしても苦い。
自分の中の疑いと愛が、同じ場所で絡み合う。
疑っていてもいい。
だから、離れないで。
深雪乃はそう言った。
赫臣は、その言葉に救われた。
同時に、その言葉でさらに苦しくなった。
疑われることより、離れられることを怖がらせてしまった。
それは、自分が彼女の救いになっているからなのか。
それとも、もう彼女を縛っているからなのか。
答えは出ない。
深雪乃が小さく眉を寄せた。
赫臣はすぐに身を寄せる。
「深雪」
彼女は起きなかった。
けれど、指が赫臣の手をわずかに握り返した。
眠っていても。
無意識でも。
その小さな動きだけで、赫臣の胸は壊れそうになった。
彼は深雪乃の額へ、そっと口づけた。
「離れねえ」
囁く。
「疑いがあっても、怖くても、言えないことがまだあっても、俺は離れねえ」
その誓いが、甘いのか苦いのか、赫臣自身にも分からなかった。
ただ、夜明けまで眠れなかった。
深雪乃の寝顔を見続けた。
彼女の呼吸を数えた。
時折、百鬼の声が強くなるたび、舌の鋲を噛み、装身具へ妖気を流し、夜行の道を閉じた。
そして、深雪乃の手を離さなかった。
昼は甘かった。
夜は苦かった。
そのどちらにも、深雪乃がいた。
だから赫臣は、苦しみながらも、そこから逃げなかった。




