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人間臭いと蔑まれた不死身の娘は、百鬼夜行の主に愛される  作者: なつめ


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第44話 百鬼夜行の主


 篝火赫臣の装身具は、ただの飾りではなかった。


 それを知る者は少ない。


 見た者の多くは、まず派手だと思う。耳には二十を超えるピアス。舌にも銀の鋲。指輪、腕輪、首飾り、足首飾り。和服を崩して着る男の肌に、金属と宝石と細い鎖が光る。帝都の表通りを歩けば、華族の放蕩息子か、夜会帰りの色男か、退廃趣味の若旦那に見えるだろう。


 その印象は、半分だけ正しい。


 赫臣は確かに派手な男だ。


 口は甘い。


 距離は近い。


 煙管をふかし、笑って、誰かをからかい、気に入ったものは隠さない。深雪乃へ向ける愛情など、もはや隠す気がない。隠す気がないどころか、見せつける気配すらある。周囲の胃を犠牲にして生きている。迷惑な生命活動である。


 だが、残り半分は違う。


 赫臣の耳飾りは、退魔具であると同時に封具だった。


 指輪は霊糸の起点であると同時に、彼の妖気の流れを分ける楔だった。


 舌の鋲は、言霊を強めるためだけではない。酒呑童子の名を宿す喉が、百鬼を呼びすぎないよう縫い留めるためのものだった。


 腕輪は力を外へ流すため。


 足首飾りは夜行の影を地へ繋ぐため。


 首飾りは、鬼の核が暴れた時に心臓へ戻る道を固定するため。


 赫臣は、それらを身につけているから派手なのではない。


 身につけていなければ、篝火赫臣という形を、人の世に留めるのが難しくなる。


 百鬼夜行の主。


 それは、ただ強い者につく称号ではなかった。


 酒呑童子の先祖返りが篝火家に生まれるたび、先祖返り社会の秩序は彼を中心に組み直される。妖に近すぎる者たちをまとめ、退魔師との境を保ち、血筋の暴走を鎮め、会の中で互いに噛み合わない家々を押さえる。百鬼夜行の主は、夜の王であると同時に、夜が朝へ溢れ出さないための栓でもあった。


 強いだけなら、まだ楽だった。


 殺せばいい。


 断てばいい。


 赫臣には、それができる。


 霊糸を張り、妖核を裂き、歯向かう相手を黙らせる。強さの扱いは分かりやすい。強すぎる者は、より強い力で押さえればいい。単純で、乱暴で、鬼には向いている。


 だが、秩序はそうはいかない。


 鬼は、ただ暴れれば済むものではない。


 百鬼が赫臣の背後にいる。


 篝火家に従う妖たち、先祖返りの血に引かれる者たち、夜行に名を預けた影たち。彼らは赫臣を主と認め、恐れ、従い、時に喰らおうとする。主が揺れれば、夜行も揺れる。主が怒れば、影は牙を鳴らす。主が愛に狂えば、百鬼もその愛の対象を見始める。


 それが、今の赫臣の恐怖だった。


 深雪乃を愛している。


 それだけなら、よかった。


 ただの男として惚れたなら、腕の中へ閉じ込め、口づけ、守り、愛して、彼女の毒舌に刺されながら生きていればよかった。


 だが赫臣は、ただの男ではない。


 百鬼夜行の主だ。


 その夜、赫臣は篝火家から持ち込ませた封箱の前に座っていた。


 場所は、鵺喰家の離れの奥の一室。


 深雪乃は隣室で眠っている。正確には、眠らされているわけではない。ただ、母の遺響、神と呼ばれたものの話、赫臣との言い合い、その後の乱れた口づけで、心も身体も疲れ果てていた。泣き疲れた子どものように眠ったわけではない。けれど、いつもより深く目を閉じている。


 赫臣は、彼女が眠っていることを何度も確かめた。


 廊下には篝火家の従者を置いた。


 窓の外には霊糸を張った。


 深雪乃の枕元には母の鏡がある。


 自分は隣室にいる。


 それでも、気が休まらない。


 封箱は黒漆で塗られ、蓋には篝火家の紋と、酒呑童子の角をかたどった銀の意匠が施されている。四隅には細い鎖が巻かれ、中心に小さな赤い石が埋め込まれていた。


 赫臣が指輪を一つ外して、その赤い石へ触れさせる。


 箱の中で、低い音がした。


 鈴ではない。


 唸りのような音。


 蓋が開く。


 中には、古い帳面が一冊と、細い鎖の束、そして小さな銀の輪が並んでいた。


 砂笙は赫臣の斜め後ろに控えていた。


 彼の顔はいつもよりさらに冴えない。胃が痛そうだった。実際痛いのだろう。赫臣の恋愛と百鬼夜行と鵺喰家事件が一つの部屋に詰め込まれているのだから、胃が元気な方がおかしい。人間の臓器はそういう無茶のために作られていない。


 赫臣は帳面を開いた。


 古い紙に、篝火家代々の当主が記した夜行の記録が残っている。


『百鬼夜行の主、酒呑童子の血を継ぐ者、夜を統べるにあらず。夜を堰き止めるものなり』


 赫臣は、その一文を指でなぞった。


 何度も読んだ。


 幼い頃から聞かされた。


 だが、今ほど重く感じたことはなかった。


 砂笙が、静かに言う。


「旦那様」


「分かってる」


「まだ何も申し上げておりません」


「顔が言ってる」


「それは旦那様の最近の悪癖が移ったのかもしれません」


「俺のせいか」


「かなり」


 赫臣は、薄く笑った。


 だが、すぐに笑みは消えた。


「深雪に言えねえ」


 砂笙は、すぐには答えなかった。


 赫臣は帳面を見たまま続けた。


「神と呼ばれたもの。白き客人。宵待の破魔。鵺喰の秘術。深雪は鍵。そこまでは見えてきた。なら、次に出るのは鬼だ」


 砂笙の目がわずかに伏せられる。


「記録にもございます。『鬼に渡すな』」


「玄磊も言った。枯野井の記録にもあった。白絹の家の控えにも似た文が残ってる」


 赫臣は、自分の耳の飾りに触れた。


 小さな金属が、冷たく指に当たる。


「鬼ってのは、俺だ」


「断定はまだ」


「誤魔化すな」


 砂笙は黙った。


 赫臣は低く言う。


「篝火家全体を指してる可能性はある。酒呑童子の血そのものかもしれねえ。百鬼夜行の主という役割かもしれねえ。だが、今ここで深雪の隣にいる鬼は俺だ」


 その事実は、逃げようがなかった。


 鬼に渡すな。


 百鬼の頭、近づけるべからず。


 篝火への報せ、禁ず。


 白き客人の誓い、鬼に触れれば破れる。


 すべての断片が、赫臣の胸を締めつける。


 深雪乃に近づくな、と過去は言っている。


 赫臣は近づいた。


 拾った。


 抱いた。


 キスをした。


 愛していると何度も言った。


 手を繋ぎ、同じ部屋で眠り、写真を撮り、深雪乃を篝火家へ連れていくと言った。


 もし、その接触が封じを揺らしているなら。


 もし、赫臣の存在が深雪乃を守るのではなく、深雪乃の中の何かを開かせているなら。


 胸の奥が、嫌な音を立てた。


 赫臣は、帳面の次の頁を開いた。


『酒呑童子の当主、装身をもって己を分かつ』


『耳は百鬼の声を逃し、舌は名を縫い、手は夜行の道を閉じ、足は影を地へ繋ぐ』


『装身欠ける時、主は主にあらず。夜行そのものとなる』


 赫臣は、自分の舌の鋲を舌先で触れた。


 冷たい。


 この小さな金属は、言霊の増幅器でもある。霊糸を命じる起点でもある。だが、それ以上に、赫臣の喉へ集まる百鬼の名を抑えている。


 名を呼べば、来る。


 百鬼夜行の主が本気で呼べば、夜は動く。


 その力を人の世で使いすぎないように、赫臣は舌に鋲を通している。


 耳飾りは、百鬼の声を分ける。


 夜の中から聞こえる、従え、喰え、守れ、奪え、燃やせ、殺せという無数の囁きを、ひとつひとつ分散させる。耳飾りがなければ、赫臣は常に百鬼の渦の中にいる。


 指輪は、霊糸の起点であると同時に、夜行の道を閉じる鍵だ。


 腕輪は、妖気を手から外へ逃す。


 首飾りは、鬼の核が心臓から外へ溢れるのを留める。


 足首飾りは、影を地へ縫いつける。


 装身具が多いのではない。


 それだけ必要なのだ。


 赫臣という男が、篝火赫臣の形でいるために。


 砂笙が、封箱の中の銀の輪を一つ見た。


「今夜、左耳の二番目の輪が焼けかけました」


 赫臣は舌打ちした。


「ああ」


「深雪乃様の遺響が再生された時です」


「分かってる」


「百鬼の影が、一瞬だけ反応いたしました」


 赫臣の指が止まる。


 砂笙は続ける。


「深雪乃様の母君の声が、『あなたを愛する者の手を信じるかどうかは、あなたが決めて』と告げた直後です。旦那様が深雪乃様に触れた時、百鬼が反応した。守れ、囲え、連れ帰れ、隠せ、と」


 赫臣の目が冷える。


「黙らせた」


「ええ。ですが、反応しました」


「俺が深雪に触れたからか」


「正確には、深雪乃様が旦那様に縋ったからかもしれません」


 赫臣の呼吸が、低く止まる。


 砂笙は言いにくそうに続けた。


「百鬼夜行は、主が大切にするものへ反応します。旦那様が深雪乃様を守りたいと願えば、百鬼も深雪乃様を守ろうとする。ただし、百鬼の守るは、人のそれとは違います。囲う、隠す、奪う、喰らう、同化させる。それらも守るに含まれる」


 赫臣は、拳を握った。


 畳が小さく軋む。


「俺が、深雪を檻にするかもしれねえってことか」


「可能性です」


「砂笙」


「申し訳ございません。ですが、旦那様がこの問いを避ける方が危険です」


 砂笙の声は静かだった。


 赫臣は怒鳴らなかった。


 怒鳴れば楽だった。


 だが、砂笙は正しい。


 深雪乃を守るために抱きしめる。


 深雪乃を失いたくなくて口づける。


 深雪乃がどこにも行かないように腕の中へ入れる。


 それは愛だ。


 だが、百鬼夜行の主がそう願えば、百鬼もまたそれを形にしようとする。


 深雪乃が鍵であり、境に触れる力を持ち、神と呼ばれたものへ近い存在なら。


 百鬼夜行は、彼女をどう見るのか。


 獲物か。


 祭具か。


 主の伴侶か。


 夜行を開く鍵か。


 赫臣は、喉の奥に苦いものを感じた。


「俺は、深雪を救ってるのか」


 自分の声が、ひどく低かった。


「それとも、縛ってるのか」


 砂笙は答えなかった。


 答えられないのだろう。


 赫臣は帳面を閉じた。


 装身具が、彼の身体で小さく鳴る。


 普段なら、その音は彼にとって自分の力の確認だった。霊糸の起点、退魔具、封具。自分が自分である証。


 だが今は、鎖の音に聞こえた。


 深雪乃は、縛られることを嫌う。


 命令も、保護という名の管理も、会の裁定も、自分の意志を消すものを嫌う。


 その深雪乃を、自分が愛の名で縛っているのだとしたら。


 胸が焼けるようだった。


 廊下の外で、かすかな衣擦れがした。


 赫臣は即座に振り向いた。


 霊糸が無意識に走りかける。


「誰だ」


 低く問うと、障子の向こうで小さな声がした。


「私です」


 深雪乃だった。


 赫臣の心臓が、嫌な跳ね方をした。


 砂笙も顔を上げる。


 赫臣は、立ち上がりかけて、止まった。


「深雪。起きたのか」


「眠りが浅かっただけです」


「寝てろ」


「命令口調です」


「……寝ていてくれ」


「今は嫌です」


 障子の向こうの声は静かだった。


 赫臣は額を押さえたい気分になった。


 この女は、本当に、来てほしくない時に来る。いや、来てほしくないのではない。来てほしい。顔を見たい。抱きしめたい。だが、今この話を聞かせるわけにはいかない。人間は矛盾で壊れるというが、鬼だって十分壊れそうだ。


 深雪乃は続けた。


「赫臣様の声が聞こえました」


「どこからだ」


「襖一枚と廊下の距離からです」


「聞こえたのか」


「全部ではありません」


 赫臣の喉が詰まる。


「どこまで」


 短い沈黙。


 それから深雪乃は言った。


「百鬼夜行の主、という言葉と、装身具の話を少し。それから、私を救っているのか、縛っているのか、と」


 赫臣は目を閉じた。


 聞かれている。


 最悪だ。


 いや、最悪ではない。もっと聞かれていた可能性もある。人間はこういう時、勝手に最悪の中で順位をつける。鬼も同じだ。情けない。


 深雪乃が、障子越しに言う。


「入ってもよろしいですか」


 赫臣は答えられなかった。


 入ってほしい。


 入ってほしくない。


 見たい。


 見られたくない。


 触れたい。


 触れるのが怖い。


 その沈黙に、深雪乃が気づかないはずがなかった。


「赫臣様」


「……今は」


 赫臣は、声を絞り出した。


「今は、まだ話せねえ」


 障子の向こうが静かになる。


 その静けさが痛かった。


 深雪乃は怒るだろうか。


 刺すだろうか。


 当然だ。


 同じ沈黙を選ばないと言ったばかりだ。


 赫臣はまた隠している。


 だが、今は言えない。


 百鬼夜行が深雪乃を檻にするかもしれないなど、今の彼女に言えるわけがない。彼女は神と呼ばれたものの鍵という言葉で、すでに傷ついている。そこへ、自分の愛が彼女を縛るかもしれないと告げれば、深雪乃はどうなる。


 自分から赫臣の腕を離れるかもしれない。


 それが怖い。


 結局そこか、と赫臣は自分を殴りたくなった。


 深雪乃を守るためと言いながら、自分が彼女を失うのを恐れている。


 障子の向こうで、深雪乃が静かに息を吐いた。


「分かりました」


 その声が、あまりにも静かだったので、赫臣の胸が痛んだ。


「深雪」


「今は話せないのですね」


「ああ」


「理由は、私が壊れると思うからですか」


 赫臣は答えられなかった。


 深雪乃は続ける。


「それとも、私があなたから離れると思うからですか」


 今度も答えられない。


 深雪乃は、少しだけ間を置いた。


「両方ですね」


 赫臣は、目を閉じた。


 この女は、どうしてこうも逃げ道を正確に塞ぐのか。


 好きだ。


 だから苦しい。


「……悪い」


「謝罪は聞きました」


 怒っている。


 だが、昨夜のように声を荒げるわけではない。


 それが余計に痛い。


「今は、追及しません」


 深雪乃が言った。


 赫臣は顔を上げる。


「いいのか」


「よくありません」


「だよな」


「ですが、今のあなたは、問い詰めてもすべては話さない顔をしています」


 障子越しなのに、顔が見えているような言い方だった。


 赫臣は苦く笑いそうになり、できなかった。


「それに」


 深雪乃の声が少しだけ低くなる。


「私も、聞くのが怖いです」


 赫臣の胸が締めつけられた。


 深雪乃は、さらに言った。


「だから、今夜は聞きません」


「深雪」


「ただし、忘れません」


「分かってる」


「次に話せる時が来たら、話してください」


「約束する」


「本当に?」


「ああ」


「嘘なら怒ります」


「分かってる」


「刺します」


「分かってる」


 障子の向こうで、深雪乃が少し動く気配がした。


「今日は、戻ります」


 赫臣は反射的に立ち上がった。


「待て」


 障子の向こうの気配が止まる。


 赫臣は、喉の奥から声を出した。


「一人で戻るな」


「隣室です」


「それでもだ」


「命令口調です」


「お願いだ。一人で戻るな。俺が行く」


 沈黙。


 深雪乃は、少しだけ困ったように息を吐いた。


「……はい」


 赫臣は障子へ向かった。


 開ける前に、一度だけ砂笙を見た。


 砂笙は何も言わず、頭を下げた。


 赫臣は障子を開けた。


 廊下に、深雪乃が立っていた。


 寝間着代わりの薄い着物の上に羽織をかけ、髪は下ろしている。顔色はまだ白い。目元には昨日泣いた跡が残っている。それでも、赤みを帯びた瞳は赫臣を真っ直ぐ見ていた。


 赫臣は、胸が痛くなった。


 触れたい。


 抱きしめたい。


 だが、触れていいのか迷う。


 深雪乃は、その迷いを見て取ったように眉を寄せた。


「今度は触れないのですか」


「……触れていいのか」


「聞くようになったのですね」


「お前が怒るからな」


「それもあります」


「それだけじゃねえのか」


「はい」


 深雪乃は、少しだけ手を差し出した。


 小さな手だった。


 冷えている。


 赫臣は、その手を見つめた。


「深雪」


「部屋まで、お願いします」


 触れていい。


 そう言われたようで、赫臣は息を止めた。


 彼は、慎重にその手を取った。


 強く握りそうになるのを抑える。


 百鬼夜行の主としてではない。


 篝火家当主としてでもない。


 ただ、深雪乃の恋人として。


 その手を握った。


 深雪乃は、彼の指に触れながら、ふと目を細めた。


「指輪が、一つありませんね」


 赫臣の心臓が跳ねる。


 左手の中指。


 封箱を開けるために外した指輪。


 百鬼夜行の道を閉じる楔の一つ。


 深雪乃は、それに気づいた。


 赫臣は、舌打ちしたくなるのを堪えた。


「箱を開けるのに使った」


「大切なものなのですね」


「ああ」


「退魔具ですか」


「それもある」


 深雪乃は、彼を見た。


「それだけではないのですね」


 赫臣は、答えに詰まった。


 深雪乃は、少しだけ目を伏せる。


「今日は、聞きません」


 その言葉が、優しさではなく、猶予だと分かった。


 赫臣は低く言った。


「悪い」


「謝罪は聞きました」


「明日、話せるところから話す」


「明日も隠すところはあるのですね」


「ある」


「正直ですね」


「嘘ついても、お前には分かる」


「はい」


 深雪乃は、赫臣の手を握り返した。


 少しだけ。


「では、話せるところから」


「ああ」


 二人は廊下を歩いた。


 鵺喰家の夜は静かだった。


 遠くで風が障子を鳴らす。庭の葉が擦れる。屋敷の奥では、結界が低く息づいている。赫臣の装身具が、歩くたびに小さく鳴った。


 深雪乃は、その音を聞いていた。


「その音」


「何だ」


「少し、鎖のように聞こえます」


 赫臣は足を止めかけた。


 深雪乃は前を向いたまま言う。


「綺麗な音だと思っていました。でも、今は鎖の音にも聞こえます」


 赫臣の喉が詰まる。


 深雪乃は、こちらを見上げた。


「あなたも、何かに縛られているのですね」


 赫臣は、答えられなかった。


 深雪乃は責めなかった。


 ただ、彼の手を握ったまま歩き出す。


「今は、それだけ覚えておきます」


 赫臣は、胸の奥が焼けるようだった。


 自分の秘密に、深雪乃は触れた。


 核心ではない。


 だが、確かに近づいた。


 部屋へ戻ると、深雪乃は布団のそばに座った。


 赫臣は迷った。


 このまま隣室へ戻るべきか。


 同じ部屋にいるべきか。


 触れることが深雪乃を救うのか、縛るのか分からない。


 抱きしめれば、百鬼が反応するかもしれない。


 離れれば、深雪乃を不安にさせる。


 どうすればいい。


 赫臣が動けずにいると、深雪乃が見上げた。


「今日は、眠らないのですか」


「……分からねえ」


「またですか」


「悪い」


「では、ここにいてください」


 赫臣は、目を見開いた。


「いいのか」


「今のあなたを一人にしておく方が、落ち着きません」


「俺は子どもか」


「時々」


「深雪」


「冗談です」


「半分本気だろ」


「少し」


 赫臣は、苦く笑った。


 深雪乃は布団の端を少し空ける。


「ただし」


「何だ」


「苦しくなるほど抱きしめないでください」


「分かってる」


「分かっているなら、確認を」


 赫臣は、息を吐いた。


「確認する」


 深雪乃が小さく頷く。


 赫臣は、慎重に彼女を抱いた。


 強くしすぎない。


 背を避ける。


 肩を包む。


 けれど、自分の中で百鬼がざわめくのを感じた。


 守れ。


 囲え。


 隠せ。


 奪われる前に、連れ帰れ。


 赫臣は、舌の鋲を歯で噛んだ。


 冷たい痛みが走る。


 百鬼の声を抑える。


 深雪乃が気づいた。


「痛いのですか」


「何でもねえ」


「嘘ですね」


 赫臣は、目を閉じた。


「少し、抑えただけだ」


「何を」


「まだ言えねえ」


 深雪乃は、しばらく黙った。


 それから、赫臣の胸元に額を寄せた。


「では、今は聞きません」


「怒らねえのか」


「怒っています」


「そうか」


「でも、離れないでと言ったのは私です」


 赫臣の腕が震えた。


 深雪乃は、小さく続ける。


「あなたも、離れないでください」


「離れねえ」


「装身具の音が鎖のようでも」


「離れねえ」


「あなたの存在が、私を救うものなのか、縛るものなのか、まだ分からなくても」


 赫臣の呼吸が止まる。


 深雪乃は、彼の胸元で言った。


「それでも、今は離れないでください」


 赫臣は、唇を噛んだ。


 泣きそうになるなど、冗談ではない。


 鬼が泣くには、夜が狭すぎる。


 彼は深雪乃の髪へ、そっと口づけた。


「可愛い」


「今は、苦いです」


「知ってる」


「でも、嫌ではありません」


 その言葉だけで、赫臣の中の百鬼がまたざわめきかけた。


 赫臣は、舌の鋲をもう一度噛んだ。


 抑える。


 深雪乃を守るために。


 深雪乃を縛らないために。


 自分の愛が、百鬼夜行の檻にならないように。


 彼は、夜の中で目を閉じなかった。


 深雪乃はしばらくして眠った。


 赫臣の腕の中で、浅く、けれど確かに。


 赫臣は眠らなかった。


 装身具の一つ一つが、身体に重かった。耳飾り、舌の鋲、指輪、腕輪、首飾り、足首飾り。すべてが退魔具であり、封具であり、鎖だった。


 百鬼夜行の主。


 先祖返り社会の秩序そのものに関わる存在。


 夜を率いる者ではなく、夜を堰き止める者。


 その自分が、深雪乃の救いになるのか。


 それとも、深雪乃を別の檻へ閉じ込めるのか。


 答えはまだ出ない。


 深雪乃には、まだ言えないことがある。


 それでも、いつか言わなければならない。


 同じ沈黙を選ばないために。


 赫臣は、深雪乃の寝息を聞きながら、自分の指輪を一つ、静かにはめ直した。


 金属が指に戻る。


 夜行の道が、ひとつ閉じる。


 深雪乃の呼吸は、変わらない。


 赫臣は、その呼吸を夜明けまで数え続けた。


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