第43話 神と呼ばれたもの
母の遺品が揃った翌朝、深雪乃は自分の手の中に残る温度を見つめていた。
泣いた夜の翌朝は、奇妙なほど静かだった。
涙を流したからといって、胸の中が軽くなるわけではない。むしろ、泣いた分だけ隠していたものが掘り起こされ、乾ききらない泥のように心の底へ残っている。目元は重く、喉は少し痛い。けれど、母の声はまだ耳にあった。
どうか、自分を道具だと思わないで。
あなたは、誰かの器ではない。
弓を、忘れないで。
鏡を、恐れないで。
同じ沈黙を選ばないで。
母の声は優しかった。
優しいのに、深雪乃を泣かせた。
母はただの妾ではなかった。鵺喰家に囲われた女ではなく、宵待の古い退魔の血を引き、鏡と弓と清めに関わる術を持ち、先祖返り会の記録に名前を残された女だった。本人の意志は記録に残されず、胎内の深雪乃ごと何かの術式に組み込まれた。
それだけは分かった。
けれど、何が本当に起きたのかは、まだ分からない。
分からないのに、母の苦しみだけが見えてしまった。
それは、答えではなく傷だった。
深雪乃は、膝の上で両手を重ねた。
その手は震えていない。
昨夜も、涙は流れたのに、手は長く震えなかった。泣いているのに震えない身体。怖いのに戻ってしまう呼吸。死へ進む流れを押し戻されるような身体。
自分が、自分のものではないように思える。
その感覚は、朝になっても薄れなかった。
赫臣は、深雪乃のすぐ隣にいた。
昨夜、彼は何度も深雪乃に口づけた。額へ、頬へ、涙へ、唇へ。言葉では説明できないことを、言葉では届かない場所へ触れるように、何度も。
深雪乃は「説明になっていません」と言いながら、彼に縋った。
そのことを思い出すと、胸が少し熱くなる。
恥ずかしさではない。
完全な安心でもない。
ただ、自分があの時、彼の襟を握りしめて離さなかったことを、はっきり覚えている。
赫臣は今、深雪乃の横顔を見ている。
最近は、もう隠す気もなく見てくる。心配、愛情、恐れ、執着、確認。そのすべてが視線に混じっている。顔がうるさい。黙っていても、だいたい何か言っている。人間なら不便な顔だが、鬼なのでさらに面倒だった。
「深雪」
「はい」
「顔色が悪い」
「昨日泣きましたので」
「目元も赤い」
「昨日泣きましたので」
「飯は」
「食べます」
「今すぐ」
「赫臣様」
「何だ」
「尋問ではなく朝餉にしてください」
赫臣は少しだけ口を閉じた。
「悪い」
「謝罪も多いです」
「言われると思った」
「では改善を」
「努力する」
「期待は少しだけにします」
赫臣は苦く笑った。
それでも、膳はすでに用意されていた。白粥、味噌汁、柔らかく炊いた野菜、小さな卵焼き。深雪乃が食べやすいものばかりだった。腹立たしいほどに細やかである。横暴な鬼のくせに、こういうところだけ妙に世話焼きなのだから、本当に扱いに困る。
深雪乃は箸を取った。
赫臣はそれを見て、少しだけ肩の力を抜いた。
食事を終える頃、砂笙が離れへ来た。
その後ろには蓮台と白絹もいる。三人の顔を見ただけで、朝の静けさは終わったのだと分かった。
砂笙は深く一礼した。
「深雪乃様。昨夜の遺響について、いくつか確認したいことがございます」
深雪乃は膳から手を下ろした。
「母のことですね」
「はい」
「分かりました」
赫臣の手が、すぐ深雪乃の手へ重なる。
深雪乃は彼を見る。
「確認ですか」
「ああ」
「今は痛くありません」
「ならいい」
「よくはありません」
「分かってる」
赫臣は、それでも手を離さなかった。
深雪乃も、強くは拒まなかった。
調査は、母の遺品を並べた部屋で行われた。
白布の上には、昨夜と同じように遺品が置かれている。
折れた櫛。
沈丁花文様の鏡。
髪飾り。
白藤色の着物の糸。
ブレスレットの割れ玉。
古弓の欠片。
破魔矢の軸片。
弓懸。
短冊。
昨夜は、それらが一つの遺響を再生した。
今は静かだ。
けれど、静かなのに、部屋にはまだ母の気配が残っていた。沈丁花の香りが完全には消えていない。白布の上の遺品は、壊れているのに、どこか眠っているようにも見える。
砂笙は、記録を開いた。
「昨夜の遺響と、祈祷部屋の記録、枯野井殿の文箱に残った紙片を合わせますと、いくつかの語が繋がります」
蓮台が低く言った。
「神気、破魔、胎内封じ、鍵、白き客人、そして神と呼ばれたもの」
神。
その一語に、部屋の温度が少し下がった気がした。
深雪乃は、静かに眉を寄せる。
「神、ですか」
白絹が頷いた。
「正確には、神そのものかどうかは分かりませんわ。古い記録では、人が理解できないもの、妖では括れないもの、祓えず、喰えず、縛れないものを『神』と呼ぶことがあります。敬意というより、分類できなかったものへの名ですわね」
蓮台が皮肉げに言う。
「分からないから神と呼ぶ。人間の知恵らしい雑さだ」
「否定できませんわ」
白絹は静かに返した。
深雪乃は、母の鏡を見つめる。
神気。
白絹が以前、深雪乃の奥に神気に近いものを感じると言った。
けれど、それは通常の神気とも違う、と。
「私の中に、その神気があるのですか」
問いながら、深雪乃は自分の声が遠く感じた。
砂笙はすぐに断定しなかった。
「神気に近いものがあるのは確かです。ただ、清浄な神社の気や、古い祭祀に残る神気とは性質が違います。深雪乃様の内側にあるものは、破魔に似た清めと、死を拒む力と、境を曖昧にする気配が混じっております」
「境を曖昧にする」
「はい。生と死、人と妖、内と外、封じるものと開くもの。通常なら分かれているはずのものを、完全には分けない」
深雪乃は、枯野井の死を思い出した。
妖気結界に認識されない力。
内でも外でもない場所から核へ触れた可能性。
境の力。
白き客人の伝承。
それと自分の中のものが、どこかで重なっている。
胸の奥が冷える。
赫臣の指が、深雪乃の手を包んだ。
白絹は続けた。
「宵待家の血筋は、古くから破魔に関わる家です。鏡で遺響を映し、弓で因果を射抜き、清めで妖気と穢れを分ける。けれど、澄子様の代には、その血が特に濃かったと考えられます」
砂笙が記録を示す。
「祈祷部屋の記録にも、『宵待澄子、神気に似た破魔を宿す』という断片がございます。さらに、『白き客人との誓いにより、血は変質せり』と読める箇所がございました」
「母の血が、変わったのですか」
「可能性です」
砂笙は慎重に言う。
「宵待の破魔の血筋に、白き客人と呼ばれる存在が関わった。その結果、澄子様の力は通常の破魔ではなくなった。鵺喰家はその力を、山本五郎左衛門の秘術で封じようとした」
鵺喰家の秘術。
山本五郎左衛門の紋。
胎内封じ。
器ではなく鍵。
深雪乃は、昨夜の母の姿を思い出した。
祈祷部屋の白布の上で、母の腹に光の輪が重ねられていた。若い玄磊が震える手で札を持ち、周囲には鵺喰家、寺社方、蘆野火の印を持つ女、枯野井家の文書役がいた。
母は言った。
この子は、器ではありません。
深雪乃は、唇を噛んだ。
「鵺喰家は、母の血と私を使って、何をしようとしたのですか」
砂笙は答えなかった。
蓮台も、白絹も沈黙した。
深雪乃は、赫臣を見た。
赫臣は、目を逸らしていなかった。
だが、その顔は硬い。
知っている。
少なくとも、何かを。
深雪乃の胸に、冷たい棘が刺さる。
「赫臣様」
「……何だ」
「何か、ご存じなのですね」
赫臣は、ほんの短い間だけ黙った。
それから言った。
「全部じゃねえ」
深雪乃は、静かに息を吸った。
その言葉を、もう何度聞いただろう。
全部ではない。
断片だけだ。
確証がない。
まだ言えない。
間違った形で刺さる。
分かる。
分かるのに、苦しい。
「全部でなくて構いません」
「深雪」
「話してください」
赫臣は、深雪乃の手を握ったまま、目を伏せた。
その沈黙が、また嘘の匂いを帯びる。
深雪乃は、はっきり感じ取った。
彼は今、言葉を選んでいるのではない。
一部を隠そうとしている。
深雪乃は、声を低くした。
「赫臣様」
赫臣の指が、かすかに強張る。
「嘘をつく前の顔です」
部屋の空気が止まった。
蓮台が眉を上げる。
砂笙が目を伏せる。
白絹は、深雪乃と赫臣を静かに見ている。
赫臣は、深雪乃を見た。
「嘘はついてねえ」
「では、何ですか」
「まだ言えねえことがある」
「それは、嘘をつかずに隠すということですね」
「そうだ」
「開き直りましたね」
「誤魔化しても、お前には分かる」
「はい」
深雪乃の声は静かだった。
だが、胸の中は熱くなっている。
怒り。
怖さ。
悲しみ。
失望。
それらが混じっている。
「母は、同じ沈黙を選ばないでと言いました」
赫臣の顔が、痛む。
深雪乃は続けた。
「私も申し上げました。怖いことも、分からないことも、言えない理由も、隠すのではなく言ってください、と」
「言えない理由は言ってる」
「足りません」
「言えば、お前が」
「私が何ですか」
赫臣が唇を閉じる。
その沈黙が、深雪乃をさらに怒らせた。
「私が壊れる?」
「……ああ」
「私があなたから離れる?」
「それもある」
「私の中のものが目覚める?」
赫臣は答えなかった。
深雪乃は目を見開いた。
今の沈黙は、他の沈黙と違った。
核心へ近い。
深雪乃の中のもの。
神気。
破魔。
鵺喰家の秘術。
母の血筋。
白き客人。
神と呼ばれたもの。
それらが、一瞬だけ一つの形に近づいた気がした。
赫臣は、それを知っている。
少なくとも、恐れている。
「そこなのですね」
深雪乃の声が震えた。
「私の中のものが目覚めることを、恐れているのですね」
「恐れてる」
赫臣は、ようやく認めた。
「だったら、そう言ってください」
「言った」
「今、ようやくです」
「悪い」
「謝罪では足りません」
「分かってる」
「では、続きを」
赫臣の顔が苦く歪む。
深雪乃は、彼の手を振りほどこうとした。
赫臣が一瞬だけ手に力を入れた。
深雪乃の目が冷える。
「離してください」
赫臣は、はっとしたように手を離した。
深雪乃の指先が、空気に触れて冷える。
それだけで、胸の奥が少し寂しくなる自分が嫌だった。
怒っているのに。
離してほしくない。
けれど、今は離させた。
「深雪」
「隠すなら、触らないでください」
赫臣の顔から血の気が引いた。
その顔を見ると、胸が痛む。
だが、深雪乃は引かなかった。
「私は、母の遺響を見ました。母が祈祷部屋で何をされていたのか、一部だけですが見ました。私が何かに関わっていることも、私の身体が普通ではないことも、会が私を鍵として扱っていることも、もう分かっています」
声が、少しずつ強くなる。
「なのに、あなたはまだ、私から私のことを隠すのですか」
「違う」
「何が違うのですか」
「お前から隠したいんじゃねえ。お前を、その言葉から遠ざけたい」
「同じです」
「違う」
「同じです!」
深雪乃が声を荒げた。
自分でも驚いた。
部屋にいた者たちも、少し息を止めた。
深雪乃は普段、大声を出さない。怒りは静かに刺す。けれど今は、静かでいられなかった。
「私を遠ざけるということは、私から取り上げるということです。母のことも、私の身体のことも、私が何なのかも。あなたが怖いから、私に見せない。それは、先祖返り会が母の意志を記録に残さなかったことと、何が違うのですか」
赫臣の顔が、はっきり傷ついた。
言いすぎたかもしれない。
思った。
けれど、撤回できなかった。
撤回したくなかった。
赫臣は、低く言った。
「俺を、会と同じだって言うのか」
「同じにならないでくださいと言っています」
深雪乃の声は震えていた。
「私は、あなたを信じたいのです」
その言葉で、赫臣の目が揺れた。
「信じたいから、嘘が痛いのです」
部屋は静まり返った。
白絹が、静かに目を伏せる。
砂笙も何も言わない。
蓮台は腕を組んだまま、二人を見ている。
赫臣は、深雪乃の前で膝をついたまま、しばらく動かなかった。
やがて、低く言った。
「神と呼ばれたものは、神じゃねえ」
深雪乃は息を止めた。
赫臣は、ようやく言葉を出した。
「少なくとも、人間が拝むような神じゃない。妖でもない。先祖返りでもない。境に立つものだ。古い退魔師は、それを神と呼んだ。寺社方は祀ろうとし、鵺喰は縛ろうとし、蘆野火は隠そうとし、篝火は近づけるなと言われた」
「白き客人ですか」
「その可能性が高い」
「母と関わった存在」
「ああ」
「私の出生に関わる存在」
赫臣の喉が動いた。
「……その可能性がある」
「私の中のものは、その存在の力なのですか」
「断定できねえ」
「赫臣様」
「本当に断定できねえ!」
赫臣の声が荒れた。
深雪乃は、息を止める。
赫臣は、すぐに唇を噛むようにして目を伏せた。
「悪い」
「いえ」
「断定できねえんだ。お前の中にあるのが、白き客人の力なのか、宵待の破魔が変質したものなのか、鵺喰の秘術で歪められた封じなのか、全部が絡んだ結果なのか。俺にも分からねえ」
深雪乃は、胸の奥が冷えるのを感じた。
分からない。
それは、嘘ではない。
だが、まだ足りない。
「隠したのは、そこだけではありませんね」
赫臣は、深雪乃を見た。
その目が、苦しく揺れる。
「……ああ」
「何を」
「神と呼ばれたものは、鍵を開く側でも、封じられる側でもない」
赫臣の声が低くなる。
「鍵を必要とする側だと、古い記録にはある」
深雪乃の身体の奥が、静かに鳴った。
鍵を必要とする側。
神と呼ばれたもの。
白き客人。
深雪乃は鍵。
では、自分は何を開くのか。
誰のために。
何のために。
赫臣は続けた。
「そこから先は、まだ言えねえ」
深雪乃の胸が熱くなった。
「またですか」
「言えねえ。今は本当に言えねえ。記録が欠けてる。白絹の家の控えも、会の文箱も、まだ全部揃ってねえ。ここで俺が推測を言えば、お前は自分を壊す」
「決めつけないでください」
「決めつけじゃねえ。俺が怖いんだ」
「また怖い、ですか」
「ああ、怖い!」
赫臣が吠えるように言った。
部屋の空気が震える。
「お前が自分を道具だと思うのが怖い。神と呼ばれたものの鍵だって言葉に飲まれるのが怖い。俺の手を離して、母親の声や白い影を追って、どこかへ行くのが怖い。俺が疑ってると思われるのも怖い。お前に嫌われるのも怖い。全部怖い」
深雪乃は、赫臣を見た。
怒りはまだある。
けれど、彼の声が、あまりにも剥き出しだった。
「俺は、お前を疑ってねえって言いたい。言いたいけど、なぜとは考える。お前の中のものが事件と繋がってるなら、俺はそれを見なきゃならねえ。でも、見ることがお前を疑うことみてえで、吐きそうになる」
赫臣の手が、畳の上で拳になる。
「深雪が関わっているはずがねえ。そう思う。けど、証拠はお前の周りへ来る。母親の遺品も、神気も、破魔も、白き客人も、全部だ。俺は真相を見たい。けど、真相がお前を傷つけるなら見たくねえ。矛盾してる。分かってる。だから、言葉が詰まる」
深雪乃の目に、涙が滲んだ。
怒りの涙ではなかった。
悲しみでも、完全にはない。
彼が苦しんでいることが分かる。
分かるからこそ、痛い。
「赫臣様」
声が震えた。
「はい」
赫臣は、いつになく素直に返事をした。
「私は、あなたに疑われるのが怖いです」
赫臣の顔が歪む。
「疑ってねえ」
「でも、なぜと考えるのでしょう」
「……ああ」
「それは、私には疑いに見えます」
「分かってる」
「苦いです」
「分かってる」
「けれど」
深雪乃は、膝の上で手を握りしめた。
涙が落ちそうになる。
落ちる前に、言わなければならなかった。
「疑っていてもいいです」
赫臣の呼吸が止まった。
深雪乃は、彼を見つめる。
「だから、離れないで」
言った瞬間、涙が落ちた。
赫臣の顔が、何かを壊されたように歪む。
「深雪」
「私は、怖いです。あなたに疑われることも、あなたが私を怖がることも、私の中に何があるのか知ることも。けれど、疑われることより、離れられることの方が怖い」
声が崩れる。
「あなたが、私を守るためだと言って遠ざかるのが怖い。真相を見るために、私を見る目が変わって、そのまま手を離されるのが怖い。だから」
深雪乃は、自分から手を伸ばした。
赫臣の着物の襟を掴む。
「疑っていてもいいです。なぜと考えてもいいです。私の中のものを怖がってもいいです。だから、離れないで」
赫臣は、次の瞬間、深雪乃を抱き寄せた。
強い。
深い。
けれど、背の傷は避けている。
確認というより、溺れる者が岸を掴むような抱擁だった。深雪乃の身体が赫臣の胸へ押しつけられる。息が詰まる。けれど、離れようとは思わなかった。
「深雪」
赫臣の声が、ほとんど呻きだった。
「離さねえ。離れるわけねえだろ。疑ってる顔に見えても、怖がってても、俺はお前を離さねえ」
「本当に?」
「本当に」
「嘘ではなく?」
「嘘じゃねえ」
「隠し事は?」
「まだある」
深雪乃の胸が痛む。
だが、赫臣は続けた。
「でも、隠し事ごと、俺はここにいる。隠してるから離れるんじゃねえ。隠してることも、言えない理由も、言えるところから全部言う。だから、俺を追い出すな」
深雪乃は、赫臣の胸元で息を震わせた。
「追い出していません」
「触るなって言われた」
「怒っていました」
「今は?」
深雪乃は答えなかった。
代わりに、彼の襟をさらに強く掴んだ。
それが答えだった。
赫臣は、深雪乃の顎へ手を添えた。
触るぞ、と言う余裕はなかった。
深雪乃も咎めなかった。
唇が重なる。
激しかった。
これまでの確認の口づけとも、慰めの口づけとも違った。言い合いで荒れた呼吸がぶつかり、涙の味が混じり、怒りと恐れと愛情が同じ場所でほどける。赫臣の唇は深雪乃を逃がさないように追い、深雪乃も彼の襟を掴んだまま応えた。
説明ではない。
答えでもない。
和解というには乱れていた。
けれど、二人は互いから離れなかった。
深雪乃が息を吸おうとすると、赫臣はわずかに離れる。けれどすぐ、また口づける。額へではない。頬でもない。唇へ。何度も。深く。苦い言葉を、今度は隠すためではなく、飲み込み合うように。
深雪乃の背が畳へ傾きかけ、赫臣の腕がすぐに支えた。
人前だった。
蓮台も、砂笙も、白絹もいる。
だが、誰も止めなかった。
いや、蓮台は止めたそうな顔をしたが、やめた。砂笙は完全に目を伏せた。白絹は、苦いような、痛いような目で二人を見ていた。
唇が離れた時、深雪乃は息を乱していた。
赫臣の額が、彼女の額へ触れる。
「可愛い」
かすれた声だった。
「大好きだ」
深雪乃の指が、襟を掴んだまま震える。
「愛してる」
「今のは、苦いです」
深雪乃は、涙の残る声で言った。
赫臣は頷いた。
「知ってる」
「でも、離れないで」
「離れねえ」
「疑っていても」
「離れねえ」
「怖くても」
「離れねえ」
「私が、神と呼ばれたものの鍵でも」
赫臣の目が、痛いほど揺れた。
それでも彼は答えた。
「離れねえ」
深雪乃は、ようやく赫臣の胸に顔を埋めた。
彼の腕が、もう一度彼女を包む。
今度は、痛くなかった。
けれど、逃がさない力はあった。
深雪乃も逃げなかった。
母の遺品が並ぶ部屋で、神と呼ばれたものの名が出た。
神気、破魔、鵺喰家の秘術、母の血筋。
深雪乃の出生に関わる言葉が、少しずつ姿を見せ始めた。
けれど、核心はまだ闇の中にある。
赫臣はまだ隠している。
深雪乃は、その嘘に気づいた。
言い合い、傷つけ合い、涙を流し、それでも離れないと互いに確かめた。
説明ではない。
十分な答えでもない。
それでも、今の二人には、その乱れた口づけが必要だった。
深雪乃は、赫臣の胸の中で小さく言った。
「次に隠したら、また怒ります」
「分かってる」
「刺します」
「分かってる」
「それでも、離れないで」
赫臣の腕が、深くなる。
「離れねえ」
その声を、深雪乃は信じたいと思った。
疑いがあっても。
嘘が残っていても。
真相がまだ暗くても。
その声だけは、今、自分を抱いている腕の中にあった。




