表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
人間臭いと蔑まれた不死身の娘は、百鬼夜行の主に愛される  作者: なつめ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

43/63

第41話 結界内殺人のトリック解説


 枯野井宗顕の死体は、朝になっても客間の中央にあった。


 正確には、動かされていなかった。


 蓮台がそう命じたからだ。夜のうちに最低限の確認だけを済ませ、外部からの侵入痕がないこと、結界が外側から破られていないこと、部屋の中で破魔の光が爆ぜたことだけを押さえた。死体を移すのは、その後でもいい。証拠は死者より口が重いが、動かせばさらに黙る。蓮台はそういう顔で部屋を封じた。


 客間の前には、夜通し篝火家の従者と警視庁の部下が立った。


 白絹は廊下の影へ蘆野火の式を置き、砂笙は障子の四隅に細い退魔糸を張った。赫臣は自分の霊糸で周囲の廊下を薄く囲み、深雪乃の離れから客間までの道をすべて見張った。


 誰も近づけなかった。


 誰も出られなかった。


 それでも、死体はそこにある。


 人間の知恵というものは、死体の前ではだいたい遅刻する。事件が起きてから慌てて賢そうな顔をするのだから、まったく忙しい生き物だ。


 深雪乃は、朝の客間の入口に立っていた。


 枯野井の死体を見るのは二度目だった。


 昨夜、彼が倒れているのを見た時、深雪乃は悲しみより先に安堵を覚えた。明朝、あの男に自分を霊的に検分されずに済む。会の管理下に置かれずに済む。保管される鍵として扱われずに済む。


 そう思ってしまった。


 その自分が、今も分からない。


 夜岐が死ななかった時には、死ななくてよかったと思った。憎んでいるのに、安堵した。枯野井が死んだ時には、ほっとした。人が死んだのに、自分が解放されたように感じた。


 どちらも深雪乃の中にある。


 どちらも嘘ではない。


 それが怖い。


 自分の心なのに、まるで別々の箱に違うものが入っているようだった。開けるたびに違う匂いがする。憎しみ、安堵、恐怖、罪悪感、怒り。人の心は整理棚ではないのか。せめて札くらい貼っておいてほしい。


 赫臣は、深雪乃のすぐ隣にいた。


 昨夜、彼は深雪乃を抱きしめて言った。


 お前は人間だ。


 今苦しんでいるお前は、化け物じゃねえ。


 その言葉は、深雪乃の胸に残っている。


 けれど、朝になっても疑問は消えなかった。


 自分は何なのか。


 人なのか。


 鍵なのか。


 開かれるべきものなのか。


 それとも、誰かの死に安堵するほど冷たい何かなのか。


 赫臣の手が、深雪乃の背へ触れた。


 触れる前に、彼は低く言った。


「確認する」


 深雪乃は、小さく頷いた。


 赫臣の腕が、軽く深雪乃の肩を包む。強くはない。だが、確かにそこにいる。深雪乃がどこかへ行かないように、彼自身が確かめるための手だった。


 客間の中では、蓮台がすでに検分を始めていた。


 枯野井は、仰向けに倒れている。


 黒い羽織は胸元だけ白く焼け、肌は血を流すより先に内側から焦げたようになっていた。肉が焼ける嫌な臭いは薄い。代わりに、清めの塩を熱したような、冷たく鋭い匂いがある。破魔の光が爆ぜた跡だ。


 畳には、放射状の白い痕が残っている。


 まるで枯野井の胸の中心から、光が内側から散ったようだった。壁や障子に裂け目はない。窓も閉じたまま。外側の結界には破損がない。だが部屋の内側だけが、白い火花に焼かれている。


 蓮台は、結界の外側に貼られた札を指した。


「外から破られた形跡はない」


 砂笙が頷く。


「はい。結界の外膜は完全です。昨夜、旦那様や私どもが確認した時と変わりません。外側から力を加えた場合、必ず揺れ、焼け、歪みが残ります。ですが、この結界の外面にはそれがない」


 白絹は、障子の上部へ目を向けた。


「蘆野火の式にも、外から侵入した反応はありませんでしたわ。影も、足音も、妖気の揺れも拾っておりません」


 蓮台が、枯野井の周囲を見下ろす。


「中へ入った記録もない。見張りも、式も、結界も、誰かが部屋へ入った痕跡を取っていない」


「だが死んだ」


 赫臣が低く言う。


 蓮台は頷いた。


「ああ。結界の中で死んだ」


 深雪乃は、客間の四隅を見た。


 そこには、枯野井が持ち込んだ会の結界札が貼られていた。黒い墨で書かれた文字、中央に押された先祖返り会の朱印、枯野井家の小さな印。四枚の札から細い光の筋が床の中央へ伸び、そこに結界の核があった。


 核は、割れていた。


 小さな透明な玉のようなものだった。水晶にも、硝子にも見える。だが、ただの石ではない。内部に墨のような黒い線が走り、それが中心で白く焼け切れていた。


 砂笙が、布越しにその核を示す。


「結界の核です。枯野井殿が自ら設置したものと見てよろしいでしょう。会の使者が身の安全を確保するために使う妖気結界。外敵の侵入を防ぎ、入退室を記録し、内部の異常を感知する仕組みです」


 蓮台が問う。


「その核が割れた理由は」


「反転です」


 砂笙の声は静かだった。


 深雪乃は、玄磊の死を思い出した。


 護符の反転。


 自分を守るはずの護符が、内側へ返り、玄磊自身を締め上げた。


 今度は、結界の核。


「玄磊様と同じなのですか」


 深雪乃が言うと、砂笙は頷いた。


「仕組みとしては近いものがございます。玄磊殿の場合、自身の護符を反転させられ、霊力と呼吸の流れを締め上げられた。枯野井殿の場合は、結界の核が反転し、外敵を弾くはずの破魔の光が内側へ爆ぜた」


 蓮台が、枯野井の胸を見た。


「つまり、枯野井は自分の結界に殺された」


「はい」


 砂笙は答えた。


「外から破られたのではなく、内側で核の流れを変えられた。結界が守るべき内部に向けて、破魔の光を返されたのです」


 赫臣の目が険しくなる。


「内部にいた者がやったってことか」


「普通に考えるなら、そうです」


 砂笙は、あえてその言い方をした。


「結界の核を反転させるには、核に触れる、または核の流れに干渉する必要がございます。外側から膜を破らずに核を変えることは通常できません」


 蓮台が低く言う。


「だが、使者以外に入った記録はない」


「はい」


「見張りは誰も入室を見ていない。廊下の式も反応していない。結界そのものも入退室の記録を残していない」


「その通りです」


 部屋の空気が重くなる。


 深雪乃は、割れた核を見つめた。


 内部にいた者が反転させた。


 だが、内部にいた者は枯野井だけ。


 ならば、枯野井が自分で反転させたのか。


 自殺。


 その可能性が浮かび、すぐに消える。


 枯野井は、明朝の検分を告げた男だ。会の命令書を持ち、深雪乃を管理下に置こうとしていた。自ら死ぬ理由があるとは思えない。しかも、死体の手元には焼け残った紙片があった。


 開鍵の期、近し。


 それを残すために自殺したのか。


 違う。


 深雪乃の胸の奥が、そう言った。


 蓮台も同じ結論らしい。


「自死の可能性は低い」


 彼は言った。


「枯野井は明朝の検分を予定していた。会の命令を実行するつもりだった。自分の文箱も開けている。何かを確認していた最中に殺されたと見る方が自然だ」


 白絹が、文箱の方へ視線を向ける。


 枯野井が持ち込んだ文箱は、部屋の隅に置かれていた。蓋は開いている。中の書類は半分ほど焦げ、いくつかは無事だった。蓮台の部下が触れずに見張っている。


 白絹は言った。


「文箱の結界も切れていますわ。外から開けられたのではなく、内側の封じが一瞬だけ弾けたようです」


 砂笙が頷いた。


「文箱と客間の結界核が連動していた可能性がございます。枯野井殿が文箱の中の記録を開いた時、何らかの仕掛けが発動した」


 蓮台が眉をひそめる。


「会の記録そのものに、罠があったと?」


「可能性の一つです」


 白絹が補う。


「あるいは、記録に触れることで、核の反転条件が満たされた。使者が持ち込んだ古い情報を、使者自身が開いた瞬間に結界が内側へ返った」


 赫臣が低く笑う。


 笑いではなく、怒りの息に近かった。


「会の使者が会の記録に殺されるとは、ずいぶん上品な自滅だな」


「自滅とは限りません」


 砂笙が言う。


「記録に仕込まれた罠なら、仕込んだ者がいます。枯野井殿がそれを知らずに持ってきたのか、知っていて扱いを誤ったのかはまだ不明です」


 深雪乃は、枯野井の手元にある焼け残りへ目を向けた。


 開鍵の期、近し。


 鍵。


 自分。


 枯野井は、それを見たのか。


 その瞬間に死んだのか。


 蓮台が、手袋代わりの布で紙片を慎重に持ち上げた。


「この文面は、枯野井が見せたくなかった情報かもしれない」


 赫臣が問う。


「何が読める」


「表面はこれだけだ。裏面に少し焦げ残りがある」


 蓮台が裏返す。


 文字はほとんど黒く潰れている。


 だが、砂笙が目を細めた。


「『認識せず』……いえ、『結界、これを認識せず』でしょうか」


 深雪乃の胸が冷える。


 結界が認識しない。


 白絹が、鋭く蓮台を見る。


「続きは?」


「焦げて読めない」


 蓮台は紙片を白布へ戻した。


 砂笙が、結界核の割れ目を見ながら言う。


「妖気結界に認識されない力が使われた可能性がございます」


 その言葉は、客間の空気を一段冷たくした。


 妖気結界に認識されない力。


 先祖返り会の使者が張った結界。


 外敵を弾き、入退室を記録し、内部の異常を感知するはずの結界。


 その結界が、力を認識しなかった。


 だから、誰も入った記録がない。


 だから、外から破られた痕もない。


 認識されない力が内側の核に触れ、反転させ、破魔の光を爆ぜさせた。


 深雪乃は、無意識に自分の胸元を押さえた。


 懐の母の鏡。


 その奥の、自分の身体。


 死を押し戻されるような不死。


 白絹に、通常の霊力とも妖気とも違うと言われたもの。


 神気に近いが、神気だけではない何か。


 妖気結界に認識されない力。


 それは、自分の中にあるものと同じなのか。


 あるいは、白い女のものか。


 白き客人の力か。


 深雪乃の指先が冷える。


 赫臣がすぐに気づいた。


「深雪」


「私は」


 言いかけて、止まる。


 私は何を。


 何と言いたかったのか分からない。


 私は関係しているのですか。


 私は認識されない力を持っているのですか。


 私は、枯野井を殺した力と同じものを抱えているのですか。


 どの問いも、喉に刺さった。


 赫臣の手が深雪乃の肩へ回る。


 強くはない。


 けれど、明確に支える手だ。


 白絹が、深雪乃を見た。


「深雪乃さんの力と同一とは限りませんわ」


 深雪乃は白絹を見る。


 白絹の声は慎重だった。


「妖気結界に認識されない力、といっても種類はいくつか考えられます。神気に近い清浄な力。古い退魔術。死者の遺響。人でも妖でもない境の力。白き客人に関わるもの。あなたの中のものと重なる部分はあるでしょうが、同一と断定するのは早計です」


 赫臣が低く言う。


「断定する奴がいたら、俺が黙らせる」


「黙らせ方を穏やかにしてくださいませ」


 白絹が即座に返す。


「時と場合による」


「その返答がすでに穏やかではありませんわ」


 深雪乃は、二人のやり取りを聞きながらも、胸の冷えが消えなかった。


 認識されない力。


 それは、ある意味で深雪乃そのもののようだった。


 鵺喰家は深雪乃を認識しなかった。


 家族写真にも、祝いの席にも、記録にも、母の名にも、深雪乃の居場所にも。彼女はいつも端へ追いやられ、存在を軽く扱われた。


 けれど、今は逆だ。


 結界に認識されない力が、人を殺したかもしれない。


 見えないもの。


 記録されないもの。


 測れないもの。


 それは、恐ろしく強い。


 蓮台が、部屋の入口から結界全体を見回した。


「核の反転、内部爆発、入室記録なし、外部破壊なし。使者以外に部屋へ入った者はいない。だが、妖気結界に認識されない何かが核へ干渉した可能性がある」


 砂笙が頷く。


「はい」


「玄磊の護符反転と似ているが、今回はさらに厄介だな。護符は構造を知る者か、上回る破魔の力を持つ者が反転させた。今回は結界そのものが相手を認識していない」


「つまり、結界の規則の外から触れられた」


 砂笙の声は硬い。


「結界が『侵入』と判断できないまま、内側の核だけが反転した」


 赫臣の蒼い目が、結界核へ向けられていた。


 その顔を見て、深雪乃は胸の奥がざわついた。


 彼は何かに近づいている。


 真相の輪郭に。


 だが、まだ言わない。


 深雪乃は、それを責める前に、彼の顔を見た。


 今の赫臣は、隠しているというより、確かめている顔だった。断定すれば間違った形で刺さると分かっている。以前なら、黙って抱きしめて口づけで塞いだかもしれない。だが今は、考えている。その考えを、どこまで言葉にできるか探している。


「赫臣様」


 深雪乃が呼ぶ。


 赫臣は、ゆっくり彼女を見た。


「何か、分かったのですね」


「分かったわけじゃねえ」


「では、近づいたのですね」


 赫臣は、少しだけ苦い顔をした。


「お前、本当に刺す場所を見つけるのが上手くなったな」


「褒めていませんね」


「半分褒めてる」


「残り半分は?」


「痛い」


「では、言ってください」


 赫臣は、周囲を見た。


 蓮台も、砂笙も、白絹も彼を見ている。


 赫臣は低く言った。


「枯野井を殺した力は、会の結界の外にある」


 深雪乃は、言葉を待った。


「妖気でも、普通の霊力でもねえ。退魔耀の形をしてるが、退魔師の力とも違う。結界が敵として認識できなかったなら、その力は結界の作った『内』と『外』の分け方に引っかからなかった」


 白絹の瞳が細くなる。


「境の力」


「ああ」


 赫臣は頷いた。


「人でも妖でも、内でも外でも、生でも死でもない場所から触る力。白き客人の伝承にある境の力に近い」


 深雪乃の呼吸が浅くなる。


 赫臣はすぐに言った。


「ただし、断定はしねえ」


 その言葉は、深雪乃へ向けられていた。


「夜岐が見た蒼い目の白い女が白き客人と同じかも、枯野井を殺した力がそいつのものかも、お前の中のものと同じかも、まだ分からねえ。似てる。近い。だが同じだとは言わねえ」


 深雪乃は、胸に手を当てた。


「私が関わっている可能性は」


 赫臣の顔が痛む。


 だが、逃げなかった。


「ある」


 正直な答えだった。


 深雪乃の胸が冷える。


 赫臣は続ける。


「お前が殺したって意味じゃねえ。お前が意識して力を使ったって意味でもねえ。ただ、事件の力がお前の周囲にあるものと繋がっている可能性はある」


「私の中のものと」


「かもしれねえ」


「母の術と」


「かもしれねえ」


「白き客人と」


「かもしれねえ」


 深雪乃は目を閉じた。


 かもしれない。


 それは優しい言葉ではない。


 だが、断定よりは誠実だった。


「分かりました」


 深雪乃は言った。


 赫臣の手が、肩で止まる。


「本当に分かったのか」


「分かったというより、受け取っただけです」


「重いだろ」


「軽いはずがありません」


 深雪乃は、枯野井の死体を見た。


 悲しみはまだ来ない。


 安堵も、まだ胸の底にある。


 けれど今は、その安堵の上に別の感情が乗っていた。


 恐怖。


 枯野井を殺したものが、自分と繋がっているかもしれない恐怖。


 自分が望まなくても、何かが深雪乃の周囲で人を殺しているかもしれない恐怖。


 蓮台が、実務の声に戻した。


「文箱を確認する」


 部下が文箱を開き、中身を白布の上へ並べる。


 多くは焦げていた。


 だが、無事な紙片もいくつかある。


 砂笙が一枚を読み上げる。


「『開鍵の期、近し。篝火血統との接触により、封じの揺れを確認』」


 赫臣の顔が強張る。


 深雪乃も、息を止めた。


 篝火血統との接触。


 赫臣。


 自分と赫臣の関係。


 白絹が、唇を引き結ぶ。


「やはり、会は二人の関係を危険視していたのですね」


 砂笙は別の紙片を取る。


「『鬼に渡すな、との旧記述あり。ただし現状、対象は篝火当主に強く執着されている』」


 赫臣が低く唸った。


「言い方が気に入らねえ」


「内容の方を気にしてください」


 蓮台が冷たく言う。


 砂笙は続ける。


「『対象自身の意志は不明。検分にて封じの状態、鍵の反応、白き客人の残響を確認すべし』」


 対象。


 深雪乃のことだ。


 意志は不明。


 それもまた、母の時と同じだ。


 母の意志は、記録に残されなかった。


 今度は、深雪乃の意志が不明と書かれている。


 深雪乃は、静かに言った。


「私の意志は、聞けば分かると思います」


 部屋が静かになる。


 赫臣の目が深雪乃へ向く。


 深雪乃は、文箱の紙片を見ていた。


「なぜ、いつも記録に書く前に聞かないのでしょう」


 誰もすぐには答えなかった。


 蓮台が、少しだけ目を伏せる。


「聞く気がないからだろう」


 ひどく簡潔な答えだった。


 深雪乃は小さく頷いた。


「そうですね」


 その声が、冷えていた。


 赫臣の手が、深雪乃の肩を包む。


 今度は、彼女を止めるためではない。


 怒りが冷えすぎないように、熱を渡す手だった。


 白絹が言った。


「枯野井殿は、その記録を開いた直後に殺された可能性が高いですわね。深雪乃さんと赫臣様の接触、封じの揺れ、白き客人の残響。会にとって重要な情報を確認した瞬間、結界核が反転した」


 砂笙が頷く。


「紙片の焼け方から見て、文箱の中から破魔の光が走ったわけではありません。記録が核へ作用した、または記録を開く行為が合図になり、別の力が結界核へ触れたのでしょう」


 蓮台がまとめる。


「現時点で言えることはこうだ。結界は外から破られていない。枯野井以外の入室記録もない。内部で結界核が反転し、破魔の光が爆ぜて枯野井を殺した。妖気結界に認識されない力が使われた可能性がある。その力は、白き客人、宵待澄子の術、深雪乃の不死、篝火との接触と関係しているかもしれない」


 深雪乃は、静かに聞いていた。


 自分の名前が、死の構造に組み込まれていく。


 それでも、逃げることはできない。


 蓮台は、最後に赫臣を見た。


「お前はどう見る」


 赫臣は、しばらく黙った。


 それから言った。


「枯野井を殺したのは、深雪じゃねえ」


 深雪乃は、彼を見る。


 赫臣の声は、強い。


「だが、深雪を中心に動いている力がある。そいつは会の結界をすり抜ける。認識されない。境から触る。白い女、白き客人、宵待の術、不死の封じ。全部が同じ場所へ向かってる」


「同じ場所とは」


 蓮台が問う。


 赫臣は、深雪乃を見た。


 その視線には、恐れがある。


 愛もある。


 疑いではなく、なぜという問いもある。


「深雪が、何の鍵なのか」


 部屋の空気が止まった。


 深雪乃の身体の奥で、何かが静かに鳴った気がした。


 懐の鏡は熱を持たない。


 だが、深雪乃自身の内側が、ほんのかすかに冷たく光ったような感覚があった。


 赫臣が、すぐに彼女を抱き寄せる。


「深雪」


「……大丈夫です」


「顔が大丈夫じゃねえ」


「顔に出ていますか」


「俺には」


「便利ですね」


「深雪だけだ」


「便利な言い訳です」


 それでも、深雪乃は彼の胸元に額を寄せた。


 客間の中で、死体のそばで、そんなことをするべきではないのかもしれない。だが今は、赫臣の熱がなければ、自分の内側の冷えに引かれそうだった。


 検分は昼過ぎまで続いた。


 枯野井の死体は慎重に別室へ移され、文箱の記録は蓮台、砂笙、白絹の三者立会いで封じられた。会への報告は、赫臣の意向で砂笙が文面を監視することになった。先祖返り会がまた都合よく書き換えようとすれば、今度こそ赫臣が会の本部へ火をつけかねない。比喩ではない可能性が高いのが、本当に困る。


 夜になる頃、鵺喰家には再び重い静けさが戻った。


 深雪乃は離れの部屋にいた。


 行灯の光は落とされ、部屋の中は薄暗い。庭には風があり、障子の向こうで葉が擦れている。母の鏡は枕元に置かれていた。赫臣が、自分の手が届く位置に置けと言った。深雪乃も反対しなかった。


 赫臣は、深雪乃を布団の中で抱いていた。


 抱くというより、包んでいる。


 彼女の背の傷を避け、肩と腹の前へ腕を回し、深雪乃の身体を自分の胸へ寄せている。露骨な熱ではない。眠るための抱擁でもない。確認と警戒のための抱擁だった。


 赫臣は、眠っていない。


 深雪乃にも分かった。


 呼吸が眠りのものではない。浅く、一定に見せかけて、時々止まる。廊下の気配、庭の音、結界の揺れ、深雪乃の呼吸。それらを全部聞いている。


「眠らないのですか」


 深雪乃が小さく言うと、赫臣はすぐ答えた。


「眠らねえ」


「身体に悪いです」


「鬼だぞ」


「便利に使わないでください」


「本当だ」


 深雪乃は、少しだけ身じろぎした。


 赫臣の腕が反射的に深くなる。


「赫臣様」


「痛いか」


「痛くはありません」


「ならいい」


「よくはありません」


「どこにも行くな」


 声が低かった。


 命令に近い。


 だが、すぐに彼は言い直した。


「……お願いだ。どこにも行くな」


 深雪乃は、暗がりの中で目を開けた。


「行きません」


「今夜は」


「今夜は」


「明日も」


「明日のことは、明日考えます」


「深雪」


「私は、真相があるなら行きます」


 赫臣の腕が固くなる。


 深雪乃は、その腕に手を重ねた。


「けれど、黙って消えたりはしません」


 赫臣の呼吸が、かすかに揺れた。


「本当か」


「はい」


「白い女に呼ばれても」


「呼ばれたら、あなたに言います」


「一人で行くな」


「努力します」


「努力じゃ足りねえ」


「では、約束します」


 赫臣の呼吸が止まった。


 深雪乃は、彼の腕の中で静かに言った。


「一人では行きません」


 赫臣の腕が、深くなる。


 今度は痛くない。


 ただ、離したくないという感情が、骨の外側から伝わってくるようだった。


「深雪」


「はい」


「可愛い」


「今、それですか」


「大好きだ」


「増やさないでください」


「愛してる」


「……聞こえています」


「お前しかいない」


 深雪乃は、少しだけ目を伏せた。


「今夜のそれは、苦いです」


「知ってる」


「でも、苦いだけではありません」


 赫臣は、深雪乃の髪へ顔を寄せた。


「甘いか」


「少し」


「少しか」


「調子に乗らないでください」


「乗れねえよ」


 その声は、本当に弱かった。


 赫臣は強い男だ。


 百鬼夜行の頭で、酒呑童子の先祖返りで、先祖返り会第一位の篝火家当主。霊糸を張れば、人も妖も一瞬で断てる。


 それでも今、彼は深雪乃がどこかへ行くことを恐れて眠れずにいる。


 深雪乃は、その事実を胸の中で受け止めた。


 枯野井の死。


 結界の反転。


 妖気結界に認識されない力。


 自分が何の鍵なのかという問い。


 どれも怖い。


 けれど、赫臣の腕はここにある。


 深雪乃は、彼の手に自分の指を絡めた。


「赫臣様」


「何だ」


「眠らないなら、せめて私が眠るまで、話してください」


「何を」


「何でも」


 赫臣は、少し考えた。


「写真ができたら、俺の部屋に飾る」


「またその話ですか」


「持ち歩く分も作る」


「本当に持ち歩くのですか」


「見る」


「人前で?」


「見たい時に」


「節度を持ってください」


「無理だ」


 深雪乃は、暗がりの中で小さく息を吐いた。


 けれど、その話は少しだけ胸を温かくした。


 写真。


 形に残る自分。


 赫臣が何度でも見ると言った自分。


 会の記録の中で保管される鍵ではなく、赫臣の隣に立つ恋人として残る自分。


 深雪乃の瞼が、少し重くなる。


 赫臣は、彼女が眠りに落ちかけていることに気づいたのだろう。声を低く、穏やかにした。


「深雪」


「はい」


「俺は起きてる」


「身体に悪いです」


「いい」


「よくありません」


「今夜だけだ」


「本当に?」


「……たぶん」


「信用が薄いですね」


「悪い」


 深雪乃は、彼の腕の中で小さく息を吐いた。


「では、今夜だけにしてください」


「ああ」


「明日は、少し眠ってください」


「ああ」


「約束です」


 赫臣は、しばらく黙った。


 それから、深雪乃の髪へ短く口づけた。


「約束する」


 深雪乃は目を閉じた。


 彼の腕は、まだ深く自分を包んでいる。


 どこにも行かないように。


 どこにも連れていかれないように。


 深雪乃自身が、自分の中の冷たい光に引かれないように。


 その夜、赫臣は眠らなかった。


 深雪乃の呼吸を聞き、庭の気配を聞き、結界のわずかな揺れを聞き続けた。彼女が少しでも身じろぎすれば腕を深くし、鏡が熱を持たないかを確かめ、白い影が障子の外に立っていないかを見張った。


 深雪乃は、彼の腕の中で眠った。


 完全に安心したわけではない。


 恐怖も、安堵も、疑問も、まだ胸の奥にある。


 けれど、今夜だけは。


 どこにも行かないという約束を、赫臣の腕の中で抱いて眠った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ