第41話 結界内殺人のトリック解説
枯野井宗顕の死体は、朝になっても客間の中央にあった。
正確には、動かされていなかった。
蓮台がそう命じたからだ。夜のうちに最低限の確認だけを済ませ、外部からの侵入痕がないこと、結界が外側から破られていないこと、部屋の中で破魔の光が爆ぜたことだけを押さえた。死体を移すのは、その後でもいい。証拠は死者より口が重いが、動かせばさらに黙る。蓮台はそういう顔で部屋を封じた。
客間の前には、夜通し篝火家の従者と警視庁の部下が立った。
白絹は廊下の影へ蘆野火の式を置き、砂笙は障子の四隅に細い退魔糸を張った。赫臣は自分の霊糸で周囲の廊下を薄く囲み、深雪乃の離れから客間までの道をすべて見張った。
誰も近づけなかった。
誰も出られなかった。
それでも、死体はそこにある。
人間の知恵というものは、死体の前ではだいたい遅刻する。事件が起きてから慌てて賢そうな顔をするのだから、まったく忙しい生き物だ。
深雪乃は、朝の客間の入口に立っていた。
枯野井の死体を見るのは二度目だった。
昨夜、彼が倒れているのを見た時、深雪乃は悲しみより先に安堵を覚えた。明朝、あの男に自分を霊的に検分されずに済む。会の管理下に置かれずに済む。保管される鍵として扱われずに済む。
そう思ってしまった。
その自分が、今も分からない。
夜岐が死ななかった時には、死ななくてよかったと思った。憎んでいるのに、安堵した。枯野井が死んだ時には、ほっとした。人が死んだのに、自分が解放されたように感じた。
どちらも深雪乃の中にある。
どちらも嘘ではない。
それが怖い。
自分の心なのに、まるで別々の箱に違うものが入っているようだった。開けるたびに違う匂いがする。憎しみ、安堵、恐怖、罪悪感、怒り。人の心は整理棚ではないのか。せめて札くらい貼っておいてほしい。
赫臣は、深雪乃のすぐ隣にいた。
昨夜、彼は深雪乃を抱きしめて言った。
お前は人間だ。
今苦しんでいるお前は、化け物じゃねえ。
その言葉は、深雪乃の胸に残っている。
けれど、朝になっても疑問は消えなかった。
自分は何なのか。
人なのか。
鍵なのか。
開かれるべきものなのか。
それとも、誰かの死に安堵するほど冷たい何かなのか。
赫臣の手が、深雪乃の背へ触れた。
触れる前に、彼は低く言った。
「確認する」
深雪乃は、小さく頷いた。
赫臣の腕が、軽く深雪乃の肩を包む。強くはない。だが、確かにそこにいる。深雪乃がどこかへ行かないように、彼自身が確かめるための手だった。
客間の中では、蓮台がすでに検分を始めていた。
枯野井は、仰向けに倒れている。
黒い羽織は胸元だけ白く焼け、肌は血を流すより先に内側から焦げたようになっていた。肉が焼ける嫌な臭いは薄い。代わりに、清めの塩を熱したような、冷たく鋭い匂いがある。破魔の光が爆ぜた跡だ。
畳には、放射状の白い痕が残っている。
まるで枯野井の胸の中心から、光が内側から散ったようだった。壁や障子に裂け目はない。窓も閉じたまま。外側の結界には破損がない。だが部屋の内側だけが、白い火花に焼かれている。
蓮台は、結界の外側に貼られた札を指した。
「外から破られた形跡はない」
砂笙が頷く。
「はい。結界の外膜は完全です。昨夜、旦那様や私どもが確認した時と変わりません。外側から力を加えた場合、必ず揺れ、焼け、歪みが残ります。ですが、この結界の外面にはそれがない」
白絹は、障子の上部へ目を向けた。
「蘆野火の式にも、外から侵入した反応はありませんでしたわ。影も、足音も、妖気の揺れも拾っておりません」
蓮台が、枯野井の周囲を見下ろす。
「中へ入った記録もない。見張りも、式も、結界も、誰かが部屋へ入った痕跡を取っていない」
「だが死んだ」
赫臣が低く言う。
蓮台は頷いた。
「ああ。結界の中で死んだ」
深雪乃は、客間の四隅を見た。
そこには、枯野井が持ち込んだ会の結界札が貼られていた。黒い墨で書かれた文字、中央に押された先祖返り会の朱印、枯野井家の小さな印。四枚の札から細い光の筋が床の中央へ伸び、そこに結界の核があった。
核は、割れていた。
小さな透明な玉のようなものだった。水晶にも、硝子にも見える。だが、ただの石ではない。内部に墨のような黒い線が走り、それが中心で白く焼け切れていた。
砂笙が、布越しにその核を示す。
「結界の核です。枯野井殿が自ら設置したものと見てよろしいでしょう。会の使者が身の安全を確保するために使う妖気結界。外敵の侵入を防ぎ、入退室を記録し、内部の異常を感知する仕組みです」
蓮台が問う。
「その核が割れた理由は」
「反転です」
砂笙の声は静かだった。
深雪乃は、玄磊の死を思い出した。
護符の反転。
自分を守るはずの護符が、内側へ返り、玄磊自身を締め上げた。
今度は、結界の核。
「玄磊様と同じなのですか」
深雪乃が言うと、砂笙は頷いた。
「仕組みとしては近いものがございます。玄磊殿の場合、自身の護符を反転させられ、霊力と呼吸の流れを締め上げられた。枯野井殿の場合は、結界の核が反転し、外敵を弾くはずの破魔の光が内側へ爆ぜた」
蓮台が、枯野井の胸を見た。
「つまり、枯野井は自分の結界に殺された」
「はい」
砂笙は答えた。
「外から破られたのではなく、内側で核の流れを変えられた。結界が守るべき内部に向けて、破魔の光を返されたのです」
赫臣の目が険しくなる。
「内部にいた者がやったってことか」
「普通に考えるなら、そうです」
砂笙は、あえてその言い方をした。
「結界の核を反転させるには、核に触れる、または核の流れに干渉する必要がございます。外側から膜を破らずに核を変えることは通常できません」
蓮台が低く言う。
「だが、使者以外に入った記録はない」
「はい」
「見張りは誰も入室を見ていない。廊下の式も反応していない。結界そのものも入退室の記録を残していない」
「その通りです」
部屋の空気が重くなる。
深雪乃は、割れた核を見つめた。
内部にいた者が反転させた。
だが、内部にいた者は枯野井だけ。
ならば、枯野井が自分で反転させたのか。
自殺。
その可能性が浮かび、すぐに消える。
枯野井は、明朝の検分を告げた男だ。会の命令書を持ち、深雪乃を管理下に置こうとしていた。自ら死ぬ理由があるとは思えない。しかも、死体の手元には焼け残った紙片があった。
開鍵の期、近し。
それを残すために自殺したのか。
違う。
深雪乃の胸の奥が、そう言った。
蓮台も同じ結論らしい。
「自死の可能性は低い」
彼は言った。
「枯野井は明朝の検分を予定していた。会の命令を実行するつもりだった。自分の文箱も開けている。何かを確認していた最中に殺されたと見る方が自然だ」
白絹が、文箱の方へ視線を向ける。
枯野井が持ち込んだ文箱は、部屋の隅に置かれていた。蓋は開いている。中の書類は半分ほど焦げ、いくつかは無事だった。蓮台の部下が触れずに見張っている。
白絹は言った。
「文箱の結界も切れていますわ。外から開けられたのではなく、内側の封じが一瞬だけ弾けたようです」
砂笙が頷いた。
「文箱と客間の結界核が連動していた可能性がございます。枯野井殿が文箱の中の記録を開いた時、何らかの仕掛けが発動した」
蓮台が眉をひそめる。
「会の記録そのものに、罠があったと?」
「可能性の一つです」
白絹が補う。
「あるいは、記録に触れることで、核の反転条件が満たされた。使者が持ち込んだ古い情報を、使者自身が開いた瞬間に結界が内側へ返った」
赫臣が低く笑う。
笑いではなく、怒りの息に近かった。
「会の使者が会の記録に殺されるとは、ずいぶん上品な自滅だな」
「自滅とは限りません」
砂笙が言う。
「記録に仕込まれた罠なら、仕込んだ者がいます。枯野井殿がそれを知らずに持ってきたのか、知っていて扱いを誤ったのかはまだ不明です」
深雪乃は、枯野井の手元にある焼け残りへ目を向けた。
開鍵の期、近し。
鍵。
自分。
枯野井は、それを見たのか。
その瞬間に死んだのか。
蓮台が、手袋代わりの布で紙片を慎重に持ち上げた。
「この文面は、枯野井が見せたくなかった情報かもしれない」
赫臣が問う。
「何が読める」
「表面はこれだけだ。裏面に少し焦げ残りがある」
蓮台が裏返す。
文字はほとんど黒く潰れている。
だが、砂笙が目を細めた。
「『認識せず』……いえ、『結界、これを認識せず』でしょうか」
深雪乃の胸が冷える。
結界が認識しない。
白絹が、鋭く蓮台を見る。
「続きは?」
「焦げて読めない」
蓮台は紙片を白布へ戻した。
砂笙が、結界核の割れ目を見ながら言う。
「妖気結界に認識されない力が使われた可能性がございます」
その言葉は、客間の空気を一段冷たくした。
妖気結界に認識されない力。
先祖返り会の使者が張った結界。
外敵を弾き、入退室を記録し、内部の異常を感知するはずの結界。
その結界が、力を認識しなかった。
だから、誰も入った記録がない。
だから、外から破られた痕もない。
認識されない力が内側の核に触れ、反転させ、破魔の光を爆ぜさせた。
深雪乃は、無意識に自分の胸元を押さえた。
懐の母の鏡。
その奥の、自分の身体。
死を押し戻されるような不死。
白絹に、通常の霊力とも妖気とも違うと言われたもの。
神気に近いが、神気だけではない何か。
妖気結界に認識されない力。
それは、自分の中にあるものと同じなのか。
あるいは、白い女のものか。
白き客人の力か。
深雪乃の指先が冷える。
赫臣がすぐに気づいた。
「深雪」
「私は」
言いかけて、止まる。
私は何を。
何と言いたかったのか分からない。
私は関係しているのですか。
私は認識されない力を持っているのですか。
私は、枯野井を殺した力と同じものを抱えているのですか。
どの問いも、喉に刺さった。
赫臣の手が深雪乃の肩へ回る。
強くはない。
けれど、明確に支える手だ。
白絹が、深雪乃を見た。
「深雪乃さんの力と同一とは限りませんわ」
深雪乃は白絹を見る。
白絹の声は慎重だった。
「妖気結界に認識されない力、といっても種類はいくつか考えられます。神気に近い清浄な力。古い退魔術。死者の遺響。人でも妖でもない境の力。白き客人に関わるもの。あなたの中のものと重なる部分はあるでしょうが、同一と断定するのは早計です」
赫臣が低く言う。
「断定する奴がいたら、俺が黙らせる」
「黙らせ方を穏やかにしてくださいませ」
白絹が即座に返す。
「時と場合による」
「その返答がすでに穏やかではありませんわ」
深雪乃は、二人のやり取りを聞きながらも、胸の冷えが消えなかった。
認識されない力。
それは、ある意味で深雪乃そのもののようだった。
鵺喰家は深雪乃を認識しなかった。
家族写真にも、祝いの席にも、記録にも、母の名にも、深雪乃の居場所にも。彼女はいつも端へ追いやられ、存在を軽く扱われた。
けれど、今は逆だ。
結界に認識されない力が、人を殺したかもしれない。
見えないもの。
記録されないもの。
測れないもの。
それは、恐ろしく強い。
蓮台が、部屋の入口から結界全体を見回した。
「核の反転、内部爆発、入室記録なし、外部破壊なし。使者以外に部屋へ入った者はいない。だが、妖気結界に認識されない何かが核へ干渉した可能性がある」
砂笙が頷く。
「はい」
「玄磊の護符反転と似ているが、今回はさらに厄介だな。護符は構造を知る者か、上回る破魔の力を持つ者が反転させた。今回は結界そのものが相手を認識していない」
「つまり、結界の規則の外から触れられた」
砂笙の声は硬い。
「結界が『侵入』と判断できないまま、内側の核だけが反転した」
赫臣の蒼い目が、結界核へ向けられていた。
その顔を見て、深雪乃は胸の奥がざわついた。
彼は何かに近づいている。
真相の輪郭に。
だが、まだ言わない。
深雪乃は、それを責める前に、彼の顔を見た。
今の赫臣は、隠しているというより、確かめている顔だった。断定すれば間違った形で刺さると分かっている。以前なら、黙って抱きしめて口づけで塞いだかもしれない。だが今は、考えている。その考えを、どこまで言葉にできるか探している。
「赫臣様」
深雪乃が呼ぶ。
赫臣は、ゆっくり彼女を見た。
「何か、分かったのですね」
「分かったわけじゃねえ」
「では、近づいたのですね」
赫臣は、少しだけ苦い顔をした。
「お前、本当に刺す場所を見つけるのが上手くなったな」
「褒めていませんね」
「半分褒めてる」
「残り半分は?」
「痛い」
「では、言ってください」
赫臣は、周囲を見た。
蓮台も、砂笙も、白絹も彼を見ている。
赫臣は低く言った。
「枯野井を殺した力は、会の結界の外にある」
深雪乃は、言葉を待った。
「妖気でも、普通の霊力でもねえ。退魔耀の形をしてるが、退魔師の力とも違う。結界が敵として認識できなかったなら、その力は結界の作った『内』と『外』の分け方に引っかからなかった」
白絹の瞳が細くなる。
「境の力」
「ああ」
赫臣は頷いた。
「人でも妖でも、内でも外でも、生でも死でもない場所から触る力。白き客人の伝承にある境の力に近い」
深雪乃の呼吸が浅くなる。
赫臣はすぐに言った。
「ただし、断定はしねえ」
その言葉は、深雪乃へ向けられていた。
「夜岐が見た蒼い目の白い女が白き客人と同じかも、枯野井を殺した力がそいつのものかも、お前の中のものと同じかも、まだ分からねえ。似てる。近い。だが同じだとは言わねえ」
深雪乃は、胸に手を当てた。
「私が関わっている可能性は」
赫臣の顔が痛む。
だが、逃げなかった。
「ある」
正直な答えだった。
深雪乃の胸が冷える。
赫臣は続ける。
「お前が殺したって意味じゃねえ。お前が意識して力を使ったって意味でもねえ。ただ、事件の力がお前の周囲にあるものと繋がっている可能性はある」
「私の中のものと」
「かもしれねえ」
「母の術と」
「かもしれねえ」
「白き客人と」
「かもしれねえ」
深雪乃は目を閉じた。
かもしれない。
それは優しい言葉ではない。
だが、断定よりは誠実だった。
「分かりました」
深雪乃は言った。
赫臣の手が、肩で止まる。
「本当に分かったのか」
「分かったというより、受け取っただけです」
「重いだろ」
「軽いはずがありません」
深雪乃は、枯野井の死体を見た。
悲しみはまだ来ない。
安堵も、まだ胸の底にある。
けれど今は、その安堵の上に別の感情が乗っていた。
恐怖。
枯野井を殺したものが、自分と繋がっているかもしれない恐怖。
自分が望まなくても、何かが深雪乃の周囲で人を殺しているかもしれない恐怖。
蓮台が、実務の声に戻した。
「文箱を確認する」
部下が文箱を開き、中身を白布の上へ並べる。
多くは焦げていた。
だが、無事な紙片もいくつかある。
砂笙が一枚を読み上げる。
「『開鍵の期、近し。篝火血統との接触により、封じの揺れを確認』」
赫臣の顔が強張る。
深雪乃も、息を止めた。
篝火血統との接触。
赫臣。
自分と赫臣の関係。
白絹が、唇を引き結ぶ。
「やはり、会は二人の関係を危険視していたのですね」
砂笙は別の紙片を取る。
「『鬼に渡すな、との旧記述あり。ただし現状、対象は篝火当主に強く執着されている』」
赫臣が低く唸った。
「言い方が気に入らねえ」
「内容の方を気にしてください」
蓮台が冷たく言う。
砂笙は続ける。
「『対象自身の意志は不明。検分にて封じの状態、鍵の反応、白き客人の残響を確認すべし』」
対象。
深雪乃のことだ。
意志は不明。
それもまた、母の時と同じだ。
母の意志は、記録に残されなかった。
今度は、深雪乃の意志が不明と書かれている。
深雪乃は、静かに言った。
「私の意志は、聞けば分かると思います」
部屋が静かになる。
赫臣の目が深雪乃へ向く。
深雪乃は、文箱の紙片を見ていた。
「なぜ、いつも記録に書く前に聞かないのでしょう」
誰もすぐには答えなかった。
蓮台が、少しだけ目を伏せる。
「聞く気がないからだろう」
ひどく簡潔な答えだった。
深雪乃は小さく頷いた。
「そうですね」
その声が、冷えていた。
赫臣の手が、深雪乃の肩を包む。
今度は、彼女を止めるためではない。
怒りが冷えすぎないように、熱を渡す手だった。
白絹が言った。
「枯野井殿は、その記録を開いた直後に殺された可能性が高いですわね。深雪乃さんと赫臣様の接触、封じの揺れ、白き客人の残響。会にとって重要な情報を確認した瞬間、結界核が反転した」
砂笙が頷く。
「紙片の焼け方から見て、文箱の中から破魔の光が走ったわけではありません。記録が核へ作用した、または記録を開く行為が合図になり、別の力が結界核へ触れたのでしょう」
蓮台がまとめる。
「現時点で言えることはこうだ。結界は外から破られていない。枯野井以外の入室記録もない。内部で結界核が反転し、破魔の光が爆ぜて枯野井を殺した。妖気結界に認識されない力が使われた可能性がある。その力は、白き客人、宵待澄子の術、深雪乃の不死、篝火との接触と関係しているかもしれない」
深雪乃は、静かに聞いていた。
自分の名前が、死の構造に組み込まれていく。
それでも、逃げることはできない。
蓮台は、最後に赫臣を見た。
「お前はどう見る」
赫臣は、しばらく黙った。
それから言った。
「枯野井を殺したのは、深雪じゃねえ」
深雪乃は、彼を見る。
赫臣の声は、強い。
「だが、深雪を中心に動いている力がある。そいつは会の結界をすり抜ける。認識されない。境から触る。白い女、白き客人、宵待の術、不死の封じ。全部が同じ場所へ向かってる」
「同じ場所とは」
蓮台が問う。
赫臣は、深雪乃を見た。
その視線には、恐れがある。
愛もある。
疑いではなく、なぜという問いもある。
「深雪が、何の鍵なのか」
部屋の空気が止まった。
深雪乃の身体の奥で、何かが静かに鳴った気がした。
懐の鏡は熱を持たない。
だが、深雪乃自身の内側が、ほんのかすかに冷たく光ったような感覚があった。
赫臣が、すぐに彼女を抱き寄せる。
「深雪」
「……大丈夫です」
「顔が大丈夫じゃねえ」
「顔に出ていますか」
「俺には」
「便利ですね」
「深雪だけだ」
「便利な言い訳です」
それでも、深雪乃は彼の胸元に額を寄せた。
客間の中で、死体のそばで、そんなことをするべきではないのかもしれない。だが今は、赫臣の熱がなければ、自分の内側の冷えに引かれそうだった。
検分は昼過ぎまで続いた。
枯野井の死体は慎重に別室へ移され、文箱の記録は蓮台、砂笙、白絹の三者立会いで封じられた。会への報告は、赫臣の意向で砂笙が文面を監視することになった。先祖返り会がまた都合よく書き換えようとすれば、今度こそ赫臣が会の本部へ火をつけかねない。比喩ではない可能性が高いのが、本当に困る。
夜になる頃、鵺喰家には再び重い静けさが戻った。
深雪乃は離れの部屋にいた。
行灯の光は落とされ、部屋の中は薄暗い。庭には風があり、障子の向こうで葉が擦れている。母の鏡は枕元に置かれていた。赫臣が、自分の手が届く位置に置けと言った。深雪乃も反対しなかった。
赫臣は、深雪乃を布団の中で抱いていた。
抱くというより、包んでいる。
彼女の背の傷を避け、肩と腹の前へ腕を回し、深雪乃の身体を自分の胸へ寄せている。露骨な熱ではない。眠るための抱擁でもない。確認と警戒のための抱擁だった。
赫臣は、眠っていない。
深雪乃にも分かった。
呼吸が眠りのものではない。浅く、一定に見せかけて、時々止まる。廊下の気配、庭の音、結界の揺れ、深雪乃の呼吸。それらを全部聞いている。
「眠らないのですか」
深雪乃が小さく言うと、赫臣はすぐ答えた。
「眠らねえ」
「身体に悪いです」
「鬼だぞ」
「便利に使わないでください」
「本当だ」
深雪乃は、少しだけ身じろぎした。
赫臣の腕が反射的に深くなる。
「赫臣様」
「痛いか」
「痛くはありません」
「ならいい」
「よくはありません」
「どこにも行くな」
声が低かった。
命令に近い。
だが、すぐに彼は言い直した。
「……お願いだ。どこにも行くな」
深雪乃は、暗がりの中で目を開けた。
「行きません」
「今夜は」
「今夜は」
「明日も」
「明日のことは、明日考えます」
「深雪」
「私は、真相があるなら行きます」
赫臣の腕が固くなる。
深雪乃は、その腕に手を重ねた。
「けれど、黙って消えたりはしません」
赫臣の呼吸が、かすかに揺れた。
「本当か」
「はい」
「白い女に呼ばれても」
「呼ばれたら、あなたに言います」
「一人で行くな」
「努力します」
「努力じゃ足りねえ」
「では、約束します」
赫臣の呼吸が止まった。
深雪乃は、彼の腕の中で静かに言った。
「一人では行きません」
赫臣の腕が、深くなる。
今度は痛くない。
ただ、離したくないという感情が、骨の外側から伝わってくるようだった。
「深雪」
「はい」
「可愛い」
「今、それですか」
「大好きだ」
「増やさないでください」
「愛してる」
「……聞こえています」
「お前しかいない」
深雪乃は、少しだけ目を伏せた。
「今夜のそれは、苦いです」
「知ってる」
「でも、苦いだけではありません」
赫臣は、深雪乃の髪へ顔を寄せた。
「甘いか」
「少し」
「少しか」
「調子に乗らないでください」
「乗れねえよ」
その声は、本当に弱かった。
赫臣は強い男だ。
百鬼夜行の頭で、酒呑童子の先祖返りで、先祖返り会第一位の篝火家当主。霊糸を張れば、人も妖も一瞬で断てる。
それでも今、彼は深雪乃がどこかへ行くことを恐れて眠れずにいる。
深雪乃は、その事実を胸の中で受け止めた。
枯野井の死。
結界の反転。
妖気結界に認識されない力。
自分が何の鍵なのかという問い。
どれも怖い。
けれど、赫臣の腕はここにある。
深雪乃は、彼の手に自分の指を絡めた。
「赫臣様」
「何だ」
「眠らないなら、せめて私が眠るまで、話してください」
「何を」
「何でも」
赫臣は、少し考えた。
「写真ができたら、俺の部屋に飾る」
「またその話ですか」
「持ち歩く分も作る」
「本当に持ち歩くのですか」
「見る」
「人前で?」
「見たい時に」
「節度を持ってください」
「無理だ」
深雪乃は、暗がりの中で小さく息を吐いた。
けれど、その話は少しだけ胸を温かくした。
写真。
形に残る自分。
赫臣が何度でも見ると言った自分。
会の記録の中で保管される鍵ではなく、赫臣の隣に立つ恋人として残る自分。
深雪乃の瞼が、少し重くなる。
赫臣は、彼女が眠りに落ちかけていることに気づいたのだろう。声を低く、穏やかにした。
「深雪」
「はい」
「俺は起きてる」
「身体に悪いです」
「いい」
「よくありません」
「今夜だけだ」
「本当に?」
「……たぶん」
「信用が薄いですね」
「悪い」
深雪乃は、彼の腕の中で小さく息を吐いた。
「では、今夜だけにしてください」
「ああ」
「明日は、少し眠ってください」
「ああ」
「約束です」
赫臣は、しばらく黙った。
それから、深雪乃の髪へ短く口づけた。
「約束する」
深雪乃は目を閉じた。
彼の腕は、まだ深く自分を包んでいる。
どこにも行かないように。
どこにも連れていかれないように。
深雪乃自身が、自分の中の冷たい光に引かれないように。
その夜、赫臣は眠らなかった。
深雪乃の呼吸を聞き、庭の気配を聞き、結界のわずかな揺れを聞き続けた。彼女が少しでも身じろぎすれば腕を深くし、鏡が熱を持たないかを確かめ、白い影が障子の外に立っていないかを見張った。
深雪乃は、彼の腕の中で眠った。
完全に安心したわけではない。
恐怖も、安堵も、疑問も、まだ胸の奥にある。
けれど、今夜だけは。
どこにも行かないという約束を、赫臣の腕の中で抱いて眠った。




